2019年11月28日木曜日

知らなかった過去

今回の帰国で、ここまでことがスムーズに運ぶとは想像もしていなかった。ただ、母を施設に入れなければならないだろうという漠然とした覚悟を持って帰国しただけだったのに、帰国当日に相談員と面会し、次の日に3件見学し、その日のうちに最初のホームに決定してしまった。それから、何もかもが滞ることなく実行され、あっという間に母の施設入居は現実のものとなった。

夜、眠りに就こうとするたびに、様々な考えが思い浮かび、その多くは罪悪感、同情、憐憫、不安、悲しみといった感情に直結しているため、自然と涙が流れてしまう。身内の命という問題を扱うのが、ここまで重い仕事になるとは思ってもいなかった。頭で理解しているのと、実際に感情の揺れ動きをなだめながら体験してゆくのとはまったく違うのだと、今更ながら実感している。

何はともあれ、素晴らしく明るく温かい雰囲気で、活気のある介護士たちが誠実に働いていることが伝わってくるような施設を見つけたことは幸運だった。建物にも内装にも細部にわたるまで気遣いがなされており、ホテルのようなその様子には、まったく寂しさを感じることがない。対応も文句なく、すぐに信頼感を与えてくれたこのような施設に直ぐに巡り合えたのも、また何かの運命だったのだろうか。

一年前から真剣に介護のことで悩み、様々なサービスを利用しようと試みたが、うまく行かなかった、母自身の強い拒否感もあったが、何より父をはじめとする私達家族がそこまで決心できなかったというのが最も大きな理由だった、それでも段階を経て、今回はこれ以上父が母を介護することは不可能だという意見にまとまった。全員の気持ちが限界に達していたのだ。
しかし、母自身の人生の今後を決める決定権を我々は奪ってしまったことになる。彼女の背後で準備を進めることは、彼女の尊厳を無視していることになる。それが最も辛い。家族全員が、その重い罪悪感と共にこの日々を過ごしている。
そして、無理に入居させられた母が毎夜何を思い、どれだけ不安になり、どれほど家族を、とりわけ父を恋しく思うかを考えると胸が張り裂けそうになる。

そんな中、私は突如、祖母の位牌がある仏壇の下の引き出しを開けた。何の意味もなく、ただ好奇心から開けただけだった。そして私はそこに、いくつかの非常に大切なものを見つけてしまった。それらは母の人格をしっかりと象徴しているものばかりであった。

まず、祖母のお葬式の写真があった。それと共に祖母の施設での最後の数か月がくまなく記録された報告書もあった。私はそれらすべてを一語一句逃さず読んだ。祖母が7年以上にわたって暮らした施設での姿を私は殆ど見たことがない。すでに日本を離れて10年以上経っており、祖母が入居した次の年には末子が生まれ、引き続き別居となったため、日本に5年間帰国しなかったため、入居したその年に祖母を見舞ったのが最後となった。そのため、報告書から祖母の日常を知ることは、私にとって非常に新鮮なものだった。祖母の独語が増えたことや、最後は嚥下がうまく行かず痩せていったこと、それでも時折笑顔を見せて会話をしていたことを読み、施設で撮った2枚の写真と見比べながら、私は記憶の底から優しかった祖母を思い出していた。そしてその2枚の写真には痛々しいほど年老いた祖母の姿があった。
祖母のお葬式の写真は、母が送ってくれた。ちょうど私の所を訪ねてきたその時期に祖母の容体が変化して亡くなり、父が電話口で号泣していたのを覚えている。義理の母の死に声を出して泣く父の声を初めて聴き、私は父の優しさを知った。母は次の日、航空券を買いなおして帰国した。祖母の死に顔は穏やかで、母がそっと顔に手を当てていた。祖母を本当に慈しんでいる表情だった。ご苦労様という声が聞こえてくるようだった。

その母は、その時期を前後して、終活や介護に関する新聞記事を数多くスクラップしていた。その記事も引き出しに入っていた。傍線が引いてあったり、同意と記されていたりし、母が熱心に老いや死について考えを巡らせ、多くの情報や意見を集めていたことがうかがえる。なんと皮肉なことか、母は今はもうそうしたことを一切覚えていないに違いない。もう一度記事を見せ、読ませたところで、それを自分自身に反映させることはできなくなってしまった。病識が一切ないのだから、仕方ないのだ。しかし私は、老いに対する母の葛藤を、不安を確かに感じ取った。母も自分自身の老いを体験しながら、未来に不安を抱き、万全な準備をしようと心していたのだ。それが、今は何の役にも立たない。母自身、今一瞬でも明晰な考えを取り戻して、自分の今の状況を見ることができたなら、自ら進んで施設に入ることに同意したかもしれない。しかし、今となってはその答えを知ることはできない。

母方の祖父や祖母の写真の中に、母自身の幼少の写真も混ざっていた。目がクリっとした、目鼻立ちのはっきりした幼い母が、大切に育てられた様子がわかる。母の生まれは複雑であるが、母は暖かい家族に囲まれてすくすくと育ったに違いない。母自身も子供時代を何の苦労もなく幸福だったと言っていた。私は母の顔の中に自分の一部を認め、私自身が確実に母の血を受け継いでいることを改めて実感した。
子供の頃の写真と共に、母の中学時代の同級生の写真もあった。母が後日大学を卒業してから結核を患った際、ノートにこの同級生らが各自様々な格言を記して、母を励ましたらしい。その達筆さと種々の格言のすばらしさに私は胸を打たれた。それに加えて、母自身の小さなノートブックも出てきて、そこには母の記したいくつかの詩、そして草木のスケッチがあった。私は思わず泣いてしまった。そこには母の輝くような感受性があふれていた。このノートは若い母の魂がかつて存在し、たくさんの美しい言葉や描画を生み出す豊かな感受性が存在していたことを証明するものだった。今の思考力を失ってしまった母からは想像できない、生き生きとした若き母の姿がそこにあった。それは私が生まれすずっと前の若い女性としての母の姿だった。

さらに引き出しを探ると、二冊のノートが出てきた。
一冊は父が1960年新婚早々結核にかかった時のノートだった。父が万年筆で病室での日々を書き記し、たまには母もそのノートに自分の想いを綴っていた。
そしてもう一冊は、母が1962年に結核にかかった時のノートで、こちらは母が見舞客や父の様子と共に自分の病室での日々を克明に綴っていた。
両方のノートを読むのは、私にとって非常に気恥ずかしいことであったが、思いがけず私は二人の若々しく情熱的な愛情を知ることとなった。母は病床の父が寂しくはあるまいか、退屈してやいまいかと、絶えず気を使って、いかに喜ばせてやろうかと苦心しているようだった。母自身、夜は眠れない日々を過ごし、父を訪ねて笑顔を見ることを毎日心待ちにしていた。父も母の訪問を心待ちにし、同じく寂しい夜を過ごす空虚さを嘆いていた。
母が病気になった時のノートでは、母が入院するまでの父の気遣いと心配が書かれ、入院後も毎日のように母を訪れては、あらゆることを話し、明日も来るという約束を交わして家に帰り、母も二人の家を恋しく思って、何度も外出や外泊を願い出ていた様子がうかがえた。二人で外出や外泊した際の楽しさは格別で、二人がどれほど幸せな関係を築いていたかを知り、私は少し気恥ずかしくなったが、同時に誇らしくもあった。私自身の子供上二人のような年齢の両親の新婚夫婦としての姿は、本当に微笑ましく、彼らが幸せな結婚生活を送ってきたことに安堵した。そして父が此奴には本当に世話になったので、今度は俺の番なのだと言って、母を今まで7年も支え、介護してきたことにすんなりうなづけた。それだけ深い愛情の歴史と土台があったのだ。

