2010年12月1日水曜日

急激な冬、そして日常

 急に吹雪いている。昨夜から家の外で竜巻が舞っているような不気味なうなり声が絶えない。


今朝外に出ると、あまりの寒さに皮膚がピリピリと痛んだ。

子供達も防寒具を重装備して学校へ行ったが、まだ暗いうちに出すので心が痛む。


10時に真ん中の息子が駆け戻ってくる。家の前を走りすぎて建物に飛び込んだのが聞こえた。

何事かと思う。


今日は日曜日のコンサートのプローべがあったのだが、楽器を忘れたと言う。

しかもこのマイナス10度の極寒の中、ジャケットも忘れたようで、薄いプルオーバーひとつで顔を真っ赤にしているではないか。

馬鹿さ加減は母親似であろう。

私もレッスンに楽器を持たずに行って、先生が来るまで一時間も待たされても気づかず、やっと先生に楽器は?と言われて気がつくほどの馬鹿であった。

まあ、それだけ緊張が激しく思考が回らなかったというのもあるが、言い訳にはならぬ。


息子を学校に送り届けてFiatに向かう。

いい加減にスノータイヤに交換しないとならない。

北東へと進むと、どんどん未来都市のように旧東独時代の団地が聳え立つ光景に突入してゆき、住人の姿も様変わりする。

この未来都市のような、タイル張りの団地郡の無機質さは、どんよりとした灰色の空と重なって、なんとももの悲しい。


しかしFiatは、どこへ行ってもFiatであり、サービスもなかなかでコーヒーも美味しく、私的にはリラックスゾーンである。

自動車修理工のマイスターと車に関して相談して、その後コーヒーを頂いて、真っ赤なソファにどっかり座り、雑誌をぱらぱらめくり待つこと一時間半で、タイヤ交換とウィンターチェックが済んだ。


Fiatの目の前に、新しいIKEA Lichtenbergができていた。

13日オープンである。電気はついていたが、まだ開店ではなかったようだ。


ベルリンにはIKEAが3店舗あるのだが、どれも西側で私には、距離は遠くなくても、交通量が多く、行くのが面倒くさかった。

これから、またIKEAに通ってしまう予感。近いだけでなく、街の中心を通り抜けて西へ行く必要がないだけに、スイスイと行けてしまう。


運転席前のKOMBIパネルのLDC表示が壊れて読めなくて不便だった。

相談して見てもらった結果、KOMBIを交換する必要があるという。おかげさまで3年間の保証期間があるため、ただで交換してもらえる。

来週の木曜日に予約を取った。

市電が目の前から出ており、それを使用すれば何のことはない、10分ぐらいでALEXに着き、そこから私の家までは二駅なのだが、仕事もある日なので代替車があるか聞いてみると、Cinquecento!!があいていると言う。26ユーロで一日中のり放題。

即予約。来週木曜日はCinquecento乗れると思うと、なかなか嬉しい。仕事前にどこかへ出てしまおうか。



帰宅して、とっくに入っているはずの仕事がまだないので、問い合わせる。

親会社が今回の案件を取り逃したという。

クリスマス前の、大きな収入がぼつった。

FIATにいる間に、もうひとつの専属会社からTELがあり、仕事をしてくれ、どうしてもと押された。

仕方ないので、後で電話して、そちらの仕事をとることにする。

西側なので、行くのが面倒なのと、レイアウトの仕事なので、あまり得意でないグラフィックソフトを使用するため疲れる。が、クリスマスは思春期の子供を二人も抱え、何しろお金がかかる。いくらでも稼がねばならない。


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ろうそくと灯す機会がぐっと増えた。

ライトニングが美しい季節でもある。

個人的には、クリスマスフィーバーが大嫌いであるが、陰鬱な冬の天気につられて、家にいる機会が多くなり、内向的に色々と自分と向き合うことも多くなる。

本を読んだり、音楽を聴いたりするときに、陰鬱な環境は、感受性の感度をぐっと高めるということも、一応心理学的には実証されているらしい。


自分もそれなりに、それを実感している。


そういう冬が嫌いではない。

クリスマスフィーバーするよりは、キリストの誕生によって、人間の何が変わり、今でも何が変わらず、モラルとは倫理とは何か、生きるとは何か、信ずるとは何か、と言ったような、普段は語るのも気恥ずかしいようなことを、静かにしかし直接的に提議してみたいという気もする。

