この頃の欝は酷くて、突然泣き出しては、自分でも何を考えているのかわからなくなることがある。
何が欠けていてそれをどうやって手に入れたらいいのかも全く見通せない。
Massimoに会って以来、不思議なことがおきているのだ。
Massimoからは、二通形態のメールをもらった。
一つは再会がすばらしかったと。もう一つは週末の小旅行が終わったら連絡すると。
それ以来、私は一日中はなしたイタリア語が口をついて出てしまい、家でもイタリア語のラジオばかり聞き、夜中にはイタリア語の音楽を聴きながら、涙が流れてしょうがないと言った有様なのである。
今も、ワインの入った頭で、思うに任せて書いている次第である。
恥をさらそうが、無教養なことを書こうが、そんなことはどうだってよいじゃないか。
何が、私をこう熱くし、何が私の心をこう締め付けるのか、それをなかなか受け入れたくないのである。
Massiomoというのは、私にとって男性でもなく、友人でもなく、イタリアへの扉である。
もちろん、彼は私に良くしてくれるし、今後も友人だと思って、交流がしばらく途絶えることはないと思う。
けれど、私は彼など全く眼中にないのではない。
私が、ここ何年も、毎年のようにイタリアに休暇に行き、思い出の地ばかり訪れ、写真に収め、新しい色に塗り替えようとし、涙を流して、永遠に続くと思われる丘陵に落ちる夕日を脳裏に焼き付けて帰ってくるのは、他でもない、一心に、彼を忘れようとしている行為なのである。
しかし、あの魔物は、夜になれば襲ってきて、私を悲しみの世界に陥れ、再び、私はこの思いから開放されることはないのだと実感する。
Massimoでもなければ、イタリアでもない。
彼が日本人であれば、日本であるし、彼がドイツ人であったなら、それはドイツなのだ。
ええ、はっきり言わせてもらえば、私は孤独だし、それでも背筋を伸ばして凛と生きているつもりだけれど、自分の有り余る感情に振り回されて、まるで愛することのできない自分が、気が狂ってしまったように暴れだしてしまいそう、と言った状態なのだ。
何の儀式をすれば解放されて、何のまじないをすれば、私があの愛から逃げ出すことができるのかはわからない。
とりあえず、愛することも知らない人間に、愛していると言うふりをされ、束縛されると言う苦痛からは足を洗えた。
再び、あの問題に向き合った私は、一生その影を背負い続けると思うと、本当につぶれそうになるのだ。
自分の人生を思い描くだとか、自分の人生を物語るとか、そんな冗談を言っている場合じゃない。
私は、自分の物語の方が私を支配していることを実感している。
渡してしまった魂を取り戻すために、私は何をすればよいのか。
思いっきり、自分を痛めつけ、汚してしまえばよいのか。
いや、救われるべきは、許されるべきは、実は私なのだから、残されるは、殆ど祈りしかないと言うことなのだろう。
本当に、本当の意味で、コミットしてしまうことは、ここまで一人の人生を支配し、ある一つの牢獄に閉じ込めてしまうものなのか。
早く、鬱が過ぎ去るのを待つしかない。
2010年5月15日土曜日
2010年5月10日月曜日
書くということ
ドストエフスキー「地下室の手記」より引用
… たんに思い出すだけでなく、書きとめようとさえ決心した今となっては、せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実の全てを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。ついでに言っておくが、ハイネは、正確な自叙伝などまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず嘘をつくものだ、と言っている。
[中略]
ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分一人だけのために書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、僕がまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽだけの形式であって、僕に読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
僕はこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序も系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
[中略]
だが紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると説得力が増すようだし、自分に対しても批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくると言うものだ。そのほかに手記を書くことで気持ちが軽くなるということがある。
… たんに思い出すだけでなく、書きとめようとさえ決心した今となっては、せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実の全てを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。ついでに言っておくが、ハイネは、正確な自叙伝などまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず嘘をつくものだ、と言っている。
[中略]
ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分一人だけのために書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、僕がまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽだけの形式であって、僕に読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
僕はこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序も系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
[中略]
だが紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると説得力が増すようだし、自分に対しても批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくると言うものだ。そのほかに手記を書くことで気持ちが軽くなるということがある。
ぼた雪にちなんで
迷いの闇の深いそこから
火と燃える信念の言葉で
おちぶれた魂を引き上げたとき
おまえは 深い苦悩に満たされ
両の手をもみしだいて
おまえをとらえた悪を呪った。
物忘れがちな良心を
思い出のかずかずで責めながら
私の知るまでのすべてを
おまえはものがたってくれた。
そして ふいに両の手で顔をおおい
羞恥と恐怖におののきながら
おまえとは 心ゆく涙にくれた、
怒りと 心のたかぶりを
どう抑えようもなくて…云々
N・A ネクラーソフの詩より
2010年5月5日水曜日
Con chi condivido le proprie passioni?
今日は春らしかった。
最近は気温が上がらず、コート無しで素足で外に出るわけには行かないが、それでも太陽の光はまぶしいほどであった。
昼前、私はマッシモに会いに行った。
マッシモに知り合ったのは最近なのだ。とあるパーティーで顔を合わせた。
彼はイタリア語しかできない。英語もそこそこで、まともに自己表現できるのは母語であるイタリア語のみなのだ。東洋人の顔をした私が、突然それならばとイタリア語を話しだしたのが珍しかったのか、その後もコンサートなどに誘ってもらった。
彼はコンセルヴァトリオでチェロを学んだのだが、ディプロムを取ることなく、彼にはアカデミックに見えた高等教育を嫌悪してドロップアウトした。
その後、散髪屋の父親の下で、修業をし少し散髪などもできるらしい。
訪れたコンサートで、彼の自然な才能に驚いて、その後何回か呑みに行ったという仲でしかない。
彼の母親は半分ドイツ人で、20歳の時イタリアに移住したと言う。
自分のルーツを知るために、変化を保つために、自分の可能性を知るために、根なし草生活を続けているという。
彼は、週末Boxhagener通りの大きなフリーマーケットで店を出し、若干お金を稼いだり、知り合いのイタリア人の店を手伝うなどして食いつないでいる。
頭の切れる男性だが、アカデミックなものやインテレクチュアルなものに対するアレルギーが強いらしい。尤も、学校が大嫌いで、ドロップアウトした当時も何の職業も習得せずにいたというから、なかなか私などには理解できないライフスタイルだ。
家の要らなくなったもの、子供たちのおもちゃやそういった古いものを彼に処分、つまり彼のフリーマーケットで売りさばいてもらうために久しぶりに連絡を取ったというだけの話である。
地下の荷物を車に運び込んだだけで、階上のアパートに他の荷物を見に行ったまま、私達は4時間も話しこんでしまった。何を話したか。そんなことはあまり覚えていない。少なくとも、政治の話でも本の話でも、共通の知り合いが入るわけでもないので、誰かの話をしたわけでもない。互いの人生を延々と説明したわけでもない。
しかし、何か大切なことを話したような気がする。
ベルリンの生活がどうだとか、今現在、私が夫と別れたあとどんな気持ちなのかなど、そんなことを話したのだと思う。
友達というには、あまりにも知らない人なので、知人と言う感覚だ。私はそういう人は、殆どカードの内を見せない。極実用的に会話をしていただけである。
ところが、何気なく話していると、何度か涙が湧き出てきそうになった。
もちろん相手にはそんなことおくびにも出さなかったつもりだ。私は親しくない人には、弱みを見せない人間なのだ。
目頭が熱くなるたび、自分の中の感情は、まだ新鮮なのだと実感した。まだ湯気が出ているほど、「現在」に属する感情で、それに触れただけで、一瞬でも理性が負けそうになるのである。
べらべら話していたら、彼は突然声を大きくして遮った。
そんな風に身体の前で腕を組むのをやめろよ。それは自分を閉じている証拠だよ。
そう言うと私の腕を解き、手をとって、とても暖かく、私を楽にするために抱擁してくれた。それは、私が悲しい顔をして夫との話をしていたからではない。
彼の目には、私がこぶしを握ってドイツの大地に脚を付き、戦闘的に生きているその姿が、私の話しっぷりから見えたのだと思う。
それを哀れに思ってくれた彼は、おそらく人間として私を楽にしたい、いやそんな言葉ではなくて、単に抱きしめてやりたい、そう感じたのだと思う。
触れあいは、距離をずっと縮める。その感触が暖かければ、正直な信頼感が生まれてくる。
