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2020年8月26日水曜日

走り書き

 30年ほど前に、私はパニック障害を患った。その頃、パニック障害などという病名はまだなかった。もちろんインターネットもない、何の情報もない。しかも私はドイツという外国に来て、まだ3年ぐらいしかたっていなかったから、まったくもって情報に乏しい環境にいた。
卒業試験を終え、これからという時、私は進路に迷っていた。自分の専攻楽器が大嫌いで、こればかりは今に始まったことではなく、その楽器を始めたときから好きだとも思えなかったのだが、親に楽器と恩師まで与えられたので、嫌と言えなかった。それでずっと続けてきた。
その楽器で留学することにしたのは、それが唯一の脱出の手段だったからである。

学生中に最初の夫に出会い、そのかつて見たことのないスケールの才能に巡り合い、私は大きく打ちのめされた。最初は恋愛のれの字もなかった。互いに他に好きな人がいたと、そう記憶している。

私たちは友人関係として会っていたが、いつしか別れると電話するようになり、相手にまた会う日を楽しみにするようになっていた。そうして純粋な友人関係としてスタートした私たちの関係は、その後私が死ぬまで書くことはできないと思われる経緯をたどって終焉を迎える。

それほどの人間に巡り合った私は、自分のようなディレッタントな人間が、音楽家になるよりも、このようなすでに世界に十分に貢献している素晴らしい演奏家を支えるべきだと決心し、試行錯誤の後、自分の本業を捨てることにした。

今思えば、それからパニック障害が始まったのである。
最初はとにかく心臓が凄まじい速度で破裂しそうに脈打つので、心臓病に違いないと思った。何もわからない学生の身分(本業をやめた後の試行錯誤の間、私はさらに別の学業を続けることにしたのだ)で、私は近所の内科医に駆け込んだ。その女医は私の健康診断を行い、2回会っただけで、おそらく身体は健康だから、心療内科の分野ではないかと思うと私に伝えた。そして精神科医を紹介してくれたのだった。

精神科医を受診した頃、私は藁にも縋る思いだった。毎週何回も発作に襲われ、とても生きた心地がしなかったのである。

女医は、何回か面談をした上で、私にそれはパニック障害という病気なのだと診断を伝えた。そして心理療法を進めたが、私は他の国に引っ越すことになっていたので、彼女の患者になることはできなかった。薬を出すかと聞かれたが、私は「引っ越し後、そこで他の医師を見つけ、自分で何とかしたいから薬はいらない」と断って最後の面談を終えた。

その後、私は数年にわたりパニック障害と闘った。それについては、いつかまた書くことができればよいなと思っている

しかし、パニック障害は完治していないのだ。未だに私はパニック障害に襲われるのである。
ある数年影を潜めていたが、上二人の思春期が去り、少しは幸せを実感できるようになったというのに、未だにパニック障害が静かに姿を現すのである。

つまり、原因を追究できていない。最初の女医は、間違えなく結婚生活と夫に原因があると言い切った。
国が変わった後に会った心理療法士も上記と同じことを確定した。それは当時はそうだったのだ。夫が帰ってくると空港に迎えに行くと、空港で発作に襲われた。明日夫が帰ってくるというその前の日に青天の霹靂の様に発作が襲ってきた。当時はあれが原因だったのだ。

しかし、その後も続くのは何故なのか。私にトラウマがあるのか、私が何かを抑圧しているのか、今の私には謎が解けないのである。
しかし、私は「家族」「団欒」「幼い子供、特に幼女」「結婚の崩壊」「夫婦喧嘩」「子供への罪悪感」というテーマに触れただだけで、心が崩壊する。二度と訪ねられない土地というのいくつもある。その土地を踏んだだけで嗚咽し続けるような場所である。
これはいささか尋常ではなく、やはりまともに心理療法士に会ってこの消えぬパニック障害のことを話すべきだという気が今さらしている。

単に大きな蓋を被せてしまっただけの過去だが、その中にはとてつもないマグマが潜んでいる。今までだれ一人私は自分の過去を話したことはない。それは私がそれについてまったく話せないからなのだ。しかし、いよいよ蓋を開けなければならない、そんな気がしている。

____________


本業をやめたあと30年近く経つが、私は今でも全く同じパターンの悪夢を見る。
試験会場にいる。舞台のそでである。自分の番はもう目前だというのに、楽器がない。血眼で探す。忘れてきたのか。そして焦って気が狂いそうになりながら探し回るというパターン。
楽器がない、友人に借りる。恥ずかしくて穴があったら入りたいというのに、楽譜を見ると一度も目にしたことがない曲だ。一日も練習していないので、初見で演奏するしかないというパターン。
楽器はあっても、必要な道具がない。またはその道具だけが新品で、一度も試奏したことがないから、一体どんな音色になるのかもわからないというパターン。
卒業試験のプログラムは3曲である。そのどれも入学して以来2、3回しか練習していない。突然できるようなものではない。というのに目前に迫っており、舞台に引きずり出されるパターン。
試験ではないが、自分はレッスンに行かなくなってしまい、教授とのスケジュール合わせに参加しなくなって何か月も経ち、しかし教授も何も言ってこない。風のうわさに私はもうやめたいということを知っているのだろうか。ということは卒業証書はもらえない、だって練習などもう何年もしていないのだから、卒業試験ができるわけがない、と言って教授の顔が頭から離れず恐怖でノイローゼになるというパターン。


どちらにせよ、3歳から26歳まで毎日練習練習練習と脅され、追い回され、追いつめられたのに、そこから逃げたという事実があると、この夢から逃れることができないらしい。

私のパニック障害の原因は、どこにあるのか、それが全く見えないのである。しかしこのアイデンティティの放棄からすべては始まった。それだけは間違えない。

2012年4月20日金曜日

思い出のパリ

パリのことを思い出す。
パリは随分良く訪れた。初めてパリを見たのは留学してきた年に、フランス人の友人にもらった見知らぬ人のアドレスを尋ねて一人で訪れた時だった。
東駅に着いてフランに両替した後、ベルヴィルにあるそのアパートにたどり着くまでが苦労の連続であったが、今思えば甘酸っぱい記憶となって、心の奥に刻まれている。

その後、当時のボーイフレンドだった人の親友のガールフレンドがパリに住んでおり、幾度となくパリで落ち合ったものだった。
彼女のアパートは4区にあった。確かEtienne Marcelというメトロの駅の近くであった。当時随分年上であったが、まだ学生だった彼女のアパートは当然のごとく屋根裏部屋にあった。長くくねる階段を上りきった所に見える小さなドアを開けると、彼女の二部屋のせまっ苦しい部屋があったのだ。

どこにどう4人で寝泊りをしたのか覚えていないが、何度もそこを訪れては、話し合い、笑い合い、喧嘩も悲しい思いも互いに分け合ったことは覚えている。

彼女の部屋の窓を開けても、隣や裏の家の屋根が見えるばかりで、パリの全景を望むことができたわけでもない。
それでも私達は、近所のワインショップに行っては、高級なブルゴーニュ産とフランスパンを買い求めて、屋根裏部屋に戻った。窓から見える星の美しさに惹かれて、窓を開け、厳しく禁止されているのに、ワインボトルとフランスパンを抱えて屋根の上に出ては、ひそひそ声で小さな宴会をしたのを覚えている。
いつも、ものの20分もしないうちに近所の人に通報されて、大家から怒鳴り声の電話を受けて退散することになった。
そのパリを懐かしいと思う。
あんな体験は、若さゆえの馬鹿でなければなかなかできなかったろう。

そこで私はビールばかり飲むドイツ人学生とは違い、フランス人やイタリア人学生は、通常はワイン党なのだと知り、いろいろなワインを覚えるきっかけにもなった。
私の連れの親友だった彼は、トリノの銀行につとめる父を持つ中流家庭の出身であった。その彼女にいたっては、パドヴァの有名な心臓外科の娘で、様々な政治家も親戚に持つような、言わば上流階級の出身だった。
それでも、常に誰もお金は持っていなかったのを覚えている。
朝食は、決まって小麦粉と水でクレープを焼いて、Nutellaの大瓶から大量にクリームをかき出しては、べっとりと塗って食べた。
昼は、メトロ駅の目の前にあるCafe Etienneでバゲットのサンドイッチを調達してきた。
夜は、Sebastopolという大通りを渡ってユダヤ人街の方に歩き、安い料理を探して食べた。

しかし、彼らはその背景もあって、非常に文化的には洗練されていた。そのおかげで、私は欧州に渡って何年もしていなかったのに、彼らの生活ぶりや会話から、様々なことを早くに吸収して行くことができた。
彼らの飲んでいる本、彼らの両親の考え、彼らのもらっている送金額、彼らの将来像、彼らの食生活、彼らの消費態度、金銭感覚、そういったものを悉く身近に見ることができた。不思議なことに、ドイツの学生生活で知り合う友人知人達からよりも、もっとより深い次元で学ぶことができたのは、個人的な親密度によるものなのか、それともフランスやイタリアと言うドイツよりも階級の色濃く残る文化によるものなのか、はっきりとは判らない。


