2010年9月17日金曜日

心理的カオス

再三書いてきたテーマだが、心の整理に記した走り書きを投稿。
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そういうわけで、少しは落ち着いただろうか、と思える感じに、また日常が回り出した。

ドイツに帰国してくることは毎回苦痛なのだが、今回は特に哀しくて、なかなか辛いものがあった。
新高輪まで送ってもらい、そこからリムジンバスで成田にくるようになって、もう何年か経つ。
昔は、母が成田まで送ってくれたものだが、今の彼女には長距離を一人で帰路につく気力もないし、私自身、そろそろ高速を使っての長距離運転はできるだけ控えて欲しいと伝えてあった。

そこで、発着共にリムジンバスとなったのである。

ホテルで別れる時、母はバスが来る前に、私たちを降ろしたら子供たちを一人ひとり抱きしめ、私の目をあえて見ずに、翻るように帰って行った。私は若干胸に痛みを感じつつ、彼女の車が去っていくのを見守った。

バスが来てから、気を取り直したのだが涙が流れてしまった。いつも我慢できていた涙が、今回は勝手に流れ出してきた。やはり病気の母を置いていくという良心の呵責が強かったのだろう。

バスの中から、日本の通勤風景が見える。ハンカチで汗を拭いながら急ぐサラリーマンや、日傘をさして歩くOLたち。制服を着た中高生、犬の散歩をする下着姿の老父。

何もかもが愛おしく映り、何を見ても涙があふれ出てきて仕方なかった。
日本を去るのは、日本の暮らしやすさや、育った場所や、母語を離れるから辛いというのではない。

この場において一言では語れないが、私の子供の頃の魂は、日本のどこかで私に捨てられたまま待っており、かたや、ベルリンから日本への飛行機に乗った途端に、私は大人になるためにずっと一緒にいてくれた私の魂の片割れをドイツにおいて来ている。

私のルーツと欧州はつながっておらず、私の立っている地面の足の下に、多少根が生えているぐらいである。
ところが、日本の国土は、私のルーツと直結しており、家族や友達、さらには、そういった人々と複雑に絡み合った思い出が、網の目のように地面の下に張り巡らされているのだ。

富士を見て涙が出るのは、私の五感による故郷という実感であるだけでなく、富士に関する思い出、歩いた道、家族との散策、そのときに食べたもの、来ていた服、はやっていた音楽、乗っていた車、読んでいた本などが、一丸となって、こみ上げてくるのである。

そして、それは横浜であり、中華街であり、東京のあらゆる場所、小さな横丁に至るまで、散りばめられている。

ドイツにもそういう思い出があるだろうと指摘されても、一人きりで、あるいは自らの配偶者や子供たちなどと築いてきた思い出など、無意識に襲われるような、半ば支配できないような思い出の嵐とは、比べ物にならない。

子供時代の思い出は、大人のように意識して体験されたものではなく、親というものに守られながら、感覚的な記憶として残っているからだろうか、その波は突然やって来て、そして常に思っているよりもずっと大きいものなのだと実感した。

そして、私は今、子供達が後に彼等の子供時代を思い出した時に、こうして胸に響くような体験となる、その大切な種をまいているところなのだと気がつく。

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母は、元気な声を出しているが、彼女も娘と離れて暮らすことにすっかり慣れてしまっているのだ。
しかし、母が病気であるとか、家族が助けを必要としている場面で、私自身が一人、ドイツで歯を食いしばって、忙しいです、仕事が来ます、頑張っています、子供も育てています、と言ったところで、如何ほどの意味があるのかまったく自信がなくなってしまった。

自分はどうしたい、という次元ではなく、私の役割は何で、それはどこにあるのか、と言った考え方をするべきなのだろうと言うことだけは見えてきたのだが。


しかし、役割を考えるに当たって、子供たちの母であるべきか、母の娘であるべきか、私の場合、それを決して物理的には混合できないところが、本当に苦しくてしかたない。

子供の母としては、教育を考えてどうしてもドイツに居残ろうと思うだろう。私自身としても、どんなに五感から来る故郷を愛おしく思っても、20年以上暮らしてきた中で築いてきた幾ばくかの基盤を捨ててしまうのも怖いのだ。

