2011年3月30日水曜日

何も手につかないので書いてみる

あれ以来、何かが変わってしまった。
聞こえる音も、見える景色も、呼吸する空気も、みんな以前とは違う。

おなかの中に、重くて悲しいものが宿ってしまい、それがどこへも行ってくれない。
そして不思議なことに、どこへも行かないで欲しいと、大切にその塊を抱いている自分がいる。

それは、何かの、誰かとの共有なのだった。

朝起きたときに、眠い目でニュースをチェックした。
何の虫が知らせたのかわからない。
外国に暮らすようになって、日本で大変なことが起きても、私はまるで部外者のように、ニュースを知るのも現状を知るのも大幅に遅れる。

妊娠8ヶ月のあの時、何もかもが不安だった。
初めての子供をおなかに抱えながら、未来も見えず、夫がいてもいつも一人であった自分の地面は、何かがあればすぐに崩れるほど脆そうだった。
日本には帰らない、帰れないという決心も事情でもなく、帰ろうと思えば、すぐにでも帰れるほど、日本はまだすぐ近くにあった。

その朝早く、実家から電話が入った、
TVを見たら、神戸の町が燃え盛っていた。
頬を抱えて、テレビ画面の前で泣いていた。
地震災害のショック、被災されたかたがたへの思い、そういうものも当然あったのだけど、実際は、私の心こそ、心の中に起こる地震を恐れていたのであり、実際の自然の破壊力の大きさを見たときのショックは、私の心を直接揺さぶった。
生きている自分の世界が揺らぐ、そういう根本的な不安感だったのを覚えている。

しかし、インターネットもなければ、コンピューターすらなかった時代で、テレビ番組も今ほどチャネルが充実していたわけでもない。
大変な状況を画面に見つつ、多くの詳細を知らずにも済んだともいえる。

それ以来、私は殆ど毎日のように考えてきたことがある。
いつか、自分の実家に近いところに大地震が来て、オロオロすることがあるだろうと。

3月11日は、娘の誕生日だった。
前の晩にケーキを焼いて、テーブルにセットして寝た。
甘い匂いにつられて夜中に起きてきた娘が、ちょっとキッチンに立ち寄って、そのケーキを目にし、きっと満足そうに再び自室にもどった音を聞いた。

その朝、皆で朝食にそのケーキを囲んだ。
娘は新しい携帯をもらって、息子たちは忙しく登校していった。
日本で大地震があったよ。
それだけ伝えた気がする。しかし、自分の親にも連絡できていない。この分だと、昼ごろまで連絡がつかないだろうと思い、落ち着いてニュースを見ながら、時間を稼いだ。
難なく親には連絡がつき、父が渋谷からの帰宅に手間取っているという話は聞いたが、無事だったようで心配事は一つ消えた。

しかし、これは何か大変なことになったという予感は、非常に強くあり、午後レッスンだったのだが、手につかない、そういう状況だった。

_________

そうして始まった震災なのだが、今では震災という言葉よりももっと、何か背景を動かすような意味を持って、私の中の何かを変えてしまった。
遠くにいて、部外者のように、何の苦しみもなく、ただ画面を見つめてオロオロしている人間が、何かが変わったなどと、大げさなことを言うべきではないかもしれない。
しかし、事実何かが変わってしまったのだ。

たくさんの人の涙を見た。
家が流されるとき、思いでも歴史も、家族で共有した何もかもが、自分や家族が存在していたという証さえも一緒に流されてしまった。
考えただけでも言葉を失ってしまうようなことで、おそらく私自身が同じ境遇に遭遇したら、足がすくむだろう、泣き崩れるだろう、ただのどの底から嗚咽が漏れるのみだろうと、無力な姿しか思い浮かばない。
幾つかのニュースや動画で、そういった人々の嗚咽と叫び声を聞いてしまった。
そんなとき、自分のおなかが絞りあげられるような痛みを感じてしまう。
子供と手が離れてしまった話、子供の棺の上にぬいぐるみが置いてあり、その傍に佇む母親が号泣している土葬の様子、孫を抱くようにして無くなった祖母、他の人が流されるのを見た話をしながら、自らが泣き出してしまう人々。
数え上げればきりが無い。
そんな話と場面の数々が、毎日毎日私の目に飛び込んできた。
そして、そこに「彼らの悲しみ」とはとても言えない、個人の一人一人の慟哭を感じてしまった。

いったい、彼ら一人一人の悲しみの重さを集めたらどれほどの重みになるのだろうか、一体、彼らの流す涙を集めたら、どれほどの深みになるのだろうか。
そんなことばかり考えた。
そして悲しむ人の顔と姿は、血の気がなく、まるで血がめぐらずに冷え切ってしまったように、生命力を吸い取られていた。
そこには、早く天使が舞い降りて、一人一人の心臓を暖めて、再び鼓動を呼び起こし、血が流れ出すようにしてあげないと、いつしか氷のように凍ってしまう。
そんなとてつもないことを考えていた。

ある家族は、身内の遺体を流された車の中に見つけてしまう。
どうしよう、どうしようと半ば取り乱して、車の中に声をかける。
そして警察が来て、遺体を運び出した。
その間、彼らはシート外で待ち、しゃがみ込んで、絶望と悔しさに声を出して泣いていた。
しかし、その後すぐに、彼女は立ち上がり、またやり直す。守るものがたくさんあるから、まだ若いから大丈夫。
そうして、泣きじゃくりながら、おそらくひざを震わせながら、笑顔を作って去っていくのである。
リポーターもその後に嗚咽していたのが聞こえた。

