ラベル 日録 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 日録 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012年5月11日金曜日

あそこへ、本当にいたのだが…

夢だった。
夢らしくない夢だった。
生々しくて、それが現実と区別がつかず、重苦しい空気で目を覚ましたが、目元に手をあてても涙は出ていなかった。

私はどこにいたのだろう。その少し前まで、どこにいたのかわからない。
けれど、常にガラスを通してその向こうの世界で起こっていることを眺めているといった感覚である。
または、あの昔のガラスのまるっこい金魚ばちの中から、水とガラスを通してゆがんだ世界を見ているような感覚でもある。

いや、私は紛れもなく、私の育った家の前にいた。
どういうわけか、私は大谷石の石塀を超えて勝手口の前にしゃがんでいた。
子供の頃、いつも隠れて遊んでいた場所である。
勝手口の扉と石塀の間には水撒き用の蛇口があり、ままごとをするなどにも便利であった。
また階段を下りると車庫へつながっており、自転車で帰宅したり、一家で帰宅しても玄関口まで必ず通る一角であった。

その周辺の大谷石にも車庫側の壁にも、20年以上が経ったころ、コケが生えてきた。水撒きや気候のせいであろう。

私はそこにしゃがんでいた。そして寄りかかっていた車庫の階段の壁にあてた手に緑色のコケが触れたのである。反対側には、大谷石の前に植え込んである杉の木に触れることができる。
あまりの現実感に、私は壁をたたいた。いつもの冷たいコンクリートの感触で、コツコツとした硬い手応えがあった。
うそでしょう?
左の手で杉の木に触れると、ざらざらとした感触が手の中に残った。
全てが現実なのだった。

信じられずにしゃがみこんでいると、母が帰宅する気配がする。石塀の向こうを、母が外出先から鼻歌交じりに歩いているのだ。

しばらくすると、トントンと玄関口への階段を上がる音がする。間もなく門が開く。私は勝手口の前から塀伝いに玄関口の前にしゃがんでいた。
母が目の前を通る。
目の前の母の足が私には見えるのである。
私はしゃがんでいるから、彼女の全体像は見えない。けれど、彼女の良く知った足が見慣れた靴を履いて目の前を歩いていた。

なぜ私は彼女の目に入らないのだろうか?
私はここにいるのよ!

その時鍵を探し出していた母が、明るい声で独り言を言う。
「あ~ら、誰が帰ってきたのかしら?誰がそこにいるの?」
そう言うと、家族を待たせたのではないかと、彼女は急ぎ足で扉を開けて家の中に入ってしまった。
ドアが目の前でばたりと閉まる。

私はしゃがんだまま、また無人となった玄関口の前の空間を見つめていた。
母には、私のことは見えなかった。
けれど、誰か家族の気配は感じ取っていたのだ。
私は、 9000キロ離れた場所にいる。今も夢を見る前と変わらずにここにいる。
けれど、私は確かに「あそこ」にいたのである。
現に、壁や木に触っていたはずである。夢の中で疑い、何度も壁をたたいたはずである。

けれど、私の身体は、やはりここにあったのだ。その証拠に、私のことを誰も見ることはできなかった。
私だけが、身体を失くした目で、あそこを見てきただけなのである。
その孤独感は、口では言い表せない。
その疎外感は、寂しいなどという言葉も当てはまらなく、どう表現していいのかわからない。

私は彼らの実態のある生活には存在しておらず、彼らの心の中にしか存在していないのである。
そして、私にとっても彼らは心の中でしか交流できず、それで十分だけれど、私がそこにいたのに、見えないので通り過ぎられてしまうことは、何かを比喩しているようで、悲しいのだった。

そこにしゃがみこんだまま、私は泣き出した。
悲しみというのもあったけれど、そこに本当にいたのだという現実感に感動していたというのもある。私は本当に帰国していたのだ。その深い驚きと、心だけならば動けるのだという確信に、震えるようにして泣いた。

けれども、その後目を覚ました私は泣いていなかった。所詮夢だったのだ。


夢の中で見た母は、今よりもずっと若かった。
ストッキングを履いて、形の良いふくらはぎを懐かしく思った。ベージュのスカートの上には黒いニットを着ており、茶色い革の大きなショッピングバッグを持っていた。
きっと私と同じぐらいの年齢だったのだ。
きっと私は10歳ぐらいだったのだ。

玄関の戸口で、縄跳びやボール遊びをして、時々大谷石の塀から身を乗り出して母が駅の方から歩いてくるのを待っていた。そうでなければ、母の車のエンジンが聞こえるのを耳を澄まして待っていた。
その玄関口では、チョークでよく落書きもした。母のハイヒールを履いて、トコトコと歩き回ったりもした。
これでも内気だった私は、友達と約束していなければ、外の通りで遊ぶことができず、家の敷地内の色々な場所でままごとをしていた。
家の前は遊び場道路といって、5時までは居住者以外車が通れなかったのにである。

ドイツのDCTPというテレビ制作会社の番組で多和田葉子のインタビューを聞いた時、彼女が自分の魂をシベリアのどこかで失ったきり、見つかっていない。というようなことを述べていたのをはっきりと覚えている。
身体的にはここにいるけれど、私の魂は、気体のように浮遊しているはず、というのである。

その言葉を聞いたとき、私自身の中に長年抱いていた気持ちとぴったりと一致し、やはりそうか、という思いを持ったのを覚えている。

身体と「魂」は独自の動きをとることがある。
それで、私が身体を失った目で、どこかに飛んでいかれるというのは現実であるとしか言いようがない。私は今まで少なくとも3回は、このような現実感を体験しているのである。

しかしどうしてもできないことは、「今」という時間の中で「そこ」へ行くことである。
それだけは、どうしてもできないけれど、彼らやあの場所に「出会う」ことは、身体がなくてもできる。それは望んで望んでかなうことではないけれど、ある日突然私はそこへ行き、彼らに出会い、その場所に触れ、大きく心を動かされて、またここに戻ってくるのであった。

不思議であるが、そのたびに心は満たされる。




2012年5月4日金曜日

揺れるカーテンの向こう

今週、新しいソフトウェアを使った翻訳案件が入り、翻訳者を探すのにひときわ苦労した。おまけにゴールデンウィークとやらで、日本は殆ど機能せず、日本在住の訳者の方々とは、ほぼ連絡を取れなかった。

大きなプロジェクトは2つあったのだが、 その1つ目の訳者が見つかった時は、本当に礼を述べたいほどだった。

彼女のことは、翻訳者の特別ポータルで見つけたのだが、プロフィール写真がなかなか良いのだ。
きっと私よりも若干年上なのかもしれないけれど、翻訳者や通訳者に多いキリキリカリカリしたイメージはゼロで、優しく信頼のおけそうな顔写真である。
背景はもちろん殆ど見えないのだが、それでもその写真がおそらく彼女の書斎で撮られたものであることには間違えない。

白い半透明のカーテンを通して、美しいペルシャ絨毯の敷かれた部屋にほんのりと光が差し込んでいる。壁に備え付けられた重厚な本棚にはたくさんの辞書などが収められ、その向こうには葉の大きな観葉植物が置かれていた。それはいかにも市民的な、いや小市民的とさえ言えるものだった。

この小さな写真を見たのは一瞬である。仕事中なので、別にじっくり見るわけもない。
しかし今朝、もう一度彼女の情報を確かめにプロフィールを閲覧し、もう一度写真を目にした。
一瞬なのであるが、私の心の中に、安定した家庭、安定した環境、安定した心情という言葉が、その写真の背景に思い浮かび、彼女はおそらく驚くほど規則的に生活し、忙しさを理由にもせず、毎日夫(彼女の苗字は日本名ではない)や家族のために、色とりどりの食事を用意しているだろうと想像をめぐらせた。小市民的という批判に満ちた私の言葉の中には、まるで自分の奥深くに隠しがたい小市民の幸せという過去を持っているかのように、このような憧れがあったのである。

その途端に、私の一生工事現場のような人生に疲労を感じ、自分のいかにも掃除の行き届いていない部屋を見て失望し、自分の書斎のカオス状態に恥じ入ってしまった。

いつまで経っても、仮の住まいに、仮の人生のようである。
彼女のようなどっしりとした安定感は、私の写真にはあろうはずもない。



彼女の経歴も輝かしく、東京で1、2を争う一流の女子大の英文科を出て、アメリカの大学に留学し、専門的翻訳学科でマスターを取得し、立派な職歴の後に、どこかで知り合ったご主人の故郷に移り住んで、今まで翻訳家として活躍したことがうかがえる。

私のように、そこらへんに転がっていた仕事をやりながら、本当に学んだことや本当に取得した卒業証書とは、どれも似つかぬ仕事についていると言う支離滅裂振りではない。

激しく心細さを覚え、夏前には辞めようかなと、いよいよ本格的に思い直している仕事に、今日も重い心持で出かけていくのである。

柔らかな風にふわりとゆれる美しい白いカーテンのある部屋で、整然とした仕事場を前に、仕事をしつつ、状況はまったく安定して揺るぎのない達成感がある、というシナリオに目を細めて憧れを抱くが、今ある私の現実こそ、私の求めていたものなのである。ないものねだりは、逃避でしかない。
今日も、明日も、自分の尻をたたきながら、何とかやっていきます。


2011年12月27日火曜日

娘は居残った


よりによって、娘が風邪をこじらせ、明日からの父一家とのイタリア訪問を断念し、私と二人きりで家にいる。よりによって、娘である。
夕食後、息子達を送り届けた後、仕方なく救急薬局へ車を走らせ、副鼻腔炎の薬と痛み止めを買って帰宅した。カプセルを飲めないと泣き崩れる娘を見て、なんとも手のかかる子だなと思うが、病気故に我慢を重ねて、砂糖にカプセルの中身のジェルを含ませて頓服させた。

痛み止めを飲めばもっと酷くなるといい、自室にはクモがいるから寝たくないと泣き叫び、うんうんうなって、それは面倒な患者である。しかし、その姿は具合が悪そうで確かに哀れでもある。親としても義務感が押し寄せて来て、おかゆやヨーグルト等を与え、ホットドリンク形式の痛み止めを飲ませ、ゴミ置き場と化したベッド周囲をマスクと手袋で掃除し、クモ退治も報告したところで、ようやく収まって来た。

母親を独り占めした上で、あれもこれもやって欲しい。普段はその異常なる依存度が、私をイラつかせ、何もしてやるまいという気持ちにさせたのだが、こうして何から何まで面倒を見ていると、結構静かになるものなのだ。
しかし、感謝の気持ちや自立心があるから、少しは一人でやろうと思うだろうとか、これだけやれば、いずれは気が済むだろうなどという考えはまだまだ甘い。何年も依存を続け、なんでもやってくれるという証明をかき集めなければ、彼女は自立できないであろうし、あるいは一生証拠や証明が足りず、信じられず、欠乏感と喪失恐怖から、依存が終わらないかもしれない。

どちらにせよ、人間大人になった子供の世話をすることはできないし、それは自立を妨げるのだから、勝負は今だけだろう。

最近の娘の弱り方は、それでも包囲の壁が崩れたと見ることもできる。何かを立て直すチャンスであるかもしれない。このよりによって娘が病気で年末の私の唯一の休暇に居残った、ということは、どこかで偶然ではないのかもしれない。注意深く見守らなければならないだろう。

2011年12月22日木曜日

告解

午後、上司は北ドイツはニーダーザクセンの故郷へ向かうため早退した。
今週に入って以来、朝の通勤時間帯の渋滞が激減して、30分もかからないうちにオフィスに到着してしまう。皆故郷へ帰ってしまい、東ベルリンの都心に当たる部分には如何にベルリン人が住んでいないのかを実感する。

去年は深い雪につつまれて、車を動かすどころではなかった。どのスーパーにも雪かきスコップが売り切れで、仕舞にスコップを買いに出かける車を出せなくなり、一歩あるけば滑って転ぶような天候の中、アマゾンの特急便でスコップを購入し、二時間あまり車の周りを掘り起こし、それでも発車しないので、玄関のフットマットをタイヤの下に敷いて、発進し、また敷き直して進みということをして、駐車スペースから出たのを覚えている。
こつは、とにかくはまり込むような駐車スペースに入らないことだけだった。

今年は驚くような暖冬で、一度ボタン雪が降ったきり、白い雪は目にしていない。
そのせいかクリスマスというような実感が今ひとつ涌かないのだ。

今朝オフィスに出勤すると、デスクの上に大きな箱が置いてあった。
会社からだと言いつつ、上司と一人の同僚が私に贈り物を用意していてくれたのだ。
チョコレートと赤白ワインを組み合わせたパックで、非常に上品でシャレていた。私がワイン好きで、チョコレートと赤ワインをデザートにするなどという無駄話を覚えていたらしい。

ありがたいことに、この忙しいさなか、私も二人のプレゼントは用意してあったので良かった。一人にはオーディオブックと純粋なホットチョコレートを。上司にはキッシンジャーの書いた新刊本と手に入らないと嘆いていたトワイニングの紅茶をプレゼントした。
頂いた物に見合わないようなもので、申し訳ないと思いつつ、でもお互いにそれぞれの存在を大切にしているのだということが同時に伝わって来て、とても心温まった。

上司が消え去った後、私と向かい合わせに座っている同僚と話し込んでしまった。
彼と私は非常に馬が合う。ついつい話し込んでしまうのだ。
娘との電話での会話を聞かれると、必ずあまりにも冷たい、あれじゃコミュニケーション拒否だよと説教される。

