2011年5月14日土曜日

「硝子戸の中」から



女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛をきわ)めたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
私はどちらにでも書けると答えて、あん)に女の気色けしき)をうかがった。女はもっと判然した挨拶あいさつ)を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択おえら)びになりますか」
私はまた躊躇ちゅうちょ)した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのがこわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
私は女が今広い世間せかい)の中にたった一人立って、一寸いっすん)も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
私は服薬の時間を計るため、客の前もはば)からず常に袂時計たもとどけい)を座蒲団ざぶとん)のわき)に置くくせ)をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女はいや)な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が)けたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱くつぬぎ)に下りた。
その時美くしい月が静かな)を残るくま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄げた)の音はまるで聞こえなかった。私は懐手ふところで)をしたまま帽子もかぶ)らずに、女のあと)に)いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈えしゃく)して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目まじめ)に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、またうち)の方へ引き返したのである。
むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれがたっ)とい文芸上の作物さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。



不愉快に)ちた人生をとぼとぼ辿たど)りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりもたっ)とい」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来おうらい)するようになった。
しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母ふぼ)、私の祖父母そふぼ)、私の曾祖父母そうそふぼ)、それから順次にさかの)ぼって、百年、二百年、乃至ないし)千年万年の間に馴致じゅんち)された習慣を、私一代で解脱げだつ)する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
だから私のひと)に与える助言じょごん)はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人いちにん)として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
こうした言葉は、どんなになさけ)なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠におも)むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を)らしている。こんな拷問ごうもん)に近い
所作しょさ)が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着しゅうちゃく)しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸をきずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人のおもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に)き)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
私は彼女に向って、すべてをいや)す「時」の流れに従ってくだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。はげ)しい生の歓喜を夢のようにぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々なまなま)しい苦痛も)り)ける手段をおこ)たらないのである。
私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口きずぐち)からしたた)る血潮を「時」にぬぐ)わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
かくして常に生よりも死をたっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に)ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸ぼんよう)な自然主義者として証拠しょうこ)立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。


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七に関して

若い頃には解らなかった漱石の文章が、今なら少しずつでも心に入ってくるようになった。
何故生きるべきなのか。それに適当な答えを見つけるのは難しい。宗教的に死を選ぶことが罪とされている場合には、理屈はいらないのかもしれない。しかし死の方が尊いと思う心も解らないではない。

私は相当の馬鹿で阿呆で、この文章を読んだときに、「その女の始末」という言葉を、この会話をしている女を苦しめている別の女性だと思っていた。

しかし、読み進めていくうちに解らなくなり、もう一度読み返してやっと、この女が自分のことを漱石に話して聞かせ、小説だとしたら、この女、つまりまぎれもない彼女自身は死ぬべきか、生かされるべきかと聞いているのだと、やっとわかったと言う次第である。

そして漱石は、
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支(さしつかえ)ないでしょう。しかし美くしいものや気高(けだか)いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」

単に生きるという目的だけならば、生きていれば良い。しかし美しい、気高い心持こそが生きる理由になり得ると考えれば、問題は違うという。つまり単に息をして生きているだけでは、人間は生きていない方がましではないかという、女性自身の疑問を受ける形の答え方をしている。

そこで女が、
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖(こわ)くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻(ぬけがら)のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
と述べ、漱石は女が「広い世間(せかい)の中にたった一人立って、一寸(いっすん)も身動きのできない位置にいる事」を理解している。

そして漱石は、その後何も言わずに立ち上がって女を帰すのである。そのときのことを
その時美くしい月が静かな夜(よ)を残る隈(くま)なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄(げた)の音はまるで聞こえなかった。」と書いている。
おそらく、漱石はこの女の悲痛な人生を聞かされ、誰にどうすることもできない、つまり言葉では到底解決や救いのない問題を聞き、胸苦しい思いで彼女の天涯孤独と切羽詰った状況を知るのだが、彼の夜空を見上げる心は、その描写のように清浄であった。そして外套や帽子のことも考えずに、女の後ろに、つまり女の人生に寄り添っている。

そして女は、最後に「先生に送ってもらって光栄」だと言う。漱石は本当にそう思うかと聞き返し、女はそうだと答えると、
「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と伝える。
この光栄をどう解釈し、そして光栄ならば何故生きているべきなのか…。

それは女は初めて漱石に自分の人生を語りつくした。そして、語ると言う行為の間に、自分の人生に言葉を与えることによって、苦しみこそ生々しく浮き上がってきたが、それ以上に「これが紛れもなく自分の生である」ということを悟ったのではないだろうか。何を語ろうとも、どんな助言を請おうとも、自分の生は、自分にだけ与えられたものであると同時に、他の誰にもどうしようもできない。 なぜなら生を語るのは言葉であるが、自らの生とはやはり生きるものに他ならないからであろう。女は、これまでの苦労に満ちた人生を語りながら、同時に「美しい心持」をその生き様に実感し、それを失ってゆくことを極度に恐れている。
それを誰か、つまり漱石に語ったことで、彼女は捨てても良いと思った生を実感した。聞き手は言葉を与える代わりに、その苦悩も孤独も言葉を介さずに受け入れ、彼女の中に鼓動を打つような生命と生を尊いと思わせるような、覚悟や真剣さを見出し、寄り添うように送っていった。それを彼女にも、無言で理解できたからこそ、「光栄」だと言ったのではないだろうか。
だからこそ、「ならば生きていなさい」と云う答えになったのではないだろうか。
漱石は、死の方が尊い、と言いつつ、彼女の話の中に、生を尊いと思わずにいられないものを感じたのかもしれない。


「むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊(たっ)とい文芸上の作物(さくぶつ)を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」

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八に関して

「私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷(きずつ)けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面(おもて)を輝やかしていた。
彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱(だ)き締(し)めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷(てきず)そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。」

