新たな季節が始まった。いやもう一つの季節は過ぎ去り、次の季節が始まっていると言っても良かった。
太陽がその鋭い光線で地面を照らすようになった頃、息子が家出をした。
一大事であった。
それも10日間もいなかったのである。
帰宅するまでの道のりは長く、自己を責め、自己を恥じ、息子の安全を念じた。
結果、彼との深い会話を通して、彼の成熟した精神と、いたって健全な人間性を再確認した。
彼の家出は、彼自身の問題でもあったが、私の家庭の有様をあからさまに描き出し、むしろ私に対するショック療法であったと言っても良い。
その時に、私は決心をした。変わるしかない。
これは紛れもない、私の家庭の最後のチャンスであったからだ。
_______________
それから色々と風が吹いた。
この一件があってから、娘は感情カタルシスを起こしたが、それを機に、病状らしきものが消えてしまった。あれだけ医者へと駆けずり回った私が、道化であったことを証明するかのように、彼女とのコンフリクトは、下火になったのである。しかも朝、陽が昇ったら別人になったと形容してもおかしくない変化であった。
彼女の人格は相変わらず風変わりで、会話をしても通じ合うことはなかなか難しい。
けれど、家族の誰しもが、幸せな家庭を夢見て、愛し合いたいのだと、絶対的な安定の地を求めていることは事実として明るみに出たのだ。
すべては言葉なき事実であったが、それは誰の目にも明らかだった。
そこで、私は小さな幸せを家庭で実行に移したのである。
一緒に夕食も食べられなかった一家が、再び一つランプの下で食事をとるようになった。
そのために私は大金をかけて食卓のランプを調達した。
掃除がはかどった。心の中が整理されていった。
少しずつ、家族の形態が戻り始めた。
凄まじい八方ふさがりの暗黒は、3年間続いたのだった。
娘の病状が出るようになって以来、5年が経過していた。
全員が、限界まで来ていたのだった。
________________
また風が吹いた。
仕事帰りに買い物に行った帰り、久しぶりに5分の道のりを歩きながら、春の生暖かい空気をありがたく胸に吸い込んだ。
献立は決まっていた。すべてが予定通りだった。
この小さな満足感を誰かに伝えたかった。ひとこと「やっとここまでたどり着いたのだ」と。
それを思ったとき、母の顔が浮かんだ。懐かしい母の声も思い浮かんだが、彼女に電話をする気力は湧いてこなかった。
それはもう、彼女には何も伝わらないのだということを身をもって知ったからである。
彼女は、しぼんでゆく。彼女の世界は、老眼鏡のように周囲が曇っていくのである。
娘のこと、一挙一動を知りたいと思いながら、娘から連絡がなくなって何日かも数えられないのである。
その母に、この胸に湧いた一瞬の幸福感をどう伝えたらよいのだろうか。
その時に、心の中でまた一つ理解した。
もう私はここで歩いているように、どこへ行っても私の人生を私だけで味わうしかないのだと。
私と私の子供たちが、私の家族なのだった。
後ろを向いても、もう親はいない。少なくともこうした突発的な感情に対応できるほどの、精神的な支えは、もう彼女には果たせなくなったのである。
彼女がまだ生きていることが、大きな支えである。
けれど、私の思いは、空気のように彼女の耳を掠め、微笑んだとしても、それは自動的な動作で、その後一分もすれば、もう一度聞き返されるのである。
その暴力的ともいえる虚しさを、何度となく体験してからしばらくたったこの日、私は初めて自立した。
私のひらめきも感情も湧き出る思いも、もう一人きりで消化するだけなのである。
もう私の手のひらにしか、私の人生は握れないのである。
相談もなく、自分の経験と直感を信頼して、一人で舵を取ってゆくのだ。
そして、それを恐れとも残念だとも思わなかった。
生ぬるい風に吹かれながら、もうできる、そう小さなこぶしに力を入れたのだった。
________________________
娘の魂の核となることだけは、支えてやらねば。
どんなに喧嘩をし、どんなに争った過去があったとしても、親は私であり、大人なのは私だけなのだった。病気呼ばわりする親に育てられる彼女の失望感は、私には死ぬまで想像できないはずである。
そこで、イタリアに行くことにした。
彼女のたっての夢である大学が、イタリアでサマーコースを開催するからである。
それは、私からの真剣なそして正直な贈り物であった。
彼女が、最大のチャンスをつかむであろうことは今からわかっている。
あれほどの情熱と献身は、また彼女の父と同じく、他人にはまねのできない集中力に満ち溢れているからである。
それこそがカリスマ性なのであった。
この旅行を家族の転換を完全なものにする行事にすると心の中で決めた。
姉の目も見れない、姉など死んだ、彼女の一家を抹殺するなどと、ホラー映画さながらのことを吐き捨て、一緒に食事もしなければ、一切かかわりたくないと言っていた馬鹿な息子と彼女の関係は修復不可能であると思っていた。
そう信じていた疑わなかった親は、さらに馬鹿であった。これは私の罪である。
なんのことはない、うちの子たちは見事に心の優しい子供たちなのであった。
私が家族大改革計画を実行に移すと、誰しもが気を使って摩擦を避けるようになり、それが次第に中立関係に代わっていったのである。
息子も後からイタリアに来るようにと了解を取るまでに一か月かかった。
しかし、今は誰しもが楽しみにしているのである。
小さなアパートに閉じこもったまま、インターネットも電話もない世界で、しかし私たち4人は、なんとか楽しい夏を過ごすであろうと今から信じている。
_____________
偶然なのか、電話回線の契約切れと重なって、新しい回線を引いた。
テレビプログラムにイタリア語のチャンネルを入れてもらった。
子供たちもなぜか見ている。
ここでどんなにつらくても、ここだけが故郷なのではないという、逃げ道があると、色々なことに希望が見えたりするのである。
イタリアの歌ばかり聞いている。単なるイタリア好きではないのである。
イタリアの歌を聞けば、一瞬のうちに涙ぐむ。
私は前夫のメタファーとしてのイタリアを愛してやいまいかと、ある日突然雷のごとく、そんな思いに取りつかれた。
すべてが、勘違いなのではないか。
イタリア文化との関係は、そんな簡単な好き嫌いの感情ではないのだ。
その裏に、私の知らぬ無意識の意味が隠れているようだが、それを解読できない。
そんな矢先に前夫が姿を現した。
2か月の音信不通後であった。
父は死んだと、これまたグロテスクな嘘を宗教の教師に訴え、家庭は崩壊して、兄に殴られていますと訴え、青少年課を紹介しましょうと教師に言わしめた末子が、見るからに幸福そうであった。
そうだ、父親は大事なのである。
私のこれまでの思いはすべて大陸を隔てた向こうにいた彼の心の中にシンクロしていた。
彼は、知らなかったが知っていたのだ。
私の家族が肯定的に変わり果てた姿を見て、その間にあったことを察したという。
その間、彼の体調は悪く、かの地で自分の新たなる家族と共にいながら、とり憑かれたかのように毎晩私と子供たちのことを案じていたという。
やはりひともんちゃくあったのだねと。
目を見るだけで千言の会話ができることは、20年前から同じである。
その関係の深さが年々強くなり、さらに深くなり、殆ど恐怖に感じるという。
そう思えなくもない。
別れる理由は、愛があるだけでは足りないというものだった。
愛がないと言ったことはなかった。愛が多すぎたと言っても良いのだ。
そうだ、愛が深すぎて別れたのに違いないと、そう納得し合った。
____________________
ある出会いをした。
偶然にもイタリア人だった。
相手は果てしなく興味をそそられたらしい。
私は、知人に再会したような安心感を覚えた。
そして気味が悪くなるほど共通点があった。
しかしこのひとをTuつまりDuつまり君とは呼ばないと、どこかで不思議な決心をした。
相手は、二度も私にTuと言い、何度もLei(あなた)と言い直した。その時の彼の恥た顔は見逃すまでもなかった。
仕方ない、近しく感じてしまうのである。
しかし彼は去った。
私も去る。
彼が戻るまで時間がかかる。
それにLei(Sieやあなた)の人なのである。何という関係もない人なのである。
ところが人々に、何があったのかと聞かれるようになった。
キラキラと輝いるぞと言われた。
よく知らない人に、僕に電話してと番号まで手渡された。
恐ろしく、私はポジティブなオーラを放っているらしい。
5年の暗黒時代は、幕を閉じたのである。
イタリア人には、感情のひだがある。
ひょうきんだとか、明るいだとか、そんな話は嘘に近く、彼らはひどく繊細で、ひどく内気である。
それが、一瞬で会話をドイツ人とはありえない方向に発展させるのである。
娘が一言いった。
「イタリア語を話しているママが一番自然。一番リラックスしている。一番本当のママだよ。」
それは自分でも実感していたことなのであるが、はっとした。それは驚くほどはっとした。
_________________
しかし、この文化を愛する私は、何を隠すそう前夫を求めているのである。
自分で捨て、自分で出てきた家庭を取り戻したいなど、露ほども思っていない。
一緒になど五分たりとも暮せたものではない。
しかし、あの魂なのだった。あの魂と永遠につながっていたいという、つきつめればそれだけを心が求めることをやめないのだった。
彼を見るとき、私は彼を見ていない。
彼の中の目には見えないものを、しかしまさに具体的に目の前に見ているのである。
彼の言語を聞くと、彼がいなくても、あの魂の気配を感じるのである。
肉体も日常もいらないのだ。
あの魂とは、双子なのではないかと、本当にありきたりな安いスピリチュアルブックにある疑問を投げかけさえしたくなるのである。
あの音、あの歌いまわしは、あのことで、ああいう風に泣いていると私には聞こえてしまうのである。
あのビブラート、あのテヌートは、あれを訴えたくても伝わらない、その孤独を嘆いているのだと聞こえてしまうのである。
理屈はない。だから、一瞬を境に恋に落ちたのである。
だから結婚も家庭も、それが崩壊したことさえ、意味はなしていないのだった。
大陸を隔てても、意味をなしていないのだった。
いつでもいるのである。そこに。
_______________
長男は苦難の時を経て、また実技で一番になった。それも演奏にはポエジーがあるのだった。
一瞬顔を表す、魂の奏でる音は、それを聞いた者の心をはっとさせ、次の瞬間溶かすものである。
間違えやしまいか、大ミスをするのではないかと、未だに的外れな気持ちで聞いていると、時々ワープするのである。
気を緩めると、「あれっ、これは!」とハッとするのである。完全に父親の音を聞いたからである。同じミを二拍伸ばすのも、彼のそれには心を揺さぶる歌心が見え隠れするのである。はっとするのである。
このポエジーは、物差しで計れない、計ってはいけないものである。
これは才能なのだった。
その息子は国の音楽英才教育機関に送られることになった。学校以外にこうした半国営の基金でいわゆる才能教育を受けるのである。
親は関係ない。彼自身が花開いて獲得した結果である。
彼のポエジーは、彼の成熟と繊細さと壊れやすさと孤独から生まれるのである。家出も肥やしになったのかもしれない。
___________________
娘のところにある日突然電話があり、働きに行くようになった。
シックなツーリストが集まる、総合アジアンフードのような、ヌーベルキュジーヌのようあ店である。日本人が経営しているのだが、彼女の日本語は小学三年生である。
しかし客は日本人ではないのだからよいのだろう。
せっせと働きに行っている。
小遣いでコンサートへかよい、先日はミュンヘンまで自分で計画して二泊行って帰ってきた。
これは、左と言えば右へ、前と言えば後ろに向かって、年中道に迷っていた彼女にしたら奇跡である。
働き出したことで、とても生活が規則的に回転し始めた。
そして彼女の歌も極まりつつあり、ますますポップカルチャーから遠ざかり、のめり込んでいるようである。
彼女には、人目を惹くカリスマがあり、コンサートに行くたびにその思いつめた目と足取りで、アーティストと会話をし、ひと時の思い出を作ってくるのである。
毎回成功するのは、彼女の類まれな意志力と思いつめた集中力がにじみ出るからであろう。
彼女もメランコリーを持ってる。
果てしないメランコリーを背景に抱えながら、歌声を張り上げる旋律と節回しは、やはり人の寂しさに触れるのである。
彼女も、前進している。
親など関係ない。
子供は勝手に育っていくのである。
もう私は無力だ。
彼らはもう一人前なのだった。
_______________
生身の人間への興味は薄れはて、もう一人以上に良いことがあるとは思えなかった。
しかし、健康が回復しつつあるのである。
苦しさをはっきりと思いだした。
愛されたくもない。愛を乞うつもりも毛頭ない。
しかし子供以外愛せないことは、なんと辛いことであろうか。
愛が前提の子供ではなく、赤の他人だからこそ、小さな愛情でも与えなければ、関係は成立しないのである。
その活動をやめることは、人を信じていないことであった。
それが悲しい。
鳥が戻り、花が咲くという自然の摂理は、決して裏切らない。
そして、五年を経た今、陽はまた昇るのだと、身をもって教えられたのである。
もう一度、人を信じてみたくなった。
そういう気持ちで、イタリアに飛び立ち、毎日家族水入らずで過ごし、思い出づくりをしてくる。
おそらく最初で最後の4人の休暇である。
そして帰宅したら、私は必ず、新たな季節と共に、新たに出発するつもりである。
このまま「Lei」と呼び続けるには限界がある。
嫌でも近しくなることは見えているのである。
しかし頭では考えることは止めた。
セラピストさながらの知識で娘に接しても、悪化の一途であった。
心なのである。人間関係は、心でしか解決できないのである。
前途は、開けている。
もう何があっても、私は幸せに違いない。
2013年6月28日金曜日
2012年4月20日金曜日
思い出のパリ
パリのことを思い出す。
パリは随分良く訪れた。初めてパリを見たのは留学してきた年に、フランス人の友人にもらった見知らぬ人のアドレスを尋ねて一人で訪れた時だった。
東駅に着いてフランに両替した後、ベルヴィルにあるそのアパートにたどり着くまでが苦労の連続であったが、今思えば甘酸っぱい記憶となって、心の奥に刻まれている。
その後、当時のボーイフレンドだった人の親友のガールフレンドがパリに住んでおり、幾度となくパリで落ち合ったものだった。
彼女のアパートは4区にあった。確かEtienne Marcelというメトロの駅の近くであった。当時随分年上であったが、まだ学生だった彼女のアパートは当然のごとく屋根裏部屋にあった。長くくねる階段を上りきった所に見える小さなドアを開けると、彼女の二部屋のせまっ苦しい部屋があったのだ。
どこにどう4人で寝泊りをしたのか覚えていないが、何度もそこを訪れては、話し合い、笑い合い、喧嘩も悲しい思いも互いに分け合ったことは覚えている。
彼女の部屋の窓を開けても、隣や裏の家の屋根が見えるばかりで、パリの全景を望むことができたわけでもない。
それでも私達は、近所のワインショップに行っては、高級なブルゴーニュ産とフランスパンを買い求めて、屋根裏部屋に戻った。窓から見える星の美しさに惹かれて、窓を開け、厳しく禁止されているのに、ワインボトルとフランスパンを抱えて屋根の上に出ては、ひそひそ声で小さな宴会をしたのを覚えている。
いつも、ものの20分もしないうちに近所の人に通報されて、大家から怒鳴り声の電話を受けて退散することになった。
そのパリを懐かしいと思う。
あんな体験は、若さゆえの馬鹿でなければなかなかできなかったろう。
そこで私はビールばかり飲むドイツ人学生とは違い、フランス人やイタリア人学生は、通常はワイン党なのだと知り、いろいろなワインを覚えるきっかけにもなった。
私の連れの親友だった彼は、トリノの銀行につとめる父を持つ中流家庭の出身であった。その彼女にいたっては、パドヴァの有名な心臓外科の娘で、様々な政治家も親戚に持つような、言わば上流階級の出身だった。
それでも、常に誰もお金は持っていなかったのを覚えている。
朝食は、決まって小麦粉と水でクレープを焼いて、Nutellaの大瓶から大量にクリームをかき出しては、べっとりと塗って食べた。
昼は、メトロ駅の目の前にあるCafe Etienneでバゲットのサンドイッチを調達してきた。
夜は、Sebastopolという大通りを渡ってユダヤ人街の方に歩き、安い料理を探して食べた。
しかし、彼らはその背景もあって、非常に文化的には洗練されていた。そのおかげで、私は欧州に渡って何年もしていなかったのに、彼らの生活ぶりや会話から、様々なことを早くに吸収して行くことができた。
彼らの飲んでいる本、彼らの両親の考え、彼らのもらっている送金額、彼らの将来像、彼らの食生活、彼らの消費態度、金銭感覚、そういったものを悉く身近に見ることができた。不思議なことに、ドイツの学生生活で知り合う友人知人達からよりも、もっとより深い次元で学ぶことができたのは、個人的な親密度によるものなのか、それともフランスやイタリアと言うドイツよりも階級の色濃く残る文化によるものなのか、はっきりとは判らない。
その後、彼らとはパリの学生パーティーにも出向いたし、ピエモンテの別荘で釣りなどを楽しみながら過ごしたこともあり、パルマの年上の友人夫婦宅で毎月のように集まり、買い物や料理をして夜通し語り合ったことも数限りなかった。
体外は、若者の根拠のない自信で世の中を嘆き馬鹿にし、哲学書や古い文学を紐解いて、物をわかったような顔をしていただけである。当然、そこに音楽という中心があったことは当然であるが、思い出に残るのは、むしろ彼らとのインテンシブな生活であった。
親友はその後、私達の間ではつまらないと言われる指揮者を抱えるオーケストラに仕事を見つけた。彼女とは、最初から問題だらけであったが、その優れた知性と教養、また8歳も年上だったことから、彼を精神的に支えてくれたことで、別れるまでには至らなかった。
が、その知性ゆえ、彼女は彼の関心をずっと得るために、心理作戦を使いすぎ、彼は疲労困憊して結局別れてしまった。
間もなく、年下の建築学科の学生と出会って新しい彼女だと紹介されたが、もうあの頃のような団結はどこにもなかったのである。
その彼女は、モデルを小型にしたような見かけで、いかにもつまらなそうに私達の狂乱の過去の話には加わらず、そのまま団体行動も消えてしまった。
彼は、間もなくその建築学科の女学生とも別れてしまった。
パリの学生パーティーに参加すると、またドイツとの差にも驚いた。
どこを見ても、視線と視線の間にはゲームがあり、どこの隅っこにまで行っても、男は男で、女は女であった。
ドイツのパーティーなどでもそういうことは起こり得たのだが、視線と視線が合えば、そこには一種のあの雰囲気が直ぐに介在したなどということはなかったのである。視線と視線には、単なる目の合う瞬間があったと言うのが殆どであった。
そういう意味で、パリの学生パーティーは、もっと自由奔放であったし、もっとエロティックであり、もっと面倒で、疲労するものでもあった。自分がその気がなくても、女として扱われてしまう女の殻を脱ぎ捨てることは難しい。美醜に関わらず、彼らは女性を女性として扱ったものだ。それは感心することであるが、ある友人など、フランス人は目から精子を飛ばしているなどと、酷い冗談も出たほどである。
そのパリを頻繁に訪れたのは、おそらく92年から95年ごろまでであった。その後10年以上してからパリを再び訪れた。子供達をおいて一人旅である。
懐かしい街角をいくつも見つけて過去を抱くように写真に収めた。
レ・アールで一人で買い物をしていたら、フランス語でチェックを書けと言われ、英語ではだめだと断固拒否されたところに助けの手を出してくれた、ベルナデットという女の子と、その後バゲットをほお張りながら散歩し、ベンチに腰を掛けた午後。夕方彼女の叔父さんの勤めるカフェに行ってご馳走になったこと。いつしか文通も途切れてしまった。
オルセーの帰り、対岸に行こうと渡った芸術橋で「愛らしいお姉さんただで描いてあげるよ」と声を掛けてきた、あのカーリーヘアのアーティスト。朝の散歩をしていれば、配達の自転車に乗って後ろから近距離で追い越す際に「サリュ、ボンジュルネー」と爽やかに振り返って走り去っていったあの若者の笑顔。
自分の外見の如何に関わらず、パリでは常にと言ってよいほど、挨拶をされ声を掛けられた。旅人には嬉しい思い出である。
当然、しつこく言い寄ってくる危ない人もいるのだが、それは常識的な感覚を持っていれば、直ぐにわかるものである。断固とした態度でいれば、意外にしつこく追い詰めてくるものでもない。
そうしてあの角のカフェ、この橋の向こう、この公園のベンチ、あそこのスーパー、ここのパン屋と、色々な街角を訪ね歩いては、一人ため息をついていた。
すべては、私がまだ20代という非常に若い年齢であったから、集めることのできた思い出である。
セーヌは、生きている。
当時のメモに、そんなことを書いていた覚えがある。
セーヌは、どの橋から見ても、どの建物を向こう側に目にしても、常に違う顔を持っているのに、完璧なほど、その雑多な風景に溶け込んでいるのである。
セーヌは、ただの川ではなく、息づいていた。それはパリの人々の活気、決して親切で気持ちのよい人ばかりではないが、大都会だからと言って、東京のように表情のない顔をした人は少なかったのである。
厳しい表情も、生きることの只中にあるそのことを象徴しているようにさえ見えた。
その人々の生きるという息遣いは、川の中にも溶け込み、川自身がキャラクターをもった生きる存在のように、そこここで、その豊かな表情を見せていたともいえる。
パリには、独特の魅力がある。
それは揺るがぬ事実であった。
現に、私は今でも遠いあの頃を思い出しては、あの街に深い憧憬を持っている。
冒頭に書いたように、留学直後初めて訪れたパリでは、フランス人女学生シルヴィーの知り合いの男性宅に間借りした。その思考自体が、日本から来た私には驚いたが、コンセルバトワールを卒業したばかりだった、ジャン・フランソワというその知人と彼の友人達の私に対する扱いにも、日本から来たばかりの私には、驚くべきものがあった。
その話は、またいつかどこかで書きたいと思う。