何故、コミュニケーションを拒否することが互いの狂気を回避することに繋がるか、そんなことを説明するのは、家族の裏を明かすことで、娘を裏切るような気もするし、言い逃れのような気もして来る。そう思ってついつい、事情があるのよと口を濁していた。

それでも、もう何ヶ月も向かい合わせに座り、仕事をして、食事をしていると、そうでなくても感性が似ている物同士、色々と分かってくる物なのだ。娘の話題を避けている私から、一言でも何かその日の娘との電話ややり取りについて聞き出すのが彼は天才的に上手い。そうして、今日も一言、昨日も一言、とやっている間に、彼の頭の中の想像が形になってきたらしい。

今日はそのことで始まり、それが世代を超えているある一家の運命として、またはある才能が独立して存在しているかのような「引き継ぎ」があるのだという話にまで至った。私の話は、全く具体性に欠けていて、始終、その出来事や今の道のりが、どこからやって来て、どこへ向かって行くのか、ということ以外語れない。

才能を引き継ぐことは素晴らしいと言う。誰しも、素晴らしい才能にあやかりたいと願い、子供にそれを継承させたいとも思うらしい。
しかし、私には才能というものをそんなに簡単には捉えられない。
人の心を揺さぶるような才能の裏には、必ずコインの裏のように、暗い部分が潜んでいる。その暗い人の目には触れない、所謂ネガティブな部分を一緒に背負う覚悟がなければ、才能等に手を触れてはいけないのである。
世間の求めている才能というののではなく、個人が個人の何かを削ってでも投入し続ける、人にはまねのできない集中力と熱中力で紡ぎ出される何かのことを言おうとしているのだが、上手くは表現できない。

才能の隣に立つというのは、才能から湧き出るカリスマ性に巻き込まれずに、自分をも失わずに、凛と立ち続けていられる強さがなければ、食われて終わりなのである。
そのことを私は一度も問うことなく、世代にまで及ぶような家族の運命とも言える重い物を背負った才能と生きることを引き受けてしまった。

そして、離婚しても、男女の関係を終焉させても、その関係性は一生消えないのである。物の見事に、私達の子供達の世代ににもその黒々しい運命は、人も驚くような才能らしき物と共に、娘の中に引き継がれ、顔を出す機を狙って私の背後に差し迫っていたのである。
そして今、私は夫とは解決できなかった、自分の絶対的な弱さを娘との間に実感せざるを得ないという自体に陥り、苦しんでいるのだが、これも何も、才能という目眩く毒素に身を委ねてしまった過去の残骸なのである。

私の人生が私に何を求めているか分からないけれど、終わっていない、それだけは分かる、それどころか、今始まりのゴングが鳴ったばかりという気すらする。

何を話していたか忘れたが、おそらく世代を超えて引き継がれる才能という正の物の裏には、必ず負がついて回る、それに関する責任を持つ覚悟もなく、才能をある人に勝手に惹かれて、毒された自分の未熟さをせめていたりしたのかもしれない。

私の話術は、決して上手いわけではない。それでも突然同僚が、君の話を聞いていると鳥肌が立つ、と言った。
私は嬉しいとは思わなかった。それよりも、ああ聞いてくれたんだ、共感を持って、この人はこのつまらない超個人的な話を聞いていてくれたんだと言う感謝が涌いて来た。

外は暗くなり、お互いに家路につこうと荷物を鞄をにまとめた。
静かな空気が流れていた。彼は何かに心を打たれ、私も何かに心を打たれていた。
あの人は、私の心に触れることが自然にできるのだ。そして、なかなか大切な話こそ他人には語らない私に、大切な話だけを語らせることができる。
そして、私は知らない間に控えめだが正直に語ってしまう。そして私は、確実に何かに心を動かされ、深い胸の内で、その感動を味わっているのだ。

一目につかないところで、誰からも切り離されて、たったひとりぼっちだと感じながら、毎日毎日子供の顔を見て、色々な出来事を乗り越えて、私なりに私の持っている家庭を守ろうとしている、そう言うつまらない、話題にするに値しない人の生き方に耳を傾けてくれた、その嘘の一切ない素直な態度に心を打たれたのである。

毎日仕事の合間に、電話でなんだって?と嫌みなく聞かれ、私もたった5言で、娘がこんな馬鹿なこと言って、信じられない、あの子の自分勝手は許せない、と言うと、必ず彼は、それにしてもあんな存在拒否のような声で言わなくても、と相づちを打つ。そんなことを繰り返しているうちに、私は何故か、どこかで緊迫した彼女への思いに、すっとすきま風が入って来たのを感じるようになっていたのだ。
それが私を救っていた。

何故彼が今日、こんな話に心打たれたのかは分からない。単に、私の生きる姿に小さな一生懸命さを見たのかもしれない。そして私の話し振りが告解に聞こえたのかもしれない。

__________________

娘は風邪を引いて寝ている。
家へ帰ると、のこのこと寝室から出て来て、お腹がすいた、死にそうだ、こんな物は食べられない、どうしてもあれじゃなければ嫌だ、どうせ私が病気なのが面倒くさいんでしょ、こんな具合悪いのに、一体どこでどう過ごしたらいいの、とうのが永遠に続き、その後、母親のくせに何一つ人のためにせず、一度の私の存在を認めず、愛したこともなく、おやすみと言ったこともなければ、私を助けてくれたこと等一度もない。という行が聞こえて来る頃には、絶叫となり物が飛ぶのである。

気を許して、気安くその場を収めようと優しい言葉等吐いたら、手どころか腕も足ももぎ取って行くような勢いで、一瞬のうちに、彼女の手中に収まってしまう。ああ、ママも分かってくれた、ならコミュニケーションと言えるが、そら見ろ、認めただろうと、状況は更に悪化し、その後何ヶ月も何年も、あのとき謝ったはず、あのとき私のことも分かる、可哀想だって言ったはず、この矛盾した態度はなんだ、となじられ続けるのである。

娘さん、思春期なのよ、などという気楽な言葉は聞くに堪えないから、私は誰にもこの話はしない。あの同僚以外には。

その娘がでも、一瞬機嫌の良い何分間がある。機嫌が良いか、激怒して人をなじり倒すかどちらかしかないのだが、今日、その機嫌の良い何分間かで、突然こんなことを言ったのである。

ママの隣にずっと置いておいてもらえる赤ちゃんに戻りたいなあ。

これはショックであった。
母親の教育や家庭環境が物を言うのは周知の事実であるが、私の問題は、世代間という深さに関係し、特殊な才能を伴った子供の、母親である私の領分を超えた凄まじい存在のエネルギーとの対決という側面も、絶対に抱えているはずだと確信して来た。そしてそこに間違えはないだろう。
しかし、それでも単に「愛し直しなさい。自分を叩き直して、彼女の好きなように愛し直してあげなさい」というだけの問題である気もして来た。

そして、その声がずっとこだましている。

_______






車中、同僚との暖かい会話の余韻に浸りながら、あんなにかわいい子供達を持った私は、一体これ以上何を求めているのだろうかという一点に考えが集中してしまった。
色々ある。色々あった。色々なことで挫折し、何度も起き上がってきた中で、常に子供達は一緒にいた。いや寄り添ってくれた。
子供に救われ、子供に生かされている。そういうことを実は毎日毎日実感しなくれはいけないのは、この私なのだ。

帰宅して、一生懸命遅い夕食にした。特別なことは何もしなかったが、子供達を見てもイライラしなかった。

娘の心根の優しさは知っている。
娘は私の心根など、凍り付いていると思っているだろう。それは私だけの責任であるという気がして来た。

どう転ぶのか、どっちに行くのか、全く分からない。
自分を叩き直して、愛し直す等、絶対にやるわけがない。それは今から分かっている。私の否を認め、捧げ尽くすことで、搾取されるのはやはり心の健康には良くない。彼女にも、必ず学ぶべきことはあるのだ。
今の私には自分が真面目に必死に生きて行くことを見せるしかできない。優しい言葉も悪用されると、人間与えられなくなって行く。それは身を以て学び、自分を守らなければ、まず生きて行かれないということを知っているからこそ、今の状況では優しい言葉は与えられないのである。彼女も保身し、私も保身している。どこまでも並行線である。

同僚との向き合ったデスクが象徴するように、私は彼を鏡のように見立てて、時々、ぽつっと娘のことを呟く。初めてこの話題が公になった場だった。そのことで、私の中で何かが始動した。もう埋もれさせているばかりではだめだと。

解決も答えもない。

でも車の中で、今日もワイパー越しに見える師走の夜の喧噪を眺めながら、周りが確実に変化しつつあり、少なくとも私はずっと考え続け、ずっと対面し続けていると実感した。毎日車の中で、新たなエネルギーを絞り出し、夕食を待つ子供達の元へ帰宅している。

歌われているように食って飲んで死ぬのだ。
それまで、必死で這いつくばりながらも生き続ける。それだけの話なのだ。


2011年12月18日日曜日

発見の喜び



昨日、今日と色々なことが起こった。それはすべて私の心を深く満たすもので、神から何か贈られたような、心の奥深くから満たされるような出来事であった。

毎日飛ぶように過ぎる中、息子の主科クラスの発表に行った。最後に演奏した息子は、驚くほどに大人になっており、私が14歳の頃には決して表現できなかったような音楽を奏でていた。
練習を見ることも殆どなくなって以来、息子は毎日6時間も練習することがあり、最近の頭の中には音楽のことしかないらしい。
つい最近まで、転校する話が出るほど、音楽の練習を重ねることが苦痛だったのに、驚くような成長振りである。思春期の心の成長は、本当にだんだんとではなく、フェーズごとに突然起こるらしい。

音楽性がない、何も感じていないのではないか、体の動きが伴わない、棒吹きであるなど、散々の評価を得て、彼の心の内を少しでも知る私でさえ、この子には表現するべき何もないのではないかと疑うこともあった。
その息子が、一人前に音楽をし、それこそ一音一音、一フレーズごとへの愛情をこめて、自分なりに先生に忠実に、作曲家の目指したものを尊重しながら、本当にすばらしい演奏をしたのだった。初めて、人の心にも何か触れるものがあったらしく、たくさんのほめ言葉を頂いて、彼も努力と意思の強さを認めてもらったことに満足のようであった。
私は、何も言わずに心の中で震えるような喜びを覚え、息子が「発見」を体験したことを神に感謝したいような気持ちだった。

子供の頃、虫を探して野原を歩き回り、やっと見つけた虫を逃した。日が暮れるまで探し続け、もうあきらめて家に帰ろうとしたときに、再びその虫に出会った時の感動を語っていたのは、数学者の岡潔であった。記憶に残るような発見の喜びというのがある。おそらく、息子の中では、何かこれに近い発見の喜びがあったに違いない。
それ以来、もう音楽のことしか頭にないのである。練習しなければ機嫌が悪く、練習が終われば、ご飯を食べるのも忘れて寝てしまうほど疲労していることが多々あった。
私の記憶には、彼の年頃、これほどの音楽に対する熱中はなかった。それはもっとずっと後のことだったのだ。

彼はおそらくこの先も、この発見の喜びを探し続け、練習を続けて、人の前で吹き、思い通りに行かずに落ち込み、また一からさらい直し、その過程で自分との関係を築き、自分を見つめ、音を通した交流に苦しみ、助けられていくことだろう。
きっとそんな道を息子はたどっていくのだ、もう心配ない、そういう確信が沸き起こったとき、私の心の中は、言い知れぬほどの喜びと感謝にあふれ、もうこれ以上望むことは何もないとまで思えたのだった。

____________

会社のクリスマスパーティーがあった。そこで得たものもまた大きく、類は友を呼ぶということわざを実感し、交流の楽しみというのを本当に何年かぶりに再発見した。
人に合わせること、会話の調子を合わせることなど、いくらでもできると言いそうになるほど、たくさんの場数を踏んできた。そしてどんな状況でもしり込みすることもなく、無言で取り残されることもなく、それなりに輪に入れるのである。
しかし、その後の疲労感はひどく、その時間に何の「交流」もなされていなかったということだけを確認するといったことばかりだった。
それが、昨晩のパーティーは違ったのだ。そこではたとえそれが場の雰囲気にのまれたものであったとしても、確実に交流があり、共感し合っていたのだ。そしてそこに流れていた空気は、本当に様々な人々から放射されるエネルギーが渦を巻いて溶け込んでいるかのように暖かいものだった。
ここでも、帰宅途中の車の中で、誰にともなく感謝をしたいという欲求が沸き起こり、ある種の感動を持って一日を終えたのである。

_____________

今日も、忙しく招待されて、とある音楽教室の発表会を聞きに行った。
そこでも、同じように小さな輪ができあがり、暖かい空気の流れの中、音楽好きという共通の興味を分かち合う人々が語り合っていた。
私は、彼らの心にも動かされたが、主催者であり、彼らの講師であり、私を招待してくれた人物が、君らのためだけにと、さらっと弾いてくれたピアノの演奏に、それはほんの2分足らずの時間であったが、何度か至福の和声を聞き、何かが本当に癒されたと感じたのである。