けれど、私が日本に帰ると、母だけでない、役に立つことが重複して出てくる。
父も、そして母も、誰一人帰って来いとは言わないし、むしろ帰ってくるなと言っているのだが、兄や義姉がどれほど私の帰宅を待ちわびているか知れない。

家庭の事情で、私が帰ると、救われる問題と言うものある。

そして父いわく、

おまえが今までキャリアを積んで、立派に課長だ、何だという立場を持っているのなら、何も言わないが、ここまでやったって、フリーター以上のものにはならないじゃないか。リスクを負って生きるなら、日本だって同じではないか。

このような発言の次の日には、父も帰ってくるなと言うわけで、彼自身孫の将来と自分たちの立場とで、揺れに揺れているのだろう。

しかし、そうなのだ。私の立場など、日本の家族に苦労をかけてしがみつくほどの価値はないのかもしれない。
しいて言えば、子育てのために残ると、たったこれだけの理由のみが、帰国を阻止しているのであり、これが実は最大の問題なのかもしれない。

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日常が回りだすと、帰るという言葉が見えないところまで遠のいてしまう。
ドイツでもやっぱり良いや、などとそんなことを思うからではない。しかし、ここにいる限り、私には子供を除いて助けを求めてくる人もいないが、助けを求める人もいない。私の運命は、私だけの手にある。私の責任である代わりに、私が私自身の中心を常に実感しつつ、それを手中に収めたまま、生きているという直接的な人生への関与を実感できる、

日本に行ったらどうであろうか。
役に立っているという満たされ、意義のある実感、そして家族との連帯感、家と言うものを守るという伝統的行為。そういうものを私は得ることができるだろう。

しかし、この、明日もあさっても、どうころんでも、泣いてもわめいても、私が立ち上がらなければ、子供のご飯もなければ、私自身の明日もない、という、ある種ストイックで、純粋な生命の感覚は、もう得ることはできないかもしれない。

それを失ったら、強いと思っている私自身が崩れるようで怖い面もある。
私が日本に帰るならば、私の背中に常にいて、私と常に会話をしてくれる、もう一人の私の中の私という魂の片割れを置いていくことになるのだ。
何故なら、彼女は私が一人になったからこそ、私の中に生まれた。彼女の故郷はドイツなのだ。

まさに、二つの大陸に跨って、大切な過去(両親)と未来(子供)に向かう家族を抱え、どうしていいのか分からない。

日本ではドイツ学園にも行き、申し込み用紙もそろえた。
しかし、まだ申し込めていない。

日本の国土で当然と思える私の人生観や価値観、そして決意なとは、欧州の土地を踏んだ途端にぐらぐらとその足場を失う。

そして、欧州に一週間も滞在すれば、また過去20年の間に、私自身が築いてきたこの場所における価値観や人生観、決意などが、これこそ正しいと言わんばかりに、にょきにょきと芽を出すのであった。

「私」の言う「私」が、これほど意味がなく、筋が通っていない。
決意というものが、実際には少しも決意になっていない。

それとも私が二つあるのだろうか。


そう言いつつ、今晩も夕方は入った月曜納品の仕事を断れず、ワインもそこそこに下準備を始めている。

不満を言いつつ、仕事が来ることがありがたく、頼りにされていることがありがたく、私を探してくれる人がいることがありがたく、それを切断して帰国するのは、身体的な痛みにも感じられるほど、良くしてくれた欧州に対する、まるで裏切り行為のようにも感じてしまう。

そして、手術前に、頻繁に電話が来るようになった母と、電話するたびに、私は元気だし、またカならず元気になるのだから、帰って来ようなんて思わないで、と最後の一言として言うのである。
そして、だからこそ彼女の本心が見えてしまい、迷いを示して、彼女を残酷にも傷つけることだけはやるまいと、大丈夫、準備を進めますという自分に、なんともいえぬ欺瞞を感じて鬱病になりそうなのである。