ちょうどあの頃リリースされ、毎日のように聞いていたアンテナ。
パリは随分良く訪れた。初めてパリを見たのは留学してきた年に、フランス人の友人にもらった見知らぬ人のアドレスを尋ねて一人で訪れた時だった。
東駅に着いてフランに両替した後、ベルヴィルにあるそのアパートにたどり着くまでが苦労の連続であったが、今思えば甘酸っぱい記憶となって、心の奥に刻まれている。
その後、当時のボーイフレンドだった人の親友のガールフレンドがパリに住んでおり、幾度となくパリで落ち合ったものだった。
彼女のアパートは4区にあった。確かEtienne Marcelというメトロの駅の近くであった。当時随分年上であったが、まだ学生だった彼女のアパートは当然のごとく屋根裏部屋にあった。長くくねる階段を上りきった所に見える小さなドアを開けると、彼女の二部屋のせまっ苦しい部屋があったのだ。
どこにどう4人で寝泊りをしたのか覚えていないが、何度もそこを訪れては、話し合い、笑い合い、喧嘩も悲しい思いも互いに分け合ったことは覚えている。
彼女の部屋の窓を開けても、隣や裏の家の屋根が見えるばかりで、パリの全景を望むことができたわけでもない。
いつも、ものの20分もしないうちに近所の人に通報されて、大家から怒鳴り声の電話を受けて退散することになった。
そのパリを懐かしいと思う。
あんな体験は、若さゆえの馬鹿でなければなかなかできなかったろう。
そこで私はビールばかり飲むドイツ人学生とは違い、フランス人やイタリア人学生は、通常はワイン党なのだと知り、いろいろなワインを覚えるきっかけにもなった。
私の連れの親友だった彼は、トリノの銀行につとめる父を持つ中流家庭の出身であった。その彼女にいたっては、パドヴァの有名な心臓外科の娘で、様々な政治家も親戚に持つような、言わば上流階級の出身だった。
それでも、常に誰もお金は持っていなかったのを覚えている。
朝食は、決まって小麦粉と水でクレープを焼いて、Nutellaの大瓶から大量にクリームをかき出しては、べっとりと塗って食べた。
昼は、メトロ駅の目の前にあるCafe Etienneでバゲットのサンドイッチを調達してきた。
夜は、Sebastopolという大通りを渡ってユダヤ人街の方に歩き、安い料理を探して食べた。
しかし、彼らはその背景もあって、非常に文化的には洗練されていた。そのおかげで、私は欧州に渡って何年もしていなかったのに、彼らの生活ぶりや会話から、様々なことを早くに吸収して行くことができた。
彼らの飲んでいる本、彼らの両親の考え、彼らのもらっている送金額、彼らの将来像、彼らの食生活、彼らの消費態度、金銭感覚、そういったものを悉く身近に見ることができた。不思議なことに、ドイツの学生生活で知り合う友人知人達からよりも、もっとより深い次元で学ぶことができたのは、個人的な親密度によるものなのか、それともフランスやイタリアと言うドイツよりも階級の色濃く残る文化によるものなのか、はっきりとは判らない。
その後、彼らとはパリの学生パーティーにも出向いたし、ピエモンテの別荘で釣りなどを楽しみながら過ごしたこともあり、パルマの年上の友人夫婦宅で毎月のように集まり、買い物や料理をして夜通し語り合ったことも数限りなかった。
体外は、若者の根拠のない自信で世の中を嘆き馬鹿にし、哲学書や古い文学を紐解いて、物をわかったような顔をしていただけである。当然、そこに音楽という中心があったことは当然であるが、思い出に残るのは、むしろ彼らとのインテンシブな生活であった。
親友はその後、私達の間ではつまらないと言われる指揮者を抱えるオーケストラに仕事を見つけた。彼女とは、最初から問題だらけであったが、その優れた知性と教養、また8歳も年上だったことから、彼を精神的に支えてくれたことで、別れるまでには至らなかった。
が、その知性ゆえ、彼女は彼の関心をずっと得るために、心理作戦を使いすぎ、彼は疲労困憊して結局別れてしまった。
間もなく、年下の建築学科の学生と出会って新しい彼女だと紹介されたが、もうあの頃のような団結はどこにもなかったのである。
その彼女は、モデルを小型にしたような見かけで、いかにもつまらなそうに私達の狂乱の過去の話には加わらず、そのまま団体行動も消えてしまった。
彼は、間もなくその建築学科の女学生とも別れてしまった。
パリの学生パーティーに参加すると、またドイツとの差にも驚いた。
どこを見ても、視線と視線の間にはゲームがあり、どこの隅っこにまで行っても、男は男で、女は女であった。
ドイツのパーティーなどでもそういうことは起こり得たのだが、視線と視線が合えば、そこには一種のあの雰囲気が直ぐに介在したなどということはなかったのである。視線と視線には、単なる目の合う瞬間があったと言うのが殆どであった。
そういう意味で、パリの学生パーティーは、もっと自由奔放であったし、もっとエロティックであり、もっと面倒で、疲労するものでもあった。自分がその気がなくても、女として扱われてしまう女の殻を脱ぎ捨てることは難しい。美醜に関わらず、彼らは女性を女性として扱ったものだ。それは感心することであるが、ある友人など、フランス人は目から精子を飛ばしているなどと、酷い冗談も出たほどである。
そのパリを頻繁に訪れたのは、おそらく92年から95年ごろまでであった。その後10年以上してからパリを再び訪れた。子供達をおいて一人旅である。
懐かしい街角をいくつも見つけて過去を抱くように写真に収めた。
レ・アールで一人で買い物をしていたら、フランス語でチェックを書けと言われ、英語ではだめだと断固拒否されたところに助けの手を出してくれた、ベルナデットという女の子と、その後バゲットをほお張りながら散歩し、ベンチに腰を掛けた午後。夕方彼女の叔父さんの勤めるカフェに行ってご馳走になったこと。いつしか文通も途切れてしまった。
オルセーの帰り、対岸に行こうと渡った芸術橋で「愛らしいお姉さんただで描いてあげるよ」と声を掛けてきた、あのカーリーヘアのアーティスト。朝の散歩をしていれば、配達の自転車に乗って後ろから近距離で追い越す際に「サリュ、ボンジュルネー」と爽やかに振り返って走り去っていったあの若者の笑顔。
自分の外見の如何に関わらず、パリでは常にと言ってよいほど、挨拶をされ声を掛けられた。旅人には嬉しい思い出である。
当然、しつこく言い寄ってくる危ない人もいるのだが、それは常識的な感覚を持っていれば、直ぐにわかるものである。断固とした態度でいれば、意外にしつこく追い詰めてくるものでもない。
そうしてあの角のカフェ、この橋の向こう、この公園のベンチ、あそこのスーパー、ここのパン屋と、色々な街角を訪ね歩いては、一人ため息をついていた。
すべては、私がまだ20代という非常に若い年齢であったから、集めることのできた思い出である。
セーヌは、生きている。
当時のメモに、そんなことを書いていた覚えがある。
セーヌは、どの橋から見ても、どの建物を向こう側に目にしても、常に違う顔を持っているのに、完璧なほど、その雑多な風景に溶け込んでいるのである。
セーヌは、ただの川ではなく、息づいていた。それはパリの人々の活気、決して親切で気持ちのよい人ばかりではないが、大都会だからと言って、東京のように表情のない顔をした人は少なかったのである。
厳しい表情も、生きることの只中にあるそのことを象徴しているようにさえ見えた。
その人々の生きるという息遣いは、川の中にも溶け込み、川自身がキャラクターをもった生きる存在のように、そこここで、その豊かな表情を見せていたともいえる。
パリには、独特の魅力がある。
それは揺るがぬ事実であった。
現に、私は今でも遠いあの頃を思い出しては、あの街に深い憧憬を持っている。
冒頭に書いたように、留学直後初めて訪れたパリでは、フランス人女学生シルヴィーの知り合いの男性宅に間借りした。その思考自体が、日本から来た私には驚いたが、コンセルバトワールを卒業したばかりだった、ジャン・フランソワというその知人と彼の友人達の私に対する扱いにも、日本から来たばかりの私には、驚くべきものがあった。
その話は、またいつかどこかで書きたいと思う。
ちょうどあの頃リリースされ、毎日のように聞いていたアンテナ。
2011年1月7日金曜日
駈落 ― リルケ
「…僕だってもう子供ではありません。けふでもあしたでも、少し収入があるやうになりさへすれば、あなたと一緒にどこか遠いところへ行きませうね。意地ですから。」
中略
「あなたは本当に私を愛していらっしゃって。」
中略
「なんともかとも、言ひやうのない程愛しています。」かう云って少年は、何か言ひさうにしている娘の唇にキスをした。
中略
「そのあなたがわたくしを連れて逃げてくださると仰るのは、いつ頃でせうか。」
少年は黙っている。
中略
娘は少年の肩に身を寄せ掛けて、あっさりとした調子で云った。「あなたそう心配なさらなくても好くってよ。」
こんな風にもたれ合って、ふたりは暫くぢっとしていた。
突然少年が頭を挙げて云った。「僕と一緒に逃げてください。」
娘は涙のいっぱい溜まっている、美しい目で、無理に笑はうとした。そして頭を振ったが、その様子が奈何にも心細げに見えた。
中略
机の上のラテン筆記帳の上には手紙が一本ある。
中略
「…あなたの仰った通りだと思ひます。御一しょに逃げませうね。アメリカでも好いし、そのほかどこでも、あなたのお好きな所へ参りますわ。…わたくしきっと待っていてよ。六時ですよ。どうしてもあなたとは死ぬまで別れません。アンナより。」
中略
少 年は手紙を読んでしまってから大股に室内を歩き出した。なんだか今までの苦痛がなくなったやうな心持がする。動悸が激しい。兎に角一人前の男になったとい ふ感じがある。アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する立場に立つのだ。保護して遣れば、あの女は己のものになるのだと思ふと、ひどく嬉しい。血が 頭に昇ってくる。
中略
机の上にあった筆記帳は部屋の隅へ投げた。
「己はもう出て行くからこんな所に用はない」と、壁に向って威張っていると云う風である。
中略
横になってから、又どこへ行かうかと考へた。そして声を出して云った。
「なに。真の恋愛をしている以上はどうにでもなる。」
中略
時計がこちこちと鳴っている。窓の下の往来を馬車が通って、窓硝子に響く。時計は十二時まで打って草臥れていると見えて、不性らしく一時を打った。それ以上は打つことができないのである。
少年は、その音を遠くに聞くような心持で、またさっきの「真の恋愛をしている以上は」と云う詞うを口の内で繰り返した。
その内、夜が明け掛かった。
中略
フ リッツは床の上で寒気がして、「己はもうアンナは厭になった」と思っている。なんだか頭がひどく重い。「兎に角アンナは厭だ。あれが真面目だらうか。二つ 三つ背中を打たれたからと云って、逃げ出すなんて。それにどこへ行くといふのだらう。」中略「どうもわからない。それに己はどうだ。何もかも棄ててしまは なくてはならなくなる。両親も棄てる。何もかも棄てる。そして未来はどうなるのだ。馬鹿げ切っている。アンナ奴。ひどい女だ。そんな事を言ふなら、打って 遣っても好い。本当にそんな事を言ふなら。」
中略
やはり停留所に行った方が好いやうに思はれる。行ってあいつの来ないのを見てやらうと思ふのである。時間が来ても娘が来なかったらどんなに嬉からうと思って見てやるのである。
中略
茶色のジャケツはどこにも見当たらない。
フリッツはほっと息をした。
中略
「来ないには極まっている。己には前から分かっていた。」
中略
フリッツがふいとその方向を見ると、茶色のジャケツを着た、小さい姿が、プラットフォオムの戸の向うへ隠れるのが見えた。帽子の上に揺らめいている薔薇の花も見えたのである。
フ リッツはぢっとそれを見送っていた。その時少年の心に、この人生をおもちゃにしようとしている、色の蒼い弱弱しい小娘に対する恐怖が、圧迫するやうに生じ てきた。そして娘が跡へ引き返してきて、自分を見附けて、知らぬ世界へ引き摩って行くのだらうとでも思ったらしく、フリッツは慌てて停車場を駆け出して、 跡も見ずに町の方へ帰っていった。
_______________
女は子供でもすぐに決心できる。決心したら無茶でも盲目にやり通す。
男は、合理的疑問が心をよぎり、決心が揺らぐ。
ラテン語に精を出し、プラトンのシンポジウムを読んでいる彼は、自分の未来を不安に陥れ、邪魔するものは、やはり一夜で厭になるようだとも言えるし、合理の世界に浸りきって、そこに信頼の基盤をおいているからこそ、恋愛に陥ってしまったとも言える。
少年のロマンチックな恋心の告白に対して、娘はすでに具体的な答えを要求し、「あっさりと」心配しなくて好いのよと、肝を据えて少年を勇気付けている。
女は目に涙をためて、物語のクライマックスとなるのだが、この涙は正直でもあり、無意識にとまどいもあるのではないか。
あっ さりと心配するなと言えるまで、娘は変わらぬ愛の気持ちに従って、①愛を告白させ、②一緒に逃げようと願わせることを達成するために、本能的に相手を導い てきたのに違いない。しかし、この二つが達成されてしまったその時、物語のクライマックスと同時に、娘の中に本当にそれが欲していることなのかどうかとい う不安が無意識下にもたげてくるのではないか。
それでも、物語を実行に移す力を支えているのは、女の陶酔力であろう。
陶酔こそ、現実を作っていくもので、リアルな合理的世界は、偽りの世界にしか見えないのではないだろうか。
そして決心した女を前に、男は恐れをなすのである。
少年にこそ、逃げる意地があったのに、それを信頼し切って洒落をきどった女の帽子の上に揺らめく薔薇が、一層哀れを物語っている。
やはり健康な男性なら、老若に関係なく、捧げきる捨て身のような献身の愛の形は受け止めれないのではないか。
更に、少年は恋愛云々より、男を実感すること、自分を男たる存在にしてくれる娘に恋をしていたのであり、逃げることで男の意地を見せ、格好をつけて筆記帳を投げつけてみたものの、真の愛などやはり信じきれないのである。
私自身、本気の気持ちをぶつけることで、拓けていくものがあると信じていた時期が長かった。
献身は報われると信じて疑わなかった。
あまりにも過ちに気づくのが遅かった。
この物語は、娘が一人で汽車に乗ったまま裏切られる形で終わるのだが、成熟した大人が読めば、この少年の決心は卑怯であるが、十分に正しく、これで互いの人生を見失うことを避けたのではないかと思うのではないだろうか。
ところで、この作品の原題は「Die Flucht(逃走または逃亡)」と言うが、駆落以外の比喩的な意味も含まれているように思う。
厳しい父親の下に育っている娘の企画化された生活の退屈さと父親への恐怖からの逃走とも言えるし、少年が現実での成長過程を飛躍して、大人の男として新たに出発したいという逃走であるとも考えられる。
愛という基盤は、実は偽装でもあり、それぞれに逃亡願望・理由とも十分に備わっていたのではないかとも取れる。
もっと良い表題があったかと考えても分からない。駆落ちという題名からでも、十分に「逃げ」の要素を読み取れる。
午後のひと時、休憩時間に小品を読んで感じたことの備忘録。
中略
「あなたは本当に私を愛していらっしゃって。」
中略
「なんともかとも、言ひやうのない程愛しています。」かう云って少年は、何か言ひさうにしている娘の唇にキスをした。
中略
「そのあなたがわたくしを連れて逃げてくださると仰るのは、いつ頃でせうか。」
少年は黙っている。
中略
娘は少年の肩に身を寄せ掛けて、あっさりとした調子で云った。「あなたそう心配なさらなくても好くってよ。」
こんな風にもたれ合って、ふたりは暫くぢっとしていた。
突然少年が頭を挙げて云った。「僕と一緒に逃げてください。」
娘は涙のいっぱい溜まっている、美しい目で、無理に笑はうとした。そして頭を振ったが、その様子が奈何にも心細げに見えた。
中略
机の上のラテン筆記帳の上には手紙が一本ある。
中略
「…あなたの仰った通りだと思ひます。御一しょに逃げませうね。アメリカでも好いし、そのほかどこでも、あなたのお好きな所へ参りますわ。…わたくしきっと待っていてよ。六時ですよ。どうしてもあなたとは死ぬまで別れません。アンナより。」
中略
少 年は手紙を読んでしまってから大股に室内を歩き出した。なんだか今までの苦痛がなくなったやうな心持がする。動悸が激しい。兎に角一人前の男になったとい ふ感じがある。アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する立場に立つのだ。保護して遣れば、あの女は己のものになるのだと思ふと、ひどく嬉しい。血が 頭に昇ってくる。
中略
机の上にあった筆記帳は部屋の隅へ投げた。
「己はもう出て行くからこんな所に用はない」と、壁に向って威張っていると云う風である。
中略
横になってから、又どこへ行かうかと考へた。そして声を出して云った。
「なに。真の恋愛をしている以上はどうにでもなる。」
中略
時計がこちこちと鳴っている。窓の下の往来を馬車が通って、窓硝子に響く。時計は十二時まで打って草臥れていると見えて、不性らしく一時を打った。それ以上は打つことができないのである。
少年は、その音を遠くに聞くような心持で、またさっきの「真の恋愛をしている以上は」と云う詞うを口の内で繰り返した。
その内、夜が明け掛かった。
中略
フ リッツは床の上で寒気がして、「己はもうアンナは厭になった」と思っている。なんだか頭がひどく重い。「兎に角アンナは厭だ。あれが真面目だらうか。二つ 三つ背中を打たれたからと云って、逃げ出すなんて。それにどこへ行くといふのだらう。」中略「どうもわからない。それに己はどうだ。何もかも棄ててしまは なくてはならなくなる。両親も棄てる。何もかも棄てる。そして未来はどうなるのだ。馬鹿げ切っている。アンナ奴。ひどい女だ。そんな事を言ふなら、打って 遣っても好い。本当にそんな事を言ふなら。」
中略
やはり停留所に行った方が好いやうに思はれる。行ってあいつの来ないのを見てやらうと思ふのである。時間が来ても娘が来なかったらどんなに嬉からうと思って見てやるのである。
中略
茶色のジャケツはどこにも見当たらない。
フリッツはほっと息をした。
中略
「来ないには極まっている。己には前から分かっていた。」
中略
フリッツがふいとその方向を見ると、茶色のジャケツを着た、小さい姿が、プラットフォオムの戸の向うへ隠れるのが見えた。帽子の上に揺らめいている薔薇の花も見えたのである。
フ リッツはぢっとそれを見送っていた。その時少年の心に、この人生をおもちゃにしようとしている、色の蒼い弱弱しい小娘に対する恐怖が、圧迫するやうに生じ てきた。そして娘が跡へ引き返してきて、自分を見附けて、知らぬ世界へ引き摩って行くのだらうとでも思ったらしく、フリッツは慌てて停車場を駆け出して、 跡も見ずに町の方へ帰っていった。
_______________
女は子供でもすぐに決心できる。決心したら無茶でも盲目にやり通す。
男は、合理的疑問が心をよぎり、決心が揺らぐ。
ラテン語に精を出し、プラトンのシンポジウムを読んでいる彼は、自分の未来を不安に陥れ、邪魔するものは、やはり一夜で厭になるようだとも言えるし、合理の世界に浸りきって、そこに信頼の基盤をおいているからこそ、恋愛に陥ってしまったとも言える。
少年のロマンチックな恋心の告白に対して、娘はすでに具体的な答えを要求し、「あっさりと」心配しなくて好いのよと、肝を据えて少年を勇気付けている。
女は目に涙をためて、物語のクライマックスとなるのだが、この涙は正直でもあり、無意識にとまどいもあるのではないか。
あっ さりと心配するなと言えるまで、娘は変わらぬ愛の気持ちに従って、①愛を告白させ、②一緒に逃げようと願わせることを達成するために、本能的に相手を導い てきたのに違いない。しかし、この二つが達成されてしまったその時、物語のクライマックスと同時に、娘の中に本当にそれが欲していることなのかどうかとい う不安が無意識下にもたげてくるのではないか。
それでも、物語を実行に移す力を支えているのは、女の陶酔力であろう。
陶酔こそ、現実を作っていくもので、リアルな合理的世界は、偽りの世界にしか見えないのではないだろうか。
そして決心した女を前に、男は恐れをなすのである。
少年にこそ、逃げる意地があったのに、それを信頼し切って洒落をきどった女の帽子の上に揺らめく薔薇が、一層哀れを物語っている。
やはり健康な男性なら、老若に関係なく、捧げきる捨て身のような献身の愛の形は受け止めれないのではないか。
更に、少年は恋愛云々より、男を実感すること、自分を男たる存在にしてくれる娘に恋をしていたのであり、逃げることで男の意地を見せ、格好をつけて筆記帳を投げつけてみたものの、真の愛などやはり信じきれないのである。
私自身、本気の気持ちをぶつけることで、拓けていくものがあると信じていた時期が長かった。
献身は報われると信じて疑わなかった。
あまりにも過ちに気づくのが遅かった。
この物語は、娘が一人で汽車に乗ったまま裏切られる形で終わるのだが、成熟した大人が読めば、この少年の決心は卑怯であるが、十分に正しく、これで互いの人生を見失うことを避けたのではないかと思うのではないだろうか。
ところで、この作品の原題は「Die Flucht(逃走または逃亡)」と言うが、駆落以外の比喩的な意味も含まれているように思う。
厳しい父親の下に育っている娘の企画化された生活の退屈さと父親への恐怖からの逃走とも言えるし、少年が現実での成長過程を飛躍して、大人の男として新たに出発したいという逃走であるとも考えられる。
愛という基盤は、実は偽装でもあり、それぞれに逃亡願望・理由とも十分に備わっていたのではないかとも取れる。
もっと良い表題があったかと考えても分からない。駆落ちという題名からでも、十分に「逃げ」の要素を読み取れる。
午後のひと時、休憩時間に小品を読んで感じたことの備忘録。
2010年11月8日月曜日
不潔よ
最近、左の肩に霊魂が宿ってしまったように痛みが激しい。激痛と言える瞬間もあり、内臓かとも思うのだが、明らかに筋肉痛である。
左の肩が象徴するものは何であろうか、などとユング風に考えてみつつ、左は無意識だなんて、昔覚えた馬鹿なことを言ってみる。しかし、身体はあらゆることの象徴であることは真実だ。
精神的に何かを吐き出す必要があるとき、人は原因不明のむかつきや嘔吐を患ったりする。
