なぜだかはわからない。
初めて見た時も、次に会った時も、また一年間知り合いとして付き合った後も、魅力というものを感じたことがなかった。
しかし不思議な妄想が私を襲うことがあったのだ。
彼に愛されているというような場面が、突然暗闇のかなたから飛び出してきては、はっきりとしない夢想のように私の心を襲い、まるで晴天の霹靂のような問いかけに、いったいどこからこのような馬鹿げたイメージが湧いてくるのか、何度となく疑問に思ったことがある。
非常に稀であったが、あまりにも長期に渡って終わりを遂げることなく襲ってきたので、いつしかこの妄想じみたイメージを拒否することもなく受け入れ、そういうことになるなら、いずれそういうことになる、しかし今現在はそこから100万マイルも遠い所にいるのだから、なに、こんなことに考えを巡らせる必要もないと、そうしてこの話は、来るに任せ、過ぎ去るに任せていたのだった。
ところが、何が起きたのかもあまりしっかりと把握できないままに、このあり得ない知人は自分のパートナーにさえなっていた。
まさにあの突然襲ってきた夢想が、現実と化した形になったのである。
運命という言葉を信じるのは嫌なのだが、運命的な理由を持った二人が出会うということは実感したこともある。
しかしこの場合は違っていた。理性で考えても何の理由も見つからない。性格的にも最初はまるっきり油と水であったのだ。
ところが相手の方は違ったらしく、最初から好意を感じていたという。私は一切何の感情もなく、それどころか付き合いが長くなればなるほど、嫌悪感を覚えていったほどなのである。
男性と触れ合う機会というのは、数限りなくある。
ちょっと久しぶりに会ったといえば抱擁し合い、一緒に飲み交わしたお酒がおいしかったといえば抱擁し合う。抱擁の文化でなければ、頬にキスをし合い、見知らぬ人でも握手をするのが普通である。通常友人ならば、そこで抱擁し合ったところで、温かい友情というぬくもりを感じ、親しみを実感できたとしても、それ以上のものは何も残らないのが普通である。
ところが、この人の場合は違ったのである。
この人とは、すれ違った好きに骨ばった肘が触れただけで、何か相手の反応している様子が実感できたり、自分自身が触れてはいけないような、とても気軽には触れられないという、果てしない距離感があったのである。
友人として触れることに一切の躊躇はないというこの私でさえ、この人には触れがたい何かがあったのである。もしかすると、それは相手が私を意識していることを無意識に感じ取った上での安全的距離感だったのかもしれない。
けれど、今思えば何とも不思議なのである。
ごく初期の段階に集めた思いを語ったところで、将来的な意味はほとんどない。様々なホルモンが心を乱しては発散させている思いを、本物の人物への感情や愛情に変換させていくことにこそ難しさがあるのだが、まだその段階ではないので、何を言うこともないのだが、この時期にこそアンテナを張り巡らせておかなければ、今後困難に直面したときに、当たって砕けろになってしまうなとは思っている。
当たって砕けろだけしかできずに、偏った生き方や恋愛をしてきた私である。駆け引きというのは無意識に行っているとしても、駆け引きの価値を信じたことがない。
しかし今回はもう少し余裕をもって、穏やかな関係を築いていきたいものである。もう当たって砕けろでは、おそらくうまくもいかなければ、自分の体も精神も持たないだろうと予想できる。
色々なことがあったが、この人にはありがたみを感じている。精々指輪をドブに投げ捨てるだの、満席のレストランでバックをぶちまけるだの、人前で相手の顔にグラスの水をぶっかけるだの、そういうことはやらないように気を付けようと思う。
そもそも、そこまで私を激しくさせたのは、相手の果てしない鈍感さであったのだが、それはそうとしても、このような爆発は、長い目で見れば破壊以外なにも呼ばないのである。
とりあえず、小学生はいなくなり、子供たち全員がすさまじく独立し始めている。上二人は18と16さいで、家になどほとんどいない。いよいよというときに、全く新しい季節が始まった。前回の日記はまんざら嘘ではなかったらしい。文字通り、私は違う惑星へと大きく移動し始めているのかもしれない。
幸せということが、私の考える幸せで良いのなら、これで死ぬまで幸せなことは間違えない。悔いのない人生ですっきりしている。子供たちさえ不幸がなければ、私としてはもうこれで胸がいっぱいといえるほど満足している。こういうことを言うのは嫌なのだが、ずいぶん頑張ったといえるのかもしれない。
2013年9月8日日曜日
2013年6月28日金曜日
新しい季節
新たな季節が始まった。いやもう一つの季節は過ぎ去り、次の季節が始まっていると言っても良かった。
太陽がその鋭い光線で地面を照らすようになった頃、息子が家出をした。
一大事であった。
それも10日間もいなかったのである。
帰宅するまでの道のりは長く、自己を責め、自己を恥じ、息子の安全を念じた。
結果、彼との深い会話を通して、彼の成熟した精神と、いたって健全な人間性を再確認した。
彼の家出は、彼自身の問題でもあったが、私の家庭の有様をあからさまに描き出し、むしろ私に対するショック療法であったと言っても良い。
その時に、私は決心をした。変わるしかない。
これは紛れもない、私の家庭の最後のチャンスであったからだ。
_______________
それから色々と風が吹いた。
この一件があってから、娘は感情カタルシスを起こしたが、それを機に、病状らしきものが消えてしまった。あれだけ医者へと駆けずり回った私が、道化であったことを証明するかのように、彼女とのコンフリクトは、下火になったのである。しかも朝、陽が昇ったら別人になったと形容してもおかしくない変化であった。
彼女の人格は相変わらず風変わりで、会話をしても通じ合うことはなかなか難しい。
けれど、家族の誰しもが、幸せな家庭を夢見て、愛し合いたいのだと、絶対的な安定の地を求めていることは事実として明るみに出たのだ。
すべては言葉なき事実であったが、それは誰の目にも明らかだった。
そこで、私は小さな幸せを家庭で実行に移したのである。
一緒に夕食も食べられなかった一家が、再び一つランプの下で食事をとるようになった。
そのために私は大金をかけて食卓のランプを調達した。
掃除がはかどった。心の中が整理されていった。
少しずつ、家族の形態が戻り始めた。
凄まじい八方ふさがりの暗黒は、3年間続いたのだった。
娘の病状が出るようになって以来、5年が経過していた。
全員が、限界まで来ていたのだった。
________________
また風が吹いた。
仕事帰りに買い物に行った帰り、久しぶりに5分の道のりを歩きながら、春の生暖かい空気をありがたく胸に吸い込んだ。
献立は決まっていた。すべてが予定通りだった。
この小さな満足感を誰かに伝えたかった。ひとこと「やっとここまでたどり着いたのだ」と。
それを思ったとき、母の顔が浮かんだ。懐かしい母の声も思い浮かんだが、彼女に電話をする気力は湧いてこなかった。
それはもう、彼女には何も伝わらないのだということを身をもって知ったからである。
彼女は、しぼんでゆく。彼女の世界は、老眼鏡のように周囲が曇っていくのである。
娘のこと、一挙一動を知りたいと思いながら、娘から連絡がなくなって何日かも数えられないのである。
その母に、この胸に湧いた一瞬の幸福感をどう伝えたらよいのだろうか。
その時に、心の中でまた一つ理解した。
もう私はここで歩いているように、どこへ行っても私の人生を私だけで味わうしかないのだと。
私と私の子供たちが、私の家族なのだった。
後ろを向いても、もう親はいない。少なくともこうした突発的な感情に対応できるほどの、精神的な支えは、もう彼女には果たせなくなったのである。
彼女がまだ生きていることが、大きな支えである。
けれど、私の思いは、空気のように彼女の耳を掠め、微笑んだとしても、それは自動的な動作で、その後一分もすれば、もう一度聞き返されるのである。
その暴力的ともいえる虚しさを、何度となく体験してからしばらくたったこの日、私は初めて自立した。
私のひらめきも感情も湧き出る思いも、もう一人きりで消化するだけなのである。
もう私の手のひらにしか、私の人生は握れないのである。
相談もなく、自分の経験と直感を信頼して、一人で舵を取ってゆくのだ。
そして、それを恐れとも残念だとも思わなかった。
生ぬるい風に吹かれながら、もうできる、そう小さなこぶしに力を入れたのだった。
________________________
娘の魂の核となることだけは、支えてやらねば。
どんなに喧嘩をし、どんなに争った過去があったとしても、親は私であり、大人なのは私だけなのだった。病気呼ばわりする親に育てられる彼女の失望感は、私には死ぬまで想像できないはずである。
そこで、イタリアに行くことにした。
彼女のたっての夢である大学が、イタリアでサマーコースを開催するからである。
それは、私からの真剣なそして正直な贈り物であった。
彼女が、最大のチャンスをつかむであろうことは今からわかっている。
あれほどの情熱と献身は、また彼女の父と同じく、他人にはまねのできない集中力に満ち溢れているからである。
それこそがカリスマ性なのであった。
この旅行を家族の転換を完全なものにする行事にすると心の中で決めた。
姉の目も見れない、姉など死んだ、彼女の一家を抹殺するなどと、ホラー映画さながらのことを吐き捨て、一緒に食事もしなければ、一切かかわりたくないと言っていた馬鹿な息子と彼女の関係は修復不可能であると思っていた。
そう信じていた疑わなかった親は、さらに馬鹿であった。これは私の罪である。
なんのことはない、うちの子たちは見事に心の優しい子供たちなのであった。
私が家族大改革計画を実行に移すと、誰しもが気を使って摩擦を避けるようになり、それが次第に中立関係に代わっていったのである。
息子も後からイタリアに来るようにと了解を取るまでに一か月かかった。
しかし、今は誰しもが楽しみにしているのである。
小さなアパートに閉じこもったまま、インターネットも電話もない世界で、しかし私たち4人は、なんとか楽しい夏を過ごすであろうと今から信じている。
_____________
偶然なのか、電話回線の契約切れと重なって、新しい回線を引いた。
テレビプログラムにイタリア語のチャンネルを入れてもらった。
子供たちもなぜか見ている。
ここでどんなにつらくても、ここだけが故郷なのではないという、逃げ道があると、色々なことに希望が見えたりするのである。
イタリアの歌ばかり聞いている。単なるイタリア好きではないのである。
イタリアの歌を聞けば、一瞬のうちに涙ぐむ。
私は前夫のメタファーとしてのイタリアを愛してやいまいかと、ある日突然雷のごとく、そんな思いに取りつかれた。
すべてが、勘違いなのではないか。
イタリア文化との関係は、そんな簡単な好き嫌いの感情ではないのだ。
その裏に、私の知らぬ無意識の意味が隠れているようだが、それを解読できない。
そんな矢先に前夫が姿を現した。
2か月の音信不通後であった。
父は死んだと、これまたグロテスクな嘘を宗教の教師に訴え、家庭は崩壊して、兄に殴られていますと訴え、青少年課を紹介しましょうと教師に言わしめた末子が、見るからに幸福そうであった。
そうだ、父親は大事なのである。
私のこれまでの思いはすべて大陸を隔てた向こうにいた彼の心の中にシンクロしていた。
彼は、知らなかったが知っていたのだ。
私の家族が肯定的に変わり果てた姿を見て、その間にあったことを察したという。
その間、彼の体調は悪く、かの地で自分の新たなる家族と共にいながら、とり憑かれたかのように毎晩私と子供たちのことを案じていたという。
やはりひともんちゃくあったのだねと。
目を見るだけで千言の会話ができることは、20年前から同じである。
その関係の深さが年々強くなり、さらに深くなり、殆ど恐怖に感じるという。
そう思えなくもない。
別れる理由は、愛があるだけでは足りないというものだった。
愛がないと言ったことはなかった。愛が多すぎたと言っても良いのだ。
そうだ、愛が深すぎて別れたのに違いないと、そう納得し合った。
____________________
ある出会いをした。
偶然にもイタリア人だった。
相手は果てしなく興味をそそられたらしい。
私は、知人に再会したような安心感を覚えた。
そして気味が悪くなるほど共通点があった。
しかしこのひとをTuつまりDuつまり君とは呼ばないと、どこかで不思議な決心をした。