その後、彼らとはパリの学生パーティーにも出向いたし、ピエモンテの別荘で釣りなどを楽しみながら過ごしたこともあり、パルマの年上の友人夫婦宅で毎月のように集まり、買い物や料理をして夜通し語り合ったことも数限りなかった。
体外は、若者の根拠のない自信で世の中を嘆き馬鹿にし、哲学書や古い文学を紐解いて、物をわかったような顔をしていただけである。当然、そこに音楽という中心があったことは当然であるが、思い出に残るのは、むしろ彼らとのインテンシブな生活であった。

親友はその後、私達の間ではつまらないと言われる指揮者を抱えるオーケストラに仕事を見つけた。彼女とは、最初から問題だらけであったが、その優れた知性と教養、また8歳も年上だったことから、彼を精神的に支えてくれたことで、別れるまでには至らなかった。
が、その知性ゆえ、彼女は彼の関心をずっと得るために、心理作戦を使いすぎ、彼は疲労困憊して結局別れてしまった。
間もなく、年下の建築学科の学生と出会って新しい彼女だと紹介されたが、もうあの頃のような団結はどこにもなかったのである。
その彼女は、モデルを小型にしたような見かけで、いかにもつまらなそうに私達の狂乱の過去の話には加わらず、そのまま団体行動も消えてしまった。

彼は、間もなくその建築学科の女学生とも別れてしまった。

パリの学生パーティーに参加すると、またドイツとの差にも驚いた。
どこを見ても、視線と視線の間にはゲームがあり、どこの隅っこにまで行っても、男は男で、女は女であった。
ドイツのパーティーなどでもそういうことは起こり得たのだが、視線と視線が合えば、そこには一種のあの雰囲気が直ぐに介在したなどということはなかったのである。視線と視線には、単なる目の合う瞬間があったと言うのが殆どであった。
そういう意味で、パリの学生パーティーは、もっと自由奔放であったし、もっとエロティックであり、もっと面倒で、疲労するものでもあった。自分がその気がなくても、女として扱われてしまう女の殻を脱ぎ捨てることは難しい。美醜に関わらず、彼らは女性を女性として扱ったものだ。それは感心することであるが、ある友人など、フランス人は目から精子を飛ばしているなどと、酷い冗談も出たほどである。

そのパリを頻繁に訪れたのは、おそらく92年から95年ごろまでであった。その後10年以上してからパリを再び訪れた。子供達をおいて一人旅である。
懐かしい街角をいくつも見つけて過去を抱くように写真に収めた。

レ・アールで一人で買い物をしていたら、フランス語でチェックを書けと言われ、英語ではだめだと断固拒否されたところに助けの手を出してくれた、ベルナデットという女の子と、その後バゲットをほお張りながら散歩し、ベンチに腰を掛けた午後。夕方彼女の叔父さんの勤めるカフェに行ってご馳走になったこと。いつしか文通も途切れてしまった。

オルセーの帰り、対岸に行こうと渡った芸術橋で「愛らしいお姉さんただで描いてあげるよ」と声を掛けてきた、あのカーリーヘアのアーティスト。朝の散歩をしていれば、配達の自転車に乗って後ろから近距離で追い越す際に「サリュ、ボンジュルネー」と爽やかに振り返って走り去っていったあの若者の笑顔。
自分の外見の如何に関わらず、パリでは常にと言ってよいほど、挨拶をされ声を掛けられた。旅人には嬉しい思い出である。
当然、しつこく言い寄ってくる危ない人もいるのだが、それは常識的な感覚を持っていれば、直ぐにわかるものである。断固とした態度でいれば、意外にしつこく追い詰めてくるものでもない。

そうしてあの角のカフェ、この橋の向こう、この公園のベンチ、あそこのスーパー、ここのパン屋と、色々な街角を訪ね歩いては、一人ため息をついていた。

すべては、私がまだ20代という非常に若い年齢であったから、集めることのできた思い出である。

セーヌは、生きている。

当時のメモに、そんなことを書いていた覚えがある。
セーヌは、どの橋から見ても、どの建物を向こう側に目にしても、常に違う顔を持っているのに、完璧なほど、その雑多な風景に溶け込んでいるのである。
セーヌは、ただの川ではなく、息づいていた。それはパリの人々の活気、決して親切で気持ちのよい人ばかりではないが、大都会だからと言って、東京のように表情のない顔をした人は少なかったのである。
厳しい表情も、生きることの只中にあるそのことを象徴しているようにさえ見えた。
その人々の生きるという息遣いは、川の中にも溶け込み、川自身がキャラクターをもった生きる存在のように、そこここで、その豊かな表情を見せていたともいえる。

パリには、独特の魅力がある。
それは揺るがぬ事実であった。
現に、私は今でも遠いあの頃を思い出しては、あの街に深い憧憬を持っている。

冒頭に書いたように、留学直後初めて訪れたパリでは、フランス人女学生シルヴィーの知り合いの男性宅に間借りした。その思考自体が、日本から来た私には驚いたが、コンセルバトワールを卒業したばかりだった、ジャン・フランソワというその知人と彼の友人達の私に対する扱いにも、日本から来たばかりの私には、驚くべきものがあった。
その話は、またいつかどこかで書きたいと思う。

ちょうどあの頃リリースされ、毎日のように聞いていたアンテナ。







2011年5月14日土曜日

「硝子戸の中」から



女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛をきわ)めたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
私はどちらにでも書けると答えて、あん)に女の気色けしき)をうかがった。女はもっと判然した挨拶あいさつ)を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択おえら)びになりますか」
私はまた躊躇ちゅうちょ)した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのがこわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
私は女が今広い世間せかい)の中にたった一人立って、一寸いっすん)も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
私は服薬の時間を計るため、客の前もはば)からず常に袂時計たもとどけい)を座蒲団ざぶとん)のわき)に置くくせ)をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女はいや)な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が)けたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱くつぬぎ)に下りた。
その時美くしい月が静かな)を残るくま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄げた)の音はまるで聞こえなかった。私は懐手ふところで)をしたまま帽子もかぶ)らずに、女のあと)に)いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈えしゃく)して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目まじめ)に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、またうち)の方へ引き返したのである。
むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれがたっ)とい文芸上の作物さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。



不愉快に)ちた人生をとぼとぼ辿たど)りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりもたっ)とい」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来おうらい)するようになった。
しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母ふぼ)、私の祖父母そふぼ)、私の曾祖父母そうそふぼ)、それから順次にさかの)ぼって、百年、二百年、乃至ないし)千年万年の間に馴致じゅんち)された習慣を、私一代で解脱げだつ)する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
だから私のひと)に与える助言じょごん)はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人いちにん)として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
こうした言葉は、どんなになさけ)なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠におも)むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を)らしている。こんな拷問ごうもん)に近い
所作しょさ)が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着しゅうちゃく)しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸をきずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人のおもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に)き)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
私は彼女に向って、すべてをいや)す「時」の流れに従ってくだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。はげ)しい生の歓喜を夢のようにぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々なまなま)しい苦痛も)り)ける手段をおこ)たらないのである。
私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口きずぐち)からしたた)る血潮を「時」にぬぐ)わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
かくして常に生よりも死をたっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に)ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸ぼんよう)な自然主義者として証拠しょうこ)立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。


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七に関して

若い頃には解らなかった漱石の文章が、今なら少しずつでも心に入ってくるようになった。
何故生きるべきなのか。それに適当な答えを見つけるのは難しい。宗教的に死を選ぶことが罪とされている場合には、理屈はいらないのかもしれない。しかし死の方が尊いと思う心も解らないではない。

私は相当の馬鹿で阿呆で、この文章を読んだときに、「その女の始末」という言葉を、この会話をしている女を苦しめている別の女性だと思っていた。

しかし、読み進めていくうちに解らなくなり、もう一度読み返してやっと、この女が自分のことを漱石に話して聞かせ、小説だとしたら、この女、つまりまぎれもない彼女自身は死ぬべきか、生かされるべきかと聞いているのだと、やっとわかったと言う次第である。

そして漱石は、
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支(さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高(けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」

単に生きるという目的だけならば、生きていれば良い。しかし美しい、気高い心持こそが生きる理由になり得ると考えれば、問題は違うという。つまり単に息をして生きているだけでは、人間は生きていない方がましではないかという、女性自身の疑問を受ける形の答え方をしている。

そこで女が、
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖(こわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻(ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
と述べ、漱石は女が「広い世間(せかい)の中にたった一人立って、一寸(いっすん)も身動きのできない位置にいる事」を理解している。

そして漱石は、その後何も言わずに立ち上がって女を帰すのである。そのときのことを
その時美くしい月が静かな夜(よ)を残る隈(くま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄(げた)の音はまるで聞こえなかった。」と書いている。
おそらく、漱石はこの女の悲痛な人生を聞かされ、誰にどうすることもできない、つまり言葉では到底解決や救いのない問題を聞き、胸苦しい思いで彼女の天涯孤独と切羽詰った状況を知るのだが、彼の夜空を見上げる心は、その描写のように清浄であった。そして外套や帽子のことも考えずに、女の後ろに、つまり女の人生に寄り添っている。

そして女は、最後に「先生に送ってもらって光栄」だと言う。漱石は本当にそう思うかと聞き返し、女はそうだと答えると、
「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と伝える。
この光栄をどう解釈し、そして光栄ならば何故生きているべきなのか…。