また、精神的にもうこれ以上、その事実を消化できない飲み込めない、と言ったときにも、首の息苦しさや、食事がのどを通らないという症状が出てくることもある。
それを考えると、左側のこの痛みはなんだろうか。背中が肩に移動し、それが今度は上腕にまで降りてきており、携帯を支えるのすら痛い。本を左手に持って右手でめくることさえ辛い。
まあ、そういうユング的アプローチは、あまりここでは意味を持たない。
大プロジェクトを終えた途端の清浄なので、体は正直だと思う。やはり無理があったのだ。
しかし、プロジェクトを終えたとき、過去清算のいよいよ最終段階に突入したことを象徴する請求書が弁護士から来た。ああ、この稼ぎは、全部泡のごとく消えていくんだと思い、一瞬不快になったが、無駄働きを一回せねばと言う覚悟はできていたので、もう仕方ない。クリックしてしまえば清算された事になるのだ。
夏前の日記を読むと、どうも過去を引きずっていた。過去が湯気を立てているなどと言う表現もあった。現在は、直近の過去は終了している。影響力も失い、過去としての位置も定着してしまった。
云わば、これからスタート地点という場所に立つ直前に私はいるらしいというのは分かる。
今後は、仕事上の更なる発展と見直しを予定しているので、その方向で前進して行ければと思っている。すっかりきれいごとの文章になってしまった。
___________
同僚が、小津安次郎の映画作品集を誕生日にくれた。20本弱を焼いてくれたのだ。そしてもう5本以上見た。そして毎回、静かに涙をこぼしている。小津が好きだと言ったら、彼が最近の特集を録画したものをどこかからダウンロードしてくれた。
小津に関してどうこう言うのは専門家に任せるが、本当にいつも思うのは、なんと美しい日本語であったかということ。当時の中流社会ではなされていた言葉、そして所作、そしてコミュニケーションの形式の美しさは、本当に背筋を伸ばしたくなるようなものがある。
古い道徳観念が、当時の女性を苦しめたことなど、今からは信じられないことであるが、私の母の男女関係における伝統的な道徳心、そして、まさにこの映画の中のような中流家庭に育った彼女の、あまりものを言わない辛抱強さと、凛としたその姿を今になって肯定的なものとして理解できる。
彼女は、本当にものを言わない。さすがに、今の時代「もう、いいんですの」などと言う上品な言葉遣いはしないが、彼女は取り乱すこともなく、嫌なことがあれば部屋に篭り、じきに出てきたときには、もう笑顔ですべてを忘れ去っているのだ。そんな母に、「何も考えなどないのか」という思いを抱いたこともあったが、それは大きな間違えであった。言わない辛抱は美徳であり、それ以前に礼節とたしなみであったらしい。
少女っぽい、世間知らずと母を優しい目で、しかし古いものとして見てきた私は、母の方に、よほど強い何かが宿っていたのだと改めて思った。
それにしても、言葉も劣化し、仕来りも所作も形式もすべて劣化したものだと思う。
小津の映画だからと言う理由を抜きにしても、当時は「美」というものが、文化の中に存在していたのかもしれないと思う。
そういえば、以前ドイツの新聞が、大市民層の崩壊を嘆く記事を書いていた。教養層の幅が、拡大し、中流層そのものの教養が高くなったが、それと同時に、当時絶対必須と考えられていた、神学、哲学、法学などのレベルが落ちたと言うのだ。大流行の経済学専攻の学生が最も多く、彼らはドイツでもディプロム証書なので、ちょっと前のマギスターの学生のように、三科目専攻する必要がない。今更哲学神学という地盤は、無用だと思う人間も少なくない。
話はそれたが、日本でも多かれ少なかれ、小市民層の豊かさが安定し、保証されたのと同時に、伝統的ななにか重厚な「美」に通じるような「形式」「精神」と言うものが失われたような気がする。
「おじさま、再婚なんて、なんだかきたならしいわ、不潔よ」
こんな台詞を今の時代口にする女性はいないだろう。
しかし、不潔を極めきっているような、云わば「あいつはあばずれさ」と言われて当然のこの私は、なぜかこの台詞に感銘を受けた。
生物的に考えれば、生き物は生殖活動を続けるために、常に番を捜し求めるのだが、人間はそれをモノガミーによって一人で落ち着けようと言う努力をする。最近は、その努力は無意味だとか、モノガミーは機能しないと言う意見もある。
キリスト教によって、男女関係が、不自由極まりなく縛られていただけでなく、ネガティブなものとして常に抑圧されてきた時代の不自然さは、異常なものがあるとしても、最近の、駄目なら、経済的に自立しているのなら、すぐに別れるという風潮も、やはり劣化と言ってもいい、何かネガティブな表れである気がしてならない。
社会に所属するためには、常にそれに対して犠牲を払わねばならないのは、どうやら事実である。
それが現代は仕事ということで、個としてのありかたを犠牲にして、経済的自立をするため、つまり金銭を稼ぐための会社に所属している。それは、就業している女性にも同じことが言える。つまり、家庭に入る、所属することによる犠牲は、女性からはすでに払われなくなっているということにもなる。
それは社会的には喜ばしいことであるが、では、どうやって二人三脚を組めばいいのだろうか。会社へ犠牲を払う男と家庭に犠牲を払う女が、性の営みで共同所属を象徴し合う形がないと、どうなるのであろうか。
女も男も犠牲は金銭を得るための活動に費やしているのである。家庭へは割り勘で犠牲を払う。精神が、経済的勘定をする機能になってしまい、まるで口座チェックをしあうような仲の男女関係ばかりのような気がする。
そこで、再婚は不潔、という一度きりの結婚への強い所属感情は、犠牲を払った本人の心の投入度を象徴しているように聞こえる。人生を文字通り、ささげ切った。個を捨てて、結婚に入った。その相手が死んでも私の場所は変わらない。
そんな覚悟が聞こえてくるのである。そして私は、それを美しいと感じる。
兼業主婦や社会で成功している女性の方が強く、実力があり、賢いというのは嘘だと思う。
母を見ていてもそうだが、人は社会的だからこそ、一人では生きていかれない。幸せとは、必ず一人ではなく、二人でつむぎ出してこそ、本当に深く根を張ってくるものなのだと思う。それには、自分を捨て嫁に行くというような時代の覚悟は、大いに結婚を助けたであろうし、二人の絆を強く結んだ例が多かったかもしれない。
駄目なら独り立ちできる、失敗したら経済的にも問題なくやり直せる、という状況が、結婚を危うくしているとは絶対に言わないが、そこに犠牲の精神は見えない。
やはり、熱愛ではなく、愛の基本は、犠牲に違いない。
失って、得るのが、愛なのだと思う。
そうして母を見ると、潔い。愚痴は短く、多くは言わない。
父も、家庭だけは懸命に守り、家族を深く愛してくれている。
私のように、論理立ててものを言う癖がつき、男女間の問題を徹底的に理性で解決し、「納得」した「妥協」を探す、などという現代的な人間は、なんだかむしろ劣化に思えて仕方ないのだが…。
左の肩が象徴するものは何であろうか、などとユング風に考えてみつつ、左は無意識だなんて、昔覚えた馬鹿なことを言ってみる。しかし、身体はあらゆることの象徴であることは真実だ。
精神的に何かを吐き出す必要があるとき、人は原因不明のむかつきや嘔吐を患ったりする。
また、精神的にもうこれ以上、その事実を消化できない飲み込めない、と言ったときにも、首の息苦しさや、食事がのどを通らないという症状が出てくることもある。
それを考えると、左側のこの痛みはなんだろうか。背中が肩に移動し、それが今度は上腕にまで降りてきており、携帯を支えるのすら痛い。本を左手に持って右手でめくることさえ辛い。
まあ、そういうユング的アプローチは、あまりここでは意味を持たない。
大プロジェクトを終えた途端の清浄なので、体は正直だと思う。やはり無理があったのだ。
しかし、プロジェクトを終えたとき、過去清算のいよいよ最終段階に突入したことを象徴する請求書が弁護士から来た。ああ、この稼ぎは、全部泡のごとく消えていくんだと思い、一瞬不快になったが、無駄働きを一回せねばと言う覚悟はできていたので、もう仕方ない。クリックしてしまえば清算された事になるのだ。
夏前の日記を読むと、どうも過去を引きずっていた。過去が湯気を立てているなどと言う表現もあった。現在は、直近の過去は終了している。影響力も失い、過去としての位置も定着してしまった。
云わば、これからスタート地点という場所に立つ直前に私はいるらしいというのは分かる。
今後は、仕事上の更なる発展と見直しを予定しているので、その方向で前進して行ければと思っている。すっかりきれいごとの文章になってしまった。
___________
同僚が、小津安次郎の映画作品集を誕生日にくれた。20本弱を焼いてくれたのだ。そしてもう5本以上見た。そして毎回、静かに涙をこぼしている。小津が好きだと言ったら、彼が最近の特集を録画したものをどこかからダウンロードしてくれた。
小津に関してどうこう言うのは専門家に任せるが、本当にいつも思うのは、なんと美しい日本語であったかということ。当時の中流社会ではなされていた言葉、そして所作、そしてコミュニケーションの形式の美しさは、本当に背筋を伸ばしたくなるようなものがある。
古い道徳観念が、当時の女性を苦しめたことなど、今からは信じられないことであるが、私の母の男女関係における伝統的な道徳心、そして、まさにこの映画の中のような中流家庭に育った彼女の、あまりものを言わない辛抱強さと、凛としたその姿を今になって肯定的なものとして理解できる。
彼女は、本当にものを言わない。さすがに、今の時代「もう、いいんですの」などと言う上品な言葉遣いはしないが、彼女は取り乱すこともなく、嫌なことがあれば部屋に篭り、じきに出てきたときには、もう笑顔ですべてを忘れ去っているのだ。そんな母に、「何も考えなどないのか」という思いを抱いたこともあったが、それは大きな間違えであった。言わない辛抱は美徳であり、それ以前に礼節とたしなみであったらしい。
少女っぽい、世間知らずと母を優しい目で、しかし古いものとして見てきた私は、母の方に、よほど強い何かが宿っていたのだと改めて思った。
それにしても、言葉も劣化し、仕来りも所作も形式もすべて劣化したものだと思う。
小津の映画だからと言う理由を抜きにしても、当時は「美」というものが、文化の中に存在していたのかもしれないと思う。
そういえば、以前ドイツの新聞が、大市民層の崩壊を嘆く記事を書いていた。教養層の幅が、拡大し、中流層そのものの教養が高くなったが、それと同時に、当時絶対必須と考えられていた、神学、哲学、法学などのレベルが落ちたと言うのだ。大流行の経済学専攻の学生が最も多く、彼らはドイツでもディプロム証書なので、ちょっと前のマギスターの学生のように、三科目専攻する必要がない。今更哲学神学という地盤は、無用だと思う人間も少なくない。
話はそれたが、日本でも多かれ少なかれ、小市民層の豊かさが安定し、保証されたのと同時に、伝統的ななにか重厚な「美」に通じるような「形式」「精神」と言うものが失われたような気がする。
「おじさま、再婚なんて、なんだかきたならしいわ、不潔よ」
こんな台詞を今の時代口にする女性はいないだろう。
しかし、不潔を極めきっているような、云わば「あいつはあばずれさ」と言われて当然のこの私は、なぜかこの台詞に感銘を受けた。
生物的に考えれば、生き物は生殖活動を続けるために、常に番を捜し求めるのだが、人間はそれをモノガミーによって一人で落ち着けようと言う努力をする。最近は、その努力は無意味だとか、モノガミーは機能しないと言う意見もある。
キリスト教によって、男女関係が、不自由極まりなく縛られていただけでなく、ネガティブなものとして常に抑圧されてきた時代の不自然さは、異常なものがあるとしても、最近の、駄目なら、経済的に自立しているのなら、すぐに別れるという風潮も、やはり劣化と言ってもいい、何かネガティブな表れである気がしてならない。
社会に所属するためには、常にそれに対して犠牲を払わねばならないのは、どうやら事実である。
それが現代は仕事ということで、個としてのありかたを犠牲にして、経済的自立をするため、つまり金銭を稼ぐための会社に所属している。それは、就業している女性にも同じことが言える。つまり、家庭に入る、所属することによる犠牲は、女性からはすでに払われなくなっているということにもなる。
それは社会的には喜ばしいことであるが、では、どうやって二人三脚を組めばいいのだろうか。会社へ犠牲を払う男と家庭に犠牲を払う女が、性の営みで共同所属を象徴し合う形がないと、どうなるのであろうか。
女も男も犠牲は金銭を得るための活動に費やしているのである。家庭へは割り勘で犠牲を払う。精神が、経済的勘定をする機能になってしまい、まるで口座チェックをしあうような仲の男女関係ばかりのような気がする。
そこで、再婚は不潔、という一度きりの結婚への強い所属感情は、犠牲を払った本人の心の投入度を象徴しているように聞こえる。人生を文字通り、ささげ切った。個を捨てて、結婚に入った。その相手が死んでも私の場所は変わらない。
そんな覚悟が聞こえてくるのである。そして私は、それを美しいと感じる。
兼業主婦や社会で成功している女性の方が強く、実力があり、賢いというのは嘘だと思う。
母を見ていてもそうだが、人は社会的だからこそ、一人では生きていかれない。幸せとは、必ず一人ではなく、二人でつむぎ出してこそ、本当に深く根を張ってくるものなのだと思う。それには、自分を捨て嫁に行くというような時代の覚悟は、大いに結婚を助けたであろうし、二人の絆を強く結んだ例が多かったかもしれない。
駄目なら独り立ちできる、失敗したら経済的にも問題なくやり直せる、という状況が、結婚を危うくしているとは絶対に言わないが、そこに犠牲の精神は見えない。
やはり、熱愛ではなく、愛の基本は、犠牲に違いない。
失って、得るのが、愛なのだと思う。
そうして母を見ると、潔い。愚痴は短く、多くは言わない。
父も、家庭だけは懸命に守り、家族を深く愛してくれている。
私のように、論理立ててものを言う癖がつき、男女間の問題を徹底的に理性で解決し、「納得」した「妥協」を探す、などという現代的な人間は、なんだかむしろ劣化に思えて仕方ないのだが…。
2010年10月31日日曜日
今年の誕生日
去年の誕生日は混沌としたものだった。
友人ともいえない知人とつるんで、夜遅くまで飲んだのではなかったか。
彼らは私が作った友人ではなかったのだ。
私が誰かの取り巻きでしかなかった時代の、不思議な誕生日だった。
自分ひとりで築いたのではない、誰かの世界に属している人々を知人としてあてがわれた形の人々との関係は、不安と義務に満ちており、無理強いしても好意を膨らませていかなくてはならないという強迫感。
リラックスもできず、いつかは切れてしまうのも当然の結果なのだ。
そんな檻から自分で再び這い出したのは、もう8ヶ月ぐらい前の話になる。
それ以来、私の周りには新しい何かが作用し始めて、多くの人と知り合うことができた。
友人とは、本当に知り合うべくして知り合うものだとつくづく思う。
知り合いが、私の人生に及ぼす影響は限りなく少ないとしても、友人の意味するところ本当に大きい。
外国生活が長くなっても、ドイツ人の性質というのもあってか、私のこの引きこもり的性格による原因の方が大きいとは思うのだが、あまり友人と呼べる人がいない。
引越しを重ねてきたのもひとつの理由だろう。
そして、私の変な人の良さが、友人関係に疲れを覚えてしまう要因であるのかもしれない。
ところが、ここ最近、檻から抜け出した途端に、さまざまなことが再び動き出したのだ。
家族に心配事が起きたり、仕事面で大きなターニングポイントが訪れたり。
私自身の身の回りの扉が一斉に開きだしたように、問題は私と誰かとの関係ではなく、私の身の回りに絞られ、私に与えられた強制的友人は消え去り、替わりに思ってもいない偶然で知り合ったり再開したりする人間との発展があった。
そうして、これまで仕事を通して共同作業をしてきた人々とは、仕事以外の面でも大きな人間的意味を持ち始めて、私はすでに彼らにたいして、仕事上の乾燥した会話だけではない関係を感じ始めている。
その皆と、昨夜私の誕生日には、鍋を囲んで楽しく会話が弾んだ。
仲間が集まって、打ち解けて話し出すと、実は信じられないほど相手が遠い世界に存在していることを知ってしまい、どうしても噛み合わない歯車に孤独を覚えた、ということは数多くある。知っていたようで、知らなかった人々。それは友人ではなく、互いに友人を探している人々であったのかもしれない。
しかし、昨夜はそうでなかった。
仕事の仲間なので、悉くドライに振舞おうとしてきた仲間である。それが、どこからともなく集まろうという話になって、期待もせずに集まってみたけれど、それが思わず暖かい集まりとなって、話せば話すほど、お互いのシンパシーが高まっていくという、本当にまれにみる幸運だったのだ。
私が檻から出たことによって、いろいろなことが動き出し、私は無意識に選び、無意識に選ばれている。孤独を恐れずに、自分とあまり意味のない繋がっていただけの糸を切ってみると、私自身の糸は、孤独の中にも、自由に自分自身の物語をつむぐための前準備をしてきたのかもしれない。
その下地が、今ある仕事の発展であり、彼らと共に、それぞれがプライベートでも近づきになっていくこの過程なのかもしれない。
一番近しい彼の奥さんが、私を見て、会が終わった後に、すぐさま言ったらしい。
「彼女は、あなたと双子なのね」
彼女は、華奢でメイクもないもしないその素顔が、惚れ惚れするほど美しい。
パリで大学を出て、彼のいるベルリンに移り住んできたのだが、才女とは思えないほどのやわらかさ、しなやかさを持っている。私より10歳も若いと思われるが、少女の面影はなく、彼女は立派な魅力的な女性である。
彼女が、何を持って彼女の夫である彼が私と双子だと称したのか謎なのだが、私はそれを美しい女性からの好意だと受け取った。
彼と私は、会った瞬間から意気投合したし、何より仕事の段取りでのテンポや優先順位のつけ方、または効率に対する考え方がぴったりと一致している。二人三脚のように二人で組むと仕事が上手くいくのである。
そういう彼に、私は大きく一目を置いている。そして、おそらく彼自身も、私と仕事をすることを「楽しい」と表現する気持ちに嘘はないのだと思う。
常に家にいて、まだ小さな子供の面倒を見ている彼女は、私のことを聞き伝にしか知らない。けれど、私たちの仕事の楽しさは、彼女に伝わっていたのだろうし、その相棒を現実に見たら、なんと似たもの同士じゃないの、といった彼女に、私はどんな理由なのかさっぱり分からないが、底なしの信頼と好感を持っている。
おそらくそれは、男女の仲にも、本当に信頼できる友情というものが、あってもおかしくないのだという、そういう友情の始まりに対するひとつの肯定的な証明に感じたからなのかもしれない。
結婚している男性と近しくなると、必ず私はある種の不安感と罪悪感を抱く。
それは、私自身が結婚していた当時に、そういった夫の同僚女性のせいで言い尽くせぬほどの孤独を味わったからであり、そういった女性達がやはり女である立場を決して忘れているわけではないという場面を、嫌というほど見せ付けられてきたからに違いない。
私は、偽善ぶる気持ちなどまったく抜きに、彼女にそういう不安感を抱かせることになったとしたらは本当に心苦しい。
それと同時に、男性と友人関係であるという状況に陥らないように距離を保つべきであるという、多くの場合正しい選択を時に非常に残念だと感じていたのかもしれない。
そこで出会ったこの彼とも、まったく友情という言葉も、プライベートという言葉も抜きに接してきたが、仕事上の意気投合はすべてにおいて肯定的で、隠し立てするような問題ではないのだが、わけの分かららぬ不安が沸き始めていたのかもしれない。
彼女が、私をすんなりその輪に受け入れてくれたことは、私の誕生プレゼントのひとつであり、私は大きく安堵して、仕事上でもプライベートでも、この心からシンパシーを感じている彼と、そして彼のすばらしい家族とを友人だと思って良いのだというお墨付きをもらった気分なのだ。
欧州では、男女というものがやはり表面に常に浮き彫りにされており、それを超えて勝手に友情だと思い込んで、好き勝手に仲良くし、関係を築こうとするのは、無礼にあたるし、あまりにも世間知らずで無知である。
そしてたいていの場合、そんな友情は存在しないのである。
けれど、だからといって、あきらめてしまうには、あまりにももったいない「興味」というのがある。それをなんとか形にしてゆくには、自分で私は女ではない、といっているだけではまったく十分でなく、自分のセクシュアリティをニュートラルにする要因が必要となる。それは、互いの結婚だけでも十分ではなく、友人関係となる相手のパートナーにも、同じように深い愛情を抱くことである。その人を何があっても傷つけないという、二人一組と友情を築いていく、そういう思いやりがないと上手くいかない。そんな風にしか、私は男女の友情には可能性がないのじゃないかと思っている。
今後、この仲間たちとどうなってゆくのか分からないけれど、彼らは私にあてがわれた人間ではなく、私が一人きりで生きていく中で、必然的に私の人生を通り過ぎてゆく人々で、そしてすでにこの短い期間で、幾ばくかの影響を与えてくれている。
このめぐり合い、そしてこの作用のダイナミクスからも、私の人生が再び過渡期に差し掛かり、今もまだ浮遊を続けているのだと実感する。
そして彼らも、おそらく新しいなにか見つけるべく、彼らなりの流れに乗っていることだろう。私が彼らのつむぐ物語の中で、ただの動く知り合いでしかないのか、なんらかの痕跡を残すことになる友人となりうるのか、私には知る由もないが、願わくば、友人となって行きたいと、ひそかに願っている。そして、彼らにはそのために必要な、小さな愛情の積み重ねを、本当に厭わずに注ぎ込んで生きたいという気持ちがあることを、私は昨夜実感した。
本当に素敵な誕生日だった。
2010年10月24日日曜日
雨の日曜日
朝起きると、窓から灰色の空に黄金色をした銀杏木がそびえて見えた。時折木々の枝が揺れては、たくさんの葉が舞うようにして落ちてゆく。
土曜日に買い物へ行きそびれたので、徒歩2分のスタンドまで歩いた。
雨が横から降ってきて、風が強い。
歩きながら小さな静寂を感じた。これから厳しい冬が来るが、むしろ楽しみでもある。外へ繰り出さねばと言う恐怖感もないし、凍えそうになりながら、暖かい家の中へ駆け込んだときのなんともいえない幸福。