相手は、二度も私にTuと言い、何度もLei(あなた)と言い直した。その時の彼の恥た顔は見逃すまでもなかった。
仕方ない、近しく感じてしまうのである。
しかし彼は去った。
私も去る。
彼が戻るまで時間がかかる。
それにLei(Sieやあなた)の人なのである。何という関係もない人なのである。
ところが人々に、何があったのかと聞かれるようになった。
キラキラと輝いるぞと言われた。
よく知らない人に、僕に電話してと番号まで手渡された。
恐ろしく、私はポジティブなオーラを放っているらしい。
5年の暗黒時代は、幕を閉じたのである。
イタリア人には、感情のひだがある。
ひょうきんだとか、明るいだとか、そんな話は嘘に近く、彼らはひどく繊細で、ひどく内気である。
それが、一瞬で会話をドイツ人とはありえない方向に発展させるのである。
娘が一言いった。
「イタリア語を話しているママが一番自然。一番リラックスしている。一番本当のママだよ。」
それは自分でも実感していたことなのであるが、はっとした。それは驚くほどはっとした。
_________________
しかし、この文化を愛する私は、何を隠すそう前夫を求めているのである。
自分で捨て、自分で出てきた家庭を取り戻したいなど、露ほども思っていない。
一緒になど五分たりとも暮せたものではない。
しかし、あの魂なのだった。あの魂と永遠につながっていたいという、つきつめればそれだけを心が求めることをやめないのだった。
彼を見るとき、私は彼を見ていない。
彼の中の目には見えないものを、しかしまさに具体的に目の前に見ているのである。
彼の言語を聞くと、彼がいなくても、あの魂の気配を感じるのである。
肉体も日常もいらないのだ。
あの魂とは、双子なのではないかと、本当にありきたりな安いスピリチュアルブックにある疑問を投げかけさえしたくなるのである。
あの音、あの歌いまわしは、あのことで、ああいう風に泣いていると私には聞こえてしまうのである。
あのビブラート、あのテヌートは、あれを訴えたくても伝わらない、その孤独を嘆いているのだと聞こえてしまうのである。
理屈はない。だから、一瞬を境に恋に落ちたのである。
だから結婚も家庭も、それが崩壊したことさえ、意味はなしていないのだった。
大陸を隔てても、意味をなしていないのだった。
いつでもいるのである。そこに。
_______________
長男は苦難の時を経て、また実技で一番になった。それも演奏にはポエジーがあるのだった。
一瞬顔を表す、魂の奏でる音は、それを聞いた者の心をはっとさせ、次の瞬間溶かすものである。
間違えやしまいか、大ミスをするのではないかと、未だに的外れな気持ちで聞いていると、時々ワープするのである。
気を緩めると、「あれっ、これは!」とハッとするのである。完全に父親の音を聞いたからである。同じミを二拍伸ばすのも、彼のそれには心を揺さぶる歌心が見え隠れするのである。はっとするのである。
このポエジーは、物差しで計れない、計ってはいけないものである。
これは才能なのだった。
その息子は国の音楽英才教育機関に送られることになった。学校以外にこうした半国営の基金でいわゆる才能教育を受けるのである。
親は関係ない。彼自身が花開いて獲得した結果である。
彼のポエジーは、彼の成熟と繊細さと壊れやすさと孤独から生まれるのである。家出も肥やしになったのかもしれない。
___________________
娘のところにある日突然電話があり、働きに行くようになった。
シックなツーリストが集まる、総合アジアンフードのような、ヌーベルキュジーヌのようあ店である。日本人が経営しているのだが、彼女の日本語は小学三年生である。
しかし客は日本人ではないのだからよいのだろう。
せっせと働きに行っている。
小遣いでコンサートへかよい、先日はミュンヘンまで自分で計画して二泊行って帰ってきた。
これは、左と言えば右へ、前と言えば後ろに向かって、年中道に迷っていた彼女にしたら奇跡である。
働き出したことで、とても生活が規則的に回転し始めた。
そして彼女の歌も極まりつつあり、ますますポップカルチャーから遠ざかり、のめり込んでいるようである。
彼女には、人目を惹くカリスマがあり、コンサートに行くたびにその思いつめた目と足取りで、アーティストと会話をし、ひと時の思い出を作ってくるのである。
毎回成功するのは、彼女の類まれな意志力と思いつめた集中力がにじみ出るからであろう。
彼女もメランコリーを持ってる。
果てしないメランコリーを背景に抱えながら、歌声を張り上げる旋律と節回しは、やはり人の寂しさに触れるのである。
彼女も、前進している。
親など関係ない。
子供は勝手に育っていくのである。
もう私は無力だ。
彼らはもう一人前なのだった。
_______________
生身の人間への興味は薄れはて、もう一人以上に良いことがあるとは思えなかった。
しかし、健康が回復しつつあるのである。
苦しさをはっきりと思いだした。
愛されたくもない。愛を乞うつもりも毛頭ない。
しかし子供以外愛せないことは、なんと辛いことであろうか。
愛が前提の子供ではなく、赤の他人だからこそ、小さな愛情でも与えなければ、関係は成立しないのである。
その活動をやめることは、人を信じていないことであった。
それが悲しい。
鳥が戻り、花が咲くという自然の摂理は、決して裏切らない。
そして、五年を経た今、陽はまた昇るのだと、身をもって教えられたのである。
もう一度、人を信じてみたくなった。
そういう気持ちで、イタリアに飛び立ち、毎日家族水入らずで過ごし、思い出づくりをしてくる。
おそらく最初で最後の4人の休暇である。
そして帰宅したら、私は必ず、新たな季節と共に、新たに出発するつもりである。
このまま「Lei」と呼び続けるには限界がある。
嫌でも近しくなることは見えているのである。
しかし頭では考えることは止めた。
セラピストさながらの知識で娘に接しても、悪化の一途であった。
心なのである。人間関係は、心でしか解決できないのである。
前途は、開けている。
もう何があっても、私は幸せに違いない。
太陽がその鋭い光線で地面を照らすようになった頃、息子が家出をした。
一大事であった。
それも10日間もいなかったのである。
帰宅するまでの道のりは長く、自己を責め、自己を恥じ、息子の安全を念じた。
結果、彼との深い会話を通して、彼の成熟した精神と、いたって健全な人間性を再確認した。
彼の家出は、彼自身の問題でもあったが、私の家庭の有様をあからさまに描き出し、むしろ私に対するショック療法であったと言っても良い。
その時に、私は決心をした。変わるしかない。
これは紛れもない、私の家庭の最後のチャンスであったからだ。
_______________
それから色々と風が吹いた。
この一件があってから、娘は感情カタルシスを起こしたが、それを機に、病状らしきものが消えてしまった。あれだけ医者へと駆けずり回った私が、道化であったことを証明するかのように、彼女とのコンフリクトは、下火になったのである。しかも朝、陽が昇ったら別人になったと形容してもおかしくない変化であった。
彼女の人格は相変わらず風変わりで、会話をしても通じ合うことはなかなか難しい。
けれど、家族の誰しもが、幸せな家庭を夢見て、愛し合いたいのだと、絶対的な安定の地を求めていることは事実として明るみに出たのだ。
すべては言葉なき事実であったが、それは誰の目にも明らかだった。
そこで、私は小さな幸せを家庭で実行に移したのである。
一緒に夕食も食べられなかった一家が、再び一つランプの下で食事をとるようになった。
そのために私は大金をかけて食卓のランプを調達した。
掃除がはかどった。心の中が整理されていった。
少しずつ、家族の形態が戻り始めた。
凄まじい八方ふさがりの暗黒は、3年間続いたのだった。
娘の病状が出るようになって以来、5年が経過していた。
全員が、限界まで来ていたのだった。
________________
また風が吹いた。
仕事帰りに買い物に行った帰り、久しぶりに5分の道のりを歩きながら、春の生暖かい空気をありがたく胸に吸い込んだ。
献立は決まっていた。すべてが予定通りだった。
この小さな満足感を誰かに伝えたかった。ひとこと「やっとここまでたどり着いたのだ」と。
それを思ったとき、母の顔が浮かんだ。懐かしい母の声も思い浮かんだが、彼女に電話をする気力は湧いてこなかった。
それはもう、彼女には何も伝わらないのだということを身をもって知ったからである。
彼女は、しぼんでゆく。彼女の世界は、老眼鏡のように周囲が曇っていくのである。
娘のこと、一挙一動を知りたいと思いながら、娘から連絡がなくなって何日かも数えられないのである。
その母に、この胸に湧いた一瞬の幸福感をどう伝えたらよいのだろうか。
その時に、心の中でまた一つ理解した。
もう私はここで歩いているように、どこへ行っても私の人生を私だけで味わうしかないのだと。
私と私の子供たちが、私の家族なのだった。
後ろを向いても、もう親はいない。少なくともこうした突発的な感情に対応できるほどの、精神的な支えは、もう彼女には果たせなくなったのである。
彼女がまだ生きていることが、大きな支えである。
けれど、私の思いは、空気のように彼女の耳を掠め、微笑んだとしても、それは自動的な動作で、その後一分もすれば、もう一度聞き返されるのである。
その暴力的ともいえる虚しさを、何度となく体験してからしばらくたったこの日、私は初めて自立した。
私のひらめきも感情も湧き出る思いも、もう一人きりで消化するだけなのである。
もう私の手のひらにしか、私の人生は握れないのである。
相談もなく、自分の経験と直感を信頼して、一人で舵を取ってゆくのだ。
そして、それを恐れとも残念だとも思わなかった。
生ぬるい風に吹かれながら、もうできる、そう小さなこぶしに力を入れたのだった。
________________________
娘の魂の核となることだけは、支えてやらねば。
どんなに喧嘩をし、どんなに争った過去があったとしても、親は私であり、大人なのは私だけなのだった。病気呼ばわりする親に育てられる彼女の失望感は、私には死ぬまで想像できないはずである。
そこで、イタリアに行くことにした。
彼女のたっての夢である大学が、イタリアでサマーコースを開催するからである。
それは、私からの真剣なそして正直な贈り物であった。
彼女が、最大のチャンスをつかむであろうことは今からわかっている。
あれほどの情熱と献身は、また彼女の父と同じく、他人にはまねのできない集中力に満ち溢れているからである。
それこそがカリスマ性なのであった。
この旅行を家族の転換を完全なものにする行事にすると心の中で決めた。
姉の目も見れない、姉など死んだ、彼女の一家を抹殺するなどと、ホラー映画さながらのことを吐き捨て、一緒に食事もしなければ、一切かかわりたくないと言っていた馬鹿な息子と彼女の関係は修復不可能であると思っていた。
そう信じていた疑わなかった親は、さらに馬鹿であった。これは私の罪である。
なんのことはない、うちの子たちは見事に心の優しい子供たちなのであった。
私が家族大改革計画を実行に移すと、誰しもが気を使って摩擦を避けるようになり、それが次第に中立関係に代わっていったのである。
息子も後からイタリアに来るようにと了解を取るまでに一か月かかった。
しかし、今は誰しもが楽しみにしているのである。
小さなアパートに閉じこもったまま、インターネットも電話もない世界で、しかし私たち4人は、なんとか楽しい夏を過ごすであろうと今から信じている。
_____________
偶然なのか、電話回線の契約切れと重なって、新しい回線を引いた。
テレビプログラムにイタリア語のチャンネルを入れてもらった。
子供たちもなぜか見ている。
ここでどんなにつらくても、ここだけが故郷なのではないという、逃げ道があると、色々なことに希望が見えたりするのである。
イタリアの歌ばかり聞いている。単なるイタリア好きではないのである。
イタリアの歌を聞けば、一瞬のうちに涙ぐむ。
私は前夫のメタファーとしてのイタリアを愛してやいまいかと、ある日突然雷のごとく、そんな思いに取りつかれた。
すべてが、勘違いなのではないか。
イタリア文化との関係は、そんな簡単な好き嫌いの感情ではないのだ。
その裏に、私の知らぬ無意識の意味が隠れているようだが、それを解読できない。
そんな矢先に前夫が姿を現した。
2か月の音信不通後であった。
父は死んだと、これまたグロテスクな嘘を宗教の教師に訴え、家庭は崩壊して、兄に殴られていますと訴え、青少年課を紹介しましょうと教師に言わしめた末子が、見るからに幸福そうであった。
