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2020年8月26日水曜日

走り書き

 30年ほど前に、私はパニック障害を患った。その頃、パニック障害などという病名はまだなかった。もちろんインターネットもない、何の情報もない。しかも私はドイツという外国に来て、まだ3年ぐらいしかたっていなかったから、まったくもって情報に乏しい環境にいた。
卒業試験を終え、これからという時、私は進路に迷っていた。自分の専攻楽器が大嫌いで、こればかりは今に始まったことではなく、その楽器を始めたときから好きだとも思えなかったのだが、親に楽器と恩師まで与えられたので、嫌と言えなかった。それでずっと続けてきた。
その楽器で留学することにしたのは、それが唯一の脱出の手段だったからである。

学生中に最初の夫に出会い、そのかつて見たことのないスケールの才能に巡り合い、私は大きく打ちのめされた。最初は恋愛のれの字もなかった。互いに他に好きな人がいたと、そう記憶している。

私たちは友人関係として会っていたが、いつしか別れると電話するようになり、相手にまた会う日を楽しみにするようになっていた。そうして純粋な友人関係としてスタートした私たちの関係は、その後私が死ぬまで書くことはできないと思われる経緯をたどって終焉を迎える。

それほどの人間に巡り合った私は、自分のようなディレッタントな人間が、音楽家になるよりも、このようなすでに世界に十分に貢献している素晴らしい演奏家を支えるべきだと決心し、試行錯誤の後、自分の本業を捨てることにした。

今思えば、それからパニック障害が始まったのである。
最初はとにかく心臓が凄まじい速度で破裂しそうに脈打つので、心臓病に違いないと思った。何もわからない学生の身分(本業をやめた後の試行錯誤の間、私はさらに別の学業を続けることにしたのだ)で、私は近所の内科医に駆け込んだ。その女医は私の健康診断を行い、2回会っただけで、おそらく身体は健康だから、心療内科の分野ではないかと思うと私に伝えた。そして精神科医を紹介してくれたのだった。

精神科医を受診した頃、私は藁にも縋る思いだった。毎週何回も発作に襲われ、とても生きた心地がしなかったのである。

女医は、何回か面談をした上で、私にそれはパニック障害という病気なのだと診断を伝えた。そして心理療法を進めたが、私は他の国に引っ越すことになっていたので、彼女の患者になることはできなかった。薬を出すかと聞かれたが、私は「引っ越し後、そこで他の医師を見つけ、自分で何とかしたいから薬はいらない」と断って最後の面談を終えた。

その後、私は数年にわたりパニック障害と闘った。それについては、いつかまた書くことができればよいなと思っている

しかし、パニック障害は完治していないのだ。未だに私はパニック障害に襲われるのである。
ある数年影を潜めていたが、上二人の思春期が去り、少しは幸せを実感できるようになったというのに、未だにパニック障害が静かに姿を現すのである。

つまり、原因を追究できていない。最初の女医は、間違えなく結婚生活と夫に原因があると言い切った。
国が変わった後に会った心理療法士も上記と同じことを確定した。それは当時はそうだったのだ。夫が帰ってくると空港に迎えに行くと、空港で発作に襲われた。明日夫が帰ってくるというその前の日に青天の霹靂の様に発作が襲ってきた。当時はあれが原因だったのだ。

しかし、その後も続くのは何故なのか。私にトラウマがあるのか、私が何かを抑圧しているのか、今の私には謎が解けないのである。
しかし、私は「家族」「団欒」「幼い子供、特に幼女」「結婚の崩壊」「夫婦喧嘩」「子供への罪悪感」というテーマに触れただだけで、心が崩壊する。二度と訪ねられない土地というのいくつもある。その土地を踏んだだけで嗚咽し続けるような場所である。
これはいささか尋常ではなく、やはりまともに心理療法士に会ってこの消えぬパニック障害のことを話すべきだという気が今さらしている。

単に大きな蓋を被せてしまっただけの過去だが、その中にはとてつもないマグマが潜んでいる。今までだれ一人私は自分の過去を話したことはない。それは私がそれについてまったく話せないからなのだ。しかし、いよいよ蓋を開けなければならない、そんな気がしている。

____________


本業をやめたあと30年近く経つが、私は今でも全く同じパターンの悪夢を見る。
試験会場にいる。舞台のそでである。自分の番はもう目前だというのに、楽器がない。血眼で探す。忘れてきたのか。そして焦って気が狂いそうになりながら探し回るというパターン。
楽器がない、友人に借りる。恥ずかしくて穴があったら入りたいというのに、楽譜を見ると一度も目にしたことがない曲だ。一日も練習していないので、初見で演奏するしかないというパターン。
楽器はあっても、必要な道具がない。またはその道具だけが新品で、一度も試奏したことがないから、一体どんな音色になるのかもわからないというパターン。
卒業試験のプログラムは3曲である。そのどれも入学して以来2、3回しか練習していない。突然できるようなものではない。というのに目前に迫っており、舞台に引きずり出されるパターン。
試験ではないが、自分はレッスンに行かなくなってしまい、教授とのスケジュール合わせに参加しなくなって何か月も経ち、しかし教授も何も言ってこない。風のうわさに私はもうやめたいということを知っているのだろうか。ということは卒業証書はもらえない、だって練習などもう何年もしていないのだから、卒業試験ができるわけがない、と言って教授の顔が頭から離れず恐怖でノイローゼになるというパターン。


どちらにせよ、3歳から26歳まで毎日練習練習練習と脅され、追い回され、追いつめられたのに、そこから逃げたという事実があると、この夢から逃れることができないらしい。

私のパニック障害の原因は、どこにあるのか、それが全く見えないのである。しかしこのアイデンティティの放棄からすべては始まった。それだけは間違えない。

2013年6月28日金曜日

新しい季節

新たな季節が始まった。いやもう一つの季節は過ぎ去り、次の季節が始まっていると言っても良かった。

太陽がその鋭い光線で地面を照らすようになった頃、息子が家出をした。
一大事であった。
それも10日間もいなかったのである。

帰宅するまでの道のりは長く、自己を責め、自己を恥じ、息子の安全を念じた。
結果、彼との深い会話を通して、彼の成熟した精神と、いたって健全な人間性を再確認した。
彼の家出は、彼自身の問題でもあったが、私の家庭の有様をあからさまに描き出し、むしろ私に対するショック療法であったと言っても良い。

その時に、私は決心をした。変わるしかない。
これは紛れもない、私の家庭の最後のチャンスであったからだ。
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それから色々と風が吹いた。
この一件があってから、娘は感情カタルシスを起こしたが、それを機に、病状らしきものが消えてしまった。あれだけ医者へと駆けずり回った私が、道化であったことを証明するかのように、彼女とのコンフリクトは、下火になったのである。しかも朝、陽が昇ったら別人になったと形容してもおかしくない変化であった。
彼女の人格は相変わらず風変わりで、会話をしても通じ合うことはなかなか難しい。
けれど、家族の誰しもが、幸せな家庭を夢見て、愛し合いたいのだと、絶対的な安定の地を求めていることは事実として明るみに出たのだ。
すべては言葉なき事実であったが、それは誰の目にも明らかだった。

そこで、私は小さな幸せを家庭で実行に移したのである。
一緒に夕食も食べられなかった一家が、再び一つランプの下で食事をとるようになった。
そのために私は大金をかけて食卓のランプを調達した。

掃除がはかどった。心の中が整理されていった。
少しずつ、家族の形態が戻り始めた。
凄まじい八方ふさがりの暗黒は、3年間続いたのだった。
娘の病状が出るようになって以来、5年が経過していた。
全員が、限界まで来ていたのだった。
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また風が吹いた。
仕事帰りに買い物に行った帰り、久しぶりに5分の道のりを歩きながら、春の生暖かい空気をありがたく胸に吸い込んだ。
献立は決まっていた。すべてが予定通りだった。
この小さな満足感を誰かに伝えたかった。ひとこと「やっとここまでたどり着いたのだ」と。
それを思ったとき、母の顔が浮かんだ。懐かしい母の声も思い浮かんだが、彼女に電話をする気力は湧いてこなかった。
それはもう、彼女には何も伝わらないのだということを身をもって知ったからである。
彼女は、しぼんでゆく。彼女の世界は、老眼鏡のように周囲が曇っていくのである。
娘のこと、一挙一動を知りたいと思いながら、娘から連絡がなくなって何日かも数えられないのである。
その母に、この胸に湧いた一瞬の幸福感をどう伝えたらよいのだろうか。

その時に、心の中でまた一つ理解した。
もう私はここで歩いているように、どこへ行っても私の人生を私だけで味わうしかないのだと。
私と私の子供たちが、私の家族なのだった。
後ろを向いても、もう親はいない。少なくともこうした突発的な感情に対応できるほどの、精神的な支えは、もう彼女には果たせなくなったのである。
彼女がまだ生きていることが、大きな支えである。
けれど、私の思いは、空気のように彼女の耳を掠め、微笑んだとしても、それは自動的な動作で、その後一分もすれば、もう一度聞き返されるのである。
その暴力的ともいえる虚しさを、何度となく体験してからしばらくたったこの日、私は初めて自立した。
私のひらめきも感情も湧き出る思いも、もう一人きりで消化するだけなのである。
もう私の手のひらにしか、私の人生は握れないのである。
相談もなく、自分の経験と直感を信頼して、一人で舵を取ってゆくのだ。
そして、それを恐れとも残念だとも思わなかった。
生ぬるい風に吹かれながら、もうできる、そう小さなこぶしに力を入れたのだった。
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娘の魂の核となることだけは、支えてやらねば。
どんなに喧嘩をし、どんなに争った過去があったとしても、親は私であり、大人なのは私だけなのだった。病気呼ばわりする親に育てられる彼女の失望感は、私には死ぬまで想像できないはずである。
そこで、イタリアに行くことにした。
彼女のたっての夢である大学が、イタリアでサマーコースを開催するからである。
それは、私からの真剣なそして正直な贈り物であった。
彼女が、最大のチャンスをつかむであろうことは今からわかっている。
あれほどの情熱と献身は、また彼女の父と同じく、他人にはまねのできない集中力に満ち溢れているからである。
それこそがカリスマ性なのであった。

この旅行を家族の転換を完全なものにする行事にすると心の中で決めた。
姉の目も見れない、姉など死んだ、彼女の一家を抹殺するなどと、ホラー映画さながらのことを吐き捨て、一緒に食事もしなければ、一切かかわりたくないと言っていた馬鹿な息子と彼女の関係は修復不可能であると思っていた。
そう信じていた疑わなかった親は、さらに馬鹿であった。これは私の罪である。

なんのことはない、うちの子たちは見事に心の優しい子供たちなのであった。
私が家族大改革計画を実行に移すと、誰しもが気を使って摩擦を避けるようになり、それが次第に中立関係に代わっていったのである。

息子も後からイタリアに来るようにと了解を取るまでに一か月かかった。
しかし、今は誰しもが楽しみにしているのである。
小さなアパートに閉じこもったまま、インターネットも電話もない世界で、しかし私たち4人は、なんとか楽しい夏を過ごすであろうと今から信じている。
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偶然なのか、電話回線の契約切れと重なって、新しい回線を引いた。
テレビプログラムにイタリア語のチャンネルを入れてもらった。
子供たちもなぜか見ている。
ここでどんなにつらくても、ここだけが故郷なのではないという、逃げ道があると、色々なことに希望が見えたりするのである。

イタリアの歌ばかり聞いている。単なるイタリア好きではないのである。
イタリアの歌を聞けば、一瞬のうちに涙ぐむ。
私は前夫のメタファーとしてのイタリアを愛してやいまいかと、ある日突然雷のごとく、そんな思いに取りつかれた。
すべてが、勘違いなのではないか。
イタリア文化との関係は、そんな簡単な好き嫌いの感情ではないのだ。
その裏に、私の知らぬ無意識の意味が隠れているようだが、それを解読できない。

そんな矢先に前夫が姿を現した。
2か月の音信不通後であった。
父は死んだと、これまたグロテスクな嘘を宗教の教師に訴え、家庭は崩壊して、兄に殴られていますと訴え、青少年課を紹介しましょうと教師に言わしめた末子が、見るからに幸福そうであった。
そうだ、父親は大事なのである。

私のこれまでの思いはすべて大陸を隔てた向こうにいた彼の心の中にシンクロしていた。
彼は、知らなかったが知っていたのだ。
私の家族が肯定的に変わり果てた姿を見て、その間にあったことを察したという。
その間、彼の体調は悪く、かの地で自分の新たなる家族と共にいながら、とり憑かれたかのように毎晩私と子供たちのことを案じていたという。
やはりひともんちゃくあったのだねと。
目を見るだけで千言の会話ができることは、20年前から同じである。
その関係の深さが年々強くなり、さらに深くなり、殆ど恐怖に感じるという。
そう思えなくもない。

別れる理由は、愛があるだけでは足りないというものだった。
愛がないと言ったことはなかった。愛が多すぎたと言っても良いのだ。
そうだ、愛が深すぎて別れたのに違いないと、そう納得し合った。
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ある出会いをした。
偶然にもイタリア人だった。
相手は果てしなく興味をそそられたらしい。
私は、知人に再会したような安心感を覚えた。

そして気味が悪くなるほど共通点があった。

しかしこのひとをTuつまりDuつまり君とは呼ばないと、どこかで不思議な決心をした。
相手は、二度も私にTuと言い、何度もLei(あなた)と言い直した。その時の彼の恥た顔は見逃すまでもなかった。
仕方ない、近しく感じてしまうのである。

しかし彼は去った。
私も去る。
彼が戻るまで時間がかかる。
それにLei(Sieやあなた)の人なのである。何という関係もない人なのである。
ところが人々に、何があったのかと聞かれるようになった。
キラキラと輝いるぞと言われた。
よく知らない人に、僕に電話してと番号まで手渡された。
恐ろしく、私はポジティブなオーラを放っているらしい。
5年の暗黒時代は、幕を閉じたのである。

イタリア人には、感情のひだがある。
ひょうきんだとか、明るいだとか、そんな話は嘘に近く、彼らはひどく繊細で、ひどく内気である。
それが、一瞬で会話をドイツ人とはありえない方向に発展させるのである。

娘が一言いった。
「イタリア語を話しているママが一番自然。一番リラックスしている。一番本当のママだよ。」
それは自分でも実感していたことなのであるが、はっとした。それは驚くほどはっとした。
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しかし、この文化を愛する私は、何を隠すそう前夫を求めているのである。
自分で捨て、自分で出てきた家庭を取り戻したいなど、露ほども思っていない。
一緒になど五分たりとも暮せたものではない。

しかし、あの魂なのだった。あの魂と永遠につながっていたいという、つきつめればそれだけを心が求めることをやめないのだった。
彼を見るとき、私は彼を見ていない。
彼の中の目には見えないものを、しかしまさに具体的に目の前に見ているのである。
彼の言語を聞くと、彼がいなくても、あの魂の気配を感じるのである。
肉体も日常もいらないのだ。
あの魂とは、双子なのではないかと、本当にありきたりな安いスピリチュアルブックにある疑問を投げかけさえしたくなるのである。

あの音、あの歌いまわしは、あのことで、ああいう風に泣いていると私には聞こえてしまうのである。
あのビブラート、あのテヌートは、あれを訴えたくても伝わらない、その孤独を嘆いているのだと聞こえてしまうのである。
理屈はない。だから、一瞬を境に恋に落ちたのである。

だから結婚も家庭も、それが崩壊したことさえ、意味はなしていないのだった。
大陸を隔てても、意味をなしていないのだった。
いつでもいるのである。そこに。
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長男は苦難の時を経て、また実技で一番になった。それも演奏にはポエジーがあるのだった。
一瞬顔を表す、魂の奏でる音は、それを聞いた者の心をはっとさせ、次の瞬間溶かすものである。
間違えやしまいか、大ミスをするのではないかと、未だに的外れな気持ちで聞いていると、時々ワープするのである。
気を緩めると、「あれっ、これは!」とハッとするのである。完全に父親の音を聞いたからである。同じミを二拍伸ばすのも、彼のそれには心を揺さぶる歌心が見え隠れするのである。はっとするのである。

このポエジーは、物差しで計れない、計ってはいけないものである。
これは才能なのだった。

その息子は国の音楽英才教育機関に送られることになった。学校以外にこうした半国営の基金でいわゆる才能教育を受けるのである。
親は関係ない。彼自身が花開いて獲得した結果である。
彼のポエジーは、彼の成熟と繊細さと壊れやすさと孤独から生まれるのである。家出も肥やしになったのかもしれない。
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娘のところにある日突然電話があり、働きに行くようになった。
シックなツーリストが集まる、総合アジアンフードのような、ヌーベルキュジーヌのようあ店である。日本人が経営しているのだが、彼女の日本語は小学三年生である。
しかし客は日本人ではないのだからよいのだろう。
せっせと働きに行っている。
小遣いでコンサートへかよい、先日はミュンヘンまで自分で計画して二泊行って帰ってきた。
これは、左と言えば右へ、前と言えば後ろに向かって、年中道に迷っていた彼女にしたら奇跡である。
働き出したことで、とても生活が規則的に回転し始めた。

そして彼女の歌も極まりつつあり、ますますポップカルチャーから遠ざかり、のめり込んでいるようである。
彼女には、人目を惹くカリスマがあり、コンサートに行くたびにその思いつめた目と足取りで、アーティストと会話をし、ひと時の思い出を作ってくるのである。
毎回成功するのは、彼女の類まれな意志力と思いつめた集中力がにじみ出るからであろう。
彼女もメランコリーを持ってる。
果てしないメランコリーを背景に抱えながら、歌声を張り上げる旋律と節回しは、やはり人の寂しさに触れるのである。

彼女も、前進している。
親など関係ない。
子供は勝手に育っていくのである。

もう私は無力だ。
彼らはもう一人前なのだった。

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生身の人間への興味は薄れはて、もう一人以上に良いことがあるとは思えなかった。
しかし、健康が回復しつつあるのである。
苦しさをはっきりと思いだした。
愛されたくもない。愛を乞うつもりも毛頭ない。
しかし子供以外愛せないことは、なんと辛いことであろうか。
愛が前提の子供ではなく、赤の他人だからこそ、小さな愛情でも与えなければ、関係は成立しないのである。
その活動をやめることは、人を信じていないことであった。
それが悲しい。
鳥が戻り、花が咲くという自然の摂理は、決して裏切らない。
そして、五年を経た今、陽はまた昇るのだと、身をもって教えられたのである。
もう一度、人を信じてみたくなった。

そういう気持ちで、イタリアに飛び立ち、毎日家族水入らずで過ごし、思い出づくりをしてくる。
おそらく最初で最後の4人の休暇である。
そして帰宅したら、私は必ず、新たな季節と共に、新たに出発するつもりである。
このまま「Lei」と呼び続けるには限界がある。
嫌でも近しくなることは見えているのである。

しかし頭では考えることは止めた。
セラピストさながらの知識で娘に接しても、悪化の一途であった。
心なのである。人間関係は、心でしか解決できないのである。

前途は、開けている。
もう何があっても、私は幸せに違いない。



2012年5月4日金曜日

揺れるカーテンの向こう

今週、新しいソフトウェアを使った翻訳案件が入り、翻訳者を探すのにひときわ苦労した。おまけにゴールデンウィークとやらで、日本は殆ど機能せず、日本在住の訳者の方々とは、ほぼ連絡を取れなかった。

大きなプロジェクトは2つあったのだが、 その1つ目の訳者が見つかった時は、本当に礼を述べたいほどだった。

彼女のことは、翻訳者の特別ポータルで見つけたのだが、プロフィール写真がなかなか良いのだ。
きっと私よりも若干年上なのかもしれないけれど、翻訳者や通訳者に多いキリキリカリカリしたイメージはゼロで、優しく信頼のおけそうな顔写真である。
背景はもちろん殆ど見えないのだが、それでもその写真がおそらく彼女の書斎で撮られたものであることには間違えない。

