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2020年8月26日水曜日

走り書き

 30年ほど前に、私はパニック障害を患った。その頃、パニック障害などという病名はまだなかった。もちろんインターネットもない、何の情報もない。しかも私はドイツという外国に来て、まだ3年ぐらいしかたっていなかったから、まったくもって情報に乏しい環境にいた。
卒業試験を終え、これからという時、私は進路に迷っていた。自分の専攻楽器が大嫌いで、こればかりは今に始まったことではなく、その楽器を始めたときから好きだとも思えなかったのだが、親に楽器と恩師まで与えられたので、嫌と言えなかった。それでずっと続けてきた。
その楽器で留学することにしたのは、それが唯一の脱出の手段だったからである。

学生中に最初の夫に出会い、そのかつて見たことのないスケールの才能に巡り合い、私は大きく打ちのめされた。最初は恋愛のれの字もなかった。互いに他に好きな人がいたと、そう記憶している。

私たちは友人関係として会っていたが、いつしか別れると電話するようになり、相手にまた会う日を楽しみにするようになっていた。そうして純粋な友人関係としてスタートした私たちの関係は、その後私が死ぬまで書くことはできないと思われる経緯をたどって終焉を迎える。

それほどの人間に巡り合った私は、自分のようなディレッタントな人間が、音楽家になるよりも、このようなすでに世界に十分に貢献している素晴らしい演奏家を支えるべきだと決心し、試行錯誤の後、自分の本業を捨てることにした。

今思えば、それからパニック障害が始まったのである。
最初はとにかく心臓が凄まじい速度で破裂しそうに脈打つので、心臓病に違いないと思った。何もわからない学生の身分(本業をやめた後の試行錯誤の間、私はさらに別の学業を続けることにしたのだ)で、私は近所の内科医に駆け込んだ。その女医は私の健康診断を行い、2回会っただけで、おそらく身体は健康だから、心療内科の分野ではないかと思うと私に伝えた。そして精神科医を紹介してくれたのだった。

精神科医を受診した頃、私は藁にも縋る思いだった。毎週何回も発作に襲われ、とても生きた心地がしなかったのである。

女医は、何回か面談をした上で、私にそれはパニック障害という病気なのだと診断を伝えた。そして心理療法を進めたが、私は他の国に引っ越すことになっていたので、彼女の患者になることはできなかった。薬を出すかと聞かれたが、私は「引っ越し後、そこで他の医師を見つけ、自分で何とかしたいから薬はいらない」と断って最後の面談を終えた。

その後、私は数年にわたりパニック障害と闘った。それについては、いつかまた書くことができればよいなと思っている

しかし、パニック障害は完治していないのだ。未だに私はパニック障害に襲われるのである。
ある数年影を潜めていたが、上二人の思春期が去り、少しは幸せを実感できるようになったというのに、未だにパニック障害が静かに姿を現すのである。

つまり、原因を追究できていない。最初の女医は、間違えなく結婚生活と夫に原因があると言い切った。
国が変わった後に会った心理療法士も上記と同じことを確定した。それは当時はそうだったのだ。夫が帰ってくると空港に迎えに行くと、空港で発作に襲われた。明日夫が帰ってくるというその前の日に青天の霹靂の様に発作が襲ってきた。当時はあれが原因だったのだ。

しかし、その後も続くのは何故なのか。私にトラウマがあるのか、私が何かを抑圧しているのか、今の私には謎が解けないのである。
しかし、私は「家族」「団欒」「幼い子供、特に幼女」「結婚の崩壊」「夫婦喧嘩」「子供への罪悪感」というテーマに触れただだけで、心が崩壊する。二度と訪ねられない土地というのいくつもある。その土地を踏んだだけで嗚咽し続けるような場所である。
これはいささか尋常ではなく、やはりまともに心理療法士に会ってこの消えぬパニック障害のことを話すべきだという気が今さらしている。

単に大きな蓋を被せてしまっただけの過去だが、その中にはとてつもないマグマが潜んでいる。今までだれ一人私は自分の過去を話したことはない。それは私がそれについてまったく話せないからなのだ。しかし、いよいよ蓋を開けなければならない、そんな気がしている。

____________


本業をやめたあと30年近く経つが、私は今でも全く同じパターンの悪夢を見る。
試験会場にいる。舞台のそでである。自分の番はもう目前だというのに、楽器がない。血眼で探す。忘れてきたのか。そして焦って気が狂いそうになりながら探し回るというパターン。
楽器がない、友人に借りる。恥ずかしくて穴があったら入りたいというのに、楽譜を見ると一度も目にしたことがない曲だ。一日も練習していないので、初見で演奏するしかないというパターン。
楽器はあっても、必要な道具がない。またはその道具だけが新品で、一度も試奏したことがないから、一体どんな音色になるのかもわからないというパターン。
卒業試験のプログラムは3曲である。そのどれも入学して以来2、3回しか練習していない。突然できるようなものではない。というのに目前に迫っており、舞台に引きずり出されるパターン。
試験ではないが、自分はレッスンに行かなくなってしまい、教授とのスケジュール合わせに参加しなくなって何か月も経ち、しかし教授も何も言ってこない。風のうわさに私はもうやめたいということを知っているのだろうか。ということは卒業証書はもらえない、だって練習などもう何年もしていないのだから、卒業試験ができるわけがない、と言って教授の顔が頭から離れず恐怖でノイローゼになるというパターン。


どちらにせよ、3歳から26歳まで毎日練習練習練習と脅され、追い回され、追いつめられたのに、そこから逃げたという事実があると、この夢から逃れることができないらしい。

私のパニック障害の原因は、どこにあるのか、それが全く見えないのである。しかしこのアイデンティティの放棄からすべては始まった。それだけは間違えない。

2012年4月20日金曜日

思い出のパリ

パリのことを思い出す。
パリは随分良く訪れた。初めてパリを見たのは留学してきた年に、フランス人の友人にもらった見知らぬ人のアドレスを尋ねて一人で訪れた時だった。
東駅に着いてフランに両替した後、ベルヴィルにあるそのアパートにたどり着くまでが苦労の連続であったが、今思えば甘酸っぱい記憶となって、心の奥に刻まれている。

その後、当時のボーイフレンドだった人の親友のガールフレンドがパリに住んでおり、幾度となくパリで落ち合ったものだった。
彼女のアパートは4区にあった。確かEtienne Marcelというメトロの駅の近くであった。当時随分年上であったが、まだ学生だった彼女のアパートは当然のごとく屋根裏部屋にあった。長くくねる階段を上りきった所に見える小さなドアを開けると、彼女の二部屋のせまっ苦しい部屋があったのだ。

どこにどう4人で寝泊りをしたのか覚えていないが、何度もそこを訪れては、話し合い、笑い合い、喧嘩も悲しい思いも互いに分け合ったことは覚えている。

彼女の部屋の窓を開けても、隣や裏の家の屋根が見えるばかりで、パリの全景を望むことができたわけでもない。
それでも私達は、近所のワインショップに行っては、高級なブルゴーニュ産とフランスパンを買い求めて、屋根裏部屋に戻った。窓から見える星の美しさに惹かれて、窓を開け、厳しく禁止されているのに、ワインボトルとフランスパンを抱えて屋根の上に出ては、ひそひそ声で小さな宴会をしたのを覚えている。
いつも、ものの20分もしないうちに近所の人に通報されて、大家から怒鳴り声の電話を受けて退散することになった。
そのパリを懐かしいと思う。
あんな体験は、若さゆえの馬鹿でなければなかなかできなかったろう。

そこで私はビールばかり飲むドイツ人学生とは違い、フランス人やイタリア人学生は、通常はワイン党なのだと知り、いろいろなワインを覚えるきっかけにもなった。
私の連れの親友だった彼は、トリノの銀行につとめる父を持つ中流家庭の出身であった。その彼女にいたっては、パドヴァの有名な心臓外科の娘で、様々な政治家も親戚に持つような、言わば上流階級の出身だった。
それでも、常に誰もお金は持っていなかったのを覚えている。
朝食は、決まって小麦粉と水でクレープを焼いて、Nutellaの大瓶から大量にクリームをかき出しては、べっとりと塗って食べた。
昼は、メトロ駅の目の前にあるCafe Etienneでバゲットのサンドイッチを調達してきた。
夜は、Sebastopolという大通りを渡ってユダヤ人街の方に歩き、安い料理を探して食べた。

しかし、彼らはその背景もあって、非常に文化的には洗練されていた。そのおかげで、私は欧州に渡って何年もしていなかったのに、彼らの生活ぶりや会話から、様々なことを早くに吸収して行くことができた。
彼らの飲んでいる本、彼らの両親の考え、彼らのもらっている送金額、彼らの将来像、彼らの食生活、彼らの消費態度、金銭感覚、そういったものを悉く身近に見ることができた。不思議なことに、ドイツの学生生活で知り合う友人知人達からよりも、もっとより深い次元で学ぶことができたのは、個人的な親密度によるものなのか、それともフランスやイタリアと言うドイツよりも階級の色濃く残る文化によるものなのか、はっきりとは判らない。


その後、彼らとはパリの学生パーティーにも出向いたし、ピエモンテの別荘で釣りなどを楽しみながら過ごしたこともあり、パルマの年上の友人夫婦宅で毎月のように集まり、買い物や料理をして夜通し語り合ったことも数限りなかった。
体外は、若者の根拠のない自信で世の中を嘆き馬鹿にし、哲学書や古い文学を紐解いて、物をわかったような顔をしていただけである。当然、そこに音楽という中心があったことは当然であるが、思い出に残るのは、むしろ彼らとのインテンシブな生活であった。

親友はその後、私達の間ではつまらないと言われる指揮者を抱えるオーケストラに仕事を見つけた。彼女とは、最初から問題だらけであったが、その優れた知性と教養、また8歳も年上だったことから、彼を精神的に支えてくれたことで、別れるまでには至らなかった。
が、その知性ゆえ、彼女は彼の関心をずっと得るために、心理作戦を使いすぎ、彼は疲労困憊して結局別れてしまった。
間もなく、年下の建築学科の学生と出会って新しい彼女だと紹介されたが、もうあの頃のような団結はどこにもなかったのである。
その彼女は、モデルを小型にしたような見かけで、いかにもつまらなそうに私達の狂乱の過去の話には加わらず、そのまま団体行動も消えてしまった。

彼は、間もなくその建築学科の女学生とも別れてしまった。

パリの学生パーティーに参加すると、またドイツとの差にも驚いた。
どこを見ても、視線と視線の間にはゲームがあり、どこの隅っこにまで行っても、男は男で、女は女であった。
ドイツのパーティーなどでもそういうことは起こり得たのだが、視線と視線が合えば、そこには一種のあの雰囲気が直ぐに介在したなどということはなかったのである。視線と視線には、単なる目の合う瞬間があったと言うのが殆どであった。
そういう意味で、パリの学生パーティーは、もっと自由奔放であったし、もっとエロティックであり、もっと面倒で、疲労するものでもあった。自分がその気がなくても、女として扱われてしまう女の殻を脱ぎ捨てることは難しい。美醜に関わらず、彼らは女性を女性として扱ったものだ。それは感心することであるが、ある友人など、フランス人は目から精子を飛ばしているなどと、酷い冗談も出たほどである。

そのパリを頻繁に訪れたのは、おそらく92年から95年ごろまでであった。その後10年以上してからパリを再び訪れた。子供達をおいて一人旅である。
懐かしい街角をいくつも見つけて過去を抱くように写真に収めた。

レ・アールで一人で買い物をしていたら、フランス語でチェックを書けと言われ、英語ではだめだと断固拒否されたところに助けの手を出してくれた、ベルナデットという女の子と、その後バゲットをほお張りながら散歩し、ベンチに腰を掛けた午後。夕方彼女の叔父さんの勤めるカフェに行ってご馳走になったこと。いつしか文通も途切れてしまった。