そうだ、父親は大事なのである。
私のこれまでの思いはすべて大陸を隔てた向こうにいた彼の心の中にシンクロしていた。
彼は、知らなかったが知っていたのだ。
私の家族が肯定的に変わり果てた姿を見て、その間にあったことを察したという。
その間、彼の体調は悪く、かの地で自分の新たなる家族と共にいながら、とり憑かれたかのように毎晩私と子供たちのことを案じていたという。
やはりひともんちゃくあったのだねと。
目を見るだけで千言の会話ができることは、20年前から同じである。
その関係の深さが年々強くなり、さらに深くなり、殆ど恐怖に感じるという。
そう思えなくもない。
別れる理由は、愛があるだけでは足りないというものだった。
愛がないと言ったことはなかった。愛が多すぎたと言っても良いのだ。
そうだ、愛が深すぎて別れたのに違いないと、そう納得し合った。
____________________
ある出会いをした。
偶然にもイタリア人だった。
相手は果てしなく興味をそそられたらしい。
私は、知人に再会したような安心感を覚えた。
そして気味が悪くなるほど共通点があった。
しかしこのひとをTuつまりDuつまり君とは呼ばないと、どこかで不思議な決心をした。
相手は、二度も私にTuと言い、何度もLei(あなた)と言い直した。その時の彼の恥た顔は見逃すまでもなかった。
仕方ない、近しく感じてしまうのである。
しかし彼は去った。
私も去る。
彼が戻るまで時間がかかる。
それにLei(Sieやあなた)の人なのである。何という関係もない人なのである。
ところが人々に、何があったのかと聞かれるようになった。
キラキラと輝いるぞと言われた。
よく知らない人に、僕に電話してと番号まで手渡された。
恐ろしく、私はポジティブなオーラを放っているらしい。
5年の暗黒時代は、幕を閉じたのである。
イタリア人には、感情のひだがある。
ひょうきんだとか、明るいだとか、そんな話は嘘に近く、彼らはひどく繊細で、ひどく内気である。
それが、一瞬で会話をドイツ人とはありえない方向に発展させるのである。
娘が一言いった。
「イタリア語を話しているママが一番自然。一番リラックスしている。一番本当のママだよ。」
それは自分でも実感していたことなのであるが、はっとした。それは驚くほどはっとした。
_________________
しかし、この文化を愛する私は、何を隠すそう前夫を求めているのである。
自分で捨て、自分で出てきた家庭を取り戻したいなど、露ほども思っていない。
一緒になど五分たりとも暮せたものではない。
しかし、あの魂なのだった。あの魂と永遠につながっていたいという、つきつめればそれだけを心が求めることをやめないのだった。
彼を見るとき、私は彼を見ていない。
彼の中の目には見えないものを、しかしまさに具体的に目の前に見ているのである。
彼の言語を聞くと、彼がいなくても、あの魂の気配を感じるのである。
肉体も日常もいらないのだ。
あの魂とは、双子なのではないかと、本当にありきたりな安いスピリチュアルブックにある疑問を投げかけさえしたくなるのである。
あの音、あの歌いまわしは、あのことで、ああいう風に泣いていると私には聞こえてしまうのである。
あのビブラート、あのテヌートは、あれを訴えたくても伝わらない、その孤独を嘆いているのだと聞こえてしまうのである。
理屈はない。だから、一瞬を境に恋に落ちたのである。
だから結婚も家庭も、それが崩壊したことさえ、意味はなしていないのだった。
大陸を隔てても、意味をなしていないのだった。
いつでもいるのである。そこに。
_______________
長男は苦難の時を経て、また実技で一番になった。それも演奏にはポエジーがあるのだった。
一瞬顔を表す、魂の奏でる音は、それを聞いた者の心をはっとさせ、次の瞬間溶かすものである。
間違えやしまいか、大ミスをするのではないかと、未だに的外れな気持ちで聞いていると、時々ワープするのである。
気を緩めると、「あれっ、これは!」とハッとするのである。完全に父親の音を聞いたからである。同じミを二拍伸ばすのも、彼のそれには心を揺さぶる歌心が見え隠れするのである。はっとするのである。
このポエジーは、物差しで計れない、計ってはいけないものである。
これは才能なのだった。
その息子は国の音楽英才教育機関に送られることになった。学校以外にこうした半国営の基金でいわゆる才能教育を受けるのである。
親は関係ない。彼自身が花開いて獲得した結果である。
彼のポエジーは、彼の成熟と繊細さと壊れやすさと孤独から生まれるのである。家出も肥やしになったのかもしれない。
___________________
娘のところにある日突然電話があり、働きに行くようになった。
シックなツーリストが集まる、総合アジアンフードのような、ヌーベルキュジーヌのようあ店である。日本人が経営しているのだが、彼女の日本語は小学三年生である。
しかし客は日本人ではないのだからよいのだろう。
せっせと働きに行っている。
小遣いでコンサートへかよい、先日はミュンヘンまで自分で計画して二泊行って帰ってきた。
これは、左と言えば右へ、前と言えば後ろに向かって、年中道に迷っていた彼女にしたら奇跡である。
働き出したことで、とても生活が規則的に回転し始めた。
そして彼女の歌も極まりつつあり、ますますポップカルチャーから遠ざかり、のめり込んでいるようである。
彼女には、人目を惹くカリスマがあり、コンサートに行くたびにその思いつめた目と足取りで、アーティストと会話をし、ひと時の思い出を作ってくるのである。
毎回成功するのは、彼女の類まれな意志力と思いつめた集中力がにじみ出るからであろう。
彼女もメランコリーを持ってる。
果てしないメランコリーを背景に抱えながら、歌声を張り上げる旋律と節回しは、やはり人の寂しさに触れるのである。
彼女も、前進している。
親など関係ない。
子供は勝手に育っていくのである。
もう私は無力だ。
彼らはもう一人前なのだった。
_______________
生身の人間への興味は薄れはて、もう一人以上に良いことがあるとは思えなかった。
しかし、健康が回復しつつあるのである。
苦しさをはっきりと思いだした。
愛されたくもない。愛を乞うつもりも毛頭ない。
しかし子供以外愛せないことは、なんと辛いことであろうか。
愛が前提の子供ではなく、赤の他人だからこそ、小さな愛情でも与えなければ、関係は成立しないのである。
その活動をやめることは、人を信じていないことであった。
それが悲しい。
鳥が戻り、花が咲くという自然の摂理は、決して裏切らない。
そして、五年を経た今、陽はまた昇るのだと、身をもって教えられたのである。
もう一度、人を信じてみたくなった。
そういう気持ちで、イタリアに飛び立ち、毎日家族水入らずで過ごし、思い出づくりをしてくる。
おそらく最初で最後の4人の休暇である。
そして帰宅したら、私は必ず、新たな季節と共に、新たに出発するつもりである。
このまま「Lei」と呼び続けるには限界がある。
嫌でも近しくなることは見えているのである。
しかし頭では考えることは止めた。
セラピストさながらの知識で娘に接しても、悪化の一途であった。
心なのである。人間関係は、心でしか解決できないのである。
前途は、開けている。
もう何があっても、私は幸せに違いない。
2013年2月10日日曜日
心臓を貫かれて ―― 抜粋
訳者の村上が言うように、確かにかれは文章を書く間に、多くのどうどうめぐりのような状態に陥ってしまったのかもしれない。核心にすっとはいることができない彼のトラウマが原因で、その「ぐるぐるめぐり」が生まれたのではないかと村上が言うのは、読み終えてみて非常に納得できる。私自身、読みながら知らない間に、著者の無意識のトラウマによる『儀式的ロジックの根回し』に深く引き込まれ、私自身がいつまでも核心に入らないその物語と共に、この本に惹かれつつ読むことを躊躇したり、その先にあるべき重いものに無意識的恐怖を抱いて、読了するまで長い時間がかかってしまった。
本当は回答やきっかけ、それこそこの本でも出てくる言葉である「救済」が欲しかったのである。しかしそんな答えはあろうはずもない。
このような運命を生きることが、救済への道しるべに他の人よりも早くたどり着くわけではないのだということを、改めて思い知らされる。
このような世代を超える運命には、巻き込まれる以外に選択の余地がない、抗し難い力が働いており、それを生き抜くことで得るものは、救済への予感でもなく、知恵でもなく、希望でもなく、ただただ生きる力を失うような哀しみでしかないのだと、それだけははっきりと理解することができた。
それ以上にこの本には、家族を巡る多くのファセットが隠されており、私にとっては多くの側面から自分なりの術を学ぶためのきっかけとなる深い「事実」を見て取ることができた。
それらは、おそらく読者の心の中では、ヒントにしかなりえないものである。しかし家族の深淵を垣間見た、まさに見たくないその哀しみを見つけてしまった私にとっては、この本を読むことで、たとえこの本の根底には哀しみしか流れていないとしても、大きな勇気を得る結果となった。
すべては愛という言葉の裏に隠れるどろどろとしたものの織り成す運命であると感じる。愛がなければ人は一日たりとも存在できない、という心理学者フロムの言葉をまた思い出す。健康な愛は健康な愛を受けたことがなければ与えることはできない。愛ほど厄介なことはない。私自身、まさに自分の愛する能力に疑問を感じ、デーモン的なものに愛さえのっとられていると感じることもある。けれど、家族の歴史をさておき、こころを中和して和解さえすれば、すべてを癒す安らぎと赦しを与えることができるのも、また家族の愛だけなのであると知ることになる。
それも、この物語は十分に証明していた。
孤独な子供は、損傷が残る前に救われなくてはならない。おそらくもう遅いかもしれない。が、まずそれを肝に銘じている。
まだ感想などは書けない。が、どうしても心に残った文章を、ここに書き止めておきたかった。
P. 45
「おい坊主、死んだ人を踏みつけにしてはならん」と老人は指を突き出すようにして僕に言った。「断じてならん。いいか、お前は死者の残したものの上に生きているんだ。」
P. 125
最初の子供を土に埋めたほとんど直後に、新しく生まれた息子の顔を見て、フェイはそこに安らぎを見出せただろうか?最初の子供の時に対するときのように手放しの愛を注ぐことに、恐怖を感じることはなかっただろうか?[中略]「自分は愛されており、安心していいのだ」という感覚をフランクに与えられなかったのではあるまいか?
P. 183
そいつは、僕の人生にとって最悪のときに、僕をとらえてこういった。「あなたのことは知っているわ。あなたが最後の一人。あとのみんなはさっぱりと片付けた。次はあなたの番なのよ。」違う、と僕は自分に言い聞かせた。この幽霊は本物の幽霊ではない。いかにもそう見えるけれど、実は本当の幽霊じゃない。これは僕自身の内部の、暗くて深い場所から這い出てきたものなのだ。そのときだって、やはり僕はこう思っていた。幽霊なんかよりももっと恐ろしいものが、僕の襟首をつかまえることだってあるんだ、と。
P. 201
「それは俺の人生にはっきりとした感覚を残してくれた」と彼は言った。「自分を克服したような感覚だった。」もちろん、意識的にか無意識的にかは知らないが、兄は事実の半分しか語っていない。自分自身を克服するというとき、ゲイリーは恐怖を乗り越える能力について語っていたのかもしれない。でも彼がほんとうにそのような境地に達したことがあるとは、僕には思えないのだ。[中略]実を言えばゲイリーは自己の克服について語っていたのではなく、恐怖や痛みに泣き叫ぼうとする自らの一部を殺すか黙らせるかする術を学んだことについて語っていたのだ。それが真実だ。そのようなかたちでゲイリーが自らを克服したとき、彼は自分の生命を破壊させる力を、またその破壊を行使できるそうな他人を抹殺する力を、見出したのである。
P. 207
彼は反抗児になろうと志すくらいに――自分がどれくらいいろんなものを台なしにされたかを指し示すために、いろんなものを台なしにしてやろうと思い立つくらいに――利発で勇気のある子供だった。しかし世の中はそんな彼の反抗を受け入れもしなければ、容認もしなかった。[中略]僕はそこに損傷を受けた少年の顔を見る。もっと正確に言えば、僕はそこに堕ちた天使の顔を見るのだ。その顔は、ほかのみんなが見ている安定から目を背け、一度かぶったらはがすことのできない悪魔の仮面をつけようとしていた。