白い半透明のカーテンを通して、美しいペルシャ絨毯の敷かれた部屋にほんのりと光が差し込んでいる。壁に備え付けられた重厚な本棚にはたくさんの辞書などが収められ、その向こうには葉の大きな観葉植物が置かれていた。それはいかにも市民的な、いや小市民的とさえ言えるものだった。

この小さな写真を見たのは一瞬である。仕事中なので、別にじっくり見るわけもない。
しかし今朝、もう一度彼女の情報を確かめにプロフィールを閲覧し、もう一度写真を目にした。
一瞬なのであるが、私の心の中に、安定した家庭、安定した環境、安定した心情という言葉が、その写真の背景に思い浮かび、彼女はおそらく驚くほど規則的に生活し、忙しさを理由にもせず、毎日夫(彼女の苗字は日本名ではない)や家族のために、色とりどりの食事を用意しているだろうと想像をめぐらせた。小市民的という批判に満ちた私の言葉の中には、まるで自分の奥深くに隠しがたい小市民の幸せという過去を持っているかのように、このような憧れがあったのである。

その途端に、私の一生工事現場のような人生に疲労を感じ、自分のいかにも掃除の行き届いていない部屋を見て失望し、自分の書斎のカオス状態に恥じ入ってしまった。

いつまで経っても、仮の住まいに、仮の人生のようである。
彼女のようなどっしりとした安定感は、私の写真にはあろうはずもない。



彼女の経歴も輝かしく、東京で1、2を争う一流の女子大の英文科を出て、アメリカの大学に留学し、専門的翻訳学科でマスターを取得し、立派な職歴の後に、どこかで知り合ったご主人の故郷に移り住んで、今まで翻訳家として活躍したことがうかがえる。

私のように、そこらへんに転がっていた仕事をやりながら、本当に学んだことや本当に取得した卒業証書とは、どれも似つかぬ仕事についていると言う支離滅裂振りではない。

激しく心細さを覚え、夏前には辞めようかなと、いよいよ本格的に思い直している仕事に、今日も重い心持で出かけていくのである。

柔らかな風にふわりとゆれる美しい白いカーテンのある部屋で、整然とした仕事場を前に、仕事をしつつ、状況はまったく安定して揺るぎのない達成感がある、というシナリオに目を細めて憧れを抱くが、今ある私の現実こそ、私の求めていたものなのである。ないものねだりは、逃避でしかない。
今日も、明日も、自分の尻をたたきながら、何とかやっていきます。


2012年3月14日水曜日

様々な断片

「症状の裏に隠れた人間性」という言葉が何回か頭の中で繰り返される。
症状というのは厄介なもので、通常の状態よりも激しいために、どうしてもその裏にあるものが見えない。しかしその裏にあるものに少しでも触れることができなければ、何の人間関係も築けないのだと言う問題もある。

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カミーユ・クローデルが精神を病んで療養所に送られる時、それを手配した弟のポール・クローデルは、彼女の乗せられた車を見送った。カミーユがポールを呼び続けていたというのは、映画での記憶だが、Anne Delbeeの本ではどうだったのか覚えていない。どちらにせよ、悲劇的な光景である。
彼女は長生きをした。と同時に長いこと苦しみ続けた。
弟は、とぎれとぎれではあっても、姉を最後まで忘れることなく気にかけ世話をした。

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体調を壊して娘は弱気になった。そんな彼女を見ていたら、やはり我が子である、辛そうなのが可哀想になった。それを察知してか、このところの彼女は攻撃性を潜めていた。昨日それを車中でふと考えたら、別の不安に襲われた。彼女の攻撃性が無い時は、依存性が強く顔を出し、全てを舐め尽くすように吸い取ろうと、必死に愛の証明を求めてくるのである。その予想が的中し、昨夜は甘えるような態度と、まったく自我を失った会話に、次に息をすべきか、それとも息を止めるべきかといったような、存在すら自力ではできないと思わせる会話で、私に「答え」求めて来た。息をしなさいと言っても、何故、または、単にそう言って私を追い返したいだけというダブルバインドで、何の解決にもならない。けれど会話をしないことは、彼女の依存と私への固執を高めるばかりである。一生懸命夜中まで続く会話の相手をする。なだめても疑われ、指摘しても反発され、本音を言えば人でなしと罵られる。根気との勝負だ。
しかし、いずれは彼女の側からのカタルシスが起きなければ解決しない。カタルシスを引き起こすという方法もあるが、それは体調の優れない私には激しすぎた。
彼女は、私の語り尽くした全ての言葉をすべて逆手に取って、酷い酷いと泣き崩れた。哀れであるが、抱きしめてやるような気持ちは沸き起こらない。それまでに私は吸い取られ尽くしているのである。二時間も禅問頭にもならないような不毛な会話をなだめるためだけに、細心の注意を払って、言葉を選んで相手をしているのである。もう眠気で声が出ないと言えば、声を出すまで、質問に答えるまで、揺さぶられ、揺り起こされ、泣きつかれるのである。

彼女は、泣いた後捨て言葉を吐いて自室に行く。ホッとしたと、今晩も生き延びたと、やっと就寝できると、安堵する瞬間である。

その後、間もなく携帯がちりんと音を出す。彼女からのSMSだと直感する。攻撃期ではないため、彼女は情に訴える、いや、こういうと語弊がある、彼女なりに、本心から私への思いを伝えようと、携帯のキーを打ったのである。

ママ、何があっても、ママのこと大好き。こんな風にずっとやっていくのは余りにも辛い。ママのためを思って言っているのだから、ママも変わって。

今朝起床して読み、胸が痛んだ。しかし痛むけれど、ママのためを思って忠告しているのだから変われ、そうでないと私はもう死にそう、という文の背景に、深い疲労感を覚える。

20年前、夫と付き合い、教育され、交渉を繰り返し、譲歩をし、不可能と分かり、全ての責任を背負い込んで私は疲弊し、精神科に駆けつけ、それを突っ返し、自分を痛めつけ、壊れ、別れ、再生したころのシナリオとぴたりと一致することに、深い悲しみと不安と哀れみと出口の無い息苦しさを感じる。

私が依存を生み出したのではないか。

そう言えば、彼女が5歳の頃から、その関係の問題で、彼女ではなく私が専門家の世話になっていたことを思い出した。
心配で仕方なかった。育て方を間違えたと思った。しかし違ったのだ、それは彼女自身の中にあるものなのだと気がついて以来、専門家など不要と決めつけて来た。
しかし、やはり苦しい。とてつもなく苦しい。

*******

それで彼女を人手に渡したら、と思った時にカミーユの叫び声が聞こえたような気がしたのだ。何の共通点も無い話である。しかし、彼女の悲痛な叫びと不安が、娘の悲痛な叫びと不安になって、聞こえて来たのである。彼女の裏にある人格は、心優しく、酷く繊細な一人の少女である。芯が強くどんなことにも負けない精神力がある代わりに、世の中の全ての小さな悲しい出来事に触れただけで、浮浪者を見ただけで涙を流し、心が不安になり、私に縋り付くような非現実的な善だけでできた目を持っている子である。

彼女の人格に到達したとしても、それをどう守ってやれるのか分からないのだ。彼女の感性は「すがるもの」無しには、一日もこの荒波の世の中を渡り歩けないほど、超現実なのである。

彼女が、縋り付く行為とは、こうした背景を抱えた上での自己陶酔という自己防御を実践できる、表現とか芸事が良いのである。それを行っている間は、自己陶酔ができ、自己肯定となり、自己防御できるのである。それを可能にする道を与えてやらねばと、今は学校などという過小な問題は忘れさり、それだけを考えていると言った具合なのである。



2012年2月19日日曜日

エンガディンの谷間で


教会は谷間にあった。空は晴天で穏やかだった。教会の前に広がる小さな広場に私は座っていた。髪の毛を揺らす優しい風が吹くたびに、乾燥した髪の毛の香りを気持ち良く鼻先に感じていた。
この土地の日差しは強い。標高が2000メートルを超えているため、3日目に私の肌はボロボロとはがれて来た。

足下で可愛らしく頭を揺らせているのはカモミールの小花達だった。カラカラに乾いた土の中から顔を出し、夜には恐ろしく冷え込むのに、この花達は元気そうに輝いていた。私は幾つか花を優しく摘み取って、ポケットに入れた。教会の中に置いて来たリュックサックの中に、常に持ち歩いている日記帳があった。そこに挟んでおくつもりだった。

しばらくして太陽の光があまりにも眩しかったため立ち上がった。プローベの行われていた教会の中に戻って行くためではなかった。私は駅へ向かって突然歩き出したのだ。歩いているうちに、どんどん気持ちが急いて行く。後ろを振り返ると教会は、若干小さくなっていたが、まだそこにすぐそこにあった。しかし教会の中からもう音楽は聞こえてこなかった。

駅の前には薬局があった。私は日焼け止めのクリームを買い足すために手に取り、店内に突っ立ったまま考え事をしていた。旅行客が何人かいたその薬局の売り子は、白衣を着ててきぱきと客の注文に応えていた。列に並んでいたのか、いなかったのか、記憶はすっかり消えている。が、いつしか私は白衣を着た薬剤師の女性の前に立っていた。手に持っていたクリームを差し出し、顔の顔がボロボロと剥けてしまい、痛くて仕方ないと訴えた。彼女はやけどをしたようになった私の肌を見て気の毒がり、すぐその角にある医者を紹介してくれた。紙切れを受け取り、礼を言って出てこようと思った時、本来なぜ私は薬局に立ち寄ったのか、その理由が私の首を絞めるように押し寄せて来た。
私は付け加えるように、意を決したような様子もなく、妊娠検査キットをくださいと言った。薬剤師の女性はニコニコしながら引き出しからキットを取り出して、クリームと一緒に白い小さな紙袋に入れてくれた。慣れないフランでお金を払い、飛び出すように店から出た。

私は薬局の白い小さな紙袋を握りしめていた。薬局の外はすぐに小さな駅である。それでもレティシェ・バーンの駅の中では、一番大きな駅である。その駅に向かって左手には割と大きな書店があった。私は紙袋を握りしめたまま書店に彷徨うように入って行った。

入り口の本棚の前に立って、様々な本を見つめていた。しかし題名は頭に入ってこない。背表紙をするりと触って、意味もなく一冊の本を取り出した。ニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」であった。ニーチェの過ごしたSils Mariaまでは、何キロもなかった。私はその本の冒頭を開いた。

Als Zarathustra dreißig Jahre alt war, verließ er seine Heimat und den See seiner Heimat und ging in das Gebirge. Hier genoß er seines Geistes und seiner Einsamkeit und wurde dessen zehn Jahre nicht müde. Endlich aber verwandelte sich sein Herz, - und eines Morgens stand er mit der Morgenröte auf, trat vor der Sonne hin und sprach zu ihr also.........

アインザムカイト!ハイマート!ゲビルゲ!ドライスィッヒヤーレ!

私は迷わずその本を掴んでレジに向かった。静かな書店の中で無言で金を払い、また外に出た。日差しは真昼の高みに達していた。
未だに右手に握りしめていた紙袋は、手のひらの汗で湿り気を帯びていた。私は書店でもらったビニールの手提げに小さな紙袋を入れた。十歩ぐらいトコトコと坂を下れば、もう駅である。一駅乗ろうか、それともどこかへ行ってしまおうか。彷徨うように、小さな駅構内に入った時には決心がついていた。
村のどこを見ても高級ホテルや高級車に溢れ、高価な山岳グッズや名物の食品を売っている店ばかりである。そんな高級観光地の駅は小さく、公衆便所に至っては、とても使用できるような代物ではなかった。こんなところに、シーズンを過ぎれば忘れ去られてしまう山脈の合間にある小さな村にいるのだということを実感させられる。

トイレは駅の裏に板を貼付けて即席で作った壁に囲まれていた。そこに二つの木の扉があり、ねじで取り付けてある緑色の古めかしい錠がかかっていた。しかし電車が来る前なのか、その二つは閉まっていた。しばらく待つと、中から中年の女性が出て来た。同時に隣からは男性が出て来た。二人とも登山靴を履いてリュックを背負っていた。

私は忍び込むようにトイレに入り、中から古めかしい錠を閉めた。そしてその酷く劣悪な環境に一瞬場所を変えようかと思ったが、私の決心は固まっており、もう待ったなしというところまで緊張は高まっていたのだ。
板張りの壁の隙間から、太陽が差し込み、光の筋が内部を照らす。汲取式の酷いものであったが、私にはそんなことは目に入らなかった。床は地面であったため、手提げ袋を取っ手に掛け、キットを取り出す。ありがたいことに電車は去ってしまい、人の気配はなくなった。これで後一時間は汽車は来ないだろう。

ビリビリと包装を破き、生まれて初めて手にするスティックを持つ手は震えていた。目をつむり、意識はどこかへ飛んだまま、何を期待するでもなく、何を拒絶するでもなく、用を足した。それはそれは惨めな数分であった。それでも、私は今そこで知らずにはいられなかったのである。それは子供を宿したことが真実かどうか分からなかった不安からではなかった。そうではなくて、私の人間としての本能が、子供を宿したに違いないと強く私の耳元でささやき続け、そのささやきを聞いていることで発狂しそうであったからなのだ。もう私は知っていた。それを確かめる儀式を行う、それだけの話だったのだ。

そしてそのセレモニーは孤独で寂しかった。揺れるカモミールは、皆で群れて揺れていたのに、私はたった一人で背中に太陽を浴びているだけだった。誰も周りにはいない。故郷は何万マイルも離れ、友人と言える人にも想像のできない深い穴の中に落ちたまま、一人で立っているのが精一杯であった。
薬剤師の女性の清潔そうで、自信に満ちあふれた仕事ぶりに圧倒され、小さな小娘が妊娠検査キットを買う等滑稽で、端から見たらままごとにしか見えないだろうと私は怯えていた。書店に逃げ込んだその時だけ、心の中に静けさが訪れた。見えないけれど、そこには数えきれない無数の言葉が宙を舞っていた。耳を澄ませばその言葉がささやいているのが聞こえるような気さえしていた。そこにある言葉は、絶対に私を責めることはない。私を救おうとして、人間を救おうとして、生きようとする人皆を救おうとして書かれたものに違いない。書くということは、それをしなければ書き手が先へ行かれないから書くものなのだ。その言葉さえ、私を見捨てるはずはない。そういう無意識につられ、私は書店に行ったのであった。

公衆便所の板張りの中に突っ立ったまま、私は時が過ぎ去るのを待った。堪え難いほど鼻を突くアンモニア臭を今でも思えている。息が浅いまま、私はスティックを見つめていた。吸収された水分がスティックの小窓を過ぎたその瞬間、二本のブルーの線がくっきりと現れた。私はそれを知っていたはずだ。既にその事実を知っていたはずであるが、打ちのめされ、衝撃を受け、何度も何度も線を見て、もう一分待って、線が消えやしまいかと最後のあがきを繰り返していた。

やがて、外に人の声がした。私は緑の錠を開けて外に出た。薄暗い小屋の中にいたせいか、太陽の光は目に刺さるように痛かった。

私は駅の前の小道を左に上って、美しく雄大な景色が見えるベンチまで歩いて行った。私のお気に入りのベンチだった。何度も一人で散歩し、駅の周辺で果物や飲み物を買い終えた私は、このベンチに座って読書をしたり、日記を書いて、深呼吸をして、また歩いて私を待っているはずの人がいる場所へと重い足取りで帰って行ったのだ。

ベンチに腰掛けると、そこにはいつもの静けさと、いつもの美しい光景があった。目下には村が広がり、遠くには無数の峠が見える。
その峠の向こうには何があるのだろう。そのまた向こうの峠を超えれば、あの辺だろうか。そんなことを考えると、今すぐにでも逃げ出したい気分になって来た。しかし逃げると言って、どこへ逃げるというのだろうか。私は知らない間に、お腹に手を当てていた。一度さすり、二度さすったら、涙があふれて止まらなくなった。私は子供である。28才と言っても、意識の中では中学生や高校生のあの頃とは少しも差がないのだった。何も知らずに、何も分からず、なんの自信もないまま、子供を宿したって?情けなくて涙が流れ続けた。自信のありそうな言葉を選び、自信のありそうな言い方をすることをやっと少しだけ身につけた、そんな時であった。ところが、一度さすり出したら、その手は止まずに、ずっと何か愛おしいものがそこに入っているかのように、ずっとさすり続けていたのである。そして確かにそこにあるはずのものは愛おしいのだった。
命がそこに新しく生まれたという確信は、今真実になった。それを確かめることは辛かったが、今となっては自分の中に別の命がいるという事実に、驚愕し、うろたえ、申し訳ないと謝り、それでも愛おしくて仕方ないのか、本能的にさすり続けていたのである。いや、確かに愛おしかった。私はそのベンチで初めて、後に生まれる娘に「話しかけた」のである。その最初の一言は「こんなママでごめん」であった。次の一言は「何があっても頑張るから」という誓いであった。

泣きはらしたら、太陽は峠の道をオレンジ色に照らしていた。
昼過ぎに急いて歩いて来た道を今度は重く引きずるような足取りで帰って行った。教会の前の広場に近づくに連れ、またどこからともなく音楽が聞こえて来た。まだプローベをしているのだ。私が駅に行っていた何時間かの間も、彼らは変わらず練習をし、今夜の演奏家に備えていたのだ。それが彼らの仕事であり使命である。

広場の土はもう冷たかった。カモミールは相変わらず揺らめいていたが、それは寒さに震えているように見えた。
私は教会の古めかしい扉を開けた。小さかった音が、突然大音響のように耳に入る。同時に、彼らは私を一瞥したが、何事もなかったかのように演奏し続けた。楽章が終わり、彼らは演奏を止めた。私の立ち向かうべき相手は、私の方に再び顔を向け、「やあ、何して来たのかい?どこに行っていたの?」と尋ねてきた。その眼差しは優しい目ではなかった。その目は明らかに警戒していたのだ。何も知らないはずの彼は、私を警戒していた。

今の私なら、この男はどこまでも私を愛し続けてくれるだろうが、それは私が彼から髪の毛の一本も奪わない、欲しいと口にしないという条件があっての話であるということが分かる。彼が与えたいと思えば、いくらでも惜しまず与えてくれる。それは感動を超え、圧倒されるような愛情である。しかしそれは彼が与えたいときであり、その時はいつ来るかわらず、どのぐらいあるのかも分からず、あるいはもう二度と来ないのかもしれなかった。私は待つだけが許され、与え続ける代わりに、こちらから欲しい、必要だということは言ってはならないのだった。それが彼の警戒したあの目である。それが私には分からず、普通のまなざしであるはずなのに、「なぜ私は怯え続けていたのだろう」と、何年間も来る日も来る日もノイローゼになるまで自問し続けていたのだ。しかし、当時の私に、何故それが分かるはずがあろうか。

プローベを終わりにして、軽く何か食べ、演奏会まで休もうということになって、彼らは立ち上がった。彼らの生きている世界と、私の生きている世界には、見えないがバリアのような断絶があった。私はあの午後、完璧に取り残されたのである。いや先に行かねばならなかったと言っても良い。どちらにせよ、私はあの世界にいたままでは、身体の中に宿った新しい命を守る力は吸い取られ尽くすはずだと知っていた。
私と彼を結ぶことになった命が、私と彼を断絶させたのである。
私のエネルギーを彼以外の他に注がねばならない、そう言うれっきとした事実が生まれてしまったのである。彼が止むことなく命を一日一日と削りながら音楽に献身して、文字通り捧げ尽くしているその姿と同様に、私は私の命を一日ずつ彼のために削り、献身を尽くし、情熱を絶えさせてはいけなかったのである。

ところが、望むと望まざるに関係なく、私はあの日の夕方誓ったのである。人生初めての誓いをしたのである。「何があっても頑張る」と。私は生まれて初めてお腹と会話をした代わりに、自分では気づかないまま、永遠に彼に別れを告げる決心をしたのである。新しい命は崩壊であり、私たちを繋げて家族にしたこの運命は、私たちの魂を、しかしぱっくりと裂いてしまった。

だからである。言い訳ではないが、だからである、私がなぜ演奏会の後まで待たずに、いやホテルで二人だけになった瞬間を待たずに彼にこの真実を告げたのは。
ぶっきらぼうに「妊娠した」と吐き捨てるように全員の前で言ったのは、決別であり、彼からも決別させるために、挑発したのである。それが私の心の底からの、娘のために人生を掛けた覚悟だったのだ。別れようと決心していたのだ。その夜荷物をまとめて旅立とうと思っていたのだ。

その夜ツァラトゥストラの第一部七章を読んで泣いた。

予定通り、その後の私の人生は「失敗」が続き、繰り返し孤独に陥り、繰り返し起き上がることの繰り返しであった。しかし、私が生きているのは、未だにこのストーリーの中であり、あれ以来新しく始めることなどできていないのである。そもそも新しく始めるなど、誰にもできない。私の人生はこの一つのストーリーであり、登場人物を変えたからと言って、私は何からも逃れられないのである。

Inzwischen kam der Abend, und der Markt barg sich in Dunkelheit: da verlief sich das Volk, denn selbst Neugierde und Schrecken werden müde. Zarathustra aber sass neben dem Todten auf der Erde und war in Gedanken versunken: so vergass er die Zeit. Endlich aber wurde es Nacht, und ein kalter Wind blies über den Einsamen. Da erhob sich Zarathustra und sagte zu seinem Herzen:

Wahrlich, einen schönen Fischfang that heute Zarathustra!
Keinen Menschen fieng er, wohl aber einen Leichnam. Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn: ein Possenreisser kann ihm zum Verhängniss werden. Ich will die Menschen den Sinn ihres Seins lehren: welcher ist der Übermensch, der Blitz aus der dunklen Wolke Mensch.
Aber noch bin ich ihnen ferne, und mein Sinn redet nicht zu ihren Sinnen. Eine Mitte bin ich noch den Menschen zwischen einem Narren und einem Leichnam.