子供たち、特に息子たちとそんなことを語りたい。


そう言えば、真ん中の息子が、PSPでネットをしているうちに、HIROSHIMAの原爆について知るきっかけを持ち、あらゆる情報を集めて学習したと言う。

はだしのゲンや、蛍の墓などの話から、USAのモラル、原爆投下というものの是非などについて語った。

自発的に興味をそそられ、自分でその興味から知識を広げてくれる息子は、好奇心の強い私に似ているなと思うと同時に、こういうマルチ人間を一人前にするのこそ、至難の業だと、今から心している。


一つのことしかできない人間が一番強い。


そういうわけで、日曜のコンサート用の黒シャツと靴がないというので、息子をピアノの稽古に迎えにいってから買い物に行く。

仕事がぼつったので、普通に母親をしている。

嫌ではない。楽しい。が、金を稼がない不安は大きい。

やはり、春先には社員にしてくれるという話を具体化させようと思う。

フリーだと穴があくこともあるが、社員ならない。



では、吹雪の中へ。

2010年11月24日水曜日

過去30年という映画と私の過去20年

 Die letzten 30 Jahren (クリックすると動画へリンク)― 過去30年」

と言う映画を見た。
珍しくテレビをつけたら、惹きつけられてしまった。

俳優が良かったのもあるが、やはり過去が自分にダブったからだろう。
89年にドイツに来た私だが、あの頃はまだ80年代で、つまり70年代の面影もいたるところに残っていた。
服装、部屋の内装、外を走る車、そういうのはまだまだ70年代を引きずっているものだった。


大学に入って、私の周りには日本人などもいなかったので、最初からどっぷりとドイツ人の中に投げ込まれた。
また、兄の大学の門下生が私の大学に教授と共に移ってきたため、兄の友人の多くに最初から支えられ、日本人と知り合うきっかけもあまりなかった。

メンザ(学食)、パーティー、恋愛、勉強、練習。
とにかくすべてに、程度を知らずに夢中でエネルギー投入した…。
むさぼるように、体験を重ね、景色を焼き付け、言葉を吸収し、文化を探っていた。

しかし、最初に思ったのは、こんな馬鹿なことである。
でも大切なポイントだったりする。女はこういうところを見ていたりする。

主人公たちが知り合い、意気投合してOne Night Standを終えた後の場面を見て思う。


そうだ、優しい男は、事を終えた朝も冷たくない。
コーヒーを飲んで、いそいそと帰るとき、それがたとえ一夜限りであっても、必ず口にキスして別れを告げさせてくれたものだ。

それは、はっきり言って最低限の礼儀だと思う。

これができる男は、そんなにいなかった。

女が道具みたいに利用されたのじゃなくて、君はぼくの気に入ったからそうしたのだし、本当に楽しかった、という確証を与えて女の子を帰せない奴は、やはり男として見込みがないのだ。


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彼らは、30年を通じて、常に偶然に再会してしまう。
たどっている道が、まるで裏で通じているかのように、いやそれがたとえ交差していても、同じように人生のモットーに向かって突き進む姿が、まるで互いを引き寄せてしまうかのように。

長年会わなくても、会った途端に、どうしても距離が縮められてしまい、互いにその距離感覚をつかめず、戸惑いながら、頭とは別のところで、まったく無実に磁石のように引き寄せあってしまい、触れ合いたい、一緒にいたい、体温を感じたい、と思ってしまう関係と言うのがある。

それは、なんとなく知っているような、理解できるような気がする。
幸せとか、未来の計画とか、同じ価値観とか、一緒にいると落ち着くとか、そんな相性とは全く関係ない。
それよりも、細胞同士が惹きあってしまうような、自分の意志とはまったく別のところで、ありえないような人物に惹かれてしまうということもある気がする。

それは、もっと生物的なもので、遺伝子の踊りを舞うためには、もしかすると最強の組み合わせなのかもしれない。
でも、文化人である人間は、遺伝子だけで結ばれるわけではないのが、なかなか悲しく、虚しいことである。

最後には、決定を下すのも、判断をするのも、脳みそにある理性なのだろう。

もちろん、彼らもそうなのだが、彼女がその踊りに終止符を打つ。理性は学ぶのだと実感する。そして学びこそ、自分を救ってくれる。

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良家のボンボンなのに、学生時代から、恐るべき活動家となり、政治に関与し、あらゆる体制に反発し、弱者、生態系のために関与し、資本主義の拡大や成長に疑問を投げかける生き方をして、大変な暴れぶりを見せてくれる人がいる。
この映画でもそうだが、私も若い頃ある人を見ていて、君がそんな馬鹿をやれる勇気や、君がドロップアウトやはぐれ者になるのを恐れない無謀さは、その分厚いバックボーンにあるのだろうと、いつも思っていた。