その後もしばらく話し込んだ。そして、私は何ヶ月もこのように、自分のおなかの中にずっとしまっておいた私自身の話をしたことがなかったことに気がついた。
私は殆ど誰にも私の魂を見せないし渡さない。その辺は石橋を叩くように思慮深い。傷つくのが嫌なのだ。ならば孤独を耐える方が数倍楽なのである。
魂を見せるということは、私が裸となって自分をゆだねることと同様なのだ。
今日、彼は私に歩み寄って、私に触れて、私の魂をちょっとだけ動かした。
君はね、大事なものを持っているよ。君には、たくさんのことが隠れている。自分を解放してやりな。君はリラックスしているし、ナーバスでもなければ、内気だとも思えない。けれど、君の家族や君の家族が背負ってきたものが、君を形成しているじゃないか。それを本当の意味で切り離すのは簡単じゃない。経済的、物理的独立は、本当の意味の切断とは違うよね。
君の中には、たくさんの整頓された引き出しがあって、それが融合していないんだよ。
Lasciati andare..... (自分を自由にしろよ)
君は、見る限り、とても強い女性だね。とても芯が強い。
その強さが私の過去の産物。
もう男の人など要らないとは思うなよ。
人間は社会的な動物なんだから、一人なんかで生きられるはずがない。心をオープンにして。
彼の言葉を今振り返ると、如何にも私は肩肘張って生きているのか分かる。
男の人なんか要らないのかって、自分でも思うよ。
そうそう、そういう風に見える程だよ。
今のこの現状では、私は幸福だと思うのだ。
しかしどうであろうか。クリスマスに壊れた家族を思って悲しくなり、子供の誕生日に、父親と祝ってやれずに悲しくなる。
過去を取り戻す気はないが、私の中には一種の不治の悲しみが宿ってしまっており、それ以来感情というものを半ば凍らせるようにして生きてきたのかもしれない。
それで、冷静に先週の話や、仕事の話をしているだけで、目頭が熱くなるのである。
心の開ける人の前では、私は絶対的な信頼感を彼に与えざるを得ないらしい。嘘の会話などできないのだ。白々しい会話をしていると、涙が滲むのだ。
太陽の光が美しい季節である。
あまり美しすぎるので、時々ふっと横に微笑みかけてしまう。
しかし、私の横には、誰もいない空間が広がるばかりである。
喜びを分かち合えない孤独ほど、それが如実に孤独であると強調されることはない。
悲しみも苦しみも分かち合って、慰めあいたいなどと、考えたことはないのだ。人間は、一人で苦しむものだし、また他人は、傍らに存在すること以上できないのである。
しかし、全く意識的には気がついていないのだが、毎日が重く、苦しく、闘いであるからこそ、私が生活に喜びを見つけたときは、飛び上がるほど幸福なのである。子供の笑顔や、美味しい食事、雨上がりの太陽、窓辺に小鳥が来て水を飲む時。そういう時、私はこれを皆に見せてやりたいと言う衝動を抑えることができない。生活の隅々にある。小さな発見。それは、言葉にできぬ重く辛いものをそれぞれが背負い、それぞれがそれぞれに与えられた孤独を生き抜かなくてアならないからこそ、この小さな美しい発見を分かち合うことに意味があるのではないだろうか。
この取るに足らない小さな喜びを分かち合える間は、つながっているのである。
私の不幸は、この喜びを分かち合えるパートナーがいないということだけであろう。
その他の問題など、実は取るに足らないことなのである。
2010年4月30日金曜日
身体的なもの
とにかく朝起きてから、今日はダメだ、今日こそはつぶれるのだと、それだけを実感していた。
とてつもない荒野に一人きりで置き去りにされたような孤独感と共に起き、いや起きることもできなかった。仕事だけが支えで、締め切りに追われたり、学校に教えに行くことが、もはや私の救いであり、社会との唯一のか細いつながりになってしまった。
August Rodin The Kissers
そうして自分の教室に入る。二人の生徒から断りがあり、建物の中庭に面した窓を開けた。今日は20度以上気温が上がり、すっかり春爛漫といった風情であった。
私も去年買った淡い黄色い革のバレリーナを素足に履いて、珍しくスカートをひらつかせて家を出たのだ。
窓の外には、小さな子供達が砂場に集まって遊んでいる。母親が何人か一緒に砂場に腰を下ろして、日向ぼっこをしていた。すっかり緑が色濃くなった。
10日ぐらい前だろうか、ARTEである番組を見た。
それは、Gerard Depardieuの息子、Guilleum Depardieuに関する小さなドキュメンタリ番組だった。彼のデビュー作は、16世紀のガンバ奏者であったSt. Colombeの映画であり、Marin Maraisの若い時期を演じていた。それ以来、彼のファンになった私は、ことあるごとに彼の映像を見てきた。
その彼が、バイクの事故を起こし膝を怪我した。手術の際にMRSAというバクテリアに感染し、それから苦悩の年月が始まった。
痛みと炎症の繰り返しに耐えかねた彼は、右足を切断し、映画界に復帰したが、おそらくMRSAによる肺炎で3日以内に死亡してしまった。
その彼の映像が、ドキュメンタリーとしてテレビに流れ、どうしようもなく悲しい気持ちになってしまった。若く、健康で、男性的な人間が、三日以内で亡くなったことも悲しければ、彼のように自虐に近い形で、仕事に闘魂し、よき父であろうと努力しつつ、離別も経験し、MRSA被害者の会も設立して活動していたという、その溢れんばかりの生きる活力が消えたということが信じがたかった。
教室の中で、開け放った窓から聞こえてくる、屈託のない子供達の声を背後に、私は椅子にポツリと座ったまま、ピアノを弾くでもなければ、本を読むでもなく、ただそこにじっと張り付いてしまったように座っているだけだった。
一昨日、私は最終的な家の整理のために、夫宅へ向かった。一人で以前一緒に住んでいた家に行き、その残骸を見ながら、子供達の残りの玩具や私のキッチン用品など、細かいものの整理をする気力はなかった。その日のことを考えただけでも、胃痛が激しくなって、吐き気をもよおしたほどである。夫を見たくないのではない。夫を見るのが怖いのだった。何かを感じてしまうという心の動きが怖い。
情けない私は、学校の引けた真ん中の息子を手伝いに連れて作業に向かった。家の中は男の住処と化しており、私が一緒に住んでいた頃よりもすっかりくすんでしまった。地下倉庫の整理も終え、過去にじっくりと対面し、できる限りのものを捨てようと心がけて、箱をまとめた後、息子とま再び階上の部屋へ戻った。間もなくして夫も帰宅した。
3ヶ月ぐらい会っていなかったのだ。様々な事情が重なって、会うはずが会えなくなり、会うつもりが会いたくなくなって、半ば自然消滅にも似た中途半端な状態である。
血色の良い顔をした夫は、挨拶の抱擁をし、私の仕事ぶりを察するや、何か飲んだ方がよい、疲れているようじゃないかと、私の顔を覗き込んだ。
その目は、私の知っているあの目だった。あの優しい犬のように従順な目だったのだ。
その目を見たとき、私は大きなショックを受けた。それこそコミュニケーションだったのだ。言葉のない、しかし明らかに私の心を動かしたコミュニケーションだった。
夫は、驚くべき金銭感覚と、驚くべき楽天的な性格により、様々な問題を抱え込んでいる。私達が知り合った頃、すでにその問題は頭角を現していたが、そんなこと一々恋人達は話題にしなかった。
それらの生活上の問題が、私たちを遠ざけたのかどうか、今の段階では分からない。
しかし夫との関係は、以前のような魂だとか精神だとか、そういった太い縄にがんじがらめにされたような感覚は一切ないのだが、それでも何かが強く私達を惹きつけている。
椅子の上にずっしりと腰をかけたままの私の目には、自分の膝、足元、そして胸元が目に入った。春らしい陽気なので、いつものように子悪魔さながらに黒一色ではあったが、ジャージーのフレアスカートにぴったりとした胸がV字に開いたトップに小さなボレロを着ていた。何ヶ月ぶりの素足が憎らしかった。脚を伸ばした時に見える自分のふくらはぎも憎らしければ、Vカットから見える胸のふくらみすら憎らしかった。特に胸は、若い頃の新鮮さは失せ、脂がのって自慢げにすら見えた。
こういう自分の姿をすっかり持て余しながら、私は自分が女であることを実感し、今や13歳の息子にも追い越された私は、この身体で意地になって地面に足を付き、一人で肩をいからせながら生きているのかと思ったら、うんざりしてしまった。
あの俳優ギヨームのせいなのだ。なぜってギヨームは、夫が若かった頃に瓜二つなのである。
あれから、ギヨームのTVでの姿がことあるごとに私の目の前にちらついた。彼の熱い声、彼の無防備な態度、彼の自分勝手な暴走。そういったものが彼 の見かけと一体となって、私の目の前に何度もちらついたのだ。
私は、そして必ず連想する夫のことも思い出さずに入られなかった。
夫の目を見た瞬間、夫の腕の感触を実感し、夫の髪の毛の香りを実感した。そして、それは全て過去の遺産のように、私からは手の届かぬほど遠いところにあった。あの目は、まるで妹や他人を気遣うように優しかったが、それは、私達の間にすでに何も熱いものがなくなってしまったからであろう。
椅子の上に座ったまま、自分がまぎれもない女性なのだと実感した瞬間、私と夫は、身体的に結ばれあっていた、そしてそれだけが理由なのだと直感した。
どれだけ愛し合っていても、もうどうしても触れることはできないと言うことはある。私はそれも知っている。
しかし、愛し合っていなくとも、身体同士が触れ合いたいと、まるで細胞が声を出しているように聞こえることもある。見かけが素晴らしいのでもない、立ち居振る舞いが洒落ているのでもない。肌が合う、そういう言葉ともまったく違う。
性欲というような具体的な感覚でもなく、通り過ぎたり、向かい合ったりした瞬間に、極自然に身体同士が磁石のように引きあってしまう。そういう感覚であり、求め合っているというような熱さはどこにも見当たらないのである。
一緒にいる、隣同士にいる体温を感じあうことで、問題を解決し、あるいは問題に目をつぶり、今までやってきた。けれど空間を別にしてしまったら、そこには何も残らなかったのである。身体を切り離したら、何もなくなってしまったという、ぞっとするような話だったのだ。
どれだけ楽しい日々であったか、旅行に行った思い出や、議論に議論を重ねて闘争しあった思い出もある。しかしその密度は、すっかり影をなくして、実質何が残ったのか皆目分からない。身体性が保障される間、このような交流が意味をもっていたのである。
分かり合えるからセックスをする。だからお互いが満足するというのが図式である。
セックスをするから口語面での交流もできる、だから満足するという図式だったのだと、今分かった。
だからといって身体的な面から、よりを戻そうなどと考えたこともない。一度壊れてしまったものは、通常の図式でも、第一段階の分かり合うという言葉ですらブロックされているのだ。
今、私は夫に抱きしめられたとしても、おそらく私には、二度と血は通わないのだと思う。もう血は冷めてしまっているのだ。