この動画に対する意見は様々に分かれているようだが、私自身には、とても大切なものだった。
悲しいみや痛みは、限りなく個人的なもので、人にとうていはかれるものではない。
しかし、人間は死を恐れている。死体はショックを与えるもので、死体に対面することは、想像しただけでも恐ろしい。
死は、そこにありながら、ずっと抑圧されているのであり、死は家族の中にずっと流れているにもかかわらず、それは病気、またはまれに起こる事故という形で、ある種のプロセスを与えてくれる。
しかし、今回のこの様相は、文明を一瞬にして波に飲み込んでしまい、まるでずっと昔の人間が、なす術も無く波にさらわれていったのと、なにも変わりないのではないか、そんな恐ろしさを見せ付ける。

しかし、命とはもしかすると実に単純なものかもしれない。
そういうことをこの動画を見た後に、またはこの震災のニュースを二週間追い続けて思った。
死んだらおしまいだということ。
そして死や運命をコントロールすることは誰にもできないということ。
死は人にショックを与え、人をどん底に突き落とすが、それは一瞬にして生きていることだけが実はすべてなのであって、それ以外に何も求めるべきではない、そういうことに、誰よりも早く気がつくのではないか。
そして何よりも強いのは家族の存在なのだと思い知らされた。
死に掛かった人々を生かしたのは、多くの場合家族の顔が浮かんだかららしい。
家族のために生きなくてはと、木にしがみついたという話もあった。

2011年3月9日水曜日

春の陰影

春の光があって

空気が透き通って

毎日芽吹き始めて

ひんやりとした風も、乾き始めた土のにおいを運んでくれて

木々の上にちらほら見える黄緑色がいとおしくなる

でも予想のつかないことを恐れるような不安感がどこかにあって

誰も見ていない、だれも責めていないのに、罪悪感が募って

光の中に身をおいても、その灰色がどこから来るのかわからないときがあって

それが思わぬときに、未熟な種のまま顔をあらわにして

殻が破れてしまうことがある

そんな話みたいに、光があって暖かくなってきたのに、

どうしても通じ合えないものにも光が当たって

身体の傷と一緒に心の傷も深くなるのだけど

探ろうとして、試みようとすればするほど

ミシミシと傷が切れ込んで行き

どう転んでも悲劇の穴にしか引力が通じていないという失望感が見えてしまう

春なのに悲しいことや

青空だからこそ涙が出ることがあるけど

それは悲しいことや未熟なものみんなに平等に光が当たってしまうからだろうか

光のおかげで幸せになるのに

光のおかげで新たな影ができてしまう



昨日はそんな日だった

2011年3月6日日曜日

保守の難しさ

さすがの当地も、そろそろ春の気配となってきた。

朝起きると明るい。
キッチンのカーテンを思わず開けたくなる。これは春の到来である。
暗闇の中、子供たちを登校させる不安がない。

そして、午前中掃除をする。そんな気になるのも、春のおかげである。
起きたって9時まで夜が明けないのに、誰が掃除なんかしたいものか。

10時半ごろ、まるで職人さんの休憩のようにお茶を入れる。
起き抜けには、いつもコーヒーなのだが、さすがに午前中の休憩はお茶。
気に入ったお茶をいくつか買ってあるのだけど、それを気に入ったポットに淹れて気に入ったティーカップを出して飲む。新聞を開いたりして、ちょっと贅沢。
こんな余裕も春ならでは。

Tee.jpg


午後になると、今度はリビングのほうから、斜めに陽が差してくる。
つまり、一階というあまり好ましくない立地条件でも、それなりにアパート全体が明るくなるのである。
これは嬉しい。
実 はもう22年も欧州にいながらにして、いまだに実感していなかったことであるが、Frühlingsputzというのは、春の掃除という意味で、日本のよ うに大晦日に掃除をするのは、実用的視点から見るとまったく意味がなく、やはり春になってやっと掃除をするエネルギーをもらえるということなのだった。
まるで、冬眠から覚めたようだ。

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実は、先日Guttenberg氏が、国防相を辞任して以来、なんだか寂しくて仕方ない。
思ったことを、ほろ酔い気分のまま(現在夜中)、ちょっと殴り書きしてみる。
正確な情報を確認しないまま、うろ覚えで書くので、間違っていたらすみません。


私は、彼は余儀なく失脚すると予想していたし、あの博士論文を見たからには、嘘つきと思わずにはいられなかった。
あんなものを提出したのは、冒涜とも取れるし、悪質であるといやな気分になったのも事実である。

しかし、なにかが心に引っかかった。
あの辞任の表明が、あまりにも潔く、kurz und knapp、つまり何かのせりふを聞いているかのような、ある種の美しささえ感じただけに、またそこから皮肉なことに「嘘」の匂いさえ嗅ぎ取ってしまったのだ。

貴族の出である。
フランケン地方の古いGuttenberg家出身で、男爵の称号を持つ。
父親は指揮者であり、母親は彼が5、6歳のころに離婚して家を出ている。
弟と共に、腹違いの兄弟4人と共に育った。ローゼンハイムのギムナジウムを卒業した後、法科では有名なバイロイト大学で法律を学び、博士号を取得したわけである。

この一家は、古くから自分の家系の財産管理会社を運営するほか、病院の株を持っており、実質的に彼も監査役であった。そのほか、プファルツ地方にワイナリーも所有し、いわゆる屈指の貴族なのである。

そういう慈善行為、ワイナリー経営、病院監査役などの役割をこなしていくことで生活していく貴族のボンボンに納まりきれなかったのが、このKTと略される、Karl Theodor zu Guttenbergなのであろう。
そういう意味では、あまりぱっとしない指揮者である父親にも、そうした野心があったと考えてもよいのかもしれない。

政治、あるいは学術の世界で「も」認められたい。
この「も」は重要で、彼はカヴァリエ祭で賞を授かるなど、貴族の息子としてスポーツの世界でも、紳士的な価値を認められている。つまり、コンプレックスを持つ理由などどこにもないはずなのである。