オルセーの帰り、対岸に行こうと渡った芸術橋で「愛らしいお姉さんただで描いてあげるよ」と声を掛けてきた、あのカーリーヘアのアーティスト。朝の散歩をしていれば、配達の自転車に乗って後ろから近距離で追い越す際に「サリュ、ボンジュルネー」と爽やかに振り返って走り去っていったあの若者の笑顔。
自分の外見の如何に関わらず、パリでは常にと言ってよいほど、挨拶をされ声を掛けられた。旅人には嬉しい思い出である。
当然、しつこく言い寄ってくる危ない人もいるのだが、それは常識的な感覚を持っていれば、直ぐにわかるものである。断固とした態度でいれば、意外にしつこく追い詰めてくるものでもない。

そうしてあの角のカフェ、この橋の向こう、この公園のベンチ、あそこのスーパー、ここのパン屋と、色々な街角を訪ね歩いては、一人ため息をついていた。

すべては、私がまだ20代という非常に若い年齢であったから、集めることのできた思い出である。

セーヌは、生きている。

当時のメモに、そんなことを書いていた覚えがある。
セーヌは、どの橋から見ても、どの建物を向こう側に目にしても、常に違う顔を持っているのに、完璧なほど、その雑多な風景に溶け込んでいるのである。
セーヌは、ただの川ではなく、息づいていた。それはパリの人々の活気、決して親切で気持ちのよい人ばかりではないが、大都会だからと言って、東京のように表情のない顔をした人は少なかったのである。
厳しい表情も、生きることの只中にあるそのことを象徴しているようにさえ見えた。
その人々の生きるという息遣いは、川の中にも溶け込み、川自身がキャラクターをもった生きる存在のように、そこここで、その豊かな表情を見せていたともいえる。

パリには、独特の魅力がある。
それは揺るがぬ事実であった。
現に、私は今でも遠いあの頃を思い出しては、あの街に深い憧憬を持っている。

冒頭に書いたように、留学直後初めて訪れたパリでは、フランス人女学生シルヴィーの知り合いの男性宅に間借りした。その思考自体が、日本から来た私には驚いたが、コンセルバトワールを卒業したばかりだった、ジャン・フランソワというその知人と彼の友人達の私に対する扱いにも、日本から来たばかりの私には、驚くべきものがあった。
その話は、またいつかどこかで書きたいと思う。

ちょうどあの頃リリースされ、毎日のように聞いていたアンテナ。







2012年2月19日日曜日

エンガディンの谷間で


教会は谷間にあった。空は晴天で穏やかだった。教会の前に広がる小さな広場に私は座っていた。髪の毛を揺らす優しい風が吹くたびに、乾燥した髪の毛の香りを気持ち良く鼻先に感じていた。
この土地の日差しは強い。標高が2000メートルを超えているため、3日目に私の肌はボロボロとはがれて来た。

足下で可愛らしく頭を揺らせているのはカモミールの小花達だった。カラカラに乾いた土の中から顔を出し、夜には恐ろしく冷え込むのに、この花達は元気そうに輝いていた。私は幾つか花を優しく摘み取って、ポケットに入れた。教会の中に置いて来たリュックサックの中に、常に持ち歩いている日記帳があった。そこに挟んでおくつもりだった。

しばらくして太陽の光があまりにも眩しかったため立ち上がった。プローベの行われていた教会の中に戻って行くためではなかった。私は駅へ向かって突然歩き出したのだ。歩いているうちに、どんどん気持ちが急いて行く。後ろを振り返ると教会は、若干小さくなっていたが、まだそこにすぐそこにあった。しかし教会の中からもう音楽は聞こえてこなかった。

駅の前には薬局があった。私は日焼け止めのクリームを買い足すために手に取り、店内に突っ立ったまま考え事をしていた。旅行客が何人かいたその薬局の売り子は、白衣を着ててきぱきと客の注文に応えていた。列に並んでいたのか、いなかったのか、記憶はすっかり消えている。が、いつしか私は白衣を着た薬剤師の女性の前に立っていた。手に持っていたクリームを差し出し、顔の顔がボロボロと剥けてしまい、痛くて仕方ないと訴えた。彼女はやけどをしたようになった私の肌を見て気の毒がり、すぐその角にある医者を紹介してくれた。紙切れを受け取り、礼を言って出てこようと思った時、本来なぜ私は薬局に立ち寄ったのか、その理由が私の首を絞めるように押し寄せて来た。
私は付け加えるように、意を決したような様子もなく、妊娠検査キットをくださいと言った。薬剤師の女性はニコニコしながら引き出しからキットを取り出して、クリームと一緒に白い小さな紙袋に入れてくれた。慣れないフランでお金を払い、飛び出すように店から出た。

私は薬局の白い小さな紙袋を握りしめていた。薬局の外はすぐに小さな駅である。それでもレティシェ・バーンの駅の中では、一番大きな駅である。その駅に向かって左手には割と大きな書店があった。私は紙袋を握りしめたまま書店に彷徨うように入って行った。

入り口の本棚の前に立って、様々な本を見つめていた。しかし題名は頭に入ってこない。背表紙をするりと触って、意味もなく一冊の本を取り出した。ニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」であった。ニーチェの過ごしたSils Mariaまでは、何キロもなかった。私はその本の冒頭を開いた。

Als Zarathustra dreißig Jahre alt war, verließ er seine Heimat und den See seiner Heimat und ging in das Gebirge. Hier genoß er seines Geistes und seiner Einsamkeit und wurde dessen zehn Jahre nicht müde. Endlich aber verwandelte sich sein Herz, - und eines Morgens stand er mit der Morgenröte auf, trat vor der Sonne hin und sprach zu ihr also.........

アインザムカイト!ハイマート!ゲビルゲ!ドライスィッヒヤーレ!

私は迷わずその本を掴んでレジに向かった。静かな書店の中で無言で金を払い、また外に出た。日差しは真昼の高みに達していた。
未だに右手に握りしめていた紙袋は、手のひらの汗で湿り気を帯びていた。私は書店でもらったビニールの手提げに小さな紙袋を入れた。十歩ぐらいトコトコと坂を下れば、もう駅である。一駅乗ろうか、それともどこかへ行ってしまおうか。彷徨うように、小さな駅構内に入った時には決心がついていた。
村のどこを見ても高級ホテルや高級車に溢れ、高価な山岳グッズや名物の食品を売っている店ばかりである。そんな高級観光地の駅は小さく、公衆便所に至っては、とても使用できるような代物ではなかった。こんなところに、シーズンを過ぎれば忘れ去られてしまう山脈の合間にある小さな村にいるのだということを実感させられる。

トイレは駅の裏に板を貼付けて即席で作った壁に囲まれていた。そこに二つの木の扉があり、ねじで取り付けてある緑色の古めかしい錠がかかっていた。しかし電車が来る前なのか、その二つは閉まっていた。しばらく待つと、中から中年の女性が出て来た。同時に隣からは男性が出て来た。二人とも登山靴を履いてリュックを背負っていた。

私は忍び込むようにトイレに入り、中から古めかしい錠を閉めた。そしてその酷く劣悪な環境に一瞬場所を変えようかと思ったが、私の決心は固まっており、もう待ったなしというところまで緊張は高まっていたのだ。
板張りの壁の隙間から、太陽が差し込み、光の筋が内部を照らす。汲取式の酷いものであったが、私にはそんなことは目に入らなかった。床は地面であったため、手提げ袋を取っ手に掛け、キットを取り出す。ありがたいことに電車は去ってしまい、人の気配はなくなった。これで後一時間は汽車は来ないだろう。

ビリビリと包装を破き、生まれて初めて手にするスティックを持つ手は震えていた。目をつむり、意識はどこかへ飛んだまま、何を期待するでもなく、何を拒絶するでもなく、用を足した。それはそれは惨めな数分であった。それでも、私は今そこで知らずにはいられなかったのである。それは子供を宿したことが真実かどうか分からなかった不安からではなかった。そうではなくて、私の人間としての本能が、子供を宿したに違いないと強く私の耳元でささやき続け、そのささやきを聞いていることで発狂しそうであったからなのだ。もう私は知っていた。それを確かめる儀式を行う、それだけの話だったのだ。

そしてそのセレモニーは孤独で寂しかった。揺れるカモミールは、皆で群れて揺れていたのに、私はたった一人で背中に太陽を浴びているだけだった。誰も周りにはいない。故郷は何万マイルも離れ、友人と言える人にも想像のできない深い穴の中に落ちたまま、一人で立っているのが精一杯であった。
薬剤師の女性の清潔そうで、自信に満ちあふれた仕事ぶりに圧倒され、小さな小娘が妊娠検査キットを買う等滑稽で、端から見たらままごとにしか見えないだろうと私は怯えていた。書店に逃げ込んだその時だけ、心の中に静けさが訪れた。見えないけれど、そこには数えきれない無数の言葉が宙を舞っていた。耳を澄ませばその言葉がささやいているのが聞こえるような気さえしていた。そこにある言葉は、絶対に私を責めることはない。私を救おうとして、人間を救おうとして、生きようとする人皆を救おうとして書かれたものに違いない。書くということは、それをしなければ書き手が先へ行かれないから書くものなのだ。その言葉さえ、私を見捨てるはずはない。そういう無意識につられ、私は書店に行ったのであった。

公衆便所の板張りの中に突っ立ったまま、私は時が過ぎ去るのを待った。堪え難いほど鼻を突くアンモニア臭を今でも思えている。息が浅いまま、私はスティックを見つめていた。吸収された水分がスティックの小窓を過ぎたその瞬間、二本のブルーの線がくっきりと現れた。私はそれを知っていたはずだ。既にその事実を知っていたはずであるが、打ちのめされ、衝撃を受け、何度も何度も線を見て、もう一分待って、線が消えやしまいかと最後のあがきを繰り返していた。

やがて、外に人の声がした。私は緑の錠を開けて外に出た。薄暗い小屋の中にいたせいか、太陽の光は目に刺さるように痛かった。

私は駅の前の小道を左に上って、美しく雄大な景色が見えるベンチまで歩いて行った。私のお気に入りのベンチだった。何度も一人で散歩し、駅の周辺で果物や飲み物を買い終えた私は、このベンチに座って読書をしたり、日記を書いて、深呼吸をして、また歩いて私を待っているはずの人がいる場所へと重い足取りで帰って行ったのだ。

ベンチに腰掛けると、そこにはいつもの静けさと、いつもの美しい光景があった。目下には村が広がり、遠くには無数の峠が見える。
その峠の向こうには何があるのだろう。そのまた向こうの峠を超えれば、あの辺だろうか。そんなことを考えると、今すぐにでも逃げ出したい気分になって来た。しかし逃げると言って、どこへ逃げるというのだろうか。私は知らない間に、お腹に手を当てていた。一度さすり、二度さすったら、涙があふれて止まらなくなった。私は子供である。28才と言っても、意識の中では中学生や高校生のあの頃とは少しも差がないのだった。何も知らずに、何も分からず、なんの自信もないまま、子供を宿したって?情けなくて涙が流れ続けた。自信のありそうな言葉を選び、自信のありそうな言い方をすることをやっと少しだけ身につけた、そんな時であった。ところが、一度さすり出したら、その手は止まずに、ずっと何か愛おしいものがそこに入っているかのように、ずっとさすり続けていたのである。そして確かにそこにあるはずのものは愛おしいのだった。
命がそこに新しく生まれたという確信は、今真実になった。それを確かめることは辛かったが、今となっては自分の中に別の命がいるという事実に、驚愕し、うろたえ、申し訳ないと謝り、それでも愛おしくて仕方ないのか、本能的にさすり続けていたのである。いや、確かに愛おしかった。私はそのベンチで初めて、後に生まれる娘に「話しかけた」のである。その最初の一言は「こんなママでごめん」であった。次の一言は「何があっても頑張るから」という誓いであった。