Dunkel ist die Nacht, dunkel sind die Wege Zarathustra’s. Komm, du kalter und steifer Gefährte! Ich trage dich dorthin, wo ich dich mit meinen Händen begrabe.


これが、私の人生の本当の始まりのゴングであった。ここから全てが始まり、この7章のIch trage dich dorthinという言葉を信じて先へ一緒に歩んでしまったことで、私は夜に始まったその人生の相応しく、未だに迷路の中にいるままである。 これが愛なのかどうか、それは実は愛ではないと思うのだが、逃れられないほど強烈な体験に巡り会えたことが、私の人生の全てであり、それ以降の事物は、余りにも色あせて見え、生きている心地がしない。そうして未だに過去のストーリーを読み返して生きているだけという、実に閉鎖的な生き方しかできない。しかしそれで死んでしまっても、もう良いと本当に納得できる。それは悲しみの伴う大きな幸せである。

2011年12月22日木曜日

告解

午後、上司は北ドイツはニーダーザクセンの故郷へ向かうため早退した。
今週に入って以来、朝の通勤時間帯の渋滞が激減して、30分もかからないうちにオフィスに到着してしまう。皆故郷へ帰ってしまい、東ベルリンの都心に当たる部分には如何にベルリン人が住んでいないのかを実感する。

去年は深い雪につつまれて、車を動かすどころではなかった。どのスーパーにも雪かきスコップが売り切れで、仕舞にスコップを買いに出かける車を出せなくなり、一歩あるけば滑って転ぶような天候の中、アマゾンの特急便でスコップを購入し、二時間あまり車の周りを掘り起こし、それでも発車しないので、玄関のフットマットをタイヤの下に敷いて、発進し、また敷き直して進みということをして、駐車スペースから出たのを覚えている。
こつは、とにかくはまり込むような駐車スペースに入らないことだけだった。

今年は驚くような暖冬で、一度ボタン雪が降ったきり、白い雪は目にしていない。
そのせいかクリスマスというような実感が今ひとつ涌かないのだ。

今朝オフィスに出勤すると、デスクの上に大きな箱が置いてあった。
会社からだと言いつつ、上司と一人の同僚が私に贈り物を用意していてくれたのだ。
チョコレートと赤白ワインを組み合わせたパックで、非常に上品でシャレていた。私がワイン好きで、チョコレートと赤ワインをデザートにするなどという無駄話を覚えていたらしい。

ありがたいことに、この忙しいさなか、私も二人のプレゼントは用意してあったので良かった。一人にはオーディオブックと純粋なホットチョコレートを。上司にはキッシンジャーの書いた新刊本と手に入らないと嘆いていたトワイニングの紅茶をプレゼントした。
頂いた物に見合わないようなもので、申し訳ないと思いつつ、でもお互いにそれぞれの存在を大切にしているのだということが同時に伝わって来て、とても心温まった。

上司が消え去った後、私と向かい合わせに座っている同僚と話し込んでしまった。
彼と私は非常に馬が合う。ついつい話し込んでしまうのだ。
娘との電話での会話を聞かれると、必ずあまりにも冷たい、あれじゃコミュニケーション拒否だよと説教される。

何故、コミュニケーションを拒否することが互いの狂気を回避することに繋がるか、そんなことを説明するのは、家族の裏を明かすことで、娘を裏切るような気もするし、言い逃れのような気もして来る。そう思ってついつい、事情があるのよと口を濁していた。

それでも、もう何ヶ月も向かい合わせに座り、仕事をして、食事をしていると、そうでなくても感性が似ている物同士、色々と分かってくる物なのだ。娘の話題を避けている私から、一言でも何かその日の娘との電話ややり取りについて聞き出すのが彼は天才的に上手い。そうして、今日も一言、昨日も一言、とやっている間に、彼の頭の中の想像が形になってきたらしい。

今日はそのことで始まり、それが世代を超えているある一家の運命として、またはある才能が独立して存在しているかのような「引き継ぎ」があるのだという話にまで至った。私の話は、全く具体性に欠けていて、始終、その出来事や今の道のりが、どこからやって来て、どこへ向かって行くのか、ということ以外語れない。

才能を引き継ぐことは素晴らしいと言う。誰しも、素晴らしい才能にあやかりたいと願い、子供にそれを継承させたいとも思うらしい。
しかし、私には才能というものをそんなに簡単には捉えられない。
人の心を揺さぶるような才能の裏には、必ずコインの裏のように、暗い部分が潜んでいる。その暗い人の目には触れない、所謂ネガティブな部分を一緒に背負う覚悟がなければ、才能等に手を触れてはいけないのである。
世間の求めている才能というののではなく、個人が個人の何かを削ってでも投入し続ける、人にはまねのできない集中力と熱中力で紡ぎ出される何かのことを言おうとしているのだが、上手くは表現できない。

才能の隣に立つというのは、才能から湧き出るカリスマ性に巻き込まれずに、自分をも失わずに、凛と立ち続けていられる強さがなければ、食われて終わりなのである。
そのことを私は一度も問うことなく、世代にまで及ぶような家族の運命とも言える重い物を背負った才能と生きることを引き受けてしまった。

そして、離婚しても、男女の関係を終焉させても、その関係性は一生消えないのである。物の見事に、私達の子供達の世代ににもその黒々しい運命は、人も驚くような才能らしき物と共に、娘の中に引き継がれ、顔を出す機を狙って私の背後に差し迫っていたのである。
そして今、私は夫とは解決できなかった、自分の絶対的な弱さを娘との間に実感せざるを得ないという自体に陥り、苦しんでいるのだが、これも何も、才能という目眩く毒素に身を委ねてしまった過去の残骸なのである。

私の人生が私に何を求めているか分からないけれど、終わっていない、それだけは分かる、それどころか、今始まりのゴングが鳴ったばかりという気すらする。

何を話していたか忘れたが、おそらく世代を超えて引き継がれる才能という正の物の裏には、必ず負がついて回る、それに関する責任を持つ覚悟もなく、才能をある人に勝手に惹かれて、毒された自分の未熟さをせめていたりしたのかもしれない。

私の話術は、決して上手いわけではない。それでも突然同僚が、君の話を聞いていると鳥肌が立つ、と言った。
私は嬉しいとは思わなかった。それよりも、ああ聞いてくれたんだ、共感を持って、この人はこのつまらない超個人的な話を聞いていてくれたんだと言う感謝が涌いて来た。

外は暗くなり、お互いに家路につこうと荷物を鞄をにまとめた。
静かな空気が流れていた。彼は何かに心を打たれ、私も何かに心を打たれていた。
あの人は、私の心に触れることが自然にできるのだ。そして、なかなか大切な話こそ他人には語らない私に、大切な話だけを語らせることができる。
そして、私は知らない間に控えめだが正直に語ってしまう。そして私は、確実に何かに心を動かされ、深い胸の内で、その感動を味わっているのだ。

一目につかないところで、誰からも切り離されて、たったひとりぼっちだと感じながら、毎日毎日子供の顔を見て、色々な出来事を乗り越えて、私なりに私の持っている家庭を守ろうとしている、そう言うつまらない、話題にするに値しない人の生き方に耳を傾けてくれた、その嘘の一切ない素直な態度に心を打たれたのである。

毎日仕事の合間に、電話でなんだって?と嫌みなく聞かれ、私もたった5言で、娘がこんな馬鹿なこと言って、信じられない、あの子の自分勝手は許せない、と言うと、必ず彼は、それにしてもあんな存在拒否のような声で言わなくても、と相づちを打つ。そんなことを繰り返しているうちに、私は何故か、どこかで緊迫した彼女への思いに、すっとすきま風が入って来たのを感じるようになっていたのだ。
それが私を救っていた。

何故彼が今日、こんな話に心打たれたのかは分からない。単に、私の生きる姿に小さな一生懸命さを見たのかもしれない。そして私の話し振りが告解に聞こえたのかもしれない。

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娘は風邪を引いて寝ている。
家へ帰ると、のこのこと寝室から出て来て、お腹がすいた、死にそうだ、こんな物は食べられない、どうしてもあれじゃなければ嫌だ、どうせ私が病気なのが面倒くさいんでしょ、こんな具合悪いのに、一体どこでどう過ごしたらいいの、とうのが永遠に続き、その後、母親のくせに何一つ人のためにせず、一度の私の存在を認めず、愛したこともなく、おやすみと言ったこともなければ、私を助けてくれたこと等一度もない。という行が聞こえて来る頃には、絶叫となり物が飛ぶのである。

気を許して、気安くその場を収めようと優しい言葉等吐いたら、手どころか腕も足ももぎ取って行くような勢いで、一瞬のうちに、彼女の手中に収まってしまう。ああ、ママも分かってくれた、ならコミュニケーションと言えるが、そら見ろ、認めただろうと、状況は更に悪化し、その後何ヶ月も何年も、あのとき謝ったはず、あのとき私のことも分かる、可哀想だって言ったはず、この矛盾した態度はなんだ、となじられ続けるのである。

娘さん、思春期なのよ、などという気楽な言葉は聞くに堪えないから、私は誰にもこの話はしない。あの同僚以外には。

その娘がでも、一瞬機嫌の良い何分間がある。機嫌が良いか、激怒して人をなじり倒すかどちらかしかないのだが、今日、その機嫌の良い何分間かで、突然こんなことを言ったのである。

ママの隣にずっと置いておいてもらえる赤ちゃんに戻りたいなあ。

これはショックであった。
母親の教育や家庭環境が物を言うのは周知の事実であるが、私の問題は、世代間という深さに関係し、特殊な才能を伴った子供の、母親である私の領分を超えた凄まじい存在のエネルギーとの対決という側面も、絶対に抱えているはずだと確信して来た。そしてそこに間違えはないだろう。
しかし、それでも単に「愛し直しなさい。自分を叩き直して、彼女の好きなように愛し直してあげなさい」というだけの問題である気もして来た。

そして、その声がずっとこだましている。

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車中、同僚との暖かい会話の余韻に浸りながら、あんなにかわいい子供達を持った私は、一体これ以上何を求めているのだろうかという一点に考えが集中してしまった。
色々ある。色々あった。色々なことで挫折し、何度も起き上がってきた中で、常に子供達は一緒にいた。いや寄り添ってくれた。
子供に救われ、子供に生かされている。そういうことを実は毎日毎日実感しなくれはいけないのは、この私なのだ。

帰宅して、一生懸命遅い夕食にした。特別なことは何もしなかったが、子供達を見てもイライラしなかった。

娘の心根の優しさは知っている。
娘は私の心根など、凍り付いていると思っているだろう。それは私だけの責任であるという気がして来た。

どう転ぶのか、どっちに行くのか、全く分からない。
自分を叩き直して、愛し直す等、絶対にやるわけがない。それは今から分かっている。私の否を認め、捧げ尽くすことで、搾取されるのはやはり心の健康には良くない。彼女にも、必ず学ぶべきことはあるのだ。
今の私には自分が真面目に必死に生きて行くことを見せるしかできない。優しい言葉も悪用されると、人間与えられなくなって行く。それは身を以て学び、自分を守らなければ、まず生きて行かれないということを知っているからこそ、今の状況では優しい言葉は与えられないのである。彼女も保身し、私も保身している。どこまでも並行線である。

同僚との向き合ったデスクが象徴するように、私は彼を鏡のように見立てて、時々、ぽつっと娘のことを呟く。初めてこの話題が公になった場だった。そのことで、私の中で何かが始動した。もう埋もれさせているばかりではだめだと。

解決も答えもない。

でも車の中で、今日もワイパー越しに見える師走の夜の喧噪を眺めながら、周りが確実に変化しつつあり、少なくとも私はずっと考え続け、ずっと対面し続けていると実感した。毎日車の中で、新たなエネルギーを絞り出し、夕食を待つ子供達の元へ帰宅している。

歌われているように食って飲んで死ぬのだ。
それまで、必死で這いつくばりながらも生き続ける。それだけの話なのだ。


2011年10月29日土曜日

川べり


夕方になると、ライン川の水面に、橙色の光が降り注いだ。緩やかな水の流れに、その光はきらきらとした光線を形作り、本当に宝石が至る所で揺らめいているように見えた。
旧市街のある向こう側の岸辺はにぎやかである。けれど中心部の古い橋を渡ってこちら側に来て、川沿いの道を少しあるくと、こんもりと木の茂る大きな建物が並び、静かな空気に包まれれる。




陽の長くなった初夏、その辺りを子供達をつれてよく歩いたものだった。
末っ子をバギーに乗せて、その後ろに息子を立たせ、娘はバギーの取っ手に必死につかまりながら、小走りで着いてきた。娘がまだ幼稚園だった頃である。

途中で小さなバイクの積荷にアイスの絵が描かれたボックスを乗せて、ジェラートを売り歩くイタリア人によく遭遇した。そのたびに私は必ず子供達のために買ってやった。息子はチョコレートとくるみが好きで、娘はマンゴーだった。末っ子と私はピスターチを分けたものだ。
口の周りをべとべとにして、太陽に赤くなった頬にアイスをほお張る子供達を見ること以上の、平和な気休めはその当時考えられなかった。

意味もなく、川辺をそうして歩き続け、色々な人に遭遇する。アイス売りの叔父さんにはイタリア語で話しかけられ、小さな子供のいる家族連れは、子犬などを引っ張りながら幸せそうにスキップをしている。誰もが長くなった日を楽しみ、日没の後も、テラスに座って夏の夜を楽しみだす頃だった。

私は放心していたのだろう。3月の31日にシェルターに逃げ込み、夫に泣きつかれて家に戻り、彼が目を真っ赤にして、別居を受け入れると言い出してから何日も経っていなかった。
テーブルをひっくり返したり、私を子供の前で引きずりまわしたりした後の、彼なりの降参だった。その憔悴した瞳を見ていたら、別居を強行する自分自身が鬼に見えた。

一方で私自身の限界は極度に達し、悪夢にうなされ、買い物に行くたびに財布をなくしたり、鍵を落としたり、夢遊状態で生きているのとなんら変わりはなかった。
郊外に引っ越したばかりの庭付きの新築の家が、妙にがらんとした風に移り、全てが空虚で望みがなかった。
せっかく手に入れた家も、引越しで二ヶ月も経たないうちに、やはり夜中に練習できないので、この家はダメだ、という言葉を夫から聞いた時、三人の子供達との、小さく小市民的な、気恥ずかしくなるような幸せを求めて、全ての現実的処理を私が担って努力してきた道のりが、一瞬にして否定された。それが別離の理由ではない。しかし、家を手に入れるなど、必要なかった、無駄だったといわれ、当然その罪を再び一気に私一人背負ってしまったことは事実である。

それから真空の世界に一人で存在するような虚無が襲い掛かり、子供達がどれだけ可愛いか、生まれたばかりの末っ子が泣いているのか、泣いているならどれくらいの時間泣き続けているのか、そういったことが、一切分からなくなっていった。
はっきり言うと、私のその頃の記憶が本当に殆どないのである。

自分を責めることは、別居の決心を境に、意識的にしないようにした。それよりも私がまともに息を吸い、まともに子供達と向き合い、おびえることなく生活できる環境を、もう本能的に求めており、そのことに夢中になっていた。その頃出会った見ず知らずの人々のことは、それでもずっと記憶に残っているのである。シェルターに電話をかけ、嗚咽しか出てこなかった私に、大丈夫、私たちが守ってあげますといい続けてくれた電話口の女性、市電の駅で待ち合わせをし、私たちを導いてくれた女性、恥ずかしがらないで、人間には色々なドラマがあるのよと、私の調書を取ってくれた女性。

その時、娘はぼうっとしていた。アパシーのように、お気に入りのモリー・ポニーという馬のぬいぐるみを抱きしめたまま、常にバギーの取っ手を必死に握り締め、私についてきてくれた。私の二の腕にあった幾つもの紫色のあざを、彼女が見たのか見ていないのか私は知らない。でも、彼女はそんなこととは関係なく、まるで全てのストーリーを知っているかのようだった。そして彼女が口を開くことは一切なかった。

シェルターの部屋での夜中、窓から星空が見えた。本当に美しく瞬いていた。遠くに見える家屋の窓には、子供達が切り抜いた切り絵が張ってあったり、モービルが吊り下がったりしているのが見えた。疲労困憊した身体からも、自然に涙があふれかえってきた。あそこにも、ここにも、どこにも家があって家庭がある。当時の私には、帰る家もなければ、家庭もなかった。その時、娘の目がぱっと開いていた。ごめんね、こんなところまで連れてきて。もうすぐおうちに帰ろうね、と声をかけてやったら、娘は私に擦り寄ってきて、ママの行くところならどこでも良いよ、どこまでも行くよ、と小さな声でささやいた。

また、ある時、絶望に嗚咽し、寝室に座り込んだまま何時間も立てなくなってしまった私の元に、幼稚園から帰宅したまま放り出されていた可愛そうな娘が静かにやって来た。そして、一枚の絵を私に差し出したのである。そこには私と三人の子供達が描いてある。彼女は昔から絵が上手く、取り付かれたように一日中描いていた気がする。
私は、急いで涙をぬぐい、目がつぶっているように描かれていた私の顔を見て、彼女に寝ているの?とたずねた。娘は、うんん、ママは泣いているの、と答えた。三人の子供達の顔はどれもニコニコと笑っている。彼女の大好きな父親はそこには描かれていなかった。
私はしばらくその絵を宝物のように額縁に入れて飾っておいた。
眠っているように見えた私は、もう一度見直すと、まるで菩薩のような静を放っていた。
彼女は心に何を抱えて、この絵を描いたのか、私は知る由もない。それは、きっと単にママの元気を願っていただけなのだろう。

彼女は、そういう子供だった。私と精神的に一心同体のようなところがあった。何かが投影されてはいまいか、何か禁じられた悲しみを伝えてしまってはいまいか、そんなことばかり考えていたが、渦中を生きている私には、そうであったとしても、どうすることもできなかったであろう。

