新たな季節が始まった。いやもう一つの季節は過ぎ去り、次の季節が始まっていると言っても良かった。
太陽がその鋭い光線で地面を照らすようになった頃、息子が家出をした。
一大事であった。
それも10日間もいなかったのである。
帰宅するまでの道のりは長く、自己を責め、自己を恥じ、息子の安全を念じた。
結果、彼との深い会話を通して、彼の成熟した精神と、いたって健全な人間性を再確認した。
彼の家出は、彼自身の問題でもあったが、私の家庭の有様をあからさまに描き出し、むしろ私に対するショック療法であったと言っても良い。
その時に、私は決心をした。変わるしかない。
これは紛れもない、私の家庭の最後のチャンスであったからだ。
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それから色々と風が吹いた。
この一件があってから、娘は感情カタルシスを起こしたが、それを機に、病状らしきものが消えてしまった。あれだけ医者へと駆けずり回った私が、道化であったことを証明するかのように、彼女とのコンフリクトは、下火になったのである。しかも朝、陽が昇ったら別人になったと形容してもおかしくない変化であった。
彼女の人格は相変わらず風変わりで、会話をしても通じ合うことはなかなか難しい。
けれど、家族の誰しもが、幸せな家庭を夢見て、愛し合いたいのだと、絶対的な安定の地を求めていることは事実として明るみに出たのだ。
すべては言葉なき事実であったが、それは誰の目にも明らかだった。
そこで、私は小さな幸せを家庭で実行に移したのである。
一緒に夕食も食べられなかった一家が、再び一つランプの下で食事をとるようになった。
そのために私は大金をかけて食卓のランプを調達した。
掃除がはかどった。心の中が整理されていった。
少しずつ、家族の形態が戻り始めた。
凄まじい八方ふさがりの暗黒は、3年間続いたのだった。
娘の病状が出るようになって以来、5年が経過していた。
全員が、限界まで来ていたのだった。
________________
また風が吹いた。
仕事帰りに買い物に行った帰り、久しぶりに5分の道のりを歩きながら、春の生暖かい空気をありがたく胸に吸い込んだ。
献立は決まっていた。すべてが予定通りだった。
この小さな満足感を誰かに伝えたかった。ひとこと「やっとここまでたどり着いたのだ」と。
それを思ったとき、母の顔が浮かんだ。懐かしい母の声も思い浮かんだが、彼女に電話をする気力は湧いてこなかった。
それはもう、彼女には何も伝わらないのだということを身をもって知ったからである。
彼女は、しぼんでゆく。彼女の世界は、老眼鏡のように周囲が曇っていくのである。
娘のこと、一挙一動を知りたいと思いながら、娘から連絡がなくなって何日かも数えられないのである。
その母に、この胸に湧いた一瞬の幸福感をどう伝えたらよいのだろうか。
その時に、心の中でまた一つ理解した。
もう私はここで歩いているように、どこへ行っても私の人生を私だけで味わうしかないのだと。
私と私の子供たちが、私の家族なのだった。
後ろを向いても、もう親はいない。少なくともこうした突発的な感情に対応できるほどの、精神的な支えは、もう彼女には果たせなくなったのである。
彼女がまだ生きていることが、大きな支えである。
けれど、私の思いは、空気のように彼女の耳を掠め、微笑んだとしても、それは自動的な動作で、その後一分もすれば、もう一度聞き返されるのである。
その暴力的ともいえる虚しさを、何度となく体験してからしばらくたったこの日、私は初めて自立した。
私のひらめきも感情も湧き出る思いも、もう一人きりで消化するだけなのである。
もう私の手のひらにしか、私の人生は握れないのである。
相談もなく、自分の経験と直感を信頼して、一人で舵を取ってゆくのだ。
そして、それを恐れとも残念だとも思わなかった。
生ぬるい風に吹かれながら、もうできる、そう小さなこぶしに力を入れたのだった。
________________________
娘の魂の核となることだけは、支えてやらねば。
どんなに喧嘩をし、どんなに争った過去があったとしても、親は私であり、大人なのは私だけなのだった。病気呼ばわりする親に育てられる彼女の失望感は、私には死ぬまで想像できないはずである。
そこで、イタリアに行くことにした。
彼女のたっての夢である大学が、イタリアでサマーコースを開催するからである。
それは、私からの真剣なそして正直な贈り物であった。
彼女が、最大のチャンスをつかむであろうことは今からわかっている。
あれほどの情熱と献身は、また彼女の父と同じく、他人にはまねのできない集中力に満ち溢れているからである。
それこそがカリスマ性なのであった。
この旅行を家族の転換を完全なものにする行事にすると心の中で決めた。
姉の目も見れない、姉など死んだ、彼女の一家を抹殺するなどと、ホラー映画さながらのことを吐き捨て、一緒に食事もしなければ、一切かかわりたくないと言っていた馬鹿な息子と彼女の関係は修復不可能であると思っていた。
そう信じていた疑わなかった親は、さらに馬鹿であった。これは私の罪である。
なんのことはない、うちの子たちは見事に心の優しい子供たちなのであった。
私が家族大改革計画を実行に移すと、誰しもが気を使って摩擦を避けるようになり、それが次第に中立関係に代わっていったのである。
息子も後からイタリアに来るようにと了解を取るまでに一か月かかった。
しかし、今は誰しもが楽しみにしているのである。
小さなアパートに閉じこもったまま、インターネットも電話もない世界で、しかし私たち4人は、なんとか楽しい夏を過ごすであろうと今から信じている。
_____________
偶然なのか、電話回線の契約切れと重なって、新しい回線を引いた。
テレビプログラムにイタリア語のチャンネルを入れてもらった。
子供たちもなぜか見ている。
ここでどんなにつらくても、ここだけが故郷なのではないという、逃げ道があると、色々なことに希望が見えたりするのである。
イタリアの歌ばかり聞いている。単なるイタリア好きではないのである。
イタリアの歌を聞けば、一瞬のうちに涙ぐむ。
私は前夫のメタファーとしてのイタリアを愛してやいまいかと、ある日突然雷のごとく、そんな思いに取りつかれた。
すべてが、勘違いなのではないか。
イタリア文化との関係は、そんな簡単な好き嫌いの感情ではないのだ。
その裏に、私の知らぬ無意識の意味が隠れているようだが、それを解読できない。
そんな矢先に前夫が姿を現した。
2か月の音信不通後であった。
父は死んだと、これまたグロテスクな嘘を宗教の教師に訴え、家庭は崩壊して、兄に殴られていますと訴え、青少年課を紹介しましょうと教師に言わしめた末子が、見るからに幸福そうであった。
そうだ、父親は大事なのである。
私のこれまでの思いはすべて大陸を隔てた向こうにいた彼の心の中にシンクロしていた。
彼は、知らなかったが知っていたのだ。
私の家族が肯定的に変わり果てた姿を見て、その間にあったことを察したという。
その間、彼の体調は悪く、かの地で自分の新たなる家族と共にいながら、とり憑かれたかのように毎晩私と子供たちのことを案じていたという。
やはりひともんちゃくあったのだねと。
目を見るだけで千言の会話ができることは、20年前から同じである。
その関係の深さが年々強くなり、さらに深くなり、殆ど恐怖に感じるという。
そう思えなくもない。
別れる理由は、愛があるだけでは足りないというものだった。
愛がないと言ったことはなかった。愛が多すぎたと言っても良いのだ。
そうだ、愛が深すぎて別れたのに違いないと、そう納得し合った。
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ある出会いをした。
偶然にもイタリア人だった。
相手は果てしなく興味をそそられたらしい。
私は、知人に再会したような安心感を覚えた。
そして気味が悪くなるほど共通点があった。
しかしこのひとをTuつまりDuつまり君とは呼ばないと、どこかで不思議な決心をした。
相手は、二度も私にTuと言い、何度もLei(あなた)と言い直した。その時の彼の恥た顔は見逃すまでもなかった。
仕方ない、近しく感じてしまうのである。
しかし彼は去った。
私も去る。
彼が戻るまで時間がかかる。
それにLei(Sieやあなた)の人なのである。何という関係もない人なのである。
ところが人々に、何があったのかと聞かれるようになった。
キラキラと輝いるぞと言われた。
よく知らない人に、僕に電話してと番号まで手渡された。
恐ろしく、私はポジティブなオーラを放っているらしい。
5年の暗黒時代は、幕を閉じたのである。
イタリア人には、感情のひだがある。
ひょうきんだとか、明るいだとか、そんな話は嘘に近く、彼らはひどく繊細で、ひどく内気である。
それが、一瞬で会話をドイツ人とはありえない方向に発展させるのである。
娘が一言いった。
「イタリア語を話しているママが一番自然。一番リラックスしている。一番本当のママだよ。」
それは自分でも実感していたことなのであるが、はっとした。それは驚くほどはっとした。
_________________
しかし、この文化を愛する私は、何を隠すそう前夫を求めているのである。
自分で捨て、自分で出てきた家庭を取り戻したいなど、露ほども思っていない。
一緒になど五分たりとも暮せたものではない。
しかし、あの魂なのだった。あの魂と永遠につながっていたいという、つきつめればそれだけを心が求めることをやめないのだった。
彼を見るとき、私は彼を見ていない。
彼の中の目には見えないものを、しかしまさに具体的に目の前に見ているのである。
彼の言語を聞くと、彼がいなくても、あの魂の気配を感じるのである。
肉体も日常もいらないのだ。
あの魂とは、双子なのではないかと、本当にありきたりな安いスピリチュアルブックにある疑問を投げかけさえしたくなるのである。
あの音、あの歌いまわしは、あのことで、ああいう風に泣いていると私には聞こえてしまうのである。
あのビブラート、あのテヌートは、あれを訴えたくても伝わらない、その孤独を嘆いているのだと聞こえてしまうのである。
理屈はない。だから、一瞬を境に恋に落ちたのである。
だから結婚も家庭も、それが崩壊したことさえ、意味はなしていないのだった。
大陸を隔てても、意味をなしていないのだった。
いつでもいるのである。そこに。
_______________
長男は苦難の時を経て、また実技で一番になった。それも演奏にはポエジーがあるのだった。
一瞬顔を表す、魂の奏でる音は、それを聞いた者の心をはっとさせ、次の瞬間溶かすものである。
間違えやしまいか、大ミスをするのではないかと、未だに的外れな気持ちで聞いていると、時々ワープするのである。
気を緩めると、「あれっ、これは!」とハッとするのである。完全に父親の音を聞いたからである。同じミを二拍伸ばすのも、彼のそれには心を揺さぶる歌心が見え隠れするのである。はっとするのである。
このポエジーは、物差しで計れない、計ってはいけないものである。
これは才能なのだった。
その息子は国の音楽英才教育機関に送られることになった。学校以外にこうした半国営の基金でいわゆる才能教育を受けるのである。
親は関係ない。彼自身が花開いて獲得した結果である。
彼のポエジーは、彼の成熟と繊細さと壊れやすさと孤独から生まれるのである。家出も肥やしになったのかもしれない。
___________________
娘のところにある日突然電話があり、働きに行くようになった。
シックなツーリストが集まる、総合アジアンフードのような、ヌーベルキュジーヌのようあ店である。日本人が経営しているのだが、彼女の日本語は小学三年生である。
しかし客は日本人ではないのだからよいのだろう。
せっせと働きに行っている。
小遣いでコンサートへかよい、先日はミュンヘンまで自分で計画して二泊行って帰ってきた。
これは、左と言えば右へ、前と言えば後ろに向かって、年中道に迷っていた彼女にしたら奇跡である。
働き出したことで、とても生活が規則的に回転し始めた。
そして彼女の歌も極まりつつあり、ますますポップカルチャーから遠ざかり、のめり込んでいるようである。
彼女には、人目を惹くカリスマがあり、コンサートに行くたびにその思いつめた目と足取りで、アーティストと会話をし、ひと時の思い出を作ってくるのである。
毎回成功するのは、彼女の類まれな意志力と思いつめた集中力がにじみ出るからであろう。
彼女もメランコリーを持ってる。
果てしないメランコリーを背景に抱えながら、歌声を張り上げる旋律と節回しは、やはり人の寂しさに触れるのである。
彼女も、前進している。
親など関係ない。
子供は勝手に育っていくのである。
もう私は無力だ。
彼らはもう一人前なのだった。
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生身の人間への興味は薄れはて、もう一人以上に良いことがあるとは思えなかった。
しかし、健康が回復しつつあるのである。
苦しさをはっきりと思いだした。
愛されたくもない。愛を乞うつもりも毛頭ない。
しかし子供以外愛せないことは、なんと辛いことであろうか。
愛が前提の子供ではなく、赤の他人だからこそ、小さな愛情でも与えなければ、関係は成立しないのである。
その活動をやめることは、人を信じていないことであった。
それが悲しい。
鳥が戻り、花が咲くという自然の摂理は、決して裏切らない。
そして、五年を経た今、陽はまた昇るのだと、身をもって教えられたのである。
もう一度、人を信じてみたくなった。
そういう気持ちで、イタリアに飛び立ち、毎日家族水入らずで過ごし、思い出づくりをしてくる。
おそらく最初で最後の4人の休暇である。
そして帰宅したら、私は必ず、新たな季節と共に、新たに出発するつもりである。
このまま「Lei」と呼び続けるには限界がある。
嫌でも近しくなることは見えているのである。
しかし頭では考えることは止めた。
セラピストさながらの知識で娘に接しても、悪化の一途であった。
心なのである。人間関係は、心でしか解決できないのである。
前途は、開けている。
もう何があっても、私は幸せに違いない。
2013年6月28日金曜日
2012年3月14日水曜日
様々な断片
「症状の裏に隠れた人間性」という言葉が何回か頭の中で繰り返される。
症状というのは厄介なもので、通常の状態よりも激しいために、どうしてもその裏にあるものが見えない。しかしその裏にあるものに少しでも触れることができなければ、何の人間関係も築けないのだと言う問題もある。
******
カミーユ・クローデルが精神を病んで療養所に送られる時、それを手配した弟のポール・クローデルは、彼女の乗せられた車を見送った。カミーユがポールを呼び続けていたというのは、映画での記憶だが、Anne Delbeeの本ではどうだったのか覚えていない。どちらにせよ、悲劇的な光景である。
彼女は長生きをした。と同時に長いこと苦しみ続けた。
弟は、とぎれとぎれではあっても、姉を最後まで忘れることなく気にかけ世話をした。
******
体調を壊して娘は弱気になった。そんな彼女を見ていたら、やはり我が子である、辛そうなのが可哀想になった。それを察知してか、このところの彼女は攻撃性を潜めていた。昨日それを車中でふと考えたら、別の不安に襲われた。彼女の攻撃性が無い時は、依存性が強く顔を出し、全てを舐め尽くすように吸い取ろうと、必死に愛の証明を求めてくるのである。その予想が的中し、昨夜は甘えるような態度と、まったく自我を失った会話に、次に息をすべきか、それとも息を止めるべきかといったような、存在すら自力ではできないと思わせる会話で、私に「答え」求めて来た。息をしなさいと言っても、何故、または、単にそう言って私を追い返したいだけというダブルバインドで、何の解決にもならない。けれど会話をしないことは、彼女の依存と私への固執を高めるばかりである。一生懸命夜中まで続く会話の相手をする。なだめても疑われ、指摘しても反発され、本音を言えば人でなしと罵られる。根気との勝負だ。
しかし、いずれは彼女の側からのカタルシスが起きなければ解決しない。カタルシスを引き起こすという方法もあるが、それは体調の優れない私には激しすぎた。
彼女は、私の語り尽くした全ての言葉をすべて逆手に取って、酷い酷いと泣き崩れた。哀れであるが、抱きしめてやるような気持ちは沸き起こらない。それまでに私は吸い取られ尽くしているのである。二時間も禅問頭にもならないような不毛な会話をなだめるためだけに、細心の注意を払って、言葉を選んで相手をしているのである。もう眠気で声が出ないと言えば、声を出すまで、質問に答えるまで、揺さぶられ、揺り起こされ、泣きつかれるのである。
彼女は、泣いた後捨て言葉を吐いて自室に行く。ホッとしたと、今晩も生き延びたと、やっと就寝できると、安堵する瞬間である。
その後、間もなく携帯がちりんと音を出す。彼女からのSMSだと直感する。攻撃期ではないため、彼女は情に訴える、いや、こういうと語弊がある、彼女なりに、本心から私への思いを伝えようと、携帯のキーを打ったのである。
ママ、何があっても、ママのこと大好き。こんな風にずっとやっていくのは余りにも辛い。ママのためを思って言っているのだから、ママも変わって。
今朝起床して読み、胸が痛んだ。しかし痛むけれど、ママのためを思って忠告しているのだから変われ、そうでないと私はもう死にそう、という文の背景に、深い疲労感を覚える。
20年前、夫と付き合い、教育され、交渉を繰り返し、譲歩をし、不可能と分かり、全ての責任を背負い込んで私は疲弊し、精神科に駆けつけ、それを突っ返し、自分を痛めつけ、壊れ、別れ、再生したころのシナリオとぴたりと一致することに、深い悲しみと不安と哀れみと出口の無い息苦しさを感じる。
私が依存を生み出したのではないか。
そう言えば、彼女が5歳の頃から、その関係の問題で、彼女ではなく私が専門家の世話になっていたことを思い出した。
心配で仕方なかった。育て方を間違えたと思った。しかし違ったのだ、それは彼女自身の中にあるものなのだと気がついて以来、専門家など不要と決めつけて来た。
しかし、やはり苦しい。とてつもなく苦しい。
*******
それで彼女を人手に渡したら、と思った時にカミーユの叫び声が聞こえたような気がしたのだ。何の共通点も無い話である。しかし、彼女の悲痛な叫びと不安が、娘の悲痛な叫びと不安になって、聞こえて来たのである。彼女の裏にある人格は、心優しく、酷く繊細な一人の少女である。芯が強くどんなことにも負けない精神力がある代わりに、世の中の全ての小さな悲しい出来事に触れただけで、浮浪者を見ただけで涙を流し、心が不安になり、私に縋り付くような非現実的な善だけでできた目を持っている子である。
彼女の人格に到達したとしても、それをどう守ってやれるのか分からないのだ。彼女の感性は「すがるもの」無しには、一日もこの荒波の世の中を渡り歩けないほど、超現実なのである。
彼女が、縋り付く行為とは、こうした背景を抱えた上での自己陶酔という自己防御を実践できる、表現とか芸事が良いのである。それを行っている間は、自己陶酔ができ、自己肯定となり、自己防御できるのである。それを可能にする道を与えてやらねばと、今は学校などという過小な問題は忘れさり、それだけを考えていると言った具合なのである。
症状というのは厄介なもので、通常の状態よりも激しいために、どうしてもその裏にあるものが見えない。しかしその裏にあるものに少しでも触れることができなければ、何の人間関係も築けないのだと言う問題もある。
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カミーユ・クローデルが精神を病んで療養所に送られる時、それを手配した弟のポール・クローデルは、彼女の乗せられた車を見送った。カミーユがポールを呼び続けていたというのは、映画での記憶だが、Anne Delbeeの本ではどうだったのか覚えていない。どちらにせよ、悲劇的な光景である。
彼女は長生きをした。と同時に長いこと苦しみ続けた。
弟は、とぎれとぎれではあっても、姉を最後まで忘れることなく気にかけ世話をした。
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体調を壊して娘は弱気になった。そんな彼女を見ていたら、やはり我が子である、辛そうなのが可哀想になった。それを察知してか、このところの彼女は攻撃性を潜めていた。昨日それを車中でふと考えたら、別の不安に襲われた。彼女の攻撃性が無い時は、依存性が強く顔を出し、全てを舐め尽くすように吸い取ろうと、必死に愛の証明を求めてくるのである。その予想が的中し、昨夜は甘えるような態度と、まったく自我を失った会話に、次に息をすべきか、それとも息を止めるべきかといったような、存在すら自力ではできないと思わせる会話で、私に「答え」求めて来た。息をしなさいと言っても、何故、または、単にそう言って私を追い返したいだけというダブルバインドで、何の解決にもならない。けれど会話をしないことは、彼女の依存と私への固執を高めるばかりである。一生懸命夜中まで続く会話の相手をする。なだめても疑われ、指摘しても反発され、本音を言えば人でなしと罵られる。根気との勝負だ。
しかし、いずれは彼女の側からのカタルシスが起きなければ解決しない。カタルシスを引き起こすという方法もあるが、それは体調の優れない私には激しすぎた。
彼女は、私の語り尽くした全ての言葉をすべて逆手に取って、酷い酷いと泣き崩れた。哀れであるが、抱きしめてやるような気持ちは沸き起こらない。それまでに私は吸い取られ尽くしているのである。二時間も禅問頭にもならないような不毛な会話をなだめるためだけに、細心の注意を払って、言葉を選んで相手をしているのである。もう眠気で声が出ないと言えば、声を出すまで、質問に答えるまで、揺さぶられ、揺り起こされ、泣きつかれるのである。
彼女は、泣いた後捨て言葉を吐いて自室に行く。ホッとしたと、今晩も生き延びたと、やっと就寝できると、安堵する瞬間である。
その後、間もなく携帯がちりんと音を出す。彼女からのSMSだと直感する。攻撃期ではないため、彼女は情に訴える、いや、こういうと語弊がある、彼女なりに、本心から私への思いを伝えようと、携帯のキーを打ったのである。
ママ、何があっても、ママのこと大好き。こんな風にずっとやっていくのは余りにも辛い。ママのためを思って言っているのだから、ママも変わって。
今朝起床して読み、胸が痛んだ。しかし痛むけれど、ママのためを思って忠告しているのだから変われ、そうでないと私はもう死にそう、という文の背景に、深い疲労感を覚える。
20年前、夫と付き合い、教育され、交渉を繰り返し、譲歩をし、不可能と分かり、全ての責任を背負い込んで私は疲弊し、精神科に駆けつけ、それを突っ返し、自分を痛めつけ、壊れ、別れ、再生したころのシナリオとぴたりと一致することに、深い悲しみと不安と哀れみと出口の無い息苦しさを感じる。
私が依存を生み出したのではないか。
そう言えば、彼女が5歳の頃から、その関係の問題で、彼女ではなく私が専門家の世話になっていたことを思い出した。
心配で仕方なかった。育て方を間違えたと思った。しかし違ったのだ、それは彼女自身の中にあるものなのだと気がついて以来、専門家など不要と決めつけて来た。
しかし、やはり苦しい。とてつもなく苦しい。
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それで彼女を人手に渡したら、と思った時にカミーユの叫び声が聞こえたような気がしたのだ。何の共通点も無い話である。しかし、彼女の悲痛な叫びと不安が、娘の悲痛な叫びと不安になって、聞こえて来たのである。彼女の裏にある人格は、心優しく、酷く繊細な一人の少女である。芯が強くどんなことにも負けない精神力がある代わりに、世の中の全ての小さな悲しい出来事に触れただけで、浮浪者を見ただけで涙を流し、心が不安になり、私に縋り付くような非現実的な善だけでできた目を持っている子である。
彼女の人格に到達したとしても、それをどう守ってやれるのか分からないのだ。彼女の感性は「すがるもの」無しには、一日もこの荒波の世の中を渡り歩けないほど、超現実なのである。
彼女が、縋り付く行為とは、こうした背景を抱えた上での自己陶酔という自己防御を実践できる、表現とか芸事が良いのである。それを行っている間は、自己陶酔ができ、自己肯定となり、自己防御できるのである。それを可能にする道を与えてやらねばと、今は学校などという過小な問題は忘れさり、それだけを考えていると言った具合なのである。
2012年2月19日日曜日
エンガディンの谷間で
教会は谷間にあった。空は晴天で穏やかだった。教会の前に広がる小さな広場に私は座っていた。髪の毛を揺らす優しい風が吹くたびに、乾燥した髪の毛の香りを気持ち良く鼻先に感じていた。
この土地の日差しは強い。標高が2000メートルを超えているため、3日目に私の肌はボロボロとはがれて来た。
しばらくして太陽の光があまりにも眩しかったため立ち上がった。プローベの行われていた教会の中に戻って行くためではなかった。私は駅へ向かって突然歩き出したのだ。歩いているうちに、どんどん気持ちが急いて行く。後ろを振り返ると教会は、若干小さくなっていたが、まだそこにすぐそこにあった。しかし教会の中からもう音楽は聞こえてこなかった。
駅の前には薬局があった。私は日焼け止めのクリームを買い足すために手に取り、店内に突っ立ったまま考え事をしていた。旅行客が何人かいたその薬局の売り子は、白衣を着ててきぱきと客の注文に応えていた。列に並んでいたのか、いなかったのか、記憶はすっかり消えている。が、いつしか私は白衣を着た薬剤師の女性の前に立っていた。手に持っていたクリームを差し出し、顔の顔がボロボロと剥けてしまい、痛くて仕方ないと訴えた。彼女はやけどをしたようになった私の肌を見て気の毒がり、すぐその角にある医者を紹介してくれた。紙切れを受け取り、礼を言って出てこようと思った時、本来なぜ私は薬局に立ち寄ったのか、その理由が私の首を絞めるように押し寄せて来た。
私は付け加えるように、意を決したような様子もなく、妊娠検査キットをくださいと言った。薬剤師の女性はニコニコしながら引き出しからキットを取り出して、クリームと一緒に白い小さな紙袋に入れてくれた。慣れないフランでお金を払い、飛び出すように店から出た。
私は薬局の白い小さな紙袋を握りしめていた。薬局の外はすぐに小さな駅である。それでもレティシェ・バーンの駅の中では、一番大きな駅である。その駅に向かって左手には割と大きな書店があった。私は紙袋を握りしめたまま書店に彷徨うように入って行った。
入り口の本棚の前に立って、様々な本を見つめていた。しかし題名は頭に入ってこない。背表紙をするりと触って、意味もなく一冊の本を取り出した。ニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」であった。ニーチェの過ごしたSils Mariaまでは、何キロもなかった。私はその本の冒頭を開いた。
Als Zarathustra dreißig Jahre alt war, verließ er seine Heimat und den See seiner Heimat und ging in das Gebirge. Hier genoß er seines Geistes und seiner Einsamkeit und wurde dessen zehn Jahre nicht müde. Endlich aber verwandelte sich sein Herz, - und eines Morgens stand er mit der Morgenröte auf, trat vor der Sonne hin und sprach zu ihr also.........