泣きはらしたら、太陽は峠の道をオレンジ色に照らしていた。
昼過ぎに急いて歩いて来た道を今度は重く引きずるような足取りで帰って行った。教会の前の広場に近づくに連れ、またどこからともなく音楽が聞こえて来た。まだプローベをしているのだ。私が駅に行っていた何時間かの間も、彼らは変わらず練習をし、今夜の演奏家に備えていたのだ。それが彼らの仕事であり使命である。

広場の土はもう冷たかった。カモミールは相変わらず揺らめいていたが、それは寒さに震えているように見えた。
私は教会の古めかしい扉を開けた。小さかった音が、突然大音響のように耳に入る。同時に、彼らは私を一瞥したが、何事もなかったかのように演奏し続けた。楽章が終わり、彼らは演奏を止めた。私の立ち向かうべき相手は、私の方に再び顔を向け、「やあ、何して来たのかい?どこに行っていたの?」と尋ねてきた。その眼差しは優しい目ではなかった。その目は明らかに警戒していたのだ。何も知らないはずの彼は、私を警戒していた。

今の私なら、この男はどこまでも私を愛し続けてくれるだろうが、それは私が彼から髪の毛の一本も奪わない、欲しいと口にしないという条件があっての話であるということが分かる。彼が与えたいと思えば、いくらでも惜しまず与えてくれる。それは感動を超え、圧倒されるような愛情である。しかしそれは彼が与えたいときであり、その時はいつ来るかわらず、どのぐらいあるのかも分からず、あるいはもう二度と来ないのかもしれなかった。私は待つだけが許され、与え続ける代わりに、こちらから欲しい、必要だということは言ってはならないのだった。それが彼の警戒したあの目である。それが私には分からず、普通のまなざしであるはずなのに、「なぜ私は怯え続けていたのだろう」と、何年間も来る日も来る日もノイローゼになるまで自問し続けていたのだ。しかし、当時の私に、何故それが分かるはずがあろうか。

プローベを終わりにして、軽く何か食べ、演奏会まで休もうということになって、彼らは立ち上がった。彼らの生きている世界と、私の生きている世界には、見えないがバリアのような断絶があった。私はあの午後、完璧に取り残されたのである。いや先に行かねばならなかったと言っても良い。どちらにせよ、私はあの世界にいたままでは、身体の中に宿った新しい命を守る力は吸い取られ尽くすはずだと知っていた。
私と彼を結ぶことになった命が、私と彼を断絶させたのである。
私のエネルギーを彼以外の他に注がねばならない、そう言うれっきとした事実が生まれてしまったのである。彼が止むことなく命を一日一日と削りながら音楽に献身して、文字通り捧げ尽くしているその姿と同様に、私は私の命を一日ずつ彼のために削り、献身を尽くし、情熱を絶えさせてはいけなかったのである。

ところが、望むと望まざるに関係なく、私はあの日の夕方誓ったのである。人生初めての誓いをしたのである。「何があっても頑張る」と。私は生まれて初めてお腹と会話をした代わりに、自分では気づかないまま、永遠に彼に別れを告げる決心をしたのである。新しい命は崩壊であり、私たちを繋げて家族にしたこの運命は、私たちの魂を、しかしぱっくりと裂いてしまった。

だからである。言い訳ではないが、だからである、私がなぜ演奏会の後まで待たずに、いやホテルで二人だけになった瞬間を待たずに彼にこの真実を告げたのは。
ぶっきらぼうに「妊娠した」と吐き捨てるように全員の前で言ったのは、決別であり、彼からも決別させるために、挑発したのである。それが私の心の底からの、娘のために人生を掛けた覚悟だったのだ。別れようと決心していたのだ。その夜荷物をまとめて旅立とうと思っていたのだ。

その夜ツァラトゥストラの第一部七章を読んで泣いた。

予定通り、その後の私の人生は「失敗」が続き、繰り返し孤独に陥り、繰り返し起き上がることの繰り返しであった。しかし、私が生きているのは、未だにこのストーリーの中であり、あれ以来新しく始めることなどできていないのである。そもそも新しく始めるなど、誰にもできない。私の人生はこの一つのストーリーであり、登場人物を変えたからと言って、私は何からも逃れられないのである。

Inzwischen kam der Abend, und der Markt barg sich in Dunkelheit: da verlief sich das Volk, denn selbst Neugierde und Schrecken werden müde. Zarathustra aber sass neben dem Todten auf der Erde und war in Gedanken versunken: so vergass er die Zeit. Endlich aber wurde es Nacht, und ein kalter Wind blies über den Einsamen. Da erhob sich Zarathustra und sagte zu seinem Herzen:

Wahrlich, einen schönen Fischfang that heute Zarathustra!
Keinen Menschen fieng er, wohl aber einen Leichnam. Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn: ein Possenreisser kann ihm zum Verhängniss werden. Ich will die Menschen den Sinn ihres Seins lehren: welcher ist der Übermensch, der Blitz aus der dunklen Wolke Mensch.
Aber noch bin ich ihnen ferne, und mein Sinn redet nicht zu ihren Sinnen. Eine Mitte bin ich noch den Menschen zwischen einem Narren und einem Leichnam.

Dunkel ist die Nacht, dunkel sind die Wege Zarathustra’s. Komm, du kalter und steifer Gefährte! Ich trage dich dorthin, wo ich dich mit meinen Händen begrabe.


これが、私の人生の本当の始まりのゴングであった。ここから全てが始まり、この7章のIch trage dich dorthinという言葉を信じて先へ一緒に歩んでしまったことで、私は夜に始まったその人生の相応しく、未だに迷路の中にいるままである。 これが愛なのかどうか、それは実は愛ではないと思うのだが、逃れられないほど強烈な体験に巡り会えたことが、私の人生の全てであり、それ以降の事物は、余りにも色あせて見え、生きている心地がしない。そうして未だに過去のストーリーを読み返して生きているだけという、実に閉鎖的な生き方しかできない。しかしそれで死んでしまっても、もう良いと本当に納得できる。それは悲しみの伴う大きな幸せである。

2011年10月29日土曜日

川べり


夕方になると、ライン川の水面に、橙色の光が降り注いだ。緩やかな水の流れに、その光はきらきらとした光線を形作り、本当に宝石が至る所で揺らめいているように見えた。
旧市街のある向こう側の岸辺はにぎやかである。けれど中心部の古い橋を渡ってこちら側に来て、川沿いの道を少しあるくと、こんもりと木の茂る大きな建物が並び、静かな空気に包まれれる。




陽の長くなった初夏、その辺りを子供達をつれてよく歩いたものだった。
末っ子をバギーに乗せて、その後ろに息子を立たせ、娘はバギーの取っ手に必死につかまりながら、小走りで着いてきた。娘がまだ幼稚園だった頃である。

途中で小さなバイクの積荷にアイスの絵が描かれたボックスを乗せて、ジェラートを売り歩くイタリア人によく遭遇した。そのたびに私は必ず子供達のために買ってやった。息子はチョコレートとくるみが好きで、娘はマンゴーだった。末っ子と私はピスターチを分けたものだ。
口の周りをべとべとにして、太陽に赤くなった頬にアイスをほお張る子供達を見ること以上の、平和な気休めはその当時考えられなかった。

意味もなく、川辺をそうして歩き続け、色々な人に遭遇する。アイス売りの叔父さんにはイタリア語で話しかけられ、小さな子供のいる家族連れは、子犬などを引っ張りながら幸せそうにスキップをしている。誰もが長くなった日を楽しみ、日没の後も、テラスに座って夏の夜を楽しみだす頃だった。

私は放心していたのだろう。3月の31日にシェルターに逃げ込み、夫に泣きつかれて家に戻り、彼が目を真っ赤にして、別居を受け入れると言い出してから何日も経っていなかった。
テーブルをひっくり返したり、私を子供の前で引きずりまわしたりした後の、彼なりの降参だった。その憔悴した瞳を見ていたら、別居を強行する自分自身が鬼に見えた。

一方で私自身の限界は極度に達し、悪夢にうなされ、買い物に行くたびに財布をなくしたり、鍵を落としたり、夢遊状態で生きているのとなんら変わりはなかった。
郊外に引っ越したばかりの庭付きの新築の家が、妙にがらんとした風に移り、全てが空虚で望みがなかった。
せっかく手に入れた家も、引越しで二ヶ月も経たないうちに、やはり夜中に練習できないので、この家はダメだ、という言葉を夫から聞いた時、三人の子供達との、小さく小市民的な、気恥ずかしくなるような幸せを求めて、全ての現実的処理を私が担って努力してきた道のりが、一瞬にして否定された。それが別離の理由ではない。しかし、家を手に入れるなど、必要なかった、無駄だったといわれ、当然その罪を再び一気に私一人背負ってしまったことは事実である。

それから真空の世界に一人で存在するような虚無が襲い掛かり、子供達がどれだけ可愛いか、生まれたばかりの末っ子が泣いているのか、泣いているならどれくらいの時間泣き続けているのか、そういったことが、一切分からなくなっていった。
はっきり言うと、私のその頃の記憶が本当に殆どないのである。

自分を責めることは、別居の決心を境に、意識的にしないようにした。それよりも私がまともに息を吸い、まともに子供達と向き合い、おびえることなく生活できる環境を、もう本能的に求めており、そのことに夢中になっていた。その頃出会った見ず知らずの人々のことは、それでもずっと記憶に残っているのである。シェルターに電話をかけ、嗚咽しか出てこなかった私に、大丈夫、私たちが守ってあげますといい続けてくれた電話口の女性、市電の駅で待ち合わせをし、私たちを導いてくれた女性、恥ずかしがらないで、人間には色々なドラマがあるのよと、私の調書を取ってくれた女性。

その時、娘はぼうっとしていた。アパシーのように、お気に入りのモリー・ポニーという馬のぬいぐるみを抱きしめたまま、常にバギーの取っ手を必死に握り締め、私についてきてくれた。私の二の腕にあった幾つもの紫色のあざを、彼女が見たのか見ていないのか私は知らない。でも、彼女はそんなこととは関係なく、まるで全てのストーリーを知っているかのようだった。そして彼女が口を開くことは一切なかった。

シェルターの部屋での夜中、窓から星空が見えた。本当に美しく瞬いていた。遠くに見える家屋の窓には、子供達が切り抜いた切り絵が張ってあったり、モービルが吊り下がったりしているのが見えた。疲労困憊した身体からも、自然に涙があふれかえってきた。あそこにも、ここにも、どこにも家があって家庭がある。当時の私には、帰る家もなければ、家庭もなかった。その時、娘の目がぱっと開いていた。ごめんね、こんなところまで連れてきて。もうすぐおうちに帰ろうね、と声をかけてやったら、娘は私に擦り寄ってきて、ママの行くところならどこでも良いよ、どこまでも行くよ、と小さな声でささやいた。

また、ある時、絶望に嗚咽し、寝室に座り込んだまま何時間も立てなくなってしまった私の元に、幼稚園から帰宅したまま放り出されていた可愛そうな娘が静かにやって来た。そして、一枚の絵を私に差し出したのである。そこには私と三人の子供達が描いてある。彼女は昔から絵が上手く、取り付かれたように一日中描いていた気がする。
私は、急いで涙をぬぐい、目がつぶっているように描かれていた私の顔を見て、彼女に寝ているの?とたずねた。娘は、うんん、ママは泣いているの、と答えた。三人の子供達の顔はどれもニコニコと笑っている。彼女の大好きな父親はそこには描かれていなかった。
私はしばらくその絵を宝物のように額縁に入れて飾っておいた。
眠っているように見えた私は、もう一度見直すと、まるで菩薩のような静を放っていた。
彼女は心に何を抱えて、この絵を描いたのか、私は知る由もない。それは、きっと単にママの元気を願っていただけなのだろう。