知人が日本のお祭りの写真を送ってくれた。美味しそうな匂いが漂ってきそうな縁日の食べ物が湯気をたてている。
何気ない文章の最後に、添付されたその写真を見て、私は涙ぐむほど心が温まった。日本のお祭りと言う、またしても私の五感を刺激する写真であったからというだけではない。その人が、写真を添付してくれた、その取るに足らないような親切心が、思いやりのように感じられ、心が温まったのだと思う。
その人は、メールの中で「だんだん一人でいるのがきつくなってきました」と漏らしていた。
私自身は、一人になって長いわけではないので今のところ解放こそされても苦になったことはない。きついなと思ったこともない。ひとりになる前から、二人でもずっと一人でやってきたからかもしれない。
実は、本当に二人と言うのを知らないのだ。
誰かの人生を追いかけてきたことや、誰かに追いかけられたことはあっても、二人で共に歩んだと実感できる時間はわずかかもしれない。
同じ線路を歩みながら、同じ駅に止まるのだが、乗車しながら二人は常に別々のことをし、別々の方向を見て、好きなものを探し、捉え、また違う方向を向く。けれど、喜びや悲しみを感じたときには、必ず隣の相手を振り返り、話かけ、喜びを分かち合い、悲しみを隠さずに露にする。そんな歩み方なら素敵だと思ってみたりする。
同じ事を行い、同じ関心を持って、友人を共有し、日常を共有しながら、でも二人三脚でどんどん線路を変えていくのは、サーカスの曲芸に近い。線路を変えるときに、必ず揉め事や意見の違いが起こる。線路を変えることは、時に生活を覆すような恐怖に満ちることもある。
私なら、私鉄の静かな沿線を選んで、その私鉄の線路自体に、ある程度の生き方の好みが表れているため、その沿線を愛する人と共に、退屈な景色を何往復でもしながら、同じ線路を歩み続けたい。けれど、なんでも共有するのは絶対に不可能だと思うので、いつもとなりにいるのに、いつも違う方向を見ているぐらいが良いのではないか。
そうでないと、誰の線路に乗るのか、という問題まで出てきてしまう。
誰の線路に乗るか、私の線路、あなたの線路、そういう意識は刺激的だが、もういくらなんでも私はそこまでのエネルギーも自分に対する信頼も残っていない。
だから、偶然行きあたりばったり、魚を買いに行ったら知り合って、一緒にそばを食べたら、リラックスできて、すきなのか、嫌いなのか全然分からないのだが、このひとは確実に同じ線路に乗っているだろうと言う、気づかぬほど小さな信頼さえあれば、今度は一度そういう人と歩みだしてみても良いかなと思っている。
熱いもの、というのは過去としての観念になった時、意義を与えられて心にずっと残ることがある。
さめてしまうものも多い中で、私自身は、人生で一度だけ、岸壁に立って、私の核心に大きく形跡を残すことになった危険だが深く美しいものを見たような気がする。
私は、どんなに年取っても、心の中のこの部分だけは手放さない、絶対にこれは死後も、私と共にもって行くのだと思えるものを蚕の中に包んで持っている。
これは、ある意味、本当に幸せなことだと思っている。だから、私はそれ以来人生を捨てたようなところもあり、行き当たりばったりに任せていたところもあり、魂自体を眠ったまま、凍結させてしまったというところもあったのだが、今は、熱いものにあこがれることも、それにめぐり合ってしまうことへの恐怖もない。
蚕があるからこそ、私はいつでも慰めを知っている。そして、相手にもそのような蚕があればよいと思う。過去を知る気もないし、その人の恋愛感をどこまでも追求するつもりもさらさらない。
ただ、その人も自分を形成してくれたなにか脅威にも近く美しいものを仕事や人生の中で体験していてくれたら、その思いだけを心の中に大切に秘めていてくれたら良いと思う。そして、まるでもう探すことも追求することも止めて、古くから自分の近くに常に存在していた線路に戻り、静かに余生を過ごすような形で歩んでいる人ならば良いと思う。
それは、決して年齢の問題ではない。
そういう体験をすると、その後がまるで抜け殻のような人生になることがある。その孤独は深く、どんな人間もどんな出来事も、なかなかその喪失感を埋めることは出来ない。
そういう孤独を抱えつつ、蚕と共にひたすら前進する姿。
何が言いたいのか…。
そういう人に見えたその知人が、急に一人がきついと言い出したことに驚いたのだ。蚕を持っていないのかもしれない。だとしたら、寂しいだろう。何か出来ないかと思って考えている。その人が私の中に呼び起こしてくれた温かい気持ちをどうしたら、私がその人の中にも呼び起こせるか。人に何かを与えるとは、本当に難しい。それはいつも間接的に作用するからなのかもしれない。
土曜日に買い物へ行きそびれたので、徒歩2分のスタンドまで歩いた。
雨が横から降ってきて、風が強い。
歩きながら小さな静寂を感じた。これから厳しい冬が来るが、むしろ楽しみでもある。外へ繰り出さねばと言う恐怖感もないし、凍えそうになりながら、暖かい家の中へ駆け込んだときのなんともいえない幸福。
知人が日本のお祭りの写真を送ってくれた。美味しそうな匂いが漂ってきそうな縁日の食べ物が湯気をたてている。
何気ない文章の最後に、添付されたその写真を見て、私は涙ぐむほど心が温まった。日本のお祭りと言う、またしても私の五感を刺激する写真であったからというだけではない。その人が、写真を添付してくれた、その取るに足らないような親切心が、思いやりのように感じられ、心が温まったのだと思う。
その人は、メールの中で「だんだん一人でいるのがきつくなってきました」と漏らしていた。
私自身は、一人になって長いわけではないので今のところ解放こそされても苦になったことはない。きついなと思ったこともない。ひとりになる前から、二人でもずっと一人でやってきたからかもしれない。
実は、本当に二人と言うのを知らないのだ。
誰かの人生を追いかけてきたことや、誰かに追いかけられたことはあっても、二人で共に歩んだと実感できる時間はわずかかもしれない。
同じ線路を歩みながら、同じ駅に止まるのだが、乗車しながら二人は常に別々のことをし、別々の方向を見て、好きなものを探し、捉え、また違う方向を向く。けれど、喜びや悲しみを感じたときには、必ず隣の相手を振り返り、話かけ、喜びを分かち合い、悲しみを隠さずに露にする。そんな歩み方なら素敵だと思ってみたりする。
同じ事を行い、同じ関心を持って、友人を共有し、日常を共有しながら、でも二人三脚でどんどん線路を変えていくのは、サーカスの曲芸に近い。線路を変えるときに、必ず揉め事や意見の違いが起こる。線路を変えることは、時に生活を覆すような恐怖に満ちることもある。
私なら、私鉄の静かな沿線を選んで、その私鉄の線路自体に、ある程度の生き方の好みが表れているため、その沿線を愛する人と共に、退屈な景色を何往復でもしながら、同じ線路を歩み続けたい。けれど、なんでも共有するのは絶対に不可能だと思うので、いつもとなりにいるのに、いつも違う方向を見ているぐらいが良いのではないか。
そうでないと、誰の線路に乗るのか、という問題まで出てきてしまう。
誰の線路に乗るか、私の線路、あなたの線路、そういう意識は刺激的だが、もういくらなんでも私はそこまでのエネルギーも自分に対する信頼も残っていない。
だから、偶然行きあたりばったり、魚を買いに行ったら知り合って、一緒にそばを食べたら、リラックスできて、すきなのか、嫌いなのか全然分からないのだが、このひとは確実に同じ線路に乗っているだろうと言う、気づかぬほど小さな信頼さえあれば、今度は一度そういう人と歩みだしてみても良いかなと思っている。
熱いもの、というのは過去としての観念になった時、意義を与えられて心にずっと残ることがある。
さめてしまうものも多い中で、私自身は、人生で一度だけ、岸壁に立って、私の核心に大きく形跡を残すことになった危険だが深く美しいものを見たような気がする。
私は、どんなに年取っても、心の中のこの部分だけは手放さない、絶対にこれは死後も、私と共にもって行くのだと思えるものを蚕の中に包んで持っている。
これは、ある意味、本当に幸せなことだと思っている。だから、私はそれ以来人生を捨てたようなところもあり、行き当たりばったりに任せていたところもあり、魂自体を眠ったまま、凍結させてしまったというところもあったのだが、今は、熱いものにあこがれることも、それにめぐり合ってしまうことへの恐怖もない。
蚕があるからこそ、私はいつでも慰めを知っている。そして、相手にもそのような蚕があればよいと思う。過去を知る気もないし、その人の恋愛感をどこまでも追求するつもりもさらさらない。
ただ、その人も自分を形成してくれたなにか脅威にも近く美しいものを仕事や人生の中で体験していてくれたら、その思いだけを心の中に大切に秘めていてくれたら良いと思う。そして、まるでもう探すことも追求することも止めて、古くから自分の近くに常に存在していた線路に戻り、静かに余生を過ごすような形で歩んでいる人ならば良いと思う。
それは、決して年齢の問題ではない。
そういう体験をすると、その後がまるで抜け殻のような人生になることがある。その孤独は深く、どんな人間もどんな出来事も、なかなかその喪失感を埋めることは出来ない。
そういう孤独を抱えつつ、蚕と共にひたすら前進する姿。
あなたは知っている、私も知っている
Lo sai, lo so.
You know, I know.
Du weißt, ich weiß.
何が言いたいのか…。
そういう人に見えたその知人が、急に一人がきついと言い出したことに驚いたのだ。蚕を持っていないのかもしれない。だとしたら、寂しいだろう。何か出来ないかと思って考えている。その人が私の中に呼び起こしてくれた温かい気持ちをどうしたら、私がその人の中にも呼び起こせるか。人に何かを与えるとは、本当に難しい。それはいつも間接的に作用するからなのかもしれない。
2010年6月16日水曜日
春の病気
五月中、天気が悪く、今頃やっと五月になったような気分である。
そよ風、春の匂い、まぶしい太陽の光、外に繰り出す人々。
すべてが、ほんの少しでも私の心を躍らせる。
詩人の恋 Op. 48
Part 1, Songs 1-6
Im wunderschönen Monat Mai,
いと麗しき五月に
Als alle Knospen sprangen,
全ての蕾が花開いた時
Da ist in meinem Herzen
僕の心の中で
Die Liebe aufgegangen.
愛が芽生えた
Im wunderschönen Monat Mai,
いと麗しき五月に
Als alle Vögel sangen,
全ての鳥たちが歌をさえずった時
Da hab ich ihr gestanden
僕は彼女に
Mein Sehnen und Verlangen.
憧れと想いを打ち明けた
Aus meinen Tränen sprieße
僕の涙から
Viel blühende Blumen hervor,
たくさんの花が咲き出して
Und meine Seufzer werden
そして僕のため息は
Ein Nachtigallenchor.
小夜鳴鳥たちの合唱となる
Und wenn du mich lieb hast, Kindchen,
君が僕のことを好きならば、愛しい子よ
Schenk ich dir die Blumen all,
僕は君にこの花全て贈ろう
Und vor deinem Fenster soll klingen
そして君の窓辺には
Das Lied der Nachtigall.
小夜鳴鳥たちの歌声が響く
Die Rose, die Lilje, die Taube, die Sonne,
バラ、ユリ、鳩、太陽
Die liebt ich einst alle in Liebeswonne.
かつて僕は愛の喜びの中でこれらを愛した
Ich lieb sie nicht mehr, ich liebe alleine
今はもう愛してはいない、僕は
Die Kleine, die Feine, die Reine, die Eine;
小さく、繊細で、純粋な、一人だけを愛している
Sie selber, aller Liebe Bronne,
全ての愛の泉である彼女自身は、
Ist Rose und Lilje und Taube und Sonne.
バラであり、ユリであり、鳩であり、そして太陽なのだ
Wenn ich in deine Augen seh',
僕が君の目の中を覗くとだけで
So schwindet all' mein Leid und Weh;
すべての苦悩と痛みが消えてゆく
Doch wenn ich küße deinen Mund,
僕が君の口にキスをすれば
So werd' ich ganz und gar gesund.
僕の身体中が健康になる
Wenn ich mich lehn' an deine Brust,
僕が君の胸にもたれかかると
Kommt's über mich wie Himmelslust;
無上の幸福が湧き上がってくる
Doch wenn du sprichst: ich liebe dich!
そして君が「あなたを愛しているわ!」と言うならば
So muß ich weinen bitterlich.
僕はさめざめと泣くしかない
Ich will meine Seele tauchen
僕は僕の魂の中に沈み込みたい
In den Kelch der Lilie hinein;
ユリの花房の中に
Die Lilie soll klingend hauchen
そしてユリのため息が響くだろう
Ein Lied von der Liebsten mein.
それは僕の最も愛する人の歌
Das Lied soll schauern und beben
この歌は震えて慄くだろう
Wie der Kuß von ihrem Mund,
彼女の口によるキスのように
Den sie mir einst gegeben
かつて彼女が僕にくれたあの口
In wunderbar süßer Stund'.
素晴らしく甘い時間
Im Rhein, im heiligen Strome,
ライン河の聖なる流れの中に
Da spiegelt sich in den Well'n
波の合間に
Mit seinem großen Dome
あの大きなドームが反射している
Das große, heil'ge Köln.
大きく聖なるケルン
Im Dom da steht ein Bildnis,
ドームの中には肖像画がある
Auf goldenem Leder gemalt;
金色の革に描かれおり
In meines Lebens Wildnis
僕の人生の荒野の中に
Hat's freundlich hinein gestrahlt.
優しくそれは輝き込んできた
Es schweben Blumen und Eng'lein
花や天使が
Um unsre liebe Frau;
僕達の愛する女性の周りに浮遊している
Die Augen, die Lippen, die Wänglein,
目、唇、そして小さな頬は
Die gleichen der Liebsten genau.
最も愛する人のものと同じ
(拙訳)
Dietrich Fischer-Dieskau (baritone)
Gerald Moore (piano)
_____________
サッカー戦で興奮したのだろう。
そうしてワインをいつも少しより大目に呑んだのだ。
子供達とサッカーを観戦しながら食事をし、私の家に連れて帰ってきた。
玄関先で、酔ったために目を潤ませて、私をまじまじと見る。
そして、何かを言いかけた。
いつもの茶番と同じことを、何年も何年も言い続けているあのことが、また口をついて出た。
酔っていても、真面目であっても、悲しく苦しい時にも、彼の気持ちに嘘は見えない。
けれども、いつまで過去に支配されて生きれば良いのだろうか。
過去に終止符を打ちたい自分と同時に、過去をどこまでも引きずって、この悲しみや痛みと共に、
私にとてつもなく深い信頼を与えてくれる見えない糸を切りたくないとも思うのだ。
酔っていても、笑っていても、涙を流していても、辛苦を噛んでいても、私達の空間にあるZuneigungは、必ずいつも存在し、そして決して消えることがない。
茶番だと笑い飛ばして、彼に礼を言って送り出した。
そして、キッチンに行くとそこにはいつの間にか、彼の新しいCDが置いてあったのだ。
以前、これは君のために演奏し、君のために録音したというあのCDが。
次の日彼は突然尋ねてきた。
昨日は悪かった。ああいうことを言ったりして、謝りたかったから立ち寄ったんだ。
良いのよ。何にも気にしていない。もうあなたの発言に惑わされるようなことはなくなったのよ。
そりゃそうだね。
一杯飲まない?
行こうか。
そして二人で向かいのカフェで一杯だけビールを注文した。
まだ太陽が斜めに差しており、手でその光をかざしながら、並木通りの緑をボーっと眺める。
きらきらと光る深緑の葉は、若干オレンジがかって、儚いほど美しかった。
何も話さず、向かい合って座り、目が合えば微笑んだ。
そして、お互い同時に、この素晴らしい友情と関係は、神に感謝しなければならないほどの宝ものなのだと納得しあう。
しかも、一切の言葉を必要とせずに。
これほどの関係は、もう二度と得ることはないだろう。
男女の関係などといった枠組みなどをすっかり取り外してしまったこの関係は、
自由に開放されており、私達の魂は互いの中を行ったり来たりできるのだ。
時に共鳴し合い、融合し合い、そしてまた離れてそれぞれの胸中に帰ってくる。
これは、一切の言葉がないからこそ可能なのかもしれない。
そして、私たちが分離しているからこそ、可能なのかもしれない。
エロスは、どんな影響を与えることもなく、私達の間に扉として存在し、そして私達の信頼を固め、尊敬を保ちつつ、私達の融合を可能にしてくれる。
春には、ある種の魔術が働いているのではないかと、自然の中にふっと小さな命の息吹を見出すたびに、感じてしまうのである。
そよ風、春の匂い、まぶしい太陽の光、外に繰り出す人々。
すべてが、ほんの少しでも私の心を躍らせる。
詩人の恋 Op. 48
Part 1, Songs 1-6
Im wunderschönen Monat Mai,
いと麗しき五月に
Als alle Knospen sprangen,
全ての蕾が花開いた時
Da ist in meinem Herzen
僕の心の中で
Die Liebe aufgegangen.
愛が芽生えた
Im wunderschönen Monat Mai,
いと麗しき五月に
Als alle Vögel sangen,
全ての鳥たちが歌をさえずった時
Da hab ich ihr gestanden
僕は彼女に
Mein Sehnen und Verlangen.
憧れと想いを打ち明けた
Aus meinen Tränen sprieße
僕の涙から
Viel blühende Blumen hervor,
たくさんの花が咲き出して
Und meine Seufzer werden
そして僕のため息は
Ein Nachtigallenchor.
小夜鳴鳥たちの合唱となる
Und wenn du mich lieb hast, Kindchen,
君が僕のことを好きならば、愛しい子よ
Schenk ich dir die Blumen all,
僕は君にこの花全て贈ろう
Und vor deinem Fenster soll klingen
そして君の窓辺には
Das Lied der Nachtigall.
小夜鳴鳥たちの歌声が響く
Die Rose, die Lilje, die Taube, die Sonne,
バラ、ユリ、鳩、太陽
Die liebt ich einst alle in Liebeswonne.
かつて僕は愛の喜びの中でこれらを愛した
Ich lieb sie nicht mehr, ich liebe alleine
今はもう愛してはいない、僕は
Die Kleine, die Feine, die Reine, die Eine;
小さく、繊細で、純粋な、一人だけを愛している
Sie selber, aller Liebe Bronne,
全ての愛の泉である彼女自身は、
Ist Rose und Lilje und Taube und Sonne.
バラであり、ユリであり、鳩であり、そして太陽なのだ
Wenn ich in deine Augen seh',
僕が君の目の中を覗くとだけで
So schwindet all' mein Leid und Weh;
すべての苦悩と痛みが消えてゆく
Doch wenn ich küße deinen Mund,
僕が君の口にキスをすれば
So werd' ich ganz und gar gesund.
僕の身体中が健康になる
Wenn ich mich lehn' an deine Brust,
僕が君の胸にもたれかかると
Kommt's über mich wie Himmelslust;
無上の幸福が湧き上がってくる
Doch wenn du sprichst: ich liebe dich!
そして君が「あなたを愛しているわ!」と言うならば
So muß ich weinen bitterlich.
僕はさめざめと泣くしかない
Ich will meine Seele tauchen
僕は僕の魂の中に沈み込みたい
In den Kelch der Lilie hinein;
ユリの花房の中に
Die Lilie soll klingend hauchen
そしてユリのため息が響くだろう
Ein Lied von der Liebsten mein.
それは僕の最も愛する人の歌
Das Lied soll schauern und beben
この歌は震えて慄くだろう
Wie der Kuß von ihrem Mund,
彼女の口によるキスのように
Den sie mir einst gegeben
かつて彼女が僕にくれたあの口
In wunderbar süßer Stund'.