そういうことで、備忘録。

2010年8月22日日曜日

ONCE

夏休みに実家で見た映画。
私の原点ともいえる単調アコースティックソングの魅力を十分に表現している映画だった。
音楽とその繊細な感情のやり取り、そして野暮と言われようと、愛というものをごく純粋に信じている姿に感銘を受けた。




Lyrics | Glen Hansard - Falling Slowly lyrics

2010年6月16日水曜日

春の病気

五月中、天気が悪く、今頃やっと五月になったような気分である。
そよ風、春の匂い、まぶしい太陽の光、外に繰り出す人々。
すべてが、ほんの少しでも私の心を躍らせる。



詩人の恋 Op. 48
Part 1, Songs 1-6

Im wunderschönen Monat Mai,
いと麗しき五月に
Als alle Knospen sprangen,
全ての蕾が花開いた時
Da ist in meinem Herzen
僕の心の中で
Die Liebe aufgegangen.
愛が芽生えた

Im wunderschönen Monat Mai,
いと麗しき五月に
Als alle Vögel sangen,
全ての鳥たちが歌をさえずった時
Da hab ich ihr gestanden
僕は彼女に
Mein Sehnen und Verlangen.
憧れと想いを打ち明けた

Aus meinen Tränen sprieße
僕の涙から
Viel blühende Blumen hervor,
たくさんの花が咲き出して
Und meine Seufzer werden
そして僕のため息は
Ein Nachtigallenchor.
小夜鳴鳥たちの合唱となる

Und wenn du mich lieb hast, Kindchen,
君が僕のことを好きならば、愛しい子よ
Schenk ich dir die Blumen all,
僕は君にこの花全て贈ろう
Und vor deinem Fenster soll klingen
そして君の窓辺には
Das Lied der Nachtigall.
小夜鳴鳥たちの歌声が響く

Die Rose, die Lilje, die Taube, die Sonne,
バラ、ユリ、鳩、太陽
Die liebt ich einst alle in Liebeswonne.
かつて僕は愛の喜びの中でこれらを愛した
Ich lieb sie nicht mehr, ich liebe alleine
今はもう愛してはいない、僕は
Die Kleine, die Feine, die Reine, die Eine;
小さく、繊細で、純粋な、一人だけを愛している
Sie selber, aller Liebe Bronne,
全ての愛の泉である彼女自身は、
Ist Rose und Lilje und Taube und Sonne.
バラであり、ユリであり、鳩であり、そして太陽なのだ

Wenn ich in deine Augen seh',
僕が君の目の中を覗くとだけで
So schwindet all' mein Leid und Weh;
すべての苦悩と痛みが消えてゆく
Doch wenn ich küße deinen Mund,
僕が君の口にキスをすれば
So werd' ich ganz und gar gesund.
僕の身体中が健康になる

Wenn ich mich lehn' an deine Brust,
僕が君の胸にもたれかかると
Kommt's über mich wie Himmelslust;
無上の幸福が湧き上がってくる
Doch wenn du sprichst: ich liebe dich!
そして君が「あなたを愛しているわ!」と言うならば
So muß ich weinen bitterlich.
僕はさめざめと泣くしかない

Ich will meine Seele tauchen
僕は僕の魂の中に沈み込みたい
In den Kelch der Lilie hinein;
ユリの花房の中に
Die Lilie soll klingend hauchen
そしてユリのため息が響くだろう
Ein Lied von der Liebsten mein.
それは僕の最も愛する人の歌

Das Lied soll schauern und beben
この歌は震えて慄くだろう
Wie der Kuß von ihrem Mund,
彼女の口によるキスのように
Den sie mir einst gegeben
かつて彼女が僕にくれたあの口
In wunderbar süßer Stund'.
素晴らしく甘い時間

Im Rhein, im heiligen Strome,
ライン河の聖なる流れの中に
Da spiegelt sich in den Well'n
波の合間に
Mit seinem großen Dome
あの大きなドームが反射している
Das große, heil'ge Köln.
大きく聖なるケルン