彼女は、そういう子供だった。私と精神的に一心同体のようなところがあった。何かが投影されてはいまいか、何か禁じられた悲しみを伝えてしまってはいまいか、そんなことばかり考えていたが、渦中を生きている私には、そうであったとしても、どうすることもできなかったであろう。

引っ越しが済んでからも、私はおびえて暮らした。電話が鳴れば飛び上がり、暗くなれば、いつベルがなり、夫が私に切願して、その感情を決壊させまいかと、びくびくと緊張していた。変なめまいに襲われたり、原因不明の嘔吐に夜通し苦しむということがあった。

それでも日が出ると、私は子供達を連れて、外に出るようになっていた。それがこの初夏だったのだ。緑の葉一枚一枚をあの頃ほど愛おしいと思ったことはない。歩道の脇に生きている小さな蟻一匹をじっと見つけているだけで、そのせかせかと本能に従って生きる姿に、生の命を実感し、立ち止まったまま動けなくなり、終いには座り込んで、蟻の方がよほど自分より優れていると、涙がこぼれてきたこともある。そんな時、私より一歩遅れて、私の横に来てしゃがみ、顔色を覗き込むこともなく、状況を受け入れるかのように、蟻を一緒にじっと見つめてくれたのは娘だった。

あまりにも不意に涙が流れるので、急いで木陰に隠れ、涙をぬぐってまた笑顔を作るのだが、他の二人の息子は何も知らずに、元気に笑い声を立てていても、娘だけはすぐに察知して、私の背後に立っていた。

娘が二歳の頃から始まった帽子を放せない症状、幼稚園時代を通した無言、その無音の視覚的のみの情景を思い浮かべると、いつもこの川べりの光景を思い出す。小さな町で、何年か住めば、隅から隅まで行ったことのある場所となり、知人に会ってしまうような所だった。そして、様々な楽しく、時に耐えがたいほど悲しい思い出が、至るとこにちりばめられていた。そんな中、この川べりは、未だに無音の静かな川の流れとして、私の脳裏に焼きついている。

ライン川の静かな流れに迎合するように、私自身の内面の流れもようやくゆっくりとした速度になりつつあったとも考えられるし、脆くとも新しいスタートを切った私の、私と子供達だけの思い出の散歩道だったのだとも考えられる。

娘の状態が色々と顕著になり、私自身が最近自分を責めることをきっぱりとやめ、彼女自身に振り回される自分や家庭を必死で守ろうという態度になって以来、心の中には悲しみがあふれてくることが多くなった。
闘いを続けている間は、人は必死なのだ。今でも私は生きるという闘いを続けている。しかし、彼女に振り回されることが彼女のためにはならないと、痛いほど理解した時、私は彼女に制止線を引き、自分を守ることを優先しだした。それは別れた夫に対して最後にとった手段と同じである。そして私の得るものは、いつも静けさや平和どころではなく、深まる悲しみばかりなのだ。

ゆらゆら揺れる水面にきらめく光を見つめている私の隣には、緊張したまま、無言で、ママ、ママ、と心の中で呪文を唱えている娘が思い浮かぶ。
今でも、彼女とはこの川の中を一緒に流れているのだと、私はどこかで知っている。
私が悪いと、彼女の盾になり続ける事が、彼女の心の平和をもたらすのなら、どこまでも打たれようと思う。しかし、そうではない。喪失の恐れがあまりに強すぎて、それがエゴや人を支配する行為となってしまう、言ってみれば憐れな彼女に対し、私自身が一人の人間であり、私とあなたは一体ではない、何をしても赦されるわけではないと、突き放しを突きつけることで、彼女に自立をしてもらうしか方法はないのだ。つまり気づきを与えるのだ。
しかし、皮肉なことに、彼女は一番恐れていた喪失、母への信頼の喪失、所属しているから赦されるという逃げの喪失を一気に味わう。
最も失いたくないものを、すがりついたゆえに、失うのである。

母親の責任は問われて当然だが、私は私のプライスを払おうと、日々赦されようなどとは思わないことにしている。
そして、私は彼女をどんなことがあってもあきらめはしない。希望だけは、私が死ぬまで持ち続けても許されるものなのだ。

夫は、義母との交流を絶つことで、逃げた。私は夫への関係を解消することで、状況を無にした。しかし、娘に対しては私からは関係を解消できるはずがない。そして彼女が、私への関係を深く、耐え難い失望の末、絶つだろうと予想はしても望んではいない。

きらめく水面を思い出しながら、彼女はそこに必死で母親の心をつかもうと、無言で立っていた。私はそのことを常に心していなければならない。


2011年5月16日月曜日

コンプレックスからの解放は、コンプレックスを受け入れること

敏感であるということは、生きる上ではあまり意味がない。

最近、自分を認めてやろうという部分も理解できるようになったが、その代わり全然ダメであるというところも浮き上がってきて、暫しため息をついている。

娘の学校は、両親が様々な作業に参加することになっている。
先日、春先の敷地内大掃除の当番が回ってきた。天気もすばらしく、春らしいそよ風も吹いている。嫌がる娘を引き連れて、学校まで行った。
他に3、4人の親たちも集まってきた。リストで作業分担を行い、それぞれ黙々と作業に取り掛かる。
私は複数のガレージ掃除と、校庭に当たる庭全体の落ち葉やごみなどを取り除くことを受け持った。

巨大なほうきを生まれて初めて手にした。
そしてもくもくと掃き掃除をする。砂埃にまみれ、頭上では小鳥がさえずっている。
時折、気持ちの良い風が吹き、スプリンクラーの水しぶきが身体に降りかかるのが気持ちよい。
次には、生まれて初めて熊手を使って、砂の表面を掃除した。

気がつくと一時間以上たっており、休みなく働いた私の手のひらは、重いほうきと熊手のせいで赤くなっていた。
木陰にたたずんで、豆となりかけている手のひらをこすりながら、何か懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
そうだ、子供時代である。
子供時代には、日が翳り肌寒くなるまで外で遊んでいた。鉄棒の好きだった私の手のひらには常に豆があった。そして友人と別れて、帰宅する途中に、太陽の光と、そよ風と、髪の毛にしみこんだ太陽の匂いを身体全体で感じ取りながら、妙な満足感を抱いてトコトコと帰宅したのだった。
あの頃の一瞬がよみがえったような気がした。

一通りの仕事を終えて、きれいになった庭を見回した時、小さな心地よい達成感があった。
あれだけ嫌がっていた娘も、一人見つけた友人と、黙々と落ち葉集めを行っていた。
こういう作業は、集中力を促す。そしてまるで瞑想のように、何も考えずに、すべての些事を忘れて、庭の掃除のために使用している道具の扱いに専念できたのだった。

娘の友人も送り届け、帰宅してから念入りに手を荒い、冷蔵庫に冷やしてあったビールを飲む。
土曜日の午後4時だった。最高の気分だった。
帰宅しても窓を開け放ち、春のそよ風を夜になるまで味わっていたい気分だった。
家事もできず、仕事もできず、なにひとつ家や個人の義務をやり遂げることはできなかったが、それでも私の身体は程よく疲労しており、髪の毛は風に吹かれてかさつき、乾燥した独特の「外のにおい」がしている。爪の間には、砂がこびり付いていることに、言葉に言い表せないような満足感があったのだ。

命とは、毎日身体的に実感することで、精神の方も健康でいることができるのではないか。
ふと、そんなことを思った。
そして突然、今の生き方をすっかり変えてしまいたくなった。
このリセット欲望は、私の中に常にある。破壊してしまい、一から出直したいと言う欲望である。常に自分自身に不満であるから、そこから逃げたい。

今の仕事を思ってみても、お金の為にやっているのと、多少言葉弄りが好きだと言うこともあって、続けている。
しかし周囲を見ると、これをやりたかったから苦労して勉強してきたという「これ」を持っている人たちばかりなのである。

暫しビールを片手に、疲労した頭で考えに浸っていたら、自分の決定的に間違っているものが次第に浮き上がってきてしまった。
私の生きる動機は、コンプレックスだったのだ。それも筋金入りのコンプレックスで、死闘を繰り広げながらも打ち負かしてやろう、という風にもなれない、弱弱しいコンプレックスであり、そこには自分はこれでも良いのだと、強制的に信じたいという欲望やプライドも入り混じり、まったく持って支離滅裂なものが、根本に流れている。

私は、音楽をずっとやってきたが、親に認められたかったからではなかろうか。
小学校の成績が良かったのに、兄が楽器を始めたら、親の感心と期待は、いつも私よりも怒られることの多かった兄に寄せられてしまったのだ。
それで私は、兄を追うようになった。
予定していた中学受験も捨てて、兄と同じ道を行くと言い出したのだ。勉強ができることなどに親は感心がないのだと、そこは察知したのであろう。
それはおそらく、親自身の持っていたコンプレックスとも重なり合いながら、私たちへの期待となっていたのに違いない。
立派な大学に入るよりも、一人前の演奏家になれるものならなってみろ、そういう声がずっと背後にあったことは間違いないのである。

突然父のもとを訪れた一人の演奏家の言うなりに、父はある夜私に一つの楽器を与えて、私はそれを見ても、触っても、一切興味はなかったのに、兄の学校へ行く切符を手にしたとばかり、それをやることにしてしまった。
ピアノやバイオリンは専攻するなと、母からも父からも口をすっぱくして言われていた。
それは彼らが本能的に、演奏家になるために現実的な可能性の多いものを与えたかったという、彼ら自身の親として当たり前の「気遣い」であったのだろう。

大学に入るときに、私はあがいた。
親の敷いた線路や、兄を追い続けた線路を突然離れたくなった。
私に力があるのか、それを試してみようと、思春期になって初めて芽生えたのである。
三年生になると寮生活から週末や休み毎にいわゆる予備校に通ったのを覚えている。
そのとき、今まで練習する代わりに勉強してきた人々と触れて、別の世界を見た感動は忘れられない。
しかし私の考えていることと言えば、脱出でしかない。寮からの、そして敷かれた線路からの脱出。
私のように、親のために或いは兄を追ってなどと、そんな動機から職業につけるような、甘い世界でないことぐらいはとうに承知していたのだろう。
わたしには、あのダメだった兄が頭角を現すにつれ、勉強をがんばっているフリをするしかなかったのである。そして周囲との違和に胃がよじれるほど苦しんだ。隠れて母に電話をして泣いたことも何回かあった。

それから一つだけ受けた大学受験に失敗した。
何故一つだけだったのだろうか。
それはどうしても何学部に行って、何になりたいと言う計画がなかったからであろう。
兄とは違う認められ方をしたいと、それだけだったのかもしれない。

そして大学に入り、留学した。
世話にはならなかったが、留学とて、兄の後を追ってきたのだ。

そして私は始終、私という人間を親に向かって認めさせようと思ったのだが、本気で音楽で飯を食おうと思って覚悟している人には勝てない。
何でもできる私は、さっさと卒業もして、体裁だけは保てるのである。
しかし、何がやりたいのかやりたくないのか、考えてもさっぱりわからない。しかし、常に闘ってきた。コンプレックスに苛まれ、悪夢にうなされるほどであった。
それは外国人という弱者に見られることでもあり、日本からの女の子というクラスでの偏見でもあり、出来が悪いというコンプレックスでもあり、この楽器が嫌いなのに嘘をついていると言うコンプレックスでもあった。そして最初の夫に知り合い、彼の周囲と云うさらに強力にコンプレックスを刺激してくる環境におかれ、コンプレックスは膨張しきり自分をすっかり殺してしまうことで、影となった。そして心が半ばおかしくなって、這い出してきたという、非常に情けない廻りだった。