しかし、彼を見るたびに感じる欠乏感は、分かり合える人がいないという次元ではない。そうではなくて、すれ違うたび、目を見るたびに吸い寄せられそうになる身体を制して動かさずにいる際に感じる、身体自体の欠乏感なのだ。そしてそれは必ずしも性欲などのように具体化しておらず、本当に私と言う身体が、硬い地面に棒立ちになって途方にくれているような、そういった寂しさなのである。
最初の夫の時とは比べ物にならないほど、浅い層で起きている感情の動きだ。
どこかを切り裂いてくるような痛みはない。
愛ではない、愛したこともないという冷たい言葉を吐いていた私は、夫に会わなかった3ヶ月、すっかり落ち着いてしまった自分の気持ちを、整理がついたものと認めていた。
ところが、会ってみてはっきりとわかった。整理などついていない、整理など付けられない何か言葉には言い表せない、自分でも理解のできない磁石が今でも働いているということを実感してしまった。
これが、身体的な愛だったのかもしれないと思った時、私はなんとも言えず悲しくなった。
どんなに魂の住む次元が違う男でも、どんなに生活感覚の違う男でも、私を何年間も暖めることはできたのだと。空洞のような心を抱えた私の過去8年は、確かに魂の枯れ切った時代であった。けれど、私の身体は常暖められていたのだ。私はずっと女性であったし、私はずっと抱きしめられていた。
私の感情の氷山の一角しか理解できない夫であっただけに、私は感情的には、完全に自立していた。感情的には、彼は常に、一番遠い地点に見えないような場所に立っていた。けれど、私達はそれを体温で呼び戻しあったのだ。
時々、私の身体が私に囁く。
自分を硬直させてはだめだと。
私はしなやかな女性であるべきだし、女性以外にはどう転んでもなれない。
とてつもない荒野に一人きりで置き去りにされたような孤独感と共に起き、いや起きることもできなかった。仕事だけが支えで、締め切りに追われたり、学校に教えに行くことが、もはや私の救いであり、社会との唯一のか細いつながりになってしまった。
August Rodin The Kissers
そうして自分の教室に入る。二人の生徒から断りがあり、建物の中庭に面した窓を開けた。今日は20度以上気温が上がり、すっかり春爛漫といった風情であった。
私も去年買った淡い黄色い革のバレリーナを素足に履いて、珍しくスカートをひらつかせて家を出たのだ。
窓の外には、小さな子供達が砂場に集まって遊んでいる。母親が何人か一緒に砂場に腰を下ろして、日向ぼっこをしていた。すっかり緑が色濃くなった。
10日ぐらい前だろうか、ARTEである番組を見た。
それは、Gerard Depardieuの息子、Guilleum Depardieuに関する小さなドキュメンタリ番組だった。彼のデビュー作は、16世紀のガンバ奏者であったSt. Colombeの映画であり、Marin Maraisの若い時期を演じていた。それ以来、彼のファンになった私は、ことあるごとに彼の映像を見てきた。
その彼が、バイクの事故を起こし膝を怪我した。手術の際にMRSAというバクテリアに感染し、それから苦悩の年月が始まった。
痛みと炎症の繰り返しに耐えかねた彼は、右足を切断し、映画界に復帰したが、おそらくMRSAによる肺炎で3日以内に死亡してしまった。
その彼の映像が、ドキュメンタリーとしてテレビに流れ、どうしようもなく悲しい気持ちになってしまった。若く、健康で、男性的な人間が、三日以内で亡くなったことも悲しければ、彼のように自虐に近い形で、仕事に闘魂し、よき父であろうと努力しつつ、離別も経験し、MRSA被害者の会も設立して活動していたという、その溢れんばかりの生きる活力が消えたということが信じがたかった。
教室の中で、開け放った窓から聞こえてくる、屈託のない子供達の声を背後に、私は椅子にポツリと座ったまま、ピアノを弾くでもなければ、本を読むでもなく、ただそこにじっと張り付いてしまったように座っているだけだった。
一昨日、私は最終的な家の整理のために、夫宅へ向かった。一人で以前一緒に住んでいた家に行き、その残骸を見ながら、子供達の残りの玩具や私のキッチン用品など、細かいものの整理をする気力はなかった。その日のことを考えただけでも、胃痛が激しくなって、吐き気をもよおしたほどである。夫を見たくないのではない。夫を見るのが怖いのだった。何かを感じてしまうという心の動きが怖い。
情けない私は、学校の引けた真ん中の息子を手伝いに連れて作業に向かった。家の中は男の住処と化しており、私が一緒に住んでいた頃よりもすっかりくすんでしまった。地下倉庫の整理も終え、過去にじっくりと対面し、できる限りのものを捨てようと心がけて、箱をまとめた後、息子とま再び階上の部屋へ戻った。間もなくして夫も帰宅した。
3ヶ月ぐらい会っていなかったのだ。様々な事情が重なって、会うはずが会えなくなり、会うつもりが会いたくなくなって、半ば自然消滅にも似た中途半端な状態である。
血色の良い顔をした夫は、挨拶の抱擁をし、私の仕事ぶりを察するや、何か飲んだ方がよい、疲れているようじゃないかと、私の顔を覗き込んだ。
その目は、私の知っているあの目だった。あの優しい犬のように従順な目だったのだ。
その目を見たとき、私は大きなショックを受けた。それこそコミュニケーションだったのだ。言葉のない、しかし明らかに私の心を動かしたコミュニケーションだった。
夫は、驚くべき金銭感覚と、驚くべき楽天的な性格により、様々な問題を抱え込んでいる。私達が知り合った頃、すでにその問題は頭角を現していたが、そんなこと一々恋人達は話題にしなかった。
それらの生活上の問題が、私たちを遠ざけたのかどうか、今の段階では分からない。
しかし夫との関係は、以前のような魂だとか精神だとか、そういった太い縄にがんじがらめにされたような感覚は一切ないのだが、それでも何かが強く私達を惹きつけている。
椅子の上にずっしりと腰をかけたままの私の目には、自分の膝、足元、そして胸元が目に入った。春らしい陽気なので、いつものように子悪魔さながらに黒一色ではあったが、ジャージーのフレアスカートにぴったりとした胸がV字に開いたトップに小さなボレロを着ていた。何ヶ月ぶりの素足が憎らしかった。脚を伸ばした時に見える自分のふくらはぎも憎らしければ、Vカットから見える胸のふくらみすら憎らしかった。特に胸は、若い頃の新鮮さは失せ、脂がのって自慢げにすら見えた。
こういう自分の姿をすっかり持て余しながら、私は自分が女であることを実感し、今や13歳の息子にも追い越された私は、この身体で意地になって地面に足を付き、一人で肩をいからせながら生きているのかと思ったら、うんざりしてしまった。
あの俳優ギヨームのせいなのだ。なぜってギヨームは、夫が若かった頃に瓜二つなのである。
あれから、ギヨームのTVでの姿がことあるごとに私の目の前にちらついた。彼の熱い声、彼の無防備な態度、彼の自分勝手な暴走。そういったものが彼 の見かけと一体となって、私の目の前に何度もちらついたのだ。
私は、そして必ず連想する夫のことも思い出さずに入られなかった。
夫の目を見た瞬間、夫の腕の感触を実感し、夫の髪の毛の香りを実感した。そして、それは全て過去の遺産のように、私からは手の届かぬほど遠いところにあった。あの目は、まるで妹や他人を気遣うように優しかったが、それは、私達の間にすでに何も熱いものがなくなってしまったからであろう。
椅子の上に座ったまま、自分がまぎれもない女性なのだと実感した瞬間、私と夫は、身体的に結ばれあっていた、そしてそれだけが理由なのだと直感した。
どれだけ愛し合っていても、もうどうしても触れることはできないと言うことはある。私はそれも知っている。
しかし、愛し合っていなくとも、身体同士が触れ合いたいと、まるで細胞が声を出しているように聞こえることもある。見かけが素晴らしいのでもない、立ち居振る舞いが洒落ているのでもない。肌が合う、そういう言葉ともまったく違う。
性欲というような具体的な感覚でもなく、通り過ぎたり、向かい合ったりした瞬間に、極自然に身体同士が磁石のように引きあってしまう。そういう感覚であり、求め合っているというような熱さはどこにも見当たらないのである。
一緒にいる、隣同士にいる体温を感じあうことで、問題を解決し、あるいは問題に目をつぶり、今までやってきた。けれど空間を別にしてしまったら、そこには何も残らなかったのである。身体を切り離したら、何もなくなってしまったという、ぞっとするような話だったのだ。
どれだけ楽しい日々であったか、旅行に行った思い出や、議論に議論を重ねて闘争しあった思い出もある。しかしその密度は、すっかり影をなくして、実質何が残ったのか皆目分からない。身体性が保障される間、このような交流が意味をもっていたのである。
分かり合えるからセックスをする。だからお互いが満足するというのが図式である。
セックスをするから口語面での交流もできる、だから満足するという図式だったのだと、今分かった。
だからといって身体的な面から、よりを戻そうなどと考えたこともない。一度壊れてしまったものは、通常の図式でも、第一段階の分かり合うという言葉ですらブロックされているのだ。
今、私は夫に抱きしめられたとしても、おそらく私には、二度と血は通わないのだと思う。もう血は冷めてしまっているのだ。
しかし、彼を見るたびに感じる欠乏感は、分かり合える人がいないという次元ではない。そうではなくて、すれ違うたび、目を見るたびに吸い寄せられそうになる身体を制して動かさずにいる際に感じる、身体自体の欠乏感なのだ。そしてそれは必ずしも性欲などのように具体化しておらず、本当に私と言う身体が、硬い地面に棒立ちになって途方にくれているような、そういった寂しさなのである。
最初の夫の時とは比べ物にならないほど、浅い層で起きている感情の動きだ。
どこかを切り裂いてくるような痛みはない。
愛ではない、愛したこともないという冷たい言葉を吐いていた私は、夫に会わなかった3ヶ月、すっかり落ち着いてしまった自分の気持ちを、整理がついたものと認めていた。
ところが、会ってみてはっきりとわかった。整理などついていない、整理など付けられない何か言葉には言い表せない、自分でも理解のできない磁石が今でも働いているということを実感してしまった。
これが、身体的な愛だったのかもしれないと思った時、私はなんとも言えず悲しくなった。
どんなに魂の住む次元が違う男でも、どんなに生活感覚の違う男でも、私を何年間も暖めることはできたのだと。空洞のような心を抱えた私の過去8年は、確かに魂の枯れ切った時代であった。けれど、私の身体は常暖められていたのだ。私はずっと女性であったし、私はずっと抱きしめられていた。
私の感情の氷山の一角しか理解できない夫であっただけに、私は感情的には、完全に自立していた。感情的には、彼は常に、一番遠い地点に見えないような場所に立っていた。けれど、私達はそれを体温で呼び戻しあったのだ。
時々、私の身体が私に囁く。
自分を硬直させてはだめだと。
私はしなやかな女性であるべきだし、女性以外にはどう転んでもなれない。
2010年4月23日金曜日
Julian Lennon雑考 ― オイディプスの旅を終えた彼のトラウマ