P. 262
フランク・ギルモアはベッシー・ギルモアを狂人と呼ぶことによって、彼女を本物の狂気の状態に追い立てることができたのだ。彼女の目は憤怒のためにぎゅっとつり上がり、顔つきは不思議な仮面のようになった。その仮面は堅く凍りつき、同時にめらめらと激しく燃え上がっていた。精神がこれ以上持ちこたえられないほどの激しい衝動を、母は抱え込んでいるみたいだった。[中略]母は怒りに煮えたぎった目で、父をしっかりと睨みつけていた。最愛の相手によって深く傷つけられた人間だけが浮かべることのできる、捨て鉢な決意のようなものがそこに浮かんでいた。
P. 298
ゲイレンは決して癒されることのない恐ろしい傷とともに生きていたけれど、それが彼を殺したわけではなかった。彼を殺したのは、彼が自分に向かってなし続け、なすことをやめられなかった何かだった。
P. 299
ゲイレンは僕を家の中に閉じ込めた。食堂の中から僕は、斧を使って彼がおもちゃをひとつひとつ叩きつぶしていくのを眺めていた。ゲイレンは潰れたプラスチックの塊をごみ缶に投げ込み、泣きながら家の中に戻ってきた、「いつか父さんはおまえのことだって嫌いになるんだ」と彼は苦痛に満ちた涙声で言った。「おまえにも今に分かる」
P. 338
それから頭にまず浮かんだのは、ああ、僕はこれからもっと孤独になるんだな、ということだった。でもまあそれはかまわない。僕はすでに、まわりの世界の多くのものに深く関わらずに生きていく術のようなものを身につけていた。
何年にもわたって僕は父と一緒に暮らしていたわけだが、ときおり父が一人で机の前に坐り、首をうなだれ、拳で机を叩きながら、何度も何度も「ああ、もう死んでしまいたい」と言っているのを目にしてきた。本当のところ、彼は死というものを恐れていたと思う。でも生きることは彼にとっては、絶え間のない審判のようなものであったのではないか。そして審判は、今まさに終わろうとしているのだ。
P. 359
母が父についてこんな話し方をするのを、僕はそれまで聞いたことがなかった。母の声の中に、そんな優しい響きを感じたこともなかった。それらの言葉の裏で、彼女の心が千々に乱れているのが僕にはわかった。
キッチンで母と父の姿を見かけた夜、テーブルの前に坐って、母の手を取っていた父の顔に浮かんでいた表情を僕は覚えている。父の知らせを受け取ったときに、母がかくも深き喪失と孤独の地点から叫びをあげていたことを僕は覚えている。そう、彼らは互いに愛し合っていたのだ。[中略]一段と高いところから見れば、愛というものは――それがいかに深く切羽つまったものであれ――他人と悪い関係を持ち続けるための十分な理由にはならないと思う。とりわけその「悪さ」が結果的に他人を巻き込んで、傷つけ歪めていくような場合には。
P. 360
この結婚の継続が生み出したよりももっと悲惨な結果を、果たして離婚が生み出せたであろうかと。[中略]
人々はこう言う、何があろうと家族のためにひとつにくっついていろ。家族の尊厳と結束のためには、歯を食いしばれ。そんな御託が昔から今にいたるまで繰り返し説かれてきた――世の中に、家族の保全が失われるほど不幸なことはない。家族は保全されなくてはならず、その機能は秘匿されなくてはならない。
ああ、僕は家族というものを憎む。僕はショッピング・モールで彼らが清潔な服を着て、一緒に歩いているところを見る。あるいは、友人たちが家族の集まりについて、家族のトラブルについて語るのを耳にする。彼らの家族を訪問することもある。そんなとき、僕は彼らを憎みたくなる。僕が彼らを憎むのは、彼らがおそらく揃って幸せな思いというものを味わっているからであり、僕が人生においてそういった家族を一度たりとも手にしなかったからである。僕が彼らを嫌悪するのは、家庭こそ善なりとする考え方が、子供たちがいい大人になってしまったあとでもまだ、過程の中で彼らを恥じ入らせたり、従属させるために、しっかりと運用されているからである。
P. 475
その日一日、僕らは母のうらぶれた家の、閉所恐怖症をもよおすような部屋に坐り、荒ぶれた我らが歴史をあいだに挟むようにして顔を向かいあわせていた。そこで僕はようやく理解することができた――母は常に、僕なんかよりもはるかに恐怖に近い場所で生きてきたのだと。
P. 483
誰かに死刑を宣告することはできる、でも生きることを宣告することはできないのだ――そう思った。
P. 538~539
あなたは自分の人生を生み出した源からすっぱりと切り離されてしまうのだ。母を失うことは、とその歌手は歌う、この世界の碇を失ってしまうことだ。あなたを生み出し、あなたを守ってくれたすべてのものはもう消えてしまった。あなたは今、波間をさまよっている。そしてあなたがもし自分の場所をどこかに見つけたとしても、あなたは自分の祖先につながる最も重要なリンクを永遠に失ってしまっている。聖なるものは、もう戻ってこない。
それから長い間、母ともう話ができないのだと思うと辛かった。いつの日にか母に素晴らしい知らせを持っていってあげようという希望が、潰えてしまったことを残念に思った。母はずっと長い歳月、数々の悪い知らせに耐えて生きてきたのだ。なんとかその埋め合わせをしてあげたいものだと僕は思っていた。
P. 549
突然恐怖が僕をとらえた。そんな時ベッドに横になり、何時間もそこに身を丸めて、暗闇が通り過ぎてしまい、なんとか正常に呼吸できるようになるのを待った。子供の頃、体の具合が急に悪くなったときにやっていたのと、まったく同じことをやるようになった。両手を固く握りしめ、手にひらに意識を集中させるのだ。思い切り手を握りしめていれば、手のひらの真ん中に、救済なり回答なりが見つけられそうな気がした。[中略]抑鬱症の経験を言葉で他人に伝えるのはむずかしい、理解することもむずかしい。しかし一度でも経験したら、忘れることはできない。あなたは周りの世界を少しばかりより同情的な目で見るようになるだろう。またあなたは自分の生活の片隅をよりしげしげと眺めるようになるだろう。そうすれば、あの暗黒がもう一度こっそりと忍び寄ろうとしたときに、すばやく感知することができるからだ。
P. 566
一家の荒廃はゲイリーの死によって終わりを告げたわけではなかった。何故ならそれはゲイリーによって始められたものではなかったからだ。
その夜に僕はこう悟った。僕はもともと継続する見込みのない家庭に生まれ落ちたのだ。そこには四人の息子たちがいたけれど、誰一人として自分の家庭をもたなかった。誰一人として伝承や血縁を広めようとしなかった。それが心優しいものであれ残酷なものであれ、破壊されたものであれ良心的なものであれ、自分たちの望むものを、子供たちを通して拡張したり満たしたりしようとはしなかった。僕らは自らがかつてやられたように、殴りつけたり損なったりするための子供たちを持つことさえしなかった。そして僕は、確かに長い間みんなに、自分は家庭を持ちたいと言いまわってはいたけれど(ひとつにそれはそれによって、僕が自分の家庭で目にしてきた破壊の埋め合わせをすることができたらと思っていたためだった)結局のところ、どうでぃても家庭を持つことはできなかった。考えてみれば、その夢をかなえるために必要とされる選択の場面において、僕は常に間違った選択肢を選んでいた。となると、自分はそもそも家庭を持つことを最初から望んでいなかったんじゃないかと、疑わざるをえなくなってしまう。まるで僕はこう考えていたみたいだ。我が家に起こったことはあまりにも恐ろしいことであり、それらは僕らの代で終わるべきであり、止められなくてはいけないことであり、子供を持てばまた同じことが起きてしまうのではあるまいか、と。その荒廃の息の根を止めるただひとつの方法は、自分を抹消してしまうことである。
P. 564
「フランク」と僕は声をかけた。彼は頭を上げた。でも誰だかわからないようだった。
「フランク、僕だよ。マイケルだ」。彼はそこに立ってじっと僕を見ていた。よくわからないという顔つきだった。まるで僕の言ったことが信じられないみたいだった。もし彼がそのまま僕を階段の下まで突き飛ばしたとしても、きっと抵抗しなかっただろうと思う。それはそれでかまわないと思っていた。
でも彼は両腕を伸ばして僕を抱きしめた。その瞬間、まわりのうらぶれた光景は頭から消えてしまった。その瞬間、僕は家庭というものに抱擁されていた。
P. 569
そのとき俺は思ったんだ。おまえの邪魔だけはするまいってな。お前の前にのこのこ現れて、この姿をさらしてお前に恥ずかしい思いをさせたくはなかった。おまえはうまく過去を捨てられたんだ。そして俺は、その過去をもう一度蒸し返すような真似はしたくなかった。[中略]僕はそこに黙って坐って、じっと兄の姿を見ていた。そしてこう思った。これがこの広い世界で、僕に残された家族のすべてなのかもしれない。でもそれで不足はないじゃないか。僕はそれまで、この兄の心の深さや、その孤独の広漠さを、本当に理解したことはただの一度もなかった。[中略]僕には、血のつながりの中から生まれる信頼について、値打ちのある何かを学びとるための準備ができていた。
P. 587
そこで僕は目を覚ます。臓腑は苦痛に疼いている。自分が本当に泣いていることに気づく。僕は暗闇の中に横になって、すすり泣いている。実際に子供が死んでいないことはわかるのだが、それでも泣き止むことができない。それは実際に起こった喪失みたいに感じられるし、そんなものを抱えこんで生きていくことなんて、できないように思える。[中略]
ウィスキーを飲み終え、布団の中に潜り込み、頭から枕をかぶって恐ろしい朝の光を避けようとする。僕はその光を憎んでいる。身を丸め、自分に向かって言う。「何もよくなんかならない。絶対に。絶対に何もよくなんかならない」。何度も何度も自分に向かってそう言い聞かせる。そのうちに僕はその言葉の中に安らぎを見出して、やっとまた眠りに落ちることができる。
本当は回答やきっかけ、それこそこの本でも出てくる言葉である「救済」が欲しかったのである。しかしそんな答えはあろうはずもない。
このような運命を生きることが、救済への道しるべに他の人よりも早くたどり着くわけではないのだということを、改めて思い知らされる。
このような世代を超える運命には、巻き込まれる以外に選択の余地がない、抗し難い力が働いており、それを生き抜くことで得るものは、救済への予感でもなく、知恵でもなく、希望でもなく、ただただ生きる力を失うような哀しみでしかないのだと、それだけははっきりと理解することができた。
それ以上にこの本には、家族を巡る多くのファセットが隠されており、私にとっては多くの側面から自分なりの術を学ぶためのきっかけとなる深い「事実」を見て取ることができた。
それらは、おそらく読者の心の中では、ヒントにしかなりえないものである。しかし家族の深淵を垣間見た、まさに見たくないその哀しみを見つけてしまった私にとっては、この本を読むことで、たとえこの本の根底には哀しみしか流れていないとしても、大きな勇気を得る結果となった。
すべては愛という言葉の裏に隠れるどろどろとしたものの織り成す運命であると感じる。愛がなければ人は一日たりとも存在できない、という心理学者フロムの言葉をまた思い出す。健康な愛は健康な愛を受けたことがなければ与えることはできない。愛ほど厄介なことはない。私自身、まさに自分の愛する能力に疑問を感じ、デーモン的なものに愛さえのっとられていると感じることもある。けれど、家族の歴史をさておき、こころを中和して和解さえすれば、すべてを癒す安らぎと赦しを与えることができるのも、また家族の愛だけなのであると知ることになる。
それも、この物語は十分に証明していた。
孤独な子供は、損傷が残る前に救われなくてはならない。おそらくもう遅いかもしれない。が、まずそれを肝に銘じている。
まだ感想などは書けない。が、どうしても心に残った文章を、ここに書き止めておきたかった。
P. 45
「おい坊主、死んだ人を踏みつけにしてはならん」と老人は指を突き出すようにして僕に言った。「断じてならん。いいか、お前は死者の残したものの上に生きているんだ。」
P. 125
最初の子供を土に埋めたほとんど直後に、新しく生まれた息子の顔を見て、フェイはそこに安らぎを見出せただろうか?最初の子供の時に対するときのように手放しの愛を注ぐことに、恐怖を感じることはなかっただろうか?[中略]「自分は愛されており、安心していいのだ」という感覚をフランクに与えられなかったのではあるまいか?