その後も、私の原動力はコンプレックスであり、どこに行っても良い成績と業績を上げるのだが、過去の道なりが、4筋にも5筋にもなって、どれも体裁だけは整えて卒業だの資格だのというところまではいくのだが、流石に物にならない。
何でもできるくせに、何も使えないと言う、まったくもって要らない人材なのだ。

_______

いや、だからそれに気がついたのだ。
なんという馬鹿な生き方をしたろうと。それでも自分は相当鍛えられたのだが、それは全部過程での話であり、行ってきた内容は、と散らかるばかりで積み重なっていない。

演奏家にもなれずに、学問も全うしなかった。
演奏家にはなれなかったろうし、学者にはまったく向いていない。
才能の問題ではない。へんな言い方をすれば、私より明らかに才能のない人が、立派にオケで演奏家になっていたりする。それは信念とモチベーションの原因の問題であろう。学問に関しては、知的コンプレックスを少しでも叩こうと思っただけで、私には学術の世界でやっていくための、決定的な何かが欠けている。おそらく静的な人格ではないから、すぐに行動したり、直ぐに興味を移したり、そういう半端な性格がすべてをダメにしているのだろう。
無論このモチベーションも半端なコンプレックスに根付いたものなのでモノにはならないのだ。

____________

仕事の長電話で中断されてしまった。
ウダウダ言っても仕方ない。
これが私という人間をかたどっている姿なのだし。

とにかく、最近は仕事を変えたいとかそういう希望が大きくて、それはと散らかすように、できること、目に前に転がってきたことをやって来たからなのだが、それは多かれ少なかれ、皆そうして職業についていくのだろうし、大人になることはこうだと思ってあきらめている。
しかし、それよりも行く先々で、成果を挙げようとか、認められようとか、そういうコンプレックスモチベーションでやってきて、時には欲しいものを得たこともあるし、褒められたことも、ありがたがられたこともあるのだが、うつ病みたいな、魂の死んだ感じは、どうしようもなく消えてくれない。
それは、人の為と体裁のために動いてきた自分の人生の果ての姿なのだなと、だんだんわかってきた。

もう知的コンプレックスも、演奏家コンプレックスも隠さずに、嘘偽りなくそれを正々堂々と認めて、私はコンプレックスにまみれているけれど、その私が少しも立派なところもなく、自慢できる人格もないのということだけはしっかり認識しています、というその部分が人々への共鳴となって、それでも尚且つ生き生きと輝いている私を見せることが、一つの作用となってくれるような仕事が欲しいなと、そう思い出しているのである。

コンプレックスを撤回するために、コンプレックスの磁場にずっととどまり続けた。
しかし、そこから離れられないことこそ、未だにコンプレックスに支配され追い掛け回されていることの証拠だとわかった。
もう私は、自分が生き生きとできるところへ飛び立ちたい。
それはきっと、人とのつながりがあるところで、ずっと机の上でキーボードを打ち続けていることじゃないと思う。
私の唯一の長所の一つは、制御できないけれど、止むことなく流れ続けているエネルギーがあることである。
生きていること、その毎日苦しいと思うような課題に向かって、前回の記事のように、それでも尊いものとしてあきらめないで進むこと、そういう姿勢を深い次元で分かち合う為に、小さなきっかけを与えていくような仕事をしたいと思う。

ピアノや音楽を教えるのだっていい。
人とかかわらないと、私はダメなんだ、庭掃除をして体で命を感じないと、私はダメなんだ。
助けも手本も何もないところから、明日もあさっても生き抜いていこうとする、必要最低限の創造力が私にはあるのかもしれない。それだけはうっすらと感じている。
その創造力を使わずに、人に後ろ指刺されないことだけを念じて、安全圏だけを夢見て生きていては、自分は死ぬと、そういうことを掃除しながら思った。


相変わらず、くどくどした文章で、牛の咀嚼のようになってしまったが、自分を納得させる為の手段として書いているので、あしからず。

2010年10月19日火曜日

写真箱

新しいプリンタを買って、それがあまりにも優れているので、写真を整理しながら印刷したり、スキャンしたりという作業を行おうと思った。

そうでなくても、この頃の過敏さは尋常ではなく、ちょっとヘルダーリンを読んだだけで、涙がぽろぽろとこぼれてくる有様だったのだ。
心が、何かを探している。それはよりどころなのか、それとも希望なのか、慰めなのか、共感なのか、あるいは孤独なのか。

封筒に入った写真を取り出してみると、6年前に亡くなった祖母のお葬式の写真だった。長生きしたので、ひっそりと家族だけで出したお葬式だが、母は気を使ってか、こまめに写真を撮ってくれ、私に送ってくれたのだ。
当時、私はあまりにも思いが新鮮だったため、その写真を見ても、おそらく何かがブロックされており、あまり何も感じることが出来なかった。まるで、写真の向こうの遠い祖国での出来事に思え、自分のここでの生活との接点を見つけ、私の身に起こった身内の不幸なのだと言う実感を持つことが出来なかったのかもしれない。

何の心の準備もなく、祖母のお棺を見て、そして入棺されるまえ、ふっくらとした布団に寝ている祖母の姿を見た途端、思わず涙がこぼれてきて、しばらく写真をそっと大切に胸に抱きながら、泣いていた。

あれだけ親しくなついて、色々世話もしてもらったおばあちゃんのお葬式にすら、私は出られなかったし、彼女を見取るどころか、世話すらする機会にも恵まれなかった。
同じようなことを両親にはやはり出来ない、一生の後悔になると、まるで一瞬にして、今の状況にある自分自身がどこに属するべきなのかを悟ったような「錯覚」を覚える。
錯覚と書くわけは、やはり子供のことや、ここにいた年月を考えると、やはりさっと決心できないだけの複雑な問題があることを承知しているからなのだが、それすら、もうどうでも良いと言う疲れも覚える。

写真箱を整理しつつ、涙は続けて流れてくる。
何年も見ることのなかった、私の過去。PCを買ったのは98年だが、写真を保存し始めたのは2000年あたりで、それ以前はアルバムに貼ったり、整理できないものは箱に小分けしていた。
つまり、そこには、離婚も病気も、どんな死も終局もない私と、私の子供たちと家族が写っている。
悩みを抱えた私は、それでも生き生きとし、若くエネルギーに満ち溢れている。苦しみがあっても、やはりそこには憎しみと同時に愛が存在していたのだろう。
がんばる甲斐とか、ものを継続させる甲斐というものを実感していたに違いない。

子供たちはしかし、誰をとっても不安そうな顔で、時折ニコニコとして写る写真のその顔は、本当にはかないほど繊細で、純粋で、傷つきやすい表情をしている。
こんなにかわいい子供たちを持つ喜びを一切十分に味わうことなく、私は葛藤を続け、夫を愛し、愛しきれず、自分に集中している年月を過ごしてしまった。
後悔は後を絶たない。

この写真箱は、2000年あたりから更新されなくなってしまった。同時に私も第二の人生を始めたわけだが、その後の写真は、常にPCやHDDに保存してあり、頻繁に目にする。
それだからと言うわけではないが、子供たちの目覚しい成長の記録以外は、私の人生はまるで、仮の人生を歩んでいるように、デジタルとしてしか存在しない写真のように、手ごたえのない軽いものに見えてしまうのはなぜだろうか。
苦しみの質は以前とは比べ物にはならないが、苦しかったと言う記憶は多くあり、考えずにすごすようになったわけでもなく、それなりに常に真面目に取り組んできたつもりであるのに、私の写真箱の中には、生々しくまだ息をしているような過去があるが、最近の写真はまるっきり訴えてくるものがない。

そして、自分でデジカメを所有するようになって、数こそ撮るようになった。昔は、デジカメすら持っていなくて、使い捨てカメラや安いカメラで少しだけ撮っていた。趣味でもなく、写真を撮るのが嫌いで、カメラは常に忘れるのが癖であった。
それでも撮った写真には、意味があるのだろうか。残したい思い出、そして心に焼き付けておきたい瞬間だったのだろう。


過去に癒されたり、過去に埋もれたりするのは、年をとったのか、今不幸なのか、そんなことぐらいしか思い浮かばない。
けれど、写真は心が出るのだと、本当に目からうろこのような体験をした。
今の私は、カメラもってどこへでも行き、撮るのが楽しいと思う。しかし愛が欠けている。生活にうそがあったから、それが写真に出たのだ。こなれた写真や、腕を磨いた写真、そんなものはいくらでもあるが、迫力のある写真がない。

昔は、写真には興味がないが、対象を愛する気持ちを一杯に込めて、一瞬のシャッターを切っていた。
親の心であり、妻の心であり、娘でもあり、その生き方のどこにも嘘はなかったのである。

今後、私が何かの折りに過去を振り返った時に、やはりこうして祖母の人柄や祖母との思い出がにじみ出てくるような、または幸せだと信じて疑わなかったあの頃の生活が、写真から踊りだしてくるような、そういう写真を子供たちと共に撮って行きたいと思った。
一歩ずつ、自分の人生からうそを取り払っている今、それも出来るかもしれないと希望を持っているが、若くないということは、何かを生み出すとき、無垢な姿勢には戻れないので、これは修業だと思うことにする。

一瞬、写真箱の中に目を通しただけで、愛おしいものが何で、何を大切にしなくてはならず、何に感謝をすべきで、何を忘れるべきではなく、そして私が何を失ったのか、はっきり見えた。
悲しみもあったけれど、心の中に、またひとつ小さく細いろうそくのともし火が点いた。

2010年5月15日土曜日

荒れ狂う散文

この頃の欝は酷くて、突然泣き出しては、自分でも何を考えているのかわからなくなることがある。
何が欠けていてそれをどうやって手に入れたらいいのかも全く見通せない。

Massimoに会って以来、不思議なことがおきているのだ。
Massimoからは、二通形態のメールをもらった。
一つは再会がすばらしかったと。もう一つは週末の小旅行が終わったら連絡すると。

それ以来、私は一日中はなしたイタリア語が口をついて出てしまい、家でもイタリア語のラジオばかり聞き、夜中にはイタリア語の音楽を聴きながら、涙が流れてしょうがないと言った有様なのである。

今も、ワインの入った頭で、思うに任せて書いている次第である。

恥をさらそうが、無教養なことを書こうが、そんなことはどうだってよいじゃないか。
何が、私をこう熱くし、何が私の心をこう締め付けるのか、それをなかなか受け入れたくないのである。

Massiomoというのは、私にとって男性でもなく、友人でもなく、イタリアへの扉である。
もちろん、彼は私に良くしてくれるし、今後も友人だと思って、交流がしばらく途絶えることはないと思う。
けれど、私は彼など全く眼中にないのではない。

私が、ここ何年も、毎年のようにイタリアに休暇に行き、思い出の地ばかり訪れ、写真に収め、新しい色に塗り替えようとし、涙を流して、永遠に続くと思われる丘陵に落ちる夕日を脳裏に焼き付けて帰ってくるのは、他でもない、一心に、彼を忘れようとしている行為なのである。

しかし、あの魔物は、夜になれば襲ってきて、私を悲しみの世界に陥れ、再び、私はこの思いから開放されることはないのだと実感する。

Massimoでもなければ、イタリアでもない。
彼が日本人であれば、日本であるし、彼がドイツ人であったなら、それはドイツなのだ。

ええ、はっきり言わせてもらえば、私は孤独だし、それでも背筋を伸ばして凛と生きているつもりだけれど、自分の有り余る感情に振り回されて、まるで愛することのできない自分が、気が狂ってしまったように暴れだしてしまいそう、と言った状態なのだ。

何の儀式をすれば解放されて、何のまじないをすれば、私があの愛から逃げ出すことができるのかはわからない。

とりあえず、愛することも知らない人間に、愛していると言うふりをされ、束縛されると言う苦痛からは足を洗えた。
再び、あの問題に向き合った私は、一生その影を背負い続けると思うと、本当につぶれそうになるのだ。