しかし、今朝読んだTAZでは、最近の保守派の在り方を問う書き方をしており、なかなか興味深かった。
つまり、現在の保守は、保守であるだけでなく、その伝統を重んじる生き方に、さらにモダンな価値観をも実現しなくてはならない側面があるということである。
つまり、リベラル保守という位置であろうか。

Guttenberg自身、剽窃問題が明らかになった当時、若い家族の父親としての役目、政治家としての役目を果たしつつ、100パーセントの実力を出し切れないまま書き終えたもの、ということを強調していた。

そういえば、彼の周囲は完璧なのである。
Otto von Bismarckのひひ孫にあたる、シュテファニという、これまた見せるために存在するかのような金髪の美女を妻に迎えている。もちろんそこには愛情あっ ての結婚生活に違いないが、若いころから、描いてきた一つの人生地図を汚すような人物を妻にはしまい、ということはしっかり念頭にあったに違いない。

知れば知るほど、意地悪な言い方をすれば、人生を隅々完璧に演出してきたのである。
そして「暴走する野心」で手にした博士号であったが、やはり付け焼刃で手にできるような代物ではないはずで、こうしてぼろが出てしまった。野心は、それに見合った用意周到な計画と実践がなければ、形となって実現されることはなかなか難しい。

ある新聞は、これをリベラル保守のひびなどと見ている。
Ursula von der Leyenは、突然斬新な髪型にしイメージを一新した。が、家庭には7人の子供たちが待っており、幸せな一家の母親でもある。
若手のKristina Schröderも、今まで一度もぼろを出したことがない上、古い形のウーマンリブをせせら笑い、本当の女性解放主義を実践すべく、国会議員として妊娠していることをカミングアウトした。

こうなると、もう子供を持つこと、幸せで機能する家庭を持つことが、キャリアの妨げになるという言い訳すらできない。家庭もキャリアも、というのが当然教養ある女性の生き方の指針となってしまうのである。

また、外務大臣Guido Westerwelleの完璧主義は、若干形を変えて、外見の完璧さとしても現れているという。
つまり、ドレスコードがカジュアルといえば、彼の場合隙のないほど完璧なカジュアルないでたちとなってしまい、そこにはかつてのSchröderやFischerといったロックなラフな感じはない。

そんなことを考えていると、なるほど、このCDU/CSUまたはFDPといったリベラル保守の人たちの、すさまじい野心と完ぺき主義には、驚いてしまう。

実際、保守でいることは現代では難しいのではないかと、そんなことを考えた。
そして、そのシンボリックな出来事が氏の辞任であり、だからこそ、なにか後を引きずるような悲しさが残るのだろうかと、少し新しい視点をもらった。

メルケル女史の博士号も、物理学のナントカであるが、現代ではまったく役にも立たず、なんの革新も含まれない実に退屈なものであるらしい。
しかし論文の中に、すくなくとも、この元大臣のような、初期的間違えは見られないだろう。

し かし、なぜ政治家は博士号を欲しがるのだろうか。緑の党の党員は、何が何でも博士号を欲しがるだろうか。Die Linkeはどうであろうか。SPDにいたっては、元首相のSchrödernなど、Realschules出身で、後で非常に苦労して弁護士になった人 である。博士号の比率は少なそうだ。

そう考えてみると保守派というのは、リベラルでも堅苦しい。
何に追われているのだろうか。
そして、この暴走する野心の裏にある、本当の上昇志向原動力は、いったい何なのであろうか。

ほろ酔いで書いたので、書いたことを忘れた。意味をなしているかどうか。

おやすみなさい。

2011年2月25日金曜日

一人という勘違い―寄り添うこと

 昼に日記をアップし、鬱な心を恥ずかしげもなく吐露したところであった。


なんのことはない。

また母の体調で心配事があるだけなのだ。

もう老人の域に入っているのだから、命にしがみつくような望みや希望など持っているわけでもない。

ただ、そこにひたすら寄り添えないこと、彼女自身が決して口には出さない不安を分け合えないことが、非常に苦しいだけなのだ。


私の敬愛するディートリッヒ・ボーンへッファーというプロテスタント神学者は、第二次世界大戦で、反ナチ運動に参加していたことがわかり、囚われの身となって、ヒットラー自身が自決するほんの3ヶ月前あたりに処刑された。

彼は、苦しみや不安や痛みこそを分かち合うべきだと、熱心に説いていた。


私は、苦しいときも辛いときも、だからこそ一人で克服せねばならないと、自分にも他人にも厳しい時期があったが、この言葉に出会ったころ、それはもうずいぶん前なのだが、思いを改めるようになった。

私は、愛する人間の痛みを少しでも一緒に体験できることで、相手の途方もない不安感が薄らぐなら、徹夜をしても付き添ってあげたいと思う。

本当の辛さを目の前にすると、人は言葉を失うものだ。

それは、痛みに対する敬意であり、他人であるのに、やすやすと気持ちがわかると言ってはいけないという気持ちがある。

何も言うことはない。けれど、私はそこにいて、お茶を入れて、たわいもない話をして、ただただ時を共にすることはできる。

そして、それこそ、本当に辛いときの恵みなのではないかと、分かち合いなのではないかと、最近気がついた。


他人を助けることの難しさは、昔からわかっていた。

それは、私が辛いときに、多くの人がいろいろな手を差し伸べてくださったのだが、私はやはり私一人で乗り越えるしかないということを知っていたからだろう。


しかし、そこには、お茶を入れてくれる人、電話をしてくれて声を聞かせてくれる人、はがきをくれる人、ひょっこり尋ねてくれる人、ご飯を作ってくれた人、話を黙って聞いて、助言らしきことは何も言わないのに、ずっとそこにいてくれた人たちがいた。