素晴らしく甘い時間
Im Rhein, im heiligen Strome,
ライン河の聖なる流れの中に
Da spiegelt sich in den Well'n
波の合間に
Mit seinem großen Dome
あの大きなドームが反射している
Das große, heil'ge Köln.
大きく聖なるケルン
Im Dom da steht ein Bildnis,
ドームの中には肖像画がある
Auf goldenem Leder gemalt;
金色の革に描かれおり
In meines Lebens Wildnis
僕の人生の荒野の中に
Hat's freundlich hinein gestrahlt.
優しくそれは輝き込んできた
Es schweben Blumen und Eng'lein
花や天使が
Um unsre liebe Frau;
僕達の愛する女性の周りに浮遊している
Die Augen, die Lippen, die Wänglein,
目、唇、そして小さな頬は
Die gleichen der Liebsten genau.
最も愛する人のものと同じ
(拙訳)
Dietrich Fischer-Dieskau (baritone)
Gerald Moore (piano)
_____________
サッカー戦で興奮したのだろう。
そうしてワインをいつも少しより大目に呑んだのだ。
子供達とサッカーを観戦しながら食事をし、私の家に連れて帰ってきた。
玄関先で、酔ったために目を潤ませて、私をまじまじと見る。
そして、何かを言いかけた。
いつもの茶番と同じことを、何年も何年も言い続けているあのことが、また口をついて出た。
酔っていても、真面目であっても、悲しく苦しい時にも、彼の気持ちに嘘は見えない。
けれども、いつまで過去に支配されて生きれば良いのだろうか。
過去に終止符を打ちたい自分と同時に、過去をどこまでも引きずって、この悲しみや痛みと共に、
私にとてつもなく深い信頼を与えてくれる見えない糸を切りたくないとも思うのだ。
酔っていても、笑っていても、涙を流していても、辛苦を噛んでいても、私達の空間にあるZuneigungは、必ずいつも存在し、そして決して消えることがない。
茶番だと笑い飛ばして、彼に礼を言って送り出した。
そして、キッチンに行くとそこにはいつの間にか、彼の新しいCDが置いてあったのだ。
以前、これは君のために演奏し、君のために録音したというあのCDが。
次の日彼は突然尋ねてきた。
昨日は悪かった。ああいうことを言ったりして、謝りたかったから立ち寄ったんだ。
良いのよ。何にも気にしていない。もうあなたの発言に惑わされるようなことはなくなったのよ。
そりゃそうだね。
一杯飲まない?
行こうか。
そして二人で向かいのカフェで一杯だけビールを注文した。
まだ太陽が斜めに差しており、手でその光をかざしながら、並木通りの緑をボーっと眺める。
きらきらと光る深緑の葉は、若干オレンジがかって、儚いほど美しかった。
何も話さず、向かい合って座り、目が合えば微笑んだ。
そして、お互い同時に、この素晴らしい友情と関係は、神に感謝しなければならないほどの宝ものなのだと納得しあう。
しかも、一切の言葉を必要とせずに。
これほどの関係は、もう二度と得ることはないだろう。
男女の関係などといった枠組みなどをすっかり取り外してしまったこの関係は、
自由に開放されており、私達の魂は互いの中を行ったり来たりできるのだ。
時に共鳴し合い、融合し合い、そしてまた離れてそれぞれの胸中に帰ってくる。
これは、一切の言葉がないからこそ可能なのかもしれない。
そして、私たちが分離しているからこそ、可能なのかもしれない。
エロスは、どんな影響を与えることもなく、私達の間に扉として存在し、そして私達の信頼を固め、尊敬を保ちつつ、私達の融合を可能にしてくれる。
春には、ある種の魔術が働いているのではないかと、自然の中にふっと小さな命の息吹を見出すたびに、感じてしまうのである。
2010年5月5日水曜日
Con chi condivido le proprie passioni?
今日は春らしかった。
最近は気温が上がらず、コート無しで素足で外に出るわけには行かないが、それでも太陽の光はまぶしいほどであった。
昼前、私はマッシモに会いに行った。
マッシモに知り合ったのは最近なのだ。とあるパーティーで顔を合わせた。
彼はイタリア語しかできない。英語もそこそこで、まともに自己表現できるのは母語であるイタリア語のみなのだ。東洋人の顔をした私が、突然それならばとイタリア語を話しだしたのが珍しかったのか、その後もコンサートなどに誘ってもらった。
彼はコンセルヴァトリオでチェロを学んだのだが、ディプロムを取ることなく、彼にはアカデミックに見えた高等教育を嫌悪してドロップアウトした。
その後、散髪屋の父親の下で、修業をし少し散髪などもできるらしい。
訪れたコンサートで、彼の自然な才能に驚いて、その後何回か呑みに行ったという仲でしかない。
彼の母親は半分ドイツ人で、20歳の時イタリアに移住したと言う。
自分のルーツを知るために、変化を保つために、自分の可能性を知るために、根なし草生活を続けているという。
彼は、週末Boxhagener通りの大きなフリーマーケットで店を出し、若干お金を稼いだり、知り合いのイタリア人の店を手伝うなどして食いつないでいる。
頭の切れる男性だが、アカデミックなものやインテレクチュアルなものに対するアレルギーが強いらしい。尤も、学校が大嫌いで、ドロップアウトした当時も何の職業も習得せずにいたというから、なかなか私などには理解できないライフスタイルだ。
家の要らなくなったもの、子供たちのおもちゃやそういった古いものを彼に処分、つまり彼のフリーマーケットで売りさばいてもらうために久しぶりに連絡を取ったというだけの話である。
地下の荷物を車に運び込んだだけで、階上のアパートに他の荷物を見に行ったまま、私達は4時間も話しこんでしまった。何を話したか。そんなことはあまり覚えていない。少なくとも、政治の話でも本の話でも、共通の知り合いが入るわけでもないので、誰かの話をしたわけでもない。互いの人生を延々と説明したわけでもない。
しかし、何か大切なことを話したような気がする。
ベルリンの生活がどうだとか、今現在、私が夫と別れたあとどんな気持ちなのかなど、そんなことを話したのだと思う。
友達というには、あまりにも知らない人なので、知人と言う感覚だ。私はそういう人は、殆どカードの内を見せない。極実用的に会話をしていただけである。
ところが、何気なく話していると、何度か涙が湧き出てきそうになった。
もちろん相手にはそんなことおくびにも出さなかったつもりだ。私は親しくない人には、弱みを見せない人間なのだ。
目頭が熱くなるたび、自分の中の感情は、まだ新鮮なのだと実感した。まだ湯気が出ているほど、「現在」に属する感情で、それに触れただけで、一瞬でも理性が負けそうになるのである。
べらべら話していたら、彼は突然声を大きくして遮った。
そんな風に身体の前で腕を組むのをやめろよ。それは自分を閉じている証拠だよ。
そう言うと私の腕を解き、手をとって、とても暖かく、私を楽にするために抱擁してくれた。それは、私が悲しい顔をして夫との話をしていたからではない。
彼の目には、私がこぶしを握ってドイツの大地に脚を付き、戦闘的に生きているその姿が、私の話しっぷりから見えたのだと思う。
それを哀れに思ってくれた彼は、おそらく人間として私を楽にしたい、いやそんな言葉ではなくて、単に抱きしめてやりたい、そう感じたのだと思う。
触れあいは、距離をずっと縮める。その感触が暖かければ、正直な信頼感が生まれてくる。
その後もしばらく話し込んだ。そして、私は何ヶ月もこのように、自分のおなかの中にずっとしまっておいた私自身の話をしたことがなかったことに気がついた。
私は殆ど誰にも私の魂を見せないし渡さない。その辺は石橋を叩くように思慮深い。傷つくのが嫌なのだ。ならば孤独を耐える方が数倍楽なのである。
魂を見せるということは、私が裸となって自分をゆだねることと同様なのだ。
今日、彼は私に歩み寄って、私に触れて、私の魂をちょっとだけ動かした。
君はね、大事なものを持っているよ。君には、たくさんのことが隠れている。自分を解放してやりな。君はリラックスしているし、ナーバスでもなければ、内気だとも思えない。けれど、君の家族や君の家族が背負ってきたものが、君を形成しているじゃないか。それを本当の意味で切り離すのは簡単じゃない。経済的、物理的独立は、本当の意味の切断とは違うよね。
君の中には、たくさんの整頓された引き出しがあって、それが融合していないんだよ。
Lasciati andare..... (自分を自由にしろよ)
君は、見る限り、とても強い女性だね。とても芯が強い。
その強さが私の過去の産物。
もう男の人など要らないとは思うなよ。
人間は社会的な動物なんだから、一人なんかで生きられるはずがない。心をオープンにして。
彼の言葉を今振り返ると、如何にも私は肩肘張って生きているのか分かる。
男の人なんか要らないのかって、自分でも思うよ。
そうそう、そういう風に見える程だよ。
今のこの現状では、私は幸福だと思うのだ。
しかしどうであろうか。クリスマスに壊れた家族を思って悲しくなり、子供の誕生日に、父親と祝ってやれずに悲しくなる。
過去を取り戻す気はないが、私の中には一種の不治の悲しみが宿ってしまっており、それ以来感情というものを半ば凍らせるようにして生きてきたのかもしれない。
それで、冷静に先週の話や、仕事の話をしているだけで、目頭が熱くなるのである。
心の開ける人の前では、私は絶対的な信頼感を彼に与えざるを得ないらしい。嘘の会話などできないのだ。白々しい会話をしていると、涙が滲むのだ。
太陽の光が美しい季節である。
あまり美しすぎるので、時々ふっと横に微笑みかけてしまう。
しかし、私の横には、誰もいない空間が広がるばかりである。
喜びを分かち合えない孤独ほど、それが如実に孤独であると強調されることはない。
悲しみも苦しみも分かち合って、慰めあいたいなどと、考えたことはないのだ。人間は、一人で苦しむものだし、また他人は、傍らに存在すること以上できないのである。
しかし、全く意識的には気がついていないのだが、毎日が重く、苦しく、闘いであるからこそ、私が生活に喜びを見つけたときは、飛び上がるほど幸福なのである。子供の笑顔や、美味しい食事、雨上がりの太陽、窓辺に小鳥が来て水を飲む時。そういう時、私はこれを皆に見せてやりたいと言う衝動を抑えることができない。生活の隅々にある。小さな発見。それは、言葉にできぬ重く辛いものをそれぞれが背負い、それぞれがそれぞれに与えられた孤独を生き抜かなくてアならないからこそ、この小さな美しい発見を分かち合うことに意味があるのではないだろうか。
この取るに足らない小さな喜びを分かち合える間は、つながっているのである。
私の不幸は、この喜びを分かち合えるパートナーがいないということだけであろう。
その他の問題など、実は取るに足らないことなのである。
2010年4月30日金曜日
身体的なもの
とにかく朝起きてから、今日はダメだ、今日こそはつぶれるのだと、それだけを実感していた。
とてつもない荒野に一人きりで置き去りにされたような孤独感と共に起き、いや起きることもできなかった。仕事だけが支えで、締め切りに追われたり、学校に教えに行くことが、もはや私の救いであり、社会との唯一のか細いつながりになってしまった。
August Rodin The Kissers
そうして自分の教室に入る。二人の生徒から断りがあり、建物の中庭に面した窓を開けた。今日は20度以上気温が上がり、すっかり春爛漫といった風情であった。
私も去年買った淡い黄色い革のバレリーナを素足に履いて、珍しくスカートをひらつかせて家を出たのだ。
窓の外には、小さな子供達が砂場に集まって遊んでいる。母親が何人か一緒に砂場に腰を下ろして、日向ぼっこをしていた。すっかり緑が色濃くなった。
10日ぐらい前だろうか、ARTEである番組を見た。
それは、Gerard Depardieuの息子、Guilleum Depardieuに関する小さなドキュメンタリ番組だった。彼のデビュー作は、16世紀のガンバ奏者であったSt. Colombeの映画であり、Marin Maraisの若い時期を演じていた。それ以来、彼のファンになった私は、ことあるごとに彼の映像を見てきた。
その彼が、バイクの事故を起こし膝を怪我した。手術の際にMRSAというバクテリアに感染し、それから苦悩の年月が始まった。
痛みと炎症の繰り返しに耐えかねた彼は、右足を切断し、映画界に復帰したが、おそらくMRSAによる肺炎で3日以内に死亡してしまった。
その彼の映像が、ドキュメンタリーとしてテレビに流れ、どうしようもなく悲しい気持ちになってしまった。若く、健康で、男性的な人間が、三日以内で亡くなったことも悲しければ、彼のように自虐に近い形で、仕事に闘魂し、よき父であろうと努力しつつ、離別も経験し、MRSA被害者の会も設立して活動していたという、その溢れんばかりの生きる活力が消えたということが信じがたかった。
教室の中で、開け放った窓から聞こえてくる、屈託のない子供達の声を背後に、私は椅子にポツリと座ったまま、ピアノを弾くでもなければ、本を読むでもなく、ただそこにじっと張り付いてしまったように座っているだけだった。
一昨日、私は最終的な家の整理のために、夫宅へ向かった。一人で以前一緒に住んでいた家に行き、その残骸を見ながら、子供達の残りの玩具や私のキッチン用品など、細かいものの整理をする気力はなかった。その日のことを考えただけでも、胃痛が激しくなって、吐き気をもよおしたほどである。夫を見たくないのではない。夫を見るのが怖いのだった。何かを感じてしまうという心の動きが怖い。
情けない私は、学校の引けた真ん中の息子を手伝いに連れて作業に向かった。家の中は男の住処と化しており、私が一緒に住んでいた頃よりもすっかりくすんでしまった。地下倉庫の整理も終え、過去にじっくりと対面し、できる限りのものを捨てようと心がけて、箱をまとめた後、息子とま再び階上の部屋へ戻った。間もなくして夫も帰宅した。
3ヶ月ぐらい会っていなかったのだ。様々な事情が重なって、会うはずが会えなくなり、会うつもりが会いたくなくなって、半ば自然消滅にも似た中途半端な状態である。
血色の良い顔をした夫は、挨拶の抱擁をし、私の仕事ぶりを察するや、何か飲んだ方がよい、疲れているようじゃないかと、私の顔を覗き込んだ。
その目は、私の知っているあの目だった。あの優しい犬のように従順な目だったのだ。
その目を見たとき、私は大きなショックを受けた。それこそコミュニケーションだったのだ。言葉のない、しかし明らかに私の心を動かしたコミュニケーションだった。
夫は、驚くべき金銭感覚と、驚くべき楽天的な性格により、様々な問題を抱え込んでいる。私達が知り合った頃、すでにその問題は頭角を現していたが、そんなこと一々恋人達は話題にしなかった。
それらの生活上の問題が、私たちを遠ざけたのかどうか、今の段階では分からない。
しかし夫との関係は、以前のような魂だとか精神だとか、そういった太い縄にがんじがらめにされたような感覚は一切ないのだが、それでも何かが強く私達を惹きつけている。
椅子の上にずっしりと腰をかけたままの私の目には、自分の膝、足元、そして胸元が目に入った。春らしい陽気なので、いつものように子悪魔さながらに黒一色ではあったが、ジャージーのフレアスカートにぴったりとした胸がV字に開いたトップに小さなボレロを着ていた。何ヶ月ぶりの素足が憎らしかった。脚を伸ばした時に見える自分のふくらはぎも憎らしければ、Vカットから見える胸のふくらみすら憎らしかった。特に胸は、若い頃の新鮮さは失せ、脂がのって自慢げにすら見えた。
こういう自分の姿をすっかり持て余しながら、私は自分が女であることを実感し、今や13歳の息子にも追い越された私は、この身体で意地になって地面に足を付き、一人で肩をいからせながら生きているのかと思ったら、うんざりしてしまった。
あの俳優ギヨームのせいなのだ。なぜってギヨームは、夫が若かった頃に瓜二つなのである。
あれから、ギヨームのTVでの姿がことあるごとに私の目の前にちらついた。彼の熱い声、彼の無防備な態度、彼の自分勝手な暴走。そういったものが彼 の見かけと一体となって、私の目の前に何度もちらついたのだ。
私は、そして必ず連想する夫のことも思い出さずに入られなかった。
夫の目を見た瞬間、夫の腕の感触を実感し、夫の髪の毛の香りを実感した。そして、それは全て過去の遺産のように、私からは手の届かぬほど遠いところにあった。あの目は、まるで妹や他人を気遣うように優しかったが、それは、私達の間にすでに何も熱いものがなくなってしまったからであろう。
椅子の上に座ったまま、自分がまぎれもない女性なのだと実感した瞬間、私と夫は、身体的に結ばれあっていた、そしてそれだけが理由なのだと直感した。
どれだけ愛し合っていても、もうどうしても触れることはできないと言うことはある。私はそれも知っている。
しかし、愛し合っていなくとも、身体同士が触れ合いたいと、まるで細胞が声を出しているように聞こえることもある。見かけが素晴らしいのでもない、立ち居振る舞いが洒落ているのでもない。肌が合う、そういう言葉ともまったく違う。
性欲というような具体的な感覚でもなく、通り過ぎたり、向かい合ったりした瞬間に、極自然に身体同士が磁石のように引きあってしまう。そういう感覚であり、求め合っているというような熱さはどこにも見当たらないのである。
一緒にいる、隣同士にいる体温を感じあうことで、問題を解決し、あるいは問題に目をつぶり、今までやってきた。けれど空間を別にしてしまったら、そこには何も残らなかったのである。身体を切り離したら、何もなくなってしまったという、ぞっとするような話だったのだ。
どれだけ楽しい日々であったか、旅行に行った思い出や、議論に議論を重ねて闘争しあった思い出もある。しかしその密度は、すっかり影をなくして、実質何が残ったのか皆目分からない。身体性が保障される間、このような交流が意味をもっていたのである。
分かり合えるからセックスをする。だからお互いが満足するというのが図式である。
セックスをするから口語面での交流もできる、だから満足するという図式だったのだと、今分かった。
だからといって身体的な面から、よりを戻そうなどと考えたこともない。一度壊れてしまったものは、通常の図式でも、第一段階の分かり合うという言葉ですらブロックされているのだ。
今、私は夫に抱きしめられたとしても、おそらく私には、二度と血は通わないのだと思う。もう血は冷めてしまっているのだ。
しかし、彼を見るたびに感じる欠乏感は、分かり合える人がいないという次元ではない。そうではなくて、すれ違うたび、目を見るたびに吸い寄せられそうになる身体を制して動かさずにいる際に感じる、身体自体の欠乏感なのだ。そしてそれは必ずしも性欲などのように具体化しておらず、本当に私と言う身体が、硬い地面に棒立ちになって途方にくれているような、そういった寂しさなのである。
最初の夫の時とは比べ物にならないほど、浅い層で起きている感情の動きだ。
どこかを切り裂いてくるような痛みはない。
愛ではない、愛したこともないという冷たい言葉を吐いていた私は、夫に会わなかった3ヶ月、すっかり落ち着いてしまった自分の気持ちを、整理がついたものと認めていた。
ところが、会ってみてはっきりとわかった。整理などついていない、整理など付けられない何か言葉には言い表せない、自分でも理解のできない磁石が今でも働いているということを実感してしまった。
これが、身体的な愛だったのかもしれないと思った時、私はなんとも言えず悲しくなった。
どんなに魂の住む次元が違う男でも、どんなに生活感覚の違う男でも、私を何年間も暖めることはできたのだと。空洞のような心を抱えた私の過去8年は、確かに魂の枯れ切った時代であった。けれど、私の身体は常暖められていたのだ。私はずっと女性であったし、私はずっと抱きしめられていた。
私の感情の氷山の一角しか理解できない夫であっただけに、私は感情的には、完全に自立していた。感情的には、彼は常に、一番遠い地点に見えないような場所に立っていた。けれど、私達はそれを体温で呼び戻しあったのだ。
時々、私の身体が私に囁く。
自分を硬直させてはだめだと。
私はしなやかな女性であるべきだし、女性以外にはどう転んでもなれない。
とてつもない荒野に一人きりで置き去りにされたような孤独感と共に起き、いや起きることもできなかった。仕事だけが支えで、締め切りに追われたり、学校に教えに行くことが、もはや私の救いであり、社会との唯一のか細いつながりになってしまった。
August Rodin The Kissers
そうして自分の教室に入る。二人の生徒から断りがあり、建物の中庭に面した窓を開けた。今日は20度以上気温が上がり、すっかり春爛漫といった風情であった。
私も去年買った淡い黄色い革のバレリーナを素足に履いて、珍しくスカートをひらつかせて家を出たのだ。
窓の外には、小さな子供達が砂場に集まって遊んでいる。母親が何人か一緒に砂場に腰を下ろして、日向ぼっこをしていた。すっかり緑が色濃くなった。
10日ぐらい前だろうか、ARTEである番組を見た。
それは、Gerard Depardieuの息子、Guilleum Depardieuに関する小さなドキュメンタリ番組だった。彼のデビュー作は、16世紀のガンバ奏者であったSt. Colombeの映画であり、Marin Maraisの若い時期を演じていた。それ以来、彼のファンになった私は、ことあるごとに彼の映像を見てきた。
その彼が、バイクの事故を起こし膝を怪我した。手術の際にMRSAというバクテリアに感染し、それから苦悩の年月が始まった。
痛みと炎症の繰り返しに耐えかねた彼は、右足を切断し、映画界に復帰したが、おそらくMRSAによる肺炎で3日以内に死亡してしまった。
その彼の映像が、ドキュメンタリーとしてテレビに流れ、どうしようもなく悲しい気持ちになってしまった。若く、健康で、男性的な人間が、三日以内で亡くなったことも悲しければ、彼のように自虐に近い形で、仕事に闘魂し、よき父であろうと努力しつつ、離別も経験し、MRSA被害者の会も設立して活動していたという、その溢れんばかりの生きる活力が消えたということが信じがたかった。
教室の中で、開け放った窓から聞こえてくる、屈託のない子供達の声を背後に、私は椅子にポツリと座ったまま、ピアノを弾くでもなければ、本を読むでもなく、ただそこにじっと張り付いてしまったように座っているだけだった。
一昨日、私は最終的な家の整理のために、夫宅へ向かった。一人で以前一緒に住んでいた家に行き、その残骸を見ながら、子供達の残りの玩具や私のキッチン用品など、細かいものの整理をする気力はなかった。その日のことを考えただけでも、胃痛が激しくなって、吐き気をもよおしたほどである。夫を見たくないのではない。夫を見るのが怖いのだった。何かを感じてしまうという心の動きが怖い。