私は暖かい人々に囲まれて、本当に幸せなのだろう。
私生活には、苦しいことも、孤独であることも、変わらずに存在し、隠しようのない問題も山積みである。
それでも、私には与えることの許されている家族がいる。こうして様々な人々から得たありがたみこそ、そもそも生きているだけで、こうしたことにめぐり合えるのだという感謝として、家族へ、子供達への新たなるエネルギーへと変換して与えていくことができる。それだけでも非常に幸運なことなのだと思う。

いつも思うのだが、辛いのは、孤独なことでも、困難な問題を抱えていることでもない。
存在の底を揺らがされるような喜びを得たとき、その瞬間に、神なるものに対して感じる感謝を返す人が、隣に存在しないことの辛さ、喜びに震えたときに、隣を振り向いて、分かち合えないことの寂しさは、困難を一人きりで乗り切るよりも遥かに酷なことである。

そういう意味で、私の存在そのものが、真の交流を通して、どこかに共感や、温かみとしての時間を与えているのかもしれない、そうどこかで願い信じられることが、また自分への信頼として返ってくるのであった。

今年は、最後になって、こんな贈り物を得ることができた。
去年もすばらしい年であった。今年も更にすばらしかった。生きていくごとに、どんどんこのすばらしさは増してゆく、今はそんなことを本気で信じられるのである。
それはおそらく、どこかで苦しいときにも歯を食いしばって夢中で生きてきたから、単に毎日生活するなかで、様々な小さな感動を発見できるようになったのだろう。もしくは、幸福への「水位」が年々低くなって、いずれは太陽を見るだけでも幸福だと思えるようになるのかもしれない。
これも、実は発見の能力と関係があるのかもしれない。

誰にともなく、深く感謝をこめて何かを贈りたい、今晩はそういう気分である。





2011年10月7日金曜日

Gesichter



昨日、末っ子を連れて久しぶりにどうしても行きたかった美術館の特別展示を鑑賞してきた。

Bode Museumにルネッサンスのイタリアにおける様々なポートレートが展示してあるのだ。
私にとっては、またとない機会である。
待ち時間があるとは噂に聞いていた。オンラインでもチケットの予約ができない。VIPチケットも売り切れているという。そうとうの混み具合だと予想はついたが、いくらなんでも3時間以上ということはあるまいと、昼過ぎに出かけた。
出かけたと言っても、車なら5分で美術館についてしまうのだが、都心の駐車状況は良くないため、多少離れたところに駐車しなければならない。
それでも最後には罰金を取られた。


13時前に並び始めて、13時半にチケットを買ったが、番号は1400番台で、とても16時前には入れないという。そこで通常の展示館内をゆっくり鑑賞することにした。主にゴシックあたりからの教会の礼拝堂の絵画や三連祭壇画などが充実しているが、かなり美しいものもあるので、12世紀から16世紀あたりに興味のある人には一見の価値がある。



ところで私たちは地下の子供用の展示「ドラゴンと英雄達」の一角を訪れ時間をつぶすことにした。ドラゴンが実在していたのか、生物学的に考古学的に証明できるか、などのテーマは一切扱われておらず、10歳までのコーナーにしては子供臭かったが、末っ子は大喜びで遊んでいた。
中国のドラゴンを描いて、花火も添え、城砦を日本の城に見立てて、侍を下に書こうとしていたから、子供のファンタジーは幅広い。



ここまで終えて4時近くになったので、いったん美術館を出て、近所のまずい寿司を食べに行くことにした。
何しろ昨日は木曜日で、22時まで開館しているということを忘れていたのだ。つまりチケット番号と比べてもとても18時前には入れないと分かったのだ。
寿司をもりもり食べた少年は満足して美術館に戻り、18時頃エスプレッソをすすり、隣接している本屋で何冊か買い物をした。そろそろしびれを切らせた息子とともに特別展示に入れたのは19時半。9時直前まで鑑賞して売店でカタログなどを買い、雨の中車に走り帰宅した。

びしょぬれになって、駐車禁止罰金をくらい、疲れきって棒になった足で帰宅したが、末っ子は一日中上機嫌で、鼻歌を歌って寝る準備をしていた。もちろんそれを眺めていて、休みぐらい、こうして何かを一緒にすることで、小さな思い出作りをコツコツしてやらなくてはいけないなと、ちょっと反省した。

上の息子は州立オケの合宿で留守で、娘は相変わらず我が道を突き進んでいる。
来週は上の子が帰宅するので、今度は3人でMartin Gropius Bauで開催されている北斎展に出向こうと思うのだが、これほどの待ち時間がないことを祈る。

内容は、色々とあったのだが後日記したいと思う。

2011年9月24日土曜日

娘の横転ポイント

一日中珍しく家事に精を出し、ワインを一杯飲んだだけで疲労して酔っぱらってしまった。
けれど、夕食前の買い物へ駆け足で行った時、ふと心に浮かんだことを乱文でも書き留めておきたかった。

娘の横転ポイントは果てどこだったのか、いつだったのか、そんなことを考えたことはない。渦中にいると、灯台下暗しのように、何も見えない。今までの道筋も見えなければ、今いる状況が道筋の一体どの辺りに位置しているのかもわからない。

今日は息子の学校の父母会だったのだ。そして生徒達の演奏によるマチネーの後、校長先生からの挨拶があり、その後やっと各クラスに移動するのだが、私自身はマチネーには行かず寝坊し、隠れるように直接クラスの教室に忍び込めば良いと思っていた。

担任の先生の挨拶があり、役員選出の段になって、なんの因果か知らないが、あれよあれよという間に役員になってしまった。反論のしようがなかった。確かにこのクラスでは古株であるが、どこまでこの非政治的な私に、こんな政治的役割が勤まるのか、努力する以外、申し訳が立たないだろう。

父母会の後、仲の良い親達と話していた時、有名なバイオリンの教授の話になった。
彼はベルリンの音大で長年教授職についているが、何しろ才能のある子供を一人前にするので有名な先生で、特別に目のつけられた生徒は、全員この先生のところに門下替えする。そうでなくても、常に実技の先生をこの先生のクラスに変えようと必死になっている親達ばかりである。

近寄りがたいかというと、全くそんなことはなく、学校のオープンデイなどは、何時間もの待ち時間が当たり前という、トライアルレッスンの行列ができるが、名前を書いて申し込みさえすれば、どんな子供でも先生に少しはレッスンしてもらえるのである。


娘が小さかった頃、私はバイオリンをやらせた。彼女がどんな子供になるか、決して想像できなかったが、私はバイオリンという楽器のレパートリーの多さ、そして室内楽や古楽での楽しみを思い、彼女には是非弦楽器をやらせようと思ったのだ。まさか職業にさせるなど、思いもよらなかった。
スイス時代についた先生は、親切だったがメソッド的には色々と問題のある教師だった。しかし私たち親の誰も、真面目にやらせようと思ったことがなかったので、気楽なものだった。
そして、彼女はいかんせん消極的すぎた。人前で大股で歩くことすらできず、挨拶に人の目も見れず、頭を下げる動作さえ恥ずかしく思い、単に歩くという動きだって、ぎこちなく見えるほど、自分の存在に対する感覚が鋭敏すぎた。彼女には、公で一歩足を動かすことが、凡人にとっての道ばたで転んでしまうほどの大げさな動きに感じ取れてしまったのだろう。

そんな子が、楽器を習得することが簡単であるはずがない。
そして私たち夫婦の姿も不安定で、彼女は殻にこもるばかりであった。

ベルリンに来て、初めて何らかのメソッドというものを持った先生についた。
彼女は3年生になっていた。一年後に才能援助試験を受けるよう勧められて、見事に受かり、無料で一時間半のレッスンを受け、音楽理論とオーケストラなどの授業も受けられるようになった。
この才能援助試験を毎年試験を受け直して更新し、公立音楽教室で彼女は優秀だなどと言われるようになった。
私にしてみれば、一切口をきかず、人形のように、棒立ちでバイオリンを弾いていただけだ。音楽に沿った自然の身体の動きなど、私には全く見えなかったのに。

彼女が7年生になった時、弟は有名な音楽ギムナジウムに入学することになった。7年生からギムナジウムに移行するのが通常だが、成績の良い子供達は、すでに5年生からのコースに試験を受けて転校し抜けてしまう。
息子は、そう言う類いの子だったのだ。
その関係でその年、名の知られたこの学校のオープンデイに娘を連れて行った。珍しく前夫が一緒で、娘に絶対にトライアルレッスンを受けるようにと、リストに名前を書き入れてしまった。

そろそろ思春期になっていた彼女は、その時顔面を崩して、この世の終わりのような顔をして、泣きじゃくった。体重全部をかけて地面にへばりつき、何があっても行かないとだだをこねた。
そして珍しくも普段一切子供の教育にも関与せず、非常に優しい父親が、このときとばかり、彼女を強制し、引きずるように連れて行ったのだ。
何の準備もなく、今弾いているVivaldiかなにかを持って行っただけである。

他の子供達はこの日、この有名な教授につくために、もう何ヶ月も前からレパートリーを整えて来た、そう言う背景がある。
我々は、教授の名こそ知っていたが、それがどのような意味を持ち、この教授をめぐってこのような熾烈な競争があるなどとは、露程も知らない、それほど無知であったのだ。
つまり、バイオリンをやらせている親としては、露程の野心もなかったということである。

この教授は優しく娘をレッスンし、
「何一つ間違った奏法もなければ、まだまだ聞こえないが、あなたの中には、驚くほど繊細な音楽が宿っていることも、フレージングを聞いていれば分かります。」
と非常に優しい声色で話し始めた。
小さく震えるような娘の肩越しにかがみ込んで、
「でもね、よく考えてごらん。ここにいる子供達は、おそらく君の4倍ぐらいは多く練習しているはずだよ。君が7年生だとすると、君のこの学校での実力は5年生ぐらいだろうし、それも入れるかどうか分からない、そういったレベルなんだ。バイオリンを止めないでおくれ、でも、この学校に入りたいと君がいうんだったら、今日から最低2時間練習して、二年間頑張って遅れを取り戻してご覧なさい。そうしたらまた会えるかもしれないね。」

そう言って、ごく短いトライアルレッスンは終わった。

私は満足だった。娘も頑張ったし、父親も満足だった。こんな一流の学校にバイオリンで入れるとは思ってもいなかったのだ。つまり入れるつもりすらなかった。


……

しかし今日閃いたのは、彼女の横転ポイントは間違えなく、このトライアルだったということだ。
あれが、親から受けた強制の最たるものであり、それは5歳の時からずっと握らされて来たバイオリンという強制の総集編のような力を持って、彼女の意志、いや反抗心を目覚めさせた。

その後、彼女は才能援助試験から、いよいよ音大準備コースに移行すべき試験を受けるよう言われていたのだが、その試験を更新できなかった。やる気がなく、棒立ちに、不機嫌な顔をして、単に舞台に上がったというだけの、見せつけるような酷い試験だった。親として恥をかかされたと言っても良い。
試験のために、彼女は一切練習をしなかったし、バイオリンのレッスンを私の知らないところでサボってさえいたのだ。
言うことを聞き、母親の趣味の服を着て、宿題もし、バイオリンの稽古もして、理論もオーケストラもやって来た彼女が、突然転がるようにすべてをなげうった。

間もなく成績は急降下になり、私との関係は悪化し、彼女と私との確執がいよいよ表面化した。
思春期というせいもあるが、つまり人格形成の時期が来て、彼女の「消極的」な姿は消え去ってしまった。代わりに、猛烈な反抗心が芽生えたのである。

抑圧されていたものの、それでも母親の言うことに依存し、しがみついていれば良いという安心を彼女は求めていた。あまりの感受性に、しかし重圧感も自分の思いも、気分すら一切表現することのできない子だった。その彼女がこれを機に、極端な内気さに突然別れを告げたのだ。

その後のことは、ここに記録するまでもなく、今現在もなお進行中である。
彼女のその後の進展は、また改めて書くべきであろう。

今日父母会に行ってあの教授の名を聞かなかったら、息せき切って子供達の夕食のために買い物に急いでいた先ほど、あの出来事こそ彼女のターニングポイントならぬ横転ポイントだったとは気づかなかったはずだ。

実は、あの教授のあの言葉は、彼女には信じられないほどの屈辱だったのである。
やりたくもないバイオリンを10年近くやらされ、受けたくもない試験を受けさせられて、半ばできの良い子さながらに扱われる、言いようのない苦痛と違和感。
そして挙げ句の果てに、世界でも有名なこの教授の公開レッスンにまで強制されて、そしてかけられた言葉に、彼女は文字通り打ちのめされた。
もちろん、こうした今までの道筋があったから、屈辱と受け取ったというのもある。

しかし、真実は違うのではないか。
あの子供目線で、優しい声音を持った教授こそ、実は魔物のように厳しい人間なのだ。
彼のあの言葉は、言うなれば「君など話にならない」という言葉に、人間としての社交能力を持った人の親切な仮面をつけた言葉でしかなかった。
それを勘の鋭い娘は親より早く悟ったのである。
そして、それは必ずしも必要な最後通達ではなかった。親に強制されて来た道のりに対する最後通達である。
それをまた「意訳」すれば、「こんなものは止めて、君の道を歩みなさい」ということであったのだ。
「君がこの学校に来たいのなら、練習しなさい。」これが全てを言い表している。
馬鹿な素人の親が、何の常識もなく、こんな先生に縋り付くように連れて行った、そういう図式だったかもしれない。そして実際私たちは、何の期待も、何の脈略もなく、祭りの一つで行った訳だが、「無意識」という領域の話になると、父親があれだけ固辞して譲らなかったのは、受動的な彼女に「さあ大人になりなさい」という切り札を与えた、ということもできるかもしれない。そして自分こそ誰にも劣らぬプロの演奏家である彼は「無意識」に、この教授の娘に言うだろう言葉を知っていたのである。やはり、何の勝手も知らない素人の親というはずはないのである。