私は、その人たちなしに、今幸せに生きていることができるとは思えない。


助けることは可能だが、いつでも人を助けられると思うことも驕りではないか。

人が死ぬときには、誰も助けられない。

仕方なく、一人で息を引き取るしかないのである。


そして、私はキュープラーロスの言葉を思い出す。

人を一人で死なせてはいけない。

手を握り、声をかけ、皆で囲んで逝かせてあげること。

孤独の中に死を迎えることと、温かみの中で死を迎えることには、運営の差がある。

戦争でたくさんの死を、そして臨床でも死を乗り越えてきたキュープラーロスの言葉には、本当に真実味があった。


結局、寄り添うことが愛情なのである。

どんなことがあっても、親は子供を見捨てない。

パートナーも、どんなことがあっても、続く限り一緒に寄り添うのが愛情なのである。


_________


仕事に行って、帰り際に音楽学校のボスに出くわす。

彼はとてもよい人なのだけど、今まで対で話す機会があまりなかった。

軽快な挨拶ばかりで、お互いに知ったようで知らない関係である。


ところが、今日は話しかけてきた。

階段ホールで、思わず長話になる。

お母さんどうしてる?と、何を察したのか、突然聞いてきたのだ。

そういえば、去年、突然の帰国ということもあり得ると話をしておいたのを忘れた。


しかし、なぜ、今日、私がこうしてさびしくて、不安で、居た堪れない気持ちのときに、話しかけてきてくれるのだろう。


ひとしきり話して、心が暖炉の火を浴びたように暖かくなった。


結局看病や助けなど、実践的なことは帰国しなければできないけれど、親のために帰国したら、それも重荷かもしれない。

私自身が、子供たちや、私が一人で必死に築いてきたさまざまなここでの可能性に、大きな異変を与えても、帰国するべきである、そうせねばならないし、そうしないと、一生後悔するという問題があった。

結局は自分の問題なのである。

親がその一生を終えたあとに、私が精一杯尽くしたと言い切りたい、というある種のエゴでもあるのだ。


しかし、彼と話しているうちに、私が帰国するたびに、はじけるような笑顔で生き生きとした私と子供たちの姿を見せ、できる限りの思いでを作り、娘がこんなに幸せに暮らし、孫たちもスクスク育っていることを、信じて歌がわない時間を与えることが、私の役目ではなかろうかと、だんだん気がついてきたのだ。


職場のボスと話をしながら、こんな風に気持ちの方向性が出てくるとは思ってもみなかった。

でも、彼の目は優しく、話しかけてくれた彼の言葉は、十分に真剣だった。



こういうことは、いつしかタブーになって話せないじゃない?

だから、僕から話しかけないととは思っていたんだよ。


そう暖かい立ち姿で私を見守ってくれている彼を前に、


親のことは大切で、本当に与えてもらうばかりで、感謝をしているけれど、


というとそれをさえぎって、


でも、それが親というものじゃない?


と彼が言う。


そうなのね。親に借りを返す必要なんかどこにもない。そして、親も借りを返してもらおうと思ったことすらないよね。


そうだ。私の母は柔和な人で、私とはまったく違って、明るくやわらかく、自分の時間や労力を割いて、人に与える人であった。

その彼女が、私に何か見返りを期待しているはずがない。

どんなことがあっても帰国するなといってくれている。

私は大丈夫よ、みんないるからと。



いまや彼女の精神を支えているのが私であるということは、何よりも明らかである。

しかし、かつて私の苦しみを一手に飲み込んで、何も言わずに「そこにいて寄り添って」くれたのは、母であった。

そうか、気持ちは精神的にお返しできるものなのだ。

実践的な「助け」をすることにこだわる必要はないかもしれない。


できれば、触れたいとか、見たいとか、そういった即物的な望みは尽きないのだけど、私たちが常に精神的に共にあるということも事実である。



その彼と話している間に、私のここに残らねばならない、帰ることができない、という事実の中にあった大きな良心の呵責が次第に小さくなっていった。



未だに、どうすればいいのかわからないし、実際問題として、止むことのない癌という病の恐ろしさを前に、なにだできることなのだろうか、というのはわかっていない。


けれど、自分を枯れ果てたと呼び、誰も要らない、人間関係がストレスだと語り、一人で涙を流して、不安を抱える自分はかわいそうではない、と言い切ったことに「間違ったなにか」を感じた。


誰かは常に自分のことをちゃんと見てくれていて、気にかけてくれている。

そして、その人たちが話しかけてくれるとき、その言葉は本当に真実味を帯びているのだ。

その人がそこに寄り添ってくれているのが本当に体温として感じられる。

それを、自己完結して、たった一人で乗り越えようとする私の態度は、頑張り屋としては納得できるけれど、周りに取り巻いている好意や温かみを踏みにじる、無視する行為にもなりかねない。


そして一人でなんでもやり、何でも乗り越えてきた自負のある私の強さは、それは立派だとしても、自己満足でしかない。

そうして、実際に助けを必要としている人を目の前にした私の第一の感覚は、もちろんもっているものを与えつくしたいという気持ちであるけれど、そこには後悔したくないという自分本位の恐れがあるのだった。



人生はそうじゃない。

与えるものやもらうものは、物差しでかかれない、時間でも重さでも測れない。

それは、気持ちという感覚なのである。

それなら、私も遠くからでも十分に与えることができる。

そして、あの母ならば、その気持ちをどこまでも深く理解してくれるに違いない。



男女関係は、心が重い。

けれど、今日ドイツにいて、記録に残るほど、久しぶりに、誰かが私のことを気にかけていてくれた事実を知り、心がホカホカに温まり、感謝したい気持ちでいっぱいである。


そして、それは知人というか友人であった。

意味や、利害、義務のある関係ばかりに囲まれている。

けれど、友人は大切にしないといけない。

彼らは、普段いないようで、ふと驚くべきタイミングで手を差し伸べてくれる、寄り添ってくれる。

そう実感した。


帰宅すると、翻訳のほうの同僚からメールが入っていた。


うちに来ない?また僕が料理人になって、腕を振るうけど、どう?