引っ越しが済んでからも、私はおびえて暮らした。電話が鳴れば飛び上がり、暗くなれば、いつベルがなり、夫が私に切願して、その感情を決壊させまいかと、びくびくと緊張していた。変なめまいに襲われたり、原因不明の嘔吐に夜通し苦しむということがあった。

それでも日が出ると、私は子供達を連れて、外に出るようになっていた。それがこの初夏だったのだ。緑の葉一枚一枚をあの頃ほど愛おしいと思ったことはない。歩道の脇に生きている小さな蟻一匹をじっと見つけているだけで、そのせかせかと本能に従って生きる姿に、生の命を実感し、立ち止まったまま動けなくなり、終いには座り込んで、蟻の方がよほど自分より優れていると、涙がこぼれてきたこともある。そんな時、私より一歩遅れて、私の横に来てしゃがみ、顔色を覗き込むこともなく、状況を受け入れるかのように、蟻を一緒にじっと見つめてくれたのは娘だった。

あまりにも不意に涙が流れるので、急いで木陰に隠れ、涙をぬぐってまた笑顔を作るのだが、他の二人の息子は何も知らずに、元気に笑い声を立てていても、娘だけはすぐに察知して、私の背後に立っていた。

娘が二歳の頃から始まった帽子を放せない症状、幼稚園時代を通した無言、その無音の視覚的のみの情景を思い浮かべると、いつもこの川べりの光景を思い出す。小さな町で、何年か住めば、隅から隅まで行ったことのある場所となり、知人に会ってしまうような所だった。そして、様々な楽しく、時に耐えがたいほど悲しい思い出が、至るとこにちりばめられていた。そんな中、この川べりは、未だに無音の静かな川の流れとして、私の脳裏に焼きついている。

ライン川の静かな流れに迎合するように、私自身の内面の流れもようやくゆっくりとした速度になりつつあったとも考えられるし、脆くとも新しいスタートを切った私の、私と子供達だけの思い出の散歩道だったのだとも考えられる。

娘の状態が色々と顕著になり、私自身が最近自分を責めることをきっぱりとやめ、彼女自身に振り回される自分や家庭を必死で守ろうという態度になって以来、心の中には悲しみがあふれてくることが多くなった。
闘いを続けている間は、人は必死なのだ。今でも私は生きるという闘いを続けている。しかし、彼女に振り回されることが彼女のためにはならないと、痛いほど理解した時、私は彼女に制止線を引き、自分を守ることを優先しだした。それは別れた夫に対して最後にとった手段と同じである。そして私の得るものは、いつも静けさや平和どころではなく、深まる悲しみばかりなのだ。

ゆらゆら揺れる水面にきらめく光を見つめている私の隣には、緊張したまま、無言で、ママ、ママ、と心の中で呪文を唱えている娘が思い浮かぶ。
今でも、彼女とはこの川の中を一緒に流れているのだと、私はどこかで知っている。
私が悪いと、彼女の盾になり続ける事が、彼女の心の平和をもたらすのなら、どこまでも打たれようと思う。しかし、そうではない。喪失の恐れがあまりに強すぎて、それがエゴや人を支配する行為となってしまう、言ってみれば憐れな彼女に対し、私自身が一人の人間であり、私とあなたは一体ではない、何をしても赦されるわけではないと、突き放しを突きつけることで、彼女に自立をしてもらうしか方法はないのだ。つまり気づきを与えるのだ。
しかし、皮肉なことに、彼女は一番恐れていた喪失、母への信頼の喪失、所属しているから赦されるという逃げの喪失を一気に味わう。
最も失いたくないものを、すがりついたゆえに、失うのである。

母親の責任は問われて当然だが、私は私のプライスを払おうと、日々赦されようなどとは思わないことにしている。
そして、私は彼女をどんなことがあってもあきらめはしない。希望だけは、私が死ぬまで持ち続けても許されるものなのだ。

夫は、義母との交流を絶つことで、逃げた。私は夫への関係を解消することで、状況を無にした。しかし、娘に対しては私からは関係を解消できるはずがない。そして彼女が、私への関係を深く、耐え難い失望の末、絶つだろうと予想はしても望んではいない。

きらめく水面を思い出しながら、彼女はそこに必死で母親の心をつかもうと、無言で立っていた。私はそのことを常に心していなければならない。


2011年9月24日土曜日

娘の横転ポイント

一日中珍しく家事に精を出し、ワインを一杯飲んだだけで疲労して酔っぱらってしまった。
けれど、夕食前の買い物へ駆け足で行った時、ふと心に浮かんだことを乱文でも書き留めておきたかった。

娘の横転ポイントは果てどこだったのか、いつだったのか、そんなことを考えたことはない。渦中にいると、灯台下暗しのように、何も見えない。今までの道筋も見えなければ、今いる状況が道筋の一体どの辺りに位置しているのかもわからない。

今日は息子の学校の父母会だったのだ。そして生徒達の演奏によるマチネーの後、校長先生からの挨拶があり、その後やっと各クラスに移動するのだが、私自身はマチネーには行かず寝坊し、隠れるように直接クラスの教室に忍び込めば良いと思っていた。

担任の先生の挨拶があり、役員選出の段になって、なんの因果か知らないが、あれよあれよという間に役員になってしまった。反論のしようがなかった。確かにこのクラスでは古株であるが、どこまでこの非政治的な私に、こんな政治的役割が勤まるのか、努力する以外、申し訳が立たないだろう。

父母会の後、仲の良い親達と話していた時、有名なバイオリンの教授の話になった。
彼はベルリンの音大で長年教授職についているが、何しろ才能のある子供を一人前にするので有名な先生で、特別に目のつけられた生徒は、全員この先生のところに門下替えする。そうでなくても、常に実技の先生をこの先生のクラスに変えようと必死になっている親達ばかりである。

近寄りがたいかというと、全くそんなことはなく、学校のオープンデイなどは、何時間もの待ち時間が当たり前という、トライアルレッスンの行列ができるが、名前を書いて申し込みさえすれば、どんな子供でも先生に少しはレッスンしてもらえるのである。


娘が小さかった頃、私はバイオリンをやらせた。彼女がどんな子供になるか、決して想像できなかったが、私はバイオリンという楽器のレパートリーの多さ、そして室内楽や古楽での楽しみを思い、彼女には是非弦楽器をやらせようと思ったのだ。まさか職業にさせるなど、思いもよらなかった。
スイス時代についた先生は、親切だったがメソッド的には色々と問題のある教師だった。しかし私たち親の誰も、真面目にやらせようと思ったことがなかったので、気楽なものだった。
そして、彼女はいかんせん消極的すぎた。人前で大股で歩くことすらできず、挨拶に人の目も見れず、頭を下げる動作さえ恥ずかしく思い、単に歩くという動きだって、ぎこちなく見えるほど、自分の存在に対する感覚が鋭敏すぎた。彼女には、公で一歩足を動かすことが、凡人にとっての道ばたで転んでしまうほどの大げさな動きに感じ取れてしまったのだろう。

そんな子が、楽器を習得することが簡単であるはずがない。
そして私たち夫婦の姿も不安定で、彼女は殻にこもるばかりであった。

ベルリンに来て、初めて何らかのメソッドというものを持った先生についた。
彼女は3年生になっていた。一年後に才能援助試験を受けるよう勧められて、見事に受かり、無料で一時間半のレッスンを受け、音楽理論とオーケストラなどの授業も受けられるようになった。
この才能援助試験を毎年試験を受け直して更新し、公立音楽教室で彼女は優秀だなどと言われるようになった。
私にしてみれば、一切口をきかず、人形のように、棒立ちでバイオリンを弾いていただけだ。音楽に沿った自然の身体の動きなど、私には全く見えなかったのに。

彼女が7年生になった時、弟は有名な音楽ギムナジウムに入学することになった。7年生からギムナジウムに移行するのが通常だが、成績の良い子供達は、すでに5年生からのコースに試験を受けて転校し抜けてしまう。
息子は、そう言う類いの子だったのだ。
その関係でその年、名の知られたこの学校のオープンデイに娘を連れて行った。珍しく前夫が一緒で、娘に絶対にトライアルレッスンを受けるようにと、リストに名前を書き入れてしまった。

そろそろ思春期になっていた彼女は、その時顔面を崩して、この世の終わりのような顔をして、泣きじゃくった。体重全部をかけて地面にへばりつき、何があっても行かないとだだをこねた。
そして珍しくも普段一切子供の教育にも関与せず、非常に優しい父親が、このときとばかり、彼女を強制し、引きずるように連れて行ったのだ。
何の準備もなく、今弾いているVivaldiかなにかを持って行っただけである。

他の子供達はこの日、この有名な教授につくために、もう何ヶ月も前からレパートリーを整えて来た、そう言う背景がある。
我々は、教授の名こそ知っていたが、それがどのような意味を持ち、この教授をめぐってこのような熾烈な競争があるなどとは、露程も知らない、それほど無知であったのだ。
つまり、バイオリンをやらせている親としては、露程の野心もなかったということである。

この教授は優しく娘をレッスンし、
「何一つ間違った奏法もなければ、まだまだ聞こえないが、あなたの中には、驚くほど繊細な音楽が宿っていることも、フレージングを聞いていれば分かります。」
と非常に優しい声色で話し始めた。
小さく震えるような娘の肩越しにかがみ込んで、
「でもね、よく考えてごらん。ここにいる子供達は、おそらく君の4倍ぐらいは多く練習しているはずだよ。君が7年生だとすると、君のこの学校での実力は5年生ぐらいだろうし、それも入れるかどうか分からない、そういったレベルなんだ。バイオリンを止めないでおくれ、でも、この学校に入りたいと君がいうんだったら、今日から最低2時間練習して、二年間頑張って遅れを取り戻してご覧なさい。そうしたらまた会えるかもしれないね。」

そう言って、ごく短いトライアルレッスンは終わった。

私は満足だった。娘も頑張ったし、父親も満足だった。こんな一流の学校にバイオリンで入れるとは思ってもいなかったのだ。つまり入れるつもりすらなかった。


……

しかし今日閃いたのは、彼女の横転ポイントは間違えなく、このトライアルだったということだ。
あれが、親から受けた強制の最たるものであり、それは5歳の時からずっと握らされて来たバイオリンという強制の総集編のような力を持って、彼女の意志、いや反抗心を目覚めさせた。

その後、彼女は才能援助試験から、いよいよ音大準備コースに移行すべき試験を受けるよう言われていたのだが、その試験を更新できなかった。やる気がなく、棒立ちに、不機嫌な顔をして、単に舞台に上がったというだけの、見せつけるような酷い試験だった。親として恥をかかされたと言っても良い。
試験のために、彼女は一切練習をしなかったし、バイオリンのレッスンを私の知らないところでサボってさえいたのだ。
言うことを聞き、母親の趣味の服を着て、宿題もし、バイオリンの稽古もして、理論もオーケストラもやって来た彼女が、突然転がるようにすべてをなげうった。

間もなく成績は急降下になり、私との関係は悪化し、彼女と私との確執がいよいよ表面化した。
思春期というせいもあるが、つまり人格形成の時期が来て、彼女の「消極的」な姿は消え去ってしまった。代わりに、猛烈な反抗心が芽生えたのである。

抑圧されていたものの、それでも母親の言うことに依存し、しがみついていれば良いという安心を彼女は求めていた。あまりの感受性に、しかし重圧感も自分の思いも、気分すら一切表現することのできない子だった。その彼女がこれを機に、極端な内気さに突然別れを告げたのだ。

その後のことは、ここに記録するまでもなく、今現在もなお進行中である。
彼女のその後の進展は、また改めて書くべきであろう。

今日父母会に行ってあの教授の名を聞かなかったら、息せき切って子供達の夕食のために買い物に急いでいた先ほど、あの出来事こそ彼女のターニングポイントならぬ横転ポイントだったとは気づかなかったはずだ。

実は、あの教授のあの言葉は、彼女には信じられないほどの屈辱だったのである。
やりたくもないバイオリンを10年近くやらされ、受けたくもない試験を受けさせられて、半ばできの良い子さながらに扱われる、言いようのない苦痛と違和感。
そして挙げ句の果てに、世界でも有名なこの教授の公開レッスンにまで強制されて、そしてかけられた言葉に、彼女は文字通り打ちのめされた。
もちろん、こうした今までの道筋があったから、屈辱と受け取ったというのもある。

しかし、真実は違うのではないか。
あの子供目線で、優しい声音を持った教授こそ、実は魔物のように厳しい人間なのだ。
彼のあの言葉は、言うなれば「君など話にならない」という言葉に、人間としての社交能力を持った人の親切な仮面をつけた言葉でしかなかった。
それを勘の鋭い娘は親より早く悟ったのである。
そして、それは必ずしも必要な最後通達ではなかった。親に強制されて来た道のりに対する最後通達である。
それをまた「意訳」すれば、「こんなものは止めて、君の道を歩みなさい」ということであったのだ。
「君がこの学校に来たいのなら、練習しなさい。」これが全てを言い表している。
馬鹿な素人の親が、何の常識もなく、こんな先生に縋り付くように連れて行った、そういう図式だったかもしれない。そして実際私たちは、何の期待も、何の脈略もなく、祭りの一つで行った訳だが、「無意識」という領域の話になると、父親があれだけ固辞して譲らなかったのは、受動的な彼女に「さあ大人になりなさい」という切り札を与えた、ということもできるかもしれない。そして自分こそ誰にも劣らぬプロの演奏家である彼は「無意識」に、この教授の娘に言うだろう言葉を知っていたのである。やはり、何の勝手も知らない素人の親というはずはないのである。


そして、買い物に汗を流し、早歩きに家に急いでいる間、あれだけ受動的だった彼女には、強制という形でしか、行動を促進することはできなかったのだ、という言い訳めいた、しかしながら真実を自分に言聞かせつつ、やはり申し訳ない、申し訳ない、申し訳なかった、そう思ったのである。

子供に期待しない親はあり得ない。
子供に期待するなということは不可能である。
だからこそ、この言葉を常に意識して、子供には夢を託すまい、私の価値観を塗り付けまいと思って来たのに、それでも私はおとなしい娘だからこそ、塗り絵のように彼女を扱っていたのだ。
そして、指一本人前で動かすことさえ、大げさすぎて恥ずかしいという異常な内気さを見せていた彼女の、内なるエネルギーと良い意味も含めたエゴは、誰にも勝るとも劣らぬほど強烈である。

人間とは、本当に摩訶不思議だ。
子供の小さかった時分に、私は子育ての失敗を幾つも犯したろう。
でも、精一杯だったのよ、ママも、という情けない一言で許しを請うことしかできない。

今の私の姿は、私の親としての失敗部分の結果である。
他の子供とは順調であるのに、なぜ、彼女とは?
そういう疑問もあるが、人間には相性というものもあると、いくら親子でも実感せざるを得ない。

しかし、彼女のような存在が私になにを課題として突きつけているかと言えば、親として彼女の強さに負けている私が、自分を鍛えるべきだというメッセージでもあるし、自由人の振りをして、相変わらず既成価値に捕われている私を、本当の意味で解放するための、象徴的対戦相手として存在しているということは薄々分かっている。

難しい娘、確執の深いこの関係を恨むより、挑まれた闘いを親として健全に受けて全うするしかない。

それが、彼女に対する、許してね、というメッセージになるのではないか。

ということで、備忘録としたい。




2011年9月11日日曜日

故郷

やっと書きたい、何かを書かねば—何の具体的な内容がある訳でもないが、漠然とそういう気持ちが込み上げて来た。

麻痺していたと思われた感覚は、まだ生きている。

日本へ帰った。
楽しかった。
そして悲しかった。
ドイツへ帰って来た。
ホッとした。
そして何かを忘れて来たかのように、
未だに日本を引きずっている。

それは、多分今回の帰国がとても普通の帰国とは言えない、そういう感覚が自分の中にあったからなのだろうと思う。

あの日、私は前日まで仕事を抱えており、夜は息子の学校のオケの演奏会があって、忙しさに疲労を感じるまでもなく、トランクに多くの不要なものを詰め込み、多くの必要な物を自宅に置いたまま飛行機上に急いだ。

嬉しいのかと自分に聞けば、嬉しいとはっきり答えられるような気分ではなかった。
帰国したくない、そういう気持ちさえ強く感じていた。
それは、いつかは帰国すると、去年心に強く誓った日本と、滞在後にもう一度別れるのが辛かったからである。
しかし、何でも回避するわけにはいかない。
生きている間、傷つくと知っていても、やはりそれより重要なことというのがあるのだ。

飛行機に乗って、食事前にトマトジュースを頼んだ。
食事が来ても、ワインを頼む気もしない。
心は成田に飛んでおり、家族のもとにすでに到着しているのに、気分は一向に楽しくない。ある種の不安がつきまとっている。
私は食事を丸ごと残し、映画も見ずに、本を読んでは休み、また読んではウトウトとしていた。

日本のパスポートが切れて何年間も経ってしまった子供達は、外国人として入国する。
成田の入国審査で、外人の方に並んでいたら、中年のおじさんがやって来て、「お母さん、何事も経験だから、子供達に入国審査のカードを書かせて、お母さんは日本人として入国してください」と言われる。
その、少し馴れ馴れしい感じ、私より小さい背丈、そして熱心に子供達に日本語でカードを書かせている姿、そういったものに、私は大きく心を動かされて「故郷」というものを熱く実感した。
私は日本人として入国、そして子供達は外国人でありながら、日本語でおじさんから親切な案内を受けている。

成田に着いた途端に、私はリラックスしているのを実感した。もう肩肘張らなくても良いのだ。


のどを乾かした子供達に、いつも通りフレッシュジュースを買い与えて、私もキウイのジュースをすすりながらリムジンバスのチケットを買い、自動ドアの外に出る。

乳白色の空の下に、見慣れた成田の風景と、肌が知っているあの湿った生暖かい空気を感じた。バスの時間まであと一時間もある。
そうして私たちは、誰も座っていないベンチに腰掛けた。

いつもなら、この辺で少しずつ、帰国の時間が涌き、心が踊ってくるものだが、今回はそうではなかった。
ジュースをすすりながら、バスの案内をする若い従業員達を観察し、次々とドアから吹き出してくる、旅行帰りの到着客の姿を見ていたら、足下が震えるほど悲しくなって来た。

この国土で4ヶ月前、あの信じがたい震災が起き、大地が揺れ、ここから地続きのあの三陸で、多くの人々が一瞬にして、多くの想像を絶する「もの」を失い、何百キロにわたって一斉に悲しみに包まれ、何トンにも及ぶ涙が流された。そう思っただけで、ジュースを飲みながら、その目が滲んで来たのだった。

私は、実に遠くからあの光景を見ているだけだったが、その時まで、自分の日常に食い込むほど傷ついていたは知らなかったのである。
実感のしようがなかった。

あの朝、私はいつものごとく、6時半頃眠い目をこすりながら、手元のiPhoneを取って、グーグルニュースを見た。その時は何の変化もなかったのだ。
子供達が学校へ出て行ったのが8時前で、その後PCのスイッチを入れ、本格的に新聞閲覧を開始した。すると、東北地方で大地震という記事が目に入り、それからすぐにUStreamに移行して、NHKで一部始終を目にしたのである。あの緊急地震速報の音と、あのアナウンサーのうわずった声とともに。

仕事に行った後も、心ここにあらずで何も手につかない。
それから毎日毎日、恐るべき量の映像と情報を吸収し、自分の子供達との日常を維持するのが精一杯だった。
誰とも話す気も、どこにも何かを書く気も、外に出る気もなくなった。

しばらくして、息子が音楽コンクールに出る準備で忙しくなり、会場まで泊まりがけで遠出したり、仕事が重なったり、夏休み前の生徒評価や発表会に、分刻みの予定をこなす生活を強いられた。
気がついたら、左半身が固くなり、鍋を持つこともできない、タイプすることも、ピアノを弾くこともできなくなり、挙げ句の果てに座っていることもままならなくなり、医者に駆け込んだ。