ノート以外にも、父が学生時代に母に書き送った手紙が数通入っていたが、何かプライベートを侵すような気になって、これはまだ読んでいない。しかし、単純に母も父も達筆で文章がうまかったことに驚く。昔は手紙やはがきで通信しあったのだ。今のような崩れた日本語ではなく、しっかりと美しい日本語で、好意を書き記し、愛情を表現していた。私は両親の全く新しい姿を知り、年老いた彼らの姿を楽にタイムスリップさせて過去に戻り、若かりし頃の姿を生き生きと心に思い描くことができた。

彼らも確かに存在していたのだった。
無垢な幼い子供として。
多感で傷つきやすい青年として。
そして、情熱的で思いやりにあふれた若い大人として。
私たちがこの世に生まれてくるずっと前から、彼らはこの地球上に存在し、血の通った人間として、彼らの人生を生き抜き、彼らのストーリーを紡いできた。その道のりの途中で私たち子供が加わり、今まで50年余、家族として共に歩んできたけれど、彼らが親になる前、彼らが自らを形成してきたずっと前の年月を垣間見て、私は初めて彼らを独立した個人として認識することができた。それは命に対する感動と言っても良かった。

私はなぜ、この引き出しを開けてしまったのだろうか。よりによって母が施設に行く四日前に。まるでそれは、母とのお別れのようだった。母の命はある。けれど、母と私は別れなければならない。物理的にではなく、心理的に私は母にさようならを告げなければならないのだ。なぜなら、確実に一つの時代が幕を閉じるから。彼女の意志に反してであるけれど、今彼女の終活への扉が開こうとしているから。

不思議なことに、今、ここで母のことを「母」と呼ぶのは相応しくないようにさえ感じる。私の中で、母と言うよりも「彼女」と呼ぶ方がしっくりくる。彼女は私たちの母であるというだけでないのだ。母は、何より一人の生き生きとした人格を持った女性であったのだ。

私たち家族が暮らし、私達兄妹が育ったこの家に母が帰ってくることはもうない。私が実家に帰宅しても、もう母の姿はここにはない。それに対して、私は今晩偶然にも母に精神的な別れを告げることになったのではないかと、そんな気がしている。

その後、リビングの棚に無造作に積み重ねられていた何百枚もの写真をじっくりと時間をかけて見て、大切なものはすべて写真に収めて、デジタル化した。それは、母の根源を初めて知った後、ゆっくりと現在までの道のりを時間軸に沿ってたどってきているような感覚だった。様々な年齢の、様々な場面の、様々な表情の母を見た。私の子供たちを抱き、弾けそうな笑顔を見せている写真。父が世界各地、日本中で撮影したいくつもの母の写真。もう十分に見納めたと感じることができた。

母は素晴らしい母だった。
そして母は父にとっても素晴らしい女性だったのだと初めて確信することができた。
母は祖母にとっても素晴らしい娘であったの違いない。
母は、母を取り巻く家族全員にとって、かけがえのない、素晴らしく、愛すべき存在であった。

その母は、認知症になって以来、すっかり変わってしまったように見える。しかし、母の魂に変わりがあるはずはなかった。私が帰国するたびに、母がこの上なく幸せになることは明らかだった。私が完全に帰国して、限界が来るまで母を介護すればよいのだろうか。私は仕事もやめて、家族も置いて、母の病状の悪化と老いを支えるべきではなかろうか。そんな考えが頭をもたげてくる。
しかし、その時、あの満面の笑みを見せた60代ぐらいの母の姿が浮かび上がってくるのだ。そしてこう言う。
「バカなこと言うんじゃありません。自分の家族や仕事をおろそかにしてまで親の面倒を見るなんてばかばかしい話はない。そんなこと私はこれっぽっちもしてほしくない。そんなこと言うなら、専門の人に見てもらった方がよっぼど合理的で理にかなっている。私はそんなこと許しませんよ。」
私は、脳裏に浮かぶ若かりし頃の母に、心の底から礼を述べ、そして同時に謝罪する。本当にごめんなさい。近くに住んでいないことを許してください。

父も年で、もう母の介護をすることはできない。
父の苦しみと葛藤は、私の比ではないだろう。父はそのことに関して深く話すつもりもなく、むしろ自分の感情には触れてくれるなと思っているに違いない。その父の思いを私は決して知ることはできないが、私が生まれるずっと前の両親を知った今、私は父がどのような思いでこの最後の日々を過ごしているのか、少しだけ想像がつくような気がしている。

今晩は、たくさん泣いた。施設に入居させるはずの母が、過去に生き生きとした人格を持ち、自分の意志で人生を生き抜いてきた、豊かな感情を持った女性なのだとわかったからである。申し訳ない気持ちでいっぱいになったからである。でも、母は私の母であり、愛する父の妻である。母に健全な理解力があれば、必ずや私達と同じ決心に至ったであろうということを信じて、私は今後過ごすしかない。

母は渋谷で生まれ、3歳で大田区に引っ越し、そこでずっと育った。
父は恵比寿で生まれ育ち、母と結婚して大田区に住み、一時一家で横浜に移ったが、10年も経たずにまた大田区に戻ってきた。
母の施設は、大田区でも母が育った家にほど近い。母の中学時代の友人も住んでいたのではないかと思われるほど近い位置にある。今の母にそんなことを言っても何も感じないかもしれないが、私はこれも何か、ルーツに立ち返るような気がし、ある種の運命としてとらえている。

この病気を憎むけれど、母への愛情はこれっぽっちも変わっていない。今晩、私は母の若かりし頃を知ることができただけでなく、このことを深く再認することもできたのだった。

どうか、許してください。
どうか、これも愛情から生まれた決心であることを信じてください。
そして、本当にどうもありがとう。あなたが存在しているだけで、今でも私は無条件に「愛情」というものの存在を信用できるのです。それは私があなたから、十分過ぎる愛情をいつどんな時でも受けたからに違いありません。
本当にありがとう。

2019年10月6日日曜日

娘の木の人形

いつだったろうか。きっと娘がまだ幼稚園の頃に、木の人形をプレゼントしてやったことがあった。娘は小さい頃からとても繊細な子で、外に出れば太陽や雨風、虫や草木など身の回りの環境を敏感に感じ取り、一つ一つを確かめるように触ったり、見つめたりして立ち止まっていた。だから散歩に連れ出しても10歩進むのに10分もかかるようなことがあり、目的地の公園にたどり着く前に、その道のりだけですでに疲れて帰ってくることさえあったほどである。

ある日長い坂道をゆっくり歩きながら登り、黄色い落ち葉で地面が埋め尽くされている小さな公園にやっと着いた。そこには小さなばね仕掛けの木馬があったので、娘をそこに乗せてやろうと思ったが、彼女は一向に関心を示さず、すぐに飛び降りて、枯葉の下に隠れている石ころを探し出しては、一つ一つの石を丁寧に見比べて、気に入ったものは手のひらに収めていった。その後は、どんぐり集めをして、きれいな葉っぱをいくつも集めて、またのろのろと坂道を下って帰ってきたことがあった。数個の石とどんぐりと葉っぱを彼女はいつまでも大切そうに手に握っていた。結局、遊び道具よりも、自然の小さな世界を発見する方が、彼女には楽しいらしかった。

春になれば、なんでもない道路の端っこに集まった蟻を見つけてしゃがみ込み、いつまでも「アリさんだ」とニコニコ呟きながら黙って蟻の一行を観察していた。ダメな母親であった私は、買い物の時間とか、その後の家事などが頭にあって、娘のことをいつも急かしてしまった。発見や観察の喜びを彼女と一緒にじっくりと味わうという余裕を大人になった私はすでに失っていたのだ。

そんな娘は、リカちゃん人形のようなものよりも、自然に近いものをこよなく愛した。どんぐり人形はもちろんのこと、手編みの毛糸のセーターを着たテディや、布地で作った人形をこよなく愛し、ベッドの枕もとに並べて良く世話をしていた。出かけるとき、彼女は人形用の乳母車にそうした大切なぬいぐるみや人形を入れて、どこへでも持って行った。乳母車を押せないときには、かならず一つ人形を手にし、汗で濡れてしまうほど大切にそれを握りしめていた。