あの素敵な奥さんのいる知性ある彼である。



文字を見ながら涙が出た。


本当にみんなありがとう。

私は、一人だなんて、そんなことを言ってはいけない。

一人でがんばってきた、乗り越えてきたと、そんなことを繰り返し書いた。

けれど、とんでもない、彼ら、友人たちが常に私の周りにはいたのだった。

一人なんかではなかったのだ。


それは、日本の友人たちもまったく同じ。

遠方にいるのに、私にはすぐ近くに感じることがたくさんあった。



反省しています。

一人でがんばってきたなんて、そんな人は誰もいない。

そんな人がいたとしたら、その人には誰か気にかけてくれた人がいたはずなのに、それを見えずに、いや無意識に見たくないから、その気持ちをないことにして、一人で閉じこもってしまったに違いない。


なぜ見たくないかって、それは一人でがんばっているという実感にひたって、自分を許したいからである。

救済は、人の助けを受け入れないと訪れない。

それも、最近私は教会の説教を通じて学んだのである。



私はまだまだ。まだまだ、大人でも一人前でもない。


がんばろう。


後ろから追ってくる影

 排卵後に気分が抑うつになって、とても悲しい思いをしたり、イライラが募ったりすることは、実は20代からのことである。

今に始まったことじゃないので、別に更年期だと改めて思う必要もない。

若いころは、PMSなどと診断されて、ホルモン治療を進められたが、ピルでもないホルモンを錠剤で飲むことに抵抗があり、処方されたものを捨ててしまったこともあった。


当時の夫には、気を使い緊張した生活が続いていたため、排卵あたりに大喧嘩をして、そのあと二週間は地獄のような孤独感を味わう、といったパターンが日常化していたのを思い出す。


さすがに、現在はそんなにひどい波はないが、それでも未だにこの二週間タームでやってくる心の変調は続いている。ひどくならないだけありがたい。


そんなわけで、今私は後期二週間、抑うつの期間にあるのだが、洗い物をしながら、掃除機をかけながら、涙がこぼれてしまう、胸が締め付けられるような悲しみを感じるという思いをしている。


実は、心の中に誰にもどうすることもできない、運命のみぞ知るという心配事があって、それを抱えて生きていくということに対する、心の強さを要求されている。

背後に詰め寄るような重い不安感、暗色の何かが迫ってきているということを、随時実感しながら、それでも私は買い物をし、子供たちを教え、自分の子供たちに食事を作り、一緒に笑い、彼らを叱り、励まし、学校などの役割を果たし、夜は締め切りを大きく意識して、ひたすら翻訳をしなくてはならない。

つまり、どんな心配事があっても、誰しも今や明日にかかわる日常の役割を果たさないわけには行かない。

人は、つながっており、いろいろと助け合ったり、励ましあったりしていかねば生きていかれないけれど、本当のところ、結局「生きる」ことを全うするということに関しては、まったく一人ぼっちなのである。


心配事や不安を打ち明けられるパートナー、肩を抱いてくれるパートナーがいない私は、こうして一人で泣いているなんて、かわいそうなのかしら…。今日も洗い物をしながらそんなことを思った。

しかし、と思う。

いたとしても、いや実際日本を離れて以来、今まで私には常に誰かしらがいたはずなのだが、試験の不安とか、人間関係の不安など、自分で能動的に対策をとっていかれる悩みであれば、そうしてパートナーに支えてもらった思いではたくさんある。が、自分にもどうすることができない、つまり息をするのも歩くのも、本人がするしかなく、私が変わってあげられることができない、私が能動的に動いたから、何かが変わるわけでもないという根源的な悩みに関しては、どのパートナーがいてくれても、いっそう孤独感が募るのみだ他ことを思い出す。


一緒にいるからこそ強調されてしまう「一人ぼっち」感、孤独感。

一人でいると、誰かに何かを言う、分かち合う、慰めてもらう、そういうことはまったく期待していない。

だから、不安を一人で抱えることへの、理不尽さ、といったものを感じる隙がないのかもしれない。


パートナーのことなんか、今考える余裕はない。

自分は、今まで落ち着いた静かなパートナーシップというものを経験したことがないので、まるで今エネルギー切れしているように、枯れ果てている。

隣に人がいると思うとストレスであり、誰か男性が、今度いつ会える?ときいてくることを考えただけで、息切れがしそうなのだ。


そして、あらゆる意味での欲求は、死んでしまったかのように消え去った。

してもらいたい、やってほしい、一緒にわかちあいたい、という「~したい欲求」は存在しない。


そんな時、この後ろからやってくる心配事は、私に何を突きつけているのかと考える。

私は、これに関して他人に助けを求めることに、何の意味も慰めもないことは知っている。

だから、一人だけで抱えてたまにブログを書いたりしているのだ。


それだけのことがわかっていながら、それでもこの心配事に終わりがないのはなぜだろうか。


どんなに人を助けたくても、助ける力すら自分にないことを悟り、自分の目先の生活をしっかりやれというお告げだろうか。

助けることができる、という驕りを捨てて、この孤独な不安に耐え抜くことで、生きることの本当の自立を学べということだろうか。


できない、と心の中のひとつの声が言う。

それを聞いた私は涙を流す。

冗談じゃない、今までこれだけがんばってきたのに、乗り越えられないことはありえるわけがない!