アインザムカイト!ハイマート!ゲビルゲ!ドライスィッヒヤーレ!
私は迷わずその本を掴んでレジに向かった。静かな書店の中で無言で金を払い、また外に出た。日差しは真昼の高みに達していた。
未だに右手に握りしめていた紙袋は、手のひらの汗で湿り気を帯びていた。私は書店でもらったビニールの手提げに小さな紙袋を入れた。十歩ぐらいトコトコと坂を下れば、もう駅である。一駅乗ろうか、それともどこかへ行ってしまおうか。彷徨うように、小さな駅構内に入った時には決心がついていた。
村のどこを見ても高級ホテルや高級車に溢れ、高価な山岳グッズや名物の食品を売っている店ばかりである。そんな高級観光地の駅は小さく、公衆便所に至っては、とても使用できるような代物ではなかった。こんなところに、シーズンを過ぎれば忘れ去られてしまう山脈の合間にある小さな村にいるのだということを実感させられる。
トイレは駅の裏に板を貼付けて即席で作った壁に囲まれていた。そこに二つの木の扉があり、ねじで取り付けてある緑色の古めかしい錠がかかっていた。しかし電車が来る前なのか、その二つは閉まっていた。しばらく待つと、中から中年の女性が出て来た。同時に隣からは男性が出て来た。二人とも登山靴を履いてリュックを背負っていた。
私は忍び込むようにトイレに入り、中から古めかしい錠を閉めた。そしてその酷く劣悪な環境に一瞬場所を変えようかと思ったが、私の決心は固まっており、もう待ったなしというところまで緊張は高まっていたのだ。
板張りの壁の隙間から、太陽が差し込み、光の筋が内部を照らす。汲取式の酷いものであったが、私にはそんなことは目に入らなかった。床は地面であったため、手提げ袋を取っ手に掛け、キットを取り出す。ありがたいことに電車は去ってしまい、人の気配はなくなった。これで後一時間は汽車は来ないだろう。
ビリビリと包装を破き、生まれて初めて手にするスティックを持つ手は震えていた。目をつむり、意識はどこかへ飛んだまま、何を期待するでもなく、何を拒絶するでもなく、用を足した。それはそれは惨めな数分であった。それでも、私は今そこで知らずにはいられなかったのである。それは子供を宿したことが真実かどうか分からなかった不安からではなかった。そうではなくて、私の人間としての本能が、子供を宿したに違いないと強く私の耳元でささやき続け、そのささやきを聞いていることで発狂しそうであったからなのだ。もう私は知っていた。それを確かめる儀式を行う、それだけの話だったのだ。
そしてそのセレモニーは孤独で寂しかった。揺れるカモミールは、皆で群れて揺れていたのに、私はたった一人で背中に太陽を浴びているだけだった。誰も周りにはいない。故郷は何万マイルも離れ、友人と言える人にも想像のできない深い穴の中に落ちたまま、一人で立っているのが精一杯であった。
薬剤師の女性の清潔そうで、自信に満ちあふれた仕事ぶりに圧倒され、小さな小娘が妊娠検査キットを買う等滑稽で、端から見たらままごとにしか見えないだろうと私は怯えていた。書店に逃げ込んだその時だけ、心の中に静けさが訪れた。見えないけれど、そこには数えきれない無数の言葉が宙を舞っていた。耳を澄ませばその言葉がささやいているのが聞こえるような気さえしていた。そこにある言葉は、絶対に私を責めることはない。私を救おうとして、人間を救おうとして、生きようとする人皆を救おうとして書かれたものに違いない。書くということは、それをしなければ書き手が先へ行かれないから書くものなのだ。その言葉さえ、私を見捨てるはずはない。そういう無意識につられ、私は書店に行ったのであった。
公衆便所の板張りの中に突っ立ったまま、私は時が過ぎ去るのを待った。堪え難いほど鼻を突くアンモニア臭を今でも思えている。息が浅いまま、私はスティックを見つめていた。吸収された水分がスティックの小窓を過ぎたその瞬間、二本のブルーの線がくっきりと現れた。私はそれを知っていたはずだ。既にその事実を知っていたはずであるが、打ちのめされ、衝撃を受け、何度も何度も線を見て、もう一分待って、線が消えやしまいかと最後のあがきを繰り返していた。
やがて、外に人の声がした。私は緑の錠を開けて外に出た。薄暗い小屋の中にいたせいか、太陽の光は目に刺さるように痛かった。
私は駅の前の小道を左に上って、美しく雄大な景色が見えるベンチまで歩いて行った。私のお気に入りのベンチだった。何度も一人で散歩し、駅の周辺で果物や飲み物を買い終えた私は、このベンチに座って読書をしたり、日記を書いて、深呼吸をして、また歩いて私を待っているはずの人がいる場所へと重い足取りで帰って行ったのだ。
ベンチに腰掛けると、そこにはいつもの静けさと、いつもの美しい光景があった。目下には村が広がり、遠くには無数の峠が見える。
その峠の向こうには何があるのだろう。そのまた向こうの峠を超えれば、あの辺だろうか。そんなことを考えると、今すぐにでも逃げ出したい気分になって来た。しかし逃げると言って、どこへ逃げるというのだろうか。私は知らない間に、お腹に手を当てていた。一度さすり、二度さすったら、涙があふれて止まらなくなった。私は子供である。28才と言っても、意識の中では中学生や高校生のあの頃とは少しも差がないのだった。何も知らずに、何も分からず、なんの自信もないまま、子供を宿したって?情けなくて涙が流れ続けた。自信のありそうな言葉を選び、自信のありそうな言い方をすることをやっと少しだけ身につけた、そんな時であった。ところが、一度さすり出したら、その手は止まずに、ずっと何か愛おしいものがそこに入っているかのように、ずっとさすり続けていたのである。そして確かにそこにあるはずのものは愛おしいのだった。
命がそこに新しく生まれたという確信は、今真実になった。それを確かめることは辛かったが、今となっては自分の中に別の命がいるという事実に、驚愕し、うろたえ、申し訳ないと謝り、それでも愛おしくて仕方ないのか、本能的にさすり続けていたのである。いや、確かに愛おしかった。私はそのベンチで初めて、後に生まれる娘に「話しかけた」のである。その最初の一言は「こんなママでごめん」であった。次の一言は「何があっても頑張るから」という誓いであった。
泣きはらしたら、太陽は峠の道をオレンジ色に照らしていた。
昼過ぎに急いて歩いて来た道を今度は重く引きずるような足取りで帰って行った。教会の前の広場に近づくに連れ、またどこからともなく音楽が聞こえて来た。まだプローベをしているのだ。私が駅に行っていた何時間かの間も、彼らは変わらず練習をし、今夜の演奏家に備えていたのだ。それが彼らの仕事であり使命である。
広場の土はもう冷たかった。カモミールは相変わらず揺らめいていたが、それは寒さに震えているように見えた。
私は教会の古めかしい扉を開けた。小さかった音が、突然大音響のように耳に入る。同時に、彼らは私を一瞥したが、何事もなかったかのように演奏し続けた。楽章が終わり、彼らは演奏を止めた。私の立ち向かうべき相手は、私の方に再び顔を向け、「やあ、何して来たのかい?どこに行っていたの?」と尋ねてきた。その眼差しは優しい目ではなかった。その目は明らかに警戒していたのだ。何も知らないはずの彼は、私を警戒していた。
今の私なら、この男はどこまでも私を愛し続けてくれるだろうが、それは私が彼から髪の毛の一本も奪わない、欲しいと口にしないという条件があっての話であるということが分かる。彼が与えたいと思えば、いくらでも惜しまず与えてくれる。それは感動を超え、圧倒されるような愛情である。しかしそれは彼が与えたいときであり、その時はいつ来るかわらず、どのぐらいあるのかも分からず、あるいはもう二度と来ないのかもしれなかった。私は待つだけが許され、与え続ける代わりに、こちらから欲しい、必要だということは言ってはならないのだった。それが彼の警戒したあの目である。それが私には分からず、普通のまなざしであるはずなのに、「なぜ私は怯え続けていたのだろう」と、何年間も来る日も来る日もノイローゼになるまで自問し続けていたのだ。しかし、当時の私に、何故それが分かるはずがあろうか。
プローベを終わりにして、軽く何か食べ、演奏会まで休もうということになって、彼らは立ち上がった。彼らの生きている世界と、私の生きている世界には、見えないがバリアのような断絶があった。私はあの午後、完璧に取り残されたのである。いや先に行かねばならなかったと言っても良い。どちらにせよ、私はあの世界にいたままでは、身体の中に宿った新しい命を守る力は吸い取られ尽くすはずだと知っていた。
私と彼を結ぶことになった命が、私と彼を断絶させたのである。
私のエネルギーを彼以外の他に注がねばならない、そう言うれっきとした事実が生まれてしまったのである。彼が止むことなく命を一日一日と削りながら音楽に献身して、文字通り捧げ尽くしているその姿と同様に、私は私の命を一日ずつ彼のために削り、献身を尽くし、情熱を絶えさせてはいけなかったのである。
ところが、望むと望まざるに関係なく、私はあの日の夕方誓ったのである。人生初めての誓いをしたのである。「何があっても頑張る」と。私は生まれて初めてお腹と会話をした代わりに、自分では気づかないまま、永遠に彼に別れを告げる決心をしたのである。新しい命は崩壊であり、私たちを繋げて家族にしたこの運命は、私たちの魂を、しかしぱっくりと裂いてしまった。
だからである。言い訳ではないが、だからである、私がなぜ演奏会の後まで待たずに、いやホテルで二人だけになった瞬間を待たずに彼にこの真実を告げたのは。
ぶっきらぼうに「妊娠した」と吐き捨てるように全員の前で言ったのは、決別であり、彼からも決別させるために、挑発したのである。それが私の心の底からの、娘のために人生を掛けた覚悟だったのだ。別れようと決心していたのだ。その夜荷物をまとめて旅立とうと思っていたのだ。
その夜ツァラトゥストラの第一部七章を読んで泣いた。
予定通り、その後の私の人生は「失敗」が続き、繰り返し孤独に陥り、繰り返し起き上がることの繰り返しであった。しかし、私が生きているのは、未だにこのストーリーの中であり、あれ以来新しく始めることなどできていないのである。そもそも新しく始めるなど、誰にもできない。私の人生はこの一つのストーリーであり、登場人物を変えたからと言って、私は何からも逃れられないのである。
Inzwischen kam der Abend, und der Markt barg sich in Dunkelheit: da verlief sich das Volk, denn selbst Neugierde und Schrecken werden müde. Zarathustra aber sass neben dem Todten auf der Erde und war in Gedanken versunken: so vergass er die Zeit. Endlich aber wurde es Nacht, und ein kalter Wind blies über den Einsamen. Da erhob sich Zarathustra und sagte zu seinem Herzen:
Wahrlich, einen schönen Fischfang that heute Zarathustra!
Keinen Menschen fieng er, wohl aber einen Leichnam. Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn: ein Possenreisser kann ihm zum Verhängniss werden. Ich will die Menschen den Sinn ihres Seins lehren: welcher ist der Übermensch, der Blitz aus der dunklen Wolke Mensch.
Aber noch bin ich ihnen ferne, und mein Sinn redet nicht zu ihren Sinnen. Eine Mitte bin ich noch den Menschen zwischen einem Narren und einem Leichnam.
Dunkel ist die Nacht, dunkel sind die Wege Zarathustra’s. Komm, du kalter und steifer Gefährte! Ich trage dich dorthin, wo ich dich mit meinen Händen begrabe.
これが、私の人生の本当の始まりのゴングであった。ここから全てが始まり、この7章のIch trage dich dorthinという言葉を信じて先へ一緒に歩んでしまったことで、私は夜に始まったその人生の相応しく、未だに迷路の中にいるままである。 これが愛なのかどうか、それは実は愛ではないと思うのだが、逃れられないほど強烈な体験に巡り会えたことが、私の人生の全てであり、それ以降の事物は、余りにも色あせて見え、生きている心地がしない。そうして未だに過去のストーリーを読み返して生きているだけという、実に閉鎖的な生き方しかできない。しかしそれで死んでしまっても、もう良いと本当に納得できる。それは悲しみの伴う大きな幸せである。
2011年12月27日火曜日
娘は居残った
よりによって、娘が風邪をこじらせ、明日からの父一家とのイタリア訪問を断念し、私と二人きりで家にいる。よりによって、娘である。
夕食後、息子達を送り届けた後、仕方なく救急薬局へ車を走らせ、副鼻腔炎の薬と痛み止めを買って帰宅した。カプセルを飲めないと泣き崩れる娘を見て、なんとも手のかかる子だなと思うが、病気故に我慢を重ねて、砂糖にカプセルの中身のジェルを含ませて頓服させた。
痛み止めを飲めばもっと酷くなるといい、自室にはクモがいるから寝たくないと泣き叫び、うんうんうなって、それは面倒な患者である。しかし、その姿は具合が悪そうで確かに哀れでもある。親としても義務感が押し寄せて来て、おかゆやヨーグルト等を与え、ホットドリンク形式の痛み止めを飲ませ、ゴミ置き場と化したベッド周囲をマスクと手袋で掃除し、クモ退治も報告したところで、ようやく収まって来た。
母親を独り占めした上で、あれもこれもやって欲しい。普段はその異常なる依存度が、私をイラつかせ、何もしてやるまいという気持ちにさせたのだが、こうして何から何まで面倒を見ていると、結構静かになるものなのだ。
しかし、感謝の気持ちや自立心があるから、少しは一人でやろうと思うだろうとか、これだけやれば、いずれは気が済むだろうなどという考えはまだまだ甘い。何年も依存を続け、なんでもやってくれるという証明をかき集めなければ、彼女は自立できないであろうし、あるいは一生証拠や証明が足りず、信じられず、欠乏感と喪失恐怖から、依存が終わらないかもしれない。
どちらにせよ、人間大人になった子供の世話をすることはできないし、それは自立を妨げるのだから、勝負は今だけだろう。
最近の娘の弱り方は、それでも包囲の壁が崩れたと見ることもできる。何かを立て直すチャンスであるかもしれない。このよりによって娘が病気で年末の私の唯一の休暇に居残った、ということは、どこかで偶然ではないのかもしれない。注意深く見守らなければならないだろう。
2011年12月22日木曜日
告解
午後、上司は北ドイツはニーダーザクセンの故郷へ向かうため早退した。
今週に入って以来、朝の通勤時間帯の渋滞が激減して、30分もかからないうちにオフィスに到着してしまう。皆故郷へ帰ってしまい、東ベルリンの都心に当たる部分には如何にベルリン人が住んでいないのかを実感する。
去年は深い雪につつまれて、車を動かすどころではなかった。どのスーパーにも雪かきスコップが売り切れで、仕舞にスコップを買いに出かける車を出せなくなり、一歩あるけば滑って転ぶような天候の中、アマゾンの特急便でスコップを購入し、二時間あまり車の周りを掘り起こし、それでも発車しないので、玄関のフットマットをタイヤの下に敷いて、発進し、また敷き直して進みということをして、駐車スペースから出たのを覚えている。
こつは、とにかくはまり込むような駐車スペースに入らないことだけだった。
今年は驚くような暖冬で、一度ボタン雪が降ったきり、白い雪は目にしていない。
そのせいかクリスマスというような実感が今ひとつ涌かないのだ。
今朝オフィスに出勤すると、デスクの上に大きな箱が置いてあった。
会社からだと言いつつ、上司と一人の同僚が私に贈り物を用意していてくれたのだ。
チョコレートと赤白ワインを組み合わせたパックで、非常に上品でシャレていた。私がワイン好きで、チョコレートと赤ワインをデザートにするなどという無駄話を覚えていたらしい。
ありがたいことに、この忙しいさなか、私も二人のプレゼントは用意してあったので良かった。一人にはオーディオブックと純粋なホットチョコレートを。上司にはキッシンジャーの書いた新刊本と手に入らないと嘆いていたトワイニングの紅茶をプレゼントした。
頂いた物に見合わないようなもので、申し訳ないと思いつつ、でもお互いにそれぞれの存在を大切にしているのだということが同時に伝わって来て、とても心温まった。
上司が消え去った後、私と向かい合わせに座っている同僚と話し込んでしまった。
彼と私は非常に馬が合う。ついつい話し込んでしまうのだ。
娘との電話での会話を聞かれると、必ずあまりにも冷たい、あれじゃコミュニケーション拒否だよと説教される。
何故、コミュニケーションを拒否することが互いの狂気を回避することに繋がるか、そんなことを説明するのは、家族の裏を明かすことで、娘を裏切るような気もするし、言い逃れのような気もして来る。そう思ってついつい、事情があるのよと口を濁していた。
それでも、もう何ヶ月も向かい合わせに座り、仕事をして、食事をしていると、そうでなくても感性が似ている物同士、色々と分かってくる物なのだ。娘の話題を避けている私から、一言でも何かその日の娘との電話ややり取りについて聞き出すのが彼は天才的に上手い。そうして、今日も一言、昨日も一言、とやっている間に、彼の頭の中の想像が形になってきたらしい。
今日はそのことで始まり、それが世代を超えているある一家の運命として、またはある才能が独立して存在しているかのような「引き継ぎ」があるのだという話にまで至った。私の話は、全く具体性に欠けていて、始終、その出来事や今の道のりが、どこからやって来て、どこへ向かって行くのか、ということ以外語れない。
才能を引き継ぐことは素晴らしいと言う。誰しも、素晴らしい才能にあやかりたいと願い、子供にそれを継承させたいとも思うらしい。
しかし、私には才能というものをそんなに簡単には捉えられない。
人の心を揺さぶるような才能の裏には、必ずコインの裏のように、暗い部分が潜んでいる。その暗い人の目には触れない、所謂ネガティブな部分を一緒に背負う覚悟がなければ、才能等に手を触れてはいけないのである。
世間の求めている才能というののではなく、個人が個人の何かを削ってでも投入し続ける、人にはまねのできない集中力と熱中力で紡ぎ出される何かのことを言おうとしているのだが、上手くは表現できない。
才能の隣に立つというのは、才能から湧き出るカリスマ性に巻き込まれずに、自分をも失わずに、凛と立ち続けていられる強さがなければ、食われて終わりなのである。
そのことを私は一度も問うことなく、世代にまで及ぶような家族の運命とも言える重い物を背負った才能と生きることを引き受けてしまった。
そして、離婚しても、男女の関係を終焉させても、その関係性は一生消えないのである。物の見事に、私達の子供達の世代ににもその黒々しい運命は、人も驚くような才能らしき物と共に、娘の中に引き継がれ、顔を出す機を狙って私の背後に差し迫っていたのである。
そして今、私は夫とは解決できなかった、自分の絶対的な弱さを娘との間に実感せざるを得ないという自体に陥り、苦しんでいるのだが、これも何も、才能という目眩く毒素に身を委ねてしまった過去の残骸なのである。
私の人生が私に何を求めているか分からないけれど、終わっていない、それだけは分かる、それどころか、今始まりのゴングが鳴ったばかりという気すらする。
何を話していたか忘れたが、おそらく世代を超えて引き継がれる才能という正の物の裏には、必ず負がついて回る、それに関する責任を持つ覚悟もなく、才能をある人に勝手に惹かれて、毒された自分の未熟さをせめていたりしたのかもしれない。
私の話術は、決して上手いわけではない。それでも突然同僚が、君の話を聞いていると鳥肌が立つ、と言った。
私は嬉しいとは思わなかった。それよりも、ああ聞いてくれたんだ、共感を持って、この人はこのつまらない超個人的な話を聞いていてくれたんだと言う感謝が涌いて来た。
外は暗くなり、お互いに家路につこうと荷物を鞄をにまとめた。
静かな空気が流れていた。彼は何かに心を打たれ、私も何かに心を打たれていた。
あの人は、私の心に触れることが自然にできるのだ。そして、なかなか大切な話こそ他人には語らない私に、大切な話だけを語らせることができる。
そして、私は知らない間に控えめだが正直に語ってしまう。そして私は、確実に何かに心を動かされ、深い胸の内で、その感動を味わっているのだ。