これが女の背景である。

「私は彼女に向って、すべてを癒(いや)す「時」の流れに従って下(くだ)れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥(は)げて行くだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物(たからもの)を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈(はげ)しい生の歓喜を夢のように暈(ぼか)してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々(なまなま)しい苦痛も取(と)り除(の)ける手段を怠(おこ)たらないのである。」

これが漱石の答えだった。

そして「深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶」を取り上げたとしても、「彼女の創口(きずぐち)から滴(したた)る血潮を「時」」によって止血させようと試みた。なぜ「いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当」と言ったのか、私にもそれは良くわからないのだが、それは彼女の奥ゆかしい生に対する姿勢が、命そのものをすでに尊いものとして捕らえている、それを漱石が感じ取ったからではないだろうか。

「かくして常に生よりも死を尊(たっと)いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充(み)ちた生というものを超越する事ができなかった。」
それは人間の営みは、真剣であればあるほど、また運命というものに逆らいすぎずに、それを一種の自分に与えられた生としてひたすら生き抜くと言う姿勢そのものが、すでに尊いからなのだと、私はそう解釈したい。
そうでなければ、

「有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。」
という文章は表れないのではないだろうか。小話や人生劇など現実の生に比べれば、その存在の尊さにおいて、比較にならないということなのではないだろうか。

最後に、彼女に生きていなさい、と言ったことに対して、凡庸な自然主義者ではないかと揶揄するが、漱石もまた生に対してなんとも慎み深いのだろうかと読み取れ、その漱石の温かい人柄、そして生きていくということは、根本的に淋しいということを知っている、そのような孤独を感じ取り、この話を読んだ後、えらく心を打たれて、暫し硬直してしまった。

私自身に重ねれば、やはりなぜ生きるべきか、何故生きていなくてはならないのかと問い続けた日々があり、自分の生き方を肯定できずにいた。私は残念ながら今まで、人生の歩みを言葉にして語り、聴いてくれる人があったという機会には恵まれていない。
それどころか、私は自分の人生だけは、延々と言葉にしまいと誓ってすらいる。他人にとって、人の人生など、どうという関心はないのである。しかしこの作品を読んで、彼女が語らなかったら、決して生き続けていたかどうかはわからない、ということを理解した。
彼女は、生に言葉を与えたことで、自分の生をその手で握っていることを実感し、救われたのである。
そして漱石は、尊い小説を読んだ後のような、人間らしい良い心持を感じた。

ここに、まさに私自身も救われるような思いがしたのである。
美しいものを見たかと問われれば、見たことがあると答える。
美しい心持にめぐり合ったこともあれば、自分自身からも深い献身を試みた、純粋な深い思いを知ったとも答えられそうな気がする。
それならば、それは私の人生の最大の幸運であり、傷から血を滴らせながら、その美しい心持を現在のまま保つことが生きることではなく、それを言葉として刻み込み、私自身の事実として色あせても手中に持っているだけで、十分幸福なことであり、それ以外の不愉快なことは、死ぬ理由でもなければ、美しさや純粋さを失うことが死ぬ理由でもない、ということを知ったからである。

現在は常に色あせる。
そして激しさの中で、傷の癒える時間を待ちきれないとき、やはり「語り」は己の人生を救うのではないだろうか。そして漱石は、それを強力に肯定しているのではないだろうか。
そして、人は書き、記録し続けるのではないだろうか。

2011年5月4日水曜日

萩原朔太郎 ― 月に吠える 北原白秋の序、及び序文からのメモ

月に吠える

白秋の序

「[…]さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互いの胸の奥底に直接に互いの手を触れ得るたった一つの尊いものである。」

「[…]さうして君の異常な神経と感情の所有者であることも。譬えばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。而もその予覚は常に来る可き悲劇に向て顫へてゐる。然しそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると云ふよりも、凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、まさしく君の肋骨の一本一本をも数へ得るほどの鋭さを持ってゐるからだ。」

「『詩は神秘でも象徴でも何でもない。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。』と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷はそこから来る。さうしてその葉の根の尖まで光り出す。」

「君の霊魂は私の知ってゐる限りまさしく蒼い顔をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは真珠貝の生身が一粒小砂に擦られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身であり、生身から滴らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明してゐる。」

「而も突如として電流対の感情が頭から爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。」

「天を仰ぎ、真実に地面に生きてゐるものは悲しい。」

朔太郎の序

「詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。」

「私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の 「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併 しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。」

「思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。」

「けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。」

「人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。[…]とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。[…]けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのであ る。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。」

「私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。こ の特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らな い。」

「詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。」

「私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。」

「私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。」


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言葉の一つ一つに息を吹き込んだという点では、Dichtungに通じる重みを感じた。
リズムが以心伝心だという言葉は実感できる。
ドイツ語をろくに理解できなかったときに、リルケの悲歌を音読し、ただただ涙が流れてきたのは、そういった韻の中にある、以心伝心、単語そのものの持っている命の存在の予感ではなかっただろうか。


危険な散歩

春になつて、
おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、
どんな粗製の歩道をあるいても、
あのいやらしい音がしないやうに、
それにおれはどつさり壊れものをかかへこんでる、
それがなによりけんのんだ。
さあ、そろそろ歩きはじめた、
みんなそつとしてくれ、
そつとしてくれ、
おれは心配で心配でたまらない、
たとへどんなことがあつても、
おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。
おれはぜつたいぜつめいだ、
おれは病気の風船のりみたいに、
いつも憔悴した方角で、
ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。




さびしい人格

さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤児の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活らいふ)の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

わたしの胸は、かよわい病気したをさな児の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。

自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰鬱にする、
むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、
ああ、都会の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

よにもさびしい私の人格が、
おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。


山に登る
旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでゐた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろつてくち)にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。