という怒りの声を心の中に聞く。

私は涙をぬぐい、自分を強いと実感する。


実際は、まったくわからないのだ。

自分のことすらわからない。





そして、今日も仕事に行く前にこうしてちょっと書くことで、心をなだめている。

そして、帰宅したら、私には私にエネルギーをくれる子供たちの世話をして、話を聞いてやらなくてはならない。

そして、疲れていて面倒くさいと思うけど、一生懸命子供に向き合っていると、不思議と力となって返ってくるのである。

だから、私は子供たちを一生懸命育てないといけないと、本当に反省している。


そして、根源的な心配事を抱えながら、つまらぬ家事をこなし、ちょっと涙を流しても、また生きていくという、実に単純な「生活」にまみれる毎日を送る。

そして、永遠に思えるほど、毎日同じ営みを繰り返し、同じ行為を繰り返し、ひたすらに「生きている」ことだけを実感している。

生きていくことは、生活であり、生活を絶え間なく繰り返していくことに耐えていくこと。

そして、大きな事が起こらなくても、太陽が明るくなったことに、感謝して、今日も笑えたことに感謝している。

謙虚になっても、反省をしても、この心配事は消えない。


中世のカトリックのように免罪符を払ったところで、煉獄の日数が減るというものではない。

カルバンやルターのような運命予定説を一瞬思う。


信じても中世を誓っても、自分が救済されるのかされないのかは、神のみぞ知る。

自分の生前の行為で、そんなことは左右できないのである。

だから、結局自分と神との関係において、忠誠を尽くし、信仰し、自制しつつ、救済を請うことが、唯一能動的にできることの一つである。


ということは、今の私にできることは、望みを持ち続けること、そして、繰り返す日常生活の中に喜びを見出し、与えられるものは、今のうちにできる限り多くを与え、自分には多くを望まず、ただ今も息をして生きていることに、感謝をするのみだ、ということが今理解できた。


最近、キリスト信者になろうかと思うことがある。

神学に首を突っ込んでも、信者にはなれないと常に言い聞かせてきたが、自分が、他人の存在では解決できない、根源的問題に突き当たったとき、いつも私に答えをくれたのは、聖書だった。

西欧社会に長いこと生き、この文化圏で生活し、関わっているから、キリスト教がしっくりくるのかもしれない。

それも、若干他力本願とも解釈できるカトリックではなく、ひたすら自分と神との対話を追及するプロテスタントのほうに、親近感を覚える。

これも、私がプロイセンに住んでいるからだろうか…。


しかし、最近宗教の意味がうっすらと見えてきた。


そして、祈ることも、最大の能動的行為であると、私は思っている。



涙を流しながらでも、命そのものに人間は逆らえないということを理解して、私は精神的に寄り添い、「生きることの質」を「内面」から築くことを忘れないよいうにせねばならない。

そして、内面からこそクオリティが生まれてくるのであれば、私にも何かできることがありそうな気がしてきた。


意味不明な内容だと思います。

でも、私は元気になりました。

では行ってきます。


2011年2月15日火曜日

息子の成功

この日曜日、息子参加するTrioのコンクールがあった。

ドイツではJugend musiziertと呼ばれて親しまれている。


Anne-Sophie MutterやPeter Frank Zimmermannなども、このようなコンクールに子供のときから参加して、全国大会で、一位を収めてきているのである。


朝から夜8時まで縛られて、親子して疲れたが、結果として、彼らは満点で一位を獲得し、州大会への出場許可を手にした。

次回、また得点を獲得し一位になれば、今度は全国大会となるのだが、楽器も楽器だし、道は険しい。


ちなみに地域大会の点は25点が満点で、0~4点 参加しました、~8点 成功を収めて参加しました、~12点 大きな成功を収めて参加しました、~16点 三位、~20点 二位、~22点 一位、~25点 一位+州大会への資格


となっている。


息子たちは、よく練習を積んできた。

三人の両親は、私も含めて全員音楽家である。

親が口うるさく言いつつ、人の迷惑にならぬよう、それぞれが子供をけしかけたのがよかったのだろうか。


今回は、同類管楽器アンサンブル、同類弦楽器アンサンブル、ソロはピアノ、声楽、ハープ、アコーデオンであった。

年齢別に5グループほどの別れており、息子たちのグループは、12、3歳であった。

この年で、あの楽器を吹きこなす子供の数は圧倒的に少ない。

なので、それもあっての好状況だとも言えるが、ほかにフルート、クラリネット、縦笛など、年少からやってきているグループも多く、決して州大会への資格を手にすることは容易いことではなかったろう。


評価も批判はなく、特に息子の大きなフレーズの音楽性を褒められたのに驚く。

あの子には、音楽性がゼロだと先生に疑われ、親としてももうおしまい、違う学校へ行きなさいとまで叱咤してきただけあって、彼の殻がこの特訓で破れてくれたのはうれしい。


ところで、彼の学校からは同じクラスメートも含め、ピアニストや弦楽器アンサンブル、管楽器アンサンブルなど、10人以上が参加していたが、全員25点、もしくは24点で州大会へ出場となった。

あの学校は、この音楽コンクールに参加しないように、という意見もあるらしい。

確かに、一般の公立音楽教室での才能コースに通っている子供と比べても、訓練が違うので、昨日の結果を目にして、なるほどとうなるものがあった。

息子の学校には、ただ同然であれだけの教育を与えてくれて、感謝をするのみだが、5年生から音楽一本にしぼり、しごかれまくる姿を見るのは、特にバイオリン・チェロでは、胸が痛むこともある。