P. 183
そいつは、僕の人生にとって最悪のときに、僕をとらえてこういった。「あなたのことは知っているわ。あなたが最後の一人。あとのみんなはさっぱりと片付けた。次はあなたの番なのよ。」違う、と僕は自分に言い聞かせた。この幽霊は本物の幽霊ではない。いかにもそう見えるけれど、実は本当の幽霊じゃない。これは僕自身の内部の、暗くて深い場所から這い出てきたものなのだ。そのときだって、やはり僕はこう思っていた。幽霊なんかよりももっと恐ろしいものが、僕の襟首をつかまえることだってあるんだ、と。
P. 201
「それは俺の人生にはっきりとした感覚を残してくれた」と彼は言った。「自分を克服したような感覚だった。」もちろん、意識的にか無意識的にかは知らないが、兄は事実の半分しか語っていない。自分自身を克服するというとき、ゲイリーは恐怖を乗り越える能力について語っていたのかもしれない。でも彼がほんとうにそのような境地に達したことがあるとは、僕には思えないのだ。[中略]実を言えばゲイリーは自己の克服について語っていたのではなく、恐怖や痛みに泣き叫ぼうとする自らの一部を殺すか黙らせるかする術を学んだことについて語っていたのだ。それが真実だ。そのようなかたちでゲイリーが自らを克服したとき、彼は自分の生命を破壊させる力を、またその破壊を行使できるそうな他人を抹殺する力を、見出したのである。
P. 207
彼は反抗児になろうと志すくらいに――自分がどれくらいいろんなものを台なしにされたかを指し示すために、いろんなものを台なしにしてやろうと思い立つくらいに――利発で勇気のある子供だった。しかし世の中はそんな彼の反抗を受け入れもしなければ、容認もしなかった。[中略]僕はそこに損傷を受けた少年の顔を見る。もっと正確に言えば、僕はそこに堕ちた天使の顔を見るのだ。その顔は、ほかのみんなが見ている安定から目を背け、一度かぶったらはがすことのできない悪魔の仮面をつけようとしていた。
P. 262
フランク・ギルモアはベッシー・ギルモアを狂人と呼ぶことによって、彼女を本物の狂気の状態に追い立てることができたのだ。彼女の目は憤怒のためにぎゅっとつり上がり、顔つきは不思議な仮面のようになった。その仮面は堅く凍りつき、同時にめらめらと激しく燃え上がっていた。精神がこれ以上持ちこたえられないほどの激しい衝動を、母は抱え込んでいるみたいだった。[中略]母は怒りに煮えたぎった目で、父をしっかりと睨みつけていた。最愛の相手によって深く傷つけられた人間だけが浮かべることのできる、捨て鉢な決意のようなものがそこに浮かんでいた。
P. 298
ゲイレンは決して癒されることのない恐ろしい傷とともに生きていたけれど、それが彼を殺したわけではなかった。彼を殺したのは、彼が自分に向かってなし続け、なすことをやめられなかった何かだった。
P. 299
ゲイレンは僕を家の中に閉じ込めた。食堂の中から僕は、斧を使って彼がおもちゃをひとつひとつ叩きつぶしていくのを眺めていた。ゲイレンは潰れたプラスチックの塊をごみ缶に投げ込み、泣きながら家の中に戻ってきた、「いつか父さんはおまえのことだって嫌いになるんだ」と彼は苦痛に満ちた涙声で言った。「おまえにも今に分かる」
P. 338
それから頭にまず浮かんだのは、ああ、僕はこれからもっと孤独になるんだな、ということだった。でもまあそれはかまわない。僕はすでに、まわりの世界の多くのものに深く関わらずに生きていく術のようなものを身につけていた。
何年にもわたって僕は父と一緒に暮らしていたわけだが、ときおり父が一人で机の前に坐り、首をうなだれ、拳で机を叩きながら、何度も何度も「ああ、もう死んでしまいたい」と言っているのを目にしてきた。本当のところ、彼は死というものを恐れていたと思う。でも生きることは彼にとっては、絶え間のない審判のようなものであったのではないか。そして審判は、今まさに終わろうとしているのだ。
P. 359
母が父についてこんな話し方をするのを、僕はそれまで聞いたことがなかった。母の声の中に、そんな優しい響きを感じたこともなかった。それらの言葉の裏で、彼女の心が千々に乱れているのが僕にはわかった。
キッチンで母と父の姿を見かけた夜、テーブルの前に坐って、母の手を取っていた父の顔に浮かんでいた表情を僕は覚えている。父の知らせを受け取ったときに、母がかくも深き喪失と孤独の地点から叫びをあげていたことを僕は覚えている。そう、彼らは互いに愛し合っていたのだ。[中略]一段と高いところから見れば、愛というものは――それがいかに深く切羽つまったものであれ――他人と悪い関係を持ち続けるための十分な理由にはならないと思う。とりわけその「悪さ」が結果的に他人を巻き込んで、傷つけ歪めていくような場合には。
P. 360
この結婚の継続が生み出したよりももっと悲惨な結果を、果たして離婚が生み出せたであろうかと。[中略]
人々はこう言う、何があろうと家族のためにひとつにくっついていろ。家族の尊厳と結束のためには、歯を食いしばれ。そんな御託が昔から今にいたるまで繰り返し説かれてきた――世の中に、家族の保全が失われるほど不幸なことはない。家族は保全されなくてはならず、その機能は秘匿されなくてはならない。
ああ、僕は家族というものを憎む。僕はショッピング・モールで彼らが清潔な服を着て、一緒に歩いているところを見る。あるいは、友人たちが家族の集まりについて、家族のトラブルについて語るのを耳にする。彼らの家族を訪問することもある。そんなとき、僕は彼らを憎みたくなる。僕が彼らを憎むのは、彼らがおそらく揃って幸せな思いというものを味わっているからであり、僕が人生においてそういった家族を一度たりとも手にしなかったからである。僕が彼らを嫌悪するのは、家庭こそ善なりとする考え方が、子供たちがいい大人になってしまったあとでもまだ、過程の中で彼らを恥じ入らせたり、従属させるために、しっかりと運用されているからである。
P. 475
その日一日、僕らは母のうらぶれた家の、閉所恐怖症をもよおすような部屋に坐り、荒ぶれた我らが歴史をあいだに挟むようにして顔を向かいあわせていた。そこで僕はようやく理解することができた――母は常に、僕なんかよりもはるかに恐怖に近い場所で生きてきたのだと。
P. 483
誰かに死刑を宣告することはできる、でも生きることを宣告することはできないのだ――そう思った。
P. 538~539
あなたは自分の人生を生み出した源からすっぱりと切り離されてしまうのだ。母を失うことは、とその歌手は歌う、この世界の碇を失ってしまうことだ。あなたを生み出し、あなたを守ってくれたすべてのものはもう消えてしまった。あなたは今、波間をさまよっている。そしてあなたがもし自分の場所をどこかに見つけたとしても、あなたは自分の祖先につながる最も重要なリンクを永遠に失ってしまっている。聖なるものは、もう戻ってこない。
それから長い間、母ともう話ができないのだと思うと辛かった。いつの日にか母に素晴らしい知らせを持っていってあげようという希望が、潰えてしまったことを残念に思った。母はずっと長い歳月、数々の悪い知らせに耐えて生きてきたのだ。なんとかその埋め合わせをしてあげたいものだと僕は思っていた。
P. 549
突然恐怖が僕をとらえた。そんな時ベッドに横になり、何時間もそこに身を丸めて、暗闇が通り過ぎてしまい、なんとか正常に呼吸できるようになるのを待った。子供の頃、体の具合が急に悪くなったときにやっていたのと、まったく同じことをやるようになった。両手を固く握りしめ、手にひらに意識を集中させるのだ。思い切り手を握りしめていれば、手のひらの真ん中に、救済なり回答なりが見つけられそうな気がした。[中略]抑鬱症の経験を言葉で他人に伝えるのはむずかしい、理解することもむずかしい。しかし一度でも経験したら、忘れることはできない。あなたは周りの世界を少しばかりより同情的な目で見るようになるだろう。またあなたは自分の生活の片隅をよりしげしげと眺めるようになるだろう。そうすれば、あの暗黒がもう一度こっそりと忍び寄ろうとしたときに、すばやく感知することができるからだ。
P. 566
一家の荒廃はゲイリーの死によって終わりを告げたわけではなかった。何故ならそれはゲイリーによって始められたものではなかったからだ。
その夜に僕はこう悟った。僕はもともと継続する見込みのない家庭に生まれ落ちたのだ。そこには四人の息子たちがいたけれど、誰一人として自分の家庭をもたなかった。誰一人として伝承や血縁を広めようとしなかった。それが心優しいものであれ残酷なものであれ、破壊されたものであれ良心的なものであれ、自分たちの望むものを、子供たちを通して拡張したり満たしたりしようとはしなかった。僕らは自らがかつてやられたように、殴りつけたり損なったりするための子供たちを持つことさえしなかった。そして僕は、確かに長い間みんなに、自分は家庭を持ちたいと言いまわってはいたけれど(ひとつにそれはそれによって、僕が自分の家庭で目にしてきた破壊の埋め合わせをすることができたらと思っていたためだった)結局のところ、どうでぃても家庭を持つことはできなかった。考えてみれば、その夢をかなえるために必要とされる選択の場面において、僕は常に間違った選択肢を選んでいた。となると、自分はそもそも家庭を持つことを最初から望んでいなかったんじゃないかと、疑わざるをえなくなってしまう。まるで僕はこう考えていたみたいだ。我が家に起こったことはあまりにも恐ろしいことであり、それらは僕らの代で終わるべきであり、止められなくてはいけないことであり、子供を持てばまた同じことが起きてしまうのではあるまいか、と。その荒廃の息の根を止めるただひとつの方法は、自分を抹消してしまうことである。
P. 564
「フランク」と僕は声をかけた。彼は頭を上げた。でも誰だかわからないようだった。
「フランク、僕だよ。マイケルだ」。彼はそこに立ってじっと僕を見ていた。よくわからないという顔つきだった。まるで僕の言ったことが信じられないみたいだった。もし彼がそのまま僕を階段の下まで突き飛ばしたとしても、きっと抵抗しなかっただろうと思う。それはそれでかまわないと思っていた。
でも彼は両腕を伸ばして僕を抱きしめた。その瞬間、まわりのうらぶれた光景は頭から消えてしまった。その瞬間、僕は家庭というものに抱擁されていた。
P. 569
そのとき俺は思ったんだ。おまえの邪魔だけはするまいってな。お前の前にのこのこ現れて、この姿をさらしてお前に恥ずかしい思いをさせたくはなかった。おまえはうまく過去を捨てられたんだ。そして俺は、その過去をもう一度蒸し返すような真似はしたくなかった。[中略]僕はそこに黙って坐って、じっと兄の姿を見ていた。そしてこう思った。これがこの広い世界で、僕に残された家族のすべてなのかもしれない。でもそれで不足はないじゃないか。僕はそれまで、この兄の心の深さや、その孤独の広漠さを、本当に理解したことはただの一度もなかった。[中略]僕には、血のつながりの中から生まれる信頼について、値打ちのある何かを学びとるための準備ができていた。
P. 587
そこで僕は目を覚ます。臓腑は苦痛に疼いている。自分が本当に泣いていることに気づく。僕は暗闇の中に横になって、すすり泣いている。実際に子供が死んでいないことはわかるのだが、それでも泣き止むことができない。それは実際に起こった喪失みたいに感じられるし、そんなものを抱えこんで生きていくことなんて、できないように思える。[中略]
ウィスキーを飲み終え、布団の中に潜り込み、頭から枕をかぶって恐ろしい朝の光を避けようとする。僕はその光を憎んでいる。身を丸め、自分に向かって言う。「何もよくなんかならない。絶対に。絶対に何もよくなんかならない」。何度も何度も自分に向かってそう言い聞かせる。そのうちに僕はその言葉の中に安らぎを見出して、やっとまた眠りに落ちることができる。
2012年5月11日金曜日
あそこへ、本当にいたのだが…
夢だった。
夢らしくない夢だった。
生々しくて、それが現実と区別がつかず、重苦しい空気で目を覚ましたが、目元に手をあてても涙は出ていなかった。
私はどこにいたのだろう。その少し前まで、どこにいたのかわからない。
けれど、常にガラスを通してその向こうの世界で起こっていることを眺めているといった感覚である。
または、あの昔のガラスのまるっこい金魚ばちの中から、水とガラスを通してゆがんだ世界を見ているような感覚でもある。
いや、私は紛れもなく、私の育った家の前にいた。
どういうわけか、私は大谷石の石塀を超えて勝手口の前にしゃがんでいた。
子供の頃、いつも隠れて遊んでいた場所である。
勝手口の扉と石塀の間には水撒き用の蛇口があり、ままごとをするなどにも便利であった。
また階段を下りると車庫へつながっており、自転車で帰宅したり、一家で帰宅しても玄関口まで必ず通る一角であった。
その周辺の大谷石にも車庫側の壁にも、20年以上が経ったころ、コケが生えてきた。水撒きや気候のせいであろう。
私はそこにしゃがんでいた。そして寄りかかっていた車庫の階段の壁にあてた手に緑色のコケが触れたのである。反対側には、大谷石の前に植え込んである杉の木に触れることができる。
あまりの現実感に、私は壁をたたいた。いつもの冷たいコンクリートの感触で、コツコツとした硬い手応えがあった。
うそでしょう?
左の手で杉の木に触れると、ざらざらとした感触が手の中に残った。
全てが現実なのだった。
信じられずにしゃがみこんでいると、母が帰宅する気配がする。石塀の向こうを、母が外出先から鼻歌交じりに歩いているのだ。
しばらくすると、トントンと玄関口への階段を上がる音がする。間もなく門が開く。私は勝手口の前から塀伝いに玄関口の前にしゃがんでいた。
母が目の前を通る。
目の前の母の足が私には見えるのである。
私はしゃがんでいるから、彼女の全体像は見えない。けれど、彼女の良く知った足が見慣れた靴を履いて目の前を歩いていた。
なぜ私は彼女の目に入らないのだろうか?
私はここにいるのよ!