それは女は初めて漱石に自分の人生を語りつくした。そして、語ると言う行為の間に、自分の人生に言葉を与えることによって、苦しみこそ生々しく浮き上がってきたが、それ以上に「これが紛れもなく自分の生である」ということを悟ったのではないだろうか。何を語ろうとも、どんな助言を請おうとも、自分の生は、自分にだけ与えられたものであると同時に、他の誰にもどうしようもできない。 なぜなら生を語るのは言葉であるが、自らの生とはやはり生きるものに他ならないからであろう。女は、これまでの苦労に満ちた人生を語りながら、同時に「美しい心持」をその生き様に実感し、それを失ってゆくことを極度に恐れている。
それを誰か、つまり漱石に語ったことで、彼女は捨てても良いと思った生を実感した。聞き手は言葉を与える代わりに、その苦悩も孤独も言葉を介さずに受け入れ、彼女の中に鼓動を打つような生命と生を尊いと思わせるような、覚悟や真剣さを見出し、寄り添うように送っていった。それを彼女にも、無言で理解できたからこそ、「光栄」だと言ったのではないだろうか。
だからこそ、「ならば生きていなさい」と云う答えになったのではないだろうか。
漱石は、死の方が尊い、と言いつつ、彼女の話の中に、生を尊いと思わずにいられないものを感じたのかもしれない。


「むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊(たっ)とい文芸上の作物(さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」

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八に関して

「私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷(きずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面(おもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱(だ)き締(し)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷(てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。」

これが女の背景である。

「私は彼女に向って、すべてを癒(いや)す「時」の流れに従って下(くだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥(は)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物(たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈(はげ)しい生の歓喜を夢のように暈(ぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々(なまなま)しい苦痛も取(と)り除(の)ける手段を怠(おこ)たらないのである。」

これが漱石の答えだった。

そして「深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶」を取り上げたとしても、「彼女の創口(きずぐち)から滴(したた)る血潮を「時」」によって止血させようと試みた。なぜ「いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当」と言ったのか、私にもそれは良くわからないのだが、それは彼女の奥ゆかしい生に対する姿勢が、命そのものをすでに尊いものとして捕らえている、それを漱石が感じ取ったからではないだろうか。

「かくして常に生よりも死を尊(たっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充(み)ちた生というものを超越する事ができなかった。」
それは人間の営みは、真剣であればあるほど、また運命というものに逆らいすぎずに、それを一種の自分に与えられた生としてひたすら生き抜くと言う姿勢そのものが、すでに尊いからなのだと、私はそう解釈したい。
そうでなければ、

「有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」
という文章は表れないのではないだろうか。小話や人生劇など現実の生に比べれば、その存在の尊さにおいて、比較にならないということなのではないだろうか。

最後に、彼女に生きていなさい、と言ったことに対して、凡庸な自然主義者ではないかと揶揄するが、漱石もまた生に対してなんとも慎み深いのだろうかと読み取れ、その漱石の温かい人柄、そして生きていくということは、根本的に淋しいということを知っている、そのような孤独を感じ取り、この話を読んだ後、えらく心を打たれて、暫し硬直してしまった。

私自身に重ねれば、やはりなぜ生きるべきか、何故生きていなくてはならないのかと問い続けた日々があり、自分の生き方を肯定できずにいた。私は残念ながら今まで、人生の歩みを言葉にして語り、聴いてくれる人があったという機会には恵まれていない。
それどころか、私は自分の人生だけは、延々と言葉にしまいと誓ってすらいる。他人にとって、人の人生など、どうという関心はないのである。しかしこの作品を読んで、彼女が語らなかったら、決して生き続けていたかどうかはわからない、ということを理解した。
彼女は、生に言葉を与えたことで、自分の生をその手で握っていることを実感し、救われたのである。
そして漱石は、尊い小説を読んだ後のような、人間らしい良い心持を感じた。

ここに、まさに私自身も救われるような思いがしたのである。
美しいものを見たかと問われれば、見たことがあると答える。
美しい心持にめぐり合ったこともあれば、自分自身からも深い献身を試みた、純粋な深い思いを知ったとも答えられそうな気がする。
それならば、それは私の人生の最大の幸運であり、傷から血を滴らせながら、その美しい心持を現在のまま保つことが生きることではなく、それを言葉として刻み込み、私自身の事実として色あせても手中に持っているだけで、十分幸福なことであり、それ以外の不愉快なことは、死ぬ理由でもなければ、美しさや純粋さを失うことが死ぬ理由でもない、ということを知ったからである。

現在は常に色あせる。
そして激しさの中で、傷の癒える時間を待ちきれないとき、やはり「語り」は己の人生を救うのではないだろうか。そして漱石は、それを強力に肯定しているのではないだろうか。
そして、人は書き、記録し続けるのではないだろうか。

2011年5月4日水曜日

萩原朔太郎 ― 月に吠える 北原白秋の序、及び序文からのメモ

月に吠える

白秋の序

「[…]さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互いの胸の奥底に直接に互いの手を触れ得るたった一つの尊いものである。」

「[…]さうして君の異常な神経と感情の所有者であることも。譬えばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。而もその予覚は常に来る可き悲劇に向て顫へてゐる。然しそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると云ふよりも、凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、まさしく君の肋骨の一本一本をも数へ得るほどの鋭さを持ってゐるからだ。」

「『詩は神秘でも象徴でも何でもない。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。』と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷はそこから来る。さうしてその葉の根の尖まで光り出す。」

「君の霊魂は私の知ってゐる限りまさしく蒼い顔をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは真珠貝の生身が一粒小砂に擦られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身であり、生身から滴らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明してゐる。」

「而も突如として電流対の感情が頭から爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。」

「天を仰ぎ、真実に地面に生きてゐるものは悲しい。」

朔太郎の序

「詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。」

「私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の 「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併 しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。」

「思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。」

「けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。」

「人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。[…]とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。[…]けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのであ る。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。」

「私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。こ の特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らな い。」

「詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。」

「私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。」

「私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。」


___________

言葉の一つ一つに息を吹き込んだという点では、Dichtungに通じる重みを感じた。
リズムが以心伝心だという言葉は実感できる。
ドイツ語をろくに理解できなかったときに、リルケの悲歌を音読し、ただただ涙が流れてきたのは、そういった韻の中にある、以心伝心、単語そのものの持っている命の存在の予感ではなかっただろうか。


危険な散歩

春になつて、
おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、
どんな粗製の歩道をあるいても、
あのいやらしい音がしないやうに、
それにおれはどつさり壊れものをかかへこんでる、
それがなによりけんのんだ。
さあ、そろそろ歩きはじめた、
みんなそつとしてくれ、
そつとしてくれ、
おれは心配で心配でたまらない、
たとへどんなことがあつても、
おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。
おれはぜつたいぜつめいだ、
おれは病気の風船のりみたいに、
いつも憔悴した方角で、
ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。




さびしい人格

さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤児の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活らいふ)の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

わたしの胸は、かよわい病気したをさな児の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。

自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰鬱にする、
むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、
ああ、都会の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

よにもさびしい私の人格が、
おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。


山に登る
旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでゐた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろつてくち)にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。

孤独

田舎の白つぽい道ばたで、
つかれた馬のこころが、
ひからびた日向の草をみつめてゐる、
ななめに、しのしのとほそくもえる、
ふるへるさびしい草をみつめる。

田舎のさびしい日向に立つて、
おまへはなにを視てゐるのか、
ふるへる、わたしの孤独のたましひよ。

このほこりつぽい風景の顔に、
うすく涙がながれてゐる。

雲雀の巣

おれはよにも悲しい心を抱いて故郷ふるさと)の河原を歩いた。
河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えてゐた。
その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れてゐる、
おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。
おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。
ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髪の毛のやうに、へらへらと風にうごいてゐた。
おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。
そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれはぐつたり汗ばんでゐる。
あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。
おれのたましひをつかむやうにしてなにものかをつかんだ。
干からびた髪の毛のやうなものをつかんだ。
河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた。
巣はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。
いとけなくはぐ)くまれるものの愛に媚びる感覚が、あきらかにおれの心にかんじられた。
おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。
おれはまた親鳥のやうに頸をのばして巣の中をのぞいた。
巣の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。
かぼそい植物の繊毛に触れるやうな、たとへやうもなく DELICATE の哀傷が、影のやうに神経の末梢をかすめて行つた。
巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。
わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。
生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。
死にかかつた犬をみるときのやうな歯がゆい感覚が、おれの心の底にわきあがつた。
かういふときの人間の感覚の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。
おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。
うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。
つめたい汁のやうなものが感じられた、
そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液体がじくじくと流れてゐるのをかんじた。
卵がやぶれた、
野蛮な人間の指が、むざんにも繊細なものを押しつぶしたのだ。
鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた。

いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。
その可愛らしいくちばしから造つた巣、一所けんめいでやつた小動物の仕事、愛すべき本能のあらはれ。
いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。
おれは卵をやぶつた。
愛と悦びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。
くらい不愉快なおこなひをした。
おれは陰鬱な顔をして地面をながめつめた。
地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいてゐた。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
なまぐさい春のにほひがする。
おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。
人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。
人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。
あるとき人間が馬のやうに見えること。
人間が人間の愛にうらぎりすること。
人間が人間をきらふこと。
ああ、厭人病者。
ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。
それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。
心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう。
おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない、
ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすらもない。
ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。
おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。
おれはときどき、すべての人々から脱れて孤独になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて涙ぐましくなる。
おれはいつでも、人気のない寂しい海岸を歩きながら、遠い都の雑閙を思ふのがすきだ。
遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷ふるさと)の公園地をあるくのがすきだ。
ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。
おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。
おれはくるしくなる。
おれはさびしくなる。
心で愛するものを、なにゆゑに肉体で愛することができないのか。
おれは懺悔する。
懺悔する。
おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。
利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いてゐる。
河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。
利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。
あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。
それらの顔はくらくして地面をばかりみる。
地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。

おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。



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壮絶な孤独と、精神にあふれている愛に形を与えて他者に与えたい欲求とが、本人の心を苦しめては罰している。これは、白秋の言うように「凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃」として表出しているように思うのだが、何故これらの詩には救いがあるのだろうか。

何か、確かに朔太郎の言うように、宇宙的な次元では、永遠に孤独ではないからなのかもしれない。
至る所に、自然との会話を感じる。

それは春であったり、寂しい木陰であったり、飛んでゆくつばめの群れであったりする。
一面に広がる海、そして身体に感じる風、そして歩きながら口に押し付けている小石。
そして孤独でも、日向に立っている、自然とどこかが触れ合っている。
感覚的に、私も読みながら、自分の中にある深い孤独や罪悪感を共感しつつ、身の回りの空気や自然を感じて、それに慰められるのであろうか。どこか実に日本的であると思う。

自然を描写し、自然を融合した文章を書く人は多く居るが、朔太郎の言葉は、日常なのだけれど、心の深い窓の中に小さなコスモスへの入り口があり、それがなぜか小さいけれど、深い傷口を鎮めてくれる。

癒すのではない。鎮めてくれる。
それが日本的だと感じてしまう。

2011年3月9日水曜日

春の陰影

春の光があって

空気が透き通って

毎日芽吹き始めて

ひんやりとした風も、乾き始めた土のにおいを運んでくれて

木々の上にちらほら見える黄緑色がいとおしくなる

でも予想のつかないことを恐れるような不安感がどこかにあって

誰も見ていない、だれも責めていないのに、罪悪感が募って

光の中に身をおいても、その灰色がどこから来るのかわからないときがあって

それが思わぬときに、未熟な種のまま顔をあらわにして

殻が破れてしまうことがある

そんな話みたいに、光があって暖かくなってきたのに、

どうしても通じ合えないものにも光が当たって

身体の傷と一緒に心の傷も深くなるのだけど

探ろうとして、試みようとすればするほど

ミシミシと傷が切れ込んで行き

どう転んでも悲劇の穴にしか引力が通じていないという失望感が見えてしまう

春なのに悲しいことや

青空だからこそ涙が出ることがあるけど

それは悲しいことや未熟なものみんなに平等に光が当たってしまうからだろうか

光のおかげで幸せになるのに

光のおかげで新たな影ができてしまう



昨日はそんな日だった

2010年5月10日月曜日

書くということ

ドストエフスキー「地下室の手記」より引用

… たんに思い出すだけでなく、書きとめようとさえ決心した今となっては、せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実の全てを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。ついでに言っておくが、ハイネは、正確な自叙伝などまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず嘘をつくものだ、と言っている。
[中略]
ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分一人だけのために書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、僕がまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽだけの形式であって、僕に読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
僕はこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序も系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
[中略]
だが紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると説得力が増すようだし、自分に対しても批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくると言うものだ。そのほかに手記を書くことで気持ちが軽くなるということがある。


ぼた雪にちなんで

迷いの闇の深いそこから
火と燃える信念の言葉で
おちぶれた魂を引き上げたとき
おまえは 深い苦悩に満たされ
両の手をもみしだいて
おまえをとらえた悪を呪った。
物忘れがちな良心を
思い出のかずかずで責めながら
私の知るまでのすべてを
おまえはものがたってくれた。
そして ふいに両の手で顔をおおい
羞恥と恐怖におののきながら
おまえとは 心ゆく涙にくれた、
怒りと 心のたかぶりを
どう抑えようもなくて…云々

N・A ネクラーソフの詩より

2010年4月23日金曜日

Julian Lennon雑考 ― オイディプスの旅を終えた彼のトラウマ

全然関係ないのだが、ちょっと思ったことで、それをどこに書いていいやら、ここに記すしかないの で記録する。





私が絶大なるレノンファンであるのは、周知の事実である。
なぜ、彼の前妻シンシアの息子が、音楽活動をしていたにもかかわらず、突然その活動を止め、世界から姿を消し、レストランなど経営し、マイスペースあたりでしか声を聞くことができなくなったのか、私にはなかなか理解できずにいた。
彼は、私より数年年上だが、ほぼ同世代である。

それなりの才能を授かって、デビューで花開いたにもかかわらず、かなりたってからインタビューで、父親を許せないと言うようなことを堂々と語っていたのには驚いた。その頃、彼はもう40過ぎていたのではなかろうか。

ここのところ、おそらく2005年ごろ、母親が再び、「JOHN」という題名で当時のお互いのバイオグラフィーのようなものを執筆出版したのをきっかけに、息子 のJulianもメディアに顔を出すようになった。

母親を全面的に支えており、レノン所有物の展示会だのなんだの、そういったイヴェントも、レノンの故郷リヴァプールにて協力して企画してるようだ。


彼女の本を読んだが、正直な人柄と素直な性格がにじみ出ており、批判に値するような毒を持たないため、メディアでも彼女に対する扱いは温厚である。
しかし文章そのものは、作文に近く、心に響く部分は多くあるのだが、自分の思考や苦しみ、悩みを深く掘り下げてみると言う経験が少ないのか、能力が少ないのか、果てはそういうことはしないと言う合理主義なのか、あまり作文以上の力量を見せることはできなかったと言うほどの内容であった。

レノンのような人間と離婚劇をしたからには、もっと精神的葛藤 や、精神的やり取り、修羅に至るようななじり合いさえあったっておかしくない。それほど彼は複雑であるし、自分勝手であり、しかし非常に傷つきやすく、不 安定な精神状態を抱えている男であった。

それが、彼女は始終何も言わないで時が過ぎていくのである。レノンが勝手に洋子を連れ込んで、彼女は怒りで出て行くが、彼にそれをぶつけないのである。最初に出会った頃から、彼のことを恐ろしいと思っていたという反面があったが、それは、終わりに至 るまでそうであったらしい。
 

と言うことは、彼女自身、あそこまでドラマチックな人生劇の裏で結婚生活を送っていたにもかかわらず、レノンとは共に歩 まなかった、あるいは歩めなかったのではないかと言う感じがする。

レノンは、家にいる時間は、初期の頃に限ればほとんど無かったし、サテリコンのような様で、酷い遊びを行っていたと言うことにも、ビートルズの女性陣は、納得づくで我慢せねばならないと言う面もあったろう。
しかしながら、 大人に成長していく二人が、本当に精神的につながっていたのなら、共に歩んだ軌跡というものがもうちょっと見えてもよさそうなものであるが、彼女の言葉からは、傍観し続け、我慢し続け、おとなしくし続けてきたという時間しか見えない。

おそらく彼女には物申す内容すら浮かばないほど、素直な人間で、捨て去 る努力を要するようなプライドの高さすら持ち合わせていなかったのであろう。

だから、若かりし頃のレノンと共に暮らすことが可能であったのだろうし、レノンも彼女をかわいらしいと感じていたに違いない。

しかし、猛々しい若者も、年齢と共に成長していくのは止むを得な い。レノンは、基本的に恐ろしく内向的なので、実は内へ内へと考えを深めていくタイプである。社交家で、華々しい成功を求め、真のエンターテイナーと呼べ るマッカートニーとは、根本的に違うのである。

ヒットソングを書けないと暫し悩んだこともあったレノンだが、彼の曲はもっと食いついてく るように語り掛けてくる。同じ感性を持った人間には、たまらないほど鋭い力で、問いかけてくるのである。
彼の音楽の軌跡を見ても明らかだが、彼自身の心の動きと彼の創作活動がシンクロしている。彼の音楽は多くの場合、カタルシス的に自分の療法として現れていることがほとんどである。それに対しマッ カートニーは、常に安定して世の中の需要にぴったりと適したヒットソングを書いてきた。

単純に言えば、価値の中心が外にある場合は外向的であるし、価値観が内面に向いている場合は、内向的といえる。その意味で、レノンとマッカートニーは、対極にあったといっても良い。

さて、その前妻が、ドラッグやインドへの傾倒を通して、レノンの内向的な精神的活動が深まていく様を指を咥えて見ているしかなかったと言うのは、信じがた いのだが、事実かもしれないと思うようになった。
彼女は、自著の中で、ドラッグさえなかったら、私達はまだ一緒だったかもしれないと言うことを言っているが、それを読んだ時、私はその短絡的な解釈にほとんどショックを受けた。
いかに当事者だとしても、それほどまでに関係の終焉を簡潔化 して納得するのは、なかなか難しい。