自分の人生を思い描くだとか、自分の人生を物語るとか、そんな冗談を言っている場合じゃない。
私は、自分の物語の方が私を支配していることを実感している。
渡してしまった魂を取り戻すために、私は何をすればよいのか。

思いっきり、自分を痛めつけ、汚してしまえばよいのか。
いや、救われるべきは、許されるべきは、実は私なのだから、残されるは、殆ど祈りしかないと言うことなのだろう。
本当に、本当の意味で、コミットしてしまうことは、ここまで一人の人生を支配し、ある一つの牢獄に閉じ込めてしまうものなのか。

早く、鬱が過ぎ去るのを待つしかない。

2010年4月23日金曜日

長々しい失敗の告白


しつこくも、また私自身の過去の話である。牛の咀嚼なので、致し方ない。クリスマスの後に書いた文章が出てきた。さらけ出すことをテーマとしている私である。これも載せてしまう。


______

離婚 しているのに、父親と仲が良いなんておかしい。それなら離婚しなければよかったという声を時々聞く。

そうかもしれない。

け れど、当時あれ以外の選択はなかったのだ。

クリスマスは、欧州では紛れもなく家族の行事であるので、どうしても家族とか過去に思いがさかのぼってしまう。

私の前夫は、私の兄と同じ大学で同門であったため、欧州学生オケや仕事で日本に来る際には、必ず私の家に泊まっていた。
私 は大学3年生で、将来は留学すると決めていたときであった。

そんな時分からの付き合いである。
兄と彼は、魂を分かち合うような時 を共にし、兄は彼の才能を天才と呼び、

命を削って芸術をしているような奴だ。音楽をしないと死んでしまうような奴だ。そういう人間を前 に、くだらない望みや期待をかけて結婚生活に不満を言うお前がわがままで完全に間違っている。

と、私が後に結婚したあと、何度もこう私を叱咤した。

その言葉に、悔しさと絶望と孤独を感じながら、それでも納得して夏休みが終わると、ドイツへ帰ってきたものである。

あ の日々のことはほとんど覚えていない。
10年以上一緒に暮らしたのだが、ほとんど具体的なことは覚えていない。
必死であった。

人 をしのぐようなエネルギー、夜がさめても気がつかずに音楽をし続け、レッスンをし続けるそのエネルギーに感動し、付いていくのが精一杯であった。

彼 のマスタークラスに行けば、そのカリスマ性に学生達がどんどん上達していく。その様を見るのは、まさに魔法と言っても良いほどであった。
どんな犠 牲を払っても、共に生きる価値のある、すばらしい芸術家である。

ところが、日常生活は、孤独を極めた。
家にいないこともそうであ るが、子供が出来てからは、演奏旅行に同行することも出来ず、演奏活動をやめてしまった私は、彼がその生き生きと踊るような音楽への奉仕の魂を他の音楽家 と日々分かち合い、理解しあい、彼の本質を共有していることが、ほとんど恐怖のような焦燥感となって、私を苦しめた。

帰宅すればスコア を持って自室にこもるか、熟睡し続けるか、レッスンに行くだけである。
食事にも、外の景色にも、友人関係にも、何の興味もない。批判ではなくて、 天才とはこれほどのものだといいたい。それほど一つのことに精魂ささげなければ、凡人と同じである。生き様で人を感動させることは、まさに命を削るように日常とは逸脱した平面で生活しているということなのである。

音楽を刻一刻と分かち合えなくなり、日常生活の中に閉じ込められた私と彼の間に、断絶はなかったが、孤独が募っていった。
彼は、一瞬一瞬に大きなドラマを必要としている人間である。それは事が大きいということより、常 に感受性のアンテナが張り巡らされ、キャッチした情報をかみ締めてそれが不安を掻き立てれば、私に攻撃的になったり、同調を求めてきたりする。その情報が 心躍るような喜ばしいものであれば、その感動を私と分けようと、夢中になって語り続けるのである。

24時間のうち、どのようなドラマが起 こるか、その次の瞬間のことも誰も予想ができない。
このような生活は、ものすごく内容が深い。しかし私の幸は、私もそのようなアンテナ だけは立派にもっており、彼が何かをキャッチした場合は、目を見なくとも、その気配だけですぐにそれを察知できた点である。
しかし私の不幸は、 同様に鋭敏なアンテナを持っていた故に、二人の生活に安定が訪れることは決してなかったということである。

互いが、その鋭いアンテナで互いの心の動向を察知し続け、無意識のうちに常に影響しあっていた。
それだけ関係は、奥深かったのは事実である。本人達がわかるより、無意識下でのつながりは、非常に強かった。
孤独に対する感受性の強さが同様だったということもある。
その孤独とは、生きているがゆえの孤独というよう な、普遍的なレベルのもので、本人達に理解できていたわけでは決してない。


12年ほどして、三人の子供達を授かって、家庭とい うものを立派に築いてきた私達であったが、その家庭の要求する安定した日常というものが重要になればなるほど、二人の関係には問題が生じた。

し かし関係の不一致というような、何か実用的理由で説明できる類の原因はないのである。そうではなくて、すべてが二人の無意識下で起こっていたように、エ ネルギーとエゴも含んだ才能が、私と言う人間よりも何十倍も大きい彼は、彼の知らぬ間に精神的にマニプレートしている部分があったのである。

これは私に対してとは限らない。仕事でも、彼は常に人を圧倒するような才能を示し、誰しも彼と舞台に上がることを夢に見たが、彼の意向以外の結果は絶対にないのである。それで多くの開催者と決裂したこともあった。
このようなエネルギーとエゴなので、私の生活も、本当に精神的に苦しいものであった。

終いには、雨が降ってもすみません。子供が泣いてもすみませんということになった。
私の魂は縮み上がって、すっかり萎縮していたのである。
この才能に歯止めをかけているのは私であり、家族である。
この人を解放しないといけない。
この人に、子供だの家庭だのを要求する私が間違っ ている。

心の底で、そんなことを確信していた私は、まるっきり彼を理解していなかったのである。

それで、いかに私が彼を支えないか、どこから私のコンプレックスが来て、どれだけそれで私は子供達をだめにし、どれだけ人生で失敗し、どれほど問題を複雑にしているか、と散々彼に説教された。それも繰り返し何年にもわたって、発作的に怒るのである。


一度は子供を放り出して、車で高速道路に出て、どこか遠くへ行ってしまおうと思った。ふっと死んでしまおうかなと本気で考えた。このまま私がいなくなれば、子供達は新しいもっと強く、もっと明るい母親を手にし、幸福な父親と新しくやり直せるのではと本気で信じたのだ。
2時間ほど走り回って、帰って来た私はぼろきれのようだった。

何年間かは強度のパニック障害に侵され、車で外出するのが怖くなった。彼の帰宅 する飛行場に迎えに行くたびに、体中に蕁麻疹が出た。彼の帰宅前に、突然パニック障害に襲われた。

そうした中、這うようにして精神科に行った。



ご主人が原因なのは明らかだけれど、病気になるのはあなただから、あなたが自分を守らないといけない。

その言葉を聞き、セラピーを断った。
人に世 話になってたまるか。自分で自分の心ぐらい守ってやる。

何かが変わった。
閉所が私の問題だった。窓のない風呂場、夜中の真っ暗な寝室、そして特に運転中のトンネル。そこでは必ずといってよいほど、パニックに侵された。

毎回トンネルの中でパニックがくるので、毎日朝早く、みなが寝静まっている間に、トンネルを走りに出かけた。パニック障害で死ぬことはないという医師の言葉を固く信じたら怖くなかった。
パニックが襲ってくるのがわかったら、時間を数えた。 絶対に30分以上からだの防御反応であるパニック症候群が続くことはない。どんなに長くても30分と言う言葉だけに支えられた。

私が、思ったことを行ったり、自分で自分を守るようになってから、私達を強くつなげていた無意識下のシステムが壊れはじめた。

もう雨が降っても すみませんとは思わなくなった。
彼のエゴを許せなくなった。


そうして絶え間ない喧嘩のあと、別居になったのだが、その 間どれほどの孤独感が二人にあったか、どれほどの努力が私の側にも彼の側にもあったか、どれほどの子供達への愛があふれ出たか、それは計り知れない。

12 月までと決めたり、死ぬまで、もう出来ないと悟るまで、私が精神病院に入るまでやると覚悟したり、それは精神的に壮絶と言って良いほどの日々であっ た。

なので別居したときは、ホッとしたのである。
毎日毎日、彼が尋ねてきて、泣きついてきて、懇願されて戻っても、そこには私達の間にあるマニュプレートされる人間とする人間の関係が戻ってくるだけである。
私達のように、深淵でつながっていた人間が、そういう病理的な関 係でしか存在できなかったというのは、非常に残念である。または、そういう病理的な関係だからこそ、依存関係となって切っても切れなかったのかもしれな い。

とにかく、あらゆることを尽くし、あらゆるドラマを見て、暴力の寸前まで行き、病気の寸前まで行ったから別れたのであり、修業が足りないなどと言われる筋合いはない。選択の余地などなかったのである。文字通り、暴力と言う修羅を潜り抜け、命からがら出てきた。

ところが、

今、ここ何年かして思うのである。

私の唯一の失敗は、あの結婚を放棄したことであると。
もうどんな恋人が出てこようと、どんなに支えになる人がでてこようと、私は永遠に、私だけの家族 を失ったのである。

家族全員でクリスマスを行うこともなければ、休暇にいくこともない。
子供達をどんなにかわいいと思っても、それを分かち合える片割れはいないのである。

どれほどの体験を彼にさせてもらったのか、それを思えば、自分の精神病も、自分の苦しかった日 々も、自殺願望も、すべて帳消しになる。
私は彼の音楽に震え、彼に初めて音楽を生み出す姿勢を見せ付けられた。コマーシャリズムに自分を汚さず、 成功を一切求めないで音楽への絶え間ない尊敬を抱き続けて、自分自身を奉仕の手段として犠牲にする、その姿勢は誰にもまねできないからこそ、凡人とは一 線を隔てていのである。

私は、自分の価値観を彼を見ながら、隣に体験しながら形成してきた。

今思えば、礼を尽くしても足りないほどなのである。

私は彼よりも早くパートナーを見つけ、再婚した。
彼もその後、自分の学生と再婚した。

けれど、私は完全に失敗である。
彼のような人間と人格形成上最も大切な時を共にしたら、もう誰とも一緒になど住めないのだ。

別れてから2,3年は酷かった。子供達を引き渡すので会う度に、お互に涙が止まらないのである。
目を見るだけで涙がほとばしり出るのである。それでも、翻るように自分を引き裂くように、言葉も交わさずに子供を渡して帰ってくる。
家の影で、道路の影で、号泣したものである。

4,5年しても同じだった。
彼のコンサートに行ったときは、帰宅してから、なんと言う失敗を犯したのかと鬱に落ち込み、夫の顔も見れないのである。彼の音楽に触れた瞬間、私の魂は、生き血を得たかのように、踊りだす。体中が振動して、血管が駆け巡るとでも言えばよいか。震え、涙がでるという震撼であった。恐ろしい体験である。

今年に入っても同じである。子供達を交えて食事をして、ワインで乾杯しただけで、涙がほとばしるのである。
彼も、酷くなるばかりだね、と真赤な目をしている。

でも、もうあれ以上できなかったことだけは、私達にはわかりすぎるほどわかっている。

彼の新しい奥さんは、日本人で私達のベビー シッターだった学生であった。
その彼女と一緒になったと聞いたとき、ショックを受けたが、彼女の屈託のない性格を知っていたので、安堵したところ もある。
それでもその晩は、号泣した。再婚しても、一向に幸せではなかったからである。なぜかと言えば、新しい夫のことなど、これほども愛していなかったからだ。どこまでも勝手な女である。