お金だって困ることはない、馬鹿をやって警察沙汰になっても、コネがあったりするのだ。
余裕のある生き方をしてこなければ、アクティビストなどなれないのではないか。

彼女の方は、地味にパン屋の娘で、努力を重ねて法学部を最優秀で卒業し、そのハングリー度と、努力で得たものを手放したくないという損失への恐れは、これは前述の男とは、比べ物にならないほど大きい。今手放したら、もう手に入らないかもしれない。親への申し訳なさ、今までの努力の甲斐が、水の泡になることへの恐怖。



この二人の30年後だが、彼は突然政治家としてデビューし、しかも左から大きく右へと移行して、現在は保守党でキャリアを積み、郊外に一軒家を建て、自ら絶対に欲しくないと断言していた子供が二人もいたりするのだ。
小さなプライベートな幸せにだけは、時間を浪費するまいと言っていた人間の、30年後の姿である。


彼女は、結婚もせずに、法学と言うシステム内に収まる分野にいながらにして、見事に左に位置し、活動家を支援する弁護士となっている。
家庭背景に多少苦労のあるものは、自分のキャリアを築いても、苦労を忘れないし、弱者の意味が分かっている。オポチュニストになれない十分理由があるのだろう。


こんな例をたくさん知っている、そんなことを自分の過去に重ねて、ずっと見ながら心躍る思いがしていた。
私なら、間違えなく、ボンボンが好い気になって活動家となり、甘えに乗じてある程度年をとると、さっさと保守に転身してしまったという、やはりボンボンから抜け出せない男性を選ぶだろう。

筋金入りの活動家には、セクシーさがないのかもしれない。

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私は、むろん68年世代ではないし、学生運動に染まっていた訳では全然ないが、子供の頃から70年代の音楽を聴くと胸騒ぎがしたものだ。
中学生のことから、ママス&パパスとか、ドアーズ、ザ・フー、フリートウッドマックなんかに凝って、集めていた。8年間ロンドンに暮らした、10歳年上の従姉が、たんまりレコードを持って帰国したこともあったかもしれない。
今日の音楽も、私をすぐにトランスへと導いてくれるような、かったるい懐かしい、そしてちょっと不健康な音楽だった。

小学校6年生のとき、この曲を聞いて、ショックを受けた。古い曲だったが、日本の歌謡曲しか耳にする機会のなかった当時、誕生日にもらったラジオカセットレコーダーで夜中に隠れて聞き出したFENでこれを聞いたとき、洋楽の稲妻に打たれた。

ハウスミュージックとか、テクノの分野でもトランス状態になるような音楽はたくさんあるらしいが、70年代のデジタルじゃない、アナログなトリップは、味がまったく違うのだ。もっと人間味があって、個人が後ろに隠れている。個人の詩があって、声があって、個人の姿があった。そして、本当に多くのミュージシャンが、もったいないように、ドラッグにおぼれて死んでしまった。当時のロックなトリップ音楽には、自らの命を自虐するような代償を払っていた事実が、どこかににじみ出ていた気がする。

話は逸れまくるが、やはり擦り切れるほど聴いたのは、これだ。
 
"EALES HOTWL CALIFORNIA"

この曲を聞きながら、思春期に突入思想だった私は、最初の予感にとらわれた。
どこで暮らすのだろう、誰に知り合うのだろう、どんな人生を歩むのだろう。
夢をつむぎながら、溢れんばかりの予感に囲まれて、突き進んでいく時代は、本当に手探りだが、一番幸せなときだった。

今は、予感も予兆も感じられない。
現実だけが、私の周りを取り巻き、がんじがらめにしている。

それでも、今晩は、なんだか満足だった。
私の過去20年を振り返り、胸が痛いほど懐かしいことも、心が躍りだすほど楽しい思いでも、その多くは、やはり青春が象徴するのように恋愛に関するもので、その多くがこのドイツと言う国にあることに、ハッとし、若干ショックを受け、それでも過去に対する愛着は、やはり変わらないと実感した。

この地を去ったら、やはり体の一部を剥ぎ取られるような肉体的痛みだけでなく、魂のどこかを永遠にセピア色にしてしまうような、ある種の殺人行為をすることになるのだろうと、それを実感せあるを得ない一夜であった。