情けない私は、学校の引けた真ん中の息子を手伝いに連れて作業に向かった。家の中は男の住処と化しており、私が一緒に住んでいた頃よりもすっかりくすんでしまった。地下倉庫の整理も終え、過去にじっくりと対面し、できる限りのものを捨てようと心がけて、箱をまとめた後、息子とま再び階上の部屋へ戻った。間もなくして夫も帰宅した。
3ヶ月ぐらい会っていなかったのだ。様々な事情が重なって、会うはずが会えなくなり、会うつもりが会いたくなくなって、半ば自然消滅にも似た中途半端な状態である。
血色の良い顔をした夫は、挨拶の抱擁をし、私の仕事ぶりを察するや、何か飲んだ方がよい、疲れているようじゃないかと、私の顔を覗き込んだ。
その目は、私の知っているあの目だった。あの優しい犬のように従順な目だったのだ。
その目を見たとき、私は大きなショックを受けた。それこそコミュニケーションだったのだ。言葉のない、しかし明らかに私の心を動かしたコミュニケーションだった。
夫は、驚くべき金銭感覚と、驚くべき楽天的な性格により、様々な問題を抱え込んでいる。私達が知り合った頃、すでにその問題は頭角を現していたが、そんなこと一々恋人達は話題にしなかった。
それらの生活上の問題が、私たちを遠ざけたのかどうか、今の段階では分からない。
しかし夫との関係は、以前のような魂だとか精神だとか、そういった太い縄にがんじがらめにされたような感覚は一切ないのだが、それでも何かが強く私達を惹きつけている。
椅子の上にずっしりと腰をかけたままの私の目には、自分の膝、足元、そして胸元が目に入った。春らしい陽気なので、いつものように子悪魔さながらに黒一色ではあったが、ジャージーのフレアスカートにぴったりとした胸がV字に開いたトップに小さなボレロを着ていた。何ヶ月ぶりの素足が憎らしかった。脚を伸ばした時に見える自分のふくらはぎも憎らしければ、Vカットから見える胸のふくらみすら憎らしかった。特に胸は、若い頃の新鮮さは失せ、脂がのって自慢げにすら見えた。
こういう自分の姿をすっかり持て余しながら、私は自分が女であることを実感し、今や13歳の息子にも追い越された私は、この身体で意地になって地面に足を付き、一人で肩をいからせながら生きているのかと思ったら、うんざりしてしまった。
あの俳優ギヨームのせいなのだ。なぜってギヨームは、夫が若かった頃に瓜二つなのである。
あれから、ギヨームのTVでの姿がことあるごとに私の目の前にちらついた。彼の熱い声、彼の無防備な態度、彼の自分勝手な暴走。そういったものが彼 の見かけと一体となって、私の目の前に何度もちらついたのだ。
私は、そして必ず連想する夫のことも思い出さずに入られなかった。
夫の目を見た瞬間、夫の腕の感触を実感し、夫の髪の毛の香りを実感した。そして、それは全て過去の遺産のように、私からは手の届かぬほど遠いところにあった。あの目は、まるで妹や他人を気遣うように優しかったが、それは、私達の間にすでに何も熱いものがなくなってしまったからであろう。
椅子の上に座ったまま、自分がまぎれもない女性なのだと実感した瞬間、私と夫は、身体的に結ばれあっていた、そしてそれだけが理由なのだと直感した。
どれだけ愛し合っていても、もうどうしても触れることはできないと言うことはある。私はそれも知っている。
しかし、愛し合っていなくとも、身体同士が触れ合いたいと、まるで細胞が声を出しているように聞こえることもある。見かけが素晴らしいのでもない、立ち居振る舞いが洒落ているのでもない。肌が合う、そういう言葉ともまったく違う。
性欲というような具体的な感覚でもなく、通り過ぎたり、向かい合ったりした瞬間に、極自然に身体同士が磁石のように引きあってしまう。そういう感覚であり、求め合っているというような熱さはどこにも見当たらないのである。
一緒にいる、隣同士にいる体温を感じあうことで、問題を解決し、あるいは問題に目をつぶり、今までやってきた。けれど空間を別にしてしまったら、そこには何も残らなかったのである。身体を切り離したら、何もなくなってしまったという、ぞっとするような話だったのだ。
どれだけ楽しい日々であったか、旅行に行った思い出や、議論に議論を重ねて闘争しあった思い出もある。しかしその密度は、すっかり影をなくして、実質何が残ったのか皆目分からない。身体性が保障される間、このような交流が意味をもっていたのである。
分かり合えるからセックスをする。だからお互いが満足するというのが図式である。
セックスをするから口語面での交流もできる、だから満足するという図式だったのだと、今分かった。
だからといって身体的な面から、よりを戻そうなどと考えたこともない。一度壊れてしまったものは、通常の図式でも、第一段階の分かり合うという言葉ですらブロックされているのだ。
今、私は夫に抱きしめられたとしても、おそらく私には、二度と血は通わないのだと思う。もう血は冷めてしまっているのだ。
しかし、彼を見るたびに感じる欠乏感は、分かり合える人がいないという次元ではない。そうではなくて、すれ違うたび、目を見るたびに吸い寄せられそうになる身体を制して動かさずにいる際に感じる、身体自体の欠乏感なのだ。そしてそれは必ずしも性欲などのように具体化しておらず、本当に私と言う身体が、硬い地面に棒立ちになって途方にくれているような、そういった寂しさなのである。
最初の夫の時とは比べ物にならないほど、浅い層で起きている感情の動きだ。
どこかを切り裂いてくるような痛みはない。
愛ではない、愛したこともないという冷たい言葉を吐いていた私は、夫に会わなかった3ヶ月、すっかり落ち着いてしまった自分の気持ちを、整理がついたものと認めていた。
ところが、会ってみてはっきりとわかった。整理などついていない、整理など付けられない何か言葉には言い表せない、自分でも理解のできない磁石が今でも働いているということを実感してしまった。
これが、身体的な愛だったのかもしれないと思った時、私はなんとも言えず悲しくなった。
どんなに魂の住む次元が違う男でも、どんなに生活感覚の違う男でも、私を何年間も暖めることはできたのだと。空洞のような心を抱えた私の過去8年は、確かに魂の枯れ切った時代であった。けれど、私の身体は常暖められていたのだ。私はずっと女性であったし、私はずっと抱きしめられていた。
私の感情の氷山の一角しか理解できない夫であっただけに、私は感情的には、完全に自立していた。感情的には、彼は常に、一番遠い地点に見えないような場所に立っていた。けれど、私達はそれを体温で呼び戻しあったのだ。
時々、私の身体が私に囁く。
自分を硬直させてはだめだと。
私はしなやかな女性であるべきだし、女性以外にはどう転んでもなれない。
2010年4月23日金曜日
長々しい失敗の告白
しつこくも、また私自身の過去の話である。牛の咀嚼なので、致し方ない。クリスマスの後に書いた文章が出てきた。さらけ出すことをテーマとしている私である。これも載せてしまう。
______
離婚 しているのに、父親と仲が良いなんておかしい。それなら離婚しなければよかったという声を時々聞く。
そうかもしれない。
け れど、当時あれ以外の選択はなかったのだ。
クリスマスは、欧州では紛れもなく家族の行事であるので、どうしても家族とか過去に思いがさかのぼってしまう。
私の前夫は、私の兄と同じ大学で同門であったため、欧州学生オケや仕事で日本に来る際には、必ず私の家に泊まっていた。
私 は大学3年生で、将来は留学すると決めていたときであった。
そんな時分からの付き合いである。
兄と彼は、魂を分かち合うような時 を共にし、兄は彼の才能を天才と呼び、
命を削って芸術をしているような奴だ。音楽をしないと死んでしまうような奴だ。そういう人間を前 に、くだらない望みや期待をかけて結婚生活に不満を言うお前がわがままで完全に間違っている。
と、私が後に結婚したあと、何度もこう私を叱咤した。
その言葉に、悔しさと絶望と孤独を感じながら、それでも納得して夏休みが終わると、ドイツへ帰ってきたものである。
あ の日々のことはほとんど覚えていない。
10年以上一緒に暮らしたのだが、ほとんど具体的なことは覚えていない。
必死であった。
人 をしのぐようなエネルギー、夜がさめても気がつかずに音楽をし続け、レッスンをし続けるそのエネルギーに感動し、付いていくのが精一杯であった。
彼 のマスタークラスに行けば、そのカリスマ性に学生達がどんどん上達していく。その様を見るのは、まさに魔法と言っても良いほどであった。
どんな犠 牲を払っても、共に生きる価値のある、すばらしい芸術家である。
ところが、日常生活は、孤独を極めた。
家にいないこともそうであ るが、子供が出来てからは、演奏旅行に同行することも出来ず、演奏活動をやめてしまった私は、彼がその生き生きと踊るような音楽への奉仕の魂を他の音楽家 と日々分かち合い、理解しあい、彼の本質を共有していることが、ほとんど恐怖のような焦燥感となって、私を苦しめた。
帰宅すればスコア を持って自室にこもるか、熟睡し続けるか、レッスンに行くだけである。
食事にも、外の景色にも、友人関係にも、何の興味もない。批判ではなくて、 天才とはこれほどのものだといいたい。それほど一つのことに精魂ささげなければ、凡人と同じである。生き様で人を感動させることは、まさに命を削るように日常とは逸脱した平面で生活しているということなのである。
音楽を刻一刻と分かち合えなくなり、日常生活の中に閉じ込められた私と彼の間に、断絶はなかったが、孤独が募っていった。
彼は、一瞬一瞬に大きなドラマを必要としている人間である。それは事が大きいということより、常 に感受性のアンテナが張り巡らされ、キャッチした情報をかみ締めてそれが不安を掻き立てれば、私に攻撃的になったり、同調を求めてきたりする。その情報が 心躍るような喜ばしいものであれば、その感動を私と分けようと、夢中になって語り続けるのである。
24時間のうち、どのようなドラマが起 こるか、その次の瞬間のことも誰も予想ができない。
このような生活は、ものすごく内容が深い。しかし私の幸は、私もそのようなアンテナ だけは立派にもっており、彼が何かをキャッチした場合は、目を見なくとも、その気配だけですぐにそれを察知できた点である。
しかし私の不幸は、 同様に鋭敏なアンテナを持っていた故に、二人の生活に安定が訪れることは決してなかったということである。
互いが、その鋭いアンテナで互いの心の動向を察知し続け、無意識のうちに常に影響しあっていた。
それだけ関係は、奥深かったのは事実である。本人達がわかるより、無意識下でのつながりは、非常に強かった。
孤独に対する感受性の強さが同様だったということもある。
その孤独とは、生きているがゆえの孤独というよう な、普遍的なレベルのもので、本人達に理解できていたわけでは決してない。
12年ほどして、三人の子供達を授かって、家庭とい うものを立派に築いてきた私達であったが、その家庭の要求する安定した日常というものが重要になればなるほど、二人の関係には問題が生じた。
し かし関係の不一致というような、何か実用的理由で説明できる類の原因はないのである。そうではなくて、すべてが二人の無意識下で起こっていたように、エ ネルギーとエゴも含んだ才能が、私と言う人間よりも何十倍も大きい彼は、彼の知らぬ間に精神的にマニプレートしている部分があったのである。
これは私に対してとは限らない。仕事でも、彼は常に人を圧倒するような才能を示し、誰しも彼と舞台に上がることを夢に見たが、彼の意向以外の結果は絶対にないのである。それで多くの開催者と決裂したこともあった。
このようなエネルギーとエゴなので、私の生活も、本当に精神的に苦しいものであった。
終いには、雨が降ってもすみません。子供が泣いてもすみませんということになった。
私の魂は縮み上がって、すっかり萎縮していたのである。
この才能に歯止めをかけているのは私であり、家族である。
この人を解放しないといけない。
この人に、子供だの家庭だのを要求する私が間違っ ている。
心の底で、そんなことを確信していた私は、まるっきり彼を理解していなかったのである。
それで、いかに私が彼を支えないか、どこから私のコンプレックスが来て、どれだけそれで私は子供達をだめにし、どれだけ人生で失敗し、どれほど問題を複雑にしているか、と散々彼に説教された。それも繰り返し何年にもわたって、発作的に怒るのである。
一度は子供を放り出して、車で高速道路に出て、どこか遠くへ行ってしまおうと思った。ふっと死んでしまおうかなと本気で考えた。このまま私がいなくなれば、子供達は新しいもっと強く、もっと明るい母親を手にし、幸福な父親と新しくやり直せるのではと本気で信じたのだ。
2時間ほど走り回って、帰って来た私はぼろきれのようだった。
何年間かは強度のパニック障害に侵され、車で外出するのが怖くなった。彼の帰宅 する飛行場に迎えに行くたびに、体中に蕁麻疹が出た。彼の帰宅前に、突然パニック障害に襲われた。
そうした中、這うようにして精神科に行った。
ご主人が原因なのは明らかだけれど、病気になるのはあなただから、あなたが自分を守らないといけない。
その言葉を聞き、セラピーを断った。
人に世 話になってたまるか。自分で自分の心ぐらい守ってやる。
何かが変わった。
閉所が私の問題だった。窓のない風呂場、夜中の真っ暗な寝室、そして特に運転中のトンネル。そこでは必ずといってよいほど、パニックに侵された。
毎回トンネルの中でパニックがくるので、毎日朝早く、みなが寝静まっている間に、トンネルを走りに出かけた。パニック障害で死ぬことはないという医師の言葉を固く信じたら怖くなかった。
パニックが襲ってくるのがわかったら、時間を数えた。 絶対に30分以上からだの防御反応であるパニック症候群が続くことはない。どんなに長くても30分と言う言葉だけに支えられた。
私が、思ったことを行ったり、自分で自分を守るようになってから、私達を強くつなげていた無意識下のシステムが壊れはじめた。
もう雨が降っても すみませんとは思わなくなった。
彼のエゴを許せなくなった。
そうして絶え間ない喧嘩のあと、別居になったのだが、その 間どれほどの孤独感が二人にあったか、どれほどの努力が私の側にも彼の側にもあったか、どれほどの子供達への愛があふれ出たか、それは計り知れない。
12 月までと決めたり、死ぬまで、もう出来ないと悟るまで、私が精神病院に入るまでやると覚悟したり、それは精神的に壮絶と言って良いほどの日々であっ た。
なので別居したときは、ホッとしたのである。
毎日毎日、彼が尋ねてきて、泣きついてきて、懇願されて戻っても、そこには私達の間にあるマニュプレートされる人間とする人間の関係が戻ってくるだけである。
私達のように、深淵でつながっていた人間が、そういう病理的な関 係でしか存在できなかったというのは、非常に残念である。または、そういう病理的な関係だからこそ、依存関係となって切っても切れなかったのかもしれな い。
とにかく、あらゆることを尽くし、あらゆるドラマを見て、暴力の寸前まで行き、病気の寸前まで行ったから別れたのであり、修業が足りないなどと言われる筋合いはない。選択の余地などなかったのである。文字通り、暴力と言う修羅を潜り抜け、命からがら出てきた。
ところが、
今、ここ何年かして思うのである。
私の唯一の失敗は、あの結婚を放棄したことであると。
もうどんな恋人が出てこようと、どんなに支えになる人がでてこようと、私は永遠に、私だけの家族 を失ったのである。
家族全員でクリスマスを行うこともなければ、休暇にいくこともない。
子供達をどんなにかわいいと思っても、それを分かち合える片割れはいないのである。
どれほどの体験を彼にさせてもらったのか、それを思えば、自分の精神病も、自分の苦しかった日 々も、自殺願望も、すべて帳消しになる。
私は彼の音楽に震え、彼に初めて音楽を生み出す姿勢を見せ付けられた。コマーシャリズムに自分を汚さず、 成功を一切求めないで音楽への絶え間ない尊敬を抱き続けて、自分自身を奉仕の手段として犠牲にする、その姿勢は誰にもまねできないからこそ、凡人とは一 線を隔てていのである。
私は、自分の価値観を彼を見ながら、隣に体験しながら形成してきた。
今思えば、礼を尽くしても足りないほどなのである。
私は彼よりも早くパートナーを見つけ、再婚した。
彼もその後、自分の学生と再婚した。
けれど、私は完全に失敗である。
彼のような人間と人格形成上最も大切な時を共にしたら、もう誰とも一緒になど住めないのだ。
別れてから2,3年は酷かった。子供達を引き渡すので会う度に、お互に涙が止まらないのである。
目を見るだけで涙がほとばしり出るのである。それでも、翻るように自分を引き裂くように、言葉も交わさずに子供を渡して帰ってくる。
家の影で、道路の影で、号泣したものである。
4,5年しても同じだった。
彼のコンサートに行ったときは、帰宅してから、なんと言う失敗を犯したのかと鬱に落ち込み、夫の顔も見れないのである。彼の音楽に触れた瞬間、私の魂は、生き血を得たかのように、踊りだす。体中が振動して、血管が駆け巡るとでも言えばよいか。震え、涙がでるという震撼であった。恐ろしい体験である。
今年に入っても同じである。子供達を交えて食事をして、ワインで乾杯しただけで、涙がほとばしるのである。
彼も、酷くなるばかりだね、と真赤な目をしている。
でも、もうあれ以上できなかったことだけは、私達にはわかりすぎるほどわかっている。
彼の新しい奥さんは、日本人で私達のベビー シッターだった学生であった。
その彼女と一緒になったと聞いたとき、ショックを受けたが、彼女の屈託のない性格を知っていたので、安堵したところ もある。
それでもその晩は、号泣した。再婚しても、一向に幸せではなかったからである。なぜかと言えば、新しい夫のことなど、これほども愛していなかったからだ。どこまでも勝手な女である。
2年ぐらい前、彼らに子供が出来ると突然直感し、2週間ぐらい落ち込んで仕方なかったことがあ る。前夫は、毎回そんなことは僕は今は望めないと言って、私を毎日のように慰めてくれた。
しかし時は過ぎ去る。
今年の夏、彼女は 妊娠した。
私の覚悟は出来ていたので、まったく平然とことを受け止めている。それどころか、彼らの幸せを真に望んでいる。
彼女に、私の出来なかったことができる、などと考えたことはない。彼女と私は違う人間で、彼女とはそんな病的な関係ではないのであろう。
ありがたいことで ある。私は彼が何の心配もなく、音楽をしていられることが一番の望みである。
それでもクリスマス、こうして一人きりで過ごすことは気楽で嬉しいのだが、書き始めてみれば、こんな長文になり、やはり私はのどから手が出るほど、家族を取り戻したいのだと勝手ながら実感するのである。
でも、勝手は通用しない。
自分の人生には、きちんと付けを払わなくてはならない。
私には、その力も意志も立派に備わっているが、幸福になれるのか、と問われれば、もう無理だと思うと考えてしまう。
子供達の成長が嬉しく楽しみで、小さな幸福はいたるところに見出すのだが、 乾ききった魂の孤独は深く、普段は一切感じることはないのだが、いざ押し殺している自分の殻を取り除けば、本当は失敗したと認め、でも他にどういう方法もなかったという絶望に涙し、これから精神的には死ぬまで一人で歩むのだと言う覚悟を決めている自分に、多少疲れを感じるのである。
以上のような経緯であるが、前夫と仲が良いというのが、故にまったく不思議ではない。自分たちの意志とは別なところで、ある意味何かが一致しているのである。
精神医学的だとか、心理学的だとか、そんな難しいことはさっぱりわからないが、目を見れば、さらには挨拶の抱擁をしただけで、互いに涙が出てくるというのは、別居後8年たっても一向にかわらないのである。
それがもう決して起こらなければ良いと願って8年たったが、それだけは変 わることない。
兄弟のような、家族のような、そんな気持ちなのである。
私はそんな立場にいないが、彼の命に何かがあったときは、礼を言うために駆けつけたいと思う。
また私が死ぬときには、他の誰でもない、彼に来てもらって、最後に礼を述べさせてもらいたいと。それだけである。
今年の締めくくりとしては、いかにも情けなく、自分でも嫌気がさす。
しかし、これが現状であり、失敗ばかりの人生を見つめ、それでも歩き続けなくて はならない自分の人生に対面するのが、やっぱり宿題ではないかと思うのである。
来年は、後悔のないように、子供達に思い切り時間を割き、 たくさんの思い出を作って、家庭らしいことをたくさんしてみようと思う。それが間違いなく、私を少しでも幸せにしてくれると信じている。
2010年4月16日金曜日
離婚考 ― Helen Fisher
随分前に読んだものだが、最近書いたテキストが出てきたので掲載する。私は手に入らず独語で読んだが、日本語でも手に入るようである。表題は「愛は何故終わるのか」。原文は英語。
Anatomy of Love: A Natural History of Mating, Marriage, and Why We Stray (ペーパーバック)
離婚や別れというのは、自然史的に見ると近代文明と関係があるというわけではないようだ。ローマ時代に、戦争で資産を築いた都市貴族たちは、例えばそれを義理の息子ではなく娘たちに託した。そうして女性が財産に関する権利を所持することによって、貴族的地位の上に立っていったという背景の中では、結婚を含む未来に対する決定権も多くの場合、女性にあったと言うことになる。こうした階層が増えてくるにあたり、離婚率が急増したという事実があった。
結婚生活中に、様々な不満や喧嘩の原因が渦巻くのは、どの文化でも同じである。イスラムでもユダヤ教でも、アフリカの部族間でも、アメリカのような先進国で も、蓋を開ければ似たような原因の諍いと不満にあふれている。
宗教改革前、キリスト教社会では聖職者の独身性を重んじ ていたが、その社会における結婚には、神の存在しない世界でのグロテスクな性的無規律性から、性交を聖なるリトスとして守ると言う意味があった。
ムハンマドのイスラム教には、聖職者の独身性は存在しない。性交や愛を重んじることにキリスト教にあるようなネガティブなイメージはなかった。
ところが、ムハンマドはもう一つの義務を与えた。
それは、結婚生活での厳しい役割分担であり、妻は子供を生み、料理し、夫に仕える必要があった。
し かしながら、イスラムの世界では、結婚はあくまでも法律的契約であったため、いつでも離婚が可能であった。これに対しキリスト教では、礼典に従った契約 が結婚であるため、カトリック教会は、離婚を認めていない。
現在でもイスラム世界での離婚は珍しくないと言う。
さて、離婚の理由 であるが、
ダーウィンの説によると子孫繁栄が結婚の目的であるので、これらが多くの離婚理由のトップに立っていることをFisherは疑問に思わないそうだ。
離婚は、深くセクシュアリティーと生殖にかかわっていることに間違いはない様である。
その証として、生殖能力のある年齢の離婚者は、約80パーセント再婚すると言う。
人間は、次のパート ナーに関しては、非常に楽観的であるらしい!