一目につかないところで、誰からも切り離されて、たったひとりぼっちだと感じながら、毎日毎日子供の顔を見て、色々な出来事を乗り越えて、私なりに私の持っている家庭を守ろうとしている、そう言うつまらない、話題にするに値しない人の生き方に耳を傾けてくれた、その嘘の一切ない素直な態度に心を打たれたのである。
毎日仕事の合間に、電話でなんだって?と嫌みなく聞かれ、私もたった5言で、娘がこんな馬鹿なこと言って、信じられない、あの子の自分勝手は許せない、と言うと、必ず彼は、それにしてもあんな存在拒否のような声で言わなくても、と相づちを打つ。そんなことを繰り返しているうちに、私は何故か、どこかで緊迫した彼女への思いに、すっとすきま風が入って来たのを感じるようになっていたのだ。
それが私を救っていた。
何故彼が今日、こんな話に心打たれたのかは分からない。単に、私の生きる姿に小さな一生懸命さを見たのかもしれない。そして私の話し振りが告解に聞こえたのかもしれない。
__________________
娘は風邪を引いて寝ている。
家へ帰ると、のこのこと寝室から出て来て、お腹がすいた、死にそうだ、こんな物は食べられない、どうしてもあれじゃなければ嫌だ、どうせ私が病気なのが面倒くさいんでしょ、こんな具合悪いのに、一体どこでどう過ごしたらいいの、とうのが永遠に続き、その後、母親のくせに何一つ人のためにせず、一度の私の存在を認めず、愛したこともなく、おやすみと言ったこともなければ、私を助けてくれたこと等一度もない。という行が聞こえて来る頃には、絶叫となり物が飛ぶのである。
気を許して、気安くその場を収めようと優しい言葉等吐いたら、手どころか腕も足ももぎ取って行くような勢いで、一瞬のうちに、彼女の手中に収まってしまう。ああ、ママも分かってくれた、ならコミュニケーションと言えるが、そら見ろ、認めただろうと、状況は更に悪化し、その後何ヶ月も何年も、あのとき謝ったはず、あのとき私のことも分かる、可哀想だって言ったはず、この矛盾した態度はなんだ、となじられ続けるのである。
娘さん、思春期なのよ、などという気楽な言葉は聞くに堪えないから、私は誰にもこの話はしない。あの同僚以外には。
その娘がでも、一瞬機嫌の良い何分間がある。機嫌が良いか、激怒して人をなじり倒すかどちらかしかないのだが、今日、その機嫌の良い何分間かで、突然こんなことを言ったのである。
ママの隣にずっと置いておいてもらえる赤ちゃんに戻りたいなあ。
これはショックであった。
母親の教育や家庭環境が物を言うのは周知の事実であるが、私の問題は、世代間という深さに関係し、特殊な才能を伴った子供の、母親である私の領分を超えた凄まじい存在のエネルギーとの対決という側面も、絶対に抱えているはずだと確信して来た。そしてそこに間違えはないだろう。
しかし、それでも単に「愛し直しなさい。自分を叩き直して、彼女の好きなように愛し直してあげなさい」というだけの問題である気もして来た。
そして、その声がずっとこだましている。
_______
車中、同僚との暖かい会話の余韻に浸りながら、あんなにかわいい子供達を持った私は、一体これ以上何を求めているのだろうかという一点に考えが集中してしまった。
色々ある。色々あった。色々なことで挫折し、何度も起き上がってきた中で、常に子供達は一緒にいた。いや寄り添ってくれた。
子供に救われ、子供に生かされている。そういうことを実は毎日毎日実感しなくれはいけないのは、この私なのだ。
帰宅して、一生懸命遅い夕食にした。特別なことは何もしなかったが、子供達を見てもイライラしなかった。
娘の心根の優しさは知っている。
娘は私の心根など、凍り付いていると思っているだろう。それは私だけの責任であるという気がして来た。
どう転ぶのか、どっちに行くのか、全く分からない。
自分を叩き直して、愛し直す等、絶対にやるわけがない。それは今から分かっている。私の否を認め、捧げ尽くすことで、搾取されるのはやはり心の健康には良くない。彼女にも、必ず学ぶべきことはあるのだ。
今の私には自分が真面目に必死に生きて行くことを見せるしかできない。優しい言葉も悪用されると、人間与えられなくなって行く。それは身を以て学び、自分を守らなければ、まず生きて行かれないということを知っているからこそ、今の状況では優しい言葉は与えられないのである。彼女も保身し、私も保身している。どこまでも並行線である。
同僚との向き合ったデスクが象徴するように、私は彼を鏡のように見立てて、時々、ぽつっと娘のことを呟く。初めてこの話題が公になった場だった。そのことで、私の中で何かが始動した。もう埋もれさせているばかりではだめだと。
解決も答えもない。
でも車の中で、今日もワイパー越しに見える師走の夜の喧噪を眺めながら、周りが確実に変化しつつあり、少なくとも私はずっと考え続け、ずっと対面し続けていると実感した。毎日車の中で、新たなエネルギーを絞り出し、夕食を待つ子供達の元へ帰宅している。
歌われているように食って飲んで死ぬのだ。
それまで、必死で這いつくばりながらも生き続ける。それだけの話なのだ。
今週に入って以来、朝の通勤時間帯の渋滞が激減して、30分もかからないうちにオフィスに到着してしまう。皆故郷へ帰ってしまい、東ベルリンの都心に当たる部分には如何にベルリン人が住んでいないのかを実感する。
去年は深い雪につつまれて、車を動かすどころではなかった。どのスーパーにも雪かきスコップが売り切れで、仕舞にスコップを買いに出かける車を出せなくなり、一歩あるけば滑って転ぶような天候の中、アマゾンの特急便でスコップを購入し、二時間あまり車の周りを掘り起こし、それでも発車しないので、玄関のフットマットをタイヤの下に敷いて、発進し、また敷き直して進みということをして、駐車スペースから出たのを覚えている。
こつは、とにかくはまり込むような駐車スペースに入らないことだけだった。
今年は驚くような暖冬で、一度ボタン雪が降ったきり、白い雪は目にしていない。
そのせいかクリスマスというような実感が今ひとつ涌かないのだ。
今朝オフィスに出勤すると、デスクの上に大きな箱が置いてあった。
会社からだと言いつつ、上司と一人の同僚が私に贈り物を用意していてくれたのだ。
チョコレートと赤白ワインを組み合わせたパックで、非常に上品でシャレていた。私がワイン好きで、チョコレートと赤ワインをデザートにするなどという無駄話を覚えていたらしい。
ありがたいことに、この忙しいさなか、私も二人のプレゼントは用意してあったので良かった。一人にはオーディオブックと純粋なホットチョコレートを。上司にはキッシンジャーの書いた新刊本と手に入らないと嘆いていたトワイニングの紅茶をプレゼントした。
頂いた物に見合わないようなもので、申し訳ないと思いつつ、でもお互いにそれぞれの存在を大切にしているのだということが同時に伝わって来て、とても心温まった。
上司が消え去った後、私と向かい合わせに座っている同僚と話し込んでしまった。
彼と私は非常に馬が合う。ついつい話し込んでしまうのだ。
娘との電話での会話を聞かれると、必ずあまりにも冷たい、あれじゃコミュニケーション拒否だよと説教される。
何故、コミュニケーションを拒否することが互いの狂気を回避することに繋がるか、そんなことを説明するのは、家族の裏を明かすことで、娘を裏切るような気もするし、言い逃れのような気もして来る。そう思ってついつい、事情があるのよと口を濁していた。
それでも、もう何ヶ月も向かい合わせに座り、仕事をして、食事をしていると、そうでなくても感性が似ている物同士、色々と分かってくる物なのだ。娘の話題を避けている私から、一言でも何かその日の娘との電話ややり取りについて聞き出すのが彼は天才的に上手い。そうして、今日も一言、昨日も一言、とやっている間に、彼の頭の中の想像が形になってきたらしい。
今日はそのことで始まり、それが世代を超えているある一家の運命として、またはある才能が独立して存在しているかのような「引き継ぎ」があるのだという話にまで至った。私の話は、全く具体性に欠けていて、始終、その出来事や今の道のりが、どこからやって来て、どこへ向かって行くのか、ということ以外語れない。
才能を引き継ぐことは素晴らしいと言う。誰しも、素晴らしい才能にあやかりたいと願い、子供にそれを継承させたいとも思うらしい。
しかし、私には才能というものをそんなに簡単には捉えられない。
人の心を揺さぶるような才能の裏には、必ずコインの裏のように、暗い部分が潜んでいる。その暗い人の目には触れない、所謂ネガティブな部分を一緒に背負う覚悟がなければ、才能等に手を触れてはいけないのである。
世間の求めている才能というののではなく、個人が個人の何かを削ってでも投入し続ける、人にはまねのできない集中力と熱中力で紡ぎ出される何かのことを言おうとしているのだが、上手くは表現できない。
才能の隣に立つというのは、才能から湧き出るカリスマ性に巻き込まれずに、自分をも失わずに、凛と立ち続けていられる強さがなければ、食われて終わりなのである。
そのことを私は一度も問うことなく、世代にまで及ぶような家族の運命とも言える重い物を背負った才能と生きることを引き受けてしまった。
そして、離婚しても、男女の関係を終焉させても、その関係性は一生消えないのである。物の見事に、私達の子供達の世代ににもその黒々しい運命は、人も驚くような才能らしき物と共に、娘の中に引き継がれ、顔を出す機を狙って私の背後に差し迫っていたのである。
そして今、私は夫とは解決できなかった、自分の絶対的な弱さを娘との間に実感せざるを得ないという自体に陥り、苦しんでいるのだが、これも何も、才能という目眩く毒素に身を委ねてしまった過去の残骸なのである。
私の人生が私に何を求めているか分からないけれど、終わっていない、それだけは分かる、それどころか、今始まりのゴングが鳴ったばかりという気すらする。
何を話していたか忘れたが、おそらく世代を超えて引き継がれる才能という正の物の裏には、必ず負がついて回る、それに関する責任を持つ覚悟もなく、才能をある人に勝手に惹かれて、毒された自分の未熟さをせめていたりしたのかもしれない。
私の話術は、決して上手いわけではない。それでも突然同僚が、君の話を聞いていると鳥肌が立つ、と言った。
私は嬉しいとは思わなかった。それよりも、ああ聞いてくれたんだ、共感を持って、この人はこのつまらない超個人的な話を聞いていてくれたんだと言う感謝が涌いて来た。
外は暗くなり、お互いに家路につこうと荷物を鞄をにまとめた。
静かな空気が流れていた。彼は何かに心を打たれ、私も何かに心を打たれていた。
あの人は、私の心に触れることが自然にできるのだ。そして、なかなか大切な話こそ他人には語らない私に、大切な話だけを語らせることができる。
そして、私は知らない間に控えめだが正直に語ってしまう。そして私は、確実に何かに心を動かされ、深い胸の内で、その感動を味わっているのだ。
一目につかないところで、誰からも切り離されて、たったひとりぼっちだと感じながら、毎日毎日子供の顔を見て、色々な出来事を乗り越えて、私なりに私の持っている家庭を守ろうとしている、そう言うつまらない、話題にするに値しない人の生き方に耳を傾けてくれた、その嘘の一切ない素直な態度に心を打たれたのである。
毎日仕事の合間に、電話でなんだって?と嫌みなく聞かれ、私もたった5言で、娘がこんな馬鹿なこと言って、信じられない、あの子の自分勝手は許せない、と言うと、必ず彼は、それにしてもあんな存在拒否のような声で言わなくても、と相づちを打つ。そんなことを繰り返しているうちに、私は何故か、どこかで緊迫した彼女への思いに、すっとすきま風が入って来たのを感じるようになっていたのだ。
それが私を救っていた。
何故彼が今日、こんな話に心打たれたのかは分からない。単に、私の生きる姿に小さな一生懸命さを見たのかもしれない。そして私の話し振りが告解に聞こえたのかもしれない。
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娘は風邪を引いて寝ている。
家へ帰ると、のこのこと寝室から出て来て、お腹がすいた、死にそうだ、こんな物は食べられない、どうしてもあれじゃなければ嫌だ、どうせ私が病気なのが面倒くさいんでしょ、こんな具合悪いのに、一体どこでどう過ごしたらいいの、とうのが永遠に続き、その後、母親のくせに何一つ人のためにせず、一度の私の存在を認めず、愛したこともなく、おやすみと言ったこともなければ、私を助けてくれたこと等一度もない。という行が聞こえて来る頃には、絶叫となり物が飛ぶのである。
気を許して、気安くその場を収めようと優しい言葉等吐いたら、手どころか腕も足ももぎ取って行くような勢いで、一瞬のうちに、彼女の手中に収まってしまう。ああ、ママも分かってくれた、ならコミュニケーションと言えるが、そら見ろ、認めただろうと、状況は更に悪化し、その後何ヶ月も何年も、あのとき謝ったはず、あのとき私のことも分かる、可哀想だって言ったはず、この矛盾した態度はなんだ、となじられ続けるのである。
娘さん、思春期なのよ、などという気楽な言葉は聞くに堪えないから、私は誰にもこの話はしない。あの同僚以外には。
その娘がでも、一瞬機嫌の良い何分間がある。機嫌が良いか、激怒して人をなじり倒すかどちらかしかないのだが、今日、その機嫌の良い何分間かで、突然こんなことを言ったのである。
ママの隣にずっと置いておいてもらえる赤ちゃんに戻りたいなあ。
これはショックであった。
母親の教育や家庭環境が物を言うのは周知の事実であるが、私の問題は、世代間という深さに関係し、特殊な才能を伴った子供の、母親である私の領分を超えた凄まじい存在のエネルギーとの対決という側面も、絶対に抱えているはずだと確信して来た。そしてそこに間違えはないだろう。
しかし、それでも単に「愛し直しなさい。自分を叩き直して、彼女の好きなように愛し直してあげなさい」というだけの問題である気もして来た。
そして、その声がずっとこだましている。
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車中、同僚との暖かい会話の余韻に浸りながら、あんなにかわいい子供達を持った私は、一体これ以上何を求めているのだろうかという一点に考えが集中してしまった。
色々ある。色々あった。色々なことで挫折し、何度も起き上がってきた中で、常に子供達は一緒にいた。いや寄り添ってくれた。
子供に救われ、子供に生かされている。そういうことを実は毎日毎日実感しなくれはいけないのは、この私なのだ。
帰宅して、一生懸命遅い夕食にした。特別なことは何もしなかったが、子供達を見てもイライラしなかった。
娘の心根の優しさは知っている。
娘は私の心根など、凍り付いていると思っているだろう。それは私だけの責任であるという気がして来た。
どう転ぶのか、どっちに行くのか、全く分からない。
自分を叩き直して、愛し直す等、絶対にやるわけがない。それは今から分かっている。私の否を認め、捧げ尽くすことで、搾取されるのはやはり心の健康には良くない。彼女にも、必ず学ぶべきことはあるのだ。
今の私には自分が真面目に必死に生きて行くことを見せるしかできない。優しい言葉も悪用されると、人間与えられなくなって行く。それは身を以て学び、自分を守らなければ、まず生きて行かれないということを知っているからこそ、今の状況では優しい言葉は与えられないのである。彼女も保身し、私も保身している。どこまでも並行線である。
同僚との向き合ったデスクが象徴するように、私は彼を鏡のように見立てて、時々、ぽつっと娘のことを呟く。初めてこの話題が公になった場だった。そのことで、私の中で何かが始動した。もう埋もれさせているばかりではだめだと。
解決も答えもない。
でも車の中で、今日もワイパー越しに見える師走の夜の喧噪を眺めながら、周りが確実に変化しつつあり、少なくとも私はずっと考え続け、ずっと対面し続けていると実感した。毎日車の中で、新たなエネルギーを絞り出し、夕食を待つ子供達の元へ帰宅している。
歌われているように食って飲んで死ぬのだ。
それまで、必死で這いつくばりながらも生き続ける。それだけの話なのだ。
2011年12月18日日曜日
発見の喜び
昨日、今日と色々なことが起こった。それはすべて私の心を深く満たすもので、神から何か贈られたような、心の奥深くから満たされるような出来事であった。
毎日飛ぶように過ぎる中、息子の主科クラスの発表に行った。最後に演奏した息子は、驚くほどに大人になっており、私が14歳の頃には決して表現できなかったような音楽を奏でていた。
練習を見ることも殆どなくなって以来、息子は毎日6時間も練習することがあり、最近の頭の中には音楽のことしかないらしい。
つい最近まで、転校する話が出るほど、音楽の練習を重ねることが苦痛だったのに、驚くような成長振りである。思春期の心の成長は、本当にだんだんとではなく、フェーズごとに突然起こるらしい。
音楽性がない、何も感じていないのではないか、体の動きが伴わない、棒吹きであるなど、散々の評価を得て、彼の心の内を少しでも知る私でさえ、この子には表現するべき何もないのではないかと疑うこともあった。
その息子が、一人前に音楽をし、それこそ一音一音、一フレーズごとへの愛情をこめて、自分なりに先生に忠実に、作曲家の目指したものを尊重しながら、本当にすばらしい演奏をしたのだった。初めて、人の心にも何か触れるものがあったらしく、たくさんのほめ言葉を頂いて、彼も努力と意思の強さを認めてもらったことに満足のようであった。
私は、何も言わずに心の中で震えるような喜びを覚え、息子が「発見」を体験したことを神に感謝したいような気持ちだった。
子供の頃、虫を探して野原を歩き回り、やっと見つけた虫を逃した。日が暮れるまで探し続け、もうあきらめて家に帰ろうとしたときに、再びその虫に出会った時の感動を語っていたのは、数学者の岡潔であった。記憶に残るような発見の喜びというのがある。おそらく、息子の中では、何かこれに近い発見の喜びがあったに違いない。
それ以来、もう音楽のことしか頭にないのである。練習しなければ機嫌が悪く、練習が終われば、ご飯を食べるのも忘れて寝てしまうほど疲労していることが多々あった。
私の記憶には、彼の年頃、これほどの音楽に対する熱中はなかった。それはもっとずっと後のことだったのだ。
彼はおそらくこの先も、この発見の喜びを探し続け、練習を続けて、人の前で吹き、思い通りに行かずに落ち込み、また一からさらい直し、その過程で自分との関係を築き、自分を見つめ、音を通した交流に苦しみ、助けられていくことだろう。
きっとそんな道を息子はたどっていくのだ、もう心配ない、そういう確信が沸き起こったとき、私の心の中は、言い知れぬほどの喜びと感謝にあふれ、もうこれ以上望むことは何もないとまで思えたのだった。
____________
会社のクリスマスパーティーがあった。そこで得たものもまた大きく、類は友を呼ぶということわざを実感し、交流の楽しみというのを本当に何年かぶりに再発見した。
人に合わせること、会話の調子を合わせることなど、いくらでもできると言いそうになるほど、たくさんの場数を踏んできた。そしてどんな状況でもしり込みすることもなく、無言で取り残されることもなく、それなりに輪に入れるのである。
しかし、その後の疲労感はひどく、その時間に何の「交流」もなされていなかったということだけを確認するといったことばかりだった。
それが、昨晩のパーティーは違ったのだ。そこではたとえそれが場の雰囲気にのまれたものであったとしても、確実に交流があり、共感し合っていたのだ。そしてそこに流れていた空気は、本当に様々な人々から放射されるエネルギーが渦を巻いて溶け込んでいるかのように暖かいものだった。
ここでも、帰宅途中の車の中で、誰にともなく感謝をしたいという欲求が沸き起こり、ある種の感動を持って一日を終えたのである。
_____________
今日も、忙しく招待されて、とある音楽教室の発表会を聞きに行った。
そこでも、同じように小さな輪ができあがり、暖かい空気の流れの中、音楽好きという共通の興味を分かち合う人々が語り合っていた。
私は、彼らの心にも動かされたが、主催者であり、彼らの講師であり、私を招待してくれた人物が、君らのためだけにと、さらっと弾いてくれたピアノの演奏に、それはほんの2分足らずの時間であったが、何度か至福の和声を聞き、何かが本当に癒されたと感じたのである。
私は暖かい人々に囲まれて、本当に幸せなのだろう。
私生活には、苦しいことも、孤独であることも、変わらずに存在し、隠しようのない問題も山積みである。
それでも、私には与えることの許されている家族がいる。こうして様々な人々から得たありがたみこそ、そもそも生きているだけで、こうしたことにめぐり合えるのだという感謝として、家族へ、子供達への新たなるエネルギーへと変換して与えていくことができる。それだけでも非常に幸運なことなのだと思う。
いつも思うのだが、辛いのは、孤独なことでも、困難な問題を抱えていることでもない。
存在の底を揺らがされるような喜びを得たとき、その瞬間に、神なるものに対して感じる感謝を返す人が、隣に存在しないことの辛さ、喜びに震えたときに、隣を振り向いて、分かち合えないことの寂しさは、困難を一人きりで乗り切るよりも遥かに酷なことである。
そういう意味で、私の存在そのものが、真の交流を通して、どこかに共感や、温かみとしての時間を与えているのかもしれない、そうどこかで願い信じられることが、また自分への信頼として返ってくるのであった。