Im Dom da steht ein Bildnis,
ドームの中には肖像画がある
Auf goldenem Leder gemalt;
金色の革に描かれおり
In meines Lebens Wildnis
僕の人生の荒野の中に
Hat's freundlich hinein gestrahlt.
優しくそれは輝き込んできた
Es schweben Blumen und Eng'lein
花や天使が
Um unsre liebe Frau;
僕達の愛する女性の周りに浮遊している
Die Augen, die Lippen, die Wänglein,
目、唇、そして小さな頬は
Die gleichen der Liebsten genau.
最も愛する人のものと同じ


(拙訳)

Dietrich Fischer-Dieskau (baritone)
Gerald Moore (piano)

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サッカー戦で興奮したのだろう。
そうしてワインをいつも少しより大目に呑んだのだ。

子供達とサッカーを観戦しながら食事をし、私の家に連れて帰ってきた。
玄関先で、酔ったために目を潤ませて、私をまじまじと見る。
そして、何かを言いかけた。
いつもの茶番と同じことを、何年も何年も言い続けているあのことが、また口をついて出た。

酔っていても、真面目であっても、悲しく苦しい時にも、彼の気持ちに嘘は見えない。
けれども、いつまで過去に支配されて生きれば良いのだろうか。
過去に終止符を打ちたい自分と同時に、過去をどこまでも引きずって、この悲しみや痛みと共に、
私にとてつもなく深い信頼を与えてくれる見えない糸を切りたくないとも思うのだ。

酔っていても、笑っていても、涙を流していても、辛苦を噛んでいても、私達の空間にあるZuneigungは、必ずいつも存在し、そして決して消えることがない。

茶番だと笑い飛ばして、彼に礼を言って送り出した。

そして、キッチンに行くとそこにはいつの間にか、彼の新しいCDが置いてあったのだ。
以前、これは君のために演奏し、君のために録音したというあのCDが。

次の日彼は突然尋ねてきた。

昨日は悪かった。ああいうことを言ったりして、謝りたかったから立ち寄ったんだ。

良いのよ。何にも気にしていない。もうあなたの発言に惑わされるようなことはなくなったのよ。

そりゃそうだね。

一杯飲まない?


行こうか。

そして二人で向かいのカフェで一杯だけビールを注文した。
まだ太陽が斜めに差しており、手でその光をかざしながら、並木通りの緑をボーっと眺める。
きらきらと光る深緑の葉は、若干オレンジがかって、儚いほど美しかった。
何も話さず、向かい合って座り、目が合えば微笑んだ。
そして、お互い同時に、この素晴らしい友情と関係は、神に感謝しなければならないほどの宝ものなのだと納得しあう。

しかも、一切の言葉を必要とせずに。

これほどの関係は、もう二度と得ることはないだろう。

男女の関係などといった枠組みなどをすっかり取り外してしまったこの関係は、
自由に開放されており、私達の魂は互いの中を行ったり来たりできるのだ。

時に共鳴し合い、融合し合い、そしてまた離れてそれぞれの胸中に帰ってくる。
これは、一切の言葉がないからこそ可能なのかもしれない。
そして、私たちが分離しているからこそ、可能なのかもしれない。

エロスは、どんな影響を与えることもなく、私達の間に扉として存在し、そして私達の信頼を固め、尊敬を保ちつつ、私達の融合を可能にしてくれる。

春には、ある種の魔術が働いているのではないかと、自然の中にふっと小さな命の息吹を見出すたびに、感じてしまうのである。

2010年6月2日水曜日

音楽への道は過酷である。
やるからには、その辺の音楽教師で良いなどという気持ちでは、鄙びた町の片隅の教師にもなれない。芸術の一部であるにもかかわらず、現実は競争に競争を重ねた世界である。
スポーツとの違いはどこにあるかと聞きたい。

また表現といったって、内面に向かう声を音に聴く耳を持った人間は少なく、教師、教授クラスだって、そんな耳を持たないものが大半である。

所謂競技的な教育は、楽譜に書いてあるダイナミクスを大げさに身体で表現し、楽譜を忠実に聴き取れるというレベルであれば良いのである。それが音楽性といわれるもので、和声を汲み取っているか、本人にしかわからぬ程の、実に繊細な音質の変化、音符の間隔、合間の取り方などは、学生である間は、無視したとしても、楽譜に忠実に、大げさな強弱表現をして、大きく体を動かして舞台で堂々と演奏する能力こそ、期待されているのである。