それもあって、Waldorfschuleのバザーを訪れたときに、ちょうど手のひらに収まる男の人と女の人と一対の木の人形を買ってやったのだ。思い返せば、そんな娘にはWaldorfschuleこそぴったりではないかと思い、ごくまれにしかいない当時の夫に頼み込んで、娘と三人そろってバザーに行った。私達の関係は当時まだ非常に情熱的であったが、付き合い始めた当初より波乱万丈の日常で、私は常に一触即発の雰囲気に脅え、夫の一挙一動に注意して腫れ物に触るように行動していた。幼かった娘は、それを完全に感じ取っていたはずである。そんな不安定な親子三人がバザーに出向き、見知らぬ環境で様々な人に会い、多くの教室を見学し、蟻んこ一匹で10分も楽しめる娘は、ほとほとその情報量の多さに疲れ切ってしまったのかもしれない。最後にたどり着いた教室では、裁縫作品が販売されており、可愛らしい人形がたくさん売っていた。そこで布の人形と木の人形も買ってやったわけなのだが、娘は手のひらサイズの木の人形を特に気に入っていたようだった。…いや、実はそうではない。それが男女一対だったから、娘は常に手に握りしめていたのに違いない。両親の情熱的だが常に不安定な関係を見て育った娘は、常にある種の不安や悲しみに付きまとわれて育ってきた。だからこそ、男女一対の人形を手に力を入れて握りしめていた娘の姿は、今思い出しても、涙が出るほど心が痛む。

ある日、私たちはまた喧嘩をしたのだろうか。あの頃の記憶はほぼ飛んでしまっているので、あまりよく覚えていないのだが、どこかで私たちはまた3人だったのだ。娘が寂しそうにしていたからか、娘がぽつんと一人で立っていたからか、私は「ほらお人形だよ、これ忘れるところだったね。○○ちゃん、これいつも持ってるでしょう?」と言って彼女の手のひらに対の木の人形を握らせてやった。娘は突如、糸が切れたように泣き出し、やがて嗚咽に代わり、私はいったいどうしたものか途方に暮れて娘の腕を握って彼女の前にしゃがみこんでいた。

先日娘と電話で話した時、笑い話で終わるはずが、なぜか急に木の人形の話になった。
「ママ、覚えてる?私が木の人形をいつも持っていたこと。」
「そういえば、あったね、いつも握っていた人形。」
「そう。あれね、あれをママに渡してもらって、いつだっかた大泣きしたこと覚えている?」
「うっすらと覚えているよ。あれどうしたんだっけ?」
「私ももう覚えていないけど、とにかくもう感情がそれ以上我慢できなくなって、木の人形見ただけでもう感情があふれだしてきて、悲しいのか、嬉しいのか、それもわからないけれど、どうにも我慢できなくなって大泣きしちゃったの。私、昔のこと、色々覚えているんだけど、とにかくいつも感情があふれだして、どうにもならなくなって泣いちゃったことがたくさんあった。」
「そうだね、見知らぬおじいさん見ても泣いたし、訳もなく泣き出すことがたくさんあった。」
実際は、彼女に泣かれると5分かそこらで済むことではなく、何時間にもわたって泣き続けることも稀ではなく、私は神経は擦り切れ、疲れ果て、慰めきれず、いっそ頬を打てば目でも覚ますのではと思ったことも1回や2回ではなかった。
私はだからこそ、娘のことをおとなしくてどんな言うことも聞くのだけれど、とても難しい子だと認識していたのだ。

しかし、この電話で娘の言った「感情があふれてきてどうしようもなかった」という言葉に、私はほとんどショックを受けてしまった。
彼女を身ごもった時、そしてそれを知った時の悲しい背景、私自身が健全な精神を保つ限界にあった妊娠時代、深い愛があってもその愛が果たして健全と言えたかどうかはわからない両親のもとに生まれた娘。こうしたいくつもの要素を考慮すると、娘にとって男女一対の木の人形の象徴する意味を推し量ることはそう難しくはない。
あの時、娘が円らな瞳から大粒の涙を流して、顔を真っ赤にして大泣きしていた。汗ばんだ手にはしっかりと人形が握られていた。なだめようと、人形を受け取ってやろうとしたが、彼女が人形を離すことはなかった。

私は、およそ20年経った今、親としての責任を改めて実感せざるを得なかった。幼い子供にも、夫婦の緊張感はしっかりと伝わるのである。子供の感性というのは大人とは比べ物にならない。娘は毎日のように、悩み苦しみあがき続ける私の背中を見て育ち、父親が帰ってくれば、溢れんばかりの愛情と、次の瞬間は殺気立った緊張感が走るそのギャップをしっかりと感じ取り、色々な人形を握りしめながらおとなしく振舞っていたのである。私はふとした瞬間に、親らしく優しい一面を見せて、人形などを握らせてあげると、何かがきっかけで突如嵐のように泣き出してしまうということだったのかと、新たに彼女の当時というのを理解できたような気がした。それと同時に、胸がしくしくと痛み、あんな幼い子どもに、私は何という寂しい日々を与えてしまったのだろうかと、悔やみきれない思いになった。

人形というのは握りしめ、可愛がり、一緒に寝ることで魂が宿っていくものなのだろうか。それが真実であるかどうかはわからないが、少なくとも娘にとっての人形には魂が宿っていたのではないかと察している。彼女は人形に本当に話しかけていたのだ。そして必ず人形の方からも自分の悲しい心を温めてもらっていたの違いない。彼女は風とも、草木とも、蟻んことも話ができる子供だった。そんな繊細さは、幸に恵まれれれば、スクスクと個性的に育っていくのだろうが、悲しみや不安に囲まれた環境では、そんな繊細さがあるからこそ感受性がさらに鋭くなり、彼女自身では到底抱えきれない感情の波を生み出してしまったのに違いない。

「人形だけじゃなくて、ママがパパに怒られてね、一人でベッドで泣いてたの。だから私、ママの所に行って、膝の上に乗って、ママ大丈夫?って聞いたことも覚えてる。そうしたら、まま泣きながら笑ってくれて、私も少し涙が出たと思う。」
娘はもう一つの思い話も語ってくれた。私はこの時のことはよく覚えている。いや、ほとんどの記憶が飛んでしまったけれど、娘が私を助けてくれた光景や、娘が私を助けるために描いた絵や手書きの手紙のことは、ほぼすべて覚えている。それは大変ありがたいことである。これらの記憶すら忘れてしまっていたとしたら、私はこれ以上生きていかれないほど不幸であったのに違いない。

私自身が無我夢中で生き残ろうとしていたあの頃、死ぬつもりで早朝に車を走らせに行ったあの頃について、私は文字通り私の側から見たわずかな記憶しか残っていない。確かにそこに存在していた娘が、今あの頃の気持ちを吐露してくれたことで、私の消えそうな記憶が再び鮮明に浮かび上がってきた。思い出すのが辛いと同時に、娘の小さい頃に思いを馳せて深い愛情を感じるという、甘さと苦さの混ざった後味がしている。ただ、子供というもののすさまじいほどに鋭い感受性に本当に驚いた。そんなことも知らずに、まだ半人前の子供だった自分が一生懸命幼子を育てようとしていたことを思うと、恥じるというよりも、自分に対する哀れみが沸き起こってくる。
人はだれしも一度は未熟であったものなのだ。子供というのは大抵の場合親を許してくれるが、たとえそうであったとしても、私はやはり娘に、子供たちに本当に心の底から謝罪し、ごめんなさいと何度も何度も唱えたくなるのである。