全然関係ないのだが、ちょっと思ったことで、それをどこに書いていいやら、ここに記すしかないの で記録する。
私が絶大なるレノンファンであるのは、周知の事実である。
なぜ、彼の前妻シンシアの息子が、音楽活動をしていたにもかかわらず、突然その活動を止め、世界から姿を消し、レストランなど経営し、マイスペースあたりでしか声を聞くことができなくなったのか、私にはなかなか理解できずにいた。
彼は、私より数年年上だが、ほぼ同世代である。
それなりの才能を授かって、デビューで花開いたにもかかわらず、かなりたってからインタビューで、父親を許せないと言うようなことを堂々と語っていたのには驚いた。その頃、彼はもう40過ぎていたのではなかろうか。
ここのところ、おそらく2005年ごろ、母親が再び、「JOHN」という題名で当時のお互いのバイオグラフィーのようなものを執筆出版したのをきっかけに、息子 のJulianもメディアに顔を出すようになった。
母親を全面的に支えており、レノン所有物の展示会だのなんだの、そういったイヴェントも、レノンの故郷リヴァプールにて協力して企画してるようだ。
彼女の本を読んだが、正直な人柄と素直な性格がにじみ出ており、批判に値するような毒を持たないため、メディアでも彼女に対する扱いは温厚である。
しかし文章そのものは、作文に近く、心に響く部分は多くあるのだが、自分の思考や苦しみ、悩みを深く掘り下げてみると言う経験が少ないのか、能力が少ないのか、果てはそういうことはしないと言う合理主義なのか、あまり作文以上の力量を見せることはできなかったと言うほどの内容であった。
レノンのような人間と離婚劇をしたからには、もっと精神的葛藤 や、精神的やり取り、修羅に至るようななじり合いさえあったっておかしくない。それほど彼は複雑であるし、自分勝手であり、しかし非常に傷つきやすく、不 安定な精神状態を抱えている男であった。
それが、彼女は始終何も言わないで時が過ぎていくのである。レノンが勝手に洋子を連れ込んで、彼女は怒りで出て行くが、彼にそれをぶつけないのである。最初に出会った頃から、彼のことを恐ろしいと思っていたという反面があったが、それは、終わりに至 るまでそうであったらしい。
と言うことは、彼女自身、あそこまでドラマチックな人生劇の裏で結婚生活を送っていたにもかかわらず、レノンとは共に歩 まなかった、あるいは歩めなかったのではないかと言う感じがする。
レノンは、家にいる時間は、初期の頃に限ればほとんど無かったし、サテリコンのような様で、酷い遊びを行っていたと言うことにも、ビートルズの女性陣は、納得づくで我慢せねばならないと言う面もあったろう。
しかしながら、 大人に成長していく二人が、本当に精神的につながっていたのなら、共に歩んだ軌跡というものがもうちょっと見えてもよさそうなものであるが、彼女の言葉からは、傍観し続け、我慢し続け、おとなしくし続けてきたという時間しか見えない。
おそらく彼女には物申す内容すら浮かばないほど、素直な人間で、捨て去 る努力を要するようなプライドの高さすら持ち合わせていなかったのであろう。
だから、若かりし頃のレノンと共に暮らすことが可能であったのだろうし、レノンも彼女をかわいらしいと感じていたに違いない。
しかし、猛々しい若者も、年齢と共に成長していくのは止むを得な い。レノンは、基本的に恐ろしく内向的なので、実は内へ内へと考えを深めていくタイプである。社交家で、華々しい成功を求め、真のエンターテイナーと呼べ るマッカートニーとは、根本的に違うのである。
ヒットソングを書けないと暫し悩んだこともあったレノンだが、彼の曲はもっと食いついてく るように語り掛けてくる。同じ感性を持った人間には、たまらないほど鋭い力で、問いかけてくるのである。
彼の音楽の軌跡を見ても明らかだが、彼自身の心の動きと彼の創作活動がシンクロしている。彼の音楽は多くの場合、カタルシス的に自分の療法として現れていることがほとんどである。それに対しマッ カートニーは、常に安定して世の中の需要にぴったりと適したヒットソングを書いてきた。
単純に言えば、価値の中心が外にある場合は外向的であるし、価値観が内面に向いている場合は、内向的といえる。その意味で、レノンとマッカートニーは、対極にあったといっても良い。
さて、その前妻が、ドラッグやインドへの傾倒を通して、レノンの内向的な精神的活動が深まていく様を指を咥えて見ているしかなかったと言うのは、信じがた いのだが、事実かもしれないと思うようになった。
彼女は、自著の中で、ドラッグさえなかったら、私達はまだ一緒だったかもしれないと言うことを言っているが、それを読んだ時、私はその短絡的な解釈にほとんどショックを受けた。
いかに当事者だとしても、それほどまでに関係の終焉を簡潔化 して納得するのは、なかなか難しい。
私も離婚経験者だが、その前後につむぎだした思考の糸は、無限に近く、ああでもない、こうでもないと自分に原因を探し、相手に原因を探し、世代に答えを求め、文化背景に影響を探し、果てはさかのぼって互いの育ちに埋められぬ穴を見つけ、また自分の身に帰ってき て、二人の成長線を心に描き、どこでそれてしまったのかと、その思考趣向の相違にまで思いをめぐらせた。
それは、決して解けることのないこんがらがった毛糸のようなカオスであった。
決して、あそこがこうでなかったらとか、あの時ああしていたらで止められるような、または方向転換できるような、そんな問題ではなかった。それなら離婚などしなくてすんだのだ。
問題は、複雑で入り組んでおり、様々な要素が絡み合っ て、そうならざるを得ないからこそ、離婚に至ったのである。彼女のように、ドラッグさえなかったらと、離婚後40年たった今でもそう信じているとしたら、 やはりそのシンプルな考え方や、ナイーブな性質にこそ、離婚の原因があったのではないかとまで言いたくなってくる。
レノンは、複雑怪奇で インテリな人間であったことを肝に銘じたい。
さて、話が飛んでばかりいるが、今日はこのことに関して書きたいと思い、そ の気力があるのでどんどん書いてしまいたいと思う。
その息子Julianは、この母を全面的に支えているとは書いた。二人で肩を組ん で、母の著書を紹介し、サイン会や講演に出席し、レノンの思い出話を語る。
そして、彼らのファンは、洋子を忌み嫌っている場合がほとんどである。
はっ きり言って、私は洋子に対して色々と思いがあり、決して彼女のことを認めたいとは思わない。
でも、この二人の姿を見ていて、微笑ましいと思って も、応援したいとは思えないのである。
もちろん、私が伝記と言う伝記を全部読みつくし、記事という記事も読みつくしていると言う事実があっても、理解できない。
今晩、携帯のプッシュ機能が鳴り、JulianのFacebookがアップされたと言う知らせが入る。見に行ってみると、新曲が掲載されており、聞いてみると、これまた有名なBeatlesの曲、Lucy In The Sky With DiamondsのLucyは、Julianの当時の幼馴染であったのだが、そのLucyと言う名前を題名にした新曲なのである。
またかよ…
思わずそうつぶやきたくもなる。
まあ、この実在Lucyさんは、この秋若くして亡くなったばかりなので、彼女にささげた歌なのかもしれない。
それにしても、そのコメントに「もう父を許せる」と言うようなことが書いてあって、彼は46だかなんだかになるはずなのだが、そこま で時間がかかるものかと唖然としてしまった。
しかし、ネックになった理由と言うのがごく簡潔に書かれている。
父 はインタビューで語った。
この後、NYに渡ったレノンは、洋子との生活、洋子とのファミリーに心身共に費やし、Julianに会ったのは、離婚後暗殺 されるまで7回だったと言う話もある。
それが彼のトラウマになっているということらしい。
それは、何度も何度も読んでいたことだったが、今晩、突然、
いや、それもわかるかもしれない。それももっともかもしれない。
そんなことを思ってしまったのである。
な ぜだかは自分でもわからない。なぜ今だからわかると言う心境なのか、私にはわからない。
しかし、これはやはり重大なことである。直球でど 正直なレノンは、しばしばこのような発言をした。しかし、これが彼の息子の人生最大のトラウマになろうとは、彼自身思いもしなかったことであろう。
結 局、こんなことではないだろうか。
子供の教育は三歳児までと言うし、生まれてきた子供が3歳になるまで は、愛情をしっかりと与え、自己意識を安定させることが大切だとはよく言われているが、そういうことではなく、もし3歳児まで溢れるような愛情を受けて 育ったとしても、その生まれが実は望まれていなかった場合、その子が逆境にぶつかったときに、まるで自分では理解できない地の底から湧き出るような、いわ ば人生を生き延びていく生命力が、本当に望まれた子供達と同じように備わっているのか、ということをずっと問い続けてきた。
そして、今晩 私は、自分の生を父親から、こういとも簡単に公で「Julianは望んだ子じゃなかった」、
などと言われたら、もしかしたら地面にどんどんひびが入っ て、自分が恐ろしく小さく思え、周りの人間の顔もまともに見れないような、恐怖感を覚えるかもしれない、そんなことがあってもおかしくないと、感覚的に理解できた。
もし、これが事実なら、自分の存在価値を一体なにを物差しにして 計って良いのかわからなくなるだろう。生まれるということは、自然界の現象で、そこに望むも望まれるも、そんな倫理的解釈はもともとする必要の無いもので ある。でも、原始人じゃあるまいし、核家族のなか、小さな子供が育っていくときに、父親がインパクトの強い女性とさっさと外国に行ってしまい、インタ ビューで自分のことを望まなかったと答え、新しい女性と、不妊治療を重ねて念願の一人息子をもうけたという話を聞いて育ったとなれば、46のいい歳をした男が、未だに父を許すの許さないのと言うのもわかるような気がしてきた。
結局、私の話題はまた、レノンの前妻のCynthiaに戻るので ある。
彼女は、前述したような通りの女性で、何の罪も無い、まさに無実の人である。息子にも愛情を注ぎ続けて、立派な大人に育て上げたのである。 彼女が、弱い人間なのかといえば、決して弱いのではない。言うべきことを言わずに、そのまま「離婚されて」来た女性というと、まるで弱弱しい影の薄い人間 に聞こえるが、彼女は決してそんなに弱い人間ではないのである。
どこかそれでも芯が通っていて、経済的も自立し(レノンからは信じられな い微々たるお金しかもらっていなかった)、再婚相手も見つけるほどのバイタリティのある女性なのだ。話し方も、若干静かだが、抑揚があり笑ったり、泣いた り、とても豊かな感情のある女性だなとすぐにわかる。
しかし、生き延びる力と、自己意識の高さ、安定感は違うのだ。結果から言うと、ナル システィックな母親が子育てをすると、難しいと言うことである。ナルシズムと言う意味は、決して自己愛が強いと言う病理学的な意味じゃない。そうじゃなく て、他人の補償作用がないと、自分に自信が持てないという意味で。