さて、息子は、音楽のエリート校といわれる学校に通っている。自慢でもなんでもない。むしろあんなところに入れた親として、責任を感じている。
その学校で、バリバリに体育会系、つまり学生、生徒の「出来」栄えで、自分のキャリアを証明する教授の門下に入り、全くのダメ息子、音楽性ゼロといわれているのが、うちの息子である。

私は、有名であるとか、テレビなどの露出メディアだとか、そういうメディアに出演している演奏家との共演などを出来るだけ断り続けて、地味に徹し、マスメディアの価値観に、絶対に自分の芸術を持ち込まないという彼の父親と共に学び、共に暮らしてきた人間である。

息子の音楽性を聴く耳は、教授のそれとは真反対の価値観に匹敵し、まったく接点がない。教授が才能あるという子供達こそ、ロボットのように楽譜の強弱をつけて、見せる音楽をするために身体を動かして、絶対に間違えない「安定性」を最強の武器にしている。

私にしてみれば、その子たちの音楽を聴いて、一瞬たりとも、このような繊細な感性はすごい、このような深い情景が聞こえてきたのは初めてだ、といったような感想を持ったことはない。「すごいね、君のテクニック。ドイツ製のロボットのできは、最高レベルで、これなら野太い音で、素晴らしい土のにおいのする完璧音楽マシンになるね。」と言うお墨付きを与えるぐらいである。

息子のは、貧弱で、テクニックも危うく、比べてば見劣りがし、まったくこの怠け者は、聞いているものをひやひやさせる!と、こちらの怒りも心頭なのである。
しかし、音楽への感性、音への感性と言うものがあるとすれば、この息子なのだ。
バリバリと、割れるような野太い音で安全に演奏し、スポーツ選手のような、筋肉質な野心で、負けじと迫ってくる演奏では、私の心は動かない。競技を終えた後、なかなかでしたねという、技術への感心は出てきても、それは音楽だったと言われると、すっかりハテナ印が頭上を飛び交うほど、音楽であったと言う実感がないのである。

息子は、殆ど気付かないポイントとやり方で、感じていることを音にしているのが聞こえる。この子には才能があるなと、「聴く耳」にはわかるのである。
ところが、この怠け者と、この自信のなさから来る不安定性と、このときに繊細すぎる性格では、この過酷なスポーツの世界を生き抜くことは出来ない。

不本意であるが、勝ち抜くのは上述の野太い子供達である。

その中から時々、本物が出るが、そんなのは100分の1ぐらいで、殆どは凡庸な才能をどう扱うかという問題になる。

凡庸な才能と言えば、野太い子達も息子も似たような凡庸な才能である。
しかし、世界は聞こえるもの、見えるもの、迫り来るもの、そして「引っ込み思案」でないものを認めるのである。
それを愛するのがマスメディアの規準なのだ。

息子をこの学校から引っ張り出そうかと思っている。
あの子は、頭の良いしどこでもやっていかれる。
あんな凡庸で繊細な傷つきやすい才能で、このようなスポーツ競技系エリート校にいるのは、確かに難しい。

私は、その内情を知っているからこそ、昨今の主流音楽業界に吐き気がするからこそ、この辞めさせちまおうという病が出てきてしまう。

まあ息子に決心させよう。
あんなにスポーツ競技同様に、「一流音楽家の卵」を排出、あるいは生産し続ける教育とは何かと、段々はらわたが煮えくり返ってくるのである。

2010年5月30日日曜日

鬱状態

こういう曲は、クラシックとは違うが、私の心を良く表現しているような気もする。



自分が鬱病ではないということは、承知している。
泣き言を言うつもりもないし、自分を叱咤する元気すらある。日常生活もそれなりに機能しているのだが、自分自身の内向性をどうしても改善することが出来ない。全てを悲観的に見てしまい、いじけた根性に、自分でも嫌気が指してくるのだ。そしてそれがもう一ヶ月以上続いている。