さて、そうは言っても離婚にはある種のモデルがあるらしい。社会学者のS. Johnson の説によると、パートナーの双方に、土地、家畜、支払い能力、情報、その他の財産や資源がある場合、さらに双方がその私財を家族間で分割したり交換したり する権利を所持している場合は、離婚が日常茶飯事であると言う。
つまり、生き残るために男女が経済的に依存しあっていない場合、良好では ない結婚生活はしばしば解消されると言う。
これはアフリカ原住民の間でも同じで、食物を得ることに関して互いに独立した能力を備えている場合は、離婚率が非常に高いと言う。つまりこうした部族間では次の結婚でも、同様の狭い部族社会で生きるため、背景は変わらない。よって生殖能力のある間、五回ほど結婚離婚を繰り返すこともまれではないという。
その理由の一つに、母親が食物を採取しにいっている間、子供たちの面倒を見るのは、残された父親ではなく、むしろこうした狭い家族部族間では、母親の兄や弟と言った場合が多い。父親が自分の子供の面倒を見るより、姉や妹の子供の面倒を見る 率が高いと言うのである。
南アメリカの部族間でも、同様の傾向が見られ、不幸な結婚は、双方が別れる能力がある場合、解消される。そして彼らはまた再婚する。
反対に、お互いが生計を立てるために、かけがいのない存在である場合は、離婚率がずっと低いと言う。
その典型が農家である。収穫するのは男性だが、収穫したものを加工するのは女性の役割であった。
産業革命以前の欧州で、離婚率が低い原因の一つである。
また、11世紀に結婚が典礼に加えられたことで、欧州での離婚率は、一部の地域で未だに低いままである。
この傾向は、産業革命後に大きな 変化を遂げた。
収入を得ている女性の場合、男性が夕食のパンを稼いでくる家庭の女性よりも、結婚の問題に対する耐性がかなり低くなる。
女性の経済力と離婚率が平行して上昇するのは、ローマ時代の例で明らかである。
結局、愛だけでは結婚生活は持たない。その他、文化的、経済的背景が大きく絡んでくる。
社会学者Martin Whyteが、アメリカのデトロイト459人の女性に質問をした結果が次にある。
さらなる利点をWhyteは挙げている。
これらの条件を満たさないと言うことは、リスクを抱えての結婚ということになるらしい。
さらに言えば、リスクを最小限に保つためには、相違への対処として妥協が求められる。
パートナーの一方でも、妥協する姿勢が少ない場合、離婚になる 確率が高い。
更なる点として、息子がいる家庭、就学前の子供たちがいる家庭では、離婚率がやや低く、反対に若年で結婚したカップルの大半は離婚すると言う。
母権制での離婚率も高い。これは女性が自給できるからであろう。
またポリガミー社会でも、嫉妬や男性の財産をめぐる女性間での喧嘩が多く、離婚率が高い。
イスラムなどのモノガミーでは、自分のために料理し、仕えてくれる女性を捨てると言う結果を男性が簡単に下すことは少ない。モノガミーが結婚を安定させている。
共に笑い、深いまなざしで見つめあい、恋に落ちた際の引き込まれるよう な感覚、共通の秘密、二人だけの冗談、ベッドでのすばらしい時、友人や家族と日夜一緒だったとき、二人の間の子供たち、一緒に築いた財産、多くの年月を 通して笑い、愛し、喧嘩しながら、共に体験してきた変化に飛んだ時間など…
なぜ、このようなすばらしい体験を男女は、捨ててしまうのだろうか?
おそらく、日ごとの生殖活動に勤しんでいた暗黒の過去から発展した、深遠で永遠なる生殖に尽力する力からくる、絶え間ない精神の流れが理由であろうと締めくくっている。
さて、結婚は7年目が危ないと言われているが、実際は、長年の調査でも実証されているように、 3~4年目が危険らしい。
イスラム社会での相違などは略すとして、西洋社会では結婚後4年目の離婚が一番多いそうだ。
なぜなら、恋に落 ち、愛から結婚にいたるわけであるが、その愛と言うのは、私たちのごく私的な「私」というものを補うか強化するものであり、それはおおよそ4年ぐらい続くと言う。
それで、地味な事務職が、ブロンドの派手な秘書に恋をし、女性学者が詩人と一緒になることもうなづけると言う。
また人間の子供というのは、おおよそ4年ほどで一人で歩き、食事を取り、下の世話も要らなくなる。ここで、結婚し子供を共同で育てるという基本的な仕事に、一時的に終止符が打たれることも興味深い。
生殖的に、互いにまだ最高の状態であるにもかかわらず、である。
トリスタンとイゾルデの話にもあるように、恋というのは、大体3年ぐらいで終わるものなのだろうか?
またここからは簡略して述べるが、アメリカの例では、20~24歳で結婚したカップルでは離婚率が高い。
そして、女性は4年、男性は3年ほどで再婚する率が高くなっている。
子供がいても、 生殖能力の高い20代から30代のカップルは、離婚する確率が高いという。
Fisherがこの章を締めくくっているその総括に、私は自分の過去も合わせて妙に納得してしまった。
それをここに記したい。
人間のパートナーシップを形成するモデルは、女性の経済的 自立、都市化、世俗化、オーガナイズされた結婚などの多くの種類の文化的要素に影響される。この多岐にわたる影響にもかかわらず、両性共存に関しては、幾 つかの基本法則がある。
西シベリアから南アメリカの最南端まで、男女は結婚し、多くは再び離別する。大半は結婚後4年目に離婚し、多くは離別の時点でまだ若い年齢にある。一人目の子供が誕生した後、多くの男女は別れ、また再び再婚する。
毎年毎年、10年毎、あるいは100年毎、何世紀にもわたって、この太古のシナリオを演じ続け、自分たちに価値を与え、清潔にし、色目を使い、求愛し、互いに影響し合い、征服し合う。
その後、家庭的になり生殖する。そして、また新しい愛の冒険へと飛び出していく。
結婚という港を去るのである。
生殖能力のある期間、人は救いよう のない楽観主義者であり、途方もない生き物でもあり、やっと熟年になってから落ち着くようである。
なぜか?
答えは、Fisherの見解では、「高貴な野蛮人として森の中を自由に歩き回っていた」変化に富んだ私たちの過去にあると述べている。
長くなったが、結局私の二度目の結婚の個人的背景を重ね合わせてみると:
といった理由がくっきりと重なる。
さらに、夫側の経済的基盤の不安定さがあり、これが更にジェンダーの転回という問題につながった。
役割分担がなかった(例えば男が稼ぎ、私が家事をするといった分担)
さらに、私の私財の一部は、以前の男性から来るものであった。
夫の社会的背景が変わり続けるため、共通の友人を保ち続けることができなかった。
などという細部のリスクが加わってきた。
どちらにせよ、現在住んでいる欧州のこの街では、伝統的な価値観はすでにその基盤を失いつつある。ジェンダーが転回し、女性の経済的自立は、当然のこととなり、離別を繰り返す例が多くなり、それぞれ違う父親を持つ子供を三人抱える例も珍しくない。従って少子化の問題が増加する。
女性の経済的自立と共に、共同で子供たちを育てる契約をしないカップルが多くなり、子供を作らないと言う選択が 増えた。
以前、有名な女性ジャーナリストが、彼女の本で述べていたことであるが、
「ヒトラーの第三共和国時代のように、 女性もHERD(直訳はレンジ、比喩は家庭)に帰れ」
と言って顰蹙を買い、文字通りメディアから抹消されたという事実がある。
しかし伝統は悪くない。一理あると思う。
あまり進歩進歩と言って、 ジェンダーがあいまいになるのは、人間の生殖危機につながるというのもまんざら嘘ではないだろう。
私の現夫は、こうした安定した、つまり静止状態の生活のことをボヘミアンさながら
「超退屈で、軽蔑に値する」と豪語していた。
私がそのような生活を望むことに、非常に落胆させられたと言う。
しかし、それは結婚という枠に収まるには、あまりにもリスキーな生き方である。
結局夫は、森をさ迷い歩く人間本能を実現し続けているのだ。
決 して悪くない。
本能を生きるとは、エネルギッシュであり、変化に富み、新しいことが生まれる可能性がずっと高い。
しかし、私は子供を持つ親。しかも、三人というハイリスクな女性である。
スタティックな生き方を望むのは、自己防御なのである。
結局、この相違 と、私が糧を稼がずに帰宅するくせに、口だけは大きく、計画倒れである夫の男としてのプライドを大きく傷つけたことが直接の理由だろうと思われる。
彼は、今までもわりとすんなり、そして突然別れてしまう。
ぐずぐずと対策を練って、苦しい時を潜り抜けないのである。
それは、プライドの高い男のざっくりとした決断力であり、彼の自己防御でもある。
結局私達は、Fisherの言及しているモデルにすっぱりと納まる、凡人カップルであった。
それが、不思議と大きな慰めである。
私 の生殖年齢は、近い将来没になる。
で、いよいよ彼女の説によれば、落ち着くらしい。
いい加減、シャーマン的に静かに人の問題でも転がして生きていきたいと思う今日この頃。
しかし、私の無意識の[ICH]は、すでにうごめき始めている。
生殖能力のある人間の「救いようのない楽観主義」と言う点では、私も訓練をつんできた。
腕があるだけに?、この先静かになるのかどうか、空恐ろしい未来である。
また、最初の夫と今の「まだ夫」との人間性は、180度反対に当たる。なぜそのような事態が起きたのかと考えると、これもまた思い当たる節があるのだが、また後日書いてみようと思う。
Anatomy of Love: A Natural History of Mating, Marriage, and Why We Stray (ペーパーバック)
離婚や別れというのは、自然史的に見ると近代文明と関係があるというわけではないようだ。ローマ時代に、戦争で資産を築いた都市貴族たちは、例えばそれを義理の息子ではなく娘たちに託した。そうして女性が財産に関する権利を所持することによって、貴族的地位の上に立っていったという背景の中では、結婚を含む未来に対する決定権も多くの場合、女性にあったと言うことになる。こうした階層が増えてくるにあたり、離婚率が急増したという事実があった。
結婚生活中に、様々な不満や喧嘩の原因が渦巻くのは、どの文化でも同じである。イスラムでもユダヤ教でも、アフリカの部族間でも、アメリカのような先進国で も、蓋を開ければ似たような原因の諍いと不満にあふれている。
宗教改革前、キリスト教社会では聖職者の独身性を重んじ ていたが、その社会における結婚には、神の存在しない世界でのグロテスクな性的無規律性から、性交を聖なるリトスとして守ると言う意味があった。
ムハンマドのイスラム教には、聖職者の独身性は存在しない。性交や愛を重んじることにキリスト教にあるようなネガティブなイメージはなかった。
ところが、ムハンマドはもう一つの義務を与えた。
それは、結婚生活での厳しい役割分担であり、妻は子供を生み、料理し、夫に仕える必要があった。
し かしながら、イスラムの世界では、結婚はあくまでも法律的契約であったため、いつでも離婚が可能であった。これに対しキリスト教では、礼典に従った契約 が結婚であるため、カトリック教会は、離婚を認めていない。
現在でもイスラム世界での離婚は珍しくないと言う。
さて、離婚の理由 であるが、
- 一位 妻の浮気
- 不妊
- 夫の浮気
ダーウィンの説によると子孫繁栄が結婚の目的であるので、これらが多くの離婚理由のトップに立っていることをFisherは疑問に思わないそうだ。
離婚は、深くセクシュアリティーと生殖にかかわっていることに間違いはない様である。
その証として、生殖能力のある年齢の離婚者は、約80パーセント再婚すると言う。
人間は、次のパート ナーに関しては、非常に楽観的であるらしい!
さて、そうは言っても離婚にはある種のモデルがあるらしい。社会学者のS. Johnson の説によると、パートナーの双方に、土地、家畜、支払い能力、情報、その他の財産や資源がある場合、さらに双方がその私財を家族間で分割したり交換したり する権利を所持している場合は、離婚が日常茶飯事であると言う。
つまり、生き残るために男女が経済的に依存しあっていない場合、良好では ない結婚生活はしばしば解消されると言う。
これはアフリカ原住民の間でも同じで、食物を得ることに関して互いに独立した能力を備えている場合は、離婚率が非常に高いと言う。つまりこうした部族間では次の結婚でも、同様の狭い部族社会で生きるため、背景は変わらない。よって生殖能力のある間、五回ほど結婚離婚を繰り返すこともまれではないという。
その理由の一つに、母親が食物を採取しにいっている間、子供たちの面倒を見るのは、残された父親ではなく、むしろこうした狭い家族部族間では、母親の兄や弟と言った場合が多い。父親が自分の子供の面倒を見るより、姉や妹の子供の面倒を見る 率が高いと言うのである。
南アメリカの部族間でも、同様の傾向が見られ、不幸な結婚は、双方が別れる能力がある場合、解消される。そして彼らはまた再婚する。
反対に、お互いが生計を立てるために、かけがいのない存在である場合は、離婚率がずっと低いと言う。
その典型が農家である。収穫するのは男性だが、収穫したものを加工するのは女性の役割であった。
産業革命以前の欧州で、離婚率が低い原因の一つである。
また、11世紀に結婚が典礼に加えられたことで、欧州での離婚率は、一部の地域で未だに低いままである。
この傾向は、産業革命後に大きな 変化を遂げた。
収入を得ている女性の場合、男性が夕食のパンを稼いでくる家庭の女性よりも、結婚の問題に対する耐性がかなり低くなる。
女性の経済力と離婚率が平行して上昇するのは、ローマ時代の例で明らかである。
結局、愛だけでは結婚生活は持たない。その他、文化的、経済的背景が大きく絡んでくる。
社会学者Martin Whyteが、アメリカのデトロイト459人の女性に質問をした結果が次にある。
- 類似した人格性質
- 同様の習慣
- 共通の興味と価値観
- 共通の自由時間の過ごし方と共通の友人
さらなる利点をWhyteは挙げている。
- 成熟した年齢での結婚
- 深く恋に落ちた事実
- 白人 (これはアメリカの統計である)
- しっかりと結ばれた家族で育った背景
これらの条件を満たさないと言うことは、リスクを抱えての結婚ということになるらしい。
さらに言えば、リスクを最小限に保つためには、相違への対処として妥協が求められる。
パートナーの一方でも、妥協する姿勢が少ない場合、離婚になる 確率が高い。
更なる点として、息子がいる家庭、就学前の子供たちがいる家庭では、離婚率がやや低く、反対に若年で結婚したカップルの大半は離婚すると言う。
母権制での離婚率も高い。これは女性が自給できるからであろう。
またポリガミー社会でも、嫉妬や男性の財産をめぐる女性間での喧嘩が多く、離婚率が高い。
イスラムなどのモノガミーでは、自分のために料理し、仕えてくれる女性を捨てると言う結果を男性が簡単に下すことは少ない。モノガミーが結婚を安定させている。
共に笑い、深いまなざしで見つめあい、恋に落ちた際の引き込まれるよう な感覚、共通の秘密、二人だけの冗談、ベッドでのすばらしい時、友人や家族と日夜一緒だったとき、二人の間の子供たち、一緒に築いた財産、多くの年月を 通して笑い、愛し、喧嘩しながら、共に体験してきた変化に飛んだ時間など…
なぜ、このようなすばらしい体験を男女は、捨ててしまうのだろうか?
おそらく、日ごとの生殖活動に勤しんでいた暗黒の過去から発展した、深遠で永遠なる生殖に尽力する力からくる、絶え間ない精神の流れが理由であろうと締めくくっている。
さて、結婚は7年目が危ないと言われているが、実際は、長年の調査でも実証されているように、 3~4年目が危険らしい。
イスラム社会での相違などは略すとして、西洋社会では結婚後4年目の離婚が一番多いそうだ。
なぜなら、恋に落 ち、愛から結婚にいたるわけであるが、その愛と言うのは、私たちのごく私的な「私」というものを補うか強化するものであり、それはおおよそ4年ぐらい続くと言う。
それで、地味な事務職が、ブロンドの派手な秘書に恋をし、女性学者が詩人と一緒になることもうなづけると言う。
また人間の子供というのは、おおよそ4年ほどで一人で歩き、食事を取り、下の世話も要らなくなる。ここで、結婚し子供を共同で育てるという基本的な仕事に、一時的に終止符が打たれることも興味深い。
生殖的に、互いにまだ最高の状態であるにもかかわらず、である。
トリスタンとイゾルデの話にもあるように、恋というのは、大体3年ぐらいで終わるものなのだろうか?
またここからは簡略して述べるが、アメリカの例では、20~24歳で結婚したカップルでは離婚率が高い。
そして、女性は4年、男性は3年ほどで再婚する率が高くなっている。
子供がいても、 生殖能力の高い20代から30代のカップルは、離婚する確率が高いという。
Fisherがこの章を締めくくっているその総括に、私は自分の過去も合わせて妙に納得してしまった。
それをここに記したい。
人間のパートナーシップを形成するモデルは、女性の経済的 自立、都市化、世俗化、オーガナイズされた結婚などの多くの種類の文化的要素に影響される。この多岐にわたる影響にもかかわらず、両性共存に関しては、幾 つかの基本法則がある。
西シベリアから南アメリカの最南端まで、男女は結婚し、多くは再び離別する。大半は結婚後4年目に離婚し、多くは離別の時点でまだ若い年齢にある。一人目の子供が誕生した後、多くの男女は別れ、また再び再婚する。
毎年毎年、10年毎、あるいは100年毎、何世紀にもわたって、この太古のシナリオを演じ続け、自分たちに価値を与え、清潔にし、色目を使い、求愛し、互いに影響し合い、征服し合う。
その後、家庭的になり生殖する。そして、また新しい愛の冒険へと飛び出していく。
結婚という港を去るのである。
生殖能力のある期間、人は救いよう のない楽観主義者であり、途方もない生き物でもあり、やっと熟年になってから落ち着くようである。
なぜか?