私も離婚経験者だが、その前後につむぎだした思考の糸は、無限に近く、ああでもない、こうでもないと自分に原因を探し、相手に原因を探し、世代に答えを求め、文化背景に影響を探し、果てはさかのぼって互いの育ちに埋められぬ穴を見つけ、また自分の身に帰ってき て、二人の成長線を心に描き、どこでそれてしまったのかと、その思考趣向の相違にまで思いをめぐらせた。

それは、決して解けることのないこんがらがった毛糸のようなカオスであった。

決して、あそこがこうでなかったらとか、あの時ああしていたらで止められるような、または方向転換できるような、そんな問題ではなかった。それなら離婚などしなくてすんだのだ。

問題は、複雑で入り組んでおり、様々な要素が絡み合っ て、そうならざるを得ないからこそ、離婚に至ったのである。彼女のように、ドラッグさえなかったらと、離婚後40年たった今でもそう信じているとしたら、 やはりそのシンプルな考え方や、ナイーブな性質にこそ、離婚の原因があったのではないかとまで言いたくなってくる。

レノンは、複雑怪奇で インテリな人間であったことを肝に銘じたい。

さて、話が飛んでばかりいるが、今日はこのことに関して書きたいと思い、そ の気力があるのでどんどん書いてしまいたいと思う。

その息子Julianは、この母を全面的に支えているとは書いた。二人で肩を組ん で、母の著書を紹介し、サイン会や講演に出席し、レノンの思い出話を語る。
そして、彼らのファンは、洋子を忌み嫌っている場合がほとんどである。

はっ きり言って、私は洋子に対して色々と思いがあり、決して彼女のことを認めたいとは思わない。
でも、この二人の姿を見ていて、微笑ましいと思って も、応援したいとは思えないのである。

そんなに君達は傷つけられ、虐げられたのか。だとしたら、今のその姿も理解できるが、実際人生を通 して、未だにそのテーマにしがみついて、本を書いたりインタビューで父を許せないと語るほど、トラウマになったのであろうか。
その辺が、私にはい まひとつ理解できなかったのである。

もちろん、私が伝記と言う伝記を全部読みつくし、記事という記事も読みつくしていると言う事実があっても、理解できない。

今晩、携帯のプッシュ機能が鳴り、JulianのFacebookがアップされたと言う知らせが入る。見に行ってみると、新曲が掲載されており、聞いてみると、これまた有名なBeatlesの曲、Lucy In The Sky With DiamondsのLucyは、Julianの当時の幼馴染であったのだが、そのLucyと言う名前を題名にした新曲なのである。

またかよ…

思わずそうつぶやきたくもなる。
まあ、この実在Lucyさんは、この秋若くして亡くなったばかりなので、彼女にささげた歌なのかもしれない。
それにしても、そのコメントに「もう父を許せる」と言うようなことが書いてあって、彼は46だかなんだかになるはずなのだが、そこま で時間がかかるものかと唖然としてしまった。

しかし、ネックになった理由と言うのがごく簡潔に書かれている。
父 はインタビューで語った。

洋子との息子Seanは、はっきりと望んだ子である。
Julianは、望まれた子ではなかった。事故 だったんだ。

この後、NYに渡ったレノンは、洋子との生活、洋子とのファミリーに心身共に費やし、Julianに会ったのは、離婚後暗殺 されるまで7回だったと言う話もある。
それが彼のトラウマになっているということらしい。
それは、何度も何度も読んでいたことだったが、今晩、突然、

いや、それもわかるかもしれない。それももっともかもしれない。

そんなことを思ってしまったのである。
な ぜだかは自分でもわからない。なぜ今だからわかると言う心境なのか、私にはわからない。

しかし、これはやはり重大なことである。直球でど 正直なレノンは、しばしばこのような発言をした。しかし、これが彼の息子の人生最大のトラウマになろうとは、彼自身思いもしなかったことであろう。

結 局、こんなことではないだろうか。

私には常々考えてきたテーマがある。自分では決して左右することのできない運命の一つに、生まれと言うものが ある。
そして、もしその生まれそのものに、不幸の種がまかれていたとしたら、具体的に言えば、望まれなかった命としてこの世に生を受けた場合、人 間には、根本的に生きていく力を授かっているのかと言うことである。

子供の教育は三歳児までと言うし、生まれてきた子供が3歳になるまで は、愛情をしっかりと与え、自己意識を安定させることが大切だとはよく言われているが、そういうことではなく、もし3歳児まで溢れるような愛情を受けて 育ったとしても、その生まれが実は望まれていなかった場合、その子が逆境にぶつかったときに、まるで自分では理解できない地の底から湧き出るような、いわ ば人生を生き延びていく生命力が、本当に望まれた子供達と同じように備わっているのか、ということをずっと問い続けてきた。

そして、今晩 私は、自分の生を父親から、こういとも簡単に公で「Julianは望んだ子じゃなかった」、

などと言われたら、もしかしたら地面にどんどんひびが入っ て、自分が恐ろしく小さく思え、周りの人間の顔もまともに見れないような、恐怖感を覚えるかもしれない、そんなことがあってもおかしくないと、感覚的に理解できた。

どんなに自分より劣った子でも、醜い子でも、恵まれていない子でも、彼らには、おそらくその子を望んだ親がいる。
しか し、僕にわかっていることは、僕は親に望まれなかったと言うことだ。

もし、これが事実なら、自分の存在価値を一体なにを物差しにして 計って良いのかわからなくなるだろう。生まれるということは、自然界の現象で、そこに望むも望まれるも、そんな倫理的解釈はもともとする必要の無いもので ある。でも、原始人じゃあるまいし、核家族のなか、小さな子供が育っていくときに、父親がインパクトの強い女性とさっさと外国に行ってしまい、インタ ビューで自分のことを望まなかったと答え、新しい女性と、不妊治療を重ねて念願の一人息子をもうけたという話を聞いて育ったとなれば、46のいい歳をした男が、未だに父を許すの許さないのと言うのもわかるような気がしてきた。

結局、私の話題はまた、レノンの前妻のCynthiaに戻るので ある。
彼女は、前述したような通りの女性で、何の罪も無い、まさに無実の人である。息子にも愛情を注ぎ続けて、立派な大人に育て上げたのである。 彼女が、弱い人間なのかといえば、決して弱いのではない。言うべきことを言わずに、そのまま「離婚されて」来た女性というと、まるで弱弱しい影の薄い人間 に聞こえるが、彼女は決してそんなに弱い人間ではないのである。

どこかそれでも芯が通っていて、経済的も自立し(レノンからは信じられな い微々たるお金しかもらっていなかった)、再婚相手も見つけるほどのバイタリティのある女性なのだ。話し方も、若干静かだが、抑揚があり笑ったり、泣いた り、とても豊かな感情のある女性だなとすぐにわかる。

しかし、生き延びる力と、自己意識の高さ、安定感は違うのだ。結果から言うと、ナル システィックな母親が子育てをすると、難しいと言うことである。ナルシズムと言う意味は、決して自己愛が強いと言う病理学的な意味じゃない。そうじゃなく て、他人の補償作用がないと、自分に自信が持てないという意味で。

自分が安定するために、または自分がこれでいいのだと思うために、他人の感情や、他人の言葉によってそれを一々確認しないと、確信できない人が多くいる。
私もそんな一人である。
子供は鋭く母親のそういった心情を察知して、母親が必要としている感情のみ表示し、それ以外の感情を抑圧したりする。母親のききたい言葉をさっと言って、本当は言いたいことを我慢して いたりする。
それは良い子でいたいという欲求からなのであるが、良い子でいたいのはなぜか。
なぜなら、母親自身が自分の精神状態や、人間 形成や、人生の問題で手一杯で、子供のことを愛しいと思っても、子供からもママはこれでいいのだろうか、ママのこと好き?、ママはがんばっている?などと 無言の質問を突きつけていることがあるのだ。
そして、このような母親もまた、同じような母親に育てられた犠牲者といってもいいらしい。

Julian の母には、最低限の性格的強さや、人間としての張りは備わっていたが、自信の無さにかけては、トロフィーものといっても良いほど、セルフエスティームが低 かったことは間違えない。それはレノンの度重なる浮気もあったろうし、アイドルとしての夫を失う不安もあったという様々な背景が複雑に絡み合って、彼女の セルフエスティームの低さは改善されることが無かったのであろう。そういう母の元に、大切に育てられたJulianは、父親の発言を知って、俺にはそんな 発言、どうだって良いと言える地盤が無かった。一年、二年で消化できる地盤が無かったのかもしれないと、ふっとひらめいたのだ。

地盤がな いといえば、まるで彼も軟弱ひ弱な感じになってしまうが、あの父とそれなりに人生を乗り越えてきた母親との子である。簡単につぶれるような貧弱な性格では ないはずだ。しかし、結局感受性が強いから、つまり非常に繊細な人間だから、一言一言が余計に突き刺さるのであろう。そして一々個人の価値と結び付けてし まうのである。

それこそが、ナルシシスティックな母親に育てられたことの証であるし、無神経な子供なら、そんな母親の無言の問いかけを踏み潰すよ うに、無神経そのものに図太く育っていくのであるが、才能があったり、繊細で利口な子供ほど、そのコミュニケーションの「裏側」にある言葉、行間のような ものを本能的に読み取るのである。