今年は、最後になって、こんな贈り物を得ることができた。
去年もすばらしい年であった。今年も更にすばらしかった。生きていくごとに、どんどんこのすばらしさは増してゆく、今はそんなことを本気で信じられるのである。
それはおそらく、どこかで苦しいときにも歯を食いしばって夢中で生きてきたから、単に毎日生活するなかで、様々な小さな感動を発見できるようになったのだろう。もしくは、幸福への「水位」が年々低くなって、いずれは太陽を見るだけでも幸福だと思えるようになるのかもしれない。
これも、実は発見の能力と関係があるのかもしれない。
誰にともなく、深く感謝をこめて何かを贈りたい、今晩はそういう気分である。
2011年10月29日土曜日
川べり
夕方になると、ライン川の水面に、橙色の光が降り注いだ。緩やかな水の流れに、その光はきらきらとした光線を形作り、本当に宝石が至る所で揺らめいているように見えた。
旧市街のある向こう側の岸辺はにぎやかである。けれど中心部の古い橋を渡ってこちら側に来て、川沿いの道を少しあるくと、こんもりと木の茂る大きな建物が並び、静かな空気に包まれれる。
陽の長くなった初夏、その辺りを子供達をつれてよく歩いたものだった。
末っ子をバギーに乗せて、その後ろに息子を立たせ、娘はバギーの取っ手に必死につかまりながら、小走りで着いてきた。娘がまだ幼稚園だった頃である。
途中で小さなバイクの積荷にアイスの絵が描かれたボックスを乗せて、ジェラートを売り歩くイタリア人によく遭遇した。そのたびに私は必ず子供達のために買ってやった。息子はチョコレートとくるみが好きで、娘はマンゴーだった。末っ子と私はピスターチを分けたものだ。
口の周りをべとべとにして、太陽に赤くなった頬にアイスをほお張る子供達を見ること以上の、平和な気休めはその当時考えられなかった。
意味もなく、川辺をそうして歩き続け、色々な人に遭遇する。アイス売りの叔父さんにはイタリア語で話しかけられ、小さな子供のいる家族連れは、子犬などを引っ張りながら幸せそうにスキップをしている。誰もが長くなった日を楽しみ、日没の後も、テラスに座って夏の夜を楽しみだす頃だった。
私は放心していたのだろう。3月の31日にシェルターに逃げ込み、夫に泣きつかれて家に戻り、彼が目を真っ赤にして、別居を受け入れると言い出してから何日も経っていなかった。
テーブルをひっくり返したり、私を子供の前で引きずりまわしたりした後の、彼なりの降参だった。その憔悴した瞳を見ていたら、別居を強行する自分自身が鬼に見えた。
一方で私自身の限界は極度に達し、悪夢にうなされ、買い物に行くたびに財布をなくしたり、鍵を落としたり、夢遊状態で生きているのとなんら変わりはなかった。
郊外に引っ越したばかりの庭付きの新築の家が、妙にがらんとした風に移り、全てが空虚で望みがなかった。
せっかく手に入れた家も、引越しで二ヶ月も経たないうちに、やはり夜中に練習できないので、この家はダメだ、という言葉を夫から聞いた時、三人の子供達との、小さく小市民的な、気恥ずかしくなるような幸せを求めて、全ての現実的処理を私が担って努力してきた道のりが、一瞬にして否定された。それが別離の理由ではない。しかし、家を手に入れるなど、必要なかった、無駄だったといわれ、当然その罪を再び一気に私一人背負ってしまったことは事実である。
それから真空の世界に一人で存在するような虚無が襲い掛かり、子供達がどれだけ可愛いか、生まれたばかりの末っ子が泣いているのか、泣いているならどれくらいの時間泣き続けているのか、そういったことが、一切分からなくなっていった。
はっきり言うと、私のその頃の記憶が本当に殆どないのである。
自分を責めることは、別居の決心を境に、意識的にしないようにした。それよりも私がまともに息を吸い、まともに子供達と向き合い、おびえることなく生活できる環境を、もう本能的に求めており、そのことに夢中になっていた。その頃出会った見ず知らずの人々のことは、それでもずっと記憶に残っているのである。シェルターに電話をかけ、嗚咽しか出てこなかった私に、大丈夫、私たちが守ってあげますといい続けてくれた電話口の女性、市電の駅で待ち合わせをし、私たちを導いてくれた女性、恥ずかしがらないで、人間には色々なドラマがあるのよと、私の調書を取ってくれた女性。
その時、娘はぼうっとしていた。アパシーのように、お気に入りのモリー・ポニーという馬のぬいぐるみを抱きしめたまま、常にバギーの取っ手を必死に握り締め、私についてきてくれた。私の二の腕にあった幾つもの紫色のあざを、彼女が見たのか見ていないのか私は知らない。でも、彼女はそんなこととは関係なく、まるで全てのストーリーを知っているかのようだった。そして彼女が口を開くことは一切なかった。
シェルターの部屋での夜中、窓から星空が見えた。本当に美しく瞬いていた。遠くに見える家屋の窓には、子供達が切り抜いた切り絵が張ってあったり、モービルが吊り下がったりしているのが見えた。疲労困憊した身体からも、自然に涙があふれかえってきた。あそこにも、ここにも、どこにも家があって家庭がある。当時の私には、帰る家もなければ、家庭もなかった。その時、娘の目がぱっと開いていた。ごめんね、こんなところまで連れてきて。もうすぐおうちに帰ろうね、と声をかけてやったら、娘は私に擦り寄ってきて、ママの行くところならどこでも良いよ、どこまでも行くよ、と小さな声でささやいた。
また、ある時、絶望に嗚咽し、寝室に座り込んだまま何時間も立てなくなってしまった私の元に、幼稚園から帰宅したまま放り出されていた可愛そうな娘が静かにやって来た。そして、一枚の絵を私に差し出したのである。そこには私と三人の子供達が描いてある。彼女は昔から絵が上手く、取り付かれたように一日中描いていた気がする。
私は、急いで涙をぬぐい、目がつぶっているように描かれていた私の顔を見て、彼女に寝ているの?とたずねた。娘は、うんん、ママは泣いているの、と答えた。三人の子供達の顔はどれもニコニコと笑っている。彼女の大好きな父親はそこには描かれていなかった。
私はしばらくその絵を宝物のように額縁に入れて飾っておいた。
眠っているように見えた私は、もう一度見直すと、まるで菩薩のような静を放っていた。
彼女は心に何を抱えて、この絵を描いたのか、私は知る由もない。それは、きっと単にママの元気を願っていただけなのだろう。
彼女は、そういう子供だった。私と精神的に一心同体のようなところがあった。何かが投影されてはいまいか、何か禁じられた悲しみを伝えてしまってはいまいか、そんなことばかり考えていたが、渦中を生きている私には、そうであったとしても、どうすることもできなかったであろう。
引っ越しが済んでからも、私はおびえて暮らした。電話が鳴れば飛び上がり、暗くなれば、いつベルがなり、夫が私に切願して、その感情を決壊させまいかと、びくびくと緊張していた。変なめまいに襲われたり、原因不明の嘔吐に夜通し苦しむということがあった。
それでも日が出ると、私は子供達を連れて、外に出るようになっていた。それがこの初夏だったのだ。緑の葉一枚一枚をあの頃ほど愛おしいと思ったことはない。歩道の脇に生きている小さな蟻一匹をじっと見つけているだけで、そのせかせかと本能に従って生きる姿に、生の命を実感し、立ち止まったまま動けなくなり、終いには座り込んで、蟻の方がよほど自分より優れていると、涙がこぼれてきたこともある。そんな時、私より一歩遅れて、私の横に来てしゃがみ、顔色を覗き込むこともなく、状況を受け入れるかのように、蟻を一緒にじっと見つめてくれたのは娘だった。
あまりにも不意に涙が流れるので、急いで木陰に隠れ、涙をぬぐってまた笑顔を作るのだが、他の二人の息子は何も知らずに、元気に笑い声を立てていても、娘だけはすぐに察知して、私の背後に立っていた。
娘が二歳の頃から始まった帽子を放せない症状、幼稚園時代を通した無言、その無音の視覚的のみの情景を思い浮かべると、いつもこの川べりの光景を思い出す。小さな町で、何年か住めば、隅から隅まで行ったことのある場所となり、知人に会ってしまうような所だった。そして、様々な楽しく、時に耐えがたいほど悲しい思い出が、至るとこにちりばめられていた。そんな中、この川べりは、未だに無音の静かな川の流れとして、私の脳裏に焼きついている。
ライン川の静かな流れに迎合するように、私自身の内面の流れもようやくゆっくりとした速度になりつつあったとも考えられるし、脆くとも新しいスタートを切った私の、私と子供達だけの思い出の散歩道だったのだとも考えられる。
娘の状態が色々と顕著になり、私自身が最近自分を責めることをきっぱりとやめ、彼女自身に振り回される自分や家庭を必死で守ろうという態度になって以来、心の中には悲しみがあふれてくることが多くなった。
闘いを続けている間は、人は必死なのだ。今でも私は生きるという闘いを続けている。しかし、彼女に振り回されることが彼女のためにはならないと、痛いほど理解した時、私は彼女に制止線を引き、自分を守ることを優先しだした。それは別れた夫に対して最後にとった手段と同じである。そして私の得るものは、いつも静けさや平和どころではなく、深まる悲しみばかりなのだ。
ゆらゆら揺れる水面にきらめく光を見つめている私の隣には、緊張したまま、無言で、ママ、ママ、と心の中で呪文を唱えている娘が思い浮かぶ。
今でも、彼女とはこの川の中を一緒に流れているのだと、私はどこかで知っている。
私が悪いと、彼女の盾になり続ける事が、彼女の心の平和をもたらすのなら、どこまでも打たれようと思う。しかし、そうではない。喪失の恐れがあまりに強すぎて、それがエゴや人を支配する行為となってしまう、言ってみれば憐れな彼女に対し、私自身が一人の人間であり、私とあなたは一体ではない、何をしても赦されるわけではないと、突き放しを突きつけることで、彼女に自立をしてもらうしか方法はないのだ。つまり気づきを与えるのだ。
しかし、皮肉なことに、彼女は一番恐れていた喪失、母への信頼の喪失、所属しているから赦されるという逃げの喪失を一気に味わう。
最も失いたくないものを、すがりついたゆえに、失うのである。
母親の責任は問われて当然だが、私は私のプライスを払おうと、日々赦されようなどとは思わないことにしている。
そして、私は彼女をどんなことがあってもあきらめはしない。希望だけは、私が死ぬまで持ち続けても許されるものなのだ。
夫は、義母との交流を絶つことで、逃げた。私は夫への関係を解消することで、状況を無にした。しかし、娘に対しては私からは関係を解消できるはずがない。そして彼女が、私への関係を深く、耐え難い失望の末、絶つだろうと予想はしても望んではいない。
きらめく水面を思い出しながら、彼女はそこに必死で母親の心をつかもうと、無言で立っていた。私はそのことを常に心していなければならない。
2011年9月24日土曜日
娘の横転ポイント
一日中珍しく家事に精を出し、ワインを一杯飲んだだけで疲労して酔っぱらってしまった。
けれど、夕食前の買い物へ駆け足で行った時、ふと心に浮かんだことを乱文でも書き留めておきたかった。
娘の横転ポイントは果てどこだったのか、いつだったのか、そんなことを考えたことはない。渦中にいると、灯台下暗しのように、何も見えない。今までの道筋も見えなければ、今いる状況が道筋の一体どの辺りに位置しているのかもわからない。
今日は息子の学校の父母会だったのだ。そして生徒達の演奏によるマチネーの後、校長先生からの挨拶があり、その後やっと各クラスに移動するのだが、私自身はマチネーには行かず寝坊し、隠れるように直接クラスの教室に忍び込めば良いと思っていた。
担任の先生の挨拶があり、役員選出の段になって、なんの因果か知らないが、あれよあれよという間に役員になってしまった。反論のしようがなかった。確かにこのクラスでは古株であるが、どこまでこの非政治的な私に、こんな政治的役割が勤まるのか、努力する以外、申し訳が立たないだろう。
父母会の後、仲の良い親達と話していた時、有名なバイオリンの教授の話になった。
彼はベルリンの音大で長年教授職についているが、何しろ才能のある子供を一人前にするので有名な先生で、特別に目のつけられた生徒は、全員この先生のところに門下替えする。そうでなくても、常に実技の先生をこの先生のクラスに変えようと必死になっている親達ばかりである。
近寄りがたいかというと、全くそんなことはなく、学校のオープンデイなどは、何時間もの待ち時間が当たり前という、トライアルレッスンの行列ができるが、名前を書いて申し込みさえすれば、どんな子供でも先生に少しはレッスンしてもらえるのである。
娘が小さかった頃、私はバイオリンをやらせた。彼女がどんな子供になるか、決して想像できなかったが、私はバイオリンという楽器のレパートリーの多さ、そして室内楽や古楽での楽しみを思い、彼女には是非弦楽器をやらせようと思ったのだ。まさか職業にさせるなど、思いもよらなかった。
スイス時代についた先生は、親切だったがメソッド的には色々と問題のある教師だった。しかし私たち親の誰も、真面目にやらせようと思ったことがなかったので、気楽なものだった。
そして、彼女はいかんせん消極的すぎた。人前で大股で歩くことすらできず、挨拶に人の目も見れず、頭を下げる動作さえ恥ずかしく思い、単に歩くという動きだって、ぎこちなく見えるほど、自分の存在に対する感覚が鋭敏すぎた。彼女には、公で一歩足を動かすことが、凡人にとっての道ばたで転んでしまうほどの大げさな動きに感じ取れてしまったのだろう。
そんな子が、楽器を習得することが簡単であるはずがない。
そして私たち夫婦の姿も不安定で、彼女は殻にこもるばかりであった。
ベルリンに来て、初めて何らかのメソッドというものを持った先生についた。
彼女は3年生になっていた。一年後に才能援助試験を受けるよう勧められて、見事に受かり、無料で一時間半のレッスンを受け、音楽理論とオーケストラなどの授業も受けられるようになった。
この才能援助試験を毎年試験を受け直して更新し、公立音楽教室で彼女は優秀だなどと言われるようになった。
私にしてみれば、一切口をきかず、人形のように、棒立ちでバイオリンを弾いていただけだ。音楽に沿った自然の身体の動きなど、私には全く見えなかったのに。
彼女が7年生になった時、弟は有名な音楽ギムナジウムに入学することになった。7年生からギムナジウムに移行するのが通常だが、成績の良い子供達は、すでに5年生からのコースに試験を受けて転校し抜けてしまう。
息子は、そう言う類いの子だったのだ。
その関係でその年、名の知られたこの学校のオープンデイに娘を連れて行った。珍しく前夫が一緒で、娘に絶対にトライアルレッスンを受けるようにと、リストに名前を書き入れてしまった。
そろそろ思春期になっていた彼女は、その時顔面を崩して、この世の終わりのような顔をして、泣きじゃくった。体重全部をかけて地面にへばりつき、何があっても行かないとだだをこねた。
そして珍しくも普段一切子供の教育にも関与せず、非常に優しい父親が、このときとばかり、彼女を強制し、引きずるように連れて行ったのだ。
何の準備もなく、今弾いているVivaldiかなにかを持って行っただけである。
他の子供達はこの日、この有名な教授につくために、もう何ヶ月も前からレパートリーを整えて来た、そう言う背景がある。
我々は、教授の名こそ知っていたが、それがどのような意味を持ち、この教授をめぐってこのような熾烈な競争があるなどとは、露程も知らない、それほど無知であったのだ。
つまり、バイオリンをやらせている親としては、露程の野心もなかったということである。
この教授は優しく娘をレッスンし、
「何一つ間違った奏法もなければ、まだまだ聞こえないが、あなたの中には、驚くほど繊細な音楽が宿っていることも、フレージングを聞いていれば分かります。」
と非常に優しい声色で話し始めた。
小さく震えるような娘の肩越しにかがみ込んで、
「でもね、よく考えてごらん。ここにいる子供達は、おそらく君の4倍ぐらいは多く練習しているはずだよ。君が7年生だとすると、君のこの学校での実力は5年生ぐらいだろうし、それも入れるかどうか分からない、そういったレベルなんだ。バイオリンを止めないでおくれ、でも、この学校に入りたいと君がいうんだったら、今日から最低2時間練習して、二年間頑張って遅れを取り戻してご覧なさい。そうしたらまた会えるかもしれないね。」
そう言って、ごく短いトライアルレッスンは終わった。
私は満足だった。娘も頑張ったし、父親も満足だった。こんな一流の学校にバイオリンで入れるとは思ってもいなかったのだ。つまり入れるつもりすらなかった。
……
しかし今日閃いたのは、彼女の横転ポイントは間違えなく、このトライアルだったということだ。
あれが、親から受けた強制の最たるものであり、それは5歳の時からずっと握らされて来たバイオリンという強制の総集編のような力を持って、彼女の意志、いや反抗心を目覚めさせた。
その後、彼女は才能援助試験から、いよいよ音大準備コースに移行すべき試験を受けるよう言われていたのだが、その試験を更新できなかった。やる気がなく、棒立ちに、不機嫌な顔をして、単に舞台に上がったというだけの、見せつけるような酷い試験だった。親として恥をかかされたと言っても良い。
試験のために、彼女は一切練習をしなかったし、バイオリンのレッスンを私の知らないところでサボってさえいたのだ。
言うことを聞き、母親の趣味の服を着て、宿題もし、バイオリンの稽古もして、理論もオーケストラもやって来た彼女が、突然転がるようにすべてをなげうった。
間もなく成績は急降下になり、私との関係は悪化し、彼女と私との確執がいよいよ表面化した。
思春期というせいもあるが、つまり人格形成の時期が来て、彼女の「消極的」な姿は消え去ってしまった。代わりに、猛烈な反抗心が芽生えたのである。
抑圧されていたものの、それでも母親の言うことに依存し、しがみついていれば良いという安心を彼女は求めていた。あまりの感受性に、しかし重圧感も自分の思いも、気分すら一切表現することのできない子だった。その彼女がこれを機に、極端な内気さに突然別れを告げたのだ。
その後のことは、ここに記録するまでもなく、今現在もなお進行中である。
彼女のその後の進展は、また改めて書くべきであろう。
今日父母会に行ってあの教授の名を聞かなかったら、息せき切って子供達の夕食のために買い物に急いでいた先ほど、あの出来事こそ彼女のターニングポイントならぬ横転ポイントだったとは気づかなかったはずだ。
実は、あの教授のあの言葉は、彼女には信じられないほどの屈辱だったのである。
やりたくもないバイオリンを10年近くやらされ、受けたくもない試験を受けさせられて、半ばできの良い子さながらに扱われる、言いようのない苦痛と違和感。
そして挙げ句の果てに、世界でも有名なこの教授の公開レッスンにまで強制されて、そしてかけられた言葉に、彼女は文字通り打ちのめされた。
もちろん、こうした今までの道筋があったから、屈辱と受け取ったというのもある。
しかし、真実は違うのではないか。
あの子供目線で、優しい声音を持った教授こそ、実は魔物のように厳しい人間なのだ。
彼のあの言葉は、言うなれば「君など話にならない」という言葉に、人間としての社交能力を持った人の親切な仮面をつけた言葉でしかなかった。
それを勘の鋭い娘は親より早く悟ったのである。
そして、それは必ずしも必要な最後通達ではなかった。親に強制されて来た道のりに対する最後通達である。
それをまた「意訳」すれば、「こんなものは止めて、君の道を歩みなさい」ということであったのだ。
「君がこの学校に来たいのなら、練習しなさい。」これが全てを言い表している。
馬鹿な素人の親が、何の常識もなく、こんな先生に縋り付くように連れて行った、そういう図式だったかもしれない。そして実際私たちは、何の期待も、何の脈略もなく、祭りの一つで行った訳だが、「無意識」という領域の話になると、父親があれだけ固辞して譲らなかったのは、受動的な彼女に「さあ大人になりなさい」という切り札を与えた、ということもできるかもしれない。そして自分こそ誰にも劣らぬプロの演奏家である彼は「無意識」に、この教授の娘に言うだろう言葉を知っていたのである。やはり、何の勝手も知らない素人の親というはずはないのである。
そして、買い物に汗を流し、早歩きに家に急いでいる間、あれだけ受動的だった彼女には、強制という形でしか、行動を促進することはできなかったのだ、という言い訳めいた、しかしながら真実を自分に言聞かせつつ、やはり申し訳ない、申し訳ない、申し訳なかった、そう思ったのである。
子供に期待しない親はあり得ない。
子供に期待するなということは不可能である。
だからこそ、この言葉を常に意識して、子供には夢を託すまい、私の価値観を塗り付けまいと思って来たのに、それでも私はおとなしい娘だからこそ、塗り絵のように彼女を扱っていたのだ。
そして、指一本人前で動かすことさえ、大げさすぎて恥ずかしいという異常な内気さを見せていた彼女の、内なるエネルギーと良い意味も含めたエゴは、誰にも勝るとも劣らぬほど強烈である。
人間とは、本当に摩訶不思議だ。
子供の小さかった時分に、私は子育ての失敗を幾つも犯したろう。
でも、精一杯だったのよ、ママも、という情けない一言で許しを請うことしかできない。
今の私の姿は、私の親としての失敗部分の結果である。
他の子供とは順調であるのに、なぜ、彼女とは?