答えは、Fisherの見解では、「高貴な野蛮人として森の中を自由に歩き回っていた」変化に富んだ私たちの過去にあると述べている。
長くなったが、結局私の二度目の結婚の個人的背景を重ね合わせてみると:
- 生殖しなかった
- 女性側が経済的に私財に関する権利を所持していた
- 互いに生計を立てるために依存していなかった
- 女性が他の男性の子供たちを連れていた
- 子供たちが就学した後であった
- 一緒になって7年、結婚4年目で あった
といった理由がくっきりと重なる。
さらに、夫側の経済的基盤の不安定さがあり、これが更にジェンダーの転回という問題につながった。
役割分担がなかった(例えば男が稼ぎ、私が家事をするといった分担)
さらに、私の私財の一部は、以前の男性から来るものであった。
夫の社会的背景が変わり続けるため、共通の友人を保ち続けることができなかった。
などという細部のリスクが加わってきた。
どちらにせよ、現在住んでいる欧州のこの街では、伝統的な価値観はすでにその基盤を失いつつある。ジェンダーが転回し、女性の経済的自立は、当然のこととなり、離別を繰り返す例が多くなり、それぞれ違う父親を持つ子供を三人抱える例も珍しくない。従って少子化の問題が増加する。
女性の経済的自立と共に、共同で子供たちを育てる契約をしないカップルが多くなり、子供を作らないと言う選択が 増えた。
以前、有名な女性ジャーナリストが、彼女の本で述べていたことであるが、
「ヒトラーの第三共和国時代のように、 女性もHERD(直訳はレンジ、比喩は家庭)に帰れ」
と言って顰蹙を買い、文字通りメディアから抹消されたという事実がある。
しかし伝統は悪くない。一理あると思う。
- 役割分担がある
- 経済的に依存しあっている
- 子供は二人まで
- 成熟してから結婚する
- 共通の文化的背景を持つ
あまり進歩進歩と言って、 ジェンダーがあいまいになるのは、人間の生殖危機につながるというのもまんざら嘘ではないだろう。
私の現夫は、こうした安定した、つまり静止状態の生活のことをボヘミアンさながら
「超退屈で、軽蔑に値する」と豪語していた。
私がそのような生活を望むことに、非常に落胆させられたと言う。
しかし、それは結婚という枠に収まるには、あまりにもリスキーな生き方である。
結局夫は、森をさ迷い歩く人間本能を実現し続けているのだ。
決 して悪くない。
本能を生きるとは、エネルギッシュであり、変化に富み、新しいことが生まれる可能性がずっと高い。
しかし、私は子供を持つ親。しかも、三人というハイリスクな女性である。
スタティックな生き方を望むのは、自己防御なのである。
結局、この相違 と、私が糧を稼がずに帰宅するくせに、口だけは大きく、計画倒れである夫の男としてのプライドを大きく傷つけたことが直接の理由だろうと思われる。
彼は、今までもわりとすんなり、そして突然別れてしまう。
ぐずぐずと対策を練って、苦しい時を潜り抜けないのである。
それは、プライドの高い男のざっくりとした決断力であり、彼の自己防御でもある。
結局私達は、Fisherの言及しているモデルにすっぱりと納まる、凡人カップルであった。
それが、不思議と大きな慰めである。
私 の生殖年齢は、近い将来没になる。
で、いよいよ彼女の説によれば、落ち着くらしい。
いい加減、シャーマン的に静かに人の問題でも転がして生きていきたいと思う今日この頃。
しかし、私の無意識の[ICH]は、すでにうごめき始めている。
生殖能力のある人間の「救いようのない楽観主義」と言う点では、私も訓練をつんできた。
腕があるだけに?、この先静かになるのかどうか、空恐ろしい未来である。
また、最初の夫と今の「まだ夫」との人間性は、180度反対に当たる。なぜそのような事態が起きたのかと考えると、これもまた思い当たる節があるのだが、また後日書いてみようと思う。
2010年4月6日火曜日
フアナの狂気
今日考えたことは、正常と異常の境目は当然つながっていて、その線は曖昧だということ。フアナの本を読んでいても、彼女が病理学的に異常、つまり二大精神病である、総合失調症や躁うつ病だというには資料も少ないが、言い切れないわけで、症状もボーダーライン上にあるという気がしてならない。
そもそもボーダーラインと呼ばれる性格、性質があるように、人間は誰しも正常な部分と異常な部分を持ち合わせている。
私は医者でもなければ、いかなる専門家でもないので、これについて語ることはできない。そういうのは専門書を読めばいい。
ただフアナの本を読みつつ思ったのは、嫉妬する女は怖いとか、嫉妬は愛情の形とか、嫉妬深いとか嫉妬心というのが、大問題になっているけれど、嫉妬心は性格特性だけによるものじゃないと思う。
状況によって、嫉妬心が強くでてくることもあるのは、誰でも知っていることだと思うけれど、私の個人的体験では、様々な要因が重なって嫉妬心が煽られることがあると実感する。
まず、本人自身のコンプレックスの度合い。コンプレックスを持たない人間はいないが、そのコンプレックスが強いと、自信のよりどころが不安定である。なので、ちょっとした変化や出来事は、割りと簡単にその閾値を越えて、ストレス状態を生み出してしまうことがある。こうなると嫉妬はストレスによって左右されるとも言えるのではないか。
そしてその変化や出来事は、おそらく第三者や環境によってもたらされる。
何を仮定したいかと言えば、世の中には、もちろん故意にではなくとも、相手をヤキモキさせて常にストレス状態の閾値あたりに縛り付けておくような行動があるのではということ。
これも個人的体験によるものであるが、当人はあっけらかんとしてるが、果てしない灰色状況を保ち、信頼関係を築こうと努力はしてくれるものの、そのコミュニケーションに本人の魂が宿っているのかどうか、どうひっくり返しても分からないという場合。
何度慰められて、何度信じてくれと言われても、魂の宿らない言葉は、神経のむき出しのセンサーのようになったストレス下の嫉妬心には、あまり効き目がない。
もっと酷いのは、相手自身の行動が神経症じみていて、さまざまな人格を操るかのように複数の仮面で接してくる場合。
ある日は愛情深く、本人も愛していると信じて疑わないので、こちらも100パーセント心を開いてしまう。開かざるを得ないような正直さで、真摯に愛されるのである。つまり、こちらは傷つきやすい面を相手に委ねていることになる。
ところが、予想できないきっかけにより、相手はいつ豹変するか分からないことから、ストレス状態への閾値にいるという緊張感は、一向に変わらない。
そして、文字通り、昨日あれだけ愛されていたはずが、今日は罵倒され傷つけられ責められるといったことが起きる。こちらは、言い返すも元々通りが通っていない相手の行動である。道理で勝負すること自体が無意味と言うストレス。
つまり、このような態度をとられると、売り言葉を買えば大喧嘩になり傷つけあい、売り言葉を買わずに相手の言葉に迎合すれば、お前は本当は聞き流していると罵倒され、無視すればどの部屋までもどんなところまでも追いかけてきて放してくれないという事態になるのである。
よって、相手がこうなると、うずくまって耳をふさいでいようとも、嵐は必ずやってくるのであって、売り言葉を買おうが買うまいが、そのストレスの度合いはどれをとっても同じと言う結果。
こういう相手の行動を私は、精神的テロ行為だと位置づけているが、こういう男性と例えば何年も生きていると、一体どちらの言い分が正論を述べており、健全であるか分からなくなってくることがある。
正常と異常の境目は、完全に煙にまかれてしまうのだ。
フアナは、アンテナのように繊細な心を持ち、不安感を抱え、政治的にも社会的にも若くして過剰な役割を担ったと言うストレスがかかっていた。そして言葉の分からないブリュッセルに嫁ぎ、夫フィリップだけが頼りであったが、このいわゆる浮気者で有名な王子は、おそらくフアナの情熱的で不安定な性格に疲労したのもそうであろうが、当人自体の行動も、大いに灰色ゾーンに包まれた上、彼女に対して熱くそして冷たく当たり、約束をし、それを破りと言う行為を続けたに違いない。さらに政治的な権謀数述が関わってきて、信頼関係の土台は崩れ去ったにもかかわらず、彼らは殆ど最後まで、男女としての交わりは止めなかったのである。
狂女として彼女を知り、狂女として何世紀も有名になってしまった彼女についてより多く知ったとき、私は非常に悲しくなった。何日も何週間も、悲しみに明け暮れて、彼女の生きた世界から抜け出すことができなかったことを覚えている。
当時、私は近世の死者のミサやMemoriaについて勉強していたので、死者が現存するものとしてごく当然に扱われていた当時の世界観に浸りきっていたともいえる。その中で、夫の遺志を遂げるべく、棺桶を引きずりながらスペインの乾いた国土を厳冬の中グラナダを目指し、さまよい続けていたフアナの姿を思い浮かべると、これが原因で狂女と言われたけれど、やはり納得がいかない気持ちで一杯になった。
彼女は、常に想像を絶するストレスに曝され、ストレス症状(現代ではパニック症候群やノイローゼといった神経症)を発し、それが唯一甘えの対象、頼りの対象であったフィリップへの嫉妬心として向けられた。しかし、実はこのフィリップ自身が、彼女の嫉妬心を静めるべく術を知らず、精一杯の愛を持ってなだめても、彼女の深く繊細な心の奥までは到達できず、彼女にとっては灰色の答えでしかなかったり、また彼自身の行動の支離滅裂さが、一層嫉妬心を強めてしまったと言う結果になったとも言えるのではないか。
何故今、またフアナに舞い戻って 考えているのか、私自身の中にある原因はわからない。
けれど、正常も異常も、私はそんなことどうだって良いと今日考えた。
病理としての精神病が発見されたなら、薬を飲んで治療する必要があるが、そんな症例は少ないだろう。
今日、ツイッターである方が、「そういう精神病患者は一目見ればわかる、フアナの場合は、精神病ではなかった。環境がそうした。私の感がそう言う。」と返事を下さった。
おそらく医師であろうと思うが、ずっしりと信頼できる言葉であった。
フアナをみても、現代の医師は、おそらく神経症と診断するのではないか。
そして、神経症なら、私達皆、多かれ少なかれ神経症であるということは、間違えない。
今日の思考は、こんなところであった。
2010年4月3日土曜日
悲劇の循環に自ら入ってゆくこと
Ci sono porte, lucchetti, finestre, imposte e cancelli fra noi.
Io li ho chiusi tutti, e sull’ultimo mi sono appoggiata - sono rimasta ad aspettarti per troppi giorni.
Ora ho gettato per terra le chiavi e ho voltato le spalle.
Devo solo iniziare a camminare di fronte a me, lontano da te.
Ti ho lasciato andare, non è amore anche questo?
私は一歩前に歩みださなくては
あなたからは遠いところへ
あなたを解放したわ
これだって愛とは言えない?
Starcrossedより引用
涙がボロボロとこぼれることは、今まで何度となくあった。けれど、何分間にも渡って涙が滲んでいるという状況は、今回が初めてではないだろうか。
普通は感情が高まるから涙が出るのだが、感情の方は至って冷静であるのに、まるで身体反応のように涙が滲むのだ。それも何分間にも渡って。
何のことはない。理由はいくらでも挙げることができる。
私の前夫は再婚したのだが、彼らの子供が昨晩生まれた。
今日は私の、いや私達の子供3人を連れて、彼は病院へ赤ん坊と妻を見舞いに行ったのだ。
私が、彼と別れを決心し、私が乳飲み子を含む3人を連れて一方的に家を出て来た。それを今更後悔だとかトラウマだとか、そんなセンチメンタルな言葉で嘆くつもりも愚痴るつもりもない。
事実は事実として、すでに受容してきており、涙を流したことも慰めを求めたこともあるが、今となっては全て消化してしまった現実である。
自らが選び取った能動的選択だったという一点が、私に精気を残してくれ、一歩一歩それこそ自分の足で前進する力になったのである。
しかし、前夫の今日の話は、いささか複雑な気持ちにさせるものがあった。複雑というのも正しくないかもしれない。それより実感していなかった壁を目の当たりに突きつけられ、今まで考え想像してきた未来というものが、覆されてしまうような事実を突きつけられたと言う気分だったのである。
しかし、そういう何重にも重なって横たわる問題を実感し理解するまでには、多少時間がかかるものである。それが不思議なことに、怒涛の感情となって私を襲う代わりに、身体が先に反応して静かな一縷の涙として眼を湿らせては、時折頬を伝って流れていくと言う実に意外な形として現れた。
こうして文章を書いている現在、やっと自分自身がターニングポイントに立たされていることを認識し始めたという感じである。
私と前夫は、10代の頃から知っており、始めは何の屈託もない学生同士の友情として交流していただけである。彼の異常な背景は、その後もっと親密になり時間をかけた上で知っていくことになったのだが、その当時もすでに彼の存在は特別であり、コメディの中に深く計り知れない悲しみが潜んでおり、その不安定な体つきと身のこなしから、何か特別の能力を持っていることだけは、彼を知っている人間全員が心得ていた。
何年も後、彼の崩壊した家族や育った環境を知るに連れて、その家族全体がゴーゴリの外套の主人公、アカーキエフ・アカーキエビッチ、またはドストエフスキーの貧しき人々の主人公、マカール・ヂェーヴシキンにつながるような悲劇が潜んでいることを発見する。
誰よりも清い、いや無垢な魂を持った人々が、清貧な人生の中で自分を幸福だと言い切る謙虚さを持って、その生き様を肯定する。しかしその無垢さゆえ、まるで黒い穴がぽっかりその一家の中心に開いているかのように、次から次へと難題や不幸が容赦なくのしかかってくるのである。キリスト教的に言えば、まるヨブの話のように、何故彼らにという疑問が残る。
無垢は愚鈍だという人間もおり、貧乏が自業自得という人種もいる世の中である。
その世の中にあって、このような魂を持った者達は、一様に孤独感を募らせてゆく。さらに、孤独を骨の髄まで味わった者達は、それだからこそ、たとえ常軌を逸した形でも、愛さずにはいられない人々なのである。
彼の育ちとその家族は、あまりにも深い悲劇性、つまり本人達にはこれ以上の幸福はないと認識されるような、悲劇的な清貧と謙遜によって、同じ空間にいるだけでも心が苦しくなり、悲しみのあまり泣き出してしまいそうな窒息感を感じざるを得ない。
そういう彼との関係は、言葉の会話も要らないほど、底深い次元でつながっているという実感が伴うものであった。 友情が博愛になり、それが気がついたら互いの献身につながっていたのである。しかし、アカーキエビッチもヂェーヴシキンも決してその人生で報われることはなかった。まるでそれが法則であるかのように、正直と清らかさは、まったく誰の目にも気付かれないまま忘れ去られ、その中心にある愚鈍という黒い穴に、渦を巻くように不幸が襲ってくるばかりなのである。
それと同じように、私達のように無垢だが無謀で無知な若者2人の間には、ありとあらゆる無理難題が襲ってきたのである。
そして、彼の芸術家としての社会的成功が大きくなるに連れ、彼はサタンと聖者が同居したような複雑さを見せ、予想のつかない状況で、予想のつかないきっかけにより、予想のつかない度合いで、人格を変えていったのである。
しかし、問題が降りかかると言うのは、ドラマ性があり、2人の人間の間の色づけとさえ言えるのが、若者の人生である。無知のおかげで大人であればさっさと切りをつけたろう、同じパターンの関係構図を繰り返し繰り返し描き出し、同じ過ちを犯し、一切向上を見せないコミュニケーションを取っていた。
それだから愛ではなかったとは言いたくない。紛れもなく愛であったのだ。だからこそ、こうして終わりを告げてしまった。
しかし、関係は終わりを迎えても、時とは恐ろしいもので、嫌悪や怒りが消えてしまうと、残るのは愛の断片や、美化された相手への親近感なのである。
私は再婚し、また別れを遂げると言う一連のストーリを終え、彼は私を取り戻そうと、ヂェーヴシキンがワーリンカの乗った馬車を追いかける、あのみっともない場面にそっくりなやり方で、様々な努力をしたが、おろかな私は俗物のような相手にすがりついたままであった。
何故、俗物が良かったのか。俗物には、安定感があった。しかし私がその年月で学び得たことは、一見効率的で有能に見える俗物こそ、愚鈍で無神経であるという事実である。半ばそれに耐えられなくなった私は、ましても独り者になり、その魂の自由を味わい、金輪際、能動的な愛の行為のない生き方はやめると自らに誓いを立てたのである。
そして、彼は私を取り返すことができないとわかると、運命のように自分の弟子と再婚し、第2の人生を始めたのである。
よく思うのは、自ら関係を断ち切って離婚に踏み出すのは女性が圧倒的に多い。しかし、別れられた男性のほ方が意外にもその後新しい連れ合いを見つけ、長いこと幸せに寄り添い続ける。一方当事者の女性の方は、次々と相手にめぐり合うが一向に幸せになれないという例を多く見受ける。
私の場合もその例に漏れず、苦しんだ彼の方がむしろ近道で新たなる人生で成功し、先にスタートを切ったはずの私は、未だに宙ぶらりんであるという事実である。
今日、彼は病院から子供達を連れて帰り、ひとしきりその場の話をしてから、さらにもう1つの話をした。
彼の率いていたオーケストラを彼が去ったのは何年か前である。中庸なキャラクターと政治的活動という義務に嫌気が差して去ったのであるが、そのスポンサーがハウスコンサートに彼を招き、その後に彼の一切の活動を支持すると宣言したと言う。
もちろん彼は大学に教授職もある身なので、何の苦労もないのであるが、自分でオケを作ったり、大学を作ったりするようなことには携われない。それをその紳士がパトロンになってスポンサーになるというのである。
この話は具体化し、この秋ごろイタリアに行って広大な敷地とヴィラを買い、そこに前夫一家を住まわせ、将来は、夫の願いであった故郷イタリアで、他に例を見ないポストグラデュエート的な高等教育機関を設立すると言うのである。
彼が若かりし頃から、伝説に残るような成功をしてきたことは自覚していた。が、成功を断り、メディアを軽蔑して関わらず、ことごとく宣伝しない人物であったため、世間の俗物さながらのソリストとは、全くかけ離れた位置にいたわけである。
それが私と離婚して10年後、このような展開を見せて彼は故郷へ帰り、ヴィラに住まうことになり、新しい妻との間に立った今子供が生まれ、まさに前途洋洋、やっと家族の中でただ一人、新星と呼ばれたこの男には、悲劇の循環から抜け出せる兆しが見えてきたのである。これはある意味、大変なことだと思う。
その話を聞かされた私は、俗人そのものである。自分を不幸だとは思ったことがない。苦しんでいることは、むしろ力を試されているような気持ちがして、どんなことにも挑んできた。よって、それなりの自信も持っているのである。だから彼とその新しい妻を妬ましいと思っているとは言い切れない。
ただ、私は私の「あれからの人生」と、彼の「あれからの人生」に、取り返しが付かないほど大きな距離ができてしまっているのをまざまざと見せ付けられたことに傷ついているのである。
一つ録音が終われば、私のところに駆けつけて、ワインを飲みながら、これは君に捧げたものだと言い、その目に涙をためるのである。
彼の人生の中で、大きな転機となった局面では、私に一先に電話をしてきて、電話口で泣き崩れたのである。
時々夕食を共にすれば、手を取り合って見つめあい、若かっただけだ、若さがいけなかっただけだと繰り返し、互いにオイオイと泣くのである。
そうして10年間過ごしてきて、妻がいようとも私に夫なるものがいようとも、私たち2人にはまったく問題にならない、いや眼中に入らないほど、その絆はまるで家族、兄弟のように強いと言う信頼感があったのである。
実は、私がこの地で歯を食いしばって自立のために力を尽くしたのも、日本に帰国しないと言い切ってきたのも、実は全ては夫どころではない、彼のためであったと薄々認めてはいたが、今晩はそれが自分の目の前に暴かれたのである。
彼の未来には私の居場所はなく、彼の赤ん坊に興味を持てない自分は、おそらく妬んでいるのではなく、実はまだつながっているようで、まったく違った線路の上にいたとはっと気がついたのである。
彼は国家公務員なので、将来の心配は一切ない。
私は、3人の子供達を抱え、外国人、母子家庭、フリーランスという傍から見たら三重苦の不安と問題に溢れる地位である。
確かに私には、これから思春期の子供たちと自分の老後、日本の両親、自分の更年期と、ろくでもない現実的な問題に曝されている。それは安定し、保証された彼の生活とはあまりにも違うものであり、まったく違った種類の緊張感に溢れている。
彼の妻に至っては、私とはまったく違う絨毯の上にいるのである。彼女に、この緊張感はないだろうし、この不安感はないのではないか。
はっきり言ってしまえば、苦労している私には、このような華々しい幸福を喜べない。なぜならその差異を見せ付けられるだけであり、ねたみたくないと言う良心との葛藤が起き、さらには想像のできない世界だからなのである。
一軒のアパートも買えない人間に、ヴィラに住むだろうから、君もいつでもくればいい、良ければ一緒に移住すればよいと言われたところで、冒頭のように、麻痺した感情の下、涙がただにじむだけなのである。
けれど、私はこれでも何も後悔していないし、惨めだと実感することもできない。
私は自分が精神病院に入るのを防ぐために出てきた。結婚を救うために血を吐くような努力をし、全てを試みてもダメだったという確信があったから出てこれた。
それよりも、何の打算をすることもなく離婚を決心し、社会的地位や経済的恩恵などの一切を投げ捨てても、自分で自分の足で歩こうと決意し、今もそれをほぼ守り通していることに、少しは誇りも抱いているのである。
自立も離婚も、女性には勧めたくない。
女性を早く年取らせるおそれがあるが、それは本来生物学的に、このような生き方が女性の自然と逆を行くからなのである。
私は、逃げてでてきた。つまり選択も何も、それ以外の道が他になかったから出てきたのである。どうじゃなければ、離婚など選ぶものではない。
けれど、いったんこの線路を歩みだしたからには、惨めだと思ったこともないし、ここまで来れた事を神に感謝したいほどである。
周囲に同情を買うような私の人生状況であるが、それを私自身は、幸せを毎日実感でき、自分で歩んで行かれることに感謝さえすれど、後悔したことはないと言い切るあたり、だんだんアカーキエビッチやヂェーヴシキンに似てきたとさえ思える。
あのような種類の愚鈍さを身につけだしたのである。
それを証明するかのように、身の回りには黒い穴を巡り、問題が山積である。もはや私のまいた種ではない問題まで、私の人生に足を突っ込みだしている。
しかし彼のような人間、いや私の今でも愛している前夫が、あの悲劇の循環から抜け出すことで、本当の社会的な成功を手にし、清貧を通し、世俗を拒否し続けたからこそ、このような褒美が転がり込むのであると思えば、私は自ら好んでこの悲劇の循環に変わりに入ってもよいと思うのである。
愚鈍だからこそ、悲劇の中でも生き生きとし、人を愛せるような立場になくても、深い謙遜を持って、人に献身できるのである。
本当のヒューマニズムは、やはり宗教とは切り離せないものである。
今後は、あの人々が味わったようなどん底の孤独感が、断片的に私を襲うだろう。でも、私は違う線路に乗ってしまった前夫を心の支えに生きていくことをそろそろ止めなくてはいけないのである。それには、孤独を味わい味わいつくして他を愛せざるを得ない状況に陥るしかない。
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