精神を病んだり、脱落する子供が、本当に多いのだ。

DDR体質を残したこの学校を批判する人も、多いのも事実である。


ちなみに、何年も前に娘のこのコンクールに参加し、20点でぎりぎり二位であった。

彼女は当時は、才能コースに通っており、公立音楽教室ではスターであったのである。

そのときに、25点満点で州大会へ行き、全国大会で一位をとった少女が、今息子のクラスに転校して来た。

バイオリンは、本当に生死の分かれ道が早い。

娘はやめさせてよかった。

今彼女は、違う道を探りながら、彼女なりの表現を見出しつつある。



さて、州大会への出場資格を得られなければ、学校の生徒としてあり得ないという雰囲気であるが、この地区戦は、実に甘い。

ここから州、全国へと移っていく中で、さすがにレベルはどんどん高くなる。

勝つことは考えずに、舞台に立つことを学んでほしい。

舞台が仕事場になるからには、舞台慣れしなければ、神経が持たない。

最近、新聞で目にするのは、音楽家の演奏会前にあがってしまう体質改善をするという精神科医たちの記事である。

あがってしまうと、管楽器の場合、息も上がってしまいとても吹けたものではない。

ピアノの場合、手が汗で湿り、震えることで、ミスタッチが出る。

暗譜をおそれることで、かえって穴が開く。


そういった不安を抱える音楽家は常にいたのであり、多くのオケの中でさえ、アルコールに頼ってきた音楽家の伝説は必ずある。

最近は、それを回りに知られないよう、匿名で厳正なる極秘主義を保ち、セラピーしてくれる医師が出てきたようである。

それだけプレッシャーが高まると同時に、商売と仕事が絡み、一切の弱みを見せられないという現状なのである。


子供に音楽をやらせることは、しかもこういった学校にまで入れてやらせることに、今でも抵抗がある。


しかし、今回息子を見ていて思うのは、やはり人間的な成長があるということに尽きる。

鍛えることで、心が鍛えられ、技術が鍛えられ、そして成功体験により、自信が出て、表現する勇気が出てくる。

野心が芽生える、意欲的になる。


息子は、やめるという言葉や、転校という言葉を一切口にしなくなった。

それどころか、学校でも、クラスで飛びぬけた成績を取りたいとまで言い出したのである。

もちろん一過性のものであるが、この意欲はこのコンクールからきている。


音楽をやらせることは、全人格教育であると改めて思うのである。


自分は、何を鍛えられたかといえば、つぶされてもつぶれないところだろうか。

練習したくなくてもやらねば、という意識から、ノルマや責任感があるのかもしれない。

そして、舞台に立った経験から、ちょっとやそっとのことで、びびったりしない。


たったそれだけだが、音楽もやらなければ、これすらなかったかもしれないのである。


息子は、これからが本番。

まずは州大会で全力を尽くしてほしい。

2011年2月6日日曜日

日曜日 ― ミサ

日曜日、久しぶりに早起きをしてシャワーを浴び、しっかりと食事を取った。
息子が教会のミサを兼ねたコンサートに参加するので、こういうことになったのだ。

Frühstück2


ミサに参加したのは、もう何年ぶりだろうか。
一時はさまざまな教会を覗きに行って、さまざまな説教を聞いてみたことがある。
聖書を読んで、少し解釈して、ニュースを話題に出し、表面的に道徳的な教えを説いておしまいにするところが殆どだったが、今日行った教会の牧師様は、心に響いてくる言葉をたくさん下さった。

クロイツベルグという、マルチカルチャーな地区の小さな教会で、角にあるアパートの建物の天辺に鐘が突き出しているという、まさに住民とひとつになったようなつくりである。

80人の教会員のうち、常時参加は30人だというが、その小ささがちょうど良く、誰もが互いを知り、説教をする牧師様が自分に語りかけてくれているような、程よい距離なのである。

片隅に座った私に、世話係の老齢の男性が賛美歌の本を手渡してくれ、握手で挨拶を交わす。
牧師様は礼拝堂(といってもそんな大げさなものではないが)に入るなり、見知らぬ私を見つけ、握手して、ようこそいらっしゃいました、とで迎えてくれた。
はっきり言って、私たちの訪問が先に告げられていたとしても、このような暖かい歓迎は、あたりまえではない。
この教会の魅力をすぐに感じ取った。

説教の内容は、一字一句といって良いほど、心に刻まれている。
それほど、聞き逃したくなく、心に留めておきたい言葉ばかりであった。
しかし、それを全部ここに記してしまうと、非常にありきたりな言葉になってしまうそうなので、控えておく。
私の心は、確かに深いところで動いたのだが、それを書いてしまうと、まるである種の作用が無になってしまうそうで怖いのだ。

しかし、聖書のコリント人への手紙からの引用であり、それは物事の表裏に関してであり、裏こそに目を向けるべきであること、そして表の美しさというのは、非常に壊れやすく、赤絨毯の上できらびやかな装いを披露している有名人ですら、自分たちと同じ非常に中庸な人間性であるのに違いないということ。表面が壊れた場合には、中身に入っていたもののみが、価値のあるものとしてのこるということ、そういうことを聞かされた。
そして、Herrlichkeitというのは、紛れもなく光であり、光は、どこで一番明るいかといえば、暗闇で最もその明るさを発揮することができるという言葉である。

そして最後の逸話からは、真の幸福とは、自らの心底から欲して他人を助ける喜びを知った時ではないか、そしてそれは、極貧、または戦争のような世界にあっても可能であるということを教えられた。

その後、静かな祈りのときが来る。
うつむき、沈黙に入り、その説教の内容がこだまする中、頭の中で自らを捜し求める。そして他者の存在を思う。

そして厳かに主祷文を唱え、再び賛美歌を歌う。

__________

結局、信仰しているのか、信者なのか、それともわれわれは人間なのだろうか、ということを問うた時、この教会においては、信者であるかないかということは関係なく、訪れるもの皆、信者たちと一緒に、一つの深い思いへと至ることができるのだと実感した。
それは、自らの日常生活を振り返り、自らに問いかけながら意識して生きているかということを再び問われ、欲望と虚栄を振り払うべきであるという教訓を聞き、自分にとってでは失うことができないほど大切なもの、そして伝えていきたい大切なものとは何かということを直に問われる。
その思いの中で、礼拝堂にいる人間は一つとなっていた。
もちろん、私自身も動かされる心を意識しつつ、そこに共に在った。