2年ぐらい前、彼らに子供が出来ると突然直感し、2週間ぐらい落ち込んで仕方なかったことがあ る。前夫は、毎回そんなことは僕は今は望めないと言って、私を毎日のように慰めてくれた。

しかし時は過ぎ去る。
今年の夏、彼女は 妊娠した。
私の覚悟は出来ていたので、まったく平然とことを受け止めている。それどころか、彼らの幸せを真に望んでいる。

彼女に、私の出来なかったことができる、などと考えたことはない。彼女と私は違う人間で、彼女とはそんな病的な関係ではないのであろう。
ありがたいことで ある。私は彼が何の心配もなく、音楽をしていられることが一番の望みである。

それでもクリスマス、こうして一人きりで過ごすことは気楽で嬉しいのだが、書き始めてみれば、こんな長文になり、やはり私はのどから手が出るほど、家族を取り戻したいのだと勝手ながら実感するのである。
でも、勝手は通用しない。
自分の人生には、きちんと付けを払わなくてはならない。
私には、その力も意志も立派に備わっているが、幸福になれるのか、と問われれば、もう無理だと思うと考えてしまう。

子供達の成長が嬉しく楽しみで、小さな幸福はいたるところに見出すのだが、 乾ききった魂の孤独は深く、普段は一切感じることはないのだが、いざ押し殺している自分の殻を取り除けば、本当は失敗したと認め、でも他にどういう方法もなかったという絶望に涙し、これから精神的には死ぬまで一人で歩むのだと言う覚悟を決めている自分に、多少疲れを感じるのである。

以上のような経緯であるが、前夫と仲が良いというのが、故にまったく不思議ではない。自分たちの意志とは別なところで、ある意味何かが一致しているのである。
精神医学的だとか、心理学的だとか、そんな難しいことはさっぱりわからないが、目を見れば、さらには挨拶の抱擁をしただけで、互いに涙が出てくるというのは、別居後8年たっても一向にかわらないのである。

それがもう決して起こらなければ良いと願って8年たったが、それだけは変 わることない。
兄弟のような、家族のような、そんな気持ちなのである。
私はそんな立場にいないが、彼の命に何かがあったときは、礼を言うために駆けつけたいと思う。
また私が死ぬときには、他の誰でもない、彼に来てもらって、最後に礼を述べさせてもらいたいと。それだけである。

今年の締めくくりとしては、いかにも情けなく、自分でも嫌気がさす。
しかし、これが現状であり、失敗ばかりの人生を見つめ、それでも歩き続けなくて はならない自分の人生に対面するのが、やっぱり宿題ではないかと思うのである。

来年は、後悔のないように、子供達に思い切り時間を割き、 たくさんの思い出を作って、家庭らしいことをたくさんしてみようと思う。それが間違いなく、私を少しでも幸せにしてくれると信じている。

2010年4月3日土曜日

悲劇の循環に自ら入ってゆくこと


Ci sono porte, lucchetti, finestre, imposte e cancelli fra noi.
Io li ho chiusi tutti, e sull’ultimo mi sono appoggiata - sono rimasta ad aspettarti per troppi giorni.
Ora ho gettato per terra le chiavi e ho voltato le spalle.
Devo solo iniziare a camminare di fronte a me, lontano da te.
Ti ho lasciato andare, non è amore anche questo?

私は一歩前に歩みださなくては
あなたからは遠いところへ
あなたを解放したわ
これだって愛とは言えない?

Starcrossedより引用

 
涙がボロボロとこぼれることは、今まで何度となくあった。けれど、何分間にも渡って涙が滲んでいるという状況は、今回が初めてではないだろうか。

普通は感情が高まるから涙が出るのだが、感情の方は至って冷静であるのに、まるで身体反応のように涙が滲むのだ。それも何分間にも渡って。

何のことはない。理由はいくらでも挙げることができる。
私の前夫は再婚したのだが、彼らの子供が昨晩生まれた。
今日は私の、いや私達の子供3人を連れて、彼は病院へ赤ん坊と妻を見舞いに行ったのだ。

私が、彼と別れを決心し、私が乳飲み子を含む3人を連れて一方的に家を出て来た。それを今更後悔だとかトラウマだとか、そんなセンチメンタルな言葉で嘆くつもりも愚痴るつもりもない。

事実は事実として、すでに受容してきており、涙を流したことも慰めを求めたこともあるが、今となっては全て消化してしまった現実である。
自らが選び取った能動的選択だったという一点が、私に精気を残してくれ、一歩一歩それこそ自分の足で前進する力になったのである。

しかし、前夫の今日の話は、いささか複雑な気持ちにさせるものがあった。複雑というのも正しくないかもしれない。それより実感していなかった壁を目の当たりに突きつけられ、今まで考え想像してきた未来というものが、覆されてしまうような事実を突きつけられたと言う気分だったのである。

しかし、そういう何重にも重なって横たわる問題を実感し理解するまでには、多少時間がかかるものである。それが不思議なことに、怒涛の感情となって私を襲う代わりに、身体が先に反応して静かな一縷の涙として眼を湿らせては、時折頬を伝って流れていくと言う実に意外な形として現れた。

こうして文章を書いている現在、やっと自分自身がターニングポイントに立たされていることを認識し始めたという感じである。

私と前夫は、10代の頃から知っており、始めは何の屈託もない学生同士の友情として交流していただけである。彼の異常な背景は、その後もっと親密になり時間をかけた上で知っていくことになったのだが、その当時もすでに彼の存在は特別であり、コメディの中に深く計り知れない悲しみが潜んでおり、その不安定な体つきと身のこなしから、何か特別の能力を持っていることだけは、彼を知っている人間全員が心得ていた。

何年も後、彼の崩壊した家族や育った環境を知るに連れて、その家族全体がゴーゴリの外套の主人公、アカーキエフ・アカーキエビッチ、またはドストエフスキーの貧しき人々の主人公、マカール・ヂェーヴシキンにつながるような悲劇が潜んでいることを発見する。
誰よりも清い、いや無垢な魂を持った人々が、清貧な人生の中で自分を幸福だと言い切る謙虚さを持って、その生き様を肯定する。しかしその無垢さゆえ、まるで黒い穴がぽっかりその一家の中心に開いているかのように、次から次へと難題や不幸が容赦なくのしかかってくるのである。キリスト教的に言えば、まるヨブの話のように、何故彼らにという疑問が残る。

無垢は愚鈍だという人間もおり、貧乏が自業自得という人種もいる世の中である。
その世の中にあって、このような魂を持った者達は、一様に孤独感を募らせてゆく。さらに、孤独を骨の髄まで味わった者達は、それだからこそ、たとえ常軌を逸した形でも、愛さずにはいられない人々なのである。

彼の育ちとその家族は、あまりにも深い悲劇性、つまり本人達にはこれ以上の幸福はないと認識されるような、悲劇的な清貧と謙遜によって、同じ空間にいるだけでも心が苦しくなり、悲しみのあまり泣き出してしまいそうな窒息感を感じざるを得ない。

そういう彼との関係は、言葉の会話も要らないほど、底深い次元でつながっているという実感が伴うものであった。 友情が博愛になり、それが気がついたら互いの献身につながっていたのである。しかし、アカーキエビッチもヂェーヴシキンも決してその人生で報われることはなかった。まるでそれが法則であるかのように、正直と清らかさは、まったく誰の目にも気付かれないまま忘れ去られ、その中心にある愚鈍という黒い穴に、渦を巻くように不幸が襲ってくるばかりなのである。
それと同じように、私達のように無垢だが無謀で無知な若者2人の間には、ありとあらゆる無理難題が襲ってきたのである。
そして、彼の芸術家としての社会的成功が大きくなるに連れ、彼はサタンと聖者が同居したような複雑さを見せ、予想のつかない状況で、予想のつかないきっかけにより、予想のつかない度合いで、人格を変えていったのである。

しかし、問題が降りかかると言うのは、ドラマ性があり、2人の人間の間の色づけとさえ言えるのが、若者の人生である。無知のおかげで大人であればさっさと切りをつけたろう、同じパターンの関係構図を繰り返し繰り返し描き出し、同じ過ちを犯し、一切向上を見せないコミュニケーションを取っていた。

それだから愛ではなかったとは言いたくない。紛れもなく愛であったのだ。だからこそ、こうして終わりを告げてしまった。

しかし、関係は終わりを迎えても、時とは恐ろしいもので、嫌悪や怒りが消えてしまうと、残るのは愛の断片や、美化された相手への親近感なのである。

私は再婚し、また別れを遂げると言う一連のストーリを終え、彼は私を取り戻そうと、ヂェーヴシキンがワーリンカの乗った馬車を追いかける、あのみっともない場面にそっくりなやり方で、様々な努力をしたが、おろかな私は俗物のような相手にすがりついたままであった。

何故、俗物が良かったのか。俗物には、安定感があった。しかし私がその年月で学び得たことは、一見効率的で有能に見える俗物こそ、愚鈍で無神経であるという事実である。半ばそれに耐えられなくなった私は、ましても独り者になり、その魂の自由を味わい、金輪際、能動的な愛の行為のない生き方はやめると自らに誓いを立てたのである。

そして、彼は私を取り返すことができないとわかると、運命のように自分の弟子と再婚し、第2の人生を始めたのである。

よく思うのは、自ら関係を断ち切って離婚に踏み出すのは女性が圧倒的に多い。しかし、別れられた男性のほ方が意外にもその後新しい連れ合いを見つけ、長いこと幸せに寄り添い続ける。一方当事者の女性の方は、次々と相手にめぐり合うが一向に幸せになれないという例を多く見受ける。

私の場合もその例に漏れず、苦しんだ彼の方がむしろ近道で新たなる人生で成功し、先にスタートを切ったはずの私は、未だに宙ぶらりんであるという事実である。


今日、彼は病院から子供達を連れて帰り、ひとしきりその場の話をしてから、さらにもう1つの話をした。

彼の率いていたオーケストラを彼が去ったのは何年か前である。中庸なキャラクターと政治的活動という義務に嫌気が差して去ったのであるが、そのスポンサーがハウスコンサートに彼を招き、その後に彼の一切の活動を支持すると宣言したと言う。
もちろん彼は大学に教授職もある身なので、何の苦労もないのであるが、自分でオケを作ったり、大学を作ったりするようなことには携われない。それをその紳士がパトロンになってスポンサーになるというのである。

この話は具体化し、この秋ごろイタリアに行って広大な敷地とヴィラを買い、そこに前夫一家を住まわせ、将来は、夫の願いであった故郷イタリアで、他に例を見ないポストグラデュエート的な高等教育機関を設立すると言うのである。

彼が若かりし頃から、伝説に残るような成功をしてきたことは自覚していた。が、成功を断り、メディアを軽蔑して関わらず、ことごとく宣伝しない人物であったため、世間の俗物さながらのソリストとは、全くかけ離れた位置にいたわけである。

それが私と離婚して10年後、このような展開を見せて彼は故郷へ帰り、ヴィラに住まうことになり、新しい妻との間に立った今子供が生まれ、まさに前途洋洋、やっと家族の中でただ一人、新星と呼ばれたこの男には、悲劇の循環から抜け出せる兆しが見えてきたのである。これはある意味、大変なことだと思う。

その話を聞かされた私は、俗人そのものである。自分を不幸だとは思ったことがない。苦しんでいることは、むしろ力を試されているような気持ちがして、どんなことにも挑んできた。よって、それなりの自信も持っているのである。だから彼とその新しい妻を妬ましいと思っているとは言い切れない。