2019年6月21日金曜日

長男のメッセージ

昨夜、過去の街から帰宅した。
そして今日は仕事を終え、散歩を嫌がる犬を車に乗せて、かつての飛行場跡地の公園に来た。広大な敷地に草花が育ち、傾いた太陽が小さな花をキラキラと輝かせていた。空は青く、白い雲がところどころ風に揺られて東に移動していた。
その空を見上げた途端、長男を思い、目頭が熱くなった。昨日まで2日間一緒に過ごしていたため、こうした気持ちになっても不思議はないのだが、実際にはもっと深い何かが潜んでいる気がしてならない。

一昨日、長男が学士試験を終えて、見事な演奏を披露してくれた。この間22歳になったばかりだというのに、その演奏は、若者ならではの荒々しさが一切なく、落ち着いた情緒があり、内面に深い音楽性の広がりを感じさせるものだった。まさに、本当は実に優しい長男の人柄が出ているのである。
昨今の音楽業界は、商業意識ばかりが先に走り、スター性のある演奏家ばかりが注目を浴びる。スター性とは極端に言えば、人を惹きつける万人の好む容姿と性格で、超絶技巧をこれ見よがしに披露し、「誰にでも分かりやすい音楽性」を「自ら見せびらかす」ことである。客が、派手な演奏と容姿に喜べば売れるからである。客層とは世代が常に入れ替わるもので、一部の忠誠的な客以外は成長しない。それに合わせているようでは、自らの内面も成長しないのである。

長男は、本能からだけでなく、自らの意志でこうした道を選ばずに、自分の内面と深く向き合いながら音楽を奏でている。内向的であるがゆえ、その技巧や音楽性をもっと前面にぐいぐいと出した方が良いという声もあるが、息子は「自分が見せるものではない、見せるなどおこがましい、作曲家に敬意を払えば、自分は黒子なのだ」と自覚している。だから、どこにもスポーツの匂いがなく、闘争心などというアグレッシブな音色が一つも聞こえてこないが、それでも内面の力強さは動かぬ土台として、十分な説得力のある演奏をしているのだ。それが私には誇りである。

若くして、有名になることをハングリーに求めず、音楽の神髄を追求していくその姿勢を私は非常に誇りに思っている。
本当に、成長の証としての卒業を嬉しく思う。そして、このような演奏を聴かせてくれた息子に心から礼を述べたい。

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息子がくれたものは、しかし音楽だけではない。
私は息子がその街で勉強することになったので、かつて家族が崩壊した土地を何度か再訪することとなった。
あの街に移り住んだのは21年前、そして離れたのもすでに15年前である。
それでも、空港に降り立ち、あの街の空を見上げるだけで、言いようのない悲しみに襲われ、突如嗚咽したくなる衝動に駆られるのである。それはまさに、衝動と言えるもので、決してだんだんと思い出が蘇って悲しくなるというものではなく、文字通り意識とは別の所から、情動が津波のように押し寄せてくる感じであるため、自分ではなかなか制御できない。
一昨日も、スーツケースを手にタラップを降り、素晴らしい天気に爽やかな気持ちを感じたのは一瞬で、地面に降り立ち、歩き出すや否や涙が流れてきた。バスに乗り換え、街中へ向かう途中、記憶によみがえるその景色を見ながら、気持ちがどんどん悲しくなっていくのを感じた。母を迎えに、または帰国の際に、何度となくこの道を走ったのである。中央駅に着いても状況は同じで、悲しみに包まれたまま、それでも15年経って変わってしまった駅前の様子を眺めていた。
別れて子供を連れて別居した後、初めて父親が幼い娘と長男を連れて2、3日遠出をすることになったとき、私はこの駅まで子供たちを送り、父親に引渡した後、一人で赤子だった末っ子を抱きながらボロボロ涙を流して、子供たちに手を振ったのだった。その時、家族を無残に引き裂いたのは、この私であるという事実を私は身をもって実感したのである。

その駅も背後に、新しくできた店で朝食を取り、しばし朝陽をたっぷりと浴びてから、私は大学へ歩いて向かった。そして長男が試験前の練習にやってくるのを一人カフェテリアで待っていた。

その後のことは、具体的に書く必要はない。

私は、最近になって、自分はやはり心理セラピーを受けなければいけないと実感するようになった。私は前夫と一緒にいた頃から、酷い神経症になり、パニック症候群や不安障害、連日の悪夢などで生活に支障をきたすことがあった。理由は前夫との関係にあったことは明らかである。別れた後最初の数か月は、いつ前夫が突然扉を叩いて静寂を破り、私に罵詈雑言を言ったり泣きついたりしてくるのではないかと不安で居てもたってもいられなかった。わずかな物音にも体が飛び上がり、存在を示すのが怖くて、テレビをつけるのも明かりをつけるのも躊躇したことさえあった。しかしそんな症状も数か月する頃から徐々に消えていった。

しかし、自分は幸せであると納得できる立場にいる今、突如また不安が襲ってくるのである。そして突然心臓の鼓動が高鳴り、いてもたってもいられない不安感に襲われ、発狂するのではと怖くなることがある。そしてこの不安感は、過去を消化できていないことに原因があるのだと、今になってようやく理解しかけているところなのだ。今まで思いもしなかったが、これはトラウマと呼べるのかもしれないと思うようになった。
そして、この乗り越えられない過去は、すべて昨日までいたあの街で起こったことなのである。
現にこれがトラウマでないのなら、15年前に去った街に降り立っただけで人は泣くものだろうか。そして何日間も鬱の状態から逃れられず、少女の声を聴けば涙を流し、小さな子供を見れば自分を責めずにはいられないなどということが起こるものなのだろうか。

子供たちが成人した今、私はできることなら、子供たちに明るい家庭を与えてやれず、一緒に遊んでやる時間も少なく、子供たちと過ごした記憶すらしっかりと思い出せないという、この終わりのない悲しみから逃れたい。
長男は半ば必然的にあの街で勉強することになった。ここには書けないが、そうせざるを得ない理由があったのだ。それで私は、再び過去に引き戻されることのなったのだが、それを私は一つのチャンスであると思うようになった。
記憶を上書きすることなどできない。それには起きた傷があまりにも大きすぎる。しかし私は長男を通してあの街を再訪し、街角をくまなく歩き周り、過去に遭遇してありとあらゆる思い出を消化すれば過去を乗り越えられるのではないかと思うようになった。長男は、子供時代に別れを告げ、自立での第一歩として幼い頃の記憶が一切ない状態で学業を1から始めた。そして父親と対峙することで、影の部分も含めて自分というものを知り、和解とまでは行かずとも、父親をも他者としてあるがままを受け入れるということを深い苦しみを通して学んだ。他者をあるがままに受け入れるためには、必ず自分を切り刻んで見直す作業を経なければできない。長男はそのすべてを体験したうえで、自分を再建したのである。長男が、まさにあの街でこの作業を行わなければならなかったことには、ある種の運命を感じざるを得ない。だからこそ、私にとっても、あの街には違う意味が生まれたとも言えるのである。私自身もまた、長男と同じように自分自身が老年に入る前に、乗り越えておかねばならぬ過去に直面していると考え始めている。それに至る前に、私は長男を通して、どうしてもあの街を再訪する必要があったのだと、今では考えるようになった。

子供たちの成長というのは非常に興味深いものである。思春期から青年期に入り、子供たちが人格を形成するちょうどその時期に、私自身も人生の岐路に立たされているわけである。老後の価値観と生き方自体を時間が迫るように問いただされているのだ。
子供たちの成長を見守りながら、常に何かがシンクロしているのを感じていた。娘の恋愛模様を見ながら、私は過去を何度も何度も振り返って娘に助言していた。間違えを避けてもらおうとは思わない。そうではなくて、人生で避けては通れない大事なターニングポイントをむしろしっかりと体験してほしい、苦しくても乗り越えてほしいと応援していた。そして、自分が一緒に泣き、悲しむ過程で、自分の過去を再体験していることに気が付いた。長男も同じである。彼と父親との対立は、私と前夫との対立と100パーセント同じパターンを示していったといっても良い。それを見守りながら、私はすべての感情を再体験していたのである。
すべての鞘の外にいた末っ子だけ、鬱という暗闇に呑まれてしまった。今やありがたいことにしっかりと回復しつつあるが、これも思い返せば、当然の成り行きなのである。別居してしまい、父親との接点が最も少なかった彼は、「家族」という感覚がないまま、当然のごとく思春期に鬱に入ってしまったのだった。