教会の雰囲気といえるほどの建物ではない。
おなかに響くようなオルガンの音色ではない。
歌われる賛美歌は簡易で、ラテン語の魔術に惑わされることもない。
地に足を着いた普段着の人間が、心の扉を開ける時間、または自らの中へ帰る時間として、そこに立っている。
蝋燭の数も少なく、ステンドグラスもなければ、乳香が漂うわけでもない。

何が言いたいかといえば、教会という圧倒的な建築物、そしてそれの持つ神秘的な雰囲気に飲まれてしまったのではないということだ。
私の心が動いたのは、そして信者の心が毎週洗われ、思考を刺激され、反省を促されるのは、紛れもなく、「ロゴス・言葉」によってであり、神は目に見えず、自らの中に対話を通して見つけ出していくものであり、写実的な存在でもなければ、バロック的絢爛としてその光が現れるものでもないという、まさにプロテスタント的実感であった。

今まで、いくつのプロテスタント教会を訪れたろうか。
いったい、何回プロテスタントの説教を聞いただろうか。
私の心をここまで動かしたのは、しかし、このマルチカルチャーな街角の小さな教会なのであった。
人々が、生活の中に、この説教から生まれる「思い」を生かしているからこそ、この教会はこうして息づいているのに違いない。

特に経験から言うと、プロテスタント教会では、信仰しているのか、それならば、どれほど深く聖書を理解しているのか、洗礼を受ける気があるのか、教会の共同体に尽くしていかれるかなど、そういった質問が圧力を持って浮き上がってくることが多い。
カトリック教会は、個人的にはその点、非常に開かれているという気がしている。たとえ啓蒙がなされていなくても、万人に扉は開かれていると、個人的には感じる。
プロテスタントは、子供でもない限り、自らの意思の強さをしっかりと確認される。
私は、どちらが良いのか問うつもりもなければ、問うような立場にもない。
カトリック教会では、荘厳な雰囲気の中に、神の存在を天上に実感してしまう瞬間というものを見たし、信者のファナティックとも言える信仰心と、その祈る背中から立ち上る情熱に、心底心を打たれたこともある。

しかし、この教会のミサに参加して再び実感するのは、宗教の存在の本来の目的は、信仰そのものなのではなく(教会の目的は信仰であり信者の拡大であるが)、人間性の中身を切り裂き、人間性、人間的とは何かを常に問いかけ、本当の喜び、満足は、実に献身の姿勢の中にしか見出せないのだ、という究極の真実を実感するために在るのではないのかということだった。

使徒達の思いを実感するには、新約聖書、特に手紙を相当読み込まないとなかなか難しい。
しかし、説教の中で、断片を聞き、その解釈や背景を知ることにより、彼らもたゆまぬ労苦と困難を乗り越えても、歩む限り壁に突き当たってばかりいたことを「体験」として実感できる気がするのである。
そして、暗い道を歩んでくるものこそ、希望も救いも、人によっては神との対話を通して、自らの中に見つけ出していくしかない、ということを知らないで通り過ぎることはできないのだということを理解する。

もう誰もいないと思った時に、言葉に出会う。
言葉によって、光が見える。
光によって、神なのかもしれない、神と呼ぶことを許容する。
不思議なことに、希望の足りないところに、希望が生まれてくる。
もう少し暗闇を歩んでみようと思う。
そして、一人ではなかったことに気つき、現在一人でいる人々が見えてくる。
そして、一人ではないことを、その人たちに何とか伝えようとする。
そして、献身の姿勢のなかに、今まで覚えたことのない幸福を感じ、自らが光るようになる。

私は、私たちのまったく気づかないどこか遠くの、またはどこか裏の世界で、こういう作用が起こっていることを信じているし、そういう人生は、光の当たるところには生まれないだろうということもなんとなく理解している。

教会へ行くこと、または何かを信仰することにより、人間が一番苦しいときに、一歩でも前進し、一つでも多くの希望を得ることができるなら、それこそ、宗教の意味ではないかと、そんなことを思ったのである。

そして、苦労がなく幸せで、何にも憂うことがないと実感している人間は、それが自分ひとりによって、得られたものではないことを忘れずに、感謝の気持ちを持って、虚栄と欲を捨て、謙虚に、そしてもっと謙虚に生きていくことを忘れず、良いときに分けることのできるものを、できるだけ分かち合う努力をすべきであると、本当に実感するのだった。


説教の間中、何回も仏門に入った方と、同じようなことを説いているなと思った。
つまるところ、人間には、生命に意義を与え、日々できるだけ内実を伴った生き方をしたいという根本的な気持ちがあり、それは表の成功ではなく、裏の人間としての成長に代わる物はないのではないかと気がついた。

そして私のように若干自己嫌悪や自己過小評価の傾向があるものには、こうした「言葉」を聞くたびに、生きる価値を得ようと努力する必要はないのだと救われる。
生きる価値は万人に在り、誰かの存在価値が低いことはないのだという原点を信用することができる。

私はたまたま、言葉に出会うと、光にめぐり合ったり、心が溶け出すことが多い。
その上、たとえ簡易化された賛美歌だとしても、皆で歌い、トーンを紡ぎ出す行為には、何か一つの浄化作用があるような気がしている。
なので、キリスト教会に通うことに違和感は覚えないが、信者になるつもりはなく、しかしそれは実は、全然関係のないことなのではないかと今日思ったのである。

神秘主義とか、インチキくさい霊能者とか、ペテン的占い(れっきとした統計学や天文学に基づいたものもあるが)などに頼るのではなく、もう一歩を踏み出せないときに、もっとこうした伝統宗教がその役割を担って欲しいものだと、これは日本に関して特に思うのである。
仏教では、例えばお寺がもっと意味を持って欲しいし、福祉と連帯して何かできないのだろうか、そういうことを思ってしまうのである。


良い日曜日だった。
帰宅後、二度目の朝食をとった。

Frühstück1