孤独

田舎の白つぽい道ばたで、
つかれた馬のこころが、
ひからびた日向の草をみつめてゐる、
ななめに、しのしのとほそくもえる、
ふるへるさびしい草をみつめる。

田舎のさびしい日向に立つて、
おまへはなにを視てゐるのか、
ふるへる、わたしの孤独のたましひよ。

このほこりつぽい風景の顔に、
うすく涙がながれてゐる。

雲雀の巣

おれはよにも悲しい心を抱いて故郷ふるさと)の河原を歩いた。
河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えてゐた。
その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れてゐる、
おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。
おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。
ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髪の毛のやうに、へらへらと風にうごいてゐた。
おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。
そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれはぐつたり汗ばんでゐる。
あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。
おれのたましひをつかむやうにしてなにものかをつかんだ。
干からびた髪の毛のやうなものをつかんだ。
河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた。
巣はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。
いとけなくはぐ)くまれるものの愛に媚びる感覚が、あきらかにおれの心にかんじられた。
おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。
おれはまた親鳥のやうに頸をのばして巣の中をのぞいた。
巣の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。
かぼそい植物の繊毛に触れるやうな、たとへやうもなく DELICATE の哀傷が、影のやうに神経の末梢をかすめて行つた。
巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。
わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。
生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。
死にかかつた犬をみるときのやうな歯がゆい感覚が、おれの心の底にわきあがつた。
かういふときの人間の感覚の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。
おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。
うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。
つめたい汁のやうなものが感じられた、
そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液体がじくじくと流れてゐるのをかんじた。
卵がやぶれた、
野蛮な人間の指が、むざんにも繊細なものを押しつぶしたのだ。
鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた。

いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。
その可愛らしいくちばしから造つた巣、一所けんめいでやつた小動物の仕事、愛すべき本能のあらはれ。
いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。
おれは卵をやぶつた。
愛と悦びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。
くらい不愉快なおこなひをした。
おれは陰鬱な顔をして地面をながめつめた。
地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいてゐた。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
なまぐさい春のにほひがする。
おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。
人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。
人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。
あるとき人間が馬のやうに見えること。
人間が人間の愛にうらぎりすること。
人間が人間をきらふこと。
ああ、厭人病者。
ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。
それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。
心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう。
おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない、
ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすらもない。
ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。
おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。
おれはときどき、すべての人々から脱れて孤独になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて涙ぐましくなる。
おれはいつでも、人気のない寂しい海岸を歩きながら、遠い都の雑閙を思ふのがすきだ。
遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷ふるさと)の公園地をあるくのがすきだ。
ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。
おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。
おれはくるしくなる。
おれはさびしくなる。
心で愛するものを、なにゆゑに肉体で愛することができないのか。
おれは懺悔する。
懺悔する。
おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。
利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いてゐる。
河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。
利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。
あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。
それらの顔はくらくして地面をばかりみる。
地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。

おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。



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壮絶な孤独と、精神にあふれている愛に形を与えて他者に与えたい欲求とが、本人の心を苦しめては罰している。これは、白秋の言うように「凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃」として表出しているように思うのだが、何故これらの詩には救いがあるのだろうか。

何か、確かに朔太郎の言うように、宇宙的な次元では、永遠に孤独ではないからなのかもしれない。
至る所に、自然との会話を感じる。

それは春であったり、寂しい木陰であったり、飛んでゆくつばめの群れであったりする。
一面に広がる海、そして身体に感じる風、そして歩きながら口に押し付けている小石。
そして孤独でも、日向に立っている、自然とどこかが触れ合っている。
感覚的に、私も読みながら、自分の中にある深い孤独や罪悪感を共感しつつ、身の回りの空気や自然を感じて、それに慰められるのであろうか。どこか実に日本的であると思う。

自然を描写し、自然を融合した文章を書く人は多く居るが、朔太郎の言葉は、日常なのだけれど、心の深い窓の中に小さなコスモスへの入り口があり、それがなぜか小さいけれど、深い傷口を鎮めてくれる。

癒すのではない。鎮めてくれる。
それが日本的だと感じてしまう。

2011年3月30日水曜日

何も手につかないので書いてみる

あれ以来、何かが変わってしまった。
聞こえる音も、見える景色も、呼吸する空気も、みんな以前とは違う。

おなかの中に、重くて悲しいものが宿ってしまい、それがどこへも行ってくれない。
そして不思議なことに、どこへも行かないで欲しいと、大切にその塊を抱いている自分がいる。

それは、何かの、誰かとの共有なのだった。

朝起きたときに、眠い目でニュースをチェックした。
何の虫が知らせたのかわからない。
外国に暮らすようになって、日本で大変なことが起きても、私はまるで部外者のように、ニュースを知るのも現状を知るのも大幅に遅れる。

妊娠8ヶ月のあの時、何もかもが不安だった。
初めての子供をおなかに抱えながら、未来も見えず、夫がいてもいつも一人であった自分の地面は、何かがあればすぐに崩れるほど脆そうだった。
日本には帰らない、帰れないという決心も事情でもなく、帰ろうと思えば、すぐにでも帰れるほど、日本はまだすぐ近くにあった。

その朝早く、実家から電話が入った、
TVを見たら、神戸の町が燃え盛っていた。
頬を抱えて、テレビ画面の前で泣いていた。
地震災害のショック、被災されたかたがたへの思い、そういうものも当然あったのだけど、実際は、私の心こそ、心の中に起こる地震を恐れていたのであり、実際の自然の破壊力の大きさを見たときのショックは、私の心を直接揺さぶった。
生きている自分の世界が揺らぐ、そういう根本的な不安感だったのを覚えている。

しかし、インターネットもなければ、コンピューターすらなかった時代で、テレビ番組も今ほどチャネルが充実していたわけでもない。
大変な状況を画面に見つつ、多くの詳細を知らずにも済んだともいえる。

それ以来、私は殆ど毎日のように考えてきたことがある。
いつか、自分の実家に近いところに大地震が来て、オロオロすることがあるだろうと。

3月11日は、娘の誕生日だった。
前の晩にケーキを焼いて、テーブルにセットして寝た。
甘い匂いにつられて夜中に起きてきた娘が、ちょっとキッチンに立ち寄って、そのケーキを目にし、きっと満足そうに再び自室にもどった音を聞いた。