そして、買い物に汗を流し、早歩きに家に急いでいる間、あれだけ受動的だった彼女には、強制という形でしか、行動を促進することはできなかったのだ、という言い訳めいた、しかしながら真実を自分に言聞かせつつ、やはり申し訳ない、申し訳ない、申し訳なかった、そう思ったのである。

子供に期待しない親はあり得ない。
子供に期待するなということは不可能である。
だからこそ、この言葉を常に意識して、子供には夢を託すまい、私の価値観を塗り付けまいと思って来たのに、それでも私はおとなしい娘だからこそ、塗り絵のように彼女を扱っていたのだ。
そして、指一本人前で動かすことさえ、大げさすぎて恥ずかしいという異常な内気さを見せていた彼女の、内なるエネルギーと良い意味も含めたエゴは、誰にも勝るとも劣らぬほど強烈である。

人間とは、本当に摩訶不思議だ。
子供の小さかった時分に、私は子育ての失敗を幾つも犯したろう。
でも、精一杯だったのよ、ママも、という情けない一言で許しを請うことしかできない。

今の私の姿は、私の親としての失敗部分の結果である。
他の子供とは順調であるのに、なぜ、彼女とは?
そういう疑問もあるが、人間には相性というものもあると、いくら親子でも実感せざるを得ない。

しかし、彼女のような存在が私になにを課題として突きつけているかと言えば、親として彼女の強さに負けている私が、自分を鍛えるべきだというメッセージでもあるし、自由人の振りをして、相変わらず既成価値に捕われている私を、本当の意味で解放するための、象徴的対戦相手として存在しているということは薄々分かっている。

難しい娘、確執の深いこの関係を恨むより、挑まれた闘いを親として健全に受けて全うするしかない。

それが、彼女に対する、許してね、というメッセージになるのではないか。

ということで、備忘録としたい。




2011年9月17日土曜日

書きなぐり

あまりやりきれないので愚痴を書こう。

人にも言えない悩みというのがあって、それはプライドから言えないのではなくて、言ってしまうことが私自身の倫理に関わるような気がするのと、この話は家族以外、つまり私と子供達以外の誰も知るべきではないという 本能が働く。

それでも精神的にはかなり苦しい。
解決もなく、見通しもなく、その道の専門家にさえ絶対に分からないという直感だとしても強い確信がある。

命に対する愛情というのは、ほとばしるのだが、言葉が全ての良きものも破壊してしまうというその恐ろしさに、時々口をつぐみ、言葉を憎む。
しかし、言葉がなければ生きてもいかれない。

そして、夏前に身体を痛めたこともあり、この数年続けてきた仕事のあり方を整理した。
週末に何もなかったことは数えるほどしかなく、フリーランスのオーバーワークは恐るべき力で、家庭の楽しみを奪っていくと実感した。
仕事を納品しても、オファーの調節、断り、請求書の送信、チームの他の訳者の進行を打診し、質問に答え、クライアントへの質問状をまとめ、クライアントのケアもしなくてはならない。そこに、子供達の学校関係の行事、家事、家計の振込みやら子供達と私の医者や歯科のアポイントメント、自己負担の振込み、保険会社とのコンタクト、更には音楽教室の生徒の調整に、楽譜やマテリアルの調達、日常の買い物、各分別ごみ捨て、そして末っ子の宿題に練習にレッスンの送り迎え。

時間はいくらあっても足らず、一番辛かったのは、7時で仕事を終わりにできないことだった。
ここで終わりという区切りが絶対にない。金曜4時に入ったオファーにも、返事のメールは書かねばならない。客相手とはそういうことだ。

そういうしているうちに、心理的にも身体的にも限界が来た。
秋休みは10月の最初の二週間で終わる。その二週間、私は完全休暇をとった。
そして、音楽教室を9月いっぱいでやめることにした。
そしてオファーのあった翻訳会社で、訳者ではなく翻訳マネージャーとして働くことにした。
そう、つまらぬ正社員になったのだ。
そこで
「あなたが4時にいなくなった後の納品がある場合は、われわれに引き継いでください」
といわれた時には、これは世界が変わると思ったものだ。

そして今最後のプロジェクトの納品前、一生懸命急いで訳している。
これが大型だったため、8月からやっているのだが、やりながらホトホト嫌になり、その発展性のないフリーの立場に失望し、就職先を探していた。
ありがたいことに、時が熟していたのか、トントンと話が進んだ。

来週は新しい車も来る。

しかし、人には言えない悩みは、どんどん深みを増していく。
どこからエネルギーを補給しようかと思って、ここに来て、単に書きなぐった。
人の読めるスペースにこのような愚痴を書くことに、ひそかなる期待があるのかもしれないと、自分で想像しただけで、更に吐き気がして落ち込むが、最近はもう再生することもできずに、常に限界のあたりをさまよって這い上がれずにいるので、こうでもするしかなかった。


鬱どころか、気分は良好なのに、とにかくすさまじい疲労感に押しつぶされそうで、家から出たくない、動けない、料理できない、それどころか食欲すらない。


10月から改善することを祈っている。





2011年6月6日月曜日

連休明け症候群

4日間の連休を終えて、再び仕事を始める。空気は先週とは打って変わってしまった。
真夏のような気温と、午後に突然やってくる激しい夕立。そして夕立が去った後の、さわやかな夜の始まり。明るい戸外に飛び出して、ビールや白ワインをあおる人々。夜には見えなかった子供達の姿も、あちこちに見られるようになった。そして当然、子供達があれば、そのに見える家族の面々。

先週は、春であったが、今週はもう夏なのだ。そう言えばもう6月なのだ。

窓を全開にして車を走らせる。ハンドル捌きを楽しみながら、すべりの良さを実感して、車内に巻き込む風を感じる。そうすると、心がだんだん浮いてくるから不思議だ。

小さな幸せ、日常の彩を感じて、満足感を得ても、そこには決して姿を消すことのない孤独が常に寄り添っている。

窓から顔を出して、一気に駐車したときに、感じの良い父親と男と子が、「お~ぅ」と声を上げて、私の躁病的ハンドル捌きを眺めていた。
仕事帰りの開放感もあり、にっこりと微笑む。そして微笑みあう。
彼らの夜を思い、彼らの家庭を思う。
勢い良く開けた家の扉の中は、しかし静まり返っている。子供達が留守をしている私の今晩の生活や家庭は、ひっそりと姿を消してしまった。

キッチンに入り、ビールを一杯飲む。
ラジオをつける。いつもの番組をいつものDJが巧みなトークで放送している。
安心感が少し舞い戻るのだが、自分ひとりで食べる夕食のなんと味気ないことだろう。

文句ばかり言うけど、子供達に食事を作ることが、面倒だという意識の裏で、どれだけの支えになっているのか気が付く。

欠けているものはない。
何かを欲してもいない。
何かを期待する人すらいない気楽を知っているし、
淋しいという言葉はとうに辞書から消し去った。

けれど、風に吹かれて車を飛ばす私からも、仕事帰りに同僚を見つけて、笑顔で挨拶する私からも、末っ子を迎えに行って、連れ帰るときにスキップをする私からも、花粉が飛び散るようなエネルギーが湧き出ているのだろう。
そういう季節がやってきたのだ。

そしてこぼれる花粉が、ただただ私の周囲に落ちては吹き飛ばされるばかりで、何の実にもなっていない、そういう思いがあって、それが孤独感なのかもしれないと気が付き、少し疲労を感じている。

誰と分かち合うことが出来なくても、誰かの実になることが出来なくても、人間はこうしていつも季節によって、花粉や電磁波を放っているのだろう。その姿を心に描いてみたら、突然涙が沸いてくる。
なんとも、気の毒な姿だろうか。

それでも私は何も欲せずに、何も期待せずに、何も欠けていないと断言して前進するしか、選択肢がない。好きで強いのではないのだ。そう生きるしか他に道がないのだ。

そして分かち合えなかった、または実になることのできなかった有り余ったエネルギーは、夜の不安や、突然の涙や、思いがけない怒りとなって、消化されていく。

それこそ、本当に惨めに映るものだと実感している。

しかし、誰も気が付いていない。
ありがたいことに。

2011年5月16日月曜日

コンプレックスからの解放は、コンプレックスを受け入れること

敏感であるということは、生きる上ではあまり意味がない。

最近、自分を認めてやろうという部分も理解できるようになったが、その代わり全然ダメであるというところも浮き上がってきて、暫しため息をついている。

娘の学校は、両親が様々な作業に参加することになっている。
先日、春先の敷地内大掃除の当番が回ってきた。天気もすばらしく、春らしいそよ風も吹いている。嫌がる娘を引き連れて、学校まで行った。
他に3、4人の親たちも集まってきた。リストで作業分担を行い、それぞれ黙々と作業に取り掛かる。
私は複数のガレージ掃除と、校庭に当たる庭全体の落ち葉やごみなどを取り除くことを受け持った。

巨大なほうきを生まれて初めて手にした。
そしてもくもくと掃き掃除をする。砂埃にまみれ、頭上では小鳥がさえずっている。
時折、気持ちの良い風が吹き、スプリンクラーの水しぶきが身体に降りかかるのが気持ちよい。
次には、生まれて初めて熊手を使って、砂の表面を掃除した。

気がつくと一時間以上たっており、休みなく働いた私の手のひらは、重いほうきと熊手のせいで赤くなっていた。
木陰にたたずんで、豆となりかけている手のひらをこすりながら、何か懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
そうだ、子供時代である。
子供時代には、日が翳り肌寒くなるまで外で遊んでいた。鉄棒の好きだった私の手のひらには常に豆があった。そして友人と別れて、帰宅する途中に、太陽の光と、そよ風と、髪の毛にしみこんだ太陽の匂いを身体全体で感じ取りながら、妙な満足感を抱いてトコトコと帰宅したのだった。
あの頃の一瞬がよみがえったような気がした。

一通りの仕事を終えて、きれいになった庭を見回した時、小さな心地よい達成感があった。
あれだけ嫌がっていた娘も、一人見つけた友人と、黙々と落ち葉集めを行っていた。
こういう作業は、集中力を促す。そしてまるで瞑想のように、何も考えずに、すべての些事を忘れて、庭の掃除のために使用している道具の扱いに専念できたのだった。

娘の友人も送り届け、帰宅してから念入りに手を荒い、冷蔵庫に冷やしてあったビールを飲む。
土曜日の午後4時だった。最高の気分だった。
帰宅しても窓を開け放ち、春のそよ風を夜になるまで味わっていたい気分だった。
家事もできず、仕事もできず、なにひとつ家や個人の義務をやり遂げることはできなかったが、それでも私の身体は程よく疲労しており、髪の毛は風に吹かれてかさつき、乾燥した独特の「外のにおい」がしている。爪の間には、砂がこびり付いていることに、言葉に言い表せないような満足感があったのだ。

命とは、毎日身体的に実感することで、精神の方も健康でいることができるのではないか。
ふと、そんなことを思った。
そして突然、今の生き方をすっかり変えてしまいたくなった。
このリセット欲望は、私の中に常にある。破壊してしまい、一から出直したいと言う欲望である。常に自分自身に不満であるから、そこから逃げたい。

今の仕事を思ってみても、お金の為にやっているのと、多少言葉弄りが好きだと言うこともあって、続けている。
しかし周囲を見ると、これをやりたかったから苦労して勉強してきたという「これ」を持っている人たちばかりなのである。

暫しビールを片手に、疲労した頭で考えに浸っていたら、自分の決定的に間違っているものが次第に浮き上がってきてしまった。
私の生きる動機は、コンプレックスだったのだ。それも筋金入りのコンプレックスで、死闘を繰り広げながらも打ち負かしてやろう、という風にもなれない、弱弱しいコンプレックスであり、そこには自分はこれでも良いのだと、強制的に信じたいという欲望やプライドも入り混じり、まったく持って支離滅裂なものが、根本に流れている。

私は、音楽をずっとやってきたが、親に認められたかったからではなかろうか。
小学校の成績が良かったのに、兄が楽器を始めたら、親の感心と期待は、いつも私よりも怒られることの多かった兄に寄せられてしまったのだ。
それで私は、兄を追うようになった。
予定していた中学受験も捨てて、兄と同じ道を行くと言い出したのだ。勉強ができることなどに親は感心がないのだと、そこは察知したのであろう。
それはおそらく、親自身の持っていたコンプレックスとも重なり合いながら、私たちへの期待となっていたのに違いない。
立派な大学に入るよりも、一人前の演奏家になれるものならなってみろ、そういう声がずっと背後にあったことは間違いないのである。

突然父のもとを訪れた一人の演奏家の言うなりに、父はある夜私に一つの楽器を与えて、私はそれを見ても、触っても、一切興味はなかったのに、兄の学校へ行く切符を手にしたとばかり、それをやることにしてしまった。
ピアノやバイオリンは専攻するなと、母からも父からも口をすっぱくして言われていた。
それは彼らが本能的に、演奏家になるために現実的な可能性の多いものを与えたかったという、彼ら自身の親として当たり前の「気遣い」であったのだろう。