あの痛みは尋常ではなかった。
生徒の親と話していても、同僚と話していても、あまりの痛みで言葉を止め、うめき、結局人の話もまったく集中できくなってしまった。
誰とも口をきかない、誰にも私のことを語らない、話しかけさせない、それにはうってつけの症状だったのである。

診断は、頸肩腕症候群、頸椎ヘルニアの疑いということで帰国の運びとなり、詳しいことは分からずじまいだった。撮ったレントゲンも私には解読できない。

今思えば、あれは仕事のストレス、子供達の予定のストレスだけだったのではないと思う。
あの震災の後、確実に私の心の中で何かが壊れ、何かが泣いたままになっていたのだ。それはドイツでの心ない、傲慢で、批判精神に長け、ヒステリーを起こした、ものによっては無礼とも言える報道を強制的に目にしてしまったことにも、一因があるのかもしれない。
そして離婚届を出した収入のない元夫が、ここぞとばかりに、こともあろうに私の愛読新聞に次々と、20年以上日本に住んだことのない私から聞き集めた恥ずかしくなるような稚拙な知識まで盛り込んで、即席日本評論家になりすまし、幾つもの記事を投稿したことにも関係があるのかもしれない。そして、その記事はすべて、血も涙もない西洋至上主義に基づいた、日本人とその危機に面した政治批判に始終していたのだ。




日本に帰国して間もなく、高額の針治療をベルリンで受けたにもかかわらず、なかなか引かなかった痛みが減った。それは私の心配していた、私の心の中の唯一の関心ごとだった故郷の土を自分で踏み、人々に触れ、自分のこの目で確かめたことが救ったのではないだろうか。つまり心はまるで気体のように、何千マイルも離れた生まれ故郷に飛んだまま、ここには魂を失った身体しかいなかったのである。だから身体はすぐに異常を来した。

書きたいことは色々ある。
日本の心の問題、感情の問題、そして当地の議論に耐える秩序と論理そして裏返しの非情と傲慢。

しかし、今日はここで一区切りつけたい。
なぜなら、震災から6ヶ月経った今、私自身のあの謎の身体的痛みが、どこに発して、何故日本で消滅したのか、それを思いもよらぬ震災に関係づけ、それほど、遠方にいても私の心が傷ついていたのだと、それが分かっただけで、良いのだと思う。
身体がどこにあっても、故郷は否定できない。
猿真似で西洋人になり、その文化を肌の下まで吸収しても、心というのはその所属を変えられないらしい。
それは私だけの存在と生ではなく、私以前の何かと今でもずっと続き、それが私の子供達にも伝わっている何かなのだと感じざるを得ない。

震災の話や写真を見ると、今でも呼吸が速くなり、急ぎ足で、帰らねば、といういても立ってもいられない気持ちになる。しかし、私はそのとき、言いようのない暖かい気持ちに包まれるのだ。
私には、属する場所と、帰ってゆけば、誰にも何も言われずにお帰りなさいと言ってもらえる場所がある。
お帰りなさい、今その言葉を聞いた途端に泣き出してしまいそうだが、遠くに住んでいるからこそ、私はこれだけの思いを故郷というものにかけられるのだろうと思う。
田舎が欲しい、小学生の頃から常にそう思っていた私の、田舎への憧れは終わることがなかった。帰省できる家も土地もなかった私には、故郷ということばの響きはまさに憧れであった。
そして、横浜生まれ、東京育ちの私にも、こうして今いずれ帰ると心に決めている故郷がある。
それを糧に毎日を生きている。



2011年6月6日月曜日

連休明け症候群

4日間の連休を終えて、再び仕事を始める。空気は先週とは打って変わってしまった。
真夏のような気温と、午後に突然やってくる激しい夕立。そして夕立が去った後の、さわやかな夜の始まり。明るい戸外に飛び出して、ビールや白ワインをあおる人々。夜には見えなかった子供達の姿も、あちこちに見られるようになった。そして当然、子供達があれば、そのに見える家族の面々。

先週は、春であったが、今週はもう夏なのだ。そう言えばもう6月なのだ。

窓を全開にして車を走らせる。ハンドル捌きを楽しみながら、すべりの良さを実感して、車内に巻き込む風を感じる。そうすると、心がだんだん浮いてくるから不思議だ。

小さな幸せ、日常の彩を感じて、満足感を得ても、そこには決して姿を消すことのない孤独が常に寄り添っている。

窓から顔を出して、一気に駐車したときに、感じの良い父親と男と子が、「お~ぅ」と声を上げて、私の躁病的ハンドル捌きを眺めていた。
仕事帰りの開放感もあり、にっこりと微笑む。そして微笑みあう。
彼らの夜を思い、彼らの家庭を思う。
勢い良く開けた家の扉の中は、しかし静まり返っている。子供達が留守をしている私の今晩の生活や家庭は、ひっそりと姿を消してしまった。

キッチンに入り、ビールを一杯飲む。
ラジオをつける。いつもの番組をいつものDJが巧みなトークで放送している。
安心感が少し舞い戻るのだが、自分ひとりで食べる夕食のなんと味気ないことだろう。

文句ばかり言うけど、子供達に食事を作ることが、面倒だという意識の裏で、どれだけの支えになっているのか気が付く。

欠けているものはない。
何かを欲してもいない。
何かを期待する人すらいない気楽を知っているし、
淋しいという言葉はとうに辞書から消し去った。

けれど、風に吹かれて車を飛ばす私からも、仕事帰りに同僚を見つけて、笑顔で挨拶する私からも、末っ子を迎えに行って、連れ帰るときにスキップをする私からも、花粉が飛び散るようなエネルギーが湧き出ているのだろう。
そういう季節がやってきたのだ。

そしてこぼれる花粉が、ただただ私の周囲に落ちては吹き飛ばされるばかりで、何の実にもなっていない、そういう思いがあって、それが孤独感なのかもしれないと気が付き、少し疲労を感じている。

誰と分かち合うことが出来なくても、誰かの実になることが出来なくても、人間はこうしていつも季節によって、花粉や電磁波を放っているのだろう。その姿を心に描いてみたら、突然涙が沸いてくる。
なんとも、気の毒な姿だろうか。

それでも私は何も欲せずに、何も期待せずに、何も欠けていないと断言して前進するしか、選択肢がない。好きで強いのではないのだ。そう生きるしか他に道がないのだ。

そして分かち合えなかった、または実になることのできなかった有り余ったエネルギーは、夜の不安や、突然の涙や、思いがけない怒りとなって、消化されていく。

それこそ、本当に惨めに映るものだと実感している。

しかし、誰も気が付いていない。
ありがたいことに。

2011年5月16日月曜日

コンプレックスからの解放は、コンプレックスを受け入れること

敏感であるということは、生きる上ではあまり意味がない。

最近、自分を認めてやろうという部分も理解できるようになったが、その代わり全然ダメであるというところも浮き上がってきて、暫しため息をついている。

娘の学校は、両親が様々な作業に参加することになっている。
先日、春先の敷地内大掃除の当番が回ってきた。天気もすばらしく、春らしいそよ風も吹いている。嫌がる娘を引き連れて、学校まで行った。
他に3、4人の親たちも集まってきた。リストで作業分担を行い、それぞれ黙々と作業に取り掛かる。
私は複数のガレージ掃除と、校庭に当たる庭全体の落ち葉やごみなどを取り除くことを受け持った。

巨大なほうきを生まれて初めて手にした。
そしてもくもくと掃き掃除をする。砂埃にまみれ、頭上では小鳥がさえずっている。
時折、気持ちの良い風が吹き、スプリンクラーの水しぶきが身体に降りかかるのが気持ちよい。
次には、生まれて初めて熊手を使って、砂の表面を掃除した。

気がつくと一時間以上たっており、休みなく働いた私の手のひらは、重いほうきと熊手のせいで赤くなっていた。
木陰にたたずんで、豆となりかけている手のひらをこすりながら、何か懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
そうだ、子供時代である。
子供時代には、日が翳り肌寒くなるまで外で遊んでいた。鉄棒の好きだった私の手のひらには常に豆があった。そして友人と別れて、帰宅する途中に、太陽の光と、そよ風と、髪の毛にしみこんだ太陽の匂いを身体全体で感じ取りながら、妙な満足感を抱いてトコトコと帰宅したのだった。
あの頃の一瞬がよみがえったような気がした。

一通りの仕事を終えて、きれいになった庭を見回した時、小さな心地よい達成感があった。
あれだけ嫌がっていた娘も、一人見つけた友人と、黙々と落ち葉集めを行っていた。
こういう作業は、集中力を促す。そしてまるで瞑想のように、何も考えずに、すべての些事を忘れて、庭の掃除のために使用している道具の扱いに専念できたのだった。

娘の友人も送り届け、帰宅してから念入りに手を荒い、冷蔵庫に冷やしてあったビールを飲む。
土曜日の午後4時だった。最高の気分だった。
帰宅しても窓を開け放ち、春のそよ風を夜になるまで味わっていたい気分だった。
家事もできず、仕事もできず、なにひとつ家や個人の義務をやり遂げることはできなかったが、それでも私の身体は程よく疲労しており、髪の毛は風に吹かれてかさつき、乾燥した独特の「外のにおい」がしている。爪の間には、砂がこびり付いていることに、言葉に言い表せないような満足感があったのだ。

命とは、毎日身体的に実感することで、精神の方も健康でいることができるのではないか。
ふと、そんなことを思った。
そして突然、今の生き方をすっかり変えてしまいたくなった。
このリセット欲望は、私の中に常にある。破壊してしまい、一から出直したいと言う欲望である。常に自分自身に不満であるから、そこから逃げたい。

今の仕事を思ってみても、お金の為にやっているのと、多少言葉弄りが好きだと言うこともあって、続けている。
しかし周囲を見ると、これをやりたかったから苦労して勉強してきたという「これ」を持っている人たちばかりなのである。

暫しビールを片手に、疲労した頭で考えに浸っていたら、自分の決定的に間違っているものが次第に浮き上がってきてしまった。
私の生きる動機は、コンプレックスだったのだ。それも筋金入りのコンプレックスで、死闘を繰り広げながらも打ち負かしてやろう、という風にもなれない、弱弱しいコンプレックスであり、そこには自分はこれでも良いのだと、強制的に信じたいという欲望やプライドも入り混じり、まったく持って支離滅裂なものが、根本に流れている。

私は、音楽をずっとやってきたが、親に認められたかったからではなかろうか。
小学校の成績が良かったのに、兄が楽器を始めたら、親の感心と期待は、いつも私よりも怒られることの多かった兄に寄せられてしまったのだ。
それで私は、兄を追うようになった。
予定していた中学受験も捨てて、兄と同じ道を行くと言い出したのだ。勉強ができることなどに親は感心がないのだと、そこは察知したのであろう。
それはおそらく、親自身の持っていたコンプレックスとも重なり合いながら、私たちへの期待となっていたのに違いない。
立派な大学に入るよりも、一人前の演奏家になれるものならなってみろ、そういう声がずっと背後にあったことは間違いないのである。

突然父のもとを訪れた一人の演奏家の言うなりに、父はある夜私に一つの楽器を与えて、私はそれを見ても、触っても、一切興味はなかったのに、兄の学校へ行く切符を手にしたとばかり、それをやることにしてしまった。
ピアノやバイオリンは専攻するなと、母からも父からも口をすっぱくして言われていた。
それは彼らが本能的に、演奏家になるために現実的な可能性の多いものを与えたかったという、彼ら自身の親として当たり前の「気遣い」であったのだろう。

大学に入るときに、私はあがいた。
親の敷いた線路や、兄を追い続けた線路を突然離れたくなった。
私に力があるのか、それを試してみようと、思春期になって初めて芽生えたのである。
三年生になると寮生活から週末や休み毎にいわゆる予備校に通ったのを覚えている。
そのとき、今まで練習する代わりに勉強してきた人々と触れて、別の世界を見た感動は忘れられない。
しかし私の考えていることと言えば、脱出でしかない。寮からの、そして敷かれた線路からの脱出。
私のように、親のために或いは兄を追ってなどと、そんな動機から職業につけるような、甘い世界でないことぐらいはとうに承知していたのだろう。
わたしには、あのダメだった兄が頭角を現すにつれ、勉強をがんばっているフリをするしかなかったのである。そして周囲との違和に胃がよじれるほど苦しんだ。隠れて母に電話をして泣いたことも何回かあった。

それから一つだけ受けた大学受験に失敗した。
何故一つだけだったのだろうか。
それはどうしても何学部に行って、何になりたいと言う計画がなかったからであろう。
兄とは違う認められ方をしたいと、それだけだったのかもしれない。

そして大学に入り、留学した。
世話にはならなかったが、留学とて、兄の後を追ってきたのだ。

そして私は始終、私という人間を親に向かって認めさせようと思ったのだが、本気で音楽で飯を食おうと思って覚悟している人には勝てない。
何でもできる私は、さっさと卒業もして、体裁だけは保てるのである。
しかし、何がやりたいのかやりたくないのか、考えてもさっぱりわからない。しかし、常に闘ってきた。コンプレックスに苛まれ、悪夢にうなされるほどであった。
それは外国人という弱者に見られることでもあり、日本からの女の子というクラスでの偏見でもあり、出来が悪いというコンプレックスでもあり、この楽器が嫌いなのに嘘をついていると言うコンプレックスでもあった。そして最初の夫に知り合い、彼の周囲と云うさらに強力にコンプレックスを刺激してくる環境におかれ、コンプレックスは膨張しきり自分をすっかり殺してしまうことで、影となった。そして心が半ばおかしくなって、這い出してきたという、非常に情けない廻りだった。

その後も、私の原動力はコンプレックスであり、どこに行っても良い成績と業績を上げるのだが、過去の道なりが、4筋にも5筋にもなって、どれも体裁だけは整えて卒業だの資格だのというところまではいくのだが、流石に物にならない。
何でもできるくせに、何も使えないと言う、まったくもって要らない人材なのだ。

_______

いや、だからそれに気がついたのだ。
なんという馬鹿な生き方をしたろうと。それでも自分は相当鍛えられたのだが、それは全部過程での話であり、行ってきた内容は、と散らかるばかりで積み重なっていない。

演奏家にもなれずに、学問も全うしなかった。
演奏家にはなれなかったろうし、学者にはまったく向いていない。
才能の問題ではない。へんな言い方をすれば、私より明らかに才能のない人が、立派にオケで演奏家になっていたりする。それは信念とモチベーションの原因の問題であろう。学問に関しては、知的コンプレックスを少しでも叩こうと思っただけで、私には学術の世界でやっていくための、決定的な何かが欠けている。おそらく静的な人格ではないから、すぐに行動したり、直ぐに興味を移したり、そういう半端な性格がすべてをダメにしているのだろう。
無論このモチベーションも半端なコンプレックスに根付いたものなのでモノにはならないのだ。

____________

仕事の長電話で中断されてしまった。
ウダウダ言っても仕方ない。
これが私という人間をかたどっている姿なのだし。

とにかく、最近は仕事を変えたいとかそういう希望が大きくて、それはと散らかすように、できること、目に前に転がってきたことをやって来たからなのだが、それは多かれ少なかれ、皆そうして職業についていくのだろうし、大人になることはこうだと思ってあきらめている。
しかし、それよりも行く先々で、成果を挙げようとか、認められようとか、そういうコンプレックスモチベーションでやってきて、時には欲しいものを得たこともあるし、褒められたことも、ありがたがられたこともあるのだが、うつ病みたいな、魂の死んだ感じは、どうしようもなく消えてくれない。
それは、人の為と体裁のために動いてきた自分の人生の果ての姿なのだなと、だんだんわかってきた。

もう知的コンプレックスも、演奏家コンプレックスも隠さずに、嘘偽りなくそれを正々堂々と認めて、私はコンプレックスにまみれているけれど、その私が少しも立派なところもなく、自慢できる人格もないのということだけはしっかり認識しています、というその部分が人々への共鳴となって、それでも尚且つ生き生きと輝いている私を見せることが、一つの作用となってくれるような仕事が欲しいなと、そう思い出しているのである。

コンプレックスを撤回するために、コンプレックスの磁場にずっととどまり続けた。
しかし、そこから離れられないことこそ、未だにコンプレックスに支配され追い掛け回されていることの証拠だとわかった。
もう私は、自分が生き生きとできるところへ飛び立ちたい。
それはきっと、人とのつながりがあるところで、ずっと机の上でキーボードを打ち続けていることじゃないと思う。
私の唯一の長所の一つは、制御できないけれど、止むことなく流れ続けているエネルギーがあることである。
生きていること、その毎日苦しいと思うような課題に向かって、前回の記事のように、それでも尊いものとしてあきらめないで進むこと、そういう姿勢を深い次元で分かち合う為に、小さなきっかけを与えていくような仕事をしたいと思う。

ピアノや音楽を教えるのだっていい。
人とかかわらないと、私はダメなんだ、庭掃除をして体で命を感じないと、私はダメなんだ。
助けも手本も何もないところから、明日もあさっても生き抜いていこうとする、必要最低限の創造力が私にはあるのかもしれない。それだけはうっすらと感じている。
その創造力を使わずに、人に後ろ指刺されないことだけを念じて、安全圏だけを夢見て生きていては、自分は死ぬと、そういうことを掃除しながら思った。


相変わらず、くどくどした文章で、牛の咀嚼のようになってしまったが、自分を納得させる為の手段として書いているので、あしからず。

2011年2月6日日曜日

日曜日 ― ミサ

日曜日、久しぶりに早起きをしてシャワーを浴び、しっかりと食事を取った。
息子が教会のミサを兼ねたコンサートに参加するので、こういうことになったのだ。

Frühstück2


ミサに参加したのは、もう何年ぶりだろうか。
一時はさまざまな教会を覗きに行って、さまざまな説教を聞いてみたことがある。
聖書を読んで、少し解釈して、ニュースを話題に出し、表面的に道徳的な教えを説いておしまいにするところが殆どだったが、今日行った教会の牧師様は、心に響いてくる言葉をたくさん下さった。

クロイツベルグという、マルチカルチャーな地区の小さな教会で、角にあるアパートの建物の天辺に鐘が突き出しているという、まさに住民とひとつになったようなつくりである。

80人の教会員のうち、常時参加は30人だというが、その小ささがちょうど良く、誰もが互いを知り、説教をする牧師様が自分に語りかけてくれているような、程よい距離なのである。

片隅に座った私に、世話係の老齢の男性が賛美歌の本を手渡してくれ、握手で挨拶を交わす。
牧師様は礼拝堂(といってもそんな大げさなものではないが)に入るなり、見知らぬ私を見つけ、握手して、ようこそいらっしゃいました、とで迎えてくれた。
はっきり言って、私たちの訪問が先に告げられていたとしても、このような暖かい歓迎は、あたりまえではない。
この教会の魅力をすぐに感じ取った。

説教の内容は、一字一句といって良いほど、心に刻まれている。
それほど、聞き逃したくなく、心に留めておきたい言葉ばかりであった。
しかし、それを全部ここに記してしまうと、非常にありきたりな言葉になってしまうそうなので、控えておく。
私の心は、確かに深いところで動いたのだが、それを書いてしまうと、まるである種の作用が無になってしまうそうで怖いのだ。

しかし、聖書のコリント人への手紙からの引用であり、それは物事の表裏に関してであり、裏こそに目を向けるべきであること、そして表の美しさというのは、非常に壊れやすく、赤絨毯の上できらびやかな装いを披露している有名人ですら、自分たちと同じ非常に中庸な人間性であるのに違いないということ。表面が壊れた場合には、中身に入っていたもののみが、価値のあるものとしてのこるということ、そういうことを聞かされた。
そして、Herrlichkeitというのは、紛れもなく光であり、光は、どこで一番明るいかといえば、暗闇で最もその明るさを発揮することができるという言葉である。