その時鍵を探し出していた母が、明るい声で独り言を言う。
「あ~ら、誰が帰ってきたのかしら?誰がそこにいるの?」
そう言うと、家族を待たせたのではないかと、彼女は急ぎ足で扉を開けて家の中に入ってしまった。
ドアが目の前でばたりと閉まる。
私はしゃがんだまま、また無人となった玄関口の前の空間を見つめていた。
母には、私のことは見えなかった。
けれど、誰か家族の気配は感じ取っていたのだ。
私は、 9000キロ離れた場所にいる。今も夢を見る前と変わらずにここにいる。
けれど、私は確かに「あそこ」にいたのである。
現に、壁や木に触っていたはずである。夢の中で疑い、何度も壁をたたいたはずである。
けれど、私の身体は、やはりここにあったのだ。その証拠に、私のことを誰も見ることはできなかった。
私だけが、身体を失くした目で、あそこを見てきただけなのである。
その孤独感は、口では言い表せない。
その疎外感は、寂しいなどという言葉も当てはまらなく、どう表現していいのかわからない。
私は彼らの実態のある生活には存在しておらず、彼らの心の中にしか存在していないのである。
そして、私にとっても彼らは心の中でしか交流できず、それで十分だけれど、私がそこにいたのに、見えないので通り過ぎられてしまうことは、何かを比喩しているようで、悲しいのだった。
そこにしゃがみこんだまま、私は泣き出した。
悲しみというのもあったけれど、そこに本当にいたのだという現実感に感動していたというのもある。私は本当に帰国していたのだ。その深い驚きと、心だけならば動けるのだという確信に、震えるようにして泣いた。
けれども、その後目を覚ました私は泣いていなかった。所詮夢だったのだ。
夢の中で見た母は、今よりもずっと若かった。
ストッキングを履いて、形の良いふくらはぎを懐かしく思った。ベージュのスカートの上には黒いニットを着ており、茶色い革の大きなショッピングバッグを持っていた。
きっと私と同じぐらいの年齢だったのだ。
きっと私は10歳ぐらいだったのだ。
玄関の戸口で、縄跳びやボール遊びをして、時々大谷石の塀から身を乗り出して母が駅の方から歩いてくるのを待っていた。そうでなければ、母の車のエンジンが聞こえるのを耳を澄まして待っていた。
その玄関口では、チョークでよく落書きもした。母のハイヒールを履いて、トコトコと歩き回ったりもした。
これでも内気だった私は、友達と約束していなければ、外の通りで遊ぶことができず、家の敷地内の色々な場所でままごとをしていた。
家の前は遊び場道路といって、5時までは居住者以外車が通れなかったのにである。
ドイツのDCTPというテレビ制作会社の番組で多和田葉子のインタビューを聞いた時、彼女が自分の魂をシベリアのどこかで失ったきり、見つかっていない。というようなことを述べていたのをはっきりと覚えている。
身体的にはここにいるけれど、私の魂は、気体のように浮遊しているはず、というのである。
その言葉を聞いたとき、私自身の中に長年抱いていた気持ちとぴったりと一致し、やはりそうか、という思いを持ったのを覚えている。
身体と「魂」は独自の動きをとることがある。
それで、私が身体を失った目で、どこかに飛んでいかれるというのは現実であるとしか言いようがない。私は今まで少なくとも3回は、このような現実感を体験しているのである。
しかしどうしてもできないことは、「今」という時間の中で「そこ」へ行くことである。
それだけは、どうしてもできないけれど、彼らやあの場所に「出会う」ことは、身体がなくてもできる。それは望んで望んでかなうことではないけれど、ある日突然私はそこへ行き、彼らに出会い、その場所に触れ、大きく心を動かされて、またここに戻ってくるのであった。
不思議であるが、そのたびに心は満たされる。
夢らしくない夢だった。
生々しくて、それが現実と区別がつかず、重苦しい空気で目を覚ましたが、目元に手をあてても涙は出ていなかった。
私はどこにいたのだろう。その少し前まで、どこにいたのかわからない。
けれど、常にガラスを通してその向こうの世界で起こっていることを眺めているといった感覚である。
または、あの昔のガラスのまるっこい金魚ばちの中から、水とガラスを通してゆがんだ世界を見ているような感覚でもある。
いや、私は紛れもなく、私の育った家の前にいた。
どういうわけか、私は大谷石の石塀を超えて勝手口の前にしゃがんでいた。
子供の頃、いつも隠れて遊んでいた場所である。
勝手口の扉と石塀の間には水撒き用の蛇口があり、ままごとをするなどにも便利であった。
また階段を下りると車庫へつながっており、自転車で帰宅したり、一家で帰宅しても玄関口まで必ず通る一角であった。
その周辺の大谷石にも車庫側の壁にも、20年以上が経ったころ、コケが生えてきた。水撒きや気候のせいであろう。
私はそこにしゃがんでいた。そして寄りかかっていた車庫の階段の壁にあてた手に緑色のコケが触れたのである。反対側には、大谷石の前に植え込んである杉の木に触れることができる。
あまりの現実感に、私は壁をたたいた。いつもの冷たいコンクリートの感触で、コツコツとした硬い手応えがあった。
うそでしょう?
左の手で杉の木に触れると、ざらざらとした感触が手の中に残った。
全てが現実なのだった。
信じられずにしゃがみこんでいると、母が帰宅する気配がする。石塀の向こうを、母が外出先から鼻歌交じりに歩いているのだ。
しばらくすると、トントンと玄関口への階段を上がる音がする。間もなく門が開く。私は勝手口の前から塀伝いに玄関口の前にしゃがんでいた。
母が目の前を通る。
目の前の母の足が私には見えるのである。
私はしゃがんでいるから、彼女の全体像は見えない。けれど、彼女の良く知った足が見慣れた靴を履いて目の前を歩いていた。
なぜ私は彼女の目に入らないのだろうか?
私はここにいるのよ!
その時鍵を探し出していた母が、明るい声で独り言を言う。
「あ~ら、誰が帰ってきたのかしら?誰がそこにいるの?」
そう言うと、家族を待たせたのではないかと、彼女は急ぎ足で扉を開けて家の中に入ってしまった。
ドアが目の前でばたりと閉まる。
私はしゃがんだまま、また無人となった玄関口の前の空間を見つめていた。
母には、私のことは見えなかった。
けれど、誰か家族の気配は感じ取っていたのだ。
私は、 9000キロ離れた場所にいる。今も夢を見る前と変わらずにここにいる。
けれど、私は確かに「あそこ」にいたのである。
現に、壁や木に触っていたはずである。夢の中で疑い、何度も壁をたたいたはずである。
けれど、私の身体は、やはりここにあったのだ。その証拠に、私のことを誰も見ることはできなかった。
私だけが、身体を失くした目で、あそこを見てきただけなのである。
その孤独感は、口では言い表せない。
その疎外感は、寂しいなどという言葉も当てはまらなく、どう表現していいのかわからない。
私は彼らの実態のある生活には存在しておらず、彼らの心の中にしか存在していないのである。
そして、私にとっても彼らは心の中でしか交流できず、それで十分だけれど、私がそこにいたのに、見えないので通り過ぎられてしまうことは、何かを比喩しているようで、悲しいのだった。
そこにしゃがみこんだまま、私は泣き出した。
悲しみというのもあったけれど、そこに本当にいたのだという現実感に感動していたというのもある。私は本当に帰国していたのだ。その深い驚きと、心だけならば動けるのだという確信に、震えるようにして泣いた。
けれども、その後目を覚ました私は泣いていなかった。所詮夢だったのだ。
夢の中で見た母は、今よりもずっと若かった。
ストッキングを履いて、形の良いふくらはぎを懐かしく思った。ベージュのスカートの上には黒いニットを着ており、茶色い革の大きなショッピングバッグを持っていた。
きっと私と同じぐらいの年齢だったのだ。
きっと私は10歳ぐらいだったのだ。
玄関の戸口で、縄跳びやボール遊びをして、時々大谷石の塀から身を乗り出して母が駅の方から歩いてくるのを待っていた。そうでなければ、母の車のエンジンが聞こえるのを耳を澄まして待っていた。
その玄関口では、チョークでよく落書きもした。母のハイヒールを履いて、トコトコと歩き回ったりもした。
これでも内気だった私は、友達と約束していなければ、外の通りで遊ぶことができず、家の敷地内の色々な場所でままごとをしていた。
家の前は遊び場道路といって、5時までは居住者以外車が通れなかったのにである。
ドイツのDCTPというテレビ制作会社の番組で多和田葉子のインタビューを聞いた時、彼女が自分の魂をシベリアのどこかで失ったきり、見つかっていない。というようなことを述べていたのをはっきりと覚えている。
身体的にはここにいるけれど、私の魂は、気体のように浮遊しているはず、というのである。
その言葉を聞いたとき、私自身の中に長年抱いていた気持ちとぴったりと一致し、やはりそうか、という思いを持ったのを覚えている。
身体と「魂」は独自の動きをとることがある。
それで、私が身体を失った目で、どこかに飛んでいかれるというのは現実であるとしか言いようがない。私は今まで少なくとも3回は、このような現実感を体験しているのである。
しかしどうしてもできないことは、「今」という時間の中で「そこ」へ行くことである。
それだけは、どうしてもできないけれど、彼らやあの場所に「出会う」ことは、身体がなくてもできる。それは望んで望んでかなうことではないけれど、ある日突然私はそこへ行き、彼らに出会い、その場所に触れ、大きく心を動かされて、またここに戻ってくるのであった。
不思議であるが、そのたびに心は満たされる。
2012年5月6日日曜日
その日はまだ見えない
呟きサイトを利用するようになったのは、2009年初頭であった。
交流するのがアホらしくなって、アカウントを何度か変えて、一人で密かに思いを吐き出していた。
同じような人ばかり集めて、その人々の思いを読んでいたが、最近は鼻について仕方が無い。
もっと差し迫った事情が私には幾つもあるのだと見えて来て以来、彼らの苦しそうな言葉の裏で、本当にのたうち回っている姿をあからさまに語る人は殆どいないということに気がついた。
紡ぎ出される言葉がいくら自分を責めるものであっても、そのどこかに自分の存在を強く肯定する部分が見えるような瞬間、私はその人の健康さに目眩を覚えるのである。
それ以来、あまり書かなくなった。
私は本気で垂れ流していたけれど、本気を曝け出すことほど頭の悪いことは無い。
皆はちゃんと自分の心臓は手に包んで守っているのに、私はそのまま転がしてしまっているような馬鹿さである。
私が吐いていることは、他人には重要でもなければ、役に立つわけでもない。けれど、その内容は余りにも私的なもので、それを公に投げ飛ばすのは、倫理的に苦しくなったということもある。
私は問題を抱えつつ、自分の生き方を良いとは思わなくとも、必死であるからこそ、私の家族を交えた私の生活を話題にすることに罪の意識を覚えたのだ。
_____________
一度訪れた初夏はどこへやらといった天候である。
どんよりとした雲に包まれつつ、昨日は大掃除をして気分が少し回復した。
掃除婦を頼んだのだが、未だに断り続けている。もしや週末の掃除が、日常を愛するための行為かもしれないと思ってみる。掃除婦がいつも私の整理されていない家に侵入し、片付けてくれるとしたら、私の気分は良くなるのだろうか。
タワシを使って風呂場を磨き、モップで床を拭う運動が、私を日常に貼付けているという気もする。
つまり、家の掃除ぐらいまともにできなくなったら、精神的におしまいという指針かもしれない。
死が訪れる日が大体いつ頃なのか、そんなことは誰も知りたくないだろう。
しかし5年とか10年とか、現実的に限られた時間が見えるとしたら、どう生きるのだろうか。実際は、明日死ぬことがあってもおかしくない。それほど死に至る危険というのは世の中に潜んでいる。
もちろん人は昔のように死人を間近に見ることもなくなり、死を意識して生きることは少ない。けれど生きる以上、死は常に背後にいるのだろう。
あと五年生きられれば、あと十年生きられればという望みがかなったとしても、本当にその日を平然と迎えること等できるのだろうか。
作家の吉村昭は、娘に逝くよと言い残して、自分で管を抜いてしまった。
弟の死に苦しみ、自らも重い病を乗り越えて生きて来た彼は、死を常に意識してきた過去から、死が普通の人よりもずっと近いものとして潜在的に心の中にあったのかもしれない。
けれど、普通はやはり死は別れ以外のなにものでもなく、一人だけでこの世に残る人々や、この世の愛おしく小さな自然に別れを告げるのは難しいのだろうと思う。
美しい夕日も見れず、はかなく舞ってその姿を消してしまう桜も見れなくなる。小鳥のさえずりも聞こえなくなり、もちろん家族にも別れを告げねばならず、自分はどこに行くのか分からないまま、その日を意識し出したときから、目にする全てのもの、耳にする全ての音、家族との全ての時間を愛おしく失いがたいものとして心に刻んで行くのだろうか。
最近家族の病気が続いている。
ぽつんと一人遠くにいながら、この災難が私を襲う日も遠くはないのかもしれないと思う。しかしそんなことは普段考えて生きて行かれない。神経質に検査にばかり通うことも実際はできない。
けれど、確実に自分にも死は訪れ、それは年単位で数えられる近い将来なのではないかと、必ずそう想像したに違いない家族が、また一人増えた。
命の限りがいつであるか、そればかりはどんなことをしても制御できない。
けれど、その家族の者が今まで歩み、築いて来た道を振り返ると、病気の状況や今後の見通しなどといった諸々の状況など全て忘れ去り、ただひたすら、死なせてはいけない、死なせるわけにはいかないと、その言葉が脳裏にこだまするのである。