大学に入るときに、私はあがいた。
親の敷いた線路や、兄を追い続けた線路を突然離れたくなった。
私に力があるのか、それを試してみようと、思春期になって初めて芽生えたのである。
三年生になると寮生活から週末や休み毎にいわゆる予備校に通ったのを覚えている。
そのとき、今まで練習する代わりに勉強してきた人々と触れて、別の世界を見た感動は忘れられない。
しかし私の考えていることと言えば、脱出でしかない。寮からの、そして敷かれた線路からの脱出。
私のように、親のために或いは兄を追ってなどと、そんな動機から職業につけるような、甘い世界でないことぐらいはとうに承知していたのだろう。
わたしには、あのダメだった兄が頭角を現すにつれ、勉強をがんばっているフリをするしかなかったのである。そして周囲との違和に胃がよじれるほど苦しんだ。隠れて母に電話をして泣いたことも何回かあった。

それから一つだけ受けた大学受験に失敗した。
何故一つだけだったのだろうか。
それはどうしても何学部に行って、何になりたいと言う計画がなかったからであろう。
兄とは違う認められ方をしたいと、それだけだったのかもしれない。

そして大学に入り、留学した。
世話にはならなかったが、留学とて、兄の後を追ってきたのだ。

そして私は始終、私という人間を親に向かって認めさせようと思ったのだが、本気で音楽で飯を食おうと思って覚悟している人には勝てない。
何でもできる私は、さっさと卒業もして、体裁だけは保てるのである。
しかし、何がやりたいのかやりたくないのか、考えてもさっぱりわからない。しかし、常に闘ってきた。コンプレックスに苛まれ、悪夢にうなされるほどであった。
それは外国人という弱者に見られることでもあり、日本からの女の子というクラスでの偏見でもあり、出来が悪いというコンプレックスでもあり、この楽器が嫌いなのに嘘をついていると言うコンプレックスでもあった。そして最初の夫に知り合い、彼の周囲と云うさらに強力にコンプレックスを刺激してくる環境におかれ、コンプレックスは膨張しきり自分をすっかり殺してしまうことで、影となった。そして心が半ばおかしくなって、這い出してきたという、非常に情けない廻りだった。

その後も、私の原動力はコンプレックスであり、どこに行っても良い成績と業績を上げるのだが、過去の道なりが、4筋にも5筋にもなって、どれも体裁だけは整えて卒業だの資格だのというところまではいくのだが、流石に物にならない。
何でもできるくせに、何も使えないと言う、まったくもって要らない人材なのだ。

_______

いや、だからそれに気がついたのだ。
なんという馬鹿な生き方をしたろうと。それでも自分は相当鍛えられたのだが、それは全部過程での話であり、行ってきた内容は、と散らかるばかりで積み重なっていない。

演奏家にもなれずに、学問も全うしなかった。
演奏家にはなれなかったろうし、学者にはまったく向いていない。
才能の問題ではない。へんな言い方をすれば、私より明らかに才能のない人が、立派にオケで演奏家になっていたりする。それは信念とモチベーションの原因の問題であろう。学問に関しては、知的コンプレックスを少しでも叩こうと思っただけで、私には学術の世界でやっていくための、決定的な何かが欠けている。おそらく静的な人格ではないから、すぐに行動したり、直ぐに興味を移したり、そういう半端な性格がすべてをダメにしているのだろう。
無論このモチベーションも半端なコンプレックスに根付いたものなのでモノにはならないのだ。

____________

仕事の長電話で中断されてしまった。
ウダウダ言っても仕方ない。
これが私という人間をかたどっている姿なのだし。

とにかく、最近は仕事を変えたいとかそういう希望が大きくて、それはと散らかすように、できること、目に前に転がってきたことをやって来たからなのだが、それは多かれ少なかれ、皆そうして職業についていくのだろうし、大人になることはこうだと思ってあきらめている。
しかし、それよりも行く先々で、成果を挙げようとか、認められようとか、そういうコンプレックスモチベーションでやってきて、時には欲しいものを得たこともあるし、褒められたことも、ありがたがられたこともあるのだが、うつ病みたいな、魂の死んだ感じは、どうしようもなく消えてくれない。
それは、人の為と体裁のために動いてきた自分の人生の果ての姿なのだなと、だんだんわかってきた。

もう知的コンプレックスも、演奏家コンプレックスも隠さずに、嘘偽りなくそれを正々堂々と認めて、私はコンプレックスにまみれているけれど、その私が少しも立派なところもなく、自慢できる人格もないのということだけはしっかり認識しています、というその部分が人々への共鳴となって、それでも尚且つ生き生きと輝いている私を見せることが、一つの作用となってくれるような仕事が欲しいなと、そう思い出しているのである。

コンプレックスを撤回するために、コンプレックスの磁場にずっととどまり続けた。
しかし、そこから離れられないことこそ、未だにコンプレックスに支配され追い掛け回されていることの証拠だとわかった。
もう私は、自分が生き生きとできるところへ飛び立ちたい。
それはきっと、人とのつながりがあるところで、ずっと机の上でキーボードを打ち続けていることじゃないと思う。
私の唯一の長所の一つは、制御できないけれど、止むことなく流れ続けているエネルギーがあることである。
生きていること、その毎日苦しいと思うような課題に向かって、前回の記事のように、それでも尊いものとしてあきらめないで進むこと、そういう姿勢を深い次元で分かち合う為に、小さなきっかけを与えていくような仕事をしたいと思う。

ピアノや音楽を教えるのだっていい。
人とかかわらないと、私はダメなんだ、庭掃除をして体で命を感じないと、私はダメなんだ。
助けも手本も何もないところから、明日もあさっても生き抜いていこうとする、必要最低限の創造力が私にはあるのかもしれない。それだけはうっすらと感じている。
その創造力を使わずに、人に後ろ指刺されないことだけを念じて、安全圏だけを夢見て生きていては、自分は死ぬと、そういうことを掃除しながら思った。


相変わらず、くどくどした文章で、牛の咀嚼のようになってしまったが、自分を納得させる為の手段として書いているので、あしからず。

2011年5月14日土曜日

「硝子戸の中」から

七

女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛を極(きわ)めたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
私はどちらにでも書けると答えて、暗(あん)に女の気色(けしき)をうかがった。女はもっと判然した挨拶(あいさつ)を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支(さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高(けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択(おえら)びになりますか」
私はまた躊躇(ちゅうちょ)した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖(こわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻(ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
私は女が今広い世間(せかい)の中にたった一人立って、一寸(いっすん)も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
私は服薬の時間を計るため、客の前も憚(はば)からず常に袂時計(たもとどけい)を座蒲団(ざぶとん)の傍(わき)に置く癖(くせ)をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女は厭(いや)な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が更(ふ)けたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱(くつぬぎ)に下りた。
その時美くしい月が静かな夜(よ)を残る隈(くま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄(げた)の音はまるで聞こえなかった。私は懐手(ふところで)をしたまま帽子も被(かぶ)らずに、女の後(あと)に跟(つ)いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈(えしゃく)して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目(まじめ)に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅(うち)の方へ引き返したのである。
むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊(たっ)とい文芸上の作物(さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。

八

不愉快に充(み)ちた人生をとぼとぼ辿(たど)りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊(たっ)とい」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来(おうらい)するようになった。
しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母(ふぼ)、私の祖父母(そふぼ)、私の曾祖父母(そうそふぼ)、それから順次に溯(さかの)ぼって、百年、二百年、乃至(ないし)千年万年の間に馴致(じゅんち)された習慣を、私一代で解脱(げだつ)する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
だから私の他(ひと)に与える助言(じょごん)はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人(いちにん)として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
こうした言葉は、どんなに情(なさけ)なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠に赴(おも)むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝(こ)らしている。こんな拷問(ごうもん)に近い
所作(しょさ)が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着(しゅうちゃく)しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷(きずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面(おもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱(だ)き締(し)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷(てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
私は彼女に向って、すべてを癒(いや)す「時」の流れに従って下(くだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥(は)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物(たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈(はげ)しい生の歓喜を夢のように暈(ぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々(なまなま)しい苦痛も取(と)り除(の)ける手段を怠(おこ)たらないのである。
私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口(きずぐち)から滴(したた)る血潮を「時」に拭(ぬぐ)わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
かくして常に生よりも死を尊(たっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充(み)ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸(ぼんよう)な自然主義者として証拠(しょうこ)立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。


_____________

七に関して

若い頃には解らなかった漱石の文章が、今なら少しずつでも心に入ってくるようになった。
何故生きるべきなのか。それに適当な答えを見つけるのは難しい。宗教的に死を選ぶことが罪とされている場合には、理屈はいらないのかもしれない。しかし死の方が尊いと思う心も解らないではない。

私は相当の馬鹿で阿呆で、この文章を読んだときに、「その女の始末」という言葉を、この会話をしている女を苦しめている別の女性だと思っていた。

しかし、読み進めていくうちに解らなくなり、もう一度読み返してやっと、この女が自分のことを漱石に話して聞かせ、小説だとしたら、この女、つまりまぎれもない彼女自身は死ぬべきか、生かされるべきかと聞いているのだと、やっとわかったと言う次第である。

そして漱石は、
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支(さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高(けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」

単に生きるという目的だけならば、生きていれば良い。しかし美しい、気高い心持こそが生きる理由になり得ると考えれば、問題は違うという。つまり単に息をして生きているだけでは、人間は生きていない方がましではないかという、女性自身の疑問を受ける形の答え方をしている。

そこで女が、
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖(こわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻(ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
と述べ、漱石は女が「広い世間(せかい)の中にたった一人立って、一寸(いっすん)も身動きのできない位置にいる事」を理解している。

そして漱石は、その後何も言わずに立ち上がって女を帰すのである。そのときのことを
「その時美くしい月が静かな夜(よ)を残る隈(くま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄(げた)の音はまるで聞こえなかった。」と書いている。
おそらく、漱石はこの女の悲痛な人生を聞かされ、誰にどうすることもできない、つまり言葉では到底解決や救いのない問題を聞き、胸苦しい思いで彼女の天涯孤独と切羽詰った状況を知るのだが、彼の夜空を見上げる心は、その描写のように清浄であった。そして外套や帽子のことも考えずに、女の後ろに、つまり女の人生に寄り添っている。

そして女は、最後に「先生に送ってもらって光栄」だと言う。漱石は本当にそう思うかと聞き返し、女はそうだと答えると、
「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と伝える。
この光栄をどう解釈し、そして光栄ならば何故生きているべきなのか…。

それは女は初めて漱石に自分の人生を語りつくした。そして、語ると言う行為の間に、自分の人生に言葉を与えることによって、苦しみこそ生々しく浮き上がってきたが、それ以上に「これが紛れもなく自分の生である」ということを悟ったのではないだろうか。何を語ろうとも、どんな助言を請おうとも、自分の生は、自分にだけ与えられたものであると同時に、他の誰にもどうしようもできない。 なぜなら生を語るのは言葉であるが、自らの生とはやはり生きるものに他ならないからであろう。女は、これまでの苦労に満ちた人生を語りながら、同時に「美しい心持」をその生き様に実感し、それを失ってゆくことを極度に恐れている。
それを誰か、つまり漱石に語ったことで、彼女は捨てても良いと思った生を実感した。聞き手は言葉を与える代わりに、その苦悩も孤独も言葉を介さずに受け入れ、彼女の中に鼓動を打つような生命と生を尊いと思わせるような、覚悟や真剣さを見出し、寄り添うように送っていった。それを彼女にも、無言で理解できたからこそ、「光栄」だと言ったのではないだろうか。
だからこそ、「ならば生きていなさい」と云う答えになったのではないだろうか。
漱石は、死の方が尊い、と言いつつ、彼女の話の中に、生を尊いと思わずにいられないものを感じたのかもしれない。


「むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊(たっ)とい文芸上の作物(さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」

________

八に関して

「私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷(きずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面(おもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱(だ)き締(し)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷(てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。」

これが女の背景である。

「私は彼女に向って、すべてを癒(いや)す「時」の流れに従って下(くだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥(は)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物(たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈(はげ)しい生の歓喜を夢のように暈(ぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々(なまなま)しい苦痛も取(と)り除(の)ける手段を怠(おこ)たらないのである。」

これが漱石の答えだった。

そして「深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶」を取り上げたとしても、「彼女の創口(きずぐち)から滴(したた)る血潮を「時」」によって止血させようと試みた。なぜ「いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当」と言ったのか、私にもそれは良くわからないのだが、それは彼女の奥ゆかしい生に対する姿勢が、命そのものをすでに尊いものとして捕らえている、それを漱石が感じ取ったからではないだろうか。

「かくして常に生よりも死を尊(たっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充(み)ちた生というものを超越する事ができなかった。」
それは人間の営みは、真剣であればあるほど、また運命というものに逆らいすぎずに、それを一種の自分に与えられた生としてひたすら生き抜くと言う姿勢そのものが、すでに尊いからなのだと、私はそう解釈したい。
そうでなければ、

「有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」
という文章は表れないのではないだろうか。小話や人生劇など現実の生に比べれば、その存在の尊さにおいて、比較にならないということなのではないだろうか。