子供達はすでに自分の支配下にはなく、彼らは行動的には自立してしまった。
しかし、先立つものはなく、映画に行くにも外に行くにも小遣いというものをせびりに来る。
まるでお金が湯水の如く降ってくるとでも思っているのであろうか。

私は、行きたくないと思う日にも、毎日外出して仕事をしてくる。
そして、6時過ぎた頃、疲労を感じながら買い物をし、急いで夕食を作り片付けるともう9時を回るのである。

おいしかった。ありがとう。

子供たちが、こういうまともなことを言えないのは、全く私のしつけが悪いのであろう。
疲れていても、子供にクタクタだと告白したところで、何の交流もできない。子供の話を聞いてやることのほうが先決なのだ。子供はそもそも守られ、平和に育っていく権利があるのだから。

夜、ベッドにPCを持ち込んで、インターネット世界を垣間見たり、楽しみの読書に熱中するのが、私の唯一の逃避方法である。
思いを打ち明ける人間もいないが、例え打ち明ける相手がいたとしても、もうあまりそういう思いに熱をこめて話すような年齢でもない。すべてをそのまま受け入れてしまう自分がいるのである。期待度を下げ、幸福要求度を最低限まで下げいているのである。
そのため、私自身、本当に幸福だとは思うのである。金銭に困ることもなければ、子供も私も父親も健康である。思春期の渦中にあって、様々な問題が押し寄せては来るが、そんなもの、人生を長い目で見れば、おたおたする様なことではない。教育ママの理想もなければ、子供たちにエリートの道を行ってもらおうなどという、エゴイスティックな野心も見栄もないのだ。

人間の価値は、実は生きている、それだけで十分なはずである。
何を成し遂げなくとも、誰のためにならなくとも、社会における安全と平和を乱さない限り、どの人間も、生き続けているということだけで、十分なのだと常に言い聞かせている。
死にたくなる時もあるけれど、授かった命を自ら絶ってしまうのは、根本的に世界や人生そのものの否定になってしまう。自殺の手段すら与えられない情況というものがこの世の中には存在し、やはり私は生を全うすることはやり遂げたいと思うのだ。

子供というのは、やはり親のものなどであったためしはなく、親は授かった子供を大切に自立へ向けてしっかりと育てる義務があるが、子供達は親に礼を尽くす義務もなければ、親に感謝の気持ちを表さなくてはいけないという義務もない。
子供は、社会に出た瞬間に、彼ら自身の人生を生き抜いていかなくてはならず、それ自体が困難であるからには、親という過去を振り返ることなど出来ないのは、当然だろうと思うのだ。

しかしそれでも、私は人生のなんと過酷なことだろうと、改めて思うのである。
毎日単調に仕事に行き、買い物を済ませ、食事を作り、掃除をして瞬く間に日々が過ぎていく。
子供達は成長すればするほど、親から自立し、親に反抗してくるようになる。正しい成長過程である。私も、家庭や家族を守るために労働をし、感謝を期待せずに、毎日謙虚に人に尽くせと言い聞かせている。

それでも、心の奥深くに沈殿した垢の中には、多くの悲しみがあり、孤独があり、失望があり、存在の無意味を感じてしまうのである。

子供達の父親に赤ん坊が生まれ、彼らはこれでれっきとした家族としてのスタートを切ったわけである。今まで、父親の三人の子供を一人で育てている私への関心は高く、気を使ってくれたり、義務を果たしたりする中で、彼の妻の感じていた疎外感、または二番目の存在である自分という感覚は、とても辛かったと思う。
しかし、彼女は今、晴れて家族を持ち、夫と自らの子供を授かり、日々「我が家」という名の下に、人生を構築している最中なのだ。
一方、私の「我が家」は、私自身が崩壊させた過去がある。私の我が家と言う響きには、どれほどの罪悪感がこめられているか、自分には想像できない。

子供達にとっても、父親の家庭と言うものが、段々本物の家庭になってきた。我が家に父親が帰宅したときの、なんとも表現しがたい新鮮な風と言う感覚を私は忘れることができない。それは関係が必ずしも良くない時でさえ、父親の帰宅というのは、ある種の祭りのような空気が漂っていたのである。
そこには、そこはかとなく、人間の小さな営みの幸福というものが、見え隠れしているのであり、子供という動物的臭覚をもった者は、それを素早く嗅ぎ取るのである。