その朝、皆で朝食にそのケーキを囲んだ。
娘は新しい携帯をもらって、息子たちは忙しく登校していった。
日本で大地震があったよ。
それだけ伝えた気がする。しかし、自分の親にも連絡できていない。この分だと、昼ごろまで連絡がつかないだろうと思い、落ち着いてニュースを見ながら、時間を稼いだ。
難なく親には連絡がつき、父が渋谷からの帰宅に手間取っているという話は聞いたが、無事だったようで心配事は一つ消えた。

しかし、これは何か大変なことになったという予感は、非常に強くあり、午後レッスンだったのだが、手につかない、そういう状況だった。

_________

そうして始まった震災なのだが、今では震災という言葉よりももっと、何か背景を動かすような意味を持って、私の中の何かを変えてしまった。
遠くにいて、部外者のように、何の苦しみもなく、ただ画面を見つめてオロオロしている人間が、何かが変わったなどと、大げさなことを言うべきではないかもしれない。
しかし、事実何かが変わってしまったのだ。

たくさんの人の涙を見た。
家が流されるとき、思いでも歴史も、家族で共有した何もかもが、自分や家族が存在していたという証さえも一緒に流されてしまった。
考えただけでも言葉を失ってしまうようなことで、おそらく私自身が同じ境遇に遭遇したら、足がすくむだろう、泣き崩れるだろう、ただのどの底から嗚咽が漏れるのみだろうと、無力な姿しか思い浮かばない。
幾つかのニュースや動画で、そういった人々の嗚咽と叫び声を聞いてしまった。
そんなとき、自分のおなかが絞りあげられるような痛みを感じてしまう。
子供と手が離れてしまった話、子供の棺の上にぬいぐるみが置いてあり、その傍に佇む母親が号泣している土葬の様子、孫を抱くようにして無くなった祖母、他の人が流されるのを見た話をしながら、自らが泣き出してしまう人々。
数え上げればきりが無い。
そんな話と場面の数々が、毎日毎日私の目に飛び込んできた。
そして、そこに「彼らの悲しみ」とはとても言えない、個人の一人一人の慟哭を感じてしまった。

いったい、彼ら一人一人の悲しみの重さを集めたらどれほどの重みになるのだろうか、一体、彼らの流す涙を集めたら、どれほどの深みになるのだろうか。
そんなことばかり考えた。
そして悲しむ人の顔と姿は、血の気がなく、まるで血がめぐらずに冷え切ってしまったように、生命力を吸い取られていた。
そこには、早く天使が舞い降りて、一人一人の心臓を暖めて、再び鼓動を呼び起こし、血が流れ出すようにしてあげないと、いつしか氷のように凍ってしまう。
そんなとてつもないことを考えていた。

ある家族は、身内の遺体を流された車の中に見つけてしまう。
どうしよう、どうしようと半ば取り乱して、車の中に声をかける。
そして警察が来て、遺体を運び出した。
その間、彼らはシート外で待ち、しゃがみ込んで、絶望と悔しさに声を出して泣いていた。
しかし、その後すぐに、彼女は立ち上がり、またやり直す。守るものがたくさんあるから、まだ若いから大丈夫。
そうして、泣きじゃくりながら、おそらくひざを震わせながら、笑顔を作って去っていくのである。
リポーターもその後に嗚咽していたのが聞こえた。

この動画に対する意見は様々に分かれているようだが、私自身には、とても大切なものだった。
悲しいみや痛みは、限りなく個人的なもので、人にとうていはかれるものではない。
しかし、人間は死を恐れている。死体はショックを与えるもので、死体に対面することは、想像しただけでも恐ろしい。
死は、そこにありながら、ずっと抑圧されているのであり、死は家族の中にずっと流れているにもかかわらず、それは病気、またはまれに起こる事故という形で、ある種のプロセスを与えてくれる。
しかし、今回のこの様相は、文明を一瞬にして波に飲み込んでしまい、まるでずっと昔の人間が、なす術も無く波にさらわれていったのと、なにも変わりないのではないか、そんな恐ろしさを見せ付ける。

しかし、命とはもしかすると実に単純なものかもしれない。
そういうことをこの動画を見た後に、またはこの震災のニュースを二週間追い続けて思った。
死んだらおしまいだということ。
そして死や運命をコントロールすることは誰にもできないということ。
死は人にショックを与え、人をどん底に突き落とすが、それは一瞬にして生きていることだけが実はすべてなのであって、それ以外に何も求めるべきではない、そういうことに、誰よりも早く気がつくのではないか。
そして何よりも強いのは家族の存在なのだと思い知らされた。
死に掛かった人々を生かしたのは、多くの場合家族の顔が浮かんだかららしい。
家族のために生きなくてはと、木にしがみついたという話もあった。