自分が安定するために、または自分がこれでいいのだと思うために、他人の感情や、他人の言葉によってそれを一々確認しないと、確信できない人が多くいる。
私もそんな一人である。
子供は鋭く母親のそういった心情を察知して、母親が必要としている感情のみ表示し、それ以外の感情を抑圧したりする。母親のききたい言葉をさっと言って、本当は言いたいことを我慢して いたりする。
それは良い子でいたいという欲求からなのであるが、良い子でいたいのはなぜか。
なぜなら、母親自身が自分の精神状態や、人間 形成や、人生の問題で手一杯で、子供のことを愛しいと思っても、子供からもママはこれでいいのだろうか、ママのこと好き?、ママはがんばっている?などと 無言の質問を突きつけていることがあるのだ。
そして、このような母親もまた、同じような母親に育てられた犠牲者といってもいいらしい。
Julian の母には、最低限の性格的強さや、人間としての張りは備わっていたが、自信の無さにかけては、トロフィーものといっても良いほど、セルフエスティームが低 かったことは間違えない。それはレノンの度重なる浮気もあったろうし、アイドルとしての夫を失う不安もあったという様々な背景が複雑に絡み合って、彼女の セルフエスティームの低さは改善されることが無かったのであろう。そういう母の元に、大切に育てられたJulianは、父親の発言を知って、俺にはそんな 発言、どうだって良いと言える地盤が無かった。一年、二年で消化できる地盤が無かったのかもしれないと、ふっとひらめいたのだ。
地盤がな いといえば、まるで彼も軟弱ひ弱な感じになってしまうが、あの父とそれなりに人生を乗り越えてきた母親との子である。簡単につぶれるような貧弱な性格では ないはずだ。しかし、結局感受性が強いから、つまり非常に繊細な人間だから、一言一言が余計に突き刺さるのであろう。そして一々個人の価値と結び付けてし まうのである。
それこそが、ナルシシスティックな母親に育てられたことの証であるし、無神経な子供なら、そんな母親の無言の問いかけを踏み潰すよ うに、無神経そのものに図太く育っていくのであるが、才能があったり、繊細で利口な子供ほど、そのコミュニケーションの「裏側」にある言葉、行間のような ものを本能的に読み取るのである。
Julianは、自分の生まれに付随した「傷」に深く傷ついた。
そんなにみすぼらし子供でも、親に望ま れたなら胸を堂々と張って生きていけば良い。しかし、「僕は、父親にも母親にも望まれなかった」と悟りきってしまったら、それは思春期の子供には、突き刺さる ような痛みであろうと思う。子供時代に一回終止符を打って、思春期、青年期に移行する際、子供時代を締めくくれない子供がおり、中には自殺してしまう子供達も多くいるという。
Julianは自殺こそしなかったが、精神的にその代わり、彼は父親を殺したのだと思う。オイディプスのようであるが。その父親と今和解することができると、そう彼は語っているのだとわかってきた。
それにしても、悲劇的な話である。大スターの息子だか らゆえもあるし、離婚後、母子家庭ではないが、母だけが肉親であるという家庭に育った男児の問題でもあるし、もっともいけないのは、実父が養育に関する一 切を経済的なことを除いて、拒否したと言う点であろう。
ところで、無駄話だが、この離婚で彼女がもらった慰謝料というのは、レノ ンが洋子の前夫に払った慰謝料の3分の1とも4分の1とも言われている。Julianへの養育費も、スーパスターからは考えられないほど、微々たる物であ るらしい。
Julianの歌声を聴いた。それは張りを失い、つやを失い、ほとんど震えているように不安定な歌声であった。彼の顔 は、父親よりもいっそう母親に似ており、声色も父親とは根本的にかけ離れたものである。
その男が、父親の歌を題材に、今和解できると銘 打って、小気味良い明るいポップソングをリリースしたという。
私は、なんとも言えない心苦しい気持ちになって、ほとんど同情の気持ちがわいてき て、これを書いているという次第である。
ご苦労様でした。
親にされた仕打ちというのは酷い言い方だが、親が偉大なのも楽ではな い。また、レノンもそんな発言を世界に向かって発言するようなナイーブな面を持っていたのだからしょうがない。こういうときこそ、抑制、自己制御という言 葉を思い出さないといけないと思う。
自分に正直で、心に正直に洗いざらい言えば許されるということは、大間違いである。
正直さゆ えに傷つく人が多くいる。
息子はある意味、この言葉の犠牲になって、生まれを検証する作業に入ってしまった。
そこで母親が安定して、精神的に極め て健康な人間でなくとも、せめて無神経な図太さでも持っていてくれたならまだしも、繊細で感受性が強い上、息子の自己肯定の答えを与えられるような土台な ど持っているはずもなかったのである。彼女こそ、私はこれでいいのかと、更に問い続ける人生に突入しており、Julianが青春時代多かれ少なかれドロッ プアウトしたのは、もっともな結果だったといえる。
50を前に、彼はオイディプス同様、放浪のたびを終えたらしい。失明こそしていないが、オイディプスがテゼウスに保護されたように、彼にも聖林のような、聖家があるのであろうか。
ちなみに、彼は結婚もしていなければ、子供もいな い。無論、そこはオイディプスと違うのであるが、Julianがそこに至れなかった理由、つまり彼の放浪の旅の全面が、今晩パーッと視界に広がった。
ある意味、これからもこうして皺を増やしながらも、父親の影との戦いをまだ続けていくのかと思うと落ち込むのだが、運命は本当に厳しい。
父親を殺した後の旅は終えたのだ。
早く聖林に入って、女神達となぞの死を遂げるような方向に進んでもらいたいと思う。
洋子のこと、レノンと彼女の息子Seanのことにも、こうして綴ってきたこと以上の思いがある。
また体力と気力があるときに、書いてみた い。
私が絶大なるレノンファンであるのは、周知の事実である。
なぜ、彼の前妻シンシアの息子が、音楽活動をしていたにもかかわらず、突然その活動を止め、世界から姿を消し、レストランなど経営し、マイスペースあたりでしか声を聞くことができなくなったのか、私にはなかなか理解できずにいた。
彼は、私より数年年上だが、ほぼ同世代である。
それなりの才能を授かって、デビューで花開いたにもかかわらず、かなりたってからインタビューで、父親を許せないと言うようなことを堂々と語っていたのには驚いた。その頃、彼はもう40過ぎていたのではなかろうか。
ここのところ、おそらく2005年ごろ、母親が再び、「JOHN」という題名で当時のお互いのバイオグラフィーのようなものを執筆出版したのをきっかけに、息子 のJulianもメディアに顔を出すようになった。
母親を全面的に支えており、レノン所有物の展示会だのなんだの、そういったイヴェントも、レノンの故郷リヴァプールにて協力して企画してるようだ。
彼女の本を読んだが、正直な人柄と素直な性格がにじみ出ており、批判に値するような毒を持たないため、メディアでも彼女に対する扱いは温厚である。
しかし文章そのものは、作文に近く、心に響く部分は多くあるのだが、自分の思考や苦しみ、悩みを深く掘り下げてみると言う経験が少ないのか、能力が少ないのか、果てはそういうことはしないと言う合理主義なのか、あまり作文以上の力量を見せることはできなかったと言うほどの内容であった。
レノンのような人間と離婚劇をしたからには、もっと精神的葛藤 や、精神的やり取り、修羅に至るようななじり合いさえあったっておかしくない。それほど彼は複雑であるし、自分勝手であり、しかし非常に傷つきやすく、不 安定な精神状態を抱えている男であった。
それが、彼女は始終何も言わないで時が過ぎていくのである。レノンが勝手に洋子を連れ込んで、彼女は怒りで出て行くが、彼にそれをぶつけないのである。最初に出会った頃から、彼のことを恐ろしいと思っていたという反面があったが、それは、終わりに至 るまでそうであったらしい。
と言うことは、彼女自身、あそこまでドラマチックな人生劇の裏で結婚生活を送っていたにもかかわらず、レノンとは共に歩 まなかった、あるいは歩めなかったのではないかと言う感じがする。
レノンは、家にいる時間は、初期の頃に限ればほとんど無かったし、サテリコンのような様で、酷い遊びを行っていたと言うことにも、ビートルズの女性陣は、納得づくで我慢せねばならないと言う面もあったろう。
しかしながら、 大人に成長していく二人が、本当に精神的につながっていたのなら、共に歩んだ軌跡というものがもうちょっと見えてもよさそうなものであるが、彼女の言葉からは、傍観し続け、我慢し続け、おとなしくし続けてきたという時間しか見えない。
おそらく彼女には物申す内容すら浮かばないほど、素直な人間で、捨て去 る努力を要するようなプライドの高さすら持ち合わせていなかったのであろう。
だから、若かりし頃のレノンと共に暮らすことが可能であったのだろうし、レノンも彼女をかわいらしいと感じていたに違いない。
しかし、猛々しい若者も、年齢と共に成長していくのは止むを得な い。レノンは、基本的に恐ろしく内向的なので、実は内へ内へと考えを深めていくタイプである。社交家で、華々しい成功を求め、真のエンターテイナーと呼べ るマッカートニーとは、根本的に違うのである。
ヒットソングを書けないと暫し悩んだこともあったレノンだが、彼の曲はもっと食いついてく るように語り掛けてくる。同じ感性を持った人間には、たまらないほど鋭い力で、問いかけてくるのである。
彼の音楽の軌跡を見ても明らかだが、彼自身の心の動きと彼の創作活動がシンクロしている。彼の音楽は多くの場合、カタルシス的に自分の療法として現れていることがほとんどである。それに対しマッ カートニーは、常に安定して世の中の需要にぴったりと適したヒットソングを書いてきた。
単純に言えば、価値の中心が外にある場合は外向的であるし、価値観が内面に向いている場合は、内向的といえる。その意味で、レノンとマッカートニーは、対極にあったといっても良い。
さて、その前妻が、ドラッグやインドへの傾倒を通して、レノンの内向的な精神的活動が深まていく様を指を咥えて見ているしかなかったと言うのは、信じがた いのだが、事実かもしれないと思うようになった。
彼女は、自著の中で、ドラッグさえなかったら、私達はまだ一緒だったかもしれないと言うことを言っているが、それを読んだ時、私はその短絡的な解釈にほとんどショックを受けた。
いかに当事者だとしても、それほどまでに関係の終焉を簡潔化 して納得するのは、なかなか難しい。
私も離婚経験者だが、その前後につむぎだした思考の糸は、無限に近く、ああでもない、こうでもないと自分に原因を探し、相手に原因を探し、世代に答えを求め、文化背景に影響を探し、果てはさかのぼって互いの育ちに埋められぬ穴を見つけ、また自分の身に帰ってき て、二人の成長線を心に描き、どこでそれてしまったのかと、その思考趣向の相違にまで思いをめぐらせた。
それは、決して解けることのないこんがらがった毛糸のようなカオスであった。