Julianは、自分の生まれに付随した「傷」に深く傷ついた。
そんなにみすぼらし子供でも、親に望ま れたなら胸を堂々と張って生きていけば良い。しかし、「僕は、父親にも母親にも望まれなかった」と悟りきってしまったら、それは思春期の子供には、突き刺さる ような痛みであろうと思う。子供時代に一回終止符を打って、思春期、青年期に移行する際、子供時代を締めくくれない子供がおり、中には自殺してしまう子供達も多くいるという。

Julianは自殺こそしなかったが、精神的にその代わり、彼は父親を殺したのだと思う。オイディプスのようであるが。その父親と今和解することができると、そう彼は語っているのだとわかってきた。

それにしても、悲劇的な話である。大スターの息子だか らゆえもあるし、離婚後、母子家庭ではないが、母だけが肉親であるという家庭に育った男児の問題でもあるし、もっともいけないのは、実父が養育に関する一 切を経済的なことを除いて、拒否したと言う点であろう。


ところで、無駄話だが、この離婚で彼女がもらった慰謝料というのは、レノ ンが洋子の前夫に払った慰謝料の3分の1とも4分の1とも言われている。Julianへの養育費も、スーパスターからは考えられないほど、微々たる物であ るらしい。


Julianの歌声を聴いた。それは張りを失い、つやを失い、ほとんど震えているように不安定な歌声であった。彼の顔 は、父親よりもいっそう母親に似ており、声色も父親とは根本的にかけ離れたものである。

その男が、父親の歌を題材に、今和解できると銘 打って、小気味良い明るいポップソングをリリースしたという。
私は、なんとも言えない心苦しい気持ちになって、ほとんど同情の気持ちがわいてき て、これを書いているという次第である。

ご苦労様でした。
親にされた仕打ちというのは酷い言い方だが、親が偉大なのも楽ではな い。また、レノンもそんな発言を世界に向かって発言するようなナイーブな面を持っていたのだからしょうがない。こういうときこそ、抑制、自己制御という言 葉を思い出さないといけないと思う。

自分に正直で、心に正直に洗いざらい言えば許されるということは、大間違いである。

正直さゆ えに傷つく人が多くいる。
息子はある意味、この言葉の犠牲になって、生まれを検証する作業に入ってしまった。
そこで母親が安定して、精神的に極め て健康な人間でなくとも、せめて無神経な図太さでも持っていてくれたならまだしも、繊細で感受性が強い上、息子の自己肯定の答えを与えられるような土台な ど持っているはずもなかったのである。彼女こそ、私はこれでいいのかと、更に問い続ける人生に突入しており、Julianが青春時代多かれ少なかれドロッ プアウトしたのは、もっともな結果だったといえる。

50を前に、彼はオイディプス同様、放浪のたびを終えたらしい。失明こそしていないが、オイディプスがテゼウスに保護されたように、彼にも聖林のような、聖家があるのであろうか。
ちなみに、彼は結婚もしていなければ、子供もいな い。無論、そこはオイディプスと違うのであるが、Julianがそこに至れなかった理由、つまり彼の放浪の旅の全面が、今晩パーッと視界に広がった。

ある意味、これからもこうして皺を増やしながらも、父親の影との戦いをまだ続けていくのかと思うと落ち込むのだが、運命は本当に厳しい。

父親を殺した後の旅は終えたのだ。
早く聖林に入って、女神達となぞの死を遂げるような方向に進んでもらいたいと思う。

洋子のこと、レノンと彼女の息子Seanのことにも、こうして綴ってきたこと以上の思いがある。

また体力と気力があるときに、書いてみた い。


2010年4月14日水曜日

絹糸の一すじ

人生は、まったく止まることを知らずに流れていくものだと思う。その日を生きる生活に追われつつ、さまざまな感情に襲われては、また通りすぎと、すべてが限りある時間という流れの中で、時に私の心を揺さぶりながら、時に私の心を硬直させて、また形の無いものとなって流れ去っていく。

私の人生もめまぐるしい動きの中で、様々な物を失ってきたけれど、それでもある中心だけは、まだ失わずになんとか持ちこたえている。


「存在しようと!」と心に決めた以上、
欠乏がこの世にあるなどという迷いにおちいるな。
絹糸よ、おまえは織物の一すじなのだ。

たとえおまえが心の中でどのような模様に織り込まれていようと
(それがたとえ痛苦の生の一こまであろうと)
讃めたたうべき壁掛けの全体こそ、おまえの志であったことを忘れるな。
R.M. Rilke "Die Sonette an Orpheus"


日々、単調に生活を続けていく中で、まるでこの国土にすっかり魂を吸い取られてしまったかのように、あの予想していた孤独感にふっと襲われる。それは、決して具体的に言葉にできる感情ではなくて、もっと動物の本能のように、胸の中から嗚咽するように、吐き気にも似た形で、思いもよらぬ瞬間に、私の喉元にやってくるのだ。
もはや誰かに思いを告げて、慰められるような類のものではなく、日常に口をついて出てくる言葉を失ってしまったかのような、恐ろしい孤独感である。
死を意識しているのではない。むしろ、死が美しい安らぎのように思えるほど、この孤独感は、黒く深く、不気味なのである。止むを得ず、私はそれに立ち向かい、まるでそれこそ絹糸の一すじとして、模様全体を相手に、糸を切られない様に、波に全身をゆだねるしか手立てがない。

不思議なことに、そうしていつ私を襲うかわからぬ孤独感にしっかり向き合い、瞬間に目を背けずにしっかりと見つめ耐え忍んでいると、まるで浮き彫りになるように自分の中心というものが形どられて来るのを感じる。
生は私を見捨てたどころではなく、しっかり私という存在を手中に収めて、一すじの絹糸となるために、何がしかの意味を与えてくれようとしている。何処か特定できぬ中心から、これで良いという肯定の感情がふつふつとわいてきて、生が私を見捨てるわけは無いはずだという深い信頼感が生まれてくるから不思議なものである。

今までの失敗も、今までのおろかな行為も、今までの軽はずみも、今までの気分の行動も、一つ一つに判断や評価を与える必要は無く、私は、次々と私の目の前に現れる出来事と正面から見つめあうこと。そしてその際、意味があるのは唯一私自身の心の中に見るべきものを見る訓練をつんでいくことだけである。

それまで多くの悲しみも痛みも、絶え間なく襲ってくるに違いないであろうが、必ずや私は生き延びるであろうし、それでこそ、やっと織物の模様の一すじとなって形跡を残すことができるかもしれない。その程度のものである。

数えることも計算することもせずに、何が自分にとって幸福であるとか、何が不安であるとか考えることなく、ひたすら生に信頼感を持って生に自らをゆだねきってしまうことにより、生きるという本質が、実は野生のように荒涼としており、苦痛というのは、「肉体に対する鈍い誤解」にしか過ぎないということを発見するのかもしれない。

それは夢のなかでのこと ―― 僕の心は 悲しかった。
君は蒼白めて 不安そう。 と 君の魂は 鳴り出すのだった。

かすかに かすかに 僕の魂も鳴った。
二つの魂は 歌いあった ―― 「わたしはつらい」と。
すると僕の心の奥ふかく  安らぎが生まれ、
夢と昼とにはさまれた  銀の空に  僕はいるのだった。
  R.M. Rilke "Briefe I"

この詩を読むと、私は何をしていても、まるで身体反応のように涙が出てきてしまう。ドイツ語もわからない頃、Rilkeの詩を音読することが楽しみだった。意味を解していないのに、音読を重ねていると、必ずどこかで突然の嗚咽に襲われる。日本語訳を見ると、そこには必ずや、深い悲しみや失望や、それでも純粋に終わることの無い生と神へのしっかりとした信頼感が書かれているのだった。

まるで、ドイツ語など理解せずとも、言葉には独立した力と生命力が宿っているかのように、私の心に襲い掛かってきたのであった。
その時、初めて言葉の持つ威力に気がつき、詩作というもののひたすらに重いその質量を感じ取ったものだ。
何故なんだろうか、この詩にあるよう「悲しい」という言葉には、すべての言語にまるでこの悲しみの感情が刷り込まれているかのよう効力がある。einsam, traurig, sad, sorrow, triste, lacrimosoなど、どんな言葉にもそれに応じた魂が宿っているのではないか。そんなことを考えるほど、Rilkeの詩から発せられる生命力は大きかったのを覚えている。

つらい時、何度も何度もこの詩を音読し、何度も何度も涙を流し、読んでいるうちに、次第に心の中に、絶対に大丈夫だという力がわいてくるのを待った。

詩は、言葉の錬金術という表現に最近こだわるのは、それをこれまで以上に実感するからである。紡ぎだされる言葉には、作者の全人生が投入されており、そこに、彼の流血を見、彼の不安を感じ、それが一つの言葉の中に、さまざまにいりこんだ深い感情となって、刷り込まれている。一語の生まれるまでの彼の生きてきた過去とその悲痛な孤独を何故こうして瞬時に感じることができるのだろうか。