2011年3月9日水曜日

春の陰影

春の光があって

空気が透き通って

毎日芽吹き始めて

ひんやりとした風も、乾き始めた土のにおいを運んでくれて

木々の上にちらほら見える黄緑色がいとおしくなる

でも予想のつかないことを恐れるような不安感がどこかにあって

誰も見ていない、だれも責めていないのに、罪悪感が募って

光の中に身をおいても、その灰色がどこから来るのかわからないときがあって

それが思わぬときに、未熟な種のまま顔をあらわにして

殻が破れてしまうことがある

そんな話みたいに、光があって暖かくなってきたのに、

どうしても通じ合えないものにも光が当たって

身体の傷と一緒に心の傷も深くなるのだけど

探ろうとして、試みようとすればするほど

ミシミシと傷が切れ込んで行き

どう転んでも悲劇の穴にしか引力が通じていないという失望感が見えてしまう

春なのに悲しいことや

青空だからこそ涙が出ることがあるけど

それは悲しいことや未熟なものみんなに平等に光が当たってしまうからだろうか

光のおかげで幸せになるのに

光のおかげで新たな影ができてしまう



昨日はそんな日だった

2011年3月6日日曜日

保守の難しさ

さすがの当地も、そろそろ春の気配となってきた。

朝起きると明るい。
キッチンのカーテンを思わず開けたくなる。これは春の到来である。
暗闇の中、子供たちを登校させる不安がない。

そして、午前中掃除をする。そんな気になるのも、春のおかげである。
起きたって9時まで夜が明けないのに、誰が掃除なんかしたいものか。

10時半ごろ、まるで職人さんの休憩のようにお茶を入れる。
起き抜けには、いつもコーヒーなのだが、さすがに午前中の休憩はお茶。
気に入ったお茶をいくつか買ってあるのだけど、それを気に入ったポットに淹れて気に入ったティーカップを出して飲む。新聞を開いたりして、ちょっと贅沢。
こんな余裕も春ならでは。

Tee.jpg


午後になると、今度はリビングのほうから、斜めに陽が差してくる。
つまり、一階というあまり好ましくない立地条件でも、それなりにアパート全体が明るくなるのである。
これは嬉しい。
実 はもう22年も欧州にいながらにして、いまだに実感していなかったことであるが、Frühlingsputzというのは、春の掃除という意味で、日本のよ うに大晦日に掃除をするのは、実用的視点から見るとまったく意味がなく、やはり春になってやっと掃除をするエネルギーをもらえるということなのだった。
まるで、冬眠から覚めたようだ。

________________

実は、先日Guttenberg氏が、国防相を辞任して以来、なんだか寂しくて仕方ない。
思ったことを、ほろ酔い気分のまま(現在夜中)、ちょっと殴り書きしてみる。
正確な情報を確認しないまま、うろ覚えで書くので、間違っていたらすみません。


私は、彼は余儀なく失脚すると予想していたし、あの博士論文を見たからには、嘘つきと思わずにはいられなかった。
あんなものを提出したのは、冒涜とも取れるし、悪質であるといやな気分になったのも事実である。

しかし、なにかが心に引っかかった。
あの辞任の表明が、あまりにも潔く、kurz und knapp、つまり何かのせりふを聞いているかのような、ある種の美しささえ感じただけに、またそこから皮肉なことに「嘘」の匂いさえ嗅ぎ取ってしまったのだ。

貴族の出である。
フランケン地方の古いGuttenberg家出身で、男爵の称号を持つ。
父親は指揮者であり、母親は彼が5、6歳のころに離婚して家を出ている。
弟と共に、腹違いの兄弟4人と共に育った。ローゼンハイムのギムナジウムを卒業した後、法科では有名なバイロイト大学で法律を学び、博士号を取得したわけである。

この一家は、古くから自分の家系の財産管理会社を運営するほか、病院の株を持っており、実質的に彼も監査役であった。そのほか、プファルツ地方にワイナリーも所有し、いわゆる屈指の貴族なのである。

そういう慈善行為、ワイナリー経営、病院監査役などの役割をこなしていくことで生活していく貴族のボンボンに納まりきれなかったのが、このKTと略される、Karl Theodor zu Guttenbergなのであろう。
そういう意味では、あまりぱっとしない指揮者である父親にも、そうした野心があったと考えてもよいのかもしれない。

政治、あるいは学術の世界で「も」認められたい。
この「も」は重要で、彼はカヴァリエ祭で賞を授かるなど、貴族の息子としてスポーツの世界でも、紳士的な価値を認められている。つまり、コンプレックスを持つ理由などどこにもないはずなのである。

しかし、今朝読んだTAZでは、最近の保守派の在り方を問う書き方をしており、なかなか興味深かった。
つまり、現在の保守は、保守であるだけでなく、その伝統を重んじる生き方に、さらにモダンな価値観をも実現しなくてはならない側面があるということである。
つまり、リベラル保守という位置であろうか。

Guttenberg自身、剽窃問題が明らかになった当時、若い家族の父親としての役目、政治家としての役目を果たしつつ、100パーセントの実力を出し切れないまま書き終えたもの、ということを強調していた。

そういえば、彼の周囲は完璧なのである。
Otto von Bismarckのひひ孫にあたる、シュテファニという、これまた見せるために存在するかのような金髪の美女を妻に迎えている。もちろんそこには愛情あっ ての結婚生活に違いないが、若いころから、描いてきた一つの人生地図を汚すような人物を妻にはしまい、ということはしっかり念頭にあったに違いない。

知れば知るほど、意地悪な言い方をすれば、人生を隅々完璧に演出してきたのである。
そして「暴走する野心」で手にした博士号であったが、やはり付け焼刃で手にできるような代物ではないはずで、こうしてぼろが出てしまった。野心は、それに見合った用意周到な計画と実践がなければ、形となって実現されることはなかなか難しい。

ある新聞は、これをリベラル保守のひびなどと見ている。
Ursula von der Leyenは、突然斬新な髪型にしイメージを一新した。が、家庭には7人の子供たちが待っており、幸せな一家の母親でもある。
若手のKristina Schröderも、今まで一度もぼろを出したことがない上、古い形のウーマンリブをせせら笑い、本当の女性解放主義を実践すべく、国会議員として妊娠していることをカミングアウトした。

こうなると、もう子供を持つこと、幸せで機能する家庭を持つことが、キャリアの妨げになるという言い訳すらできない。家庭もキャリアも、というのが当然教養ある女性の生き方の指針となってしまうのである。

また、外務大臣Guido Westerwelleの完璧主義は、若干形を変えて、外見の完璧さとしても現れているという。
つまり、ドレスコードがカジュアルといえば、彼の場合隙のないほど完璧なカジュアルないでたちとなってしまい、そこにはかつてのSchröderやFischerといったロックなラフな感じはない。