何もできることもなく、何も手を貸すこともできない。私にあるのは、ただの思いと願いだけである。
最後のひと呼吸まで、どんなことがあっても命の「ために」闘わなくてはいけない。それは家族も本人も同じである。
交流するのがアホらしくなって、アカウントを何度か変えて、一人で密かに思いを吐き出していた。
同じような人ばかり集めて、その人々の思いを読んでいたが、最近は鼻について仕方が無い。
もっと差し迫った事情が私には幾つもあるのだと見えて来て以来、彼らの苦しそうな言葉の裏で、本当にのたうち回っている姿をあからさまに語る人は殆どいないということに気がついた。
紡ぎ出される言葉がいくら自分を責めるものであっても、そのどこかに自分の存在を強く肯定する部分が見えるような瞬間、私はその人の健康さに目眩を覚えるのである。
それ以来、あまり書かなくなった。
私は本気で垂れ流していたけれど、本気を曝け出すことほど頭の悪いことは無い。
皆はちゃんと自分の心臓は手に包んで守っているのに、私はそのまま転がしてしまっているような馬鹿さである。
私が吐いていることは、他人には重要でもなければ、役に立つわけでもない。けれど、その内容は余りにも私的なもので、それを公に投げ飛ばすのは、倫理的に苦しくなったということもある。
私は問題を抱えつつ、自分の生き方を良いとは思わなくとも、必死であるからこそ、私の家族を交えた私の生活を話題にすることに罪の意識を覚えたのだ。
_____________
一度訪れた初夏はどこへやらといった天候である。
どんよりとした雲に包まれつつ、昨日は大掃除をして気分が少し回復した。
掃除婦を頼んだのだが、未だに断り続けている。もしや週末の掃除が、日常を愛するための行為かもしれないと思ってみる。掃除婦がいつも私の整理されていない家に侵入し、片付けてくれるとしたら、私の気分は良くなるのだろうか。
タワシを使って風呂場を磨き、モップで床を拭う運動が、私を日常に貼付けているという気もする。
つまり、家の掃除ぐらいまともにできなくなったら、精神的におしまいという指針かもしれない。
死が訪れる日が大体いつ頃なのか、そんなことは誰も知りたくないだろう。
しかし5年とか10年とか、現実的に限られた時間が見えるとしたら、どう生きるのだろうか。実際は、明日死ぬことがあってもおかしくない。それほど死に至る危険というのは世の中に潜んでいる。
もちろん人は昔のように死人を間近に見ることもなくなり、死を意識して生きることは少ない。けれど生きる以上、死は常に背後にいるのだろう。
あと五年生きられれば、あと十年生きられればという望みがかなったとしても、本当にその日を平然と迎えること等できるのだろうか。
作家の吉村昭は、娘に逝くよと言い残して、自分で管を抜いてしまった。
弟の死に苦しみ、自らも重い病を乗り越えて生きて来た彼は、死を常に意識してきた過去から、死が普通の人よりもずっと近いものとして潜在的に心の中にあったのかもしれない。
けれど、普通はやはり死は別れ以外のなにものでもなく、一人だけでこの世に残る人々や、この世の愛おしく小さな自然に別れを告げるのは難しいのだろうと思う。
美しい夕日も見れず、はかなく舞ってその姿を消してしまう桜も見れなくなる。小鳥のさえずりも聞こえなくなり、もちろん家族にも別れを告げねばならず、自分はどこに行くのか分からないまま、その日を意識し出したときから、目にする全てのもの、耳にする全ての音、家族との全ての時間を愛おしく失いがたいものとして心に刻んで行くのだろうか。
最近家族の病気が続いている。
ぽつんと一人遠くにいながら、この災難が私を襲う日も遠くはないのかもしれないと思う。しかしそんなことは普段考えて生きて行かれない。神経質に検査にばかり通うことも実際はできない。
けれど、確実に自分にも死は訪れ、それは年単位で数えられる近い将来なのではないかと、必ずそう想像したに違いない家族が、また一人増えた。
命の限りがいつであるか、そればかりはどんなことをしても制御できない。
けれど、その家族の者が今まで歩み、築いて来た道を振り返ると、病気の状況や今後の見通しなどといった諸々の状況など全て忘れ去り、ただひたすら、死なせてはいけない、死なせるわけにはいかないと、その言葉が脳裏にこだまするのである。
何もできることもなく、何も手を貸すこともできない。私にあるのは、ただの思いと願いだけである。
最後のひと呼吸まで、どんなことがあっても命の「ために」闘わなくてはいけない。それは家族も本人も同じである。
2012年5月4日金曜日
揺れるカーテンの向こう
今週、新しいソフトウェアを使った翻訳案件が入り、翻訳者を探すのにひときわ苦労した。おまけにゴールデンウィークとやらで、日本は殆ど機能せず、日本在住の訳者の方々とは、ほぼ連絡を取れなかった。
大きなプロジェクトは2つあったのだが、 その1つ目の訳者が見つかった時は、本当に礼を述べたいほどだった。
彼女のことは、翻訳者の特別ポータルで見つけたのだが、プロフィール写真がなかなか良いのだ。
きっと私よりも若干年上なのかもしれないけれど、翻訳者や通訳者に多いキリキリカリカリしたイメージはゼロで、優しく信頼のおけそうな顔写真である。
背景はもちろん殆ど見えないのだが、それでもその写真がおそらく彼女の書斎で撮られたものであることには間違えない。
白い半透明のカーテンを通して、美しいペルシャ絨毯の敷かれた部屋にほんのりと光が差し込んでいる。壁に備え付けられた重厚な本棚にはたくさんの辞書などが収められ、その向こうには葉の大きな観葉植物が置かれていた。それはいかにも市民的な、いや小市民的とさえ言えるものだった。
この小さな写真を見たのは一瞬である。仕事中なので、別にじっくり見るわけもない。
しかし今朝、もう一度彼女の情報を確かめにプロフィールを閲覧し、もう一度写真を目にした。
一瞬なのであるが、私の心の中に、安定した家庭、安定した環境、安定した心情という言葉が、その写真の背景に思い浮かび、彼女はおそらく驚くほど規則的に生活し、忙しさを理由にもせず、毎日夫(彼女の苗字は日本名ではない)や家族のために、色とりどりの食事を用意しているだろうと想像をめぐらせた。小市民的という批判に満ちた私の言葉の中には、まるで自分の奥深くに隠しがたい小市民の幸せという過去を持っているかのように、このような憧れがあったのである。
その途端に、私の一生工事現場のような人生に疲労を感じ、自分のいかにも掃除の行き届いていない部屋を見て失望し、自分の書斎のカオス状態に恥じ入ってしまった。
いつまで経っても、仮の住まいに、仮の人生のようである。
彼女のようなどっしりとした安定感は、私の写真にはあろうはずもない。
彼女の経歴も輝かしく、東京で1、2を争う一流の女子大の英文科を出て、アメリカの大学に留学し、専門的翻訳学科でマスターを取得し、立派な職歴の後に、どこかで知り合ったご主人の故郷に移り住んで、今まで翻訳家として活躍したことがうかがえる。
私のように、そこらへんに転がっていた仕事をやりながら、本当に学んだことや本当に取得した卒業証書とは、どれも似つかぬ仕事についていると言う支離滅裂振りではない。
激しく心細さを覚え、夏前には辞めようかなと、いよいよ本格的に思い直している仕事に、今日も重い心持で出かけていくのである。
柔らかな風にふわりとゆれる美しい白いカーテンのある部屋で、整然とした仕事場を前に、仕事をしつつ、状況はまったく安定して揺るぎのない達成感がある、というシナリオに目を細めて憧れを抱くが、今ある私の現実こそ、私の求めていたものなのである。ないものねだりは、逃避でしかない。
今日も、明日も、自分の尻をたたきながら、何とかやっていきます。
大きなプロジェクトは2つあったのだが、 その1つ目の訳者が見つかった時は、本当に礼を述べたいほどだった。
彼女のことは、翻訳者の特別ポータルで見つけたのだが、プロフィール写真がなかなか良いのだ。
きっと私よりも若干年上なのかもしれないけれど、翻訳者や通訳者に多いキリキリカリカリしたイメージはゼロで、優しく信頼のおけそうな顔写真である。
背景はもちろん殆ど見えないのだが、それでもその写真がおそらく彼女の書斎で撮られたものであることには間違えない。
白い半透明のカーテンを通して、美しいペルシャ絨毯の敷かれた部屋にほんのりと光が差し込んでいる。壁に備え付けられた重厚な本棚にはたくさんの辞書などが収められ、その向こうには葉の大きな観葉植物が置かれていた。それはいかにも市民的な、いや小市民的とさえ言えるものだった。
この小さな写真を見たのは一瞬である。仕事中なので、別にじっくり見るわけもない。
しかし今朝、もう一度彼女の情報を確かめにプロフィールを閲覧し、もう一度写真を目にした。
一瞬なのであるが、私の心の中に、安定した家庭、安定した環境、安定した心情という言葉が、その写真の背景に思い浮かび、彼女はおそらく驚くほど規則的に生活し、忙しさを理由にもせず、毎日夫(彼女の苗字は日本名ではない)や家族のために、色とりどりの食事を用意しているだろうと想像をめぐらせた。小市民的という批判に満ちた私の言葉の中には、まるで自分の奥深くに隠しがたい小市民の幸せという過去を持っているかのように、このような憧れがあったのである。
その途端に、私の一生工事現場のような人生に疲労を感じ、自分のいかにも掃除の行き届いていない部屋を見て失望し、自分の書斎のカオス状態に恥じ入ってしまった。
いつまで経っても、仮の住まいに、仮の人生のようである。
彼女のようなどっしりとした安定感は、私の写真にはあろうはずもない。
彼女の経歴も輝かしく、東京で1、2を争う一流の女子大の英文科を出て、アメリカの大学に留学し、専門的翻訳学科でマスターを取得し、立派な職歴の後に、どこかで知り合ったご主人の故郷に移り住んで、今まで翻訳家として活躍したことがうかがえる。
私のように、そこらへんに転がっていた仕事をやりながら、本当に学んだことや本当に取得した卒業証書とは、どれも似つかぬ仕事についていると言う支離滅裂振りではない。
激しく心細さを覚え、夏前には辞めようかなと、いよいよ本格的に思い直している仕事に、今日も重い心持で出かけていくのである。
柔らかな風にふわりとゆれる美しい白いカーテンのある部屋で、整然とした仕事場を前に、仕事をしつつ、状況はまったく安定して揺るぎのない達成感がある、というシナリオに目を細めて憧れを抱くが、今ある私の現実こそ、私の求めていたものなのである。ないものねだりは、逃避でしかない。
今日も、明日も、自分の尻をたたきながら、何とかやっていきます。
2012年4月20日金曜日
思い出のパリ
パリのことを思い出す。
パリは随分良く訪れた。初めてパリを見たのは留学してきた年に、フランス人の友人にもらった見知らぬ人のアドレスを尋ねて一人で訪れた時だった。
東駅に着いてフランに両替した後、ベルヴィルにあるそのアパートにたどり着くまでが苦労の連続であったが、今思えば甘酸っぱい記憶となって、心の奥に刻まれている。
その後、当時のボーイフレンドだった人の親友のガールフレンドがパリに住んでおり、幾度となくパリで落ち合ったものだった。
彼女のアパートは4区にあった。確かEtienne Marcelというメトロの駅の近くであった。当時随分年上であったが、まだ学生だった彼女のアパートは当然のごとく屋根裏部屋にあった。長くくねる階段を上りきった所に見える小さなドアを開けると、彼女の二部屋のせまっ苦しい部屋があったのだ。
どこにどう4人で寝泊りをしたのか覚えていないが、何度もそこを訪れては、話し合い、笑い合い、喧嘩も悲しい思いも互いに分け合ったことは覚えている。
彼女の部屋の窓を開けても、隣や裏の家の屋根が見えるばかりで、パリの全景を望むことができたわけでもない。
それでも私達は、近所のワインショップに行っては、高級なブルゴーニュ産とフランスパンを買い求めて、屋根裏部屋に戻った。窓から見える星の美しさに惹かれて、窓を開け、厳しく禁止されているのに、ワインボトルとフランスパンを抱えて屋根の上に出ては、ひそひそ声で小さな宴会をしたのを覚えている。
いつも、ものの20分もしないうちに近所の人に通報されて、大家から怒鳴り声の電話を受けて退散することになった。
そのパリを懐かしいと思う。
あんな体験は、若さゆえの馬鹿でなければなかなかできなかったろう。
そこで私はビールばかり飲むドイツ人学生とは違い、フランス人やイタリア人学生は、通常はワイン党なのだと知り、いろいろなワインを覚えるきっかけにもなった。
私の連れの親友だった彼は、トリノの銀行につとめる父を持つ中流家庭の出身であった。その彼女にいたっては、パドヴァの有名な心臓外科の娘で、様々な政治家も親戚に持つような、言わば上流階級の出身だった。
それでも、常に誰もお金は持っていなかったのを覚えている。
朝食は、決まって小麦粉と水でクレープを焼いて、Nutellaの大瓶から大量にクリームをかき出しては、べっとりと塗って食べた。
昼は、メトロ駅の目の前にあるCafe Etienneでバゲットのサンドイッチを調達してきた。
夜は、Sebastopolという大通りを渡ってユダヤ人街の方に歩き、安い料理を探して食べた。
しかし、彼らはその背景もあって、非常に文化的には洗練されていた。そのおかげで、私は欧州に渡って何年もしていなかったのに、彼らの生活ぶりや会話から、様々なことを早くに吸収して行くことができた。