そして最後の逸話からは、真の幸福とは、自らの心底から欲して他人を助ける喜びを知った時ではないか、そしてそれは、極貧、または戦争のような世界にあっても可能であるということを教えられた。

その後、静かな祈りのときが来る。
うつむき、沈黙に入り、その説教の内容がこだまする中、頭の中で自らを捜し求める。そして他者の存在を思う。

そして厳かに主祷文を唱え、再び賛美歌を歌う。

__________

結局、信仰しているのか、信者なのか、それともわれわれは人間なのだろうか、ということを問うた時、この教会においては、信者であるかないかということは関係なく、訪れるもの皆、信者たちと一緒に、一つの深い思いへと至ることができるのだと実感した。
それは、自らの日常生活を振り返り、自らに問いかけながら意識して生きているかということを再び問われ、欲望と虚栄を振り払うべきであるという教訓を聞き、自分にとってでは失うことができないほど大切なもの、そして伝えていきたい大切なものとは何かということを直に問われる。
その思いの中で、礼拝堂にいる人間は一つとなっていた。
もちろん、私自身も動かされる心を意識しつつ、そこに共に在った。

教会の雰囲気といえるほどの建物ではない。
おなかに響くようなオルガンの音色ではない。
歌われる賛美歌は簡易で、ラテン語の魔術に惑わされることもない。
地に足を着いた普段着の人間が、心の扉を開ける時間、または自らの中へ帰る時間として、そこに立っている。
蝋燭の数も少なく、ステンドグラスもなければ、乳香が漂うわけでもない。

何が言いたいかといえば、教会という圧倒的な建築物、そしてそれの持つ神秘的な雰囲気に飲まれてしまったのではないということだ。
私の心が動いたのは、そして信者の心が毎週洗われ、思考を刺激され、反省を促されるのは、紛れもなく、「ロゴス・言葉」によってであり、神は目に見えず、自らの中に対話を通して見つけ出していくものであり、写実的な存在でもなければ、バロック的絢爛としてその光が現れるものでもないという、まさにプロテスタント的実感であった。

今まで、いくつのプロテスタント教会を訪れたろうか。
いったい、何回プロテスタントの説教を聞いただろうか。
私の心をここまで動かしたのは、しかし、このマルチカルチャーな街角の小さな教会なのであった。
人々が、生活の中に、この説教から生まれる「思い」を生かしているからこそ、この教会はこうして息づいているのに違いない。

特に経験から言うと、プロテスタント教会では、信仰しているのか、それならば、どれほど深く聖書を理解しているのか、洗礼を受ける気があるのか、教会の共同体に尽くしていかれるかなど、そういった質問が圧力を持って浮き上がってくることが多い。
カトリック教会は、個人的にはその点、非常に開かれているという気がしている。たとえ啓蒙がなされていなくても、万人に扉は開かれていると、個人的には感じる。
プロテスタントは、子供でもない限り、自らの意思の強さをしっかりと確認される。
私は、どちらが良いのか問うつもりもなければ、問うような立場にもない。
カトリック教会では、荘厳な雰囲気の中に、神の存在を天上に実感してしまう瞬間というものを見たし、信者のファナティックとも言える信仰心と、その祈る背中から立ち上る情熱に、心底心を打たれたこともある。

しかし、この教会のミサに参加して再び実感するのは、宗教の存在の本来の目的は、信仰そのものなのではなく(教会の目的は信仰であり信者の拡大であるが)、人間性の中身を切り裂き、人間性、人間的とは何かを常に問いかけ、本当の喜び、満足は、実に献身の姿勢の中にしか見出せないのだ、という究極の真実を実感するために在るのではないのかということだった。

使徒達の思いを実感するには、新約聖書、特に手紙を相当読み込まないとなかなか難しい。
しかし、説教の中で、断片を聞き、その解釈や背景を知ることにより、彼らもたゆまぬ労苦と困難を乗り越えても、歩む限り壁に突き当たってばかりいたことを「体験」として実感できる気がするのである。
そして、暗い道を歩んでくるものこそ、希望も救いも、人によっては神との対話を通して、自らの中に見つけ出していくしかない、ということを知らないで通り過ぎることはできないのだということを理解する。

もう誰もいないと思った時に、言葉に出会う。
言葉によって、光が見える。
光によって、神なのかもしれない、神と呼ぶことを許容する。
不思議なことに、希望の足りないところに、希望が生まれてくる。
もう少し暗闇を歩んでみようと思う。
そして、一人ではなかったことに気つき、現在一人でいる人々が見えてくる。
そして、一人ではないことを、その人たちに何とか伝えようとする。
そして、献身の姿勢のなかに、今まで覚えたことのない幸福を感じ、自らが光るようになる。

私は、私たちのまったく気づかないどこか遠くの、またはどこか裏の世界で、こういう作用が起こっていることを信じているし、そういう人生は、光の当たるところには生まれないだろうということもなんとなく理解している。

教会へ行くこと、または何かを信仰することにより、人間が一番苦しいときに、一歩でも前進し、一つでも多くの希望を得ることができるなら、それこそ、宗教の意味ではないかと、そんなことを思ったのである。

そして、苦労がなく幸せで、何にも憂うことがないと実感している人間は、それが自分ひとりによって、得られたものではないことを忘れずに、感謝の気持ちを持って、虚栄と欲を捨て、謙虚に、そしてもっと謙虚に生きていくことを忘れず、良いときに分けることのできるものを、できるだけ分かち合う努力をすべきであると、本当に実感するのだった。


説教の間中、何回も仏門に入った方と、同じようなことを説いているなと思った。
つまるところ、人間には、生命に意義を与え、日々できるだけ内実を伴った生き方をしたいという根本的な気持ちがあり、それは表の成功ではなく、裏の人間としての成長に代わる物はないのではないかと気がついた。

そして私のように若干自己嫌悪や自己過小評価の傾向があるものには、こうした「言葉」を聞くたびに、生きる価値を得ようと努力する必要はないのだと救われる。
生きる価値は万人に在り、誰かの存在価値が低いことはないのだという原点を信用することができる。

私はたまたま、言葉に出会うと、光にめぐり合ったり、心が溶け出すことが多い。
その上、たとえ簡易化された賛美歌だとしても、皆で歌い、トーンを紡ぎ出す行為には、何か一つの浄化作用があるような気がしている。
なので、キリスト教会に通うことに違和感は覚えないが、信者になるつもりはなく、しかしそれは実は、全然関係のないことなのではないかと今日思ったのである。

神秘主義とか、インチキくさい霊能者とか、ペテン的占い(れっきとした統計学や天文学に基づいたものもあるが)などに頼るのではなく、もう一歩を踏み出せないときに、もっとこうした伝統宗教がその役割を担って欲しいものだと、これは日本に関して特に思うのである。
仏教では、例えばお寺がもっと意味を持って欲しいし、福祉と連帯して何かできないのだろうか、そういうことを思ってしまうのである。


良い日曜日だった。
帰宅後、二度目の朝食をとった。

Frühstück1

2010年10月31日日曜日

今年の誕生日

 



去年の誕生日は混沌としたものだった。
友人ともいえない知人とつるんで、夜遅くまで飲んだのではなかったか。
彼らは私が作った友人ではなかったのだ。

私が誰かの取り巻きでしかなかった時代の、不思議な誕生日だった。
自分ひとりで築いたのではない、誰かの世界に属している人々を知人としてあてがわれた形の人々との関係は、不安と義務に満ちており、無理強いしても好意を膨らませていかなくてはならないという強迫感。
リラックスもできず、いつかは切れてしまうのも当然の結果なのだ。

そんな檻から自分で再び這い出したのは、もう8ヶ月ぐらい前の話になる。
それ以来、私の周りには新しい何かが作用し始めて、多くの人と知り合うことができた。

友人とは、本当に知り合うべくして知り合うものだとつくづく思う。
知り合いが、私の人生に及ぼす影響は限りなく少ないとしても、友人の意味するところ本当に大きい。
外国生活が長くなっても、ドイツ人の性質というのもあってか、私のこの引きこもり的性格による原因の方が大きいとは思うのだが、あまり友人と呼べる人がいない。
引越しを重ねてきたのもひとつの理由だろう。
そして、私の変な人の良さが、友人関係に疲れを覚えてしまう要因であるのかもしれない。

ところが、ここ最近、檻から抜け出した途端に、さまざまなことが再び動き出したのだ。
家族に心配事が起きたり、仕事面で大きなターニングポイントが訪れたり。
私自身の身の回りの扉が一斉に開きだしたように、問題は私と誰かとの関係ではなく、私の身の回りに絞られ、私に与えられた強制的友人は消え去り、替わりに思ってもいない偶然で知り合ったり再開したりする人間との発展があった。

そうして、これまで仕事を通して共同作業をしてきた人々とは、仕事以外の面でも大きな人間的意味を持ち始めて、私はすでに彼らにたいして、仕事上の乾燥した会話だけではない関係を感じ始めている。

その皆と、昨夜私の誕生日には、鍋を囲んで楽しく会話が弾んだ。
仲間が集まって、打ち解けて話し出すと、実は信じられないほど相手が遠い世界に存在していることを知ってしまい、どうしても噛み合わない歯車に孤独を覚えた、ということは数多くある。知っていたようで、知らなかった人々。それは友人ではなく、互いに友人を探している人々であったのかもしれない。

しかし、昨夜はそうでなかった。
仕事の仲間なので、悉くドライに振舞おうとしてきた仲間である。それが、どこからともなく集まろうという話になって、期待もせずに集まってみたけれど、それが思わず暖かい集まりとなって、話せば話すほど、お互いのシンパシーが高まっていくという、本当にまれにみる幸運だったのだ。

私が檻から出たことによって、いろいろなことが動き出し、私は無意識に選び、無意識に選ばれている。孤独を恐れずに、自分とあまり意味のない繋がっていただけの糸を切ってみると、私自身の糸は、孤独の中にも、自由に自分自身の物語をつむぐための前準備をしてきたのかもしれない。

その下地が、今ある仕事の発展であり、彼らと共に、それぞれがプライベートでも近づきになっていくこの過程なのかもしれない。

一番近しい彼の奥さんが、私を見て、会が終わった後に、すぐさま言ったらしい。
「彼女は、あなたと双子なのね」

彼女は、華奢でメイクもないもしないその素顔が、惚れ惚れするほど美しい。
パリで大学を出て、彼のいるベルリンに移り住んできたのだが、才女とは思えないほどのやわらかさ、しなやかさを持っている。私より10歳も若いと思われるが、少女の面影はなく、彼女は立派な魅力的な女性である。

彼女が、何を持って彼女の夫である彼が私と双子だと称したのか謎なのだが、私はそれを美しい女性からの好意だと受け取った。
彼と私は、会った瞬間から意気投合したし、何より仕事の段取りでのテンポや優先順位のつけ方、または効率に対する考え方がぴったりと一致している。二人三脚のように二人で組むと仕事が上手くいくのである。
そういう彼に、私は大きく一目を置いている。そして、おそらく彼自身も、私と仕事をすることを「楽しい」と表現する気持ちに嘘はないのだと思う。

常に家にいて、まだ小さな子供の面倒を見ている彼女は、私のことを聞き伝にしか知らない。けれど、私たちの仕事の楽しさは、彼女に伝わっていたのだろうし、その相棒を現実に見たら、なんと似たもの同士じゃないの、といった彼女に、私はどんな理由なのかさっぱり分からないが、底なしの信頼と好感を持っている。

おそらくそれは、男女の仲にも、本当に信頼できる友情というものが、あってもおかしくないのだという、そういう友情の始まりに対するひとつの肯定的な証明に感じたからなのかもしれない。
結婚している男性と近しくなると、必ず私はある種の不安感と罪悪感を抱く。
それは、私自身が結婚していた当時に、そういった夫の同僚女性のせいで言い尽くせぬほどの孤独を味わったからであり、そういった女性達がやはり女である立場を決して忘れているわけではないという場面を、嫌というほど見せ付けられてきたからに違いない。

私は、偽善ぶる気持ちなどまったく抜きに、彼女にそういう不安感を抱かせることになったとしたらは本当に心苦しい。
それと同時に、男性と友人関係であるという状況に陥らないように距離を保つべきであるという、多くの場合正しい選択を時に非常に残念だと感じていたのかもしれない。

そこで出会ったこの彼とも、まったく友情という言葉も、プライベートという言葉も抜きに接してきたが、仕事上の意気投合はすべてにおいて肯定的で、隠し立てするような問題ではないのだが、わけの分かららぬ不安が沸き始めていたのかもしれない。

彼女が、私をすんなりその輪に受け入れてくれたことは、私の誕生プレゼントのひとつであり、私は大きく安堵して、仕事上でもプライベートでも、この心からシンパシーを感じている彼と、そして彼のすばらしい家族とを友人だと思って良いのだというお墨付きをもらった気分なのだ。

欧州では、男女というものがやはり表面に常に浮き彫りにされており、それを超えて勝手に友情だと思い込んで、好き勝手に仲良くし、関係を築こうとするのは、無礼にあたるし、あまりにも世間知らずで無知である。
そしてたいていの場合、そんな友情は存在しないのである。
けれど、だからといって、あきらめてしまうには、あまりにももったいない「興味」というのがある。それをなんとか形にしてゆくには、自分で私は女ではない、といっているだけではまったく十分でなく、自分のセクシュアリティをニュートラルにする要因が必要となる。それは、互いの結婚だけでも十分ではなく、友人関係となる相手のパートナーにも、同じように深い愛情を抱くことである。その人を何があっても傷つけないという、二人一組と友情を築いていく、そういう思いやりがないと上手くいかない。そんな風にしか、私は男女の友情には可能性がないのじゃないかと思っている。

今後、この仲間たちとどうなってゆくのか分からないけれど、彼らは私にあてがわれた人間ではなく、私が一人きりで生きていく中で、必然的に私の人生を通り過ぎてゆく人々で、そしてすでにこの短い期間で、幾ばくかの影響を与えてくれている。

このめぐり合い、そしてこの作用のダイナミクスからも、私の人生が再び過渡期に差し掛かり、今もまだ浮遊を続けているのだと実感する。
そして彼らも、おそらく新しいなにか見つけるべく、彼らなりの流れに乗っていることだろう。私が彼らのつむぐ物語の中で、ただの動く知り合いでしかないのか、なんらかの痕跡を残すことになる友人となりうるのか、私には知る由もないが、願わくば、友人となって行きたいと、ひそかに願っている。そして、彼らにはそのために必要な、小さな愛情の積み重ねを、本当に厭わずに注ぎ込んで生きたいという気持ちがあることを、私は昨夜実感した。

本当に素敵な誕生日だった。

2010年10月24日日曜日

雨の日曜日

朝起きると、窓から灰色の空に黄金色をした銀杏木がそびえて見えた。時折木々の枝が揺れては、たくさんの葉が舞うようにして落ちてゆく。


土曜日に買い物へ行きそびれたので、徒歩2分のスタンドまで歩いた。
雨が横から降ってきて、風が強い。

歩きながら小さな静寂を感じた。これから厳しい冬が来るが、むしろ楽しみでもある。外へ繰り出さねばと言う恐怖感もないし、凍えそうになりながら、暖かい家の中へ駆け込んだときのなんともいえない幸福。

知人が日本のお祭りの写真を送ってくれた。美味しそうな匂いが漂ってきそうな縁日の食べ物が湯気をたてている。
何気ない文章の最後に、添付されたその写真を見て、私は涙ぐむほど心が温まった。日本のお祭りと言う、またしても私の五感を刺激する写真であったからというだけではない。その人が、写真を添付してくれた、その取るに足らないような親切心が、思いやりのように感じられ、心が温まったのだと思う。

その人は、メールの中で「だんだん一人でいるのがきつくなってきました」と漏らしていた。
私自身は、一人になって長いわけではないので今のところ解放こそされても苦になったことはない。きついなと思ったこともない。ひとりになる前から、二人でもずっと一人でやってきたからかもしれない。
実は、本当に二人と言うのを知らないのだ。
誰かの人生を追いかけてきたことや、誰かに追いかけられたことはあっても、二人で共に歩んだと実感できる時間はわずかかもしれない。

同じ線路を歩みながら、同じ駅に止まるのだが、乗車しながら二人は常に別々のことをし、別々の方向を見て、好きなものを探し、捉え、また違う方向を向く。けれど、喜びや悲しみを感じたときには、必ず隣の相手を振り返り、話かけ、喜びを分かち合い、悲しみを隠さずに露にする。そんな歩み方なら素敵だと思ってみたりする。

同じ事を行い、同じ関心を持って、友人を共有し、日常を共有しながら、でも二人三脚でどんどん線路を変えていくのは、サーカスの曲芸に近い。線路を変えるときに、必ず揉め事や意見の違いが起こる。線路を変えることは、時に生活を覆すような恐怖に満ちることもある。

私なら、私鉄の静かな沿線を選んで、その私鉄の線路自体に、ある程度の生き方の好みが表れているため、その沿線を愛する人と共に、退屈な景色を何往復でもしながら、同じ線路を歩み続けたい。けれど、なんでも共有するのは絶対に不可能だと思うので、いつもとなりにいるのに、いつも違う方向を見ているぐらいが良いのではないか。


そうでないと、誰の線路に乗るのか、という問題まで出てきてしまう。
誰の線路に乗るか、私の線路、あなたの線路、そういう意識は刺激的だが、もういくらなんでも私はそこまでのエネルギーも自分に対する信頼も残っていない。
だから、偶然行きあたりばったり、魚を買いに行ったら知り合って、一緒にそばを食べたら、リラックスできて、すきなのか、嫌いなのか全然分からないのだが、このひとは確実に同じ線路に乗っているだろうと言う、気づかぬほど小さな信頼さえあれば、今度は一度そういう人と歩みだしてみても良いかなと思っている。

熱いもの、というのは過去としての観念になった時、意義を与えられて心にずっと残ることがある。
さめてしまうものも多い中で、私自身は、人生で一度だけ、岸壁に立って、私の核心に大きく形跡を残すことになった危険だが深く美しいものを見たような気がする。
私は、どんなに年取っても、心の中のこの部分だけは手放さない、絶対にこれは死後も、私と共にもって行くのだと思えるものを蚕の中に包んで持っている。
これは、ある意味、本当に幸せなことだと思っている。だから、私はそれ以来人生を捨てたようなところもあり、行き当たりばったりに任せていたところもあり、魂自体を眠ったまま、凍結させてしまったというところもあったのだが、今は、熱いものにあこがれることも、それにめぐり合ってしまうことへの恐怖もない。
蚕があるからこそ、私はいつでも慰めを知っている。そして、相手にもそのような蚕があればよいと思う。過去を知る気もないし、その人の恋愛感をどこまでも追求するつもりもさらさらない。
ただ、その人も自分を形成してくれたなにか脅威にも近く美しいものを仕事や人生の中で体験していてくれたら、その思いだけを心の中に大切に秘めていてくれたら良いと思う。そして、まるでもう探すことも追求することも止めて、古くから自分の近くに常に存在していた線路に戻り、静かに余生を過ごすような形で歩んでいる人ならば良いと思う。
それは、決して年齢の問題ではない。
そういう体験をすると、その後がまるで抜け殻のような人生になることがある。その孤独は深く、どんな人間もどんな出来事も、なかなかその喪失感を埋めることは出来ない。
そういう孤独を抱えつつ、蚕と共にひたすら前進する姿。

あなたは知っている、私も知っている
Lo sai, lo so.
You know, I know.
Du weißt, ich weiß.