そんなことを考えていると、なるほど、このCDU/CSUまたはFDPといったリベラル保守の人たちの、すさまじい野心と完ぺき主義には、驚いてしまう。

実際、保守でいることは現代では難しいのではないかと、そんなことを考えた。
そして、そのシンボリックな出来事が氏の辞任であり、だからこそ、なにか後を引きずるような悲しさが残るのだろうかと、少し新しい視点をもらった。

メルケル女史の博士号も、物理学のナントカであるが、現代ではまったく役にも立たず、なんの革新も含まれない実に退屈なものであるらしい。
しかし論文の中に、すくなくとも、この元大臣のような、初期的間違えは見られないだろう。

し かし、なぜ政治家は博士号を欲しがるのだろうか。緑の党の党員は、何が何でも博士号を欲しがるだろうか。Die Linkeはどうであろうか。SPDにいたっては、元首相のSchrödernなど、Realschules出身で、後で非常に苦労して弁護士になった人 である。博士号の比率は少なそうだ。

そう考えてみると保守派というのは、リベラルでも堅苦しい。
何に追われているのだろうか。
そして、この暴走する野心の裏にある、本当の上昇志向原動力は、いったい何なのであろうか。

ほろ酔いで書いたので、書いたことを忘れた。意味をなしているかどうか。

おやすみなさい。

2011年2月25日金曜日

一人という勘違い―寄り添うこと

 昼に日記をアップし、鬱な心を恥ずかしげもなく吐露したところであった。


なんのことはない。

また母の体調で心配事があるだけなのだ。

もう老人の域に入っているのだから、命にしがみつくような望みや希望など持っているわけでもない。

ただ、そこにひたすら寄り添えないこと、彼女自身が決して口には出さない不安を分け合えないことが、非常に苦しいだけなのだ。


私の敬愛するディートリッヒ・ボーンへッファーというプロテスタント神学者は、第二次世界大戦で、反ナチ運動に参加していたことがわかり、囚われの身となって、ヒットラー自身が自決するほんの3ヶ月前あたりに処刑された。

彼は、苦しみや不安や痛みこそを分かち合うべきだと、熱心に説いていた。


私は、苦しいときも辛いときも、だからこそ一人で克服せねばならないと、自分にも他人にも厳しい時期があったが、この言葉に出会ったころ、それはもうずいぶん前なのだが、思いを改めるようになった。

私は、愛する人間の痛みを少しでも一緒に体験できることで、相手の途方もない不安感が薄らぐなら、徹夜をしても付き添ってあげたいと思う。

本当の辛さを目の前にすると、人は言葉を失うものだ。

それは、痛みに対する敬意であり、他人であるのに、やすやすと気持ちがわかると言ってはいけないという気持ちがある。

何も言うことはない。けれど、私はそこにいて、お茶を入れて、たわいもない話をして、ただただ時を共にすることはできる。

そして、それこそ、本当に辛いときの恵みなのではないかと、分かち合いなのではないかと、最近気がついた。


他人を助けることの難しさは、昔からわかっていた。

それは、私が辛いときに、多くの人がいろいろな手を差し伸べてくださったのだが、私はやはり私一人で乗り越えるしかないということを知っていたからだろう。


しかし、そこには、お茶を入れてくれる人、電話をしてくれて声を聞かせてくれる人、はがきをくれる人、ひょっこり尋ねてくれる人、ご飯を作ってくれた人、話を黙って聞いて、助言らしきことは何も言わないのに、ずっとそこにいてくれた人たちがいた。

私は、その人たちなしに、今幸せに生きていることができるとは思えない。


助けることは可能だが、いつでも人を助けられると思うことも驕りではないか。

人が死ぬときには、誰も助けられない。

仕方なく、一人で息を引き取るしかないのである。


そして、私はキュープラーロスの言葉を思い出す。

人を一人で死なせてはいけない。

手を握り、声をかけ、皆で囲んで逝かせてあげること。

孤独の中に死を迎えることと、温かみの中で死を迎えることには、運営の差がある。

戦争でたくさんの死を、そして臨床でも死を乗り越えてきたキュープラーロスの言葉には、本当に真実味があった。


結局、寄り添うことが愛情なのである。

どんなことがあっても、親は子供を見捨てない。

パートナーも、どんなことがあっても、続く限り一緒に寄り添うのが愛情なのである。


_________


仕事に行って、帰り際に音楽学校のボスに出くわす。

彼はとてもよい人なのだけど、今まで対で話す機会があまりなかった。

軽快な挨拶ばかりで、お互いに知ったようで知らない関係である。


ところが、今日は話しかけてきた。

階段ホールで、思わず長話になる。

お母さんどうしてる?と、何を察したのか、突然聞いてきたのだ。

そういえば、去年、突然の帰国ということもあり得ると話をしておいたのを忘れた。


しかし、なぜ、今日、私がこうしてさびしくて、不安で、居た堪れない気持ちのときに、話しかけてきてくれるのだろう。


ひとしきり話して、心が暖炉の火を浴びたように暖かくなった。


結局看病や助けなど、実践的なことは帰国しなければできないけれど、親のために帰国したら、それも重荷かもしれない。

私自身が、子供たちや、私が一人で必死に築いてきたさまざまなここでの可能性に、大きな異変を与えても、帰国するべきである、そうせねばならないし、そうしないと、一生後悔するという問題があった。

結局は自分の問題なのである。

親がその一生を終えたあとに、私が精一杯尽くしたと言い切りたい、というある種のエゴでもあるのだ。


しかし、彼と話しているうちに、私が帰国するたびに、はじけるような笑顔で生き生きとした私と子供たちの姿を見せ、できる限りの思いでを作り、娘がこんなに幸せに暮らし、孫たちもスクスク育っていることを、信じて歌がわない時間を与えることが、私の役目ではなかろうかと、だんだん気がついてきたのだ。


職場のボスと話をしながら、こんな風に気持ちの方向性が出てくるとは思ってもみなかった。

でも、彼の目は優しく、話しかけてくれた彼の言葉は、十分に真剣だった。



こういうことは、いつしかタブーになって話せないじゃない?