彼らの飲んでいる本、彼らの両親の考え、彼らのもらっている送金額、彼らの将来像、彼らの食生活、彼らの消費態度、金銭感覚、そういったものを悉く身近に見ることができた。不思議なことに、ドイツの学生生活で知り合う友人知人達からよりも、もっとより深い次元で学ぶことができたのは、個人的な親密度によるものなのか、それともフランスやイタリアと言うドイツよりも階級の色濃く残る文化によるものなのか、はっきりとは判らない。
その後、彼らとはパリの学生パーティーにも出向いたし、ピエモンテの別荘で釣りなどを楽しみながら過ごしたこともあり、パルマの年上の友人夫婦宅で毎月のように集まり、買い物や料理をして夜通し語り合ったことも数限りなかった。
体外は、若者の根拠のない自信で世の中を嘆き馬鹿にし、哲学書や古い文学を紐解いて、物をわかったような顔をしていただけである。当然、そこに音楽という中心があったことは当然であるが、思い出に残るのは、むしろ彼らとのインテンシブな生活であった。
親友はその後、私達の間ではつまらないと言われる指揮者を抱えるオーケストラに仕事を見つけた。彼女とは、最初から問題だらけであったが、その優れた知性と教養、また8歳も年上だったことから、彼を精神的に支えてくれたことで、別れるまでには至らなかった。
が、その知性ゆえ、彼女は彼の関心をずっと得るために、心理作戦を使いすぎ、彼は疲労困憊して結局別れてしまった。
間もなく、年下の建築学科の学生と出会って新しい彼女だと紹介されたが、もうあの頃のような団結はどこにもなかったのである。
その彼女は、モデルを小型にしたような見かけで、いかにもつまらなそうに私達の狂乱の過去の話には加わらず、そのまま団体行動も消えてしまった。
彼は、間もなくその建築学科の女学生とも別れてしまった。
パリの学生パーティーに参加すると、またドイツとの差にも驚いた。
どこを見ても、視線と視線の間にはゲームがあり、どこの隅っこにまで行っても、男は男で、女は女であった。
ドイツのパーティーなどでもそういうことは起こり得たのだが、視線と視線が合えば、そこには一種のあの雰囲気が直ぐに介在したなどということはなかったのである。視線と視線には、単なる目の合う瞬間があったと言うのが殆どであった。
そういう意味で、パリの学生パーティーは、もっと自由奔放であったし、もっとエロティックであり、もっと面倒で、疲労するものでもあった。自分がその気がなくても、女として扱われてしまう女の殻を脱ぎ捨てることは難しい。美醜に関わらず、彼らは女性を女性として扱ったものだ。それは感心することであるが、ある友人など、フランス人は目から精子を飛ばしているなどと、酷い冗談も出たほどである。
そのパリを頻繁に訪れたのは、おそらく92年から95年ごろまでであった。その後10年以上してからパリを再び訪れた。子供達をおいて一人旅である。
懐かしい街角をいくつも見つけて過去を抱くように写真に収めた。
レ・アールで一人で買い物をしていたら、フランス語でチェックを書けと言われ、英語ではだめだと断固拒否されたところに助けの手を出してくれた、ベルナデットという女の子と、その後バゲットをほお張りながら散歩し、ベンチに腰を掛けた午後。夕方彼女の叔父さんの勤めるカフェに行ってご馳走になったこと。いつしか文通も途切れてしまった。
オルセーの帰り、対岸に行こうと渡った芸術橋で「愛らしいお姉さんただで描いてあげるよ」と声を掛けてきた、あのカーリーヘアのアーティスト。朝の散歩をしていれば、配達の自転車に乗って後ろから近距離で追い越す際に「サリュ、ボンジュルネー」と爽やかに振り返って走り去っていったあの若者の笑顔。
自分の外見の如何に関わらず、パリでは常にと言ってよいほど、挨拶をされ声を掛けられた。旅人には嬉しい思い出である。
当然、しつこく言い寄ってくる危ない人もいるのだが、それは常識的な感覚を持っていれば、直ぐにわかるものである。断固とした態度でいれば、意外にしつこく追い詰めてくるものでもない。
そうしてあの角のカフェ、この橋の向こう、この公園のベンチ、あそこのスーパー、ここのパン屋と、色々な街角を訪ね歩いては、一人ため息をついていた。
すべては、私がまだ20代という非常に若い年齢であったから、集めることのできた思い出である。
セーヌは、生きている。
当時のメモに、そんなことを書いていた覚えがある。
セーヌは、どの橋から見ても、どの建物を向こう側に目にしても、常に違う顔を持っているのに、完璧なほど、その雑多な風景に溶け込んでいるのである。
セーヌは、ただの川ではなく、息づいていた。それはパリの人々の活気、決して親切で気持ちのよい人ばかりではないが、大都会だからと言って、東京のように表情のない顔をした人は少なかったのである。
厳しい表情も、生きることの只中にあるそのことを象徴しているようにさえ見えた。
その人々の生きるという息遣いは、川の中にも溶け込み、川自身がキャラクターをもった生きる存在のように、そこここで、その豊かな表情を見せていたともいえる。
パリには、独特の魅力がある。
それは揺るがぬ事実であった。
現に、私は今でも遠いあの頃を思い出しては、あの街に深い憧憬を持っている。
冒頭に書いたように、留学直後初めて訪れたパリでは、フランス人女学生シルヴィーの知り合いの男性宅に間借りした。その思考自体が、日本から来た私には驚いたが、コンセルバトワールを卒業したばかりだった、ジャン・フランソワというその知人と彼の友人達の私に対する扱いにも、日本から来たばかりの私には、驚くべきものがあった。
その話は、またいつかどこかで書きたいと思う。
ちょうどあの頃リリースされ、毎日のように聞いていたアンテナ。
パリは随分良く訪れた。初めてパリを見たのは留学してきた年に、フランス人の友人にもらった見知らぬ人のアドレスを尋ねて一人で訪れた時だった。
東駅に着いてフランに両替した後、ベルヴィルにあるそのアパートにたどり着くまでが苦労の連続であったが、今思えば甘酸っぱい記憶となって、心の奥に刻まれている。
その後、当時のボーイフレンドだった人の親友のガールフレンドがパリに住んでおり、幾度となくパリで落ち合ったものだった。
彼女のアパートは4区にあった。確かEtienne Marcelというメトロの駅の近くであった。当時随分年上であったが、まだ学生だった彼女のアパートは当然のごとく屋根裏部屋にあった。長くくねる階段を上りきった所に見える小さなドアを開けると、彼女の二部屋のせまっ苦しい部屋があったのだ。
どこにどう4人で寝泊りをしたのか覚えていないが、何度もそこを訪れては、話し合い、笑い合い、喧嘩も悲しい思いも互いに分け合ったことは覚えている。
彼女の部屋の窓を開けても、隣や裏の家の屋根が見えるばかりで、パリの全景を望むことができたわけでもない。
いつも、ものの20分もしないうちに近所の人に通報されて、大家から怒鳴り声の電話を受けて退散することになった。
そのパリを懐かしいと思う。
あんな体験は、若さゆえの馬鹿でなければなかなかできなかったろう。
そこで私はビールばかり飲むドイツ人学生とは違い、フランス人やイタリア人学生は、通常はワイン党なのだと知り、いろいろなワインを覚えるきっかけにもなった。
私の連れの親友だった彼は、トリノの銀行につとめる父を持つ中流家庭の出身であった。その彼女にいたっては、パドヴァの有名な心臓外科の娘で、様々な政治家も親戚に持つような、言わば上流階級の出身だった。
それでも、常に誰もお金は持っていなかったのを覚えている。
朝食は、決まって小麦粉と水でクレープを焼いて、Nutellaの大瓶から大量にクリームをかき出しては、べっとりと塗って食べた。
昼は、メトロ駅の目の前にあるCafe Etienneでバゲットのサンドイッチを調達してきた。
夜は、Sebastopolという大通りを渡ってユダヤ人街の方に歩き、安い料理を探して食べた。
しかし、彼らはその背景もあって、非常に文化的には洗練されていた。そのおかげで、私は欧州に渡って何年もしていなかったのに、彼らの生活ぶりや会話から、様々なことを早くに吸収して行くことができた。
彼らの飲んでいる本、彼らの両親の考え、彼らのもらっている送金額、彼らの将来像、彼らの食生活、彼らの消費態度、金銭感覚、そういったものを悉く身近に見ることができた。不思議なことに、ドイツの学生生活で知り合う友人知人達からよりも、もっとより深い次元で学ぶことができたのは、個人的な親密度によるものなのか、それともフランスやイタリアと言うドイツよりも階級の色濃く残る文化によるものなのか、はっきりとは判らない。
その後、彼らとはパリの学生パーティーにも出向いたし、ピエモンテの別荘で釣りなどを楽しみながら過ごしたこともあり、パルマの年上の友人夫婦宅で毎月のように集まり、買い物や料理をして夜通し語り合ったことも数限りなかった。
体外は、若者の根拠のない自信で世の中を嘆き馬鹿にし、哲学書や古い文学を紐解いて、物をわかったような顔をしていただけである。当然、そこに音楽という中心があったことは当然であるが、思い出に残るのは、むしろ彼らとのインテンシブな生活であった。
親友はその後、私達の間ではつまらないと言われる指揮者を抱えるオーケストラに仕事を見つけた。彼女とは、最初から問題だらけであったが、その優れた知性と教養、また8歳も年上だったことから、彼を精神的に支えてくれたことで、別れるまでには至らなかった。
が、その知性ゆえ、彼女は彼の関心をずっと得るために、心理作戦を使いすぎ、彼は疲労困憊して結局別れてしまった。
間もなく、年下の建築学科の学生と出会って新しい彼女だと紹介されたが、もうあの頃のような団結はどこにもなかったのである。
その彼女は、モデルを小型にしたような見かけで、いかにもつまらなそうに私達の狂乱の過去の話には加わらず、そのまま団体行動も消えてしまった。
彼は、間もなくその建築学科の女学生とも別れてしまった。
パリの学生パーティーに参加すると、またドイツとの差にも驚いた。
どこを見ても、視線と視線の間にはゲームがあり、どこの隅っこにまで行っても、男は男で、女は女であった。
ドイツのパーティーなどでもそういうことは起こり得たのだが、視線と視線が合えば、そこには一種のあの雰囲気が直ぐに介在したなどということはなかったのである。視線と視線には、単なる目の合う瞬間があったと言うのが殆どであった。
そういう意味で、パリの学生パーティーは、もっと自由奔放であったし、もっとエロティックであり、もっと面倒で、疲労するものでもあった。自分がその気がなくても、女として扱われてしまう女の殻を脱ぎ捨てることは難しい。美醜に関わらず、彼らは女性を女性として扱ったものだ。それは感心することであるが、ある友人など、フランス人は目から精子を飛ばしているなどと、酷い冗談も出たほどである。
そのパリを頻繁に訪れたのは、おそらく92年から95年ごろまでであった。その後10年以上してからパリを再び訪れた。子供達をおいて一人旅である。
懐かしい街角をいくつも見つけて過去を抱くように写真に収めた。
レ・アールで一人で買い物をしていたら、フランス語でチェックを書けと言われ、英語ではだめだと断固拒否されたところに助けの手を出してくれた、ベルナデットという女の子と、その後バゲットをほお張りながら散歩し、ベンチに腰を掛けた午後。夕方彼女の叔父さんの勤めるカフェに行ってご馳走になったこと。いつしか文通も途切れてしまった。
オルセーの帰り、対岸に行こうと渡った芸術橋で「愛らしいお姉さんただで描いてあげるよ」と声を掛けてきた、あのカーリーヘアのアーティスト。朝の散歩をしていれば、配達の自転車に乗って後ろから近距離で追い越す際に「サリュ、ボンジュルネー」と爽やかに振り返って走り去っていったあの若者の笑顔。
自分の外見の如何に関わらず、パリでは常にと言ってよいほど、挨拶をされ声を掛けられた。旅人には嬉しい思い出である。
当然、しつこく言い寄ってくる危ない人もいるのだが、それは常識的な感覚を持っていれば、直ぐにわかるものである。断固とした態度でいれば、意外にしつこく追い詰めてくるものでもない。
そうしてあの角のカフェ、この橋の向こう、この公園のベンチ、あそこのスーパー、ここのパン屋と、色々な街角を訪ね歩いては、一人ため息をついていた。
すべては、私がまだ20代という非常に若い年齢であったから、集めることのできた思い出である。
セーヌは、生きている。
当時のメモに、そんなことを書いていた覚えがある。
セーヌは、どの橋から見ても、どの建物を向こう側に目にしても、常に違う顔を持っているのに、完璧なほど、その雑多な風景に溶け込んでいるのである。
セーヌは、ただの川ではなく、息づいていた。それはパリの人々の活気、決して親切で気持ちのよい人ばかりではないが、大都会だからと言って、東京のように表情のない顔をした人は少なかったのである。
厳しい表情も、生きることの只中にあるそのことを象徴しているようにさえ見えた。
その人々の生きるという息遣いは、川の中にも溶け込み、川自身がキャラクターをもった生きる存在のように、そこここで、その豊かな表情を見せていたともいえる。
パリには、独特の魅力がある。
それは揺るがぬ事実であった。
現に、私は今でも遠いあの頃を思い出しては、あの街に深い憧憬を持っている。
冒頭に書いたように、留学直後初めて訪れたパリでは、フランス人女学生シルヴィーの知り合いの男性宅に間借りした。その思考自体が、日本から来た私には驚いたが、コンセルバトワールを卒業したばかりだった、ジャン・フランソワというその知人と彼の友人達の私に対する扱いにも、日本から来たばかりの私には、驚くべきものがあった。
その話は、またいつかどこかで書きたいと思う。
ちょうどあの頃リリースされ、毎日のように聞いていたアンテナ。
登録:
投稿 (Atom)