何が言いたいのか…。

そういう人に見えたその知人が、急に一人がきついと言い出したことに驚いたのだ。蚕を持っていないのかもしれない。だとしたら、寂しいだろう。何か出来ないかと思って考えている。その人が私の中に呼び起こしてくれた温かい気持ちをどうしたら、私がその人の中にも呼び起こせるか。人に何かを与えるとは、本当に難しい。それはいつも間接的に作用するからなのかもしれない。

2010年10月19日火曜日

写真箱

新しいプリンタを買って、それがあまりにも優れているので、写真を整理しながら印刷したり、スキャンしたりという作業を行おうと思った。

そうでなくても、この頃の過敏さは尋常ではなく、ちょっとヘルダーリンを読んだだけで、涙がぽろぽろとこぼれてくる有様だったのだ。
心が、何かを探している。それはよりどころなのか、それとも希望なのか、慰めなのか、共感なのか、あるいは孤独なのか。

封筒に入った写真を取り出してみると、6年前に亡くなった祖母のお葬式の写真だった。長生きしたので、ひっそりと家族だけで出したお葬式だが、母は気を使ってか、こまめに写真を撮ってくれ、私に送ってくれたのだ。
当時、私はあまりにも思いが新鮮だったため、その写真を見ても、おそらく何かがブロックされており、あまり何も感じることが出来なかった。まるで、写真の向こうの遠い祖国での出来事に思え、自分のここでの生活との接点を見つけ、私の身に起こった身内の不幸なのだと言う実感を持つことが出来なかったのかもしれない。

何の心の準備もなく、祖母のお棺を見て、そして入棺されるまえ、ふっくらとした布団に寝ている祖母の姿を見た途端、思わず涙がこぼれてきて、しばらく写真をそっと大切に胸に抱きながら、泣いていた。

あれだけ親しくなついて、色々世話もしてもらったおばあちゃんのお葬式にすら、私は出られなかったし、彼女を見取るどころか、世話すらする機会にも恵まれなかった。
同じようなことを両親にはやはり出来ない、一生の後悔になると、まるで一瞬にして、今の状況にある自分自身がどこに属するべきなのかを悟ったような「錯覚」を覚える。
錯覚と書くわけは、やはり子供のことや、ここにいた年月を考えると、やはりさっと決心できないだけの複雑な問題があることを承知しているからなのだが、それすら、もうどうでも良いと言う疲れも覚える。

写真箱を整理しつつ、涙は続けて流れてくる。
何年も見ることのなかった、私の過去。PCを買ったのは98年だが、写真を保存し始めたのは2000年あたりで、それ以前はアルバムに貼ったり、整理できないものは箱に小分けしていた。
つまり、そこには、離婚も病気も、どんな死も終局もない私と、私の子供たちと家族が写っている。
悩みを抱えた私は、それでも生き生きとし、若くエネルギーに満ち溢れている。苦しみがあっても、やはりそこには憎しみと同時に愛が存在していたのだろう。
がんばる甲斐とか、ものを継続させる甲斐というものを実感していたに違いない。

子供たちはしかし、誰をとっても不安そうな顔で、時折ニコニコとして写る写真のその顔は、本当にはかないほど繊細で、純粋で、傷つきやすい表情をしている。
こんなにかわいい子供たちを持つ喜びを一切十分に味わうことなく、私は葛藤を続け、夫を愛し、愛しきれず、自分に集中している年月を過ごしてしまった。
後悔は後を絶たない。

この写真箱は、2000年あたりから更新されなくなってしまった。同時に私も第二の人生を始めたわけだが、その後の写真は、常にPCやHDDに保存してあり、頻繁に目にする。
それだからと言うわけではないが、子供たちの目覚しい成長の記録以外は、私の人生はまるで、仮の人生を歩んでいるように、デジタルとしてしか存在しない写真のように、手ごたえのない軽いものに見えてしまうのはなぜだろうか。
苦しみの質は以前とは比べ物にはならないが、苦しかったと言う記憶は多くあり、考えずにすごすようになったわけでもなく、それなりに常に真面目に取り組んできたつもりであるのに、私の写真箱の中には、生々しくまだ息をしているような過去があるが、最近の写真はまるっきり訴えてくるものがない。

そして、自分でデジカメを所有するようになって、数こそ撮るようになった。昔は、デジカメすら持っていなくて、使い捨てカメラや安いカメラで少しだけ撮っていた。趣味でもなく、写真を撮るのが嫌いで、カメラは常に忘れるのが癖であった。
それでも撮った写真には、意味があるのだろうか。残したい思い出、そして心に焼き付けておきたい瞬間だったのだろう。


過去に癒されたり、過去に埋もれたりするのは、年をとったのか、今不幸なのか、そんなことぐらいしか思い浮かばない。
けれど、写真は心が出るのだと、本当に目からうろこのような体験をした。
今の私は、カメラもってどこへでも行き、撮るのが楽しいと思う。しかし愛が欠けている。生活にうそがあったから、それが写真に出たのだ。こなれた写真や、腕を磨いた写真、そんなものはいくらでもあるが、迫力のある写真がない。

昔は、写真には興味がないが、対象を愛する気持ちを一杯に込めて、一瞬のシャッターを切っていた。
親の心であり、妻の心であり、娘でもあり、その生き方のどこにも嘘はなかったのである。

今後、私が何かの折りに過去を振り返った時に、やはりこうして祖母の人柄や祖母との思い出がにじみ出てくるような、または幸せだと信じて疑わなかったあの頃の生活が、写真から踊りだしてくるような、そういう写真を子供たちと共に撮って行きたいと思った。
一歩ずつ、自分の人生からうそを取り払っている今、それも出来るかもしれないと希望を持っているが、若くないということは、何かを生み出すとき、無垢な姿勢には戻れないので、これは修業だと思うことにする。

一瞬、写真箱の中に目を通しただけで、愛おしいものが何で、何を大切にしなくてはならず、何に感謝をすべきで、何を忘れるべきではなく、そして私が何を失ったのか、はっきり見えた。
悲しみもあったけれど、心の中に、またひとつ小さく細いろうそくのともし火が点いた。

2010年10月11日月曜日

心のシンプルライフ

いよいよ、木々の葉が黄金色に染まってきた。
本格的な秋の到来である。澄み渡るような空であるが、外に出るとその冷たい空気は、衣服を通って肌をひんやりと冷やす。ああ寒いと、そう感じるほどに気温が下降してきた。

それと共に、私の食欲は増し、退屈な季節をやり過ごすために、家の中に楽しみを持って来ようとばかりに、料理にいそしんでいる。この私が、食べ物だとか、料理の献立などに凝るのだから、本当に何があるかわからない。
美味しいものを口に入れている間の幸福感、少しの贅沢がどれほど心を豊かに潤してくれるか、そんなことを実感する熟年になってきたらしい。考えてみれば、食だウェルネスだと言い出す、中年女、それもロハスだとか自然派だとか言う余裕のある、暇人中年女に、自分もなってしまったのかという失望感も伴っている。

ロハスは素敵だと思うし、実際日本に帰ったら、天然生活のような生き方を実践してみたいと、そんなことを一緒にできるパートナーなら良いなと、そんな具体的な夢まで見ながら、暇をつぶしている。

しかし、それも考えてみれば平和ボケしたとぼけた生き方だなとも思うのだ。

ウェルネス。子供のためのヨガ。アーユルヴェーダ。タイマッサージ。フットケア。そしてリラクゼーションという言葉。

本当に簡素な人生を求めれば、毎日善良な心を持って生活し、肉体を使って汗を流し、日々めぐりくる時間を大切にして、周りにいる人間に、思いやりと誠意をもって接してゆくこと。
これこそが、すべてなのではないだろうか。
そして、ここから学びえることこそ、私たちの生活には重要となってくることがあるのではないか。

道具を揃えたり、ステータスとしてのロハス的ライフスタイルなどを追う間は、何もわかっていないという気もして仕方ない。
これは自分に言い聞かせていることでもある。
日常を楽しむとはそういうことで、それなしには生きていかれないのであるが、もっと突き詰めて、簡素に生きていかなければ見えないことが多くあるのではないか。

そんな風に感じてしまう自分がいる。

私が、欧州を去ることに、ある種の恐怖を抱いてしまうのは、実は、そこのところなのではないかと感じている。
私の生活は、東京に住んでいる人から見れば、恐ろしく限られてるのだ。
決まった生活圏でしか動かず、娯楽もないし、日曜日のショッピングもない。テレビも見なければ、外に行くと豊かな商店街があって、暇つぶしができるという気晴らしもない。
自分たちの質素な生活の中で、一様に退屈な一色で染まってしまいそうだからこそ、心の中に目を向けていくしかないという状況になることがしばしばある。
これは学生時代からそうであった。

大学生のころ、日本にいたときは、化粧をしなければ友人ともつりあわない。
このようなショッピングをしなければ、友人とも買い物に行かれない。
このような値段を躊躇しているようでは、友人とお茶を飲むことすらできない。
自分の所属するカテゴリー、階層に見合った生き方や日常を追っていくことで、精一杯だった自分を思い出してしまう。

ところが、ドイツに留学してきて以来、その価値観はすべて、無駄なごみとして葬り去られてしまった。
化粧をせずとも、誰も見なければ何も言わない。むしろしている学生など数少ない。
テレビを持っている学生も当時は少なく、本当に大学にいて、その後は安い夕食を自分の屋根裏部屋で作って、さびしく食べた後は、PCもない時代なので、本当に本を読むしかなかった。そうでなければ、本当にボーっとして考えるしかなかった。
今でもそうなのであるが、ここに住んでいると、お出かけ用の服とか、アクセサリとか、まったく必要がない。演奏会に出すら、ラフないでたちで行っても問題がないのである。

私自身、モノに惚れることがあるという感性を持っている以上、それなりに服も選び、好きなものに囲まれて暮らしているが、所属している社会のグループを意識して日常を合わせていく適応能力を活用したことはない。
それぞれが、所属をまったく考慮せずに、個人の人生で精一杯かもしれない、という印象を受ける。そもそもが、日本よりはそれぞれがおそらくずっと孤独で、それを癒すかのようなパーティーだ、カーニバルだという気もしないでもない。

結局、心理的に私は常に独りきりにされており、所属するべく場所に対する気遣いがまったく抜け落ちているのだ。
その中で生活するとき、生活はそれだけでシンプルになる。
私は今日何をしたいか、すべきなのか。
そのときに、彼らの様子を伺う彼ら、というのが存在しない。
なぜなら、その彼らだと思っている彼らが、こちらの「私」の様子をそんなことぐらいで考慮してこないからである。

その中で生きてきた22年は、非常に大切なものを私の中にもたらした。
孤独を垣間見たことと、自分は、グループに所属することで服や好み、または集団の行動やライフスタイルなどの外見で知ってもらう、表明するものではなく、私個人の発言、具体的な人生の処世術、または具体的な活動を通してのみ、私というものの存在を訴えることができるということである。

日本に帰ると、それを誰も私には期待していない。
社会が私に期待していることは、根本的に、私がここで通り抜けてきたこととは違うことなのだ。
だから、私はまた、会社の人間として、または所属している同僚や友人、または自分の教育や職業に属した人種の送るべき生活、レベル、といったものに適合しようと勤めるということは、わかりきっている。

それが、天然生活やクーネルだとか、そういった希望を持つことによって、すでに予知的に準備をしている、または日本に帰るならば、属さなければやっていかれないことを本能的に知っている私がいるようだ。
そして、その際、この自由と責任と不安と孤独が4つのコンビネーションとして基盤となっている生活に、終止符を打つ。

つまり、精神的シンプルライフ、自分の生活を大切にし、身体を動かし、善良さをわきまえ、隣人に思いやりをもって接していれば良いはずである、という仮説が、見事に壊れてしまうのだ。
それだけでは決して足りない。
和の意識、集団としての団結感。
そんなものは、私には必要ないということはいかにも容易い。
けれど、それに適応しなければ、日本では非社会的人間とみなされてしまう危険がある。
そこで、再び、自分以外の、いや、自分の本質、核の部分にあたる、心の中心を見失いそうになりながらも、集団としての団結感の中に属していくことを選ぶ以外、選択の余地がないのである。


それが寂しいのだろう。

シンプルライフとは、生活スタイルじゃない。
心の中に、人間として最も大切な、しかもおそらくそれはもっとも単純な学びを植えつけた上で、精神的に如何にシンプルで在れるかどうかなのだった、と最近気がついた次第である。

読み直しなし。乱筆、書きなぐり、思いつき、早打ちのまま、記事を投稿します。
お見苦しいところはお許しください。

2010年5月30日日曜日

鬱状態

こういう曲は、クラシックとは違うが、私の心を良く表現しているような気もする。



自分が鬱病ではないということは、承知している。
泣き言を言うつもりもないし、自分を叱咤する元気すらある。日常生活もそれなりに機能しているのだが、自分自身の内向性をどうしても改善することが出来ない。全てを悲観的に見てしまい、いじけた根性に、自分でも嫌気が指してくるのだ。そしてそれがもう一ヶ月以上続いている。

子供達はすでに自分の支配下にはなく、彼らは行動的には自立してしまった。
しかし、先立つものはなく、映画に行くにも外に行くにも小遣いというものをせびりに来る。
まるでお金が湯水の如く降ってくるとでも思っているのであろうか。

私は、行きたくないと思う日にも、毎日外出して仕事をしてくる。
そして、6時過ぎた頃、疲労を感じながら買い物をし、急いで夕食を作り片付けるともう9時を回るのである。

おいしかった。ありがとう。

子供たちが、こういうまともなことを言えないのは、全く私のしつけが悪いのであろう。
疲れていても、子供にクタクタだと告白したところで、何の交流もできない。子供の話を聞いてやることのほうが先決なのだ。子供はそもそも守られ、平和に育っていく権利があるのだから。

夜、ベッドにPCを持ち込んで、インターネット世界を垣間見たり、楽しみの読書に熱中するのが、私の唯一の逃避方法である。
思いを打ち明ける人間もいないが、例え打ち明ける相手がいたとしても、もうあまりそういう思いに熱をこめて話すような年齢でもない。すべてをそのまま受け入れてしまう自分がいるのである。期待度を下げ、幸福要求度を最低限まで下げいているのである。
そのため、私自身、本当に幸福だとは思うのである。金銭に困ることもなければ、子供も私も父親も健康である。思春期の渦中にあって、様々な問題が押し寄せては来るが、そんなもの、人生を長い目で見れば、おたおたする様なことではない。教育ママの理想もなければ、子供たちにエリートの道を行ってもらおうなどという、エゴイスティックな野心も見栄もないのだ。

人間の価値は、実は生きている、それだけで十分なはずである。
何を成し遂げなくとも、誰のためにならなくとも、社会における安全と平和を乱さない限り、どの人間も、生き続けているということだけで、十分なのだと常に言い聞かせている。
死にたくなる時もあるけれど、授かった命を自ら絶ってしまうのは、根本的に世界や人生そのものの否定になってしまう。自殺の手段すら与えられない情況というものがこの世の中には存在し、やはり私は生を全うすることはやり遂げたいと思うのだ。

子供というのは、やはり親のものなどであったためしはなく、親は授かった子供を大切に自立へ向けてしっかりと育てる義務があるが、子供達は親に礼を尽くす義務もなければ、親に感謝の気持ちを表さなくてはいけないという義務もない。
子供は、社会に出た瞬間に、彼ら自身の人生を生き抜いていかなくてはならず、それ自体が困難であるからには、親という過去を振り返ることなど出来ないのは、当然だろうと思うのだ。

しかしそれでも、私は人生のなんと過酷なことだろうと、改めて思うのである。
毎日単調に仕事に行き、買い物を済ませ、食事を作り、掃除をして瞬く間に日々が過ぎていく。
子供達は成長すればするほど、親から自立し、親に反抗してくるようになる。正しい成長過程である。私も、家庭や家族を守るために労働をし、感謝を期待せずに、毎日謙虚に人に尽くせと言い聞かせている。

それでも、心の奥深くに沈殿した垢の中には、多くの悲しみがあり、孤独があり、失望があり、存在の無意味を感じてしまうのである。

子供達の父親に赤ん坊が生まれ、彼らはこれでれっきとした家族としてのスタートを切ったわけである。今まで、父親の三人の子供を一人で育てている私への関心は高く、気を使ってくれたり、義務を果たしたりする中で、彼の妻の感じていた疎外感、または二番目の存在である自分という感覚は、とても辛かったと思う。
しかし、彼女は今、晴れて家族を持ち、夫と自らの子供を授かり、日々「我が家」という名の下に、人生を構築している最中なのだ。
一方、私の「我が家」は、私自身が崩壊させた過去がある。私の我が家と言う響きには、どれほどの罪悪感がこめられているか、自分には想像できない。

子供達にとっても、父親の家庭と言うものが、段々本物の家庭になってきた。我が家に父親が帰宅したときの、なんとも表現しがたい新鮮な風と言う感覚を私は忘れることができない。それは関係が必ずしも良くない時でさえ、父親の帰宅というのは、ある種の祭りのような空気が漂っていたのである。
そこには、そこはかとなく、人間の小さな営みの幸福というものが、見え隠れしているのであり、子供という動物的臭覚をもった者は、それを素早く嗅ぎ取るのである。

子供達の中心は、もはや私の家に父親が来ることではなく、子供たちが父親宅へ出向き、新しい命を含む、父親の家族の中へ、子供たち自身が融合されると言う形に変化しつつあるのだ。

おそらく、それが私の鬱の中心なのだろうと思う。
気持ちの良い家庭を与えてやることも出来ずに、必死にはした金を稼ぎに走り、毎日栄養のあるものを食べさせようと苦心し、泣き言一つ言わずに、不言実行を唱えて生きていても、一体誰がそれを良し、あるいは悪しとするのであろうか。
これだけ子供達から「我が家」を奪ったことを申し訳なく思いながら、なるべく「普通」に育てようと必死になっているのに、その「必死」は、子供達にとって「当然」であるどころか、それでもまだ何かが欠けていることは否めないのである。

私がどうしても一人では乗り切れないのではないかと言う境地にあっても、父親は不在であるし、一人きりで背中を震わせて泣きながら、子供を守るために、社会に対抗してきたつもりである。子供が情けない問題を起こした時も、何度でも頭を下げて、夜誰にその悔しさを打ち明けることも出来ずに、一人で気晴らしをし、一人きりで泣いてきたのは、この私である。
そして、この私こそ、子供達は今、中途半端、余裕がない、十分に時間を与えてくれない、という刻印を押して、罰しようとしているかのような有様なのである。

この場に及んで、私の存在価値とは、食事と金と掃除ではないかと疑ってしまうのも、無理もないのではないか。
もちろん、子供たちとて、そこまで馬鹿でもないだろうから、後で分かるとか、本心は違うとか、そういうことは想像できるのだが、私だって日々生き抜いていくに渡って、何処かから、おまえはそれでよいのだ、十分頑張っているのだと、許しをもらいたい。

二度目の結婚は、恋愛に過ぎず、子供に何をしてくれたわけでもなく、経済的に世話になったわけでもないので、彼自身は、私の恋人として存在していただけで、子育てに関して、直接支えてもらったことはない。話しても、実用的な側面までで、当然と言えば当然だが、他人の子供のことは、あまり関わりたくいないのである。それは父親と解決してくれという姿勢だった。

つまり、私のこの一人で背負ってきたと言う感覚は、別離以来、一度も中断されたことはない。

私は、私のやり方が正しいと言う話も聞きたくなければ、私自身の人格を肯定してもらう必要も感じない。

ただ、誰かが私を許してくれれば良いと、それだけが私の望みなのだ。
そんなに責めるな、何をしなくても、仕事もなく、食事もできず、寝たきりだとしても、お前が生きているだけで、周囲の人間には十分であり、課せられた任務を実行し続けなければ、価値がないとは思うなと、そういう許しを受けたいのである。

君は、それでよい。


それだけを言って欲しいと思う。
そして、それだけは、誰も言ってくれない。子供達はおそらく、将来礼こそいうことがあるかも知れずとも、許しと言うのは、子供にもらうものではないのだ。
自分を許さなくてはならないのは、実はこの私自身で、それをする自信が微塵もないため、ずっと自分は愛されていないと言う不安があるのである。
私が、立派な家庭を築いて、裕福な生活を与えない限り、子供達は私から去るだろう、つまり私の価値と言うのは、存在しているだけで十分ではない、そう生きているのが現在の私なのである。