そういう疑問もあるが、人間には相性というものもあると、いくら親子でも実感せざるを得ない。
しかし、彼女のような存在が私になにを課題として突きつけているかと言えば、親として彼女の強さに負けている私が、自分を鍛えるべきだというメッセージでもあるし、自由人の振りをして、相変わらず既成価値に捕われている私を、本当の意味で解放するための、象徴的対戦相手として存在しているということは薄々分かっている。
難しい娘、確執の深いこの関係を恨むより、挑まれた闘いを親として健全に受けて全うするしかない。
それが、彼女に対する、許してね、というメッセージになるのではないか。
ということで、備忘録としたい。
けれど、夕食前の買い物へ駆け足で行った時、ふと心に浮かんだことを乱文でも書き留めておきたかった。
娘の横転ポイントは果てどこだったのか、いつだったのか、そんなことを考えたことはない。渦中にいると、灯台下暗しのように、何も見えない。今までの道筋も見えなければ、今いる状況が道筋の一体どの辺りに位置しているのかもわからない。
今日は息子の学校の父母会だったのだ。そして生徒達の演奏によるマチネーの後、校長先生からの挨拶があり、その後やっと各クラスに移動するのだが、私自身はマチネーには行かず寝坊し、隠れるように直接クラスの教室に忍び込めば良いと思っていた。
担任の先生の挨拶があり、役員選出の段になって、なんの因果か知らないが、あれよあれよという間に役員になってしまった。反論のしようがなかった。確かにこのクラスでは古株であるが、どこまでこの非政治的な私に、こんな政治的役割が勤まるのか、努力する以外、申し訳が立たないだろう。
父母会の後、仲の良い親達と話していた時、有名なバイオリンの教授の話になった。
彼はベルリンの音大で長年教授職についているが、何しろ才能のある子供を一人前にするので有名な先生で、特別に目のつけられた生徒は、全員この先生のところに門下替えする。そうでなくても、常に実技の先生をこの先生のクラスに変えようと必死になっている親達ばかりである。
近寄りがたいかというと、全くそんなことはなく、学校のオープンデイなどは、何時間もの待ち時間が当たり前という、トライアルレッスンの行列ができるが、名前を書いて申し込みさえすれば、どんな子供でも先生に少しはレッスンしてもらえるのである。
娘が小さかった頃、私はバイオリンをやらせた。彼女がどんな子供になるか、決して想像できなかったが、私はバイオリンという楽器のレパートリーの多さ、そして室内楽や古楽での楽しみを思い、彼女には是非弦楽器をやらせようと思ったのだ。まさか職業にさせるなど、思いもよらなかった。
スイス時代についた先生は、親切だったがメソッド的には色々と問題のある教師だった。しかし私たち親の誰も、真面目にやらせようと思ったことがなかったので、気楽なものだった。
そして、彼女はいかんせん消極的すぎた。人前で大股で歩くことすらできず、挨拶に人の目も見れず、頭を下げる動作さえ恥ずかしく思い、単に歩くという動きだって、ぎこちなく見えるほど、自分の存在に対する感覚が鋭敏すぎた。彼女には、公で一歩足を動かすことが、凡人にとっての道ばたで転んでしまうほどの大げさな動きに感じ取れてしまったのだろう。
そんな子が、楽器を習得することが簡単であるはずがない。
そして私たち夫婦の姿も不安定で、彼女は殻にこもるばかりであった。
ベルリンに来て、初めて何らかのメソッドというものを持った先生についた。
彼女は3年生になっていた。一年後に才能援助試験を受けるよう勧められて、見事に受かり、無料で一時間半のレッスンを受け、音楽理論とオーケストラなどの授業も受けられるようになった。
この才能援助試験を毎年試験を受け直して更新し、公立音楽教室で彼女は優秀だなどと言われるようになった。
私にしてみれば、一切口をきかず、人形のように、棒立ちでバイオリンを弾いていただけだ。音楽に沿った自然の身体の動きなど、私には全く見えなかったのに。
彼女が7年生になった時、弟は有名な音楽ギムナジウムに入学することになった。7年生からギムナジウムに移行するのが通常だが、成績の良い子供達は、すでに5年生からのコースに試験を受けて転校し抜けてしまう。
息子は、そう言う類いの子だったのだ。
その関係でその年、名の知られたこの学校のオープンデイに娘を連れて行った。珍しく前夫が一緒で、娘に絶対にトライアルレッスンを受けるようにと、リストに名前を書き入れてしまった。
そろそろ思春期になっていた彼女は、その時顔面を崩して、この世の終わりのような顔をして、泣きじゃくった。体重全部をかけて地面にへばりつき、何があっても行かないとだだをこねた。
そして珍しくも普段一切子供の教育にも関与せず、非常に優しい父親が、このときとばかり、彼女を強制し、引きずるように連れて行ったのだ。
何の準備もなく、今弾いているVivaldiかなにかを持って行っただけである。
他の子供達はこの日、この有名な教授につくために、もう何ヶ月も前からレパートリーを整えて来た、そう言う背景がある。
我々は、教授の名こそ知っていたが、それがどのような意味を持ち、この教授をめぐってこのような熾烈な競争があるなどとは、露程も知らない、それほど無知であったのだ。
つまり、バイオリンをやらせている親としては、露程の野心もなかったということである。
この教授は優しく娘をレッスンし、
「何一つ間違った奏法もなければ、まだまだ聞こえないが、あなたの中には、驚くほど繊細な音楽が宿っていることも、フレージングを聞いていれば分かります。」
と非常に優しい声色で話し始めた。
小さく震えるような娘の肩越しにかがみ込んで、
「でもね、よく考えてごらん。ここにいる子供達は、おそらく君の4倍ぐらいは多く練習しているはずだよ。君が7年生だとすると、君のこの学校での実力は5年生ぐらいだろうし、それも入れるかどうか分からない、そういったレベルなんだ。バイオリンを止めないでおくれ、でも、この学校に入りたいと君がいうんだったら、今日から最低2時間練習して、二年間頑張って遅れを取り戻してご覧なさい。そうしたらまた会えるかもしれないね。」
そう言って、ごく短いトライアルレッスンは終わった。
私は満足だった。娘も頑張ったし、父親も満足だった。こんな一流の学校にバイオリンで入れるとは思ってもいなかったのだ。つまり入れるつもりすらなかった。
……
しかし今日閃いたのは、彼女の横転ポイントは間違えなく、このトライアルだったということだ。
あれが、親から受けた強制の最たるものであり、それは5歳の時からずっと握らされて来たバイオリンという強制の総集編のような力を持って、彼女の意志、いや反抗心を目覚めさせた。
その後、彼女は才能援助試験から、いよいよ音大準備コースに移行すべき試験を受けるよう言われていたのだが、その試験を更新できなかった。やる気がなく、棒立ちに、不機嫌な顔をして、単に舞台に上がったというだけの、見せつけるような酷い試験だった。親として恥をかかされたと言っても良い。
試験のために、彼女は一切練習をしなかったし、バイオリンのレッスンを私の知らないところでサボってさえいたのだ。
言うことを聞き、母親の趣味の服を着て、宿題もし、バイオリンの稽古もして、理論もオーケストラもやって来た彼女が、突然転がるようにすべてをなげうった。
間もなく成績は急降下になり、私との関係は悪化し、彼女と私との確執がいよいよ表面化した。
思春期というせいもあるが、つまり人格形成の時期が来て、彼女の「消極的」な姿は消え去ってしまった。代わりに、猛烈な反抗心が芽生えたのである。
抑圧されていたものの、それでも母親の言うことに依存し、しがみついていれば良いという安心を彼女は求めていた。あまりの感受性に、しかし重圧感も自分の思いも、気分すら一切表現することのできない子だった。その彼女がこれを機に、極端な内気さに突然別れを告げたのだ。
その後のことは、ここに記録するまでもなく、今現在もなお進行中である。
彼女のその後の進展は、また改めて書くべきであろう。
今日父母会に行ってあの教授の名を聞かなかったら、息せき切って子供達の夕食のために買い物に急いでいた先ほど、あの出来事こそ彼女のターニングポイントならぬ横転ポイントだったとは気づかなかったはずだ。
実は、あの教授のあの言葉は、彼女には信じられないほどの屈辱だったのである。
やりたくもないバイオリンを10年近くやらされ、受けたくもない試験を受けさせられて、半ばできの良い子さながらに扱われる、言いようのない苦痛と違和感。
そして挙げ句の果てに、世界でも有名なこの教授の公開レッスンにまで強制されて、そしてかけられた言葉に、彼女は文字通り打ちのめされた。
もちろん、こうした今までの道筋があったから、屈辱と受け取ったというのもある。
しかし、真実は違うのではないか。
あの子供目線で、優しい声音を持った教授こそ、実は魔物のように厳しい人間なのだ。
彼のあの言葉は、言うなれば「君など話にならない」という言葉に、人間としての社交能力を持った人の親切な仮面をつけた言葉でしかなかった。
それを勘の鋭い娘は親より早く悟ったのである。
そして、それは必ずしも必要な最後通達ではなかった。親に強制されて来た道のりに対する最後通達である。
それをまた「意訳」すれば、「こんなものは止めて、君の道を歩みなさい」ということであったのだ。
「君がこの学校に来たいのなら、練習しなさい。」これが全てを言い表している。
馬鹿な素人の親が、何の常識もなく、こんな先生に縋り付くように連れて行った、そういう図式だったかもしれない。そして実際私たちは、何の期待も、何の脈略もなく、祭りの一つで行った訳だが、「無意識」という領域の話になると、父親があれだけ固辞して譲らなかったのは、受動的な彼女に「さあ大人になりなさい」という切り札を与えた、ということもできるかもしれない。そして自分こそ誰にも劣らぬプロの演奏家である彼は「無意識」に、この教授の娘に言うだろう言葉を知っていたのである。やはり、何の勝手も知らない素人の親というはずはないのである。
そして、買い物に汗を流し、早歩きに家に急いでいる間、あれだけ受動的だった彼女には、強制という形でしか、行動を促進することはできなかったのだ、という言い訳めいた、しかしながら真実を自分に言聞かせつつ、やはり申し訳ない、申し訳ない、申し訳なかった、そう思ったのである。
子供に期待しない親はあり得ない。
子供に期待するなということは不可能である。
だからこそ、この言葉を常に意識して、子供には夢を託すまい、私の価値観を塗り付けまいと思って来たのに、それでも私はおとなしい娘だからこそ、塗り絵のように彼女を扱っていたのだ。
そして、指一本人前で動かすことさえ、大げさすぎて恥ずかしいという異常な内気さを見せていた彼女の、内なるエネルギーと良い意味も含めたエゴは、誰にも勝るとも劣らぬほど強烈である。
人間とは、本当に摩訶不思議だ。
子供の小さかった時分に、私は子育ての失敗を幾つも犯したろう。
でも、精一杯だったのよ、ママも、という情けない一言で許しを請うことしかできない。
今の私の姿は、私の親としての失敗部分の結果である。
他の子供とは順調であるのに、なぜ、彼女とは?
そういう疑問もあるが、人間には相性というものもあると、いくら親子でも実感せざるを得ない。
しかし、彼女のような存在が私になにを課題として突きつけているかと言えば、親として彼女の強さに負けている私が、自分を鍛えるべきだというメッセージでもあるし、自由人の振りをして、相変わらず既成価値に捕われている私を、本当の意味で解放するための、象徴的対戦相手として存在しているということは薄々分かっている。
難しい娘、確執の深いこの関係を恨むより、挑まれた闘いを親として健全に受けて全うするしかない。
それが、彼女に対する、許してね、というメッセージになるのではないか。
ということで、備忘録としたい。
2010年11月16日火曜日
シンプルで古臭く、高価ではないのに、ずっと暖かい匂いのするもの
先日末っ子の誕生日の日、大好きな女の子のおじいちゃんが迎えに来た。
彼女は賢い子供で、息子と同い年には見えず、世間に通じており、身の回りのことも、人の世話までできるような良い子なのだ。
そして、そんなに社会的に地位の高くない家庭の子供が、向上心から習い事をする場合、大体縦笛かギターなのだが、彼女は熱心にギターのレッスンに通い、いくつのレパートリーがあって、毎日何分練習するかをとつとつと話してくれた。
彼女は、私たちの家からそう遠くない高層団地に住んでいる。
この界隈は、ジェントリフィケーションが進み、最近の家賃の高騰ぶりで、今までになかったような憎らしい顔ぶれの住民が多くなった。
その中でも、このいわゆる構造がタイル張りのPlattenbauと呼ばれる高層団地は、DDRの生き残りとして、ところどころに聳え立っている。
何年もかけてお金をため、時にくじ引きのような幸運にめぐり合ってやっと手にしたアパートの同じ棟、そうでなければ、同じ団地群に一族が集まって住む様は、当時のDDRの夢の縮図をセピア色のレンズを通して見ているようなのである。
今ではその中にいくつもあった保育所(DDRでは女性の労働は当然であった)も閉鎖され、団地の一階にあった想像のできないほど飾り気のない、飲み屋やヴェトナム人経営の軽食店もどんどん閉鎖されてしまった。
この女の子は、そんな団地に生まれ育ったのである。
おじいちゃんも、お母さんも、この団地で壁が開くのを見つめ、横柄な西ドイツ人が引っ越してきて、ロハスな環境を築き上げ、彼らを端っこに追いやってしまったのを見つめてきたのである。
おじいちゃんは、玄関のベルを鳴らすと、内気そうに階段を上って私の家の戸口まで来た。
白髪にひげを生やし、丸メガネをかけたさまは、団地群に住む荒々しい労働者のイメージとは違い、温厚なおじいさんそのものであった。
握手をしたその手は暖かく、孫を見る目は細い。
私のような外国人を見れば、何らかの反応を示すものも少なくはないのだが、このおじいさんに私の肌の色も目の色も、珍しいはずであるが、まったく刺激を与えないらしい。
ただただ、孫娘がジャケットを着込んで、楽しかったよ、おじいちゃんと言って話をしているのを見ている。
寂しさが漂うほどの、暖かさがそこにあった。
まるで、おじいさんが、団地の小さな居間にある、自分の価値すらあまりない切手コレクション、いや80年代のオンボロテレビ、もしくはクロスワードパズルの雑誌かなにかの一場面を切り取って持ってきてくれたような、家庭の温かさがそこにはあった。
グリーンエネルギーの学会論文を今晩は訳していたのだが、今後の食生活、もしくは技術開発の価値観を率いてゆくのは、ロハスであるということを見逃すわけにはいかない、という行をタイプしながら、何かしらいい気分ではなかった。
ロハスの環境意識の高さ、いや環境以外にも、あらゆるものに対する意識の高さと、高収入グループとしての購買能力は流石なものであろう。
けれど、私はそんなところでぬくぬくした子供時代を送っている子供には、何の感銘も受けない。
この少女のように、小さな、そのぬくもりを少しも感じうけるセンサーのない人間には、到底何の話をしているのかさっぱり分からないほどの、小さく地味で、色あせた、古臭い匂いのする居間にある一家団欒の暖かさこそ、それこそ涙がこぼれるほど、懐かしく、手にしたくて憧れてしまうものなのだ。
DDRは過ぎ去った。
けれど、世間が冷たいばかりに、冷たくなっていく人間とは反対に、世間が冷たくとも、自分の暖かさを手のひらの中に大切に保管して、家族のためだけにそれを分け与え、小さな小さな平和と団欒を保ってきた人々もいるのである。
先日のおじいさんは、きっとそんな人間の一人で、彼女は、お金がなくても、大学に行くチャンスがなくても、お父さんやお母さんが別れていても、自分の幸せをきちんと手のひらに載せてもらって、それを大切に閉じて、暖めながら生きているのだろうと、そういうことが分かるのだった。
もう5日も経つというのに、私はそのおじいさんの存在に、未だに感動しているのだ。
私が求めているのは、そんなに小さなものなのに、それだけがどうしても手に入らないような、到底簡単には手にすることはできないんだと実感せざるを得ない、何か貴重なものらしい。
シンプルで古臭く、高価ではないのに、ずっと暖かい匂いのするもの。
彼女は賢い子供で、息子と同い年には見えず、世間に通じており、身の回りのことも、人の世話までできるような良い子なのだ。
そして、そんなに社会的に地位の高くない家庭の子供が、向上心から習い事をする場合、大体縦笛かギターなのだが、彼女は熱心にギターのレッスンに通い、いくつのレパートリーがあって、毎日何分練習するかをとつとつと話してくれた。
彼女は、私たちの家からそう遠くない高層団地に住んでいる。
この界隈は、ジェントリフィケーションが進み、最近の家賃の高騰ぶりで、今までになかったような憎らしい顔ぶれの住民が多くなった。
その中でも、このいわゆる構造がタイル張りのPlattenbauと呼ばれる高層団地は、DDRの生き残りとして、ところどころに聳え立っている。
何年もかけてお金をため、時にくじ引きのような幸運にめぐり合ってやっと手にしたアパートの同じ棟、そうでなければ、同じ団地群に一族が集まって住む様は、当時のDDRの夢の縮図をセピア色のレンズを通して見ているようなのである。
今ではその中にいくつもあった保育所(DDRでは女性の労働は当然であった)も閉鎖され、団地の一階にあった想像のできないほど飾り気のない、飲み屋やヴェトナム人経営の軽食店もどんどん閉鎖されてしまった。
この女の子は、そんな団地に生まれ育ったのである。
おじいちゃんも、お母さんも、この団地で壁が開くのを見つめ、横柄な西ドイツ人が引っ越してきて、ロハスな環境を築き上げ、彼らを端っこに追いやってしまったのを見つめてきたのである。
おじいちゃんは、玄関のベルを鳴らすと、内気そうに階段を上って私の家の戸口まで来た。
白髪にひげを生やし、丸メガネをかけたさまは、団地群に住む荒々しい労働者のイメージとは違い、温厚なおじいさんそのものであった。
握手をしたその手は暖かく、孫を見る目は細い。
私のような外国人を見れば、何らかの反応を示すものも少なくはないのだが、このおじいさんに私の肌の色も目の色も、珍しいはずであるが、まったく刺激を与えないらしい。
ただただ、孫娘がジャケットを着込んで、楽しかったよ、おじいちゃんと言って話をしているのを見ている。
寂しさが漂うほどの、暖かさがそこにあった。
まるで、おじいさんが、団地の小さな居間にある、自分の価値すらあまりない切手コレクション、いや80年代のオンボロテレビ、もしくはクロスワードパズルの雑誌かなにかの一場面を切り取って持ってきてくれたような、家庭の温かさがそこにはあった。
グリーンエネルギーの学会論文を今晩は訳していたのだが、今後の食生活、もしくは技術開発の価値観を率いてゆくのは、ロハスであるということを見逃すわけにはいかない、という行をタイプしながら、何かしらいい気分ではなかった。
ロハスの環境意識の高さ、いや環境以外にも、あらゆるものに対する意識の高さと、高収入グループとしての購買能力は流石なものであろう。
けれど、私はそんなところでぬくぬくした子供時代を送っている子供には、何の感銘も受けない。
この少女のように、小さな、そのぬくもりを少しも感じうけるセンサーのない人間には、到底何の話をしているのかさっぱり分からないほどの、小さく地味で、色あせた、古臭い匂いのする居間にある一家団欒の暖かさこそ、それこそ涙がこぼれるほど、懐かしく、手にしたくて憧れてしまうものなのだ。
DDRは過ぎ去った。
けれど、世間が冷たいばかりに、冷たくなっていく人間とは反対に、世間が冷たくとも、自分の暖かさを手のひらの中に大切に保管して、家族のためだけにそれを分け与え、小さな小さな平和と団欒を保ってきた人々もいるのである。
先日のおじいさんは、きっとそんな人間の一人で、彼女は、お金がなくても、大学に行くチャンスがなくても、お父さんやお母さんが別れていても、自分の幸せをきちんと手のひらに載せてもらって、それを大切に閉じて、暖めながら生きているのだろうと、そういうことが分かるのだった。
もう5日も経つというのに、私はそのおじいさんの存在に、未だに感動しているのだ。
私が求めているのは、そんなに小さなものなのに、それだけがどうしても手に入らないような、到底簡単には手にすることはできないんだと実感せざるを得ない、何か貴重なものらしい。
シンプルで古臭く、高価ではないのに、ずっと暖かい匂いのするもの。
2010年11月9日火曜日
反権威主義教育に一言申す
私は、まるっきり教育の素人である。教育論や教育学などを履修したらしいが、そんなものの内容すら講義室の様子すら覚えていない。
それでも、子供三人を持つと教育テーマとは縁を切れない。今日は、最近あまりにも身近に感じている反権威主義的な教育について、だからどうだと意見をまとめて、論じるまでは無理だが、思うままを書いてみたいと思う。
音楽教室で教えていると、時々信じがたい子供を目にする。練習する、しないの云々ではなく、とにかく場所にそぐわない大声を出し、「ここから弾いて、もう一度やってみて、指はこうよ、この音が間違っているわよ」といった指摘に、いちいち「もう~やだ~・やりたくない~・間違ってない~!・あんたが間違ったんだよ!・がはははは~」のいずれかの反応が入る。
こちらは、流石に3分後には怒鳴るのだが、怒鳴られたという状況が見えていないらしい。
つまり、音楽の先生は、楽器を教えてくれる人なので黙って習う、という姿勢はゼロで、この人にも私は何を言っても許されるし、ここでも私は家でいる時と同じような声を出していいのだ、という感覚しかない。
流石に、小学校1~3年生ぐらいまでだが、それにしてもひどすぎて頭に血が上る。
さらに、少し上級になると、たちが悪い。
「この曲はやりたくない・ここそうやって弾いたじゃん!・もう一度は弾きたくない・ここからはできないから、最初から弾く・こんなリズム書いた人がおかしい・ちがうよここの音指差したじゃん、この隣のやつ、だからそこから弾いたんじゃない・(手や指のフォームを直すと)私の好きなように弾きたい」
声量や爆笑などの問題は解決するが、さらに言い訳や好き勝手に拍車がかかる。
そして、とうとう私の堪忍袋の緒が切れると、私は声を荒らげたり、脅しをかけたりするわけでもないが、冷酷な人になる。そして楽譜を閉じて出て行きなさいと言ったり、今までの態度が、どれほど失礼なものか、その子の真似をしてみせ、こういうことをあなたは人に対してやっているのよ、あなたがそうやられたらどう思うの?と突きつけてやる。
その際に、大人に向かってそういう言い方はない、先生に向かってそういう失礼なことは言わない、と口をついて出そうになるのだが、そんなこと、この子供たちは聞いたこともないし、親から文句が出るのが恐ろしい。
「そういう上から押し付けるような言い方は止めてください。」
言われたことはないが、言われそうになったことはある。
例えばチューインガムをかんだまま弾くので、冗談じゃない、口を動かしながら、指も動かして楽譜も見るなんて無理でしょ、と言えば、ガムを噛んで唾液を分泌させると集中力が増すと返してくる。
授業中にもやっているの?と聞けばそうだと言う。先生は何も言わないの?と聞いても別にだそうだ。
そりゃあ、どの先生も何も言わないとは思えないが、このような反権威主義、子供を自由活発に、自分の意志を尊重し、決して強制することなく教育する、という風潮があまりにも強すぎる。
だから、そうして私に冷酷に怒られた子は、突然大声を出して泣き出し、楽譜をかっさらって、さようならも言わずに出て行くか、下を向いて知らぬ顔をして解放されるのを待っているか、怒られたことすら自覚できずに笑い続けて追い出されるかに別れる。
さて、親たちに目を向けてみよう。
どのような親なのだろうか。放任主義で、自分勝手、自分のプライベートや仕事に忙しくて、どうにも時間がない。子供より私の人生なのだろうか。
それは正反対なのである。
親たちは、揃って高学歴で、非常に教育意識が高い。無害な木製のおもちゃを与えて育て、夫婦で高収入の仕事につき、街中なのに一軒屋のような家に住み、ベビーシッターも複数抱えているような家庭がほとんどである。
そして、母親たちがレッスンを一緒に聴くと、事態は更に悪化し、妹が平気でお菓子を食べ出したのを見て、レッスン中の姉はずるいと号泣し、母は、「○○ちゃん、そんなに泣くのはおよしなさい。アイス食べに行くんでしょう?ママはもう聞きに来ないわよ」、などとひそひそ声でたしなめているのである。利口で美しい母親だが、私なら下の子のお菓子をもぎ取って、その子を抱きかかえて謝って、即刻退室するだろう。未だにそれが最良の選択だと思うが、その母は号泣し、周囲の部屋に迷惑をかけ、レッスン妨害しているその子をもてあましているだけである。
また、4歳児が来たので、鍵盤に慣らせようと色々と違った方法をその子に教えていたのだが、その子は、突然ピアノのいすに飛び立って、踊りだしたり、鍵盤をがんがん叩く。