それは天才といってしまえばお終いであるが、私個人の肯定感情が、作品の中で生まれ、そこに私はとてもではないけれど、自らは表現することの不可能な、広大な広がりを見て、自分を埋没させ、作者の助けを借りて、私自身をそこに見つけるのである。

私自身を見つけるために結局生きているのであるが、それは死を目の前にしても、以前見つかることの無い答えでもある。
自分の生が何であったのか、それを判断するのも考えることも人生の役割ではない。
そうではなくて、その過程で、孤独を味わいつくし、深淵まで恐れることなく下って行き、自分と何年にも渡って対話することが役割なのかもしれない。
そうして、やっとこの魂を伴った言葉をたった一語生み出すことができるのかもしれない。




2010年4月10日土曜日

孤独な老婆の目から湧き出てきたこと



今日久しぶりに、動物の目を見たような気がする。いや人間の目なのだけれど、動物の光を放っていた目。

先ほど買い物に出かけた。食べるものぐらいは美味しいものをと心がけているが、やはり高いスーパーで一週間分の買い物をするのはもったいない。
安いスーパーに行って、そこで、できるだけ新鮮なものと良い商品を見つけて買い込んでくると言う習慣。

末息子と共に入ったいつものスーパー。なかなか広々としており、普通二台の大型買い物ワゴンが通り過ぎる余裕は十分ある。そこに、一人の初老の夫人が通りがかり、どうもそのワゴンの角が、そこでパンを選んでいたもう一人の初老の女性に当たったらしい。

当てられた女性は、

「ちょいと!あなた人間の子供でしょう?見れば分かるもの、何でぶつかってくるのよ!」

と怒鳴る。他方の女性は、すでに通り過ぎた後、振り返りもせずに背中を向けていた。傷ついたといった風情でもない。

私は、家の裏庭の桜の木が 満開になったことに快くしており、美味しいものを子供たちにサービスしようと実に気分が良かったため、あまりにもその残酷な反応に、半ば腹が立って、その怒鳴った女性を見つめた。だれが、此れしきのことで、人々の気分を簡単に翻すのか見てやりたかった。

その女性は、くたびれた綿のジャンパーを着て、なんともしまりのない姿でそこにたたずんでいた、買い物ワゴンに身体を寄りかからせ、半分白髪で、ハリネズミのようにただ散切り頭に刈ってあるそのショートカットは、妙に貧乏くさく不潔に見え、付かれきった顔には、まるで今までの人生の苦労が全て刻み込まれているような萎れ方である。白い肌は、蒼白に見え、落ち窪んだ目の下には灰色の隈ができている。飲酒で身体を痛めたのではなく、苦労と不満と欲求の塊として、長年生きてきたために、顔に生気を失ってしまった。そういう様相であった。

しかし、その目には、恐ろしい光沢が光っていたのである。シチリアの知人宅に滞在していた時、夜外出したのだが、あの時丘の上の空き地に、10匹以上集まっていたであろう、あの恐ろしい野犬の目に良く似ていた。

自動車のライトは、その粗い体毛を照らし、灰色の混ざった硬い毛並みを光らせていた。黄色がかった目をぎらぎらと光らせて、野犬たちは一斉に自動車に乗った私達に向かって吠え立てる。
飼い犬の、媚びたような愛らしい目ではなく、人間に触れずに、人間に対向して生き延びてきた野生の光は、鋭く、まるで突き刺してくるような恐ろしさがある。

その初老の女性は、うつろな目蓋の下に、そのような鋭い光を放っていたのである。まるで、目だけを見れば野生化した人間のような、孤独な光であった。

ドイツに生きていると、ネガティブなエネルギーに時々、陰鬱な気分を移されることがある。それは、生きる階級とは関係なく、フランクフルトの空港で、図体のでかいビジネスマンに突き飛ばされても、横を歩け!と怒鳴り散らす人間も少なくない。前を見ろ!ならまだしも、横を歩け!とは、一体その言葉の背景に、どのような傲慢さが隠されているか、想像するに難くない。
官庁に行けば、目も見てもらえず、まるで一枚の書類のように扱われることもしばしばであるし、サービス業に至っては、注文させていただき、買い物をさせていただくと思わせる場面もしばしば。個人の敏感度にもよるが、人種差別の話題に至っては、何をかいわんやである。

この国には、陰鬱を誘う何かが隠されていることは事実だし、天候と同じように、暗い雲に包まれたように、社会が沈黙しているとも感じられる。議論も平等で正当性も謳われる国だが、それでも一番大切な何かは、すっかり国土の下に凍り付いて埋まったままになったかのように、ただただ重い圧迫感として感じること以上、探りようもないのである。

合理的な理論が、ここまで簡単に受容され、賛同を持って生活に組み込まれている国は、他に例を見ないのではないか。私には、体感的な事実としてしか、説明のしようがないのだが、合理的な考えが、最も正しく、最も理にかなっていると納得するほど、この人たちには、生活には「必要のない」想像力が備わっていない。 ファンタジーがないのである。

人の心や、気持ち、言葉の意味を考える時に、頭脳の明晰さとは別に、ファンタジーとも言える想像力が、とても大切な役割を果たすと思うのだが、この国の人々には、すっかり重要ではないものだとみなされて、削除されてしまう。まるで、キリスト教の五感の楽しみが、削除されてしまったように。まるで理解に及ばないラテン語のミサが、すっかりなくなってしまったように。もしかしたら、そこには響きという体感があり、響きを通した神の存在や、心の何かとの遭遇があるかもしれないのに、そういうことは証明できない。よって、必要なき物とされてしまうらしい。
私個人にとっては、生きにくい国である。 機能的だけれど、機能的なことばかりしていると、人間は、発狂しそうになる。

この野性の目を持った初老の女性は、このような背景で、貧しい環境に不幸を募らせて生きてきたようである。不幸の愚痴をこぼすにも、お金がない、失業した、浮気された、子供が犯罪を犯した、といったような、ある事実を述べ立てていくことしかできないのだろう。そこで、絶対に体の奥深く似蓄積しているはずの、辛苦の感情は、言葉の形をとって発散されることができないのである。教養の問題ではないと思う。そうではなくて、心を感じる能力が、彼女にはあまりなく、彼女の性質もあるが、それには間違えなく、この陰鬱な国土からじわじわと表出している、社会全体の沈黙の圧迫感に抑圧されたまま、存在せぬものとして葬られてきたのだ。

孤独とは、こういうことで、社会に属しているから、連帯感があるというものではない。一人ひとりが、自分の目に見えぬ心に、言葉を与えて、そして形にして表出させていくことから生まれる、コミュニケーションこそ、何かを生むのであって、それ以外の言葉など、実は機能させるための道具の言葉でしかない。

しかし、こうして本当の自己の言葉を失ってしまった人々に、一体なんと声をかけてゆけばいいのか。本当のコミュニケーションを忘れてしまった社会で、辛苦の極みを舐めてきた人間は、社会からすら葬り去られ、その目には、ぎらぎらとした野犬のような光を秘めているのである。それはぞっとするような孤独とアグレッシブさを突きつけてくる。

 機能と合理を追求していくと、忘れ葬り去られた無意識の次元は、すっかり太古的になり、野生化しているのかもしれない。
けれど、それがゲルマン人であり、その陰鬱から、時に、他の民族には例を見ない論理性と感受性、そして内観を伴った芸術が生まれると言う不思議がある。
孤独と対決しながら、常に己を知るために、言葉を捜し、言葉をつむぎ、言葉の錬金術と言えるほど、その抽出過程に人生全体を投入する作業を続けることで、きっとそういうゲルマンの文学や芸術が生まれてくるのである。

最近考えたDichtungという言葉は、アンドレ・ブルトンが以前シュールレアリズムに当てはめた、「言葉の錬金術」に他ならないと、買い物のあとふっと思いついたため、備忘として書き記した。

ツイッターのフォロワーの方から、マンがDichtungをデモーニッシュと例えたという教えを頂いたが、まさに錬金術のように、化学反応を起こさせ、同類から同類を生み出すような錬金術の過程は、デモーニッシュと言えるほど、複雑で時に自分の制御を超えてしまう反応が起こることがある。本当の自己の言葉とは、発するまでに実は、気の遠くなるような年月と経験が必要なのだと、改めて実感した。

陰鬱な地では実に明白なことだが、生きるに当たってその絶対的な孤独に打ち負けない方法は、ひたすら己との対話を探し出していくこと以外にはないと、そんなことを考えた。

2010年4月6日火曜日

フアナの狂気



今日考えたことは、正常と異常の境目は当然つながっていて、その線は曖昧だということ。フアナの本を読んでいても、彼女が病理学的に異常、つまり二大精神病である、総合失調症や躁うつ病だというには資料も少ないが、言い切れないわけで、症状もボーダーライン上にあるという気がしてならない。

そもそもボーダーラインと呼ばれる性格、性質があるように、人間は誰しも正常な部分と異常な部分を持ち合わせている。

私は医者でもなければ、いかなる専門家でもないので、これについて語ることはできない。そういうのは専門書を読めばいい。

ただフアナの本を読みつつ思ったのは、嫉妬する女は怖いとか、嫉妬は愛情の形とか、嫉妬深いとか嫉妬心というのが、大問題になっているけれど、嫉妬心は性格特性だけによるものじゃないと思う。
状況によって、嫉妬心が強くでてくることもあるのは、誰でも知っていることだと思うけれど、私の個人的体験では、様々な要因が重なって嫉妬心が煽られることがあると実感する。