決して、あそこがこうでなかったらとか、あの時ああしていたらで止められるような、または方向転換できるような、そんな問題ではなかった。それなら離婚などしなくてすんだのだ。
問題は、複雑で入り組んでおり、様々な要素が絡み合っ て、そうならざるを得ないからこそ、離婚に至ったのである。彼女のように、ドラッグさえなかったらと、離婚後40年たった今でもそう信じているとしたら、 やはりそのシンプルな考え方や、ナイーブな性質にこそ、離婚の原因があったのではないかとまで言いたくなってくる。
レノンは、複雑怪奇で インテリな人間であったことを肝に銘じたい。
さて、話が飛んでばかりいるが、今日はこのことに関して書きたいと思い、そ の気力があるのでどんどん書いてしまいたいと思う。
その息子Julianは、この母を全面的に支えているとは書いた。二人で肩を組ん で、母の著書を紹介し、サイン会や講演に出席し、レノンの思い出話を語る。
そして、彼らのファンは、洋子を忌み嫌っている場合がほとんどである。
はっ きり言って、私は洋子に対して色々と思いがあり、決して彼女のことを認めたいとは思わない。
でも、この二人の姿を見ていて、微笑ましいと思って も、応援したいとは思えないのである。
そんなに君達は傷つけられ、虐げられたのか。だとしたら、今のその姿も理解できるが、実際人生を通 して、未だにそのテーマにしがみついて、本を書いたりインタビューで父を許せないと語るほど、トラウマになったのであろうか。その辺が、私にはい まひとつ理解できなかったのである。
もちろん、私が伝記と言う伝記を全部読みつくし、記事という記事も読みつくしていると言う事実があっても、理解できない。
今晩、携帯のプッシュ機能が鳴り、JulianのFacebookがアップされたと言う知らせが入る。見に行ってみると、新曲が掲載されており、聞いてみると、これまた有名なBeatlesの曲、Lucy In The Sky With DiamondsのLucyは、Julianの当時の幼馴染であったのだが、そのLucyと言う名前を題名にした新曲なのである。
またかよ…
思わずそうつぶやきたくもなる。
まあ、この実在Lucyさんは、この秋若くして亡くなったばかりなので、彼女にささげた歌なのかもしれない。
それにしても、そのコメントに「もう父を許せる」と言うようなことが書いてあって、彼は46だかなんだかになるはずなのだが、そこま で時間がかかるものかと唖然としてしまった。
しかし、ネックになった理由と言うのがごく簡潔に書かれている。
父 はインタビューで語った。
洋子との息子Seanは、はっきりと望んだ子である。
Julianは、望まれた子ではなかった。事故 だったんだ。
この後、NYに渡ったレノンは、洋子との生活、洋子とのファミリーに心身共に費やし、Julianに会ったのは、離婚後暗殺 されるまで7回だったと言う話もある。
それが彼のトラウマになっているということらしい。
それは、何度も何度も読んでいたことだったが、今晩、突然、
いや、それもわかるかもしれない。それももっともかもしれない。
そんなことを思ってしまったのである。
な ぜだかは自分でもわからない。なぜ今だからわかると言う心境なのか、私にはわからない。
しかし、これはやはり重大なことである。直球でど 正直なレノンは、しばしばこのような発言をした。しかし、これが彼の息子の人生最大のトラウマになろうとは、彼自身思いもしなかったことであろう。
結 局、こんなことではないだろうか。
私には常々考えてきたテーマがある。自分では決して左右することのできない運命の一つに、生まれと言うものが ある。
そして、もしその生まれそのものに、不幸の種がまかれていたとしたら、具体的に言えば、望まれなかった命としてこの世に生を受けた場合、人 間には、根本的に生きていく力を授かっているのかと言うことである。
子供の教育は三歳児までと言うし、生まれてきた子供が3歳になるまで は、愛情をしっかりと与え、自己意識を安定させることが大切だとはよく言われているが、そういうことではなく、もし3歳児まで溢れるような愛情を受けて 育ったとしても、その生まれが実は望まれていなかった場合、その子が逆境にぶつかったときに、まるで自分では理解できない地の底から湧き出るような、いわ ば人生を生き延びていく生命力が、本当に望まれた子供達と同じように備わっているのか、ということをずっと問い続けてきた。
そして、今晩 私は、自分の生を父親から、こういとも簡単に公で「Julianは望んだ子じゃなかった」、
などと言われたら、もしかしたら地面にどんどんひびが入っ て、自分が恐ろしく小さく思え、周りの人間の顔もまともに見れないような、恐怖感を覚えるかもしれない、そんなことがあってもおかしくないと、感覚的に理解できた。
どんなに自分より劣った子でも、醜い子でも、恵まれていない子でも、彼らには、おそらくその子を望んだ親がいる。
しか し、僕にわかっていることは、僕は親に望まれなかったと言うことだ。
もし、これが事実なら、自分の存在価値を一体なにを物差しにして 計って良いのかわからなくなるだろう。生まれるということは、自然界の現象で、そこに望むも望まれるも、そんな倫理的解釈はもともとする必要の無いもので ある。でも、原始人じゃあるまいし、核家族のなか、小さな子供が育っていくときに、父親がインパクトの強い女性とさっさと外国に行ってしまい、インタ ビューで自分のことを望まなかったと答え、新しい女性と、不妊治療を重ねて念願の一人息子をもうけたという話を聞いて育ったとなれば、46のいい歳をした男が、未だに父を許すの許さないのと言うのもわかるような気がしてきた。
結局、私の話題はまた、レノンの前妻のCynthiaに戻るので ある。
彼女は、前述したような通りの女性で、何の罪も無い、まさに無実の人である。息子にも愛情を注ぎ続けて、立派な大人に育て上げたのである。 彼女が、弱い人間なのかといえば、決して弱いのではない。言うべきことを言わずに、そのまま「離婚されて」来た女性というと、まるで弱弱しい影の薄い人間 に聞こえるが、彼女は決してそんなに弱い人間ではないのである。
どこかそれでも芯が通っていて、経済的も自立し(レノンからは信じられな い微々たるお金しかもらっていなかった)、再婚相手も見つけるほどのバイタリティのある女性なのだ。話し方も、若干静かだが、抑揚があり笑ったり、泣いた り、とても豊かな感情のある女性だなとすぐにわかる。
しかし、生き延びる力と、自己意識の高さ、安定感は違うのだ。結果から言うと、ナル システィックな母親が子育てをすると、難しいと言うことである。ナルシズムと言う意味は、決して自己愛が強いと言う病理学的な意味じゃない。そうじゃなく て、他人の補償作用がないと、自分に自信が持てないという意味で。
自分が安定するために、または自分がこれでいいのだと思うために、他人の感情や、他人の言葉によってそれを一々確認しないと、確信できない人が多くいる。
私もそんな一人である。
子供は鋭く母親のそういった心情を察知して、母親が必要としている感情のみ表示し、それ以外の感情を抑圧したりする。母親のききたい言葉をさっと言って、本当は言いたいことを我慢して いたりする。
それは良い子でいたいという欲求からなのであるが、良い子でいたいのはなぜか。
なぜなら、母親自身が自分の精神状態や、人間 形成や、人生の問題で手一杯で、子供のことを愛しいと思っても、子供からもママはこれでいいのだろうか、ママのこと好き?、ママはがんばっている?などと 無言の質問を突きつけていることがあるのだ。
そして、このような母親もまた、同じような母親に育てられた犠牲者といってもいいらしい。
Julian の母には、最低限の性格的強さや、人間としての張りは備わっていたが、自信の無さにかけては、トロフィーものといっても良いほど、セルフエスティームが低 かったことは間違えない。それはレノンの度重なる浮気もあったろうし、アイドルとしての夫を失う不安もあったという様々な背景が複雑に絡み合って、彼女の セルフエスティームの低さは改善されることが無かったのであろう。そういう母の元に、大切に育てられたJulianは、父親の発言を知って、俺にはそんな 発言、どうだって良いと言える地盤が無かった。一年、二年で消化できる地盤が無かったのかもしれないと、ふっとひらめいたのだ。
地盤がな いといえば、まるで彼も軟弱ひ弱な感じになってしまうが、あの父とそれなりに人生を乗り越えてきた母親との子である。簡単につぶれるような貧弱な性格では ないはずだ。しかし、結局感受性が強いから、つまり非常に繊細な人間だから、一言一言が余計に突き刺さるのであろう。そして一々個人の価値と結び付けてし まうのである。
それこそが、ナルシシスティックな母親に育てられたことの証であるし、無神経な子供なら、そんな母親の無言の問いかけを踏み潰すよ うに、無神経そのものに図太く育っていくのであるが、才能があったり、繊細で利口な子供ほど、そのコミュニケーションの「裏側」にある言葉、行間のような ものを本能的に読み取るのである。
Julianは、自分の生まれに付随した「傷」に深く傷ついた。
そんなにみすぼらし子供でも、親に望ま れたなら胸を堂々と張って生きていけば良い。しかし、「僕は、父親にも母親にも望まれなかった」と悟りきってしまったら、それは思春期の子供には、突き刺さる ような痛みであろうと思う。子供時代に一回終止符を打って、思春期、青年期に移行する際、子供時代を締めくくれない子供がおり、中には自殺してしまう子供達も多くいるという。
Julianは自殺こそしなかったが、精神的にその代わり、彼は父親を殺したのだと思う。オイディプスのようであるが。その父親と今和解することができると、そう彼は語っているのだとわかってきた。
それにしても、悲劇的な話である。大スターの息子だか らゆえもあるし、離婚後、母子家庭ではないが、母だけが肉親であるという家庭に育った男児の問題でもあるし、もっともいけないのは、実父が養育に関する一 切を経済的なことを除いて、拒否したと言う点であろう。
ところで、無駄話だが、この離婚で彼女がもらった慰謝料というのは、レノ ンが洋子の前夫に払った慰謝料の3分の1とも4分の1とも言われている。Julianへの養育費も、スーパスターからは考えられないほど、微々たる物であ るらしい。
Julianの歌声を聴いた。それは張りを失い、つやを失い、ほとんど震えているように不安定な歌声であった。彼の顔 は、父親よりもいっそう母親に似ており、声色も父親とは根本的にかけ離れたものである。
その男が、父親の歌を題材に、今和解できると銘 打って、小気味良い明るいポップソングをリリースしたという。
私は、なんとも言えない心苦しい気持ちになって、ほとんど同情の気持ちがわいてき て、これを書いているという次第である。
ご苦労様でした。
親にされた仕打ちというのは酷い言い方だが、親が偉大なのも楽ではな い。また、レノンもそんな発言を世界に向かって発言するようなナイーブな面を持っていたのだからしょうがない。こういうときこそ、抑制、自己制御という言 葉を思い出さないといけないと思う。