母は、私のほうを見て、「この子、今日水泳の時間があったので今日はもう無理みたいです」という。「無理って、毎週この時間だし、たかが30分だから、しっかり座ってもらえばできることですから」と答えると、「でも強制しても意味がない」と。「でも強制しないと、この年頃の男の子って、いつまでも座らないじゃないですか」といえば、「いえ、この子、疲れていなければ、おとなしくて集中力のある良い子なんです」という。「それは疑ったことはないですけど、ここは時間も少ないし、ピアノの前に座って話を聞いて、いわれたことをやるのが基本中の基本で、それができないなら、今はレッスン受けるのは無理でしょう」と答えた。そうしたら、それ以来私のやるようにやらせてくれるが、それでもその坊やも猿の気が抜けない。
これはほんの一部である。
子供の好きなように、子供がどれだけの分量をこなし、これ以上無理かを決める。強制はしないというスタンス。
私には理解できない。私は強制され、無理強いされ、仕方なくやったから身についたことがどれほどあったろうと言う記憶しかない。そして自らやりたくて努力し覚えたこともあるのだが、強制されて覚えたことの量にはかなわない。量ではなく質だと言われれば、確かに自主的な方が記憶も鮮明かもしれないが、小さい子は、好きにどうぞだけでは、彼らの不安が膨張するばかりにもなり兼ねない。
それで、耐性がなく、すぐに泣いてしまったり、レッスンを止めてしまうのだ。
はっきり言おう。
このような子供たちの中で、しっかり着実に、まともに上達している子はいない。
みんな、でれでれとただ来ているだけで、そのただ通っている範囲内でしか上達しないのである。練習も誰にも強制されずに、家でも好きなことを自主的にやるように言われるのだろうか。
とにかく、大きい声で怒らない、一方的に威圧的に否定しないということは、教育でも大事だと思うのだが、社会はそんなに甘くない。独立自尊が崩壊することもあれば、その根拠なき自尊心がお門違いであることも多くある。
もっと成長すると娘の世代になる。思春期である。
娘の親友は、4人の兄弟がいて、すべて父親が違う。そして母親は、最近レスビアンになったのである。見かけもまともで、極普通の幼稚園の先生をしている。私自身ホモセクシュアリティには、一切の偏見はない。しかしながら、彼女の中で、「Emanzipation解放」という言葉が大きな価値を持っていることは、その生き様を見ても一目瞭然だ。
その娘が、心の不安を訴えるらしい。父親には会えないし、兄弟と言っても半分の兄弟だし、母親の彼女も同居している。彼らのセクシュアリティにも思いを馳せるだろう。
そして、この可愛い娘が、パーティーに行くというと、
「好きなだけアルコールを飲んで、色々なものを試し、早いうちに自分のアルコールの限界を勉強しなさい。タバコもなにも、すべてやってみれば良い。それでもあなたが本当に必要だ、欲しい、と思えるなら、やればよい」
と言う考えであるらしい。私の娘も証言したし、私もその母親と何度も電話してこの耳で聞いている。
この娘たちは若干15歳である。
その娘の精神不安定のために、彼女は一回70ユーロを投入してセラピストに行かせているという。思えば、こんな境遇ではそれは良い考えなので反対しないが、もうひとつは、この学校で成績が悪いのは、あの旧東独の制度の残った教師の授業のせいだと言い、娘を諭すこともなく、私立の学校へ行かせてあげると、娘と二人で見学中で、娘が選べば良いと計画しているらしい。
私の言いたいことは、このような解放主義的、反権威主義的教育の影響から出てきた錆の部分を、一生懸命に補おうとして金銭や労力を投入しているようだが、その錆が出る前に、もう少しやりようもあるのではないかと思うのだ。
アルコールもやれ、タバコもドラッグもやってみれば良い、成績さえ正常なら同棲したって良い、苦しければセラピストを紹介するわよ、嫌なら転校したって良い…。
極端に見れば、これでは子供はどうしていいか分からないのではないか。実際は、二人三脚とも言え、父がいないので、文字通り仲の良い母娘の硬い絆があるに違いない。愛情も満ち溢れているだろう。けれども、どこか私は反権威主義になじめないのである。
下記に、独語WikiからAntiautoritäre Erziehung(反権威主義的教育)という項目を抜き出した。拙訳である(ちなみにこの用語の項目は独語・蘭語しかない)。
これをざっと訳しながら、アレルギー的に、この教育には従えないと思いつつ、私自身の問題児である娘の性格を考えたとき、彼女を十分に抑圧的要素のある伝統的教育に押し込めることはまったく不可能であろう、という別の観点での確認をしてしまった。彼女は、抑圧的従属的教育の中で、明らかに謀反を起こしたり、ついていきたくないと拒否したり、なじめないでいるわけだが、そうして落ちこぼれていくならば、本当に落ちこぼれでしまう前に、この反権威主義でも解放主義でもいいから、教育として形態を成しているものを基盤とした学校に入れないと、後で取り返しがつかぬかもしれないと言う不安が出てきたのである。
そういう私は、まさに「伝統的・権威主義教育」の落とし子であり、独立自尊はおろか、決断力もなければ、自分の決心したことこそ間違えであるに違いないと言う不安に襲われてしまうのである。
これが、反権威主義教育を受けていたとしたら、あの子は転校しかない!と言い切れるのであろうか。
一概に良いとも言えず、一概に悪いとも言えない。
しかし、ある一定の子供たちは、この教育方針にしか従えないと言う場合もあるらしい。そして伝統的抑圧的教育を押し付けるよりも、いっそフリースクールのようなものに入れた方が、予後が良いのではないかという印象がある。
それにしても、音楽学校に来ている問題児たちは、そんな重症な子は少なく、単にビシッと言われさえすれば、普通にできるというぐらいだろう。ある程度の調教は、それは特に、他人に対する態度として、絶対に施される必要があると思う。社会というのは、何らかの犠牲を払わねば所属できないのは、昨日書いたとおりだが、この子達は、オレ様だぜと言って、この異常な(これはまた後日)界隈を闊歩しながら勝手に振舞ってしまうのだろうか。
いくらなんでも、できの悪い私の猿どもでさえ、音楽のレッスンと言えば、一言も発せずに先生の前で緊張しきって言われるがままに、人形のように弾いていたというのは事実である。
そして、これは余談だが、今日いつまでたっても練習せずに、1年以上やっているのに、さらに一切の練習をしなくなったのでバイエルの冒頭部分の実力に舞い戻ってしまい、それ以来上達できない子がいる。明るい子で可愛い。利口なので回転が遅いから上達が滞っているとも思えない。嫌なら好きなことやりなさい、止めてもいいのよ、と言うと、どうしても来たい、やめたくないという。
今日帰り際に、
引っ越すかもしれないんだよ、という。
この界隈だけど。ママがボーイフレンドと別れたので、どっちかが家を出ないとならないの。弟なんて一歳にもならないのに、自分のパパがいなくなっちゃうの、可哀想。わたしは火・金に、私のパパのおうちなの。
と言うではないか。
週二日、パパのうちに寝泊りし、学校へ行き、家には半分の弟がいて、せっかくママのボーイフレンドとの暮らしも落ち着いたのに、別れるから引っ越すと言う。
まあ、私のたどった道のりと似ているのだが、そんな背景で、彼女のピアノが、断然ひどくなり、下降の一途だということは、非常に納得ができた。家庭に落ち着きがなければ、練習などできるものではない。
これは余談だが、この界隈では、父親と住んでいる子供は殆ど皆無に近い。
さて、話は反権威主義にもどるが、興味のある方は是非、以下の記事を参照してください。
それでも、子供三人を持つと教育テーマとは縁を切れない。今日は、最近あまりにも身近に感じている反権威主義的な教育について、だからどうだと意見をまとめて、論じるまでは無理だが、思うままを書いてみたいと思う。
音楽教室で教えていると、時々信じがたい子供を目にする。練習する、しないの云々ではなく、とにかく場所にそぐわない大声を出し、「ここから弾いて、もう一度やってみて、指はこうよ、この音が間違っているわよ」といった指摘に、いちいち「もう~やだ~・やりたくない~・間違ってない~!・あんたが間違ったんだよ!・がはははは~」のいずれかの反応が入る。
こちらは、流石に3分後には怒鳴るのだが、怒鳴られたという状況が見えていないらしい。
つまり、音楽の先生は、楽器を教えてくれる人なので黙って習う、という姿勢はゼロで、この人にも私は何を言っても許されるし、ここでも私は家でいる時と同じような声を出していいのだ、という感覚しかない。
流石に、小学校1~3年生ぐらいまでだが、それにしてもひどすぎて頭に血が上る。
さらに、少し上級になると、たちが悪い。
「この曲はやりたくない・ここそうやって弾いたじゃん!・もう一度は弾きたくない・ここからはできないから、最初から弾く・こんなリズム書いた人がおかしい・ちがうよここの音指差したじゃん、この隣のやつ、だからそこから弾いたんじゃない・(手や指のフォームを直すと)私の好きなように弾きたい」
声量や爆笑などの問題は解決するが、さらに言い訳や好き勝手に拍車がかかる。
そして、とうとう私の堪忍袋の緒が切れると、私は声を荒らげたり、脅しをかけたりするわけでもないが、冷酷な人になる。そして楽譜を閉じて出て行きなさいと言ったり、今までの態度が、どれほど失礼なものか、その子の真似をしてみせ、こういうことをあなたは人に対してやっているのよ、あなたがそうやられたらどう思うの?と突きつけてやる。
その際に、大人に向かってそういう言い方はない、先生に向かってそういう失礼なことは言わない、と口をついて出そうになるのだが、そんなこと、この子供たちは聞いたこともないし、親から文句が出るのが恐ろしい。
「そういう上から押し付けるような言い方は止めてください。」
言われたことはないが、言われそうになったことはある。
例えばチューインガムをかんだまま弾くので、冗談じゃない、口を動かしながら、指も動かして楽譜も見るなんて無理でしょ、と言えば、ガムを噛んで唾液を分泌させると集中力が増すと返してくる。
授業中にもやっているの?と聞けばそうだと言う。先生は何も言わないの?と聞いても別にだそうだ。
そりゃあ、どの先生も何も言わないとは思えないが、このような反権威主義、子供を自由活発に、自分の意志を尊重し、決して強制することなく教育する、という風潮があまりにも強すぎる。
だから、そうして私に冷酷に怒られた子は、突然大声を出して泣き出し、楽譜をかっさらって、さようならも言わずに出て行くか、下を向いて知らぬ顔をして解放されるのを待っているか、怒られたことすら自覚できずに笑い続けて追い出されるかに別れる。
さて、親たちに目を向けてみよう。
どのような親なのだろうか。放任主義で、自分勝手、自分のプライベートや仕事に忙しくて、どうにも時間がない。子供より私の人生なのだろうか。
それは正反対なのである。
親たちは、揃って高学歴で、非常に教育意識が高い。無害な木製のおもちゃを与えて育て、夫婦で高収入の仕事につき、街中なのに一軒屋のような家に住み、ベビーシッターも複数抱えているような家庭がほとんどである。
そして、母親たちがレッスンを一緒に聴くと、事態は更に悪化し、妹が平気でお菓子を食べ出したのを見て、レッスン中の姉はずるいと号泣し、母は、「○○ちゃん、そんなに泣くのはおよしなさい。アイス食べに行くんでしょう?ママはもう聞きに来ないわよ」、などとひそひそ声でたしなめているのである。利口で美しい母親だが、私なら下の子のお菓子をもぎ取って、その子を抱きかかえて謝って、即刻退室するだろう。未だにそれが最良の選択だと思うが、その母は号泣し、周囲の部屋に迷惑をかけ、レッスン妨害しているその子をもてあましているだけである。
また、4歳児が来たので、鍵盤に慣らせようと色々と違った方法をその子に教えていたのだが、その子は、突然ピアノのいすに飛び立って、踊りだしたり、鍵盤をがんがん叩く。
母は、私のほうを見て、「この子、今日水泳の時間があったので今日はもう無理みたいです」という。「無理って、毎週この時間だし、たかが30分だから、しっかり座ってもらえばできることですから」と答えると、「でも強制しても意味がない」と。「でも強制しないと、この年頃の男の子って、いつまでも座らないじゃないですか」といえば、「いえ、この子、疲れていなければ、おとなしくて集中力のある良い子なんです」という。「それは疑ったことはないですけど、ここは時間も少ないし、ピアノの前に座って話を聞いて、いわれたことをやるのが基本中の基本で、それができないなら、今はレッスン受けるのは無理でしょう」と答えた。そうしたら、それ以来私のやるようにやらせてくれるが、それでもその坊やも猿の気が抜けない。
これはほんの一部である。
子供の好きなように、子供がどれだけの分量をこなし、これ以上無理かを決める。強制はしないというスタンス。
私には理解できない。私は強制され、無理強いされ、仕方なくやったから身についたことがどれほどあったろうと言う記憶しかない。そして自らやりたくて努力し覚えたこともあるのだが、強制されて覚えたことの量にはかなわない。量ではなく質だと言われれば、確かに自主的な方が記憶も鮮明かもしれないが、小さい子は、好きにどうぞだけでは、彼らの不安が膨張するばかりにもなり兼ねない。
それで、耐性がなく、すぐに泣いてしまったり、レッスンを止めてしまうのだ。
はっきり言おう。
このような子供たちの中で、しっかり着実に、まともに上達している子はいない。
みんな、でれでれとただ来ているだけで、そのただ通っている範囲内でしか上達しないのである。練習も誰にも強制されずに、家でも好きなことを自主的にやるように言われるのだろうか。
とにかく、大きい声で怒らない、一方的に威圧的に否定しないということは、教育でも大事だと思うのだが、社会はそんなに甘くない。独立自尊が崩壊することもあれば、その根拠なき自尊心がお門違いであることも多くある。
もっと成長すると娘の世代になる。思春期である。
娘の親友は、4人の兄弟がいて、すべて父親が違う。そして母親は、最近レスビアンになったのである。見かけもまともで、極普通の幼稚園の先生をしている。私自身ホモセクシュアリティには、一切の偏見はない。しかしながら、彼女の中で、「Emanzipation解放」という言葉が大きな価値を持っていることは、その生き様を見ても一目瞭然だ。
その娘が、心の不安を訴えるらしい。父親には会えないし、兄弟と言っても半分の兄弟だし、母親の彼女も同居している。彼らのセクシュアリティにも思いを馳せるだろう。
そして、この可愛い娘が、パーティーに行くというと、
「好きなだけアルコールを飲んで、色々なものを試し、早いうちに自分のアルコールの限界を勉強しなさい。タバコもなにも、すべてやってみれば良い。それでもあなたが本当に必要だ、欲しい、と思えるなら、やればよい」
と言う考えであるらしい。私の娘も証言したし、私もその母親と何度も電話してこの耳で聞いている。
この娘たちは若干15歳である。
その娘の精神不安定のために、彼女は一回70ユーロを投入してセラピストに行かせているという。思えば、こんな境遇ではそれは良い考えなので反対しないが、もうひとつは、この学校で成績が悪いのは、あの旧東独の制度の残った教師の授業のせいだと言い、娘を諭すこともなく、私立の学校へ行かせてあげると、娘と二人で見学中で、娘が選べば良いと計画しているらしい。
私の言いたいことは、このような解放主義的、反権威主義的教育の影響から出てきた錆の部分を、一生懸命に補おうとして金銭や労力を投入しているようだが、その錆が出る前に、もう少しやりようもあるのではないかと思うのだ。
アルコールもやれ、タバコもドラッグもやってみれば良い、成績さえ正常なら同棲したって良い、苦しければセラピストを紹介するわよ、嫌なら転校したって良い…。
極端に見れば、これでは子供はどうしていいか分からないのではないか。実際は、二人三脚とも言え、父がいないので、文字通り仲の良い母娘の硬い絆があるに違いない。愛情も満ち溢れているだろう。けれども、どこか私は反権威主義になじめないのである。
下記に、独語WikiからAntiautoritäre Erziehung(反権威主義的教育)という項目を抜き出した。拙訳である(ちなみにこの用語の項目は独語・蘭語しかない)。
これをざっと訳しながら、アレルギー的に、この教育には従えないと思いつつ、私自身の問題児である娘の性格を考えたとき、彼女を十分に抑圧的要素のある伝統的教育に押し込めることはまったく不可能であろう、という別の観点での確認をしてしまった。彼女は、抑圧的従属的教育の中で、明らかに謀反を起こしたり、ついていきたくないと拒否したり、なじめないでいるわけだが、そうして落ちこぼれていくならば、本当に落ちこぼれでしまう前に、この反権威主義でも解放主義でもいいから、教育として形態を成しているものを基盤とした学校に入れないと、後で取り返しがつかぬかもしれないと言う不安が出てきたのである。
そういう私は、まさに「伝統的・権威主義教育」の落とし子であり、独立自尊はおろか、決断力もなければ、自分の決心したことこそ間違えであるに違いないと言う不安に襲われてしまうのである。
これが、反権威主義教育を受けていたとしたら、あの子は転校しかない!と言い切れるのであろうか。
一概に良いとも言えず、一概に悪いとも言えない。
しかし、ある一定の子供たちは、この教育方針にしか従えないと言う場合もあるらしい。そして伝統的抑圧的教育を押し付けるよりも、いっそフリースクールのようなものに入れた方が、予後が良いのではないかという印象がある。
それにしても、音楽学校に来ている問題児たちは、そんな重症な子は少なく、単にビシッと言われさえすれば、普通にできるというぐらいだろう。ある程度の調教は、それは特に、他人に対する態度として、絶対に施される必要があると思う。社会というのは、何らかの犠牲を払わねば所属できないのは、昨日書いたとおりだが、この子達は、オレ様だぜと言って、この異常な(これはまた後日)界隈を闊歩しながら勝手に振舞ってしまうのだろうか。
いくらなんでも、できの悪い私の猿どもでさえ、音楽のレッスンと言えば、一言も発せずに先生の前で緊張しきって言われるがままに、人形のように弾いていたというのは事実である。
そして、これは余談だが、今日いつまでたっても練習せずに、1年以上やっているのに、さらに一切の練習をしなくなったのでバイエルの冒頭部分の実力に舞い戻ってしまい、それ以来上達できない子がいる。明るい子で可愛い。利口なので回転が遅いから上達が滞っているとも思えない。嫌なら好きなことやりなさい、止めてもいいのよ、と言うと、どうしても来たい、やめたくないという。
今日帰り際に、
引っ越すかもしれないんだよ、という。
この界隈だけど。ママがボーイフレンドと別れたので、どっちかが家を出ないとならないの。弟なんて一歳にもならないのに、自分のパパがいなくなっちゃうの、可哀想。わたしは火・金に、私のパパのおうちなの。
と言うではないか。
週二日、パパのうちに寝泊りし、学校へ行き、家には半分の弟がいて、せっかくママのボーイフレンドとの暮らしも落ち着いたのに、別れるから引っ越すと言う。
まあ、私のたどった道のりと似ているのだが、そんな背景で、彼女のピアノが、断然ひどくなり、下降の一途だということは、非常に納得ができた。家庭に落ち着きがなければ、練習などできるものではない。
これは余談だが、この界隈では、父親と住んでいる子供は殆ど皆無に近い。
さて、話は反権威主義にもどるが、興味のある方は是非、以下の記事を参照してください。
反権威主義教育とは、反抑圧的且つできるだけ強制的ではない形態の子供教育を指している。「伝統的で抑圧的な国家教育」とは反対に位置しているようであるが、 放任主義の姿勢ともはっきり異なっている。子供たちは、独立自尊且つ創造的で、社会性と困難と向き合う能力を備えた人格に成長するべきだと言う考えである。その目標も、それに至るまでの過程も、今日の教育に継続的に影響を与え続けている。反権威主義教育は、権威主義教育に反対するものではなく、子供の自己啓発を不要に抑圧すること、つまり権威的人物とシステムに対抗する姿勢をとっているだけである。
反権威主義教育の成立
この思想は、 Alexander Sutherland Neill と Wilhelm Reich によって、すでに1920年代に築かれ、60年代の学生運動の最中に新たに再燃し、近代の教育を構成する一部となった。学生運動と議会外の反対派らの活動による結果、教会の青年組織、その他の教育関連機関などが生まれ、さらに既存の権威主義と認識されている教育に対する議論や 代替モデルが発展していった。「反権威主義教育運動」という概念は、非常に異なる理論家・実践家による影響を受けているため、簡単に定義することはできない。つまり人道主義の伝統に属するAlexander Sutherland Neill 、 Hartmut von Hentig、 Janusz Korczakらの改革教育者、Paulo Freire 、Ivan Illichら救済教育家、更に左翼または精神分析理論 (例 Lutz von Werder 、 Otto Rühle)などの人物が影響を与えてきた。「反権威主義教育」へ所属しているかどうかは、実際に活動している現場での定義、ならびにこの運動の批評家の定義によって異なってくる。この位置相違が「反権威主義」の概念を明確にする決め手となった。「反権威主義」運動の一部が、(市民階級の)権威に反対する声として理解される一方、別の討論では、権威者に反対し、民主主義社会を追い越した教育形態に向かいつつある教育が発展したという議論が繰り広げられるようになった。子供たちは、好きなことだけを行うことができる、あるいは行うべきであるという意見もあるため、一般社会では、無秩序な「教育」としてのイメージが一部で生まれるようになった。指導者および教育者の中には、いわゆる放任主義教育を追い求める者さえあった。他の教育法の中でもとりわけ青少年の活動、キャンプ教育または冒険体験教育などにおいても、共同決定と自己決定を重視した。
この概念を明確にするために、「抑圧の少ない」「反権威主義的」「解放的」といった用語は、すべてこれらのグループの中で形成されたことを述べておく。一般的には、これらの相違は殆ど認識されることはないが、一部では反権威主義が権威者と伝統的教育者を批判したことへの反応として、意識的に誹謗されることもある。
最後にすべての反権威主義運動においては、性教育のタブーも解放されたということを付け加えておく。今日の反権威主義教育当時発展したメソッドの多くは、現在の教育でも継続して生き残っている。しかしながら反権威主義教育という概念は今日、 広範囲において社会的討論の枠から消え去ってしまい、解放的教育という概念に統合されてしまった。独立自尊且つ創造力豊かで、社会性と困難に立ち向かう能力に優れた人格は、今日殆ど当たり前のこととして受け止められている。特に、女子活動、プロジェクト方式の授業、体験教育、フリースクール、オルタナティブ(自己管理による)スクール、アクティブスクール、アドベンチャー公園、オルタナティブ(自己管理による)幼稚園、フリースペース教育、改革教育、子供共和国などの分野では、顕著な傾向である。反権威主義教育の価値に従う姿勢は、多くの現場で目にするが、実際に教育実践としては、政治的立ち位置によって様々に評価される。批評家は、3つに分類された学校制度を保持している点を取り上げて、これでは構造も内容も個人主義的な教育に反しているため反動的であるだけだと批判している。理由としては、未だに存在している試験、成績表、なんらかの卒業証明書をめぐる思考を挙げている。その他、Lob der Disziplin (規律称賛)という本を取り上げ、これこそ反権威主義教育の掲げる目的に到達するための唯一正しい教育法であるとする声も出ている。更に社会は規則と職業などの従属によって規定され、学校制度はそれらを学ぶために、適した場所であるという指摘もある。社会のルールを守ることができて初めて、自己決定による人生が可能であるという理由による。教育も、原則的にはこの軸上にあるはずだが、女子活動、プロジェクト形式の授業、体験教育、そしてオルタナティブスクールなどで見られるように、一部では反権威主義教育に明らかに関連している様々な思想、メソッドが受け継がれている。
左派生徒活動などの興味深いグループは、今日「解放主義的教育」もしくは「解放主義的教育任務」という言葉を表明している。
2010年6月2日水曜日
音楽への道は過酷である。
やるからには、その辺の音楽教師で良いなどという気持ちでは、鄙びた町の片隅の教師にもなれない。芸術の一部であるにもかかわらず、現実は競争に競争を重ねた世界である。