最後に、彼女に生きていなさい、と言ったことに対して、凡庸な自然主義者ではないかと揶揄するが、漱石もまた生に対してなんとも慎み深いのだろうかと読み取れ、その漱石の温かい人柄、そして生きていくということは、根本的に淋しいということを知っている、そのような孤独を感じ取り、この話を読んだ後、えらく心を打たれて、暫し硬直してしまった。

私自身に重ねれば、やはりなぜ生きるべきか、何故生きていなくてはならないのかと問い続けた日々があり、自分の生き方を肯定できずにいた。私は残念ながら今まで、人生の歩みを言葉にして語り、聴いてくれる人があったという機会には恵まれていない。
それどころか、私は自分の人生だけは、延々と言葉にしまいと誓ってすらいる。他人にとって、人の人生など、どうという関心はないのである。しかしこの作品を読んで、彼女が語らなかったら、決して生き続けていたかどうかはわからない、ということを理解した。
彼女は、生に言葉を与えたことで、自分の生をその手で握っていることを実感し、救われたのである。
そして漱石は、尊い小説を読んだ後のような、人間らしい良い心持を感じた。

ここに、まさに私自身も救われるような思いがしたのである。
美しいものを見たかと問われれば、見たことがあると答える。
美しい心持にめぐり合ったこともあれば、自分自身からも深い献身を試みた、純粋な深い思いを知ったとも答えられそうな気がする。
それならば、それは私の人生の最大の幸運であり、傷から血を滴らせながら、その美しい心持を現在のまま保つことが生きることではなく、それを言葉として刻み込み、私自身の事実として色あせても手中に持っているだけで、十分幸福なことであり、それ以外の不愉快なことは、死ぬ理由でもなければ、美しさや純粋さを失うことが死ぬ理由でもない、ということを知ったからである。

現在は常に色あせる。
そして激しさの中で、傷の癒える時間を待ちきれないとき、やはり「語り」は己の人生を救うのではないだろうか。そして漱石は、それを強力に肯定しているのではないだろうか。
そして、人は書き、記録し続けるのではないだろうか。

2011年5月4日水曜日

萩原朔太郎 ― 月に吠える 北原白秋の序、及び序文からのメモ

月に吠える

白秋の序

「[…]さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互いの胸の奥底に直接に互いの手を触れ得るたった一つの尊いものである。」

「[…]さうして君の異常な神経と感情の所有者であることも。譬えばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。而もその予覚は常に来る可き悲劇に向て顫へてゐる。然しそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると云ふよりも、凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、まさしく君の肋骨の一本一本をも数へ得るほどの鋭さを持ってゐるからだ。」

「『詩は神秘でも象徴でも何でもない。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。』と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷はそこから来る。さうしてその葉の根の尖まで光り出す。」

「君の霊魂は私の知ってゐる限りまさしく蒼い顔をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは真珠貝の生身が一粒小砂に擦られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身であり、生身から滴らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明してゐる。」

「而も突如として電流対の感情が頭から爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。」

「天を仰ぎ、真実に地面に生きてゐるものは悲しい。」

朔太郎の序

「詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。」

「私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の 「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併 しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。」

「思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。」

「けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。」

「人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。[…]とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。[…]けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのであ る。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。」

「私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。こ の特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らな い。」

「詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。」

「私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。」

「私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。」


___________

言葉の一つ一つに息を吹き込んだという点では、Dichtungに通じる重みを感じた。
リズムが以心伝心だという言葉は実感できる。
ドイツ語をろくに理解できなかったときに、リルケの悲歌を音読し、ただただ涙が流れてきたのは、そういった韻の中にある、以心伝心、単語そのものの持っている命の存在の予感ではなかっただろうか。


危険な散歩

春になつて、
おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、
どんな粗製の歩道をあるいても、
あのいやらしい音がしないやうに、
それにおれはどつさり壊れものをかかへこんでる、
それがなによりけんのんだ。
さあ、そろそろ歩きはじめた、
みんなそつとしてくれ、
そつとしてくれ、
おれは心配で心配でたまらない、
たとへどんなことがあつても、
おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。
おれはぜつたいぜつめいだ、
おれは病気の風船のりみたいに、
いつも憔悴した方角で、
ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。




さびしい人格

さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤児の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活(らいふ)の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

わたしの胸は、かよわい病気したをさな児の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。

自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰鬱にする、
むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、
ああ、都会の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

よにもさびしい私の人格が、
おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。


山に登る
旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでゐた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろつて口(くち)にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。

孤独

田舎の白つぽい道ばたで、
つかれた馬のこころが、
ひからびた日向の草をみつめてゐる、
ななめに、しのしのとほそくもえる、
ふるへるさびしい草をみつめる。

田舎のさびしい日向に立つて、
おまへはなにを視てゐるのか、
ふるへる、わたしの孤独のたましひよ。

このほこりつぽい風景の顔に、
うすく涙がながれてゐる。

雲雀の巣

おれはよにも悲しい心を抱いて故郷(ふるさと)の河原を歩いた。
河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えてゐた。
その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れてゐる、
おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。
おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。
ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髪の毛のやうに、へらへらと風にうごいてゐた。
おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。
そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれはぐつたり汗ばんでゐる。
あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。
おれのたましひをつかむやうにしてなにものかをつかんだ。
干からびた髪の毛のやうなものをつかんだ。
河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた。
巣はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。
いとけなく育(はぐ)くまれるものの愛に媚びる感覚が、あきらかにおれの心にかんじられた。
おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。
おれはまた親鳥のやうに頸をのばして巣の中をのぞいた。
巣の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。
かぼそい植物の繊毛に触れるやうな、たとへやうもなく DELICATE の哀傷が、影のやうに神経の末梢をかすめて行つた。
巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。
わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。
生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。
死にかかつた犬をみるときのやうな歯がゆい感覚が、おれの心の底にわきあがつた。
かういふときの人間の感覚の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。
おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。
うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。
つめたい汁のやうなものが感じられた、
そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液体がじくじくと流れてゐるのをかんじた。
卵がやぶれた、
野蛮な人間の指が、むざんにも繊細なものを押しつぶしたのだ。
鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた。

いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。
その可愛らしいくちばしから造つた巣、一所けんめいでやつた小動物の仕事、愛すべき本能のあらはれ。
いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。
おれは卵をやぶつた。
愛と悦びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。
くらい不愉快なおこなひをした。
おれは陰鬱な顔をして地面をながめつめた。
地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいてゐた。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
なまぐさい春のにほひがする。
おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。
人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。
人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。
あるとき人間が馬のやうに見えること。
人間が人間の愛にうらぎりすること。
人間が人間をきらふこと。
ああ、厭人病者。
ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。
それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。
心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう。
おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない、
ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすらもない。
ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。
おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。
おれはときどき、すべての人々から脱れて孤独になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて涙ぐましくなる。
おれはいつでも、人気のない寂しい海岸を歩きながら、遠い都の雑閙を思ふのがすきだ。
遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷(ふるさと)の公園地をあるくのがすきだ。
ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。
おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。
おれはくるしくなる。
おれはさびしくなる。
心で愛するものを、なにゆゑに肉体で愛することができないのか。
おれは懺悔する。
懺悔する。
おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。
利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いてゐる。
河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。
利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。
あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。
それらの顔はくらくして地面をばかりみる。
地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。

おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。



________________

壮絶な孤独と、精神にあふれている愛に形を与えて他者に与えたい欲求とが、本人の心を苦しめては罰している。これは、白秋の言うように「凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃」として表出しているように思うのだが、何故これらの詩には救いがあるのだろうか。

何か、確かに朔太郎の言うように、宇宙的な次元では、永遠に孤独ではないからなのかもしれない。
至る所に、自然との会話を感じる。

それは春であったり、寂しい木陰であったり、飛んでゆくつばめの群れであったりする。
一面に広がる海、そして身体に感じる風、そして歩きながら口に押し付けている小石。
そして孤独でも、日向に立っている、自然とどこかが触れ合っている。
感覚的に、私も読みながら、自分の中にある深い孤独や罪悪感を共感しつつ、身の回りの空気や自然を感じて、それに慰められるのであろうか。どこか実に日本的であると思う。

自然を描写し、自然を融合した文章を書く人は多く居るが、朔太郎の言葉は、日常なのだけれど、心の深い窓の中に小さなコスモスへの入り口があり、それがなぜか小さいけれど、深い傷口を鎮めてくれる。

癒すのではない。鎮めてくれる。
それが日本的だと感じてしまう。

2011年2月6日日曜日

日曜日 ― ミサ

日曜日、久しぶりに早起きをしてシャワーを浴び、しっかりと食事を取った。
息子が教会のミサを兼ねたコンサートに参加するので、こういうことになったのだ。

Frühstück2


ミサに参加したのは、もう何年ぶりだろうか。
一時はさまざまな教会を覗きに行って、さまざまな説教を聞いてみたことがある。
聖書を読んで、少し解釈して、ニュースを話題に出し、表面的に道徳的な教えを説いておしまいにするところが殆どだったが、今日行った教会の牧師様は、心に響いてくる言葉をたくさん下さった。

クロイツベルグという、マルチカルチャーな地区の小さな教会で、角にあるアパートの建物の天辺に鐘が突き出しているという、まさに住民とひとつになったようなつくりである。

80人の教会員のうち、常時参加は30人だというが、その小ささがちょうど良く、誰もが互いを知り、説教をする牧師様が自分に語りかけてくれているような、程よい距離なのである。

片隅に座った私に、世話係の老齢の男性が賛美歌の本を手渡してくれ、握手で挨拶を交わす。
牧師様は礼拝堂(といってもそんな大げさなものではないが)に入るなり、見知らぬ私を見つけ、握手して、ようこそいらっしゃいました、とで迎えてくれた。
はっきり言って、私たちの訪問が先に告げられていたとしても、このような暖かい歓迎は、あたりまえではない。
この教会の魅力をすぐに感じ取った。

説教の内容は、一字一句といって良いほど、心に刻まれている。
それほど、聞き逃したくなく、心に留めておきたい言葉ばかりであった。
しかし、それを全部ここに記してしまうと、非常にありきたりな言葉になってしまうそうなので、控えておく。
私の心は、確かに深いところで動いたのだが、それを書いてしまうと、まるである種の作用が無になってしまうそうで怖いのだ。

しかし、聖書のコリント人への手紙からの引用であり、それは物事の表裏に関してであり、裏こそに目を向けるべきであること、そして表の美しさというのは、非常に壊れやすく、赤絨毯の上できらびやかな装いを披露している有名人ですら、自分たちと同じ非常に中庸な人間性であるのに違いないということ。表面が壊れた場合には、中身に入っていたもののみが、価値のあるものとしてのこるということ、そういうことを聞かされた。
そして、Herrlichkeitというのは、紛れもなく光であり、光は、どこで一番明るいかといえば、暗闇で最もその明るさを発揮することができるという言葉である。

そして最後の逸話からは、真の幸福とは、自らの心底から欲して他人を助ける喜びを知った時ではないか、そしてそれは、極貧、または戦争のような世界にあっても可能であるということを教えられた。

その後、静かな祈りのときが来る。
うつむき、沈黙に入り、その説教の内容がこだまする中、頭の中で自らを捜し求める。そして他者の存在を思う。

そして厳かに主祷文を唱え、再び賛美歌を歌う。

__________

結局、信仰しているのか、信者なのか、それともわれわれは人間なのだろうか、ということを問うた時、この教会においては、信者であるかないかということは関係なく、訪れるもの皆、信者たちと一緒に、一つの深い思いへと至ることができるのだと実感した。
それは、自らの日常生活を振り返り、自らに問いかけながら意識して生きているかということを再び問われ、欲望と虚栄を振り払うべきであるという教訓を聞き、自分にとってでは失うことができないほど大切なもの、そして伝えていきたい大切なものとは何かということを直に問われる。
その思いの中で、礼拝堂にいる人間は一つとなっていた。
もちろん、私自身も動かされる心を意識しつつ、そこに共に在った。

教会の雰囲気といえるほどの建物ではない。
おなかに響くようなオルガンの音色ではない。
歌われる賛美歌は簡易で、ラテン語の魔術に惑わされることもない。
地に足を着いた普段着の人間が、心の扉を開ける時間、または自らの中へ帰る時間として、そこに立っている。
蝋燭の数も少なく、ステンドグラスもなければ、乳香が漂うわけでもない。

何が言いたいかといえば、教会という圧倒的な建築物、そしてそれの持つ神秘的な雰囲気に飲まれてしまったのではないということだ。
私の心が動いたのは、そして信者の心が毎週洗われ、思考を刺激され、反省を促されるのは、紛れもなく、「ロゴス・言葉」によってであり、神は目に見えず、自らの中に対話を通して見つけ出していくものであり、写実的な存在でもなければ、バロック的絢爛としてその光が現れるものでもないという、まさにプロテスタント的実感であった。

今まで、いくつのプロテスタント教会を訪れたろうか。
いったい、何回プロテスタントの説教を聞いただろうか。
私の心をここまで動かしたのは、しかし、このマルチカルチャーな街角の小さな教会なのであった。
人々が、生活の中に、この説教から生まれる「思い」を生かしているからこそ、この教会はこうして息づいているのに違いない。