自分に正直で、心に正直に洗いざらい言えば許されるということは、大間違いである。
正直さゆ えに傷つく人が多くいる。
息子はある意味、この言葉の犠牲になって、生まれを検証する作業に入ってしまった。
そこで母親が安定して、精神的に極め て健康な人間でなくとも、せめて無神経な図太さでも持っていてくれたならまだしも、繊細で感受性が強い上、息子の自己肯定の答えを与えられるような土台な ど持っているはずもなかったのである。彼女こそ、私はこれでいいのかと、更に問い続ける人生に突入しており、Julianが青春時代多かれ少なかれドロッ プアウトしたのは、もっともな結果だったといえる。
50を前に、彼はオイディプス同様、放浪のたびを終えたらしい。失明こそしていないが、オイディプスがテゼウスに保護されたように、彼にも聖林のような、聖家があるのであろうか。
ちなみに、彼は結婚もしていなければ、子供もいな い。無論、そこはオイディプスと違うのであるが、Julianがそこに至れなかった理由、つまり彼の放浪の旅の全面が、今晩パーッと視界に広がった。
ある意味、これからもこうして皺を増やしながらも、父親の影との戦いをまだ続けていくのかと思うと落ち込むのだが、運命は本当に厳しい。
父親を殺した後の旅は終えたのだ。
早く聖林に入って、女神達となぞの死を遂げるような方向に進んでもらいたいと思う。
洋子のこと、レノンと彼女の息子Seanのことにも、こうして綴ってきたこと以上の思いがある。
また体力と気力があるときに、書いてみた い。
才能のある子供のドラマ
かなり前、こんな本を読んだ。
あまりにも落ち込むので、読んだ後しばらく放って置いた。
ピアノの上にあったので、再び広げてみた。内容を忘れないように、最後のまとめをメモ的に記す。
ちなみに日本語のタイトルは、「才能のある子供のドラマ」。
母親が全くナルシスティックでないと言うことは不可能である。と言うことは、多かれ少なかれ、子供達は、繊細であったり、知能が高かったり、周りを察する能力に優れているほど、母親自身の欲求に気付き、それを満たすように対応してしまう。自らの感情を母親との共有した感情として体験できなかった子供は、その感情をどんどん抑圧してゆき、自らが失望しないように、その加害者とも言える母親を理想化してしまう。Habermasが「Die Universalitäts der Hermeneutik」の中で"Spiel"と呼んだこの関係のゲームの意義を解読するのは、精神分析を使用するしかない。「マスクをかぶったセルフ(自己)」は、深く無意識に埋もれてしまったまま、未知の一部としてずっと認識されることはないのである。それが、空虚という感情になって表出し、鬱へと発展してゆく。
母親が不安の多き時代に子育てを行うだけで、子供はすでに母親の不安を取り除こうと、つまり母親のために存在することを始めてしまうのである。
そして、特別でなくてはいけない自分、平均的な自分を許容できなくなり、壮大な自分を多くは、インテレクチャルな道を取得することで可能にしてゆく。そしてナスシズムスとデプレッションの狭間に落ち込む。
これらが、子供の虐待や苛めの現象をつまり防ぐには、犠牲者がこの循環を絶つ必要がある。つまり、分析を受け、抑圧され全く体験されることのなかった真の自分を呼び起こすしかないと言うのだが。
彼女は、Winnicott派のような気がする。
私のメモは、ドイツ語からなので、訳書とは異なります。
あまりにも落ち込むので、読んだ後しばらく放って置いた。
ピアノの上にあったので、再び広げてみた。内容を忘れないように、最後のまとめをメモ的に記す。
ちなみに日本語のタイトルは、「才能のある子供のドラマ」。
子供時代のあの不幸な時期にいつも感じていたものは、そう、恐怖と不安感だったのだ。
僕自身が、禁止され、犯罪的だとまで感じていた、あの罰を受ける恐怖、自らの良心に対する不安、自らの魂が荒れることに対する不安の数々…
Hermann Hesse
母親が全くナルシスティックでないと言うことは不可能である。と言うことは、多かれ少なかれ、子供達は、繊細であったり、知能が高かったり、周りを察する能力に優れているほど、母親自身の欲求に気付き、それを満たすように対応してしまう。自らの感情を母親との共有した感情として体験できなかった子供は、その感情をどんどん抑圧してゆき、自らが失望しないように、その加害者とも言える母親を理想化してしまう。Habermasが「Die Universalitäts der Hermeneutik」の中で"Spiel"と呼んだこの関係のゲームの意義を解読するのは、精神分析を使用するしかない。「マスクをかぶったセルフ(自己)」は、深く無意識に埋もれてしまったまま、未知の一部としてずっと認識されることはないのである。それが、空虚という感情になって表出し、鬱へと発展してゆく。
母親が不安の多き時代に子育てを行うだけで、子供はすでに母親の不安を取り除こうと、つまり母親のために存在することを始めてしまうのである。
そして、特別でなくてはいけない自分、平均的な自分を許容できなくなり、壮大な自分を多くは、インテレクチャルな道を取得することで可能にしてゆく。そしてナスシズムスとデプレッションの狭間に落ち込む。
これらが、子供の虐待や苛めの現象をつまり防ぐには、犠牲者がこの循環を絶つ必要がある。つまり、分析を受け、抑圧され全く体験されることのなかった真の自分を呼び起こすしかないと言うのだが。
彼女は、Winnicott派のような気がする。
私のメモは、ドイツ語からなので、訳書とは異なります。
- 子供には、常に罪がない
- 全ての子供は、安全、安心感、保護、接触、誠実さ、暖かさ、優しさを絶対的に必要としている
- この要求は滅多に満たされることはなく、しばしば大人たち自身の目的のために悪用される(子供虐待のトラウマ)
- 虐待は生涯にわたる影響を及ぼす
- 社会は大人の側に立ち、子供の受けた行為に対して子供を非難する
- 子供が犠牲者となる事実は、従来どおり否定される
- 従ってこの犠牲によるその後の経過は見過ごされる
- 社会から見放された子供は、トラウマを抑圧し、加害者を理想像に仕立て上げる以外選択がない
- 抑圧は、ノイローゼ、精神異常、心身障害、さらに犯罪に導く
- ノイローゼでは、独自の要求が抑圧・否定され、その代わり罪の意識を感じるようになる
- 精神異常では、虐待が妄想へと変移する
- 心身障害では、虐待の痛みに苦むが、実際の苦しみの原因は隠されたままになる
- 犯罪では、当惑、誘惑、虐待が繰り返し、新しい形で演じられる
- セラピーによる治療努力は、患者の子供時代の真実が否定されない場合にのみ、効果があるとされる
- 「小児性欲」の精神分析理論は、社会の盲目さを助長することになり、子供への性的虐待を正当化する。子供を罰することになり、大人は罪を逃れる結果となる
- 空想は、生存し続けるための役割を果たし、耐えられない子供時代の現実を明確に述べていく助けとなり、更にはそれを隠したり無害としてしまう。所謂「でっちあげられた」妄想の体験またはトラウマが、真実のトラウマを覆い隠してしまう
- 文学、芸術、神話、夢の中には、しばしば幼少時の抑圧された経験が、シンボルの形をとって現れる
- 子供の置かれた本当の状況に対する我々の慢性的な無知によって、我々の文化に潜むこの苦悶のシンボル的証言は、寛容されてしまうだけでなく、尊重されてしまうのだ。この暗号化されたメッセージの裏にある真実の背景が理解されることがあるとすれば、それはおそらく社会から拒絶されてしまうだろう
- 犯罪行為の結果は、加害者と犠牲者が盲目で、混乱していたと言う事実を通して取り消されることはない
- 新しい犯罪は、犠牲者が見ようとするならば回避することが可能である。これにより、再犯強迫観念が取り消されるか、少なくとも減少される
- 子供時代に起こったことに隠されている知識源を誤解なく確定的に曝しだすことができれば、当事者の報告は、一般的には社会、さらに特に学術における意識を変えてゆく助けになるであろう
長々しい失敗の告白
しつこくも、また私自身の過去の話である。牛の咀嚼なので、致し方ない。クリスマスの後に書いた文章が出てきた。さらけ出すことをテーマとしている私である。これも載せてしまう。
______
離婚 しているのに、父親と仲が良いなんておかしい。それなら離婚しなければよかったという声を時々聞く。
そうかもしれない。
け れど、当時あれ以外の選択はなかったのだ。
クリスマスは、欧州では紛れもなく家族の行事であるので、どうしても家族とか過去に思いがさかのぼってしまう。
私の前夫は、私の兄と同じ大学で同門であったため、欧州学生オケや仕事で日本に来る際には、必ず私の家に泊まっていた。
私 は大学3年生で、将来は留学すると決めていたときであった。
そんな時分からの付き合いである。
兄と彼は、魂を分かち合うような時 を共にし、兄は彼の才能を天才と呼び、
命を削って芸術をしているような奴だ。音楽をしないと死んでしまうような奴だ。そういう人間を前 に、くだらない望みや期待をかけて結婚生活に不満を言うお前がわがままで完全に間違っている。
と、私が後に結婚したあと、何度もこう私を叱咤した。
その言葉に、悔しさと絶望と孤独を感じながら、それでも納得して夏休みが終わると、ドイツへ帰ってきたものである。
あ の日々のことはほとんど覚えていない。
10年以上一緒に暮らしたのだが、ほとんど具体的なことは覚えていない。
必死であった。
人 をしのぐようなエネルギー、夜がさめても気がつかずに音楽をし続け、レッスンをし続けるそのエネルギーに感動し、付いていくのが精一杯であった。
彼 のマスタークラスに行けば、そのカリスマ性に学生達がどんどん上達していく。その様を見るのは、まさに魔法と言っても良いほどであった。
どんな犠 牲を払っても、共に生きる価値のある、すばらしい芸術家である。
ところが、日常生活は、孤独を極めた。
家にいないこともそうであ るが、子供が出来てからは、演奏旅行に同行することも出来ず、演奏活動をやめてしまった私は、彼がその生き生きと踊るような音楽への奉仕の魂を他の音楽家 と日々分かち合い、理解しあい、彼の本質を共有していることが、ほとんど恐怖のような焦燥感となって、私を苦しめた。
帰宅すればスコア を持って自室にこもるか、熟睡し続けるか、レッスンに行くだけである。
食事にも、外の景色にも、友人関係にも、何の興味もない。批判ではなくて、 天才とはこれほどのものだといいたい。それほど一つのことに精魂ささげなければ、凡人と同じである。生き様で人を感動させることは、まさに命を削るように日常とは逸脱した平面で生活しているということなのである。
音楽を刻一刻と分かち合えなくなり、日常生活の中に閉じ込められた私と彼の間に、断絶はなかったが、孤独が募っていった。