こうした子供たちの様子を見ながら、私は年々自分の罪の意識を知らずのうちに深めてきていたのかもしれない。だからこそ、不安発作に襲われ、悲しみが深まるばかりであったのかもしれない。

長男と私は、物事に対するハンドリングと考え方が非常に似ているのである。そして長男が大人になる過程で、私に素晴らしい贈り物を置いて行ってくれたのだ。それは素晴らしく成熟した演奏だけではない。私がどうしても乗り越えなければならない過去と直接直面させる代わりに、少しクッションを挟んで柔らかく直面させてくれた。彼の姿を通して、過去にすべてが起きた街を見て、再体験し、新たな意味を見出して、希望と共に乗り越えてほしいというメッセージをくれた3年間であったのである。そして彼の一昨日の演奏の中にこそ、その希望の光が象徴のように揺らめいているのが私には見えたのだ。だから、私は犬の散歩で自分の街に帰ってきたことを実感し、急に寂しくなったのである。長男からの贈り物の意味があまりにも大きかったからこそ、私は彼を恋しく思い出していたたまれない気持ちになったのである。
長男と試験前に過ごした慌ただしい午前中、試験後に皆で過ごした昼下がり、長男と二人での夕食、その後訪れた彼のアパート、次の日の朝食、そして一緒にじっくりと見て回った美術館、大雨に打たれて歩いたバス停までの道。互いに「そのこと」に触れることはなかった。が、こうした時間の中で、無意識のうちに長男は私に信号を送ってくれていたのである。

「ママ、大丈夫だよ。僕はしっかりと大人になったから。もう一人で生きて行かれる。ママもこの街を恐れることはない。僕たちはもう皆無事に大人になったんだから。皆過去をしっかりと見つめて乗り越えられる力をもらったんだ。それはママがまっすぐに目を背けずに生きていくことをしっかりと教えてくれたからに他ならない。だから、この街を恐れずに、怯むことなく歩き回って、ママも過去を過去のものとしてほしい。それが僕たちの願いなんだから。」

私は、演奏を何度も何度も繰り返し聞いてから、やっとこの思いに至ったのである。公園ではもやもやとしてはっきりとはわからないまま、長男のことを思い出し、とても悲しくなっただけだった。が、今こうしてやっと、自分が彼の試験を一人で聴きに行き、一人の時間をもってあの街で過ごしたことの意味と課題が明らかになったのである。

子供たちは一人一人が違った形で、こうした信号による素晴らしい教示を送ってくれる。
私はいつまでも自分の至らなさを反省しながらも、人が成長する、その麻のようにまっすぐに伸びようとする自然の力を心から信頼するようになった。そして、私は子供たちから少なくともまっすぐに伸びていこうとする力を奪うほどにひどいことはしなかったのだという事実も信じて良いのかもしれないと思うようになった。

長男に、そして子供たち全員に、心から礼を言いたい。

(長男の試練:https://tokyoniobe.blogspot.com/2017/05/blog-post.html)

2018年11月16日金曜日

また一年が過ぎ…

あっという間に一年が過ぎてしまう。前回の投稿が一年前の夏だったことに愕然とする。そして…、この一年は決して安泰と言える年ではなかった。様々な過去の断片が蒸し返すように表出し、現在の状況と複雑に入り混じりながら、私は心の整理を再び強いられたような一年だった。

昨年のクリスマスに子ども達が集まったとき、2年前に涙を流して過去を洗い流し、平和協定を結んだはずの長男と長女が突然理由にもならない些細な一言で文字通り再び決裂してしまった。それはイブの晩の出来事で、一生懸命作ったご馳走に手を付けるかつけないかという時だった。つまり、その後のプレゼントのお楽しみも台無しになってしまい、間接的に傷つけられた末っ子も「どっちみちうちの家族は崩壊してるんだ!」と捨て台詞を吐いて自室に籠もってしまった。

傷ついたのは末っ子だけではない。長男も長女も、そして私も同じように深く傷ついてしまった。家族が集まって絆を強めようという時に限って、こうして亀裂がもっと深く、もっと大きく広がってしまう。親としての責任感が限界を感じるほどに私の胸を締め付けた。

しかし、それは大きなドラマのほんの序曲でしかなっかったのである。
よりによってその晩、父親から電話があり、思春期の真っ只中で精神的な父親殺しの最中であった末っ子は爆発し、状況は一気に地獄に突入してしまった。
尤も、父親の言い分も大変勝手なもので、次の日に飛行機に乗って自分のところへ来い、その話はしてあったはずなのに、なぜ手配してなかったのだと、末っ子を半ば叱りつけたらしい。子供を呼び寄せるなら自らが飛行機を手配するなりして進行させなければ子供は動かないのに、無論そんなことを彼にできるわけもないのだ。
事態はさらに急展開し、娘ともあれを言った言ってないと電話口で揉め、終いには娘に嘘をついたのは許せないなどと有りもしない事実を怒鳴りつけ、彼女はバスルームに入って呼吸ができないほど嗚咽し、その前の長男との出来事もあり文字通り倒れ込んでしまった。
子どもたちをそこまで追い詰める彼の神経が信じられず、「自分の思う通りに動かないという理由だけで、よくも子供たちのクリスマスイブを台無しにしてくれたわね」と私は彼に怒鳴りつけた。
…これが去年の素晴らしいクリスマスだったのである。
その後、私達が精神的に立ち直れるまでに2週間ぐらいはかかったのではないだろうか。

これをきっかけに、ある意味で大変な一年が幕開けしたのである。あれもこれも書けばきりがない。しかし、この一年の主役であったのは間違えなく末っ子である。一時期は中度の鬱病となり、学校にまったく行かれなくなった。もともとの原因が私達の結婚生活の崩壊にあることは明らかだった。二度も転校させたが、とてもそうしたことで兆しが見えるような軽い問題ではなかったのである。私も夜中に呼び出され、眠気を堪えて話を聞き、一緒に泣き、それでも出口の見えない日々を過ごしてきた。私が本気で一緒に苦しまなければ、この子は回復しないということはわかっていた。親子という関係があるからこそ、同じ次元に降りて同じ深みにはまって同じ目線で苦しみを見なければ、子供は私を信頼することはない。鬱の心の世界の暗黒さは、たとえ傍から見ただけでも、私自身の心をもたちまち真っ暗に塗り込めてしまった。その重さを背負い、信じがたいほどゆっくりとした速度で共に日常を一歩一歩前進してゆくこと以外に目標は持てなかった。もはや学校などというテーマは口に出せるような状況ではなかったのだ。

父親と一緒に暮らしたことがなかったからこそ、できるだけ平穏に末っ子を育ててきたつもりだったが、ルーツというのは容赦ない。末っ子の心には、私の知らない欠落と深い欠乏感と絶望、そして父に対する怒りや崩壊家族に生まれた深い孤独感が常に存在していたのだった。それを思うと「単に受け止める」などということはできない。毎日積み重ねてすくい上げるように一言一言に耳を傾けなければならないのは、私の当然の役割だった。

結局、他の子供達に負けず、末っ子も自分なりの思春期を全うしたのだ。
繊細な子供にとって思春期はより激しい形で襲ってくる。それほど思春期の精神状態は耐え難く、誰しも気分障害になる。思春期で一度子供は死を体験し、そこから再生するという河合隼雄氏の言葉の意味が、3人の子どもたちを育てた今になって、より一層重く身にしみるのであった。