スポーツとの違いはどこにあるかと聞きたい。
また表現といったって、内面に向かう声を音に聴く耳を持った人間は少なく、教師、教授クラスだって、そんな耳を持たないものが大半である。
所謂競技的な教育は、楽譜に書いてあるダイナミクスを大げさに身体で表現し、楽譜を忠実に聴き取れるというレベルであれば良いのである。それが音楽性といわれるもので、和声を汲み取っているか、本人にしかわからぬ程の、実に繊細な音質の変化、音符の間隔、合間の取り方などは、学生である間は、無視したとしても、楽譜に忠実に、大げさな強弱表現をして、大きく体を動かして舞台で堂々と演奏する能力こそ、期待されているのである。
さて、息子は、音楽のエリート校といわれる学校に通っている。自慢でもなんでもない。むしろあんなところに入れた親として、責任を感じている。
その学校で、バリバリに体育会系、つまり学生、生徒の「出来」栄えで、自分のキャリアを証明する教授の門下に入り、全くのダメ息子、音楽性ゼロといわれているのが、うちの息子である。
私は、有名であるとか、テレビなどの露出メディアだとか、そういうメディアに出演している演奏家との共演などを出来るだけ断り続けて、地味に徹し、マスメディアの価値観に、絶対に自分の芸術を持ち込まないという彼の父親と共に学び、共に暮らしてきた人間である。
息子の音楽性を聴く耳は、教授のそれとは真反対の価値観に匹敵し、まったく接点がない。教授が才能あるという子供達こそ、ロボットのように楽譜の強弱をつけて、見せる音楽をするために身体を動かして、絶対に間違えない「安定性」を最強の武器にしている。
私にしてみれば、その子たちの音楽を聴いて、一瞬たりとも、このような繊細な感性はすごい、このような深い情景が聞こえてきたのは初めてだ、といったような感想を持ったことはない。「すごいね、君のテクニック。ドイツ製のロボットのできは、最高レベルで、これなら野太い音で、素晴らしい土のにおいのする完璧音楽マシンになるね。」と言うお墨付きを与えるぐらいである。
息子のは、貧弱で、テクニックも危うく、比べてば見劣りがし、まったくこの怠け者は、聞いているものをひやひやさせる!と、こちらの怒りも心頭なのである。
しかし、音楽への感性、音への感性と言うものがあるとすれば、この息子なのだ。
バリバリと、割れるような野太い音で安全に演奏し、スポーツ選手のような、筋肉質な野心で、負けじと迫ってくる演奏では、私の心は動かない。競技を終えた後、なかなかでしたねという、技術への感心は出てきても、それは音楽だったと言われると、すっかりハテナ印が頭上を飛び交うほど、音楽であったと言う実感がないのである。
息子は、殆ど気付かないポイントとやり方で、感じていることを音にしているのが聞こえる。この子には才能があるなと、「聴く耳」にはわかるのである。
ところが、この怠け者と、この自信のなさから来る不安定性と、このときに繊細すぎる性格では、この過酷なスポーツの世界を生き抜くことは出来ない。
不本意であるが、勝ち抜くのは上述の野太い子供達である。
その中から時々、本物が出るが、そんなのは100分の1ぐらいで、殆どは凡庸な才能をどう扱うかという問題になる。
凡庸な才能と言えば、野太い子達も息子も似たような凡庸な才能である。
しかし、世界は聞こえるもの、見えるもの、迫り来るもの、そして「引っ込み思案」でないものを認めるのである。
それを愛するのがマスメディアの規準なのだ。
息子をこの学校から引っ張り出そうかと思っている。
あの子は、頭の良いしどこでもやっていかれる。
あんな凡庸で繊細な傷つきやすい才能で、このようなスポーツ競技系エリート校にいるのは、確かに難しい。
私は、その内情を知っているからこそ、昨今の主流音楽業界に吐き気がするからこそ、この辞めさせちまおうという病が出てきてしまう。
まあ息子に決心させよう。
あんなにスポーツ競技同様に、「一流音楽家の卵」を排出、あるいは生産し続ける教育とは何かと、段々はらわたが煮えくり返ってくるのである。
やるからには、その辺の音楽教師で良いなどという気持ちでは、鄙びた町の片隅の教師にもなれない。芸術の一部であるにもかかわらず、現実は競争に競争を重ねた世界である。
スポーツとの違いはどこにあるかと聞きたい。
また表現といったって、内面に向かう声を音に聴く耳を持った人間は少なく、教師、教授クラスだって、そんな耳を持たないものが大半である。
所謂競技的な教育は、楽譜に書いてあるダイナミクスを大げさに身体で表現し、楽譜を忠実に聴き取れるというレベルであれば良いのである。それが音楽性といわれるもので、和声を汲み取っているか、本人にしかわからぬ程の、実に繊細な音質の変化、音符の間隔、合間の取り方などは、学生である間は、無視したとしても、楽譜に忠実に、大げさな強弱表現をして、大きく体を動かして舞台で堂々と演奏する能力こそ、期待されているのである。
さて、息子は、音楽のエリート校といわれる学校に通っている。自慢でもなんでもない。むしろあんなところに入れた親として、責任を感じている。
その学校で、バリバリに体育会系、つまり学生、生徒の「出来」栄えで、自分のキャリアを証明する教授の門下に入り、全くのダメ息子、音楽性ゼロといわれているのが、うちの息子である。
私は、有名であるとか、テレビなどの露出メディアだとか、そういうメディアに出演している演奏家との共演などを出来るだけ断り続けて、地味に徹し、マスメディアの価値観に、絶対に自分の芸術を持ち込まないという彼の父親と共に学び、共に暮らしてきた人間である。
息子の音楽性を聴く耳は、教授のそれとは真反対の価値観に匹敵し、まったく接点がない。教授が才能あるという子供達こそ、ロボットのように楽譜の強弱をつけて、見せる音楽をするために身体を動かして、絶対に間違えない「安定性」を最強の武器にしている。
私にしてみれば、その子たちの音楽を聴いて、一瞬たりとも、このような繊細な感性はすごい、このような深い情景が聞こえてきたのは初めてだ、といったような感想を持ったことはない。「すごいね、君のテクニック。ドイツ製のロボットのできは、最高レベルで、これなら野太い音で、素晴らしい土のにおいのする完璧音楽マシンになるね。」と言うお墨付きを与えるぐらいである。
息子のは、貧弱で、テクニックも危うく、比べてば見劣りがし、まったくこの怠け者は、聞いているものをひやひやさせる!と、こちらの怒りも心頭なのである。
しかし、音楽への感性、音への感性と言うものがあるとすれば、この息子なのだ。
バリバリと、割れるような野太い音で安全に演奏し、スポーツ選手のような、筋肉質な野心で、負けじと迫ってくる演奏では、私の心は動かない。競技を終えた後、なかなかでしたねという、技術への感心は出てきても、それは音楽だったと言われると、すっかりハテナ印が頭上を飛び交うほど、音楽であったと言う実感がないのである。
息子は、殆ど気付かないポイントとやり方で、感じていることを音にしているのが聞こえる。この子には才能があるなと、「聴く耳」にはわかるのである。
ところが、この怠け者と、この自信のなさから来る不安定性と、このときに繊細すぎる性格では、この過酷なスポーツの世界を生き抜くことは出来ない。
不本意であるが、勝ち抜くのは上述の野太い子供達である。
その中から時々、本物が出るが、そんなのは100分の1ぐらいで、殆どは凡庸な才能をどう扱うかという問題になる。
凡庸な才能と言えば、野太い子達も息子も似たような凡庸な才能である。
しかし、世界は聞こえるもの、見えるもの、迫り来るもの、そして「引っ込み思案」でないものを認めるのである。
それを愛するのがマスメディアの規準なのだ。
息子をこの学校から引っ張り出そうかと思っている。
あの子は、頭の良いしどこでもやっていかれる。
あんな凡庸で繊細な傷つきやすい才能で、このようなスポーツ競技系エリート校にいるのは、確かに難しい。
私は、その内情を知っているからこそ、昨今の主流音楽業界に吐き気がするからこそ、この辞めさせちまおうという病が出てきてしまう。
まあ息子に決心させよう。
あんなにスポーツ競技同様に、「一流音楽家の卵」を排出、あるいは生産し続ける教育とは何かと、段々はらわたが煮えくり返ってくるのである。
2010年4月23日金曜日
Julian Lennon雑考 ― オイディプスの旅を終えた彼のトラウマ
全然関係ないのだが、ちょっと思ったことで、それをどこに書いていいやら、ここに記すしかないの で記録する。
私が絶大なるレノンファンであるのは、周知の事実である。
なぜ、彼の前妻シンシアの息子が、音楽活動をしていたにもかかわらず、突然その活動を止め、世界から姿を消し、レストランなど経営し、マイスペースあたりでしか声を聞くことができなくなったのか、私にはなかなか理解できずにいた。
彼は、私より数年年上だが、ほぼ同世代である。
それなりの才能を授かって、デビューで花開いたにもかかわらず、かなりたってからインタビューで、父親を許せないと言うようなことを堂々と語っていたのには驚いた。その頃、彼はもう40過ぎていたのではなかろうか。
ここのところ、おそらく2005年ごろ、母親が再び、「JOHN」という題名で当時のお互いのバイオグラフィーのようなものを執筆出版したのをきっかけに、息子 のJulianもメディアに顔を出すようになった。
母親を全面的に支えており、レノン所有物の展示会だのなんだの、そういったイヴェントも、レノンの故郷リヴァプールにて協力して企画してるようだ。
彼女の本を読んだが、正直な人柄と素直な性格がにじみ出ており、批判に値するような毒を持たないため、メディアでも彼女に対する扱いは温厚である。
しかし文章そのものは、作文に近く、心に響く部分は多くあるのだが、自分の思考や苦しみ、悩みを深く掘り下げてみると言う経験が少ないのか、能力が少ないのか、果てはそういうことはしないと言う合理主義なのか、あまり作文以上の力量を見せることはできなかったと言うほどの内容であった。
レノンのような人間と離婚劇をしたからには、もっと精神的葛藤 や、精神的やり取り、修羅に至るようななじり合いさえあったっておかしくない。それほど彼は複雑であるし、自分勝手であり、しかし非常に傷つきやすく、不 安定な精神状態を抱えている男であった。
それが、彼女は始終何も言わないで時が過ぎていくのである。レノンが勝手に洋子を連れ込んで、彼女は怒りで出て行くが、彼にそれをぶつけないのである。最初に出会った頃から、彼のことを恐ろしいと思っていたという反面があったが、それは、終わりに至 るまでそうであったらしい。
と言うことは、彼女自身、あそこまでドラマチックな人生劇の裏で結婚生活を送っていたにもかかわらず、レノンとは共に歩 まなかった、あるいは歩めなかったのではないかと言う感じがする。
レノンは、家にいる時間は、初期の頃に限ればほとんど無かったし、サテリコンのような様で、酷い遊びを行っていたと言うことにも、ビートルズの女性陣は、納得づくで我慢せねばならないと言う面もあったろう。
しかしながら、 大人に成長していく二人が、本当に精神的につながっていたのなら、共に歩んだ軌跡というものがもうちょっと見えてもよさそうなものであるが、彼女の言葉からは、傍観し続け、我慢し続け、おとなしくし続けてきたという時間しか見えない。
おそらく彼女には物申す内容すら浮かばないほど、素直な人間で、捨て去 る努力を要するようなプライドの高さすら持ち合わせていなかったのであろう。
だから、若かりし頃のレノンと共に暮らすことが可能であったのだろうし、レノンも彼女をかわいらしいと感じていたに違いない。
しかし、猛々しい若者も、年齢と共に成長していくのは止むを得な い。レノンは、基本的に恐ろしく内向的なので、実は内へ内へと考えを深めていくタイプである。社交家で、華々しい成功を求め、真のエンターテイナーと呼べ るマッカートニーとは、根本的に違うのである。
ヒットソングを書けないと暫し悩んだこともあったレノンだが、彼の曲はもっと食いついてく るように語り掛けてくる。同じ感性を持った人間には、たまらないほど鋭い力で、問いかけてくるのである。
彼の音楽の軌跡を見ても明らかだが、彼自身の心の動きと彼の創作活動がシンクロしている。彼の音楽は多くの場合、カタルシス的に自分の療法として現れていることがほとんどである。それに対しマッ カートニーは、常に安定して世の中の需要にぴったりと適したヒットソングを書いてきた。
単純に言えば、価値の中心が外にある場合は外向的であるし、価値観が内面に向いている場合は、内向的といえる。その意味で、レノンとマッカートニーは、対極にあったといっても良い。
さて、その前妻が、ドラッグやインドへの傾倒を通して、レノンの内向的な精神的活動が深まていく様を指を咥えて見ているしかなかったと言うのは、信じがた いのだが、事実かもしれないと思うようになった。
彼女は、自著の中で、ドラッグさえなかったら、私達はまだ一緒だったかもしれないと言うことを言っているが、それを読んだ時、私はその短絡的な解釈にほとんどショックを受けた。
いかに当事者だとしても、それほどまでに関係の終焉を簡潔化 して納得するのは、なかなか難しい。
私も離婚経験者だが、その前後につむぎだした思考の糸は、無限に近く、ああでもない、こうでもないと自分に原因を探し、相手に原因を探し、世代に答えを求め、文化背景に影響を探し、果てはさかのぼって互いの育ちに埋められぬ穴を見つけ、また自分の身に帰ってき て、二人の成長線を心に描き、どこでそれてしまったのかと、その思考趣向の相違にまで思いをめぐらせた。
それは、決して解けることのないこんがらがった毛糸のようなカオスであった。
決して、あそこがこうでなかったらとか、あの時ああしていたらで止められるような、または方向転換できるような、そんな問題ではなかった。それなら離婚などしなくてすんだのだ。
問題は、複雑で入り組んでおり、様々な要素が絡み合っ て、そうならざるを得ないからこそ、離婚に至ったのである。彼女のように、ドラッグさえなかったらと、離婚後40年たった今でもそう信じているとしたら、 やはりそのシンプルな考え方や、ナイーブな性質にこそ、離婚の原因があったのではないかとまで言いたくなってくる。
レノンは、複雑怪奇で インテリな人間であったことを肝に銘じたい。
さて、話が飛んでばかりいるが、今日はこのことに関して書きたいと思い、そ の気力があるのでどんどん書いてしまいたいと思う。
その息子Julianは、この母を全面的に支えているとは書いた。二人で肩を組ん で、母の著書を紹介し、サイン会や講演に出席し、レノンの思い出話を語る。
そして、彼らのファンは、洋子を忌み嫌っている場合がほとんどである。
はっ きり言って、私は洋子に対して色々と思いがあり、決して彼女のことを認めたいとは思わない。
でも、この二人の姿を見ていて、微笑ましいと思って も、応援したいとは思えないのである。
もちろん、私が伝記と言う伝記を全部読みつくし、記事という記事も読みつくしていると言う事実があっても、理解できない。
今晩、携帯のプッシュ機能が鳴り、JulianのFacebookがアップされたと言う知らせが入る。見に行ってみると、新曲が掲載されており、聞いてみると、これまた有名なBeatlesの曲、Lucy In The Sky With DiamondsのLucyは、Julianの当時の幼馴染であったのだが、そのLucyと言う名前を題名にした新曲なのである。
またかよ…
思わずそうつぶやきたくもなる。
まあ、この実在Lucyさんは、この秋若くして亡くなったばかりなので、彼女にささげた歌なのかもしれない。
それにしても、そのコメントに「もう父を許せる」と言うようなことが書いてあって、彼は46だかなんだかになるはずなのだが、そこま で時間がかかるものかと唖然としてしまった。
しかし、ネックになった理由と言うのがごく簡潔に書かれている。
父 はインタビューで語った。
この後、NYに渡ったレノンは、洋子との生活、洋子とのファミリーに心身共に費やし、Julianに会ったのは、離婚後暗殺 されるまで7回だったと言う話もある。
それが彼のトラウマになっているということらしい。
それは、何度も何度も読んでいたことだったが、今晩、突然、
いや、それもわかるかもしれない。それももっともかもしれない。
そんなことを思ってしまったのである。
な ぜだかは自分でもわからない。なぜ今だからわかると言う心境なのか、私にはわからない。
しかし、これはやはり重大なことである。直球でど 正直なレノンは、しばしばこのような発言をした。しかし、これが彼の息子の人生最大のトラウマになろうとは、彼自身思いもしなかったことであろう。
結 局、こんなことではないだろうか。
子供の教育は三歳児までと言うし、生まれてきた子供が3歳になるまで は、愛情をしっかりと与え、自己意識を安定させることが大切だとはよく言われているが、そういうことではなく、もし3歳児まで溢れるような愛情を受けて 育ったとしても、その生まれが実は望まれていなかった場合、その子が逆境にぶつかったときに、まるで自分では理解できない地の底から湧き出るような、いわ ば人生を生き延びていく生命力が、本当に望まれた子供達と同じように備わっているのか、ということをずっと問い続けてきた。
そして、今晩 私は、自分の生を父親から、こういとも簡単に公で「Julianは望んだ子じゃなかった」、
などと言われたら、もしかしたら地面にどんどんひびが入っ て、自分が恐ろしく小さく思え、周りの人間の顔もまともに見れないような、恐怖感を覚えるかもしれない、そんなことがあってもおかしくないと、感覚的に理解できた。
もし、これが事実なら、自分の存在価値を一体なにを物差しにして 計って良いのかわからなくなるだろう。生まれるということは、自然界の現象で、そこに望むも望まれるも、そんな倫理的解釈はもともとする必要の無いもので ある。でも、原始人じゃあるまいし、核家族のなか、小さな子供が育っていくときに、父親がインパクトの強い女性とさっさと外国に行ってしまい、インタ ビューで自分のことを望まなかったと答え、新しい女性と、不妊治療を重ねて念願の一人息子をもうけたという話を聞いて育ったとなれば、46のいい歳をした男が、未だに父を許すの許さないのと言うのもわかるような気がしてきた。
結局、私の話題はまた、レノンの前妻のCynthiaに戻るので ある。
彼女は、前述したような通りの女性で、何の罪も無い、まさに無実の人である。息子にも愛情を注ぎ続けて、立派な大人に育て上げたのである。 彼女が、弱い人間なのかといえば、決して弱いのではない。言うべきことを言わずに、そのまま「離婚されて」来た女性というと、まるで弱弱しい影の薄い人間 に聞こえるが、彼女は決してそんなに弱い人間ではないのである。
どこかそれでも芯が通っていて、経済的も自立し(レノンからは信じられな い微々たるお金しかもらっていなかった)、再婚相手も見つけるほどのバイタリティのある女性なのだ。話し方も、若干静かだが、抑揚があり笑ったり、泣いた り、とても豊かな感情のある女性だなとすぐにわかる。
しかし、生き延びる力と、自己意識の高さ、安定感は違うのだ。結果から言うと、ナル システィックな母親が子育てをすると、難しいと言うことである。ナルシズムと言う意味は、決して自己愛が強いと言う病理学的な意味じゃない。そうじゃなく て、他人の補償作用がないと、自分に自信が持てないという意味で。
自分が安定するために、または自分がこれでいいのだと思うために、他人の感情や、他人の言葉によってそれを一々確認しないと、確信できない人が多くいる。
私もそんな一人である。
子供は鋭く母親のそういった心情を察知して、母親が必要としている感情のみ表示し、それ以外の感情を抑圧したりする。母親のききたい言葉をさっと言って、本当は言いたいことを我慢して いたりする。
それは良い子でいたいという欲求からなのであるが、良い子でいたいのはなぜか。
なぜなら、母親自身が自分の精神状態や、人間 形成や、人生の問題で手一杯で、子供のことを愛しいと思っても、子供からもママはこれでいいのだろうか、ママのこと好き?、ママはがんばっている?などと 無言の質問を突きつけていることがあるのだ。
そして、このような母親もまた、同じような母親に育てられた犠牲者といってもいいらしい。
Julian の母には、最低限の性格的強さや、人間としての張りは備わっていたが、自信の無さにかけては、トロフィーものといっても良いほど、セルフエスティームが低 かったことは間違えない。それはレノンの度重なる浮気もあったろうし、アイドルとしての夫を失う不安もあったという様々な背景が複雑に絡み合って、彼女の セルフエスティームの低さは改善されることが無かったのであろう。そういう母の元に、大切に育てられたJulianは、父親の発言を知って、俺にはそんな 発言、どうだって良いと言える地盤が無かった。一年、二年で消化できる地盤が無かったのかもしれないと、ふっとひらめいたのだ。
地盤がな いといえば、まるで彼も軟弱ひ弱な感じになってしまうが、あの父とそれなりに人生を乗り越えてきた母親との子である。簡単につぶれるような貧弱な性格では ないはずだ。しかし、結局感受性が強いから、つまり非常に繊細な人間だから、一言一言が余計に突き刺さるのであろう。そして一々個人の価値と結び付けてし まうのである。
それこそが、ナルシシスティックな母親に育てられたことの証であるし、無神経な子供なら、そんな母親の無言の問いかけを踏み潰すよ うに、無神経そのものに図太く育っていくのであるが、才能があったり、繊細で利口な子供ほど、そのコミュニケーションの「裏側」にある言葉、行間のような ものを本能的に読み取るのである。
Julianは、自分の生まれに付随した「傷」に深く傷ついた。
そんなにみすぼらし子供でも、親に望ま れたなら胸を堂々と張って生きていけば良い。しかし、「僕は、父親にも母親にも望まれなかった」と悟りきってしまったら、それは思春期の子供には、突き刺さる ような痛みであろうと思う。子供時代に一回終止符を打って、思春期、青年期に移行する際、子供時代を締めくくれない子供がおり、中には自殺してしまう子供達も多くいるという。
Julianは自殺こそしなかったが、精神的にその代わり、彼は父親を殺したのだと思う。オイディプスのようであるが。その父親と今和解することができると、そう彼は語っているのだとわかってきた。
それにしても、悲劇的な話である。大スターの息子だか らゆえもあるし、離婚後、母子家庭ではないが、母だけが肉親であるという家庭に育った男児の問題でもあるし、もっともいけないのは、実父が養育に関する一 切を経済的なことを除いて、拒否したと言う点であろう。
ところで、無駄話だが、この離婚で彼女がもらった慰謝料というのは、レノ ンが洋子の前夫に払った慰謝料の3分の1とも4分の1とも言われている。Julianへの養育費も、スーパスターからは考えられないほど、微々たる物であ るらしい。
Julianの歌声を聴いた。それは張りを失い、つやを失い、ほとんど震えているように不安定な歌声であった。彼の顔 は、父親よりもいっそう母親に似ており、声色も父親とは根本的にかけ離れたものである。
その男が、父親の歌を題材に、今和解できると銘 打って、小気味良い明るいポップソングをリリースしたという。
私は、なんとも言えない心苦しい気持ちになって、ほとんど同情の気持ちがわいてき て、これを書いているという次第である。
ご苦労様でした。
親にされた仕打ちというのは酷い言い方だが、親が偉大なのも楽ではな い。また、レノンもそんな発言を世界に向かって発言するようなナイーブな面を持っていたのだからしょうがない。こういうときこそ、抑制、自己制御という言 葉を思い出さないといけないと思う。
自分に正直で、心に正直に洗いざらい言えば許されるということは、大間違いである。
正直さゆ えに傷つく人が多くいる。
息子はある意味、この言葉の犠牲になって、生まれを検証する作業に入ってしまった。
そこで母親が安定して、精神的に極め て健康な人間でなくとも、せめて無神経な図太さでも持っていてくれたならまだしも、繊細で感受性が強い上、息子の自己肯定の答えを与えられるような土台な ど持っているはずもなかったのである。彼女こそ、私はこれでいいのかと、更に問い続ける人生に突入しており、Julianが青春時代多かれ少なかれドロッ プアウトしたのは、もっともな結果だったといえる。
50を前に、彼はオイディプス同様、放浪のたびを終えたらしい。失明こそしていないが、オイディプスがテゼウスに保護されたように、彼にも聖林のような、聖家があるのであろうか。
ちなみに、彼は結婚もしていなければ、子供もいな い。無論、そこはオイディプスと違うのであるが、Julianがそこに至れなかった理由、つまり彼の放浪の旅の全面が、今晩パーッと視界に広がった。