子供達の中心は、もはや私の家に父親が来ることではなく、子供たちが父親宅へ出向き、新しい命を含む、父親の家族の中へ、子供たち自身が融合されると言う形に変化しつつあるのだ。

おそらく、それが私の鬱の中心なのだろうと思う。
気持ちの良い家庭を与えてやることも出来ずに、必死にはした金を稼ぎに走り、毎日栄養のあるものを食べさせようと苦心し、泣き言一つ言わずに、不言実行を唱えて生きていても、一体誰がそれを良し、あるいは悪しとするのであろうか。
これだけ子供達から「我が家」を奪ったことを申し訳なく思いながら、なるべく「普通」に育てようと必死になっているのに、その「必死」は、子供達にとって「当然」であるどころか、それでもまだ何かが欠けていることは否めないのである。

私がどうしても一人では乗り切れないのではないかと言う境地にあっても、父親は不在であるし、一人きりで背中を震わせて泣きながら、子供を守るために、社会に対抗してきたつもりである。子供が情けない問題を起こした時も、何度でも頭を下げて、夜誰にその悔しさを打ち明けることも出来ずに、一人で気晴らしをし、一人きりで泣いてきたのは、この私である。
そして、この私こそ、子供達は今、中途半端、余裕がない、十分に時間を与えてくれない、という刻印を押して、罰しようとしているかのような有様なのである。

この場に及んで、私の存在価値とは、食事と金と掃除ではないかと疑ってしまうのも、無理もないのではないか。
もちろん、子供たちとて、そこまで馬鹿でもないだろうから、後で分かるとか、本心は違うとか、そういうことは想像できるのだが、私だって日々生き抜いていくに渡って、何処かから、おまえはそれでよいのだ、十分頑張っているのだと、許しをもらいたい。

二度目の結婚は、恋愛に過ぎず、子供に何をしてくれたわけでもなく、経済的に世話になったわけでもないので、彼自身は、私の恋人として存在していただけで、子育てに関して、直接支えてもらったことはない。話しても、実用的な側面までで、当然と言えば当然だが、他人の子供のことは、あまり関わりたくいないのである。それは父親と解決してくれという姿勢だった。

つまり、私のこの一人で背負ってきたと言う感覚は、別離以来、一度も中断されたことはない。

私は、私のやり方が正しいと言う話も聞きたくなければ、私自身の人格を肯定してもらう必要も感じない。

ただ、誰かが私を許してくれれば良いと、それだけが私の望みなのだ。
そんなに責めるな、何をしなくても、仕事もなく、食事もできず、寝たきりだとしても、お前が生きているだけで、周囲の人間には十分であり、課せられた任務を実行し続けなければ、価値がないとは思うなと、そういう許しを受けたいのである。

君は、それでよい。


それだけを言って欲しいと思う。
そして、それだけは、誰も言ってくれない。子供達はおそらく、将来礼こそいうことがあるかも知れずとも、許しと言うのは、子供にもらうものではないのだ。
自分を許さなくてはならないのは、実はこの私自身で、それをする自信が微塵もないため、ずっと自分は愛されていないと言う不安があるのである。
私が、立派な家庭を築いて、裕福な生活を与えない限り、子供達は私から去るだろう、つまり私の価値と言うのは、存在しているだけで十分ではない、そう生きているのが現在の私なのである。

どうやって、自分とこれ以上対決し、どうやって自分から自分に許しを与えてよいのか、本当に分からない。
そして、この鬱の渦巻きから、永遠に抜け出すことが出来ずに、他の人間より、おそらくほんの少し多く、人生の過酷さを実感しているのである。

2010年5月15日土曜日

荒れ狂う散文

この頃の欝は酷くて、突然泣き出しては、自分でも何を考えているのかわからなくなることがある。
何が欠けていてそれをどうやって手に入れたらいいのかも全く見通せない。

Massimoに会って以来、不思議なことがおきているのだ。
Massimoからは、二通形態のメールをもらった。
一つは再会がすばらしかったと。もう一つは週末の小旅行が終わったら連絡すると。