特に経験から言うと、プロテスタント教会では、信仰しているのか、それならば、どれほど深く聖書を理解しているのか、洗礼を受ける気があるのか、教会の共同体に尽くしていかれるかなど、そういった質問が圧力を持って浮き上がってくることが多い。
カトリック教会は、個人的にはその点、非常に開かれているという気がしている。たとえ啓蒙がなされていなくても、万人に扉は開かれていると、個人的には感じる。
プロテスタントは、子供でもない限り、自らの意思の強さをしっかりと確認される。
私は、どちらが良いのか問うつもりもなければ、問うような立場にもない。
カトリック教会では、荘厳な雰囲気の中に、神の存在を天上に実感してしまう瞬間というものを見たし、信者のファナティックとも言える信仰心と、その祈る背中から立ち上る情熱に、心底心を打たれたこともある。

しかし、この教会のミサに参加して再び実感するのは、宗教の存在の本来の目的は、信仰そのものなのではなく(教会の目的は信仰であり信者の拡大であるが)、人間性の中身を切り裂き、人間性、人間的とは何かを常に問いかけ、本当の喜び、満足は、実に献身の姿勢の中にしか見出せないのだ、という究極の真実を実感するために在るのではないのかということだった。

使徒達の思いを実感するには、新約聖書、特に手紙を相当読み込まないとなかなか難しい。
しかし、説教の中で、断片を聞き、その解釈や背景を知ることにより、彼らもたゆまぬ労苦と困難を乗り越えても、歩む限り壁に突き当たってばかりいたことを「体験」として実感できる気がするのである。
そして、暗い道を歩んでくるものこそ、希望も救いも、人によっては神との対話を通して、自らの中に見つけ出していくしかない、ということを知らないで通り過ぎることはできないのだということを理解する。

もう誰もいないと思った時に、言葉に出会う。
言葉によって、光が見える。
光によって、神なのかもしれない、神と呼ぶことを許容する。
不思議なことに、希望の足りないところに、希望が生まれてくる。
もう少し暗闇を歩んでみようと思う。
そして、一人ではなかったことに気つき、現在一人でいる人々が見えてくる。
そして、一人ではないことを、その人たちに何とか伝えようとする。
そして、献身の姿勢のなかに、今まで覚えたことのない幸福を感じ、自らが光るようになる。

私は、私たちのまったく気づかないどこか遠くの、またはどこか裏の世界で、こういう作用が起こっていることを信じているし、そういう人生は、光の当たるところには生まれないだろうということもなんとなく理解している。

教会へ行くこと、または何かを信仰することにより、人間が一番苦しいときに、一歩でも前進し、一つでも多くの希望を得ることができるなら、それこそ、宗教の意味ではないかと、そんなことを思ったのである。

そして、苦労がなく幸せで、何にも憂うことがないと実感している人間は、それが自分ひとりによって、得られたものではないことを忘れずに、感謝の気持ちを持って、虚栄と欲を捨て、謙虚に、そしてもっと謙虚に生きていくことを忘れず、良いときに分けることのできるものを、できるだけ分かち合う努力をすべきであると、本当に実感するのだった。


説教の間中、何回も仏門に入った方と、同じようなことを説いているなと思った。
つまるところ、人間には、生命に意義を与え、日々できるだけ内実を伴った生き方をしたいという根本的な気持ちがあり、それは表の成功ではなく、裏の人間としての成長に代わる物はないのではないかと気がついた。

そして私のように若干自己嫌悪や自己過小評価の傾向があるものには、こうした「言葉」を聞くたびに、生きる価値を得ようと努力する必要はないのだと救われる。
生きる価値は万人に在り、誰かの存在価値が低いことはないのだという原点を信用することができる。

私はたまたま、言葉に出会うと、光にめぐり合ったり、心が溶け出すことが多い。
その上、たとえ簡易化された賛美歌だとしても、皆で歌い、トーンを紡ぎ出す行為には、何か一つの浄化作用があるような気がしている。
なので、キリスト教会に通うことに違和感は覚えないが、信者になるつもりはなく、しかしそれは実は、全然関係のないことなのではないかと今日思ったのである。

神秘主義とか、インチキくさい霊能者とか、ペテン的占い(れっきとした統計学や天文学に基づいたものもあるが)などに頼るのではなく、もう一歩を踏み出せないときに、もっとこうした伝統宗教がその役割を担って欲しいものだと、これは日本に関して特に思うのである。
仏教では、例えばお寺がもっと意味を持って欲しいし、福祉と連帯して何かできないのだろうか、そういうことを思ってしまうのである。


良い日曜日だった。
帰宅後、二度目の朝食をとった。

Frühstück1

2010年11月16日火曜日

シンプルで古臭く、高価ではないのに、ずっと暖かい匂いのするもの

先日末っ子の誕生日の日、大好きな女の子のおじいちゃんが迎えに来た。
彼女は賢い子供で、息子と同い年には見えず、世間に通じており、身の回りのことも、人の世話までできるような良い子なのだ。
そして、そんなに社会的に地位の高くない家庭の子供が、向上心から習い事をする場合、大体縦笛かギターなのだが、彼女は熱心にギターのレッスンに通い、いくつのレパートリーがあって、毎日何分練習するかをとつとつと話してくれた。

彼女は、私たちの家からそう遠くない高層団地に住んでいる。
この界隈は、ジェントリフィケーションが進み、最近の家賃の高騰ぶりで、今までになかったような憎らしい顔ぶれの住民が多くなった。
その中でも、このいわゆる構造がタイル張りのPlattenbauと呼ばれる高層団地は、DDRの生き残りとして、ところどころに聳え立っている。
何年もかけてお金をため、時にくじ引きのような幸運にめぐり合ってやっと手にしたアパートの同じ棟、そうでなければ、同じ団地群に一族が集まって住む様は、当時のDDRの夢の縮図をセピア色のレンズを通して見ているようなのである。

今ではその中にいくつもあった保育所(DDRでは女性の労働は当然であった)も閉鎖され、団地の一階にあった想像のできないほど飾り気のない、飲み屋やヴェトナム人経営の軽食店もどんどん閉鎖されてしまった。

この女の子は、そんな団地に生まれ育ったのである。
おじいちゃんも、お母さんも、この団地で壁が開くのを見つめ、横柄な西ドイツ人が引っ越してきて、ロハスな環境を築き上げ、彼らを端っこに追いやってしまったのを見つめてきたのである。

おじいちゃんは、玄関のベルを鳴らすと、内気そうに階段を上って私の家の戸口まで来た。
白髪にひげを生やし、丸メガネをかけたさまは、団地群に住む荒々しい労働者のイメージとは違い、温厚なおじいさんそのものであった。
握手をしたその手は暖かく、孫を見る目は細い。

私のような外国人を見れば、何らかの反応を示すものも少なくはないのだが、このおじいさんに私の肌の色も目の色も、珍しいはずであるが、まったく刺激を与えないらしい。
ただただ、孫娘がジャケットを着込んで、楽しかったよ、おじいちゃんと言って話をしているのを見ている。

寂しさが漂うほどの、暖かさがそこにあった。
まるで、おじいさんが、団地の小さな居間にある、自分の価値すらあまりない切手コレクション、いや80年代のオンボロテレビ、もしくはクロスワードパズルの雑誌かなにかの一場面を切り取って持ってきてくれたような、家庭の温かさがそこにはあった。

グリーンエネルギーの学会論文を今晩は訳していたのだが、今後の食生活、もしくは技術開発の価値観を率いてゆくのは、ロハスであるということを見逃すわけにはいかない、という行をタイプしながら、何かしらいい気分ではなかった。

ロハスの環境意識の高さ、いや環境以外にも、あらゆるものに対する意識の高さと、高収入グループとしての購買能力は流石なものであろう。

けれど、私はそんなところでぬくぬくした子供時代を送っている子供には、何の感銘も受けない。
この少女のように、小さな、そのぬくもりを少しも感じうけるセンサーのない人間には、到底何の話をしているのかさっぱり分からないほどの、小さく地味で、色あせた、古臭い匂いのする居間にある一家団欒の暖かさこそ、それこそ涙がこぼれるほど、懐かしく、手にしたくて憧れてしまうものなのだ。

DDRは過ぎ去った。
けれど、世間が冷たいばかりに、冷たくなっていく人間とは反対に、世間が冷たくとも、自分の暖かさを手のひらの中に大切に保管して、家族のためだけにそれを分け与え、小さな小さな平和と団欒を保ってきた人々もいるのである。

先日のおじいさんは、きっとそんな人間の一人で、彼女は、お金がなくても、大学に行くチャンスがなくても、お父さんやお母さんが別れていても、自分の幸せをきちんと手のひらに載せてもらって、それを大切に閉じて、暖めながら生きているのだろうと、そういうことが分かるのだった。

もう5日も経つというのに、私はそのおじいさんの存在に、未だに感動しているのだ。

私が求めているのは、そんなに小さなものなのに、それだけがどうしても手に入らないような、到底簡単には手にすることはできないんだと実感せざるを得ない、何か貴重なものらしい。

シンプルで古臭く、高価ではないのに、ずっと暖かい匂いのするもの。

2010年10月31日日曜日

今年の誕生日

 



去年の誕生日は混沌としたものだった。
友人ともいえない知人とつるんで、夜遅くまで飲んだのではなかったか。
彼らは私が作った友人ではなかったのだ。

私が誰かの取り巻きでしかなかった時代の、不思議な誕生日だった。
自分ひとりで築いたのではない、誰かの世界に属している人々を知人としてあてがわれた形の人々との関係は、不安と義務に満ちており、無理強いしても好意を膨らませていかなくてはならないという強迫感。
リラックスもできず、いつかは切れてしまうのも当然の結果なのだ。

そんな檻から自分で再び這い出したのは、もう8ヶ月ぐらい前の話になる。
それ以来、私の周りには新しい何かが作用し始めて、多くの人と知り合うことができた。

友人とは、本当に知り合うべくして知り合うものだとつくづく思う。
知り合いが、私の人生に及ぼす影響は限りなく少ないとしても、友人の意味するところ本当に大きい。
外国生活が長くなっても、ドイツ人の性質というのもあってか、私のこの引きこもり的性格による原因の方が大きいとは思うのだが、あまり友人と呼べる人がいない。
引越しを重ねてきたのもひとつの理由だろう。
そして、私の変な人の良さが、友人関係に疲れを覚えてしまう要因であるのかもしれない。

ところが、ここ最近、檻から抜け出した途端に、さまざまなことが再び動き出したのだ。
家族に心配事が起きたり、仕事面で大きなターニングポイントが訪れたり。
私自身の身の回りの扉が一斉に開きだしたように、問題は私と誰かとの関係ではなく、私の身の回りに絞られ、私に与えられた強制的友人は消え去り、替わりに思ってもいない偶然で知り合ったり再開したりする人間との発展があった。

そうして、これまで仕事を通して共同作業をしてきた人々とは、仕事以外の面でも大きな人間的意味を持ち始めて、私はすでに彼らにたいして、仕事上の乾燥した会話だけではない関係を感じ始めている。

その皆と、昨夜私の誕生日には、鍋を囲んで楽しく会話が弾んだ。
仲間が集まって、打ち解けて話し出すと、実は信じられないほど相手が遠い世界に存在していることを知ってしまい、どうしても噛み合わない歯車に孤独を覚えた、ということは数多くある。知っていたようで、知らなかった人々。それは友人ではなく、互いに友人を探している人々であったのかもしれない。

しかし、昨夜はそうでなかった。
仕事の仲間なので、悉くドライに振舞おうとしてきた仲間である。それが、どこからともなく集まろうという話になって、期待もせずに集まってみたけれど、それが思わず暖かい集まりとなって、話せば話すほど、お互いのシンパシーが高まっていくという、本当にまれにみる幸運だったのだ。

私が檻から出たことによって、いろいろなことが動き出し、私は無意識に選び、無意識に選ばれている。孤独を恐れずに、自分とあまり意味のない繋がっていただけの糸を切ってみると、私自身の糸は、孤独の中にも、自由に自分自身の物語をつむぐための前準備をしてきたのかもしれない。

その下地が、今ある仕事の発展であり、彼らと共に、それぞれがプライベートでも近づきになっていくこの過程なのかもしれない。

一番近しい彼の奥さんが、私を見て、会が終わった後に、すぐさま言ったらしい。
「彼女は、あなたと双子なのね」

彼女は、華奢でメイクもないもしないその素顔が、惚れ惚れするほど美しい。
パリで大学を出て、彼のいるベルリンに移り住んできたのだが、才女とは思えないほどのやわらかさ、しなやかさを持っている。私より10歳も若いと思われるが、少女の面影はなく、彼女は立派な魅力的な女性である。

彼女が、何を持って彼女の夫である彼が私と双子だと称したのか謎なのだが、私はそれを美しい女性からの好意だと受け取った。
彼と私は、会った瞬間から意気投合したし、何より仕事の段取りでのテンポや優先順位のつけ方、または効率に対する考え方がぴったりと一致している。二人三脚のように二人で組むと仕事が上手くいくのである。
そういう彼に、私は大きく一目を置いている。そして、おそらく彼自身も、私と仕事をすることを「楽しい」と表現する気持ちに嘘はないのだと思う。

常に家にいて、まだ小さな子供の面倒を見ている彼女は、私のことを聞き伝にしか知らない。けれど、私たちの仕事の楽しさは、彼女に伝わっていたのだろうし、その相棒を現実に見たら、なんと似たもの同士じゃないの、といった彼女に、私はどんな理由なのかさっぱり分からないが、底なしの信頼と好感を持っている。