ある意味、これからもこうして皺を増やしながらも、父親の影との戦いをまだ続けていくのかと思うと落ち込むのだが、運命は本当に厳しい。
父親を殺した後の旅は終えたのだ。
早く聖林に入って、女神達となぞの死を遂げるような方向に進んでもらいたいと思う。
洋子のこと、レノンと彼女の息子Seanのことにも、こうして綴ってきたこと以上の思いがある。
また体力と気力があるときに、書いてみた い。
私が絶大なるレノンファンであるのは、周知の事実である。
なぜ、彼の前妻シンシアの息子が、音楽活動をしていたにもかかわらず、突然その活動を止め、世界から姿を消し、レストランなど経営し、マイスペースあたりでしか声を聞くことができなくなったのか、私にはなかなか理解できずにいた。
彼は、私より数年年上だが、ほぼ同世代である。
それなりの才能を授かって、デビューで花開いたにもかかわらず、かなりたってからインタビューで、父親を許せないと言うようなことを堂々と語っていたのには驚いた。その頃、彼はもう40過ぎていたのではなかろうか。
ここのところ、おそらく2005年ごろ、母親が再び、「JOHN」という題名で当時のお互いのバイオグラフィーのようなものを執筆出版したのをきっかけに、息子 のJulianもメディアに顔を出すようになった。
母親を全面的に支えており、レノン所有物の展示会だのなんだの、そういったイヴェントも、レノンの故郷リヴァプールにて協力して企画してるようだ。
彼女の本を読んだが、正直な人柄と素直な性格がにじみ出ており、批判に値するような毒を持たないため、メディアでも彼女に対する扱いは温厚である。
しかし文章そのものは、作文に近く、心に響く部分は多くあるのだが、自分の思考や苦しみ、悩みを深く掘り下げてみると言う経験が少ないのか、能力が少ないのか、果てはそういうことはしないと言う合理主義なのか、あまり作文以上の力量を見せることはできなかったと言うほどの内容であった。
レノンのような人間と離婚劇をしたからには、もっと精神的葛藤 や、精神的やり取り、修羅に至るようななじり合いさえあったっておかしくない。それほど彼は複雑であるし、自分勝手であり、しかし非常に傷つきやすく、不 安定な精神状態を抱えている男であった。
それが、彼女は始終何も言わないで時が過ぎていくのである。レノンが勝手に洋子を連れ込んで、彼女は怒りで出て行くが、彼にそれをぶつけないのである。最初に出会った頃から、彼のことを恐ろしいと思っていたという反面があったが、それは、終わりに至 るまでそうであったらしい。
と言うことは、彼女自身、あそこまでドラマチックな人生劇の裏で結婚生活を送っていたにもかかわらず、レノンとは共に歩 まなかった、あるいは歩めなかったのではないかと言う感じがする。
レノンは、家にいる時間は、初期の頃に限ればほとんど無かったし、サテリコンのような様で、酷い遊びを行っていたと言うことにも、ビートルズの女性陣は、納得づくで我慢せねばならないと言う面もあったろう。
しかしながら、 大人に成長していく二人が、本当に精神的につながっていたのなら、共に歩んだ軌跡というものがもうちょっと見えてもよさそうなものであるが、彼女の言葉からは、傍観し続け、我慢し続け、おとなしくし続けてきたという時間しか見えない。
おそらく彼女には物申す内容すら浮かばないほど、素直な人間で、捨て去 る努力を要するようなプライドの高さすら持ち合わせていなかったのであろう。
だから、若かりし頃のレノンと共に暮らすことが可能であったのだろうし、レノンも彼女をかわいらしいと感じていたに違いない。
しかし、猛々しい若者も、年齢と共に成長していくのは止むを得な い。レノンは、基本的に恐ろしく内向的なので、実は内へ内へと考えを深めていくタイプである。社交家で、華々しい成功を求め、真のエンターテイナーと呼べ るマッカートニーとは、根本的に違うのである。
ヒットソングを書けないと暫し悩んだこともあったレノンだが、彼の曲はもっと食いついてく るように語り掛けてくる。同じ感性を持った人間には、たまらないほど鋭い力で、問いかけてくるのである。
彼の音楽の軌跡を見ても明らかだが、彼自身の心の動きと彼の創作活動がシンクロしている。彼の音楽は多くの場合、カタルシス的に自分の療法として現れていることがほとんどである。それに対しマッ カートニーは、常に安定して世の中の需要にぴったりと適したヒットソングを書いてきた。
単純に言えば、価値の中心が外にある場合は外向的であるし、価値観が内面に向いている場合は、内向的といえる。その意味で、レノンとマッカートニーは、対極にあったといっても良い。
さて、その前妻が、ドラッグやインドへの傾倒を通して、レノンの内向的な精神的活動が深まていく様を指を咥えて見ているしかなかったと言うのは、信じがた いのだが、事実かもしれないと思うようになった。
彼女は、自著の中で、ドラッグさえなかったら、私達はまだ一緒だったかもしれないと言うことを言っているが、それを読んだ時、私はその短絡的な解釈にほとんどショックを受けた。
いかに当事者だとしても、それほどまでに関係の終焉を簡潔化 して納得するのは、なかなか難しい。
私も離婚経験者だが、その前後につむぎだした思考の糸は、無限に近く、ああでもない、こうでもないと自分に原因を探し、相手に原因を探し、世代に答えを求め、文化背景に影響を探し、果てはさかのぼって互いの育ちに埋められぬ穴を見つけ、また自分の身に帰ってき て、二人の成長線を心に描き、どこでそれてしまったのかと、その思考趣向の相違にまで思いをめぐらせた。
それは、決して解けることのないこんがらがった毛糸のようなカオスであった。
決して、あそこがこうでなかったらとか、あの時ああしていたらで止められるような、または方向転換できるような、そんな問題ではなかった。それなら離婚などしなくてすんだのだ。
問題は、複雑で入り組んでおり、様々な要素が絡み合っ て、そうならざるを得ないからこそ、離婚に至ったのである。彼女のように、ドラッグさえなかったらと、離婚後40年たった今でもそう信じているとしたら、 やはりそのシンプルな考え方や、ナイーブな性質にこそ、離婚の原因があったのではないかとまで言いたくなってくる。
レノンは、複雑怪奇で インテリな人間であったことを肝に銘じたい。
さて、話が飛んでばかりいるが、今日はこのことに関して書きたいと思い、そ の気力があるのでどんどん書いてしまいたいと思う。
その息子Julianは、この母を全面的に支えているとは書いた。二人で肩を組ん で、母の著書を紹介し、サイン会や講演に出席し、レノンの思い出話を語る。
そして、彼らのファンは、洋子を忌み嫌っている場合がほとんどである。
はっ きり言って、私は洋子に対して色々と思いがあり、決して彼女のことを認めたいとは思わない。
でも、この二人の姿を見ていて、微笑ましいと思って も、応援したいとは思えないのである。
そんなに君達は傷つけられ、虐げられたのか。だとしたら、今のその姿も理解できるが、実際人生を通 して、未だにそのテーマにしがみついて、本を書いたりインタビューで父を許せないと語るほど、トラウマになったのであろうか。その辺が、私にはい まひとつ理解できなかったのである。
もちろん、私が伝記と言う伝記を全部読みつくし、記事という記事も読みつくしていると言う事実があっても、理解できない。
今晩、携帯のプッシュ機能が鳴り、JulianのFacebookがアップされたと言う知らせが入る。見に行ってみると、新曲が掲載されており、聞いてみると、これまた有名なBeatlesの曲、Lucy In The Sky With DiamondsのLucyは、Julianの当時の幼馴染であったのだが、そのLucyと言う名前を題名にした新曲なのである。
またかよ…
思わずそうつぶやきたくもなる。
まあ、この実在Lucyさんは、この秋若くして亡くなったばかりなので、彼女にささげた歌なのかもしれない。
それにしても、そのコメントに「もう父を許せる」と言うようなことが書いてあって、彼は46だかなんだかになるはずなのだが、そこま で時間がかかるものかと唖然としてしまった。
しかし、ネックになった理由と言うのがごく簡潔に書かれている。
父 はインタビューで語った。
洋子との息子Seanは、はっきりと望んだ子である。
Julianは、望まれた子ではなかった。事故 だったんだ。
この後、NYに渡ったレノンは、洋子との生活、洋子とのファミリーに心身共に費やし、Julianに会ったのは、離婚後暗殺 されるまで7回だったと言う話もある。
それが彼のトラウマになっているということらしい。
それは、何度も何度も読んでいたことだったが、今晩、突然、
いや、それもわかるかもしれない。それももっともかもしれない。
そんなことを思ってしまったのである。
な ぜだかは自分でもわからない。なぜ今だからわかると言う心境なのか、私にはわからない。
しかし、これはやはり重大なことである。直球でど 正直なレノンは、しばしばこのような発言をした。しかし、これが彼の息子の人生最大のトラウマになろうとは、彼自身思いもしなかったことであろう。
結 局、こんなことではないだろうか。
私には常々考えてきたテーマがある。自分では決して左右することのできない運命の一つに、生まれと言うものが ある。
そして、もしその生まれそのものに、不幸の種がまかれていたとしたら、具体的に言えば、望まれなかった命としてこの世に生を受けた場合、人 間には、根本的に生きていく力を授かっているのかと言うことである。
子供の教育は三歳児までと言うし、生まれてきた子供が3歳になるまで は、愛情をしっかりと与え、自己意識を安定させることが大切だとはよく言われているが、そういうことではなく、もし3歳児まで溢れるような愛情を受けて 育ったとしても、その生まれが実は望まれていなかった場合、その子が逆境にぶつかったときに、まるで自分では理解できない地の底から湧き出るような、いわ ば人生を生き延びていく生命力が、本当に望まれた子供達と同じように備わっているのか、ということをずっと問い続けてきた。
そして、今晩 私は、自分の生を父親から、こういとも簡単に公で「Julianは望んだ子じゃなかった」、
などと言われたら、もしかしたら地面にどんどんひびが入っ て、自分が恐ろしく小さく思え、周りの人間の顔もまともに見れないような、恐怖感を覚えるかもしれない、そんなことがあってもおかしくないと、感覚的に理解できた。
どんなに自分より劣った子でも、醜い子でも、恵まれていない子でも、彼らには、おそらくその子を望んだ親がいる。
しか し、僕にわかっていることは、僕は親に望まれなかったと言うことだ。
もし、これが事実なら、自分の存在価値を一体なにを物差しにして 計って良いのかわからなくなるだろう。生まれるということは、自然界の現象で、そこに望むも望まれるも、そんな倫理的解釈はもともとする必要の無いもので ある。でも、原始人じゃあるまいし、核家族のなか、小さな子供が育っていくときに、父親がインパクトの強い女性とさっさと外国に行ってしまい、インタ ビューで自分のことを望まなかったと答え、新しい女性と、不妊治療を重ねて念願の一人息子をもうけたという話を聞いて育ったとなれば、46のいい歳をした男が、未だに父を許すの許さないのと言うのもわかるような気がしてきた。
結局、私の話題はまた、レノンの前妻のCynthiaに戻るので ある。
彼女は、前述したような通りの女性で、何の罪も無い、まさに無実の人である。息子にも愛情を注ぎ続けて、立派な大人に育て上げたのである。 彼女が、弱い人間なのかといえば、決して弱いのではない。言うべきことを言わずに、そのまま「離婚されて」来た女性というと、まるで弱弱しい影の薄い人間 に聞こえるが、彼女は決してそんなに弱い人間ではないのである。
どこかそれでも芯が通っていて、経済的も自立し(レノンからは信じられな い微々たるお金しかもらっていなかった)、再婚相手も見つけるほどのバイタリティのある女性なのだ。話し方も、若干静かだが、抑揚があり笑ったり、泣いた り、とても豊かな感情のある女性だなとすぐにわかる。
しかし、生き延びる力と、自己意識の高さ、安定感は違うのだ。結果から言うと、ナル システィックな母親が子育てをすると、難しいと言うことである。ナルシズムと言う意味は、決して自己愛が強いと言う病理学的な意味じゃない。そうじゃなく て、他人の補償作用がないと、自分に自信が持てないという意味で。
自分が安定するために、または自分がこれでいいのだと思うために、他人の感情や、他人の言葉によってそれを一々確認しないと、確信できない人が多くいる。
私もそんな一人である。
子供は鋭く母親のそういった心情を察知して、母親が必要としている感情のみ表示し、それ以外の感情を抑圧したりする。母親のききたい言葉をさっと言って、本当は言いたいことを我慢して いたりする。
それは良い子でいたいという欲求からなのであるが、良い子でいたいのはなぜか。
なぜなら、母親自身が自分の精神状態や、人間 形成や、人生の問題で手一杯で、子供のことを愛しいと思っても、子供からもママはこれでいいのだろうか、ママのこと好き?、ママはがんばっている?などと 無言の質問を突きつけていることがあるのだ。
そして、このような母親もまた、同じような母親に育てられた犠牲者といってもいいらしい。
Julian の母には、最低限の性格的強さや、人間としての張りは備わっていたが、自信の無さにかけては、トロフィーものといっても良いほど、セルフエスティームが低 かったことは間違えない。それはレノンの度重なる浮気もあったろうし、アイドルとしての夫を失う不安もあったという様々な背景が複雑に絡み合って、彼女の セルフエスティームの低さは改善されることが無かったのであろう。そういう母の元に、大切に育てられたJulianは、父親の発言を知って、俺にはそんな 発言、どうだって良いと言える地盤が無かった。一年、二年で消化できる地盤が無かったのかもしれないと、ふっとひらめいたのだ。
地盤がな いといえば、まるで彼も軟弱ひ弱な感じになってしまうが、あの父とそれなりに人生を乗り越えてきた母親との子である。簡単につぶれるような貧弱な性格では ないはずだ。しかし、結局感受性が強いから、つまり非常に繊細な人間だから、一言一言が余計に突き刺さるのであろう。そして一々個人の価値と結び付けてし まうのである。
それこそが、ナルシシスティックな母親に育てられたことの証であるし、無神経な子供なら、そんな母親の無言の問いかけを踏み潰すよ うに、無神経そのものに図太く育っていくのであるが、才能があったり、繊細で利口な子供ほど、そのコミュニケーションの「裏側」にある言葉、行間のような ものを本能的に読み取るのである。
Julianは、自分の生まれに付随した「傷」に深く傷ついた。
そんなにみすぼらし子供でも、親に望ま れたなら胸を堂々と張って生きていけば良い。しかし、「僕は、父親にも母親にも望まれなかった」と悟りきってしまったら、それは思春期の子供には、突き刺さる ような痛みであろうと思う。子供時代に一回終止符を打って、思春期、青年期に移行する際、子供時代を締めくくれない子供がおり、中には自殺してしまう子供達も多くいるという。
Julianは自殺こそしなかったが、精神的にその代わり、彼は父親を殺したのだと思う。オイディプスのようであるが。その父親と今和解することができると、そう彼は語っているのだとわかってきた。
それにしても、悲劇的な話である。大スターの息子だか らゆえもあるし、離婚後、母子家庭ではないが、母だけが肉親であるという家庭に育った男児の問題でもあるし、もっともいけないのは、実父が養育に関する一 切を経済的なことを除いて、拒否したと言う点であろう。
ところで、無駄話だが、この離婚で彼女がもらった慰謝料というのは、レノ ンが洋子の前夫に払った慰謝料の3分の1とも4分の1とも言われている。Julianへの養育費も、スーパスターからは考えられないほど、微々たる物であ るらしい。
Julianの歌声を聴いた。それは張りを失い、つやを失い、ほとんど震えているように不安定な歌声であった。彼の顔 は、父親よりもいっそう母親に似ており、声色も父親とは根本的にかけ離れたものである。
その男が、父親の歌を題材に、今和解できると銘 打って、小気味良い明るいポップソングをリリースしたという。
私は、なんとも言えない心苦しい気持ちになって、ほとんど同情の気持ちがわいてき て、これを書いているという次第である。
ご苦労様でした。
親にされた仕打ちというのは酷い言い方だが、親が偉大なのも楽ではな い。また、レノンもそんな発言を世界に向かって発言するようなナイーブな面を持っていたのだからしょうがない。こういうときこそ、抑制、自己制御という言 葉を思い出さないといけないと思う。
自分に正直で、心に正直に洗いざらい言えば許されるということは、大間違いである。
正直さゆ えに傷つく人が多くいる。
息子はある意味、この言葉の犠牲になって、生まれを検証する作業に入ってしまった。
そこで母親が安定して、精神的に極め て健康な人間でなくとも、せめて無神経な図太さでも持っていてくれたならまだしも、繊細で感受性が強い上、息子の自己肯定の答えを与えられるような土台な ど持っているはずもなかったのである。彼女こそ、私はこれでいいのかと、更に問い続ける人生に突入しており、Julianが青春時代多かれ少なかれドロッ プアウトしたのは、もっともな結果だったといえる。
50を前に、彼はオイディプス同様、放浪のたびを終えたらしい。失明こそしていないが、オイディプスがテゼウスに保護されたように、彼にも聖林のような、聖家があるのであろうか。
ちなみに、彼は結婚もしていなければ、子供もいな い。無論、そこはオイディプスと違うのであるが、Julianがそこに至れなかった理由、つまり彼の放浪の旅の全面が、今晩パーッと視界に広がった。
ある意味、これからもこうして皺を増やしながらも、父親の影との戦いをまだ続けていくのかと思うと落ち込むのだが、運命は本当に厳しい。
父親を殺した後の旅は終えたのだ。
早く聖林に入って、女神達となぞの死を遂げるような方向に進んでもらいたいと思う。
洋子のこと、レノンと彼女の息子Seanのことにも、こうして綴ってきたこと以上の思いがある。
また体力と気力があるときに、書いてみた い。
才能のある子供のドラマ
かなり前、こんな本を読んだ。
あまりにも落ち込むので、読んだ後しばらく放って置いた。
ピアノの上にあったので、再び広げてみた。内容を忘れないように、最後のまとめをメモ的に記す。
ちなみに日本語のタイトルは、「才能のある子供のドラマ」。
母親が全くナルシスティックでないと言うことは不可能である。と言うことは、多かれ少なかれ、子供達は、繊細であったり、知能が高かったり、周りを察する能力に優れているほど、母親自身の欲求に気付き、それを満たすように対応してしまう。自らの感情を母親との共有した感情として体験できなかった子供は、その感情をどんどん抑圧してゆき、自らが失望しないように、その加害者とも言える母親を理想化してしまう。Habermasが「Die Universalitäts der Hermeneutik」の中で"Spiel"と呼んだこの関係のゲームの意義を解読するのは、精神分析を使用するしかない。「マスクをかぶったセルフ(自己)」は、深く無意識に埋もれてしまったまま、未知の一部としてずっと認識されることはないのである。それが、空虚という感情になって表出し、鬱へと発展してゆく。
母親が不安の多き時代に子育てを行うだけで、子供はすでに母親の不安を取り除こうと、つまり母親のために存在することを始めてしまうのである。
そして、特別でなくてはいけない自分、平均的な自分を許容できなくなり、壮大な自分を多くは、インテレクチャルな道を取得することで可能にしてゆく。そしてナスシズムスとデプレッションの狭間に落ち込む。
これらが、子供の虐待や苛めの現象をつまり防ぐには、犠牲者がこの循環を絶つ必要がある。つまり、分析を受け、抑圧され全く体験されることのなかった真の自分を呼び起こすしかないと言うのだが。
彼女は、Winnicott派のような気がする。
私のメモは、ドイツ語からなので、訳書とは異なります。
あまりにも落ち込むので、読んだ後しばらく放って置いた。
ピアノの上にあったので、再び広げてみた。内容を忘れないように、最後のまとめをメモ的に記す。
ちなみに日本語のタイトルは、「才能のある子供のドラマ」。
子供時代のあの不幸な時期にいつも感じていたものは、そう、恐怖と不安感だったのだ。
僕自身が、禁止され、犯罪的だとまで感じていた、あの罰を受ける恐怖、自らの良心に対する不安、自らの魂が荒れることに対する不安の数々…
Hermann Hesse
母親が全くナルシスティックでないと言うことは不可能である。と言うことは、多かれ少なかれ、子供達は、繊細であったり、知能が高かったり、周りを察する能力に優れているほど、母親自身の欲求に気付き、それを満たすように対応してしまう。自らの感情を母親との共有した感情として体験できなかった子供は、その感情をどんどん抑圧してゆき、自らが失望しないように、その加害者とも言える母親を理想化してしまう。Habermasが「Die Universalitäts der Hermeneutik」の中で"Spiel"と呼んだこの関係のゲームの意義を解読するのは、精神分析を使用するしかない。「マスクをかぶったセルフ(自己)」は、深く無意識に埋もれてしまったまま、未知の一部としてずっと認識されることはないのである。それが、空虚という感情になって表出し、鬱へと発展してゆく。
母親が不安の多き時代に子育てを行うだけで、子供はすでに母親の不安を取り除こうと、つまり母親のために存在することを始めてしまうのである。
そして、特別でなくてはいけない自分、平均的な自分を許容できなくなり、壮大な自分を多くは、インテレクチャルな道を取得することで可能にしてゆく。そしてナスシズムスとデプレッションの狭間に落ち込む。
これらが、子供の虐待や苛めの現象をつまり防ぐには、犠牲者がこの循環を絶つ必要がある。つまり、分析を受け、抑圧され全く体験されることのなかった真の自分を呼び起こすしかないと言うのだが。
彼女は、Winnicott派のような気がする。
私のメモは、ドイツ語からなので、訳書とは異なります。
- 子供には、常に罪がない
- 全ての子供は、安全、安心感、保護、接触、誠実さ、暖かさ、優しさを絶対的に必要としている
- この要求は滅多に満たされることはなく、しばしば大人たち自身の目的のために悪用される(子供虐待のトラウマ)
- 虐待は生涯にわたる影響を及ぼす
- 社会は大人の側に立ち、子供の受けた行為に対して子供を非難する
- 子供が犠牲者となる事実は、従来どおり否定される
- 従ってこの犠牲によるその後の経過は見過ごされる
- 社会から見放された子供は、トラウマを抑圧し、加害者を理想像に仕立て上げる以外選択がない
- 抑圧は、ノイローゼ、精神異常、心身障害、さらに犯罪に導く
- ノイローゼでは、独自の要求が抑圧・否定され、その代わり罪の意識を感じるようになる
- 精神異常では、虐待が妄想へと変移する
- 心身障害では、虐待の痛みに苦むが、実際の苦しみの原因は隠されたままになる
- 犯罪では、当惑、誘惑、虐待が繰り返し、新しい形で演じられる
- セラピーによる治療努力は、患者の子供時代の真実が否定されない場合にのみ、効果があるとされる
- 「小児性欲」の精神分析理論は、社会の盲目さを助長することになり、子供への性的虐待を正当化する。子供を罰することになり、大人は罪を逃れる結果となる
- 空想は、生存し続けるための役割を果たし、耐えられない子供時代の現実を明確に述べていく助けとなり、更にはそれを隠したり無害としてしまう。所謂「でっちあげられた」妄想の体験またはトラウマが、真実のトラウマを覆い隠してしまう
- 文学、芸術、神話、夢の中には、しばしば幼少時の抑圧された経験が、シンボルの形をとって現れる
- 子供の置かれた本当の状況に対する我々の慢性的な無知によって、我々の文化に潜むこの苦悶のシンボル的証言は、寛容されてしまうだけでなく、尊重されてしまうのだ。この暗号化されたメッセージの裏にある真実の背景が理解されることがあるとすれば、それはおそらく社会から拒絶されてしまうだろう
- 犯罪行為の結果は、加害者と犠牲者が盲目で、混乱していたと言う事実を通して取り消されることはない
- 新しい犯罪は、犠牲者が見ようとするならば回避することが可能である。これにより、再犯強迫観念が取り消されるか、少なくとも減少される
- 子供時代に起こったことに隠されている知識源を誤解なく確定的に曝しだすことができれば、当事者の報告は、一般的には社会、さらに特に学術における意識を変えてゆく助けになるであろう
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