まず、本人自身のコンプレックスの度合い。コンプレックスを持たない人間はいないが、そのコンプレックスが強いと、自信のよりどころが不安定である。なので、ちょっとした変化や出来事は、割りと簡単にその閾値を越えて、ストレス状態を生み出してしまうことがある。こうなると嫉妬はストレスによって左右されるとも言えるのではないか。

そしてその変化や出来事は、おそらく第三者や環境によってもたらされる。
何を仮定したいかと言えば、世の中には、もちろん故意にではなくとも、相手をヤキモキさせて常にストレス状態の閾値あたりに縛り付けておくような行動があるのではということ。

これも個人的体験によるものであるが、当人はあっけらかんとしてるが、果てしない灰色状況を保ち、信頼関係を築こうと努力はしてくれるものの、そのコミュニケーションに本人の魂が宿っているのかどうか、どうひっくり返しても分からないという場合。
何度慰められて、何度信じてくれと言われても、魂の宿らない言葉は、神経のむき出しのセンサーのようになったストレス下の嫉妬心には、あまり効き目がない。

もっと酷いのは、相手自身の行動が神経症じみていて、さまざまな人格を操るかのように複数の仮面で接してくる場合。
ある日は愛情深く、本人も愛していると信じて疑わないので、こちらも100パーセント心を開いてしまう。開かざるを得ないような正直さで、真摯に愛されるのである。つまり、こちらは傷つきやすい面を相手に委ねていることになる。
ところが、予想できないきっかけにより、相手はいつ豹変するか分からないことから、ストレス状態への閾値にいるという緊張感は、一向に変わらない。
そして、文字通り、昨日あれだけ愛されていたはずが、今日は罵倒され傷つけられ責められるといったことが起きる。こちらは、言い返すも元々通りが通っていない相手の行動である。道理で勝負すること自体が無意味と言うストレス。

つまり、このような態度をとられると、売り言葉を買えば大喧嘩になり傷つけあい、売り言葉を買わずに相手の言葉に迎合すれば、お前は本当は聞き流していると罵倒され、無視すればどの部屋までもどんなところまでも追いかけてきて放してくれないという事態になるのである。
よって、相手がこうなると、うずくまって耳をふさいでいようとも、嵐は必ずやってくるのであって、売り言葉を買おうが買うまいが、そのストレスの度合いはどれをとっても同じと言う結果。

こういう相手の行動を私は、精神的テロ行為だと位置づけているが、こういう男性と例えば何年も生きていると、一体どちらの言い分が正論を述べており、健全であるか分からなくなってくることがある。

正常と異常の境目は、完全に煙にまかれてしまうのだ。

フアナは、アンテナのように繊細な心を持ち、不安感を抱え、政治的にも社会的にも若くして過剰な役割を担ったと言うストレスがかかっていた。そして言葉の分からないブリュッセルに嫁ぎ、夫フィリップだけが頼りであったが、このいわゆる浮気者で有名な王子は、おそらくフアナの情熱的で不安定な性格に疲労したのもそうであろうが、当人自体の行動も、大いに灰色ゾーンに包まれた上、彼女に対して熱くそして冷たく当たり、約束をし、それを破りと言う行為を続けたに違いない。さらに政治的な権謀数述が関わってきて、信頼関係の土台は崩れ去ったにもかかわらず、彼らは殆ど最後まで、男女としての交わりは止めなかったのである。

狂女として彼女を知り、狂女として何世紀も有名になってしまった彼女についてより多く知ったとき、私は非常に悲しくなった。何日も何週間も、悲しみに明け暮れて、彼女の生きた世界から抜け出すことができなかったことを覚えている。
当時、私は近世の死者のミサやMemoriaについて勉強していたので、死者が現存するものとしてごく当然に扱われていた当時の世界観に浸りきっていたともいえる。その中で、夫の遺志を遂げるべく、棺桶を引きずりながらスペインの乾いた国土を厳冬の中グラナダを目指し、さまよい続けていたフアナの姿を思い浮かべると、これが原因で狂女と言われたけれど、やはり納得がいかない気持ちで一杯になった。

彼女は、常に想像を絶するストレスに曝され、ストレス症状(現代ではパニック症候群やノイローゼといった神経症)を発し、それが唯一甘えの対象、頼りの対象であったフィリップへの嫉妬心として向けられた。しかし、実はこのフィリップ自身が、彼女の嫉妬心を静めるべく術を知らず、精一杯の愛を持ってなだめても、彼女の深く繊細な心の奥までは到達できず、彼女にとっては灰色の答えでしかなかったり、また彼自身の行動の支離滅裂さが、一層嫉妬心を強めてしまったと言う結果になったとも言えるのではないか。

何故今、またフアナに舞い戻って 考えているのか、私自身の中にある原因はわからない。

けれど、正常も異常も、私はそんなことどうだって良いと今日考えた。
病理としての精神病が発見されたなら、薬を飲んで治療する必要があるが、そんな症例は少ないだろう。

今日、ツイッターである方が、「そういう精神病患者は一目見ればわかる、フアナの場合は、精神病ではなかった。環境がそうした。私の感がそう言う。」と返事を下さった。
おそらく医師であろうと思うが、ずっしりと信頼できる言葉であった。

フアナをみても、現代の医師は、おそらく神経症と診断するのではないか。
そして、神経症なら、私達皆、多かれ少なかれ神経症であるということは、間違えない。

今日の思考は、こんなところであった。

2004年5月20日木曜日

楢山節考

今朝は、朝九時に元旦那宅まで小猿たちをお迎えに行った。彼は、今ポツダムでオペラを指揮しているので毎日大忙し。夕べ八時に小猿と食事に行って、今朝またポツダムへ戻る。私としては、せっかくの休日だから、八時半なんかに起きたくなかったんだけど、しょうがないか。おかげで、午前中は家事をしまくった。お昼もちゃんと作ったし、まあ、良い気分だろうか。

昨日、今村監督の映画、楢山節考を見た。二回目だったんだけど、もうずいぶん前だったので、新鮮。
当時のモラルというのは、今の社会ではまったく想像の出来ない基準によるものであって、そこで取り決められている、様々な冷酷、粗暴なしきたりも、突き詰めれば、自己防衛なのかと納得した。そんな難しい言い方じゃなくても、東北の山深い貧しい農村では、目的はただ、冬を越えて生き残ることのみだった。つまり子孫繁栄という基本的な条件が確保されること。それを危うくするような事柄は、人殺しという手段をとろうが、ことごとく抹消されたということだろうか。作物を盗むということは、人殺しよりも重い罪とされる理由かと思う。男の嬰児を育てて冬を超えられないような場合は、それを殺すのも致し方ないというような状況であった。それほど生活が苦しいから、姥捨てというしきたりもあったのだろう。

映画は、最後の十五分が決め所という感じと私はとった。まあいろいろと目を背けたくなるような、冷酷な場面があるのだけれど、私にはそれをどのようにとって良いのか分からなかったのだが、最後の場面を見ながら急に謎が解けたような思いがした。
生き残りのためには、感情的なことなど構っていられない。自らの父母を背負って山に捨てに入らなくてはならない。今まで誰もそれを疑問に思ってきたものはいない。元気がよかろうが、七十になれば山へ入った。自分の食べる量を他の家族のためにまわした。ところが、主人公の息子は、母親を骸骨の敷き詰められた谷へ置いて去る時、最後に泣き崩れる。そういう繊細さが、こういうしきたりへのひそかな反発を一瞬呼び起こす。が、それは本人の意識までは上らず、やり過ごすしか出来ない。
暴力と冷酷さと死、そして厳しい自然のおきてが、日常というレベルで深く入り交ざった生活では、死や殺人すらしらけた目で見過ごされるという、恐ろしさではなく、むしろ深い悲しみが深く根付いていると感じた。厳しい日常は、感情などというものをことごとく無視し、麻痺させる。そして人は春になると、動物のように狂ったように交尾する。何か非常にストイックな生活からの爆発のような反応に見え、それが何か無性にもの悲しくさせる。
重いテーマではあったが、今村の淡々としたリアリズムにも似たスタイルが、見る側の感情を必要以上にあおったり、支配したりすることが無く、それでいて、最後まで見る側の感覚を奈落の底までも落としてしまうような重みと深みにあふれていた。83年にカンヌで賞を取ったのもまったく頷ける。非常に考えさせる作品だった。

しかしこういった記録は、書かれているものは皆無で、口で言い伝えられてきたものに違いなく、大変なリサーチだったのではないだろうか。非常に忠実に語られていて、その点でも素晴らしい業績ではないだろうか。

しかしモラルとは、なんとも押し付けがましいものだろうか。人間の中心にあるような本能的な良心、(そういうものがあればだが)そういうものとは少しも関係ない。モラルとは社会が作り上げるもので、まったく恐ろしい威力を持っている。いろんな意味で唸ってしまった。

小猿たちが、中庭で叫びまくっているから、さっさと呼び寄せないとだめだろう。そろそろ切れたらしい。