だから、僕から話しかけないととは思っていたんだよ。


そう暖かい立ち姿で私を見守ってくれている彼を前に、


親のことは大切で、本当に与えてもらうばかりで、感謝をしているけれど、


というとそれをさえぎって、


でも、それが親というものじゃない?


と彼が言う。


そうなのね。親に借りを返す必要なんかどこにもない。そして、親も借りを返してもらおうと思ったことすらないよね。


そうだ。私の母は柔和な人で、私とはまったく違って、明るくやわらかく、自分の時間や労力を割いて、人に与える人であった。

その彼女が、私に何か見返りを期待しているはずがない。

どんなことがあっても帰国するなといってくれている。

私は大丈夫よ、みんないるからと。



いまや彼女の精神を支えているのが私であるということは、何よりも明らかである。

しかし、かつて私の苦しみを一手に飲み込んで、何も言わずに「そこにいて寄り添って」くれたのは、母であった。

そうか、気持ちは精神的にお返しできるものなのだ。

実践的な「助け」をすることにこだわる必要はないかもしれない。


できれば、触れたいとか、見たいとか、そういった即物的な望みは尽きないのだけど、私たちが常に精神的に共にあるということも事実である。



その彼と話している間に、私のここに残らねばならない、帰ることができない、という事実の中にあった大きな良心の呵責が次第に小さくなっていった。



未だに、どうすればいいのかわからないし、実際問題として、止むことのない癌という病の恐ろしさを前に、なにだできることなのだろうか、というのはわかっていない。


けれど、自分を枯れ果てたと呼び、誰も要らない、人間関係がストレスだと語り、一人で涙を流して、不安を抱える自分はかわいそうではない、と言い切ったことに「間違ったなにか」を感じた。


誰かは常に自分のことをちゃんと見てくれていて、気にかけてくれている。

そして、その人たちが話しかけてくれるとき、その言葉は本当に真実味を帯びているのだ。

その人がそこに寄り添ってくれているのが本当に体温として感じられる。

それを、自己完結して、たった一人で乗り越えようとする私の態度は、頑張り屋としては納得できるけれど、周りに取り巻いている好意や温かみを踏みにじる、無視する行為にもなりかねない。


そして一人でなんでもやり、何でも乗り越えてきた自負のある私の強さは、それは立派だとしても、自己満足でしかない。

そうして、実際に助けを必要としている人を目の前にした私の第一の感覚は、もちろんもっているものを与えつくしたいという気持ちであるけれど、そこには後悔したくないという自分本位の恐れがあるのだった。



人生はそうじゃない。

与えるものやもらうものは、物差しでかかれない、時間でも重さでも測れない。

それは、気持ちという感覚なのである。

それなら、私も遠くからでも十分に与えることができる。

そして、あの母ならば、その気持ちをどこまでも深く理解してくれるに違いない。



男女関係は、心が重い。

けれど、今日ドイツにいて、記録に残るほど、久しぶりに、誰かが私のことを気にかけていてくれた事実を知り、心がホカホカに温まり、感謝したい気持ちでいっぱいである。


そして、それは知人というか友人であった。

意味や、利害、義務のある関係ばかりに囲まれている。

けれど、友人は大切にしないといけない。

彼らは、普段いないようで、ふと驚くべきタイミングで手を差し伸べてくれる、寄り添ってくれる。

そう実感した。


帰宅すると、翻訳のほうの同僚からメールが入っていた。


うちに来ない?また僕が料理人になって、腕を振るうけど、どう?


あの素敵な奥さんのいる知性ある彼である。



文字を見ながら涙が出た。


本当にみんなありがとう。

私は、一人だなんて、そんなことを言ってはいけない。

一人でがんばってきた、乗り越えてきたと、そんなことを繰り返し書いた。

けれど、とんでもない、彼ら、友人たちが常に私の周りにはいたのだった。

一人なんかではなかったのだ。


それは、日本の友人たちもまったく同じ。

遠方にいるのに、私にはすぐ近くに感じることがたくさんあった。



反省しています。

一人でがんばってきたなんて、そんな人は誰もいない。

そんな人がいたとしたら、その人には誰か気にかけてくれた人がいたはずなのに、それを見えずに、いや無意識に見たくないから、その気持ちをないことにして、一人で閉じこもってしまったに違いない。


なぜ見たくないかって、それは一人でがんばっているという実感にひたって、自分を許したいからである。

救済は、人の助けを受け入れないと訪れない。

それも、最近私は教会の説教を通じて学んだのである。



私はまだまだ。まだまだ、大人でも一人前でもない。


がんばろう。


後ろから追ってくる影

 排卵後に気分が抑うつになって、とても悲しい思いをしたり、イライラが募ったりすることは、実は20代からのことである。

今に始まったことじゃないので、別に更年期だと改めて思う必要もない。

若いころは、PMSなどと診断されて、ホルモン治療を進められたが、ピルでもないホルモンを錠剤で飲むことに抵抗があり、処方されたものを捨ててしまったこともあった。


当時の夫には、気を使い緊張した生活が続いていたため、排卵あたりに大喧嘩をして、そのあと二週間は地獄のような孤独感を味わう、といったパターンが日常化していたのを思い出す。


さすがに、現在はそんなにひどい波はないが、それでも未だにこの二週間タームでやってくる心の変調は続いている。ひどくならないだけありがたい。


そんなわけで、今私は後期二週間、抑うつの期間にあるのだが、洗い物をしながら、掃除機をかけながら、涙がこぼれてしまう、胸が締め付けられるような悲しみを感じるという思いをしている。


実は、心の中に誰にもどうすることもできない、運命のみぞ知るという心配事があって、それを抱えて生きていくということに対する、心の強さを要求されている。

背後に詰め寄るような重い不安感、暗色の何かが迫ってきているということを、随時実感しながら、それでも私は買い物をし、子供たちを教え、自分の子供たちに食事を作り、一緒に笑い、彼らを叱り、励まし、学校などの役割を果たし、夜は締め切りを大きく意識して、ひたすら翻訳をしなくてはならない。