それにしても別れて15年以上経った今、子どもたちが背負った傷の深さ、複雑さ、そして生々しさを改めて思い知ることになったのである。人生とは、本当に苦しい。しかし、やはり若ければ若いほど苦しみが深いのではないかと、今はそんな気がしている。

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料理をしながら、私が3人の子供と4人で生活していたとき、ドイツを訪れた母が作ってくれたハンバーグを思い出した。夜7時過ぎに仕事で帰ってくると、母がキッチンで一生懸命大量のハンバーグを作ってくれていたのだ。その頃すでに母は年老いており、ドイツで1人でスーパーに買い物に行ったり、私無しで自発的に料理や外出をするということはできなくなっていた。おそらくあのハンバーグが、母が私と孫たちに作ってくれた最後の料理だったのである。
それを思うと、無性に寂しくなってしまった。あのハンバーグは決して上出来ではなかった。しかし、そこには愛情が込められていた。今の母にはもう料理することはできない。できなくなっていくことが一つ一つ増えていくのが老いの顔である。老いが憎いと、時々そう感じる。しかし人間は誰しも死を避けて通ることはできない。年を重ねれば死を語るのが怖くなくなるという。確かに私は今、死を思っても怖くはない。しかし、80歳を超えた両親を見ていると、死を語るもなにも、死そのものが背中に張り付いているような気がしてくるのだ。本人達にも見えてはいないのだが、確実に死が背中に密着している。そしてどれだけ太陽が明るく、花々が咲き乱れ、自然の素晴らしさを実感しても、心中が晴れ渡ることはもはやないのではないかと、そんな風に思えてしまうのだ。死は怖いものではないのかもしれない。しかし、死が訪れるとき、人は誰しも必ず一人きりである。だからこそ、死が近づくと一層孤独が深まるのだと、そう確信している。

2017年10月15日日曜日

娘の帰宅

娘が10か月ぶりに帰宅した。むろん家族に会うという目的ではなく、友人がオーガナイズするギグに参加するためにほんの3日間滞在するだけである。
楽しみかどうかといつも問われるのだが、それはどこかで楽しみであるけれど、実際は不安の方が大きいのだった。娘が成長した今、私たちが険悪になることはほとんどなくなった。だからそのことを心配しているのではない。そうではなくて、私は娘の心の一挙一動を感じ取り、自分の気持ちも100%彼女の気持ちに覆われてしまい、彼女の心の中にも全く同じことが起こってしまうという、その自分たちでは制御できない相互作用を恐れているのだった。

迎えに行った日、様々な都市からの旅行者が続々と到着口から噴き出してくる中、ロンドンスタンステッドからの客を見分けることはそう難しくはなかった。特にあの格安飛行機の乗客は、その若さとパーティー気分で直ぐにわかるのだ。ほろ酔い気分の若者が、旅の興奮に舞い上がって、大きな声でロンドン訛りの英語を響かせていた。服装も実に個性的で、ぶっ飛んだ格好の若者たちは、まるでショーディッチやダルストンの一角をもぎ取ってきたような様子だった。その中に、娘はいた。彼らの中に、一切の違和感なく溶け込んで、娘は私たちの方向に笑みを浮かべてずんずんと歩いてきた。元気そうだった。苦労経ても少し丸みを帯びたような気さえした。ここでも、無事到着した安堵は感じたが、嬉しいという気持ちよりも、目に見えない小さな不安の存在に気づいてしまったことで、小さな黒雲の入る隙ができてしまったことで、むしろ悲しみを覚えたほどであった。

その晩は、遅かったが前からカクテルをごちそうしてやりたいと思っていたので、バーに連れ出して二杯飲んで帰宅した。彼女はコミュニケーション能力に長けており、皆にオープンなのでその場が非常に楽しくなる。私は随分と静かな人間になってしまったので、彼女のエネルギーに驚かされた。このエネルギーをフルに回転させて、どんなに苦し事にも立ち向かい、一人で乗り越えている彼女はたくましくさえあった。彼女を見ていても昔感じたような憐れみは全く湧き起らなかった。随分大人になったのだと実感した。

次の日の晩は、娘を美味し夕食に連れ出した。これも兼ねてから食べさせてやりたいと思っていたので、存分に注文してもらった。娘は嬉々としてたくさん食べ、たくさんお礼を述べてくれた。子供がもりもりと食べる姿ほど親を喜ばせるものはない。私も満足であった。

3日目、いよいよ彼女が友人のためにギグをやるという日、ピアニストが来て練習をしていたのだが、どうやら友人のオーガナイズに不備があり、ピアニストは激怒し、娘も怒り出した。多くのファンや友人たちが、娘を聴きたいと思ってわざわざ来てくれたのである。ロンドンに飛び出して2年、今はどんな曲をどんな風に歌うのか、全員が楽しいみにしているそのプレッシャーを娘は背中に感じ取っていた。しかし友人には、そうした娘の立場は全く理解できておらず、じゃあ単に来てくれれば、音楽こっちでアレンジするから即興して歌ってよという態度を変えなかった。娘は、そうした半端なことを一切やりたくないと決心していたので、プレッシャーが募り、友人を蹴るわけにもいかず、かといって自分で客に説明するわけにもいかず、相当ないら立ちを見せていた。
そこで、彼女は男友達に電話を入れ、よくよく聞いてもらい、力つけたように見えたのだが、彼が違う女性シンガーとツアーに行くという話を聞いて、さらに悲しみに心が覆われてしまった。

私は彼女をその場所まで送って行ったのだが、私自身の神経がピリピリとなり、まったく慰めたり、心を楽にさせてやることができない。むろん、彼女は人に何を言われようが、慰めなどを受け取る人間ではない。それにしても、私はすっかりと深い悲しみに包まれてしまい、今すぐにでも涙が出そうなぐらいであった。
今回の彼女に襲い掛かったストレスは、決して彼女自身が引き起こしたことではない。友人のためにと思って飛行機をとり、ただで歌いに来たのに、何も自分のためにオーガナイズされておらず、サウンドチェックさえ終わらないまま、単に来て即興で歌えと言う態度をとられ、彼女のファンに対する責任を全く理解しないその友人に怒りがわくのも当然であった。その上、心配して何でも話してと言ってくれた男友達から、最後につまらない話まで聞かされ、自分のキャリアのために最近すべてを投げうった彼女にとって、その悔しさは彼女の今のストレスにさらに拍車をかけて、心を燃やしてしまうほどの火玉となって彼女の心の中で飛び散っていたのに違いない。

どのような苦しみがつらいかと言えば、自分ではどうしようもできない状況で、自分の名を汚さねばならない現実と、自分が手にしかけている最初の一歩の手前で、一番大切な男友達がすでにその一歩を踏み出した違う女性シンガーのサポートでツアーに出ると言う、その何とも言い難い悔しい気持ちより辛いことは、今の彼女にはあり得ないだろうと言うのが、私にはつくづく感じられるのであった。それで涙腺が弱っている。一緒に苦しんでしまうのだ。彼女の気持ちが生のまま、彼女の心の中で起こるのと同時に私の心の中に伝わってくるのである。

あの子は、必ず何かをなし遂げる。仕事に対する心構えと、プロ意識が実にしっかりしている。ドラッグや酒にまみれずに、カジュアルなくせに根本で絶対に自分を見失わずに、酒を飲んでもシンガーになるという目的を一秒たりとも失わずに、呪文のように唱えて一直線にそれに向かっている。そのために無駄なことは一切せず、全てをかけている。そういう生き方は、当然父親譲りなのだが、見ている者の心を打つのである。私は娘の気持ちに乗っ取られたから悲しいということに間違えはないが、それとは別に、娘の歌に賭けるすさまじいまでの精神力と闘争力と、その真剣さに心を打たれるのである。