おそらくそれは、男女の仲にも、本当に信頼できる友情というものが、あってもおかしくないのだという、そういう友情の始まりに対するひとつの肯定的な証明に感じたからなのかもしれない。
結婚している男性と近しくなると、必ず私はある種の不安感と罪悪感を抱く。
それは、私自身が結婚していた当時に、そういった夫の同僚女性のせいで言い尽くせぬほどの孤独を味わったからであり、そういった女性達がやはり女である立場を決して忘れているわけではないという場面を、嫌というほど見せ付けられてきたからに違いない。

私は、偽善ぶる気持ちなどまったく抜きに、彼女にそういう不安感を抱かせることになったとしたらは本当に心苦しい。
それと同時に、男性と友人関係であるという状況に陥らないように距離を保つべきであるという、多くの場合正しい選択を時に非常に残念だと感じていたのかもしれない。

そこで出会ったこの彼とも、まったく友情という言葉も、プライベートという言葉も抜きに接してきたが、仕事上の意気投合はすべてにおいて肯定的で、隠し立てするような問題ではないのだが、わけの分かららぬ不安が沸き始めていたのかもしれない。

彼女が、私をすんなりその輪に受け入れてくれたことは、私の誕生プレゼントのひとつであり、私は大きく安堵して、仕事上でもプライベートでも、この心からシンパシーを感じている彼と、そして彼のすばらしい家族とを友人だと思って良いのだというお墨付きをもらった気分なのだ。

欧州では、男女というものがやはり表面に常に浮き彫りにされており、それを超えて勝手に友情だと思い込んで、好き勝手に仲良くし、関係を築こうとするのは、無礼にあたるし、あまりにも世間知らずで無知である。
そしてたいていの場合、そんな友情は存在しないのである。
けれど、だからといって、あきらめてしまうには、あまりにももったいない「興味」というのがある。それをなんとか形にしてゆくには、自分で私は女ではない、といっているだけではまったく十分でなく、自分のセクシュアリティをニュートラルにする要因が必要となる。それは、互いの結婚だけでも十分ではなく、友人関係となる相手のパートナーにも、同じように深い愛情を抱くことである。その人を何があっても傷つけないという、二人一組と友情を築いていく、そういう思いやりがないと上手くいかない。そんな風にしか、私は男女の友情には可能性がないのじゃないかと思っている。

今後、この仲間たちとどうなってゆくのか分からないけれど、彼らは私にあてがわれた人間ではなく、私が一人きりで生きていく中で、必然的に私の人生を通り過ぎてゆく人々で、そしてすでにこの短い期間で、幾ばくかの影響を与えてくれている。

このめぐり合い、そしてこの作用のダイナミクスからも、私の人生が再び過渡期に差し掛かり、今もまだ浮遊を続けているのだと実感する。
そして彼らも、おそらく新しいなにか見つけるべく、彼らなりの流れに乗っていることだろう。私が彼らのつむぐ物語の中で、ただの動く知り合いでしかないのか、なんらかの痕跡を残すことになる友人となりうるのか、私には知る由もないが、願わくば、友人となって行きたいと、ひそかに願っている。そして、彼らにはそのために必要な、小さな愛情の積み重ねを、本当に厭わずに注ぎ込んで生きたいという気持ちがあることを、私は昨夜実感した。

本当に素敵な誕生日だった。

2010年10月28日木曜日

ただの日記

最近はどうも忙しいらしい。
いったいどういう状況が忙しくて、いつが忙しくないのか。
いつ自分自身ストレスを感じていて、いつリラックスできているのか、そういったことがまったく実感できなくなっている。
けれど、それなりに受注が押し寄せて、締め切りに向かって毎日夜中まで仕事をしているからか、3日前、恐ろしい背筋痛に見舞われて、にっちもさっちも行かなくなった。

私はそもそもぎっくり腰の癖があるのだが、運動や変な動きとはまったく関係なく、ある日突然腰がくりっと壊れることがある。
そして、考えてみるとたいてい、仕事が押し迫り、寝不足が重なって、仕事の掛け合わせに、ちょっとあえいでいる時なのである。
そういう頃合を自分で先読みできればよいのだが、自分の事に関して鈍感な私にはまったくできない。


この通りにタイの伝統マッサージの店があるので、ひょっこり行ってみたら、大成功であった。
小柄で華奢な、年の頃がおそらく同じと思われる女性が、私の身体を解体するように癒してくれた。
大変な体力の要る仕事だと思うが、彼女は、無口でしかし優れたスキルを使用して、私の身体と対話をしてくれた。

次の日、若干良くなっかが、それほどでもないと言う感じだが、今日、かなり改善し、おそらく彼女の処置なく、ここまで改善しなかったのではないかと言う実感がある。
セクシュアルな意味ではなく、人に身体を触ってもらうと言うのは心地よい。セクシュアルな触体験にも、もちろん肌を触れあう癒しはあるのだが、リラックスとはまた違う。温かみを分かち合う、心を通じ合わせることが、男女の目的かもしれないが、癒しの触れ合いはそんなに熱くない。ひたすら、私自身をケアしてあげていると言う自己満足もある。

明日金曜日なのだが、気が早まって、今日仕事の後にスーパーの魚コーナーで、車えびとイカを買った。アサリもムール貝もなかったので。
そして、ル・クルーゼの鍋で、決してイタリアリゾットではないが、フランスの魚介リゾットを作った。にんにくをたっぷり入れて、ブイヨンなどは一切使わず、塩と胡椒のみ。
息子は、退屈な味だと言うが、最近私は何が入っているか分からないブイヨンには用心している。

どうでも良いことを書いた。
まるで誰かに宛てた手紙のように、時々、こうして何かを語りたくなる。
決して、私はこう思う、こういうことがあった、こうしていきたい、と言う具体性に一切欠ける文章であっても、後一時間も書いていればきっと出てくるであろう、本当に語られることの必要なテーマにも、こうした日常の語らいが影響を与えていると信じている。
思い切ったことだけを書いていこうと思ったブログだが、自分の部屋同然なのだから、好き勝手につまらないことも述べていこうと、そんなことを思った。

ブログを書きたくなるのは、一言、人恋しいのである。それに尽きる。

食後の白ワインを楽しみつつ、また仕事の残りに取り掛かる。

せめて手作りのものをしっかり振舞った晩は、子供たちの胃に良いものを入れたという満足感もあるし、彼らも食後は非常に静かである。
食事は侮れない。

2010年5月5日水曜日

Con chi condivido le proprie passioni?




今日は春らしかった。
最近は気温が上がらず、コート無しで素足で外に出るわけには行かないが、それでも太陽の光はまぶしいほどであった。

昼前、私はマッシモに会いに行った。
マッシモに知り合ったのは最近なのだ。とあるパーティーで顔を合わせた。
彼はイタリア語しかできない。英語もそこそこで、まともに自己表現できるのは母語であるイタリア語のみなのだ。東洋人の顔をした私が、突然それならばとイタリア語を話しだしたのが珍しかったのか、その後もコンサートなどに誘ってもらった。
彼はコンセルヴァトリオでチェロを学んだのだが、ディプロムを取ることなく、彼にはアカデミックに見えた高等教育を嫌悪してドロップアウトした。
その後、散髪屋の父親の下で、修業をし少し散髪などもできるらしい。

訪れたコンサートで、彼の自然な才能に驚いて、その後何回か呑みに行ったという仲でしかない。

彼の母親は半分ドイツ人で、20歳の時イタリアに移住したと言う。
自分のルーツを知るために、変化を保つために、自分の可能性を知るために、根なし草生活を続けているという。
彼は、週末Boxhagener通りの大きなフリーマーケットで店を出し、若干お金を稼いだり、知り合いのイタリア人の店を手伝うなどして食いつないでいる。

頭の切れる男性だが、アカデミックなものやインテレクチュアルなものに対するアレルギーが強いらしい。尤も、学校が大嫌いで、ドロップアウトした当時も何の職業も習得せずにいたというから、なかなか私などには理解できないライフスタイルだ。

家の要らなくなったもの、子供たちのおもちゃやそういった古いものを彼に処分、つまり彼のフリーマーケットで売りさばいてもらうために久しぶりに連絡を取ったというだけの話である。

地下の荷物を車に運び込んだだけで、階上のアパートに他の荷物を見に行ったまま、私達は4時間も話しこんでしまった。何を話したか。そんなことはあまり覚えていない。少なくとも、政治の話でも本の話でも、共通の知り合いが入るわけでもないので、誰かの話をしたわけでもない。互いの人生を延々と説明したわけでもない。

しかし、何か大切なことを話したような気がする。

ベルリンの生活がどうだとか、今現在、私が夫と別れたあとどんな気持ちなのかなど、そんなことを話したのだと思う。
友達というには、あまりにも知らない人なので、知人と言う感覚だ。私はそういう人は、殆どカードの内を見せない。極実用的に会話をしていただけである。

ところが、何気なく話していると、何度か涙が湧き出てきそうになった。
もちろん相手にはそんなことおくびにも出さなかったつもりだ。私は親しくない人には、弱みを見せない人間なのだ。

目頭が熱くなるたび、自分の中の感情は、まだ新鮮なのだと実感した。まだ湯気が出ているほど、「現在」に属する感情で、それに触れただけで、一瞬でも理性が負けそうになるのである。

べらべら話していたら、彼は突然声を大きくして遮った。

そんな風に身体の前で腕を組むのをやめろよ。それは自分を閉じている証拠だよ。

そう言うと私の腕を解き、手をとって、とても暖かく、私を楽にするために抱擁してくれた。それは、私が悲しい顔をして夫との話をしていたからではない。
彼の目には、私がこぶしを握ってドイツの大地に脚を付き、戦闘的に生きているその姿が、私の話しっぷりから見えたのだと思う。
それを哀れに思ってくれた彼は、おそらく人間として私を楽にしたい、いやそんな言葉ではなくて、単に抱きしめてやりたい、そう感じたのだと思う。

触れあいは、距離をずっと縮める。その感触が暖かければ、正直な信頼感が生まれてくる。

その後もしばらく話し込んだ。そして、私は何ヶ月もこのように、自分のおなかの中にずっとしまっておいた私自身の話をしたことがなかったことに気がついた。

私は殆ど誰にも私の魂を見せないし渡さない。その辺は石橋を叩くように思慮深い。傷つくのが嫌なのだ。ならば孤独を耐える方が数倍楽なのである。
魂を見せるということは、私が裸となって自分をゆだねることと同様なのだ。

今日、彼は私に歩み寄って、私に触れて、私の魂をちょっとだけ動かした。

君はね、大事なものを持っているよ。君には、たくさんのことが隠れている。自分を解放してやりな。君はリラックスしているし、ナーバスでもなければ、内気だとも思えない。けれど、君の家族や君の家族が背負ってきたものが、君を形成しているじゃないか。それを本当の意味で切り離すのは簡単じゃない。経済的、物理的独立は、本当の意味の切断とは違うよね。
君の中には、たくさんの整頓された引き出しがあって、それが融合していないんだよ。
Lasciati andare.....   (自分を自由にしろよ)
君は、見る限り、とても強い女性だね。とても芯が強い。

その強さが私の過去の産物。

もう男の人など要らないとは思うなよ。
人間は社会的な動物なんだから、一人なんかで生きられるはずがない。心をオープンにして。

彼の言葉を今振り返ると、如何にも私は肩肘張って生きているのか分かる。

男の人なんか要らないのかって、自分でも思うよ。

そうそう、そういう風に見える程だよ。


今のこの現状では、私は幸福だと思うのだ。
しかしどうであろうか。クリスマスに壊れた家族を思って悲しくなり、子供の誕生日に、父親と祝ってやれずに悲しくなる。

過去を取り戻す気はないが、私の中には一種の不治の悲しみが宿ってしまっており、それ以来感情というものを半ば凍らせるようにして生きてきたのかもしれない。
それで、冷静に先週の話や、仕事の話をしているだけで、目頭が熱くなるのである。

心の開ける人の前では、私は絶対的な信頼感を彼に与えざるを得ないらしい。嘘の会話などできないのだ。白々しい会話をしていると、涙が滲むのだ。

太陽の光が美しい季節である。
あまり美しすぎるので、時々ふっと横に微笑みかけてしまう。
しかし、私の横には、誰もいない空間が広がるばかりである。

喜びを分かち合えない孤独ほど、それが如実に孤独であると強調されることはない。

悲しみも苦しみも分かち合って、慰めあいたいなどと、考えたことはないのだ。人間は、一人で苦しむものだし、また他人は、傍らに存在すること以上できないのである。
しかし、全く意識的には気がついていないのだが、毎日が重く、苦しく、闘いであるからこそ、私が生活に喜びを見つけたときは、飛び上がるほど幸福なのである。子供の笑顔や、美味しい食事、雨上がりの太陽、窓辺に小鳥が来て水を飲む時。そういう時、私はこれを皆に見せてやりたいと言う衝動を抑えることができない。生活の隅々にある。小さな発見。それは、言葉にできぬ重く辛いものをそれぞれが背負い、それぞれがそれぞれに与えられた孤独を生き抜かなくてアならないからこそ、この小さな美しい発見を分かち合うことに意味があるのではないだろうか。
この取るに足らない小さな喜びを分かち合える間は、つながっているのである。

私の不幸は、この喜びを分かち合えるパートナーがいないということだけであろう。

その他の問題など、実は取るに足らないことなのである。