ただ、私は私の「あれからの人生」と、彼の「あれからの人生」に、取り返しが付かないほど大きな距離ができてしまっているのをまざまざと見せ付けられたことに傷ついているのである。
一つ録音が終われば、私のところに駆けつけて、ワインを飲みながら、これは君に捧げたものだと言い、その目に涙をためるのである。
彼の人生の中で、大きな転機となった局面では、私に一先に電話をしてきて、電話口で泣き崩れたのである。
時々夕食を共にすれば、手を取り合って見つめあい、若かっただけだ、若さがいけなかっただけだと繰り返し、互いにオイオイと泣くのである。

そうして10年間過ごしてきて、妻がいようとも私に夫なるものがいようとも、私たち2人にはまったく問題にならない、いや眼中に入らないほど、その絆はまるで家族、兄弟のように強いと言う信頼感があったのである。

実は、私がこの地で歯を食いしばって自立のために力を尽くしたのも、日本に帰国しないと言い切ってきたのも、実は全ては夫どころではない、彼のためであったと薄々認めてはいたが、今晩はそれが自分の目の前に暴かれたのである。

彼の未来には私の居場所はなく、彼の赤ん坊に興味を持てない自分は、おそらく妬んでいるのではなく、実はまだつながっているようで、まったく違った線路の上にいたとはっと気がついたのである。

彼は国家公務員なので、将来の心配は一切ない。
私は、3人の子供達を抱え、外国人、母子家庭、フリーランスという傍から見たら三重苦の不安と問題に溢れる地位である。
確かに私には、これから思春期の子供たちと自分の老後、日本の両親、自分の更年期と、ろくでもない現実的な問題に曝されている。それは安定し、保証された彼の生活とはあまりにも違うものであり、まったく違った種類の緊張感に溢れている。
彼の妻に至っては、私とはまったく違う絨毯の上にいるのである。彼女に、この緊張感はないだろうし、この不安感はないのではないか。

はっきり言ってしまえば、苦労している私には、このような華々しい幸福を喜べない。なぜならその差異を見せ付けられるだけであり、ねたみたくないと言う良心との葛藤が起き、さらには想像のできない世界だからなのである。

一軒のアパートも買えない人間に、ヴィラに住むだろうから、君もいつでもくればいい、良ければ一緒に移住すればよいと言われたところで、冒頭のように、麻痺した感情の下、涙がただにじむだけなのである。

けれど、私はこれでも何も後悔していないし、惨めだと実感することもできない。
私は自分が精神病院に入るのを防ぐために出てきた。結婚を救うために血を吐くような努力をし、全てを試みてもダメだったという確信があったから出てこれた。
それよりも、何の打算をすることもなく離婚を決心し、社会的地位や経済的恩恵などの一切を投げ捨てても、自分で自分の足で歩こうと決意し、今もそれをほぼ守り通していることに、少しは誇りも抱いているのである。

自立も離婚も、女性には勧めたくない。
女性を早く年取らせるおそれがあるが、それは本来生物学的に、このような生き方が女性の自然と逆を行くからなのである。
私は、逃げてでてきた。つまり選択も何も、それ以外の道が他になかったから出てきたのである。どうじゃなければ、離婚など選ぶものではない。

けれど、いったんこの線路を歩みだしたからには、惨めだと思ったこともないし、ここまで来れた事を神に感謝したいほどである。

周囲に同情を買うような私の人生状況であるが、それを私自身は、幸せを毎日実感でき、自分で歩んで行かれることに感謝さえすれど、後悔したことはないと言い切るあたり、だんだんアカーキエビッチやヂェーヴシキンに似てきたとさえ思える。
あのような種類の愚鈍さを身につけだしたのである。
それを証明するかのように、身の回りには黒い穴を巡り、問題が山積である。もはや私のまいた種ではない問題まで、私の人生に足を突っ込みだしている。

しかし彼のような人間、いや私の今でも愛している前夫が、あの悲劇の循環から抜け出すことで、本当の社会的な成功を手にし、清貧を通し、世俗を拒否し続けたからこそ、このような褒美が転がり込むのであると思えば、私は自ら好んでこの悲劇の循環に変わりに入ってもよいと思うのである。

愚鈍だからこそ、悲劇の中でも生き生きとし、人を愛せるような立場になくても、深い謙遜を持って、人に献身できるのである。

本当のヒューマニズムは、やはり宗教とは切り離せないものである。

今後は、あの人々が味わったようなどん底の孤独感が、断片的に私を襲うだろう。でも、私は違う線路に乗ってしまった前夫を心の支えに生きていくことをそろそろ止めなくてはいけないのである。それには、孤独を味わい味わいつくして他を愛せざるを得ない状況に陥るしかない。

2004年6月21日月曜日

La Fida Ninfa

昨日は、一日中腐っていたけど、午後はシャワーを浴びてすっきりしてから、娘と二人で、もと夫のオペラへ行ってきた。
今ポツダムは大きな音楽祭をサンスーシで開いているんだけど、そのお城の劇場で彼はオペラを四日やる。その三回目だったんです。

ヴィヴァルディのまだ昨今では演奏されたことのないオペラ、La Fida Ninfaでした。永遠の忠誠を誓い合うように生まれてきた二人が、海賊によって引き裂かれて、十七年経った後に再会するのだけど、二人は自分たちが十七年間思い続けてきた相手だとは気が付かない。それぞれ色々な誘惑にあうのだけれど、愛の神は、この二人だけは他のバカな男女のようにではなく、永遠の忠誠の誓いをまっとうできるはずだと、怒りを感じながらも信じているわけです。そして、二人は、無事に自分たちの心に描いてきた愛を裏切ることなく、最後には結ばれるというおめでたい話だけど、この古風なテーマが、現代には妙に新鮮に感じられた。
結局は、そこじゃないですか、簡単なようでなかなかできないことって。

それにしても、元夫はオケには全員バロックの弓とガット弦を付けさせる徹底の仕方。しかしバロックオケではない。ティンパニーも、当時の小さい革張りのもの。風や波の音も、原始的な小道具でティンパニ奏者がやる。トランペットもホルンも、ナチュラルです。劇場は、こじんまりした、本物のバロック劇場で、非常に乾いた響きで、エコーは殆どなし。そういうところでは、まあどんな音の変化も、雑音もすべて聞こえるんです。元旦那が、始まる前に友人に、「まあ、何でも聴こえちゃうというところが、アマチュア的な響きを出して、まるで、当時のような音になるんだよね。」と説明していた。これは、当時の演奏家の技術がアマ的と思われるととんだ誤解なんですけど、そうじゃなくて当時はそうかしこまって物ではなかった。誰が間違えたとか、音程が完璧じゃないとかそういう価値観ではなかったんです。
昨日もものすごく舞台に観客席が近かったんだけども、観客と演奏家は、もう本当に親密な関係だった。生きている音楽をまさに目の前で聴くことが出来たんです。そして、楽器は、今のものより、はるかに操るのが難しい古楽器だった。音程とか、テクニックというのを完璧に操るのは、楽器の性能自体の問題で、殆ど不可能だったわけす。その代わり、今の演奏家より、即興の能力とか即反応の能力とかが、はるかに上だったわけで、そういうところでまさに生きた音楽を聞かせてくれたわけです。今日も昨日も同じように完璧という、ベルリンフィルのようなものはなかった。今日も昨日も、違う意味でよいわけす。それを旦那はあえて、ディレッタンティスム、アマチュア的と呼んで好んでいるんです。

それにしても、これは、彼が自分も、当時のオリジナル楽器を使うんだといって、せっせと練習し始めたころ、かなり今の楽器の感覚のつもりで、音程を完璧に目指そうとして、すったもんだしていた時に、私が、もうそういうことじゃないんだから、音程の不安定さが、妙な嗜好の良さをかもし出しているわけで、その方がずっと当時の現実味があるから、ある程度のディレッタントさというのは、むしろ必要なんじゃないの?といったら、何日か悩んでいたんだけど、そうだ、そうだよなあと、ものすごく納得したようにしばらくしてから、完璧さにこだわるのを止めた。それが思い出されて、何だか自分たちの歴史まで噛みしめてしまった。
しかしこれは、あくまでも古楽器のことですから。現代の楽器を扱っている方は、まず完璧さがあっての音楽性ですから。今の楽器の性能では、完璧もまんざら無理ではありません。市場のテクニックも、どんどん上がる一方です。それが言いか悪いかは別として、最初から、完璧じゃなくて良いんだと思うのは間違いですので。

そこはまた難しいところで、古楽器は、今だからこそいろいろと機会がありますが、昔は古楽器が出来るというだけで仕事が来るような感じもあった。で、古楽器界は非常にアマチュアな世界と思われているんです。これは、本当に優れた古楽器演奏家のアマチュア的嗜好とアマチュア古楽器演奏家とは区別されるべきものです。それをどう聞き分けるかといえば、一応本物を聴いている人には、すぐに分かるでしょう。だからCDを聴く時も売れ筋や、有名度で買うのではなく、本物を聴くと言うのは大事です。じゃあ、どうやって本物と分かるのかといったら、これはひたすら、聴いて聴いて勉強するしかない。どれが小説という領域を超えて、文学といえるのだなんて言ったって、古典から新しいものまで相当読み込んで、自分の嗜好というのが漠然と分かってきて、有名といわれるものも、売れ筋のものも一応読んできたと言う前提があれば、おのずと読み分けられるんじゃないでしょうか。

で、オペラは、大成功でした。非常にコミカルなキャラクターを非常にイタリア風にイタリア人(元夫)が演出していて、ドイツ人にはこういうわけには行かないだろうと。まあ、やっぱり彼の音楽は、何だかものすごいカリスマがあります。オペラだから、元夫は舞台では、一場面の間奏部以外では見えないわけだけど、客が釘付けになる。隙のない音楽というか。一小節ごとに忙しく何かが起こる。まあ、これがせわしなくってなんとも好きではないという方にはだめかもしれませんが、Vivaldiにはとにかくぴったり。相変わらずの勉強ぶり、相変わらずの骨の削りぶりにはもう尊敬して頭が上がりません。もう心身削って捧げている。一生音楽のドラッグ中毒状態と言って良いと思う。そんな奴は馬鹿だから軽蔑しろって言うご意見もありますが、じゃあこれだけ何かのために精根尽くして果たし、それを社会のために貢献してみろって言われれば、なかなか出来ません。別に金儲けのためになんか全然やっていない。金なんか全部出て行ってしまいます、そういう人は。楽譜や本、または各国の図書館への旅行代、古楽器開発の資金と、色々あるわけです。ですから社会貢献といっているんです。人が知らなかったことを発見して後世に残しているという意味で。だから良いじゃないですか、ちょっとおかしくって、いつも中毒しているみたいで、多少あまりの日常生活不能ぶりに、周りが迷惑したって許してやらないといけないなあと実感しています。そう言いながら、支えきれなくて出てきた私ですが。

心の中ぐしゃぐしゃ。本当に何年かぶりに元夫の指揮するコンサートへ行って、すぐに自分のうちのように馴染んでしまった。知っている人が多いだけじゃなくて、舞台裏、エージェントの人、コンサート、打ち上げ、そういうところに毎日のように十年以上生きてきたわけです。自分一人でいた間の音楽人生分も含めると、もう生まれついてからといってもいい。私の魂のふるさとなのに、それを別居以来、あまりに辛くて切り捨ててきた私。いけないところへ戻ってしまったような、取り返しのつかないものを見てしまったような、殆どコントロール不可能な悲しさがこみ上げてきた。

元夫には、その音楽の素晴らしさを伝えて、礼を言って帰ってきました。毎日毎日のようにソリストとしてコンサートをして、普通の人間には考えられないような緊張感の中に生き続けているあの人は、やっぱり心臓に毛がはえている。それでも、演奏しないと生きていけないというのだから、そこが真似できない。病的だけど、血を流して泡吹いても、あの人は楽器と楽譜を放さないだろう。そこに惹かれた自分というのは、やっぱり病的だ。

もう永遠に終りそうにないし、どんどん心がぐちゃぐちゃになるから止める。