彼女の父親の隣に生きた12年間はすさまじかった。エネルギーを吸い取られたが、感動の毎日であった。彼の音楽を聴けたから感動していたのではない。そんな即物的な感動ではなく、彼と言う存在が人を揺り動かすのである。その血走った生きざま、精神力、闘争力、そういったものが、私の皮膚が直接感じ取り、鳥肌が立つまでに圧倒され続けた、その感動なのだった。そして、それを娘は持っている。だから彼女に人が感動するのである。だからあの男友達が、彼女を「必要」としているのである。娘は凄まじい力を持った人物なのだと改めて実感させられるのであった。

彼女は、成し遂げる。それは確実なことである。でもそこに至るまでの彼女の過剰なまでの心の揺れに私自身も揺さぶられてしまうのである。親子だからというよりは、彼女の存在そのものが、人を揺り動かす、その力によって揺さぶられているのだ。彼女が大きく花開くまでのその苦渋に満ちた道のりを私は一緒に体験しているということなのだった。

舞台に立つ彼女の父親は素晴らしいオーラを醸し出している。びくともしないプロの自信と人を感動させるカリスマがあった。しかしその裏で、彼は自分を罵倒し、時に人を罵倒し、泣き崩れ、どん底に落ち込み、そしてしばらくすると得体のしれないところから、再び血走った様相でエネルギーを振り絞り、確実に立ち上がるのである。それをただただ繰り返しているその姿を私は長年見てきた。人の心を動かす才能を持って生まれた者の苦しみは、傍にいる人を一緒にむしり取って気持ちに渦に巻き込む、そういう激しさがある。娘との再会に一抹の不安を感じてしまう私は、そうした彼らのエネルギーに巻き込まれるしかないことを知っているからこその不安なのであった。

私には何の才能もなんの実力もない。しかし彼らの心へ通じる扉を私自身の心の中に持っているらしかった。だから彼らは私を選び、その扉を意識もせずに開き、私の心の中にずかずかと入ってくるのであった。しかし、私はその扉があるからこそ、苦しまなければならないことがあるとしても、彼らの生きざまをその扉を超えて、まさに一心同体で体験できることで、何度心を打たれてきたかしれない。人間として、私はそれを垣間見れただけでも素晴らしいことであったと実感している。創造でき、人の心を動かすことのできる芸術家を観客として味わうことは素晴らしい。かけがえのない心への刺激を感じ、心臓が揺さぶら思いを体験できる。しかし創造でき、人の心を動かすことのできる芸術家の生きざまを、一心同体に生きることは、時にその同伴者を破滅に導くこともある。道半ばで血まみれになり、息も絶え絶えになったとしても、その相手を見上げると、太刀打ちできない血走ったエネルギーに圧倒され、ある種の感動としてその同伴者は中毒状態に再び陥ってしまうのである。

そうした種類の人間の隣に、自分の破滅直前まで、寄り添えたことが私の人生のすべてであり、そうした人間の子供を得たことで、私は人生を全うしたとさえいえるのであった。どのぐらいの頻度でこうした血が受け継がれるのかわからない。しかし、こうした人間はその後世の中の文化して大切なものを残す可能性がある。娘を語るとき、だからこそ私は彼女の父親を語らないわけにはいかない。娘には彼の何かが確実に受け継がれているのだった。私はそうしたことに本当に今更になって気が付き出しているのである。






2017年8月11日金曜日

急に状況が変わりだした。
母の容体が思わしくないのはいつものことだが、父の精神状態も限界に近づいているようであった。老いているからであろうか、一度そちらの方向に動き出すと、転がるように状況が変化してしまう。

私は故郷で怒りを買っているようである。
親を除く家族に対して、私は謝罪を要求されているようである。
確かにその場にいないのだから謝罪して当然なのだろう。それで済むのなら、何度でも頭を下げる。

しかし、感情的にはとてもつらいものがある。傍から見れば「好き勝手」で「我儘」で「はちゃめちゃ」で「我慢が足らない」ようにしか見えないとしても、自分としては今まで一秒たりとも人生を「軽く」捉えたことはない。毎日必死の思いで乗り越えてきた。他人を責めずとも、自分を責めなかった日はない。しかし何万マイルも離れている所にいる誰かが、どうしてそれを理解できるというのだろう。
外部から見える事象だけを追っていれば、単なるバカにしか見えないのかもしれない。それも十分理解できる。

今更、弁解するつもりも理解してもらおうと努力するつもりもない。その代わり、ほぼ自分一人で戦い抜き、築いてきたほんの僅かながらの「何か」を犠牲にしてまで故郷の人々に納得してもらおうとは思えない。私の払った対価のことは、私自身が一番よく知っている。払った労力などすでに忘れ去ってしまったが、それで得た小さなものは、とてもじゃないが、どんなことがあっても手放すことはできない。私の人生の全てと言っても良いものなのである。

それは自らが壊した家庭をゼロ以下から苦労して一人きりで再建してやっと得ることができた、ごく小さな私だけの「家族の絆」である。子供たちの傷は最初の頃よりも、思春期になってからの方がよほど明らかに表出し始めた。私は申し訳ない気持ちがあったからこそ毎日自分を叩きのめした。自分がこれらの嵐に巻き込まれて負けたら、子供たちはバラバラになる。家庭再建の機会は二度と巡ってこない。そう知っていたからである。

登校拒否も、暴力も、家出も、酒もドラッグも全部ありだった。特別にぐれていたわけではない。ただ心に空いた穴は、ほかの子供以上に深かった。年頃になって再び魂から血が流れだしたと言えるのかもしれない。それを目の当たりにして、無責任に目を背けたり時が経つのを待ったりすることはできなかった。毎日毎回、一緒に何時間でも私は彼らと向き合った。苦しかったが、それ以上に彼らは大切だった。

何はともあれ、三人の思春期は大方終わった。そして私は今辛い気持ちになると「でも、私には私だけの家族がある」とつぶやいて自分を慰めている。そう呟けるようになったのは、ここ1年ぐらいの話で、それ以前はずっと孤独で、まさに四面楚歌のような気持ちで手を離れようとしている子供たちを必死に守ろうとあがいていた。今は、子供たちの姿を思い浮かべるだけで、温かい液体が体中にゆっくりと充満してゆくような感覚に満たされる。彼らには感謝してもしきれない。
子供たちは成長し、二人は家を去ったが、その代わりに私は心の中で、子供たちとの絆を実感して、それを文字通り、もう離すまいと手に握りしめているのである。

このごく小さな温かい安らぎを得るために通り過ぎた時間を考えてみると、とてもではないが、私の魂が必死に乗り越えてきたこの地を捨て去って、本格的に帰国などという話を思い浮かべることすらできない。
これはどんなに恨まれようと、一点も譲れない部分である。私はこの地を去らない。この地が私を育ててくれたのである。私を大人にしてくれ、意識を変革させ、新しい出発の機会を与えてくれ、私に生きることの何であるかを教えてくれた。今の自分は日本で生きていたらあり得ない姿なのである。良し悪しに関わらず、私は猿真似をして日本を捨てたと言われようが、その代償は十分払ったつもりでいる。自らの意志で、当地が故郷であると迷いなく選択する。

私の両親は、私の心の隅々まで理解しているに違いないという信頼感がある。私は両親との絆を強く感じている。不思議なことに、絆があれば、距離感など怖くないのだ。物理的な苦労はあっても、心は常に一つであると実感できる。私が帰らなくても、彼らは決してそれを責めることはない。甘えかもしれないが、それは絆のなせる業ではないかと、今ではそう考えている。私も巣立った子供たちを引き戻そうなどとは決して考えない。どんなことがあっても、縛り付けてはいけない。そう心している。