つまり、どんな心配事があっても、誰しも今や明日にかかわる日常の役割を果たさないわけには行かない。

人は、つながっており、いろいろと助け合ったり、励ましあったりしていかねば生きていかれないけれど、本当のところ、結局「生きる」ことを全うするということに関しては、まったく一人ぼっちなのである。


心配事や不安を打ち明けられるパートナー、肩を抱いてくれるパートナーがいない私は、こうして一人で泣いているなんて、かわいそうなのかしら…。今日も洗い物をしながらそんなことを思った。

しかし、と思う。

いたとしても、いや実際日本を離れて以来、今まで私には常に誰かしらがいたはずなのだが、試験の不安とか、人間関係の不安など、自分で能動的に対策をとっていかれる悩みであれば、そうしてパートナーに支えてもらった思いではたくさんある。が、自分にもどうすることができない、つまり息をするのも歩くのも、本人がするしかなく、私が変わってあげられることができない、私が能動的に動いたから、何かが変わるわけでもないという根源的な悩みに関しては、どのパートナーがいてくれても、いっそう孤独感が募るのみだ他ことを思い出す。


一緒にいるからこそ強調されてしまう「一人ぼっち」感、孤独感。

一人でいると、誰かに何かを言う、分かち合う、慰めてもらう、そういうことはまったく期待していない。

だから、不安を一人で抱えることへの、理不尽さ、といったものを感じる隙がないのかもしれない。


パートナーのことなんか、今考える余裕はない。

自分は、今まで落ち着いた静かなパートナーシップというものを経験したことがないので、まるで今エネルギー切れしているように、枯れ果てている。

隣に人がいると思うとストレスであり、誰か男性が、今度いつ会える?ときいてくることを考えただけで、息切れがしそうなのだ。


そして、あらゆる意味での欲求は、死んでしまったかのように消え去った。

してもらいたい、やってほしい、一緒にわかちあいたい、という「~したい欲求」は存在しない。


そんな時、この後ろからやってくる心配事は、私に何を突きつけているのかと考える。

私は、これに関して他人に助けを求めることに、何の意味も慰めもないことは知っている。

だから、一人だけで抱えてたまにブログを書いたりしているのだ。


それだけのことがわかっていながら、それでもこの心配事に終わりがないのはなぜだろうか。


どんなに人を助けたくても、助ける力すら自分にないことを悟り、自分の目先の生活をしっかりやれというお告げだろうか。

助けることができる、という驕りを捨てて、この孤独な不安に耐え抜くことで、生きることの本当の自立を学べということだろうか。


できない、と心の中のひとつの声が言う。

それを聞いた私は涙を流す。

冗談じゃない、今までこれだけがんばってきたのに、乗り越えられないことはありえるわけがない!

という怒りの声を心の中に聞く。

私は涙をぬぐい、自分を強いと実感する。


実際は、まったくわからないのだ。

自分のことすらわからない。





そして、今日も仕事に行く前にこうしてちょっと書くことで、心をなだめている。

そして、帰宅したら、私には私にエネルギーをくれる子供たちの世話をして、話を聞いてやらなくてはならない。

そして、疲れていて面倒くさいと思うけど、一生懸命子供に向き合っていると、不思議と力となって返ってくるのである。

だから、私は子供たちを一生懸命育てないといけないと、本当に反省している。


そして、根源的な心配事を抱えながら、つまらぬ家事をこなし、ちょっと涙を流しても、また生きていくという、実に単純な「生活」にまみれる毎日を送る。

そして、永遠に思えるほど、毎日同じ営みを繰り返し、同じ行為を繰り返し、ひたすらに「生きている」ことだけを実感している。

生きていくことは、生活であり、生活を絶え間なく繰り返していくことに耐えていくこと。

そして、大きな事が起こらなくても、太陽が明るくなったことに、感謝して、今日も笑えたことに感謝している。

謙虚になっても、反省をしても、この心配事は消えない。


中世のカトリックのように免罪符を払ったところで、煉獄の日数が減るというものではない。

カルバンやルターのような運命予定説を一瞬思う。


信じても中世を誓っても、自分が救済されるのかされないのかは、神のみぞ知る。

自分の生前の行為で、そんなことは左右できないのである。

だから、結局自分と神との関係において、忠誠を尽くし、信仰し、自制しつつ、救済を請うことが、唯一能動的にできることの一つである。


ということは、今の私にできることは、望みを持ち続けること、そして、繰り返す日常生活の中に喜びを見出し、与えられるものは、今のうちにできる限り多くを与え、自分には多くを望まず、ただ今も息をして生きていることに、感謝をするのみだ、ということが今理解できた。


最近、キリスト信者になろうかと思うことがある。

神学に首を突っ込んでも、信者にはなれないと常に言い聞かせてきたが、自分が、他人の存在では解決できない、根源的問題に突き当たったとき、いつも私に答えをくれたのは、聖書だった。

西欧社会に長いこと生き、この文化圏で生活し、関わっているから、キリスト教がしっくりくるのかもしれない。

それも、若干他力本願とも解釈できるカトリックではなく、ひたすら自分と神との対話を追及するプロテスタントのほうに、親近感を覚える。

これも、私がプロイセンに住んでいるからだろうか…。


しかし、最近宗教の意味がうっすらと見えてきた。


そして、祈ることも、最大の能動的行為であると、私は思っている。



涙を流しながらでも、命そのものに人間は逆らえないということを理解して、私は精神的に寄り添い、「生きることの質」を「内面」から築くことを忘れないよいうにせねばならない。

そして、内面からこそクオリティが生まれてくるのであれば、私にも何かできることがありそうな気がしてきた。


意味不明な内容だと思います。

でも、私は元気になりました。

では行ってきます。