どうやって、自分とこれ以上対決し、どうやって自分から自分に許しを与えてよいのか、本当に分からない。
そして、この鬱の渦巻きから、永遠に抜け出すことが出来ずに、他の人間より、おそらくほんの少し多く、人生の過酷さを実感しているのである。

2010年5月15日土曜日

荒れ狂う散文

この頃の欝は酷くて、突然泣き出しては、自分でも何を考えているのかわからなくなることがある。
何が欠けていてそれをどうやって手に入れたらいいのかも全く見通せない。

Massimoに会って以来、不思議なことがおきているのだ。
Massimoからは、二通形態のメールをもらった。
一つは再会がすばらしかったと。もう一つは週末の小旅行が終わったら連絡すると。

それ以来、私は一日中はなしたイタリア語が口をついて出てしまい、家でもイタリア語のラジオばかり聞き、夜中にはイタリア語の音楽を聴きながら、涙が流れてしょうがないと言った有様なのである。

今も、ワインの入った頭で、思うに任せて書いている次第である。

恥をさらそうが、無教養なことを書こうが、そんなことはどうだってよいじゃないか。
何が、私をこう熱くし、何が私の心をこう締め付けるのか、それをなかなか受け入れたくないのである。

Massiomoというのは、私にとって男性でもなく、友人でもなく、イタリアへの扉である。
もちろん、彼は私に良くしてくれるし、今後も友人だと思って、交流がしばらく途絶えることはないと思う。
けれど、私は彼など全く眼中にないのではない。

私が、ここ何年も、毎年のようにイタリアに休暇に行き、思い出の地ばかり訪れ、写真に収め、新しい色に塗り替えようとし、涙を流して、永遠に続くと思われる丘陵に落ちる夕日を脳裏に焼き付けて帰ってくるのは、他でもない、一心に、彼を忘れようとしている行為なのである。

しかし、あの魔物は、夜になれば襲ってきて、私を悲しみの世界に陥れ、再び、私はこの思いから開放されることはないのだと実感する。

Massimoでもなければ、イタリアでもない。
彼が日本人であれば、日本であるし、彼がドイツ人であったなら、それはドイツなのだ。

ええ、はっきり言わせてもらえば、私は孤独だし、それでも背筋を伸ばして凛と生きているつもりだけれど、自分の有り余る感情に振り回されて、まるで愛することのできない自分が、気が狂ってしまったように暴れだしてしまいそう、と言った状態なのだ。

何の儀式をすれば解放されて、何のまじないをすれば、私があの愛から逃げ出すことができるのかはわからない。

とりあえず、愛することも知らない人間に、愛していると言うふりをされ、束縛されると言う苦痛からは足を洗えた。
再び、あの問題に向き合った私は、一生その影を背負い続けると思うと、本当につぶれそうになるのだ。

自分の人生を思い描くだとか、自分の人生を物語るとか、そんな冗談を言っている場合じゃない。
私は、自分の物語の方が私を支配していることを実感している。
渡してしまった魂を取り戻すために、私は何をすればよいのか。

思いっきり、自分を痛めつけ、汚してしまえばよいのか。
いや、救われるべきは、許されるべきは、実は私なのだから、残されるは、殆ど祈りしかないと言うことなのだろう。
本当に、本当の意味で、コミットしてしまうことは、ここまで一人の人生を支配し、ある一つの牢獄に閉じ込めてしまうものなのか。

早く、鬱が過ぎ去るのを待つしかない。

2010年5月5日水曜日

Con chi condivido le proprie passioni?




今日は春らしかった。
最近は気温が上がらず、コート無しで素足で外に出るわけには行かないが、それでも太陽の光はまぶしいほどであった。

昼前、私はマッシモに会いに行った。
マッシモに知り合ったのは最近なのだ。とあるパーティーで顔を合わせた。
彼はイタリア語しかできない。英語もそこそこで、まともに自己表現できるのは母語であるイタリア語のみなのだ。東洋人の顔をした私が、突然それならばとイタリア語を話しだしたのが珍しかったのか、その後もコンサートなどに誘ってもらった。
彼はコンセルヴァトリオでチェロを学んだのだが、ディプロムを取ることなく、彼にはアカデミックに見えた高等教育を嫌悪してドロップアウトした。
その後、散髪屋の父親の下で、修業をし少し散髪などもできるらしい。

訪れたコンサートで、彼の自然な才能に驚いて、その後何回か呑みに行ったという仲でしかない。

彼の母親は半分ドイツ人で、20歳の時イタリアに移住したと言う。
自分のルーツを知るために、変化を保つために、自分の可能性を知るために、根なし草生活を続けているという。
彼は、週末Boxhagener通りの大きなフリーマーケットで店を出し、若干お金を稼いだり、知り合いのイタリア人の店を手伝うなどして食いつないでいる。

頭の切れる男性だが、アカデミックなものやインテレクチュアルなものに対するアレルギーが強いらしい。尤も、学校が大嫌いで、ドロップアウトした当時も何の職業も習得せずにいたというから、なかなか私などには理解できないライフスタイルだ。

家の要らなくなったもの、子供たちのおもちゃやそういった古いものを彼に処分、つまり彼のフリーマーケットで売りさばいてもらうために久しぶりに連絡を取ったというだけの話である。

地下の荷物を車に運び込んだだけで、階上のアパートに他の荷物を見に行ったまま、私達は4時間も話しこんでしまった。何を話したか。そんなことはあまり覚えていない。少なくとも、政治の話でも本の話でも、共通の知り合いが入るわけでもないので、誰かの話をしたわけでもない。互いの人生を延々と説明したわけでもない。

しかし、何か大切なことを話したような気がする。

ベルリンの生活がどうだとか、今現在、私が夫と別れたあとどんな気持ちなのかなど、そんなことを話したのだと思う。
友達というには、あまりにも知らない人なので、知人と言う感覚だ。私はそういう人は、殆どカードの内を見せない。極実用的に会話をしていただけである。

ところが、何気なく話していると、何度か涙が湧き出てきそうになった。
もちろん相手にはそんなことおくびにも出さなかったつもりだ。私は親しくない人には、弱みを見せない人間なのだ。

目頭が熱くなるたび、自分の中の感情は、まだ新鮮なのだと実感した。まだ湯気が出ているほど、「現在」に属する感情で、それに触れただけで、一瞬でも理性が負けそうになるのである。

べらべら話していたら、彼は突然声を大きくして遮った。

そんな風に身体の前で腕を組むのをやめろよ。それは自分を閉じている証拠だよ。

そう言うと私の腕を解き、手をとって、とても暖かく、私を楽にするために抱擁してくれた。それは、私が悲しい顔をして夫との話をしていたからではない。
彼の目には、私がこぶしを握ってドイツの大地に脚を付き、戦闘的に生きているその姿が、私の話しっぷりから見えたのだと思う。
それを哀れに思ってくれた彼は、おそらく人間として私を楽にしたい、いやそんな言葉ではなくて、単に抱きしめてやりたい、そう感じたのだと思う。

触れあいは、距離をずっと縮める。その感触が暖かければ、正直な信頼感が生まれてくる。

その後もしばらく話し込んだ。そして、私は何ヶ月もこのように、自分のおなかの中にずっとしまっておいた私自身の話をしたことがなかったことに気がついた。

私は殆ど誰にも私の魂を見せないし渡さない。その辺は石橋を叩くように思慮深い。傷つくのが嫌なのだ。ならば孤独を耐える方が数倍楽なのである。
魂を見せるということは、私が裸となって自分をゆだねることと同様なのだ。

今日、彼は私に歩み寄って、私に触れて、私の魂をちょっとだけ動かした。

君はね、大事なものを持っているよ。君には、たくさんのことが隠れている。自分を解放してやりな。君はリラックスしているし、ナーバスでもなければ、内気だとも思えない。けれど、君の家族や君の家族が背負ってきたものが、君を形成しているじゃないか。それを本当の意味で切り離すのは簡単じゃない。経済的、物理的独立は、本当の意味の切断とは違うよね。
君の中には、たくさんの整頓された引き出しがあって、それが融合していないんだよ。
Lasciati andare.....   (自分を自由にしろよ)
君は、見る限り、とても強い女性だね。とても芯が強い。

その強さが私の過去の産物。

もう男の人など要らないとは思うなよ。
人間は社会的な動物なんだから、一人なんかで生きられるはずがない。心をオープンにして。

彼の言葉を今振り返ると、如何にも私は肩肘張って生きているのか分かる。

男の人なんか要らないのかって、自分でも思うよ。

そうそう、そういう風に見える程だよ。


今のこの現状では、私は幸福だと思うのだ。
しかしどうであろうか。クリスマスに壊れた家族を思って悲しくなり、子供の誕生日に、父親と祝ってやれずに悲しくなる。

過去を取り戻す気はないが、私の中には一種の不治の悲しみが宿ってしまっており、それ以来感情というものを半ば凍らせるようにして生きてきたのかもしれない。
それで、冷静に先週の話や、仕事の話をしているだけで、目頭が熱くなるのである。

心の開ける人の前では、私は絶対的な信頼感を彼に与えざるを得ないらしい。嘘の会話などできないのだ。白々しい会話をしていると、涙が滲むのだ。

太陽の光が美しい季節である。
あまり美しすぎるので、時々ふっと横に微笑みかけてしまう。
しかし、私の横には、誰もいない空間が広がるばかりである。

喜びを分かち合えない孤独ほど、それが如実に孤独であると強調されることはない。

悲しみも苦しみも分かち合って、慰めあいたいなどと、考えたことはないのだ。人間は、一人で苦しむものだし、また他人は、傍らに存在すること以上できないのである。
しかし、全く意識的には気がついていないのだが、毎日が重く、苦しく、闘いであるからこそ、私が生活に喜びを見つけたときは、飛び上がるほど幸福なのである。子供の笑顔や、美味しい食事、雨上がりの太陽、窓辺に小鳥が来て水を飲む時。そういう時、私はこれを皆に見せてやりたいと言う衝動を抑えることができない。生活の隅々にある。小さな発見。それは、言葉にできぬ重く辛いものをそれぞれが背負い、それぞれがそれぞれに与えられた孤独を生き抜かなくてアならないからこそ、この小さな美しい発見を分かち合うことに意味があるのではないだろうか。
この取るに足らない小さな喜びを分かち合える間は、つながっているのである。

私の不幸は、この喜びを分かち合えるパートナーがいないということだけであろう。

その他の問題など、実は取るに足らないことなのである。

2010年4月30日金曜日

身体的なもの

とにかく朝起きてから、今日はダメだ、今日こそはつぶれるのだと、それだけを実感していた。
とてつもない荒野に一人きりで置き去りにされたような孤独感と共に起き、いや起きることもできなかった。仕事だけが支えで、締め切りに追われたり、学校に教えに行くことが、もはや私の救いであり、社会との唯一のか細いつながりになってしまった。

August Rodin The Kissers


そうして自分の教室に入る。二人の生徒から断りがあり、建物の中庭に面した窓を開けた。今日は20度以上気温が上がり、すっかり春爛漫といった風情であった。

私も去年買った淡い黄色い革のバレリーナを素足に履いて、珍しくスカートをひらつかせて家を出たのだ。
窓の外には、小さな子供達が砂場に集まって遊んでいる。母親が何人か一緒に砂場に腰を下ろして、日向ぼっこをしていた。すっかり緑が色濃くなった。

10日ぐらい前だろうか、ARTEである番組を見た。
それは、Gerard Depardieuの息子、Guilleum Depardieuに関する小さなドキュメンタリ番組だった。彼のデビュー作は、16世紀のガンバ奏者であったSt. Colombeの映画であり、Marin Maraisの若い時期を演じていた。それ以来、彼のファンになった私は、ことあるごとに彼の映像を見てきた。
その彼が、バイクの事故を起こし膝を怪我した。手術の際にMRSAというバクテリアに感染し、それから苦悩の年月が始まった。
痛みと炎症の繰り返しに耐えかねた彼は、右足を切断し、映画界に復帰したが、おそらくMRSAによる肺炎で3日以内に死亡してしまった。
その彼の映像が、ドキュメンタリーとしてテレビに流れ、どうしようもなく悲しい気持ちになってしまった。若く、健康で、男性的な人間が、三日以内で亡くなったことも悲しければ、彼のように自虐に近い形で、仕事に闘魂し、よき父であろうと努力しつつ、離別も経験し、MRSA被害者の会も設立して活動していたという、その溢れんばかりの生きる活力が消えたということが信じがたかった。

教室の中で、開け放った窓から聞こえてくる、屈託のない子供達の声を背後に、私は椅子にポツリと座ったまま、ピアノを弾くでもなければ、本を読むでもなく、ただそこにじっと張り付いてしまったように座っているだけだった。

一昨日、私は最終的な家の整理のために、夫宅へ向かった。一人で以前一緒に住んでいた家に行き、その残骸を見ながら、子供達の残りの玩具や私のキッチン用品など、細かいものの整理をする気力はなかった。その日のことを考えただけでも、胃痛が激しくなって、吐き気をもよおしたほどである。夫を見たくないのではない。夫を見るのが怖いのだった。何かを感じてしまうという心の動きが怖い。

情けない私は、学校の引けた真ん中の息子を手伝いに連れて作業に向かった。家の中は男の住処と化しており、私が一緒に住んでいた頃よりもすっかりくすんでしまった。地下倉庫の整理も終え、過去にじっくりと対面し、できる限りのものを捨てようと心がけて、箱をまとめた後、息子とま再び階上の部屋へ戻った。間もなくして夫も帰宅した。
3ヶ月ぐらい会っていなかったのだ。様々な事情が重なって、会うはずが会えなくなり、会うつもりが会いたくなくなって、半ば自然消滅にも似た中途半端な状態である。
血色の良い顔をした夫は、挨拶の抱擁をし、私の仕事ぶりを察するや、何か飲んだ方がよい、疲れているようじゃないかと、私の顔を覗き込んだ。

その目は、私の知っているあの目だった。あの優しい犬のように従順な目だったのだ。

その目を見たとき、私は大きなショックを受けた。それこそコミュニケーションだったのだ。言葉のない、しかし明らかに私の心を動かしたコミュニケーションだった。

夫は、驚くべき金銭感覚と、驚くべき楽天的な性格により、様々な問題を抱え込んでいる。私達が知り合った頃、すでにその問題は頭角を現していたが、そんなこと一々恋人達は話題にしなかった。
それらの生活上の問題が、私たちを遠ざけたのかどうか、今の段階では分からない。
しかし夫との関係は、以前のような魂だとか精神だとか、そういった太い縄にがんじがらめにされたような感覚は一切ないのだが、それでも何かが強く私達を惹きつけている。

椅子の上にずっしりと腰をかけたままの私の目には、自分の膝、足元、そして胸元が目に入った。春らしい陽気なので、いつものように子悪魔さながらに黒一色ではあったが、ジャージーのフレアスカートにぴったりとした胸がV字に開いたトップに小さなボレロを着ていた。何ヶ月ぶりの素足が憎らしかった。脚を伸ばした時に見える自分のふくらはぎも憎らしければ、Vカットから見える胸のふくらみすら憎らしかった。特に胸は、若い頃の新鮮さは失せ、脂がのって自慢げにすら見えた。
こういう自分の姿をすっかり持て余しながら、私は自分が女であることを実感し、今や13歳の息子にも追い越された私は、この身体で意地になって地面に足を付き、一人で肩をいからせながら生きているのかと思ったら、うんざりしてしまった。

あの俳優ギヨームのせいなのだ。なぜってギヨームは、夫が若かった頃に瓜二つなのである。
あれから、ギヨームのTVでの姿がことあるごとに私の目の前にちらついた。彼の熱い声、彼の無防備な態度、彼の自分勝手な暴走。そういったものが彼 の見かけと一体となって、私の目の前に何度もちらついたのだ。
私は、そして必ず連想する夫のことも思い出さずに入られなかった。

夫の目を見た瞬間、夫の腕の感触を実感し、夫の髪の毛の香りを実感した。そして、それは全て過去の遺産のように、私からは手の届かぬほど遠いところにあった。あの目は、まるで妹や他人を気遣うように優しかったが、それは、私達の間にすでに何も熱いものがなくなってしまったからであろう。


椅子の上に座ったまま、自分がまぎれもない女性なのだと実感した瞬間、私と夫は、身体的に結ばれあっていた、そしてそれだけが理由なのだと直感した。

どれだけ愛し合っていても、もうどうしても触れることはできないと言うことはある。私はそれも知っている。
しかし、愛し合っていなくとも、身体同士が触れ合いたいと、まるで細胞が声を出しているように聞こえることもある。見かけが素晴らしいのでもない、立ち居振る舞いが洒落ているのでもない。肌が合う、そういう言葉ともまったく違う。
性欲というような具体的な感覚でもなく、通り過ぎたり、向かい合ったりした瞬間に、極自然に身体同士が磁石のように引きあってしまう。そういう感覚であり、求め合っているというような熱さはどこにも見当たらないのである。

一緒にいる、隣同士にいる体温を感じあうことで、問題を解決し、あるいは問題に目をつぶり、今までやってきた。けれど空間を別にしてしまったら、そこには何も残らなかったのである。身体を切り離したら、何もなくなってしまったという、ぞっとするような話だったのだ。

どれだけ楽しい日々であったか、旅行に行った思い出や、議論に議論を重ねて闘争しあった思い出もある。しかしその密度は、すっかり影をなくして、実質何が残ったのか皆目分からない。身体性が保障される間、このような交流が意味をもっていたのである。

分かり合えるからセックスをする。だからお互いが満足するというのが図式である。

セックスをするから口語面での交流もできる、だから満足するという図式だったのだと、今分かった。

だからといって身体的な面から、よりを戻そうなどと考えたこともない。一度壊れてしまったものは、通常の図式でも、第一段階の分かり合うという言葉ですらブロックされているのだ。

今、私は夫に抱きしめられたとしても、おそらく私には、二度と血は通わないのだと思う。もう血は冷めてしまっているのだ。

しかし、彼を見るたびに感じる欠乏感は、分かり合える人がいないという次元ではない。そうではなくて、すれ違うたび、目を見るたびに吸い寄せられそうになる身体を制して動かさずにいる際に感じる、身体自体の欠乏感なのだ。そしてそれは必ずしも性欲などのように具体化しておらず、本当に私と言う身体が、硬い地面に棒立ちになって途方にくれているような、そういった寂しさなのである。

最初の夫の時とは比べ物にならないほど、浅い層で起きている感情の動きだ。
どこかを切り裂いてくるような痛みはない。
愛ではない、愛したこともないという冷たい言葉を吐いていた私は、夫に会わなかった3ヶ月、すっかり落ち着いてしまった自分の気持ちを、整理がついたものと認めていた。
ところが、会ってみてはっきりとわかった。整理などついていない、整理など付けられない何か言葉には言い表せない、自分でも理解のできない磁石が今でも働いているということを実感してしまった。
これが、身体的な愛だったのかもしれないと思った時、私はなんとも言えず悲しくなった。
どんなに魂の住む次元が違う男でも、どんなに生活感覚の違う男でも、私を何年間も暖めることはできたのだと。空洞のような心を抱えた私の過去8年は、確かに魂の枯れ切った時代であった。けれど、私の身体は常暖められていたのだ。私はずっと女性であったし、私はずっと抱きしめられていた。
私の感情の氷山の一角しか理解できない夫であっただけに、私は感情的には、完全に自立していた。感情的には、彼は常に、一番遠い地点に見えないような場所に立っていた。けれど、私達はそれを体温で呼び戻しあったのだ。

時々、私の身体が私に囁く。
自分を硬直させてはだめだと。

私はしなやかな女性であるべきだし、女性以外にはどう転んでもなれない。