日本には帰らないと固く決心したのは、2010年である。20年滞在したあと、仕切り直しを一度考えたが、種々の理由で実行できなかった。その時、もう二度と帰るまいと決心したのだ。しかし、矛盾するようであるが、つつましやかで目立たないが一生懸命にそれぞれの人生を生きている日本人が多く写る集団の写真などをみると、わけもなく涙ぐむのである。日本なんか帰るもんか、と言っているのではない。日本が愛おしいという気持ちを抑圧しなければ、絶対に乗り越えられない時期があった。だからと言って、その気持ちが小さくなったことはない。抑圧しているだけに、ふとした瞬間に涙腺が崩壊する。彼らを見るたびに、そして日本の気配を感じるたびに罪悪感を感じ、安らぎを捨て去った自分と、当地では埋めきれない深い孤独を思い知らさせれてしまう。行く先々で知らない人に知り合うと、ここで育ったのかと訊かれる。しかしそれが何だというのだ。そんな希少なことよりも、未だにまぎれもないFremdkörper(異物)であると思い知らされる場面の方が、はるかに多いのである。

それだけに、やっと得た「小さな家族の絆」だけが、私の心の中で唯一小さく揺らめく一点の灯なのである。目をつぶってこの小さな消えそうな光を必死で見据えると、私の魂が静かに安らいでゆく。心の中でただ一つの安全な場所なのだ。それを捨てることは、やはりどう考えてもできない。

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苦しい時に、見事なタイミングで娘から電話が入った。親の私が甘えてあまり元気じゃないと伝える。「どうしたのママ。元気じゃないなんて。大丈夫だよ。最後にはみんな理解し合える。必ずまた直ぐに気持ちが楽になるはず。また明日必ず電話しようね。私にいろいろ話してくれればいいよ、私も色々と知りたいから。元気出してね。」と言われた。言葉で書いただけでも立派な発言であるが、あの子が口にすると、まるでセラピストに慰められているような効果があるのである。胸の中心から心が徐々に温まっていく。「まるでセラピストみたい。どうしてそうやって人の心をつかめるの?あなたはやっぱりすごい。」そう伝えると娘は「どっちがセラピストなの?私が一言いえば、ママは千もわかってくれるから気持ちわるい。そっちこそセラピストでしょ」と言われた。こんな会話を娘とできるようになるなんて、どうしてあの時考えられたというのだろう!また申し訳ない気持ちと感謝とが入り混じて涙ぐんでしまう。すでに子供は私をはるかに超えているのである。あの子は大丈夫、あの子は大丈夫と呪文のように唱え、感謝した。

続く








2017年6月30日金曜日

平穏に潜む老いへの恐怖

平穏な日々が続く中、少しほろ酔い気分になりながら、ふと聴きたいと思うのはバッハなのであった。そして聴けば胸が締め付けられる。
私には、制御しがたい情動と言うものがあったはずなのだ。そんなものは大人になるためには、邪魔以外の何物でもなかった。しかし絶えず自分のそうした情動に振り回されながら、一体何が自分の本質で、目指すところは何であって、何を失ってはならず、何を変えていかねばならないのか、そうした方向性をまったくわからないまま、壁伝いに手を当てて、真っ暗闇をまさに手探りで伝い歩きながら、何度も激しいどん底を体験して、ようやく光が見えたのが2013年頃だった。それ以来、私は少し平穏や安定というものを体験できるようになったが、情動というものに振り回されることはすっかりなくなってしまった。それが寂しいという感覚もない。ただ、焼けるように音楽を求めた日々、へたくそでも何時間も音楽を奏でなければいてもたってもいられなかった日々、できもしないのに、自分の奏でる音に涙が止まらなかった日々というのは、一体どこへ消えてしまったのかと思うのである。それが寂しい。何も感じなくなった自分が寂しい。安定と言うのはこのように平坦な世界であったのかと知ると、決して昔に戻りたいとは思わないのだが、寂しくていてもたってもいられなくなる。
これもセンチメンタルに思考しているつもりになっている若い未熟さを失っただけの話であると、理性ではわかっているのだが、やはり年老いるということは、失いつつあるものを如実に目の当たりにするということであり、ある種のやりきれなさとは切っても切り離せないということを思い知らされる。
今、目標と言えるのは、未来の職業でもキャリアでもなく、子育ての理想でもなく、死ぬまでにまだどのぐらい自分を成熟させることができるだろうかと言う葛藤である。
しかし、哲学書や詩を読んでは涙に暮れていた感受性は理性にまみれて眠ってしまった。もう決してあの新鮮な感覚ではどんな書物にも巡り合うことはできない。そう思うとさらに絶望が目の前に広がるのである。
今まで生きていて、世界はましになったかと言えば、一方でましになれば、他方でまた新たな問題がせりあがるといった具合で、一項に収まる気配はない。こうした改善の難しさを見せつけられる世の中で単に100年に満たない命を全うする時、個人というレベルで如何ほどのことができるのだろうか。個人レベルにとどまって、せめて家族を幸せに、家族の繁栄と、家族の資産を増やせば責任を果たしたと言えるのだろうか。それが大人として生きることの課題なのであろうか。と、こんなバカな思考に問わられながら、自分はいったい大人になったのはいつで、いつまで青年時代を生きていたのかという境界線があいまいなまま、未熟な意識と共に50歳を迎えてしまった。
そんな時、私の感覚がいまだに衰えておらず、今でも鳥肌が立つような生への欲望があると実感させてくれるのはバッハなのであった。バッハの和声を聴くと、深い深い底辺に潜む本質が何であるのかを訴えかけてくるような揺さぶりを受ける。
個人の情動を制御し、子孫を育て、教育を与え、自分を成熟させ、伝統を引き継ぎ、愛情を育み、博愛を自ら実践するという人としての義務を全うするために、自らに課すべき試練と、自らに与えるべき精神的肥しが何であるかを思い知らされるのである。

歳を重ねるからこそ、哲学しなければならない。哲学は未熟な青年期と老年期にこそ、自らを追い込むように読み込まなければならない。そして消費を減らし、外部からの刺激に揺さぶらることのない、自分だけの価値観を築かなければならない。自分と自己をつなぐ糸を見失ってはならない。つまりいかなる時にも、直ぐに自己と対話できるような直結感を保ていなければならない。価値観を世間ではなく自らの中心に移していかなければならない。

社会とのつながりに果てしない感謝を注ぎながら、社会への義務を全うし、そして自己との糸をより一層に強めていかなければならない。死ぬことというのは、自己との対話に他ならない。自己を十分に納得させることが許しを得るということなのである。死が訪れるまでに、自分を十分に対話をする関係を築いていかなければならない。
それには失ってしまった感性を成熟への肥しとして利用するのではなく、自分自身に対する感性として再建しなければならないのである。
もはや成長はできないが、次第に視線を自己に戻して行き、何度でも振り返り、自分なりに過去に納得するまで何度でも噛み下さなければならない。その間、謝らなければならないことも、感謝を述べなければならないことも、さらには告白しなければならないことも出てくる。それを一つ一つぶれずにこなしてゆくことで、老いだけが達成できる深みと静けさへと到達することができるのではないだろうか。

そうした意味で、バッハには老若男女問わず、自己との対話を促進してくれる素晴らしい効果がある。感情や感性はメロディーであっても、和声への愛着には、さらに深い骨髄から揺さぶるような計り知れないKraftが眠っているのである。

私はフランス組曲やイギリス組曲を一つずつ少しずつ丁寧に奏でてゆくことで最も癒される。せめてどんなにへたくそでも奏でたいという欲求が失われたことはない。物心ついたころから、ミミズ腫れができるほど毎日太ももを叩かれて練習してきたことの恩恵である。それで自己を見失わずに救われている。

本質は、老いが怖い。その一言に尽きる。親を見ていると心苦しくなる。老いとは決して戦うべきものではないが、立ち向かうべきものではあるのだ。時間に負けてはならない。人間として時間に対決してゆかねばらないと思う。これを実践するのが、この世の中で最も難しいことであると実感するのであった。