彼は、一瞬一瞬に大きなドラマを必要としている人間である。それは事が大きいということより、常 に感受性のアンテナが張り巡らされ、キャッチした情報をかみ締めてそれが不安を掻き立てれば、私に攻撃的になったり、同調を求めてきたりする。その情報が 心躍るような喜ばしいものであれば、その感動を私と分けようと、夢中になって語り続けるのである。
24時間のうち、どのようなドラマが起 こるか、その次の瞬間のことも誰も予想ができない。
このような生活は、ものすごく内容が深い。しかし私の幸は、私もそのようなアンテナ だけは立派にもっており、彼が何かをキャッチした場合は、目を見なくとも、その気配だけですぐにそれを察知できた点である。
しかし私の不幸は、 同様に鋭敏なアンテナを持っていた故に、二人の生活に安定が訪れることは決してなかったということである。
互いが、その鋭いアンテナで互いの心の動向を察知し続け、無意識のうちに常に影響しあっていた。
それだけ関係は、奥深かったのは事実である。本人達がわかるより、無意識下でのつながりは、非常に強かった。
孤独に対する感受性の強さが同様だったということもある。
その孤独とは、生きているがゆえの孤独というよう な、普遍的なレベルのもので、本人達に理解できていたわけでは決してない。
12年ほどして、三人の子供達を授かって、家庭とい うものを立派に築いてきた私達であったが、その家庭の要求する安定した日常というものが重要になればなるほど、二人の関係には問題が生じた。
し かし関係の不一致というような、何か実用的理由で説明できる類の原因はないのである。そうではなくて、すべてが二人の無意識下で起こっていたように、エ ネルギーとエゴも含んだ才能が、私と言う人間よりも何十倍も大きい彼は、彼の知らぬ間に精神的にマニプレートしている部分があったのである。
これは私に対してとは限らない。仕事でも、彼は常に人を圧倒するような才能を示し、誰しも彼と舞台に上がることを夢に見たが、彼の意向以外の結果は絶対にないのである。それで多くの開催者と決裂したこともあった。
このようなエネルギーとエゴなので、私の生活も、本当に精神的に苦しいものであった。
終いには、雨が降ってもすみません。子供が泣いてもすみませんということになった。
私の魂は縮み上がって、すっかり萎縮していたのである。
この才能に歯止めをかけているのは私であり、家族である。
この人を解放しないといけない。
この人に、子供だの家庭だのを要求する私が間違っ ている。
心の底で、そんなことを確信していた私は、まるっきり彼を理解していなかったのである。
それで、いかに私が彼を支えないか、どこから私のコンプレックスが来て、どれだけそれで私は子供達をだめにし、どれだけ人生で失敗し、どれほど問題を複雑にしているか、と散々彼に説教された。それも繰り返し何年にもわたって、発作的に怒るのである。
一度は子供を放り出して、車で高速道路に出て、どこか遠くへ行ってしまおうと思った。ふっと死んでしまおうかなと本気で考えた。このまま私がいなくなれば、子供達は新しいもっと強く、もっと明るい母親を手にし、幸福な父親と新しくやり直せるのではと本気で信じたのだ。
2時間ほど走り回って、帰って来た私はぼろきれのようだった。
何年間かは強度のパニック障害に侵され、車で外出するのが怖くなった。彼の帰宅 する飛行場に迎えに行くたびに、体中に蕁麻疹が出た。彼の帰宅前に、突然パニック障害に襲われた。
そうした中、這うようにして精神科に行った。
ご主人が原因なのは明らかだけれど、病気になるのはあなただから、あなたが自分を守らないといけない。
その言葉を聞き、セラピーを断った。
人に世 話になってたまるか。自分で自分の心ぐらい守ってやる。
何かが変わった。
閉所が私の問題だった。窓のない風呂場、夜中の真っ暗な寝室、そして特に運転中のトンネル。そこでは必ずといってよいほど、パニックに侵された。
毎回トンネルの中でパニックがくるので、毎日朝早く、みなが寝静まっている間に、トンネルを走りに出かけた。パニック障害で死ぬことはないという医師の言葉を固く信じたら怖くなかった。
パニックが襲ってくるのがわかったら、時間を数えた。 絶対に30分以上からだの防御反応であるパニック症候群が続くことはない。どんなに長くても30分と言う言葉だけに支えられた。
私が、思ったことを行ったり、自分で自分を守るようになってから、私達を強くつなげていた無意識下のシステムが壊れはじめた。
もう雨が降っても すみませんとは思わなくなった。
彼のエゴを許せなくなった。
そうして絶え間ない喧嘩のあと、別居になったのだが、その 間どれほどの孤独感が二人にあったか、どれほどの努力が私の側にも彼の側にもあったか、どれほどの子供達への愛があふれ出たか、それは計り知れない。
12 月までと決めたり、死ぬまで、もう出来ないと悟るまで、私が精神病院に入るまでやると覚悟したり、それは精神的に壮絶と言って良いほどの日々であっ た。
なので別居したときは、ホッとしたのである。
毎日毎日、彼が尋ねてきて、泣きついてきて、懇願されて戻っても、そこには私達の間にあるマニュプレートされる人間とする人間の関係が戻ってくるだけである。
私達のように、深淵でつながっていた人間が、そういう病理的な関 係でしか存在できなかったというのは、非常に残念である。または、そういう病理的な関係だからこそ、依存関係となって切っても切れなかったのかもしれな い。
とにかく、あらゆることを尽くし、あらゆるドラマを見て、暴力の寸前まで行き、病気の寸前まで行ったから別れたのであり、修業が足りないなどと言われる筋合いはない。選択の余地などなかったのである。文字通り、暴力と言う修羅を潜り抜け、命からがら出てきた。
ところが、
今、ここ何年かして思うのである。
私の唯一の失敗は、あの結婚を放棄したことであると。
もうどんな恋人が出てこようと、どんなに支えになる人がでてこようと、私は永遠に、私だけの家族 を失ったのである。
家族全員でクリスマスを行うこともなければ、休暇にいくこともない。
子供達をどんなにかわいいと思っても、それを分かち合える片割れはいないのである。
どれほどの体験を彼にさせてもらったのか、それを思えば、自分の精神病も、自分の苦しかった日 々も、自殺願望も、すべて帳消しになる。
私は彼の音楽に震え、彼に初めて音楽を生み出す姿勢を見せ付けられた。コマーシャリズムに自分を汚さず、 成功を一切求めないで音楽への絶え間ない尊敬を抱き続けて、自分自身を奉仕の手段として犠牲にする、その姿勢は誰にもまねできないからこそ、凡人とは一 線を隔てていのである。
私は、自分の価値観を彼を見ながら、隣に体験しながら形成してきた。
今思えば、礼を尽くしても足りないほどなのである。
私は彼よりも早くパートナーを見つけ、再婚した。
彼もその後、自分の学生と再婚した。
けれど、私は完全に失敗である。
彼のような人間と人格形成上最も大切な時を共にしたら、もう誰とも一緒になど住めないのだ。
別れてから2,3年は酷かった。子供達を引き渡すので会う度に、お互に涙が止まらないのである。
目を見るだけで涙がほとばしり出るのである。それでも、翻るように自分を引き裂くように、言葉も交わさずに子供を渡して帰ってくる。
家の影で、道路の影で、号泣したものである。
4,5年しても同じだった。
彼のコンサートに行ったときは、帰宅してから、なんと言う失敗を犯したのかと鬱に落ち込み、夫の顔も見れないのである。彼の音楽に触れた瞬間、私の魂は、生き血を得たかのように、踊りだす。体中が振動して、血管が駆け巡るとでも言えばよいか。震え、涙がでるという震撼であった。恐ろしい体験である。
今年に入っても同じである。子供達を交えて食事をして、ワインで乾杯しただけで、涙がほとばしるのである。
彼も、酷くなるばかりだね、と真赤な目をしている。
でも、もうあれ以上できなかったことだけは、私達にはわかりすぎるほどわかっている。
彼の新しい奥さんは、日本人で私達のベビー シッターだった学生であった。
その彼女と一緒になったと聞いたとき、ショックを受けたが、彼女の屈託のない性格を知っていたので、安堵したところ もある。
それでもその晩は、号泣した。再婚しても、一向に幸せではなかったからである。なぜかと言えば、新しい夫のことなど、これほども愛していなかったからだ。どこまでも勝手な女である。
2年ぐらい前、彼らに子供が出来ると突然直感し、2週間ぐらい落ち込んで仕方なかったことがあ る。前夫は、毎回そんなことは僕は今は望めないと言って、私を毎日のように慰めてくれた。
しかし時は過ぎ去る。
今年の夏、彼女は 妊娠した。
私の覚悟は出来ていたので、まったく平然とことを受け止めている。それどころか、彼らの幸せを真に望んでいる。
彼女に、私の出来なかったことができる、などと考えたことはない。彼女と私は違う人間で、彼女とはそんな病的な関係ではないのであろう。
ありがたいことで ある。私は彼が何の心配もなく、音楽をしていられることが一番の望みである。
それでもクリスマス、こうして一人きりで過ごすことは気楽で嬉しいのだが、書き始めてみれば、こんな長文になり、やはり私はのどから手が出るほど、家族を取り戻したいのだと勝手ながら実感するのである。
でも、勝手は通用しない。
自分の人生には、きちんと付けを払わなくてはならない。
私には、その力も意志も立派に備わっているが、幸福になれるのか、と問われれば、もう無理だと思うと考えてしまう。
子供達の成長が嬉しく楽しみで、小さな幸福はいたるところに見出すのだが、 乾ききった魂の孤独は深く、普段は一切感じることはないのだが、いざ押し殺している自分の殻を取り除けば、本当は失敗したと認め、でも他にどういう方法もなかったという絶望に涙し、これから精神的には死ぬまで一人で歩むのだと言う覚悟を決めている自分に、多少疲れを感じるのである。
以上のような経緯であるが、前夫と仲が良いというのが、故にまったく不思議ではない。自分たちの意志とは別なところで、ある意味何かが一致しているのである。
精神医学的だとか、心理学的だとか、そんな難しいことはさっぱりわからないが、目を見れば、さらには挨拶の抱擁をしただけで、互いに涙が出てくるというのは、別居後8年たっても一向にかわらないのである。
それがもう決して起こらなければ良いと願って8年たったが、それだけは変 わることない。
兄弟のような、家族のような、そんな気持ちなのである。
私はそんな立場にいないが、彼の命に何かがあったときは、礼を言うために駆けつけたいと思う。
また私が死ぬときには、他の誰でもない、彼に来てもらって、最後に礼を述べさせてもらいたいと。それだけである。
今年の締めくくりとしては、いかにも情けなく、自分でも嫌気がさす。
しかし、これが現状であり、失敗ばかりの人生を見つめ、それでも歩き続けなくて はならない自分の人生に対面するのが、やっぱり宿題ではないかと思うのである。
来年は、後悔のないように、子供達に思い切り時間を割き、 たくさんの思い出を作って、家庭らしいことをたくさんしてみようと思う。それが間違いなく、私を少しでも幸せにしてくれると信じている。
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