それ以来、私は一日中はなしたイタリア語が口をついて出てしまい、家でもイタリア語のラジオばかり聞き、夜中にはイタリア語の音楽を聴きながら、涙が流れてしょうがないと言った有様なのである。

今も、ワインの入った頭で、思うに任せて書いている次第である。

恥をさらそうが、無教養なことを書こうが、そんなことはどうだってよいじゃないか。
何が、私をこう熱くし、何が私の心をこう締め付けるのか、それをなかなか受け入れたくないのである。

Massiomoというのは、私にとって男性でもなく、友人でもなく、イタリアへの扉である。
もちろん、彼は私に良くしてくれるし、今後も友人だと思って、交流がしばらく途絶えることはないと思う。
けれど、私は彼など全く眼中にないのではない。

私が、ここ何年も、毎年のようにイタリアに休暇に行き、思い出の地ばかり訪れ、写真に収め、新しい色に塗り替えようとし、涙を流して、永遠に続くと思われる丘陵に落ちる夕日を脳裏に焼き付けて帰ってくるのは、他でもない、一心に、彼を忘れようとしている行為なのである。

しかし、あの魔物は、夜になれば襲ってきて、私を悲しみの世界に陥れ、再び、私はこの思いから開放されることはないのだと実感する。

Massimoでもなければ、イタリアでもない。
彼が日本人であれば、日本であるし、彼がドイツ人であったなら、それはドイツなのだ。

ええ、はっきり言わせてもらえば、私は孤独だし、それでも背筋を伸ばして凛と生きているつもりだけれど、自分の有り余る感情に振り回されて、まるで愛することのできない自分が、気が狂ってしまったように暴れだしてしまいそう、と言った状態なのだ。

何の儀式をすれば解放されて、何のまじないをすれば、私があの愛から逃げ出すことができるのかはわからない。

とりあえず、愛することも知らない人間に、愛していると言うふりをされ、束縛されると言う苦痛からは足を洗えた。
再び、あの問題に向き合った私は、一生その影を背負い続けると思うと、本当につぶれそうになるのだ。

自分の人生を思い描くだとか、自分の人生を物語るとか、そんな冗談を言っている場合じゃない。
私は、自分の物語の方が私を支配していることを実感している。
渡してしまった魂を取り戻すために、私は何をすればよいのか。

思いっきり、自分を痛めつけ、汚してしまえばよいのか。
いや、救われるべきは、許されるべきは、実は私なのだから、残されるは、殆ど祈りしかないと言うことなのだろう。
本当に、本当の意味で、コミットしてしまうことは、ここまで一人の人生を支配し、ある一つの牢獄に閉じ込めてしまうものなのか。

早く、鬱が過ぎ去るのを待つしかない。

2010年5月10日月曜日

書くということ

ドストエフスキー「地下室の手記」より引用

… たんに思い出すだけでなく、書きとめようとさえ決心した今となっては、せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実の全てを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。ついでに言っておくが、ハイネは、正確な自叙伝などまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず嘘をつくものだ、と言っている。
[中略]
ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分一人だけのために書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、僕がまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽだけの形式であって、僕に読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
僕はこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序も系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
[中略]
だが紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると説得力が増すようだし、自分に対しても批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくると言うものだ。そのほかに手記を書くことで気持ちが軽くなるということがある。


ぼた雪にちなんで

迷いの闇の深いそこから
火と燃える信念の言葉で
おちぶれた魂を引き上げたとき
おまえは 深い苦悩に満たされ
両の手をもみしだいて
おまえをとらえた悪を呪った。
物忘れがちな良心を
思い出のかずかずで責めながら
私の知るまでのすべてを
おまえはものがたってくれた。
そして ふいに両の手で顔をおおい
羞恥と恐怖におののきながら
おまえとは 心ゆく涙にくれた、
怒りと 心のたかぶりを
どう抑えようもなくて…云々

N・A ネクラーソフの詩より