そして、普段は書かないようなことを書けば、私が男性を思い出すとき、よく腕と手を思い出す。
学生時代の友人でも最近の友人でも、知り合いでも、男性の腕と手というのは、実に身近にある。
様々な種類の腕と手を、標本のように思い浮かべることができ、重さや暖かさ、筋肉や骨格、そして無駄毛の量や、縮れ具合まで思い出しては、ああいうのは嫌だな、ああいうのは素敵だな、といった具合である。
残念ながら日本人の腕や骨格は、あまり想像できない。
非国民みたいな発言で、自分でも嫌なのだが、握手したり、肩を組んでもらったり、一緒にテニスをしたり、腕相撲をしたり、知らない人なのに触れてしまったり、バーのカウンターでたまたま前にいた人の腕だったり、泣いてきるときに抱擁して慰めてくれた腕や手を一つ一つ、懐かしいものだなと思い出している。

そして、日本人だったら、どうやって慰めてくれるのか、どうやって腕相撲をするのか、肩を組まれるとどんな感触なのか、握手するとどんな風に握ってくるのか、そんなことを全然想像できない。つまり、記憶の中にインプットされていない。

日本と言う国に帰れば、祖国になり、同志であることを感じ、ストレスフリーである気がするのに、青春は、熱を持った暖かい記憶として、全部ここにあるというのは、本当に皮肉なものである。

2010年11月22日月曜日

DDRの残骸が残るギムナジウム

 実は、成績も優れない娘が、とうとう登校を完全ボイコットし出してしまった。それぐらい、しゃーない、そういうこともあると見守っていた馬鹿親(私)は、友人の豊富な娘は、いじめらレているわけもないので安心していたが、やはり起きれない、うそが出る、学校と言えば鬱である、授業で何も頭に入らない、と言うのは困る。

話を聞きだそうにも、あいつらが馬鹿の一点張りで、そういうお前こそ、反省のない馬鹿だ!と怒鳴り散らしてたのだが。


何が嫌なのか、言えない。精神的なストレスが、これはおそらく長年記憶に染み付いているなと言うのが私の予想で、いじめではなく、もう先生の顔を見れないほど、嫌悪を感じているという、犬猿の仲的な問題だと察してきた。


これは、娘の適応能力のなさも問題なのだが、今までに話してきた先生との会話を思い浮かべるだけで、私自身が鬱になるほど、釈に障る教師が多いのだ。

化粧をしたり、よそ行きの格好をして学校に行っただけで(仕事帰りだし)、もう白い目なのである。そんなちゃらちゃらした母親!といった偏見。オレは、まったく外見もちゃらちゃらしていないのだが、グレーの景色の中で、消費社会を知らずに生きてきた彼らには、ベトナムではなく、西側で育った私と言うアジア人はそう見えるらしい。


結局、現ギムナジウムと大変なる揉め事になって、担任と話し合うわ、校長と話し合うわ、正式な嘆願書を二通書くわ、頭に血が上りつつ、次の学校を探すやら、探さないやら、とんでもないことのなっているのである。


さらに、ずっと伸ばしてきた長い論文の翻訳が入っており、件の人迷惑な話の尻拭いとして世話になったすさまじい弁護士代も出て行ったので、やはりこういう仕事こそやらねばならず死に物狂いなのである。


おまけに、末っ子の風邪が真ん中に行き、それを私がもらい、憎憎しい娘は、今日も健康体で遊び歩いている。学校の話はするな、と言うのだが。



それにしても、旧DDRとは絡めたくないが、お前ら本当に「教養」ある文化人としての教師なのか?と疑いたくなるような教師にばかりめぐり合う。


娘のギムナジウムは、私が吟味して、ここが良い、あそこが良いと、2,3選出したのは、もう3年以上前の話だ。

校長のアンガージュモン、スポンサーの有無、進学状況、外に向けた広報の姿勢などを見たのだが、目にかなう学校は、いわゆるがり勉校で、認識障害のあると私が勝手に決めている娘には無理だった。


娘は、私の選んだすべての学校にNOを突きつけ、当時近所だった歩いて5分のオンボロみすぼらしい学校に決めたと言う。


そのオープンデイに行って、校長の談話を聞いた私は、こいつダメのお墨付きを下した人だった。

まず、人間としての信じられないような荒さ。アグレッシブなのではなくて、繊細の真逆。おそらく私の会話の99パーセントは理解できないだろうと言う、粗野なプラグマティズム。

人間的会話、と言う言葉は辞書にないだろうなと言う体型と服の趣味。


そして、つばを飛ばして形式上のことをマイクにまくし立てている、そのロボット的、ヒステリー的、一切個人を感じさせない人物像。


機能すれば、いかなる金もかけず、広告精神もひとつもないからこその、薄汚い学校。


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今回、私の戦うべく相手は、この人なのだ。

詳細を書くには、あまりにも腕が腱鞘炎なのと、あまりにも脳みそが疲労しているので書かないが、悉く、法の名の下に、人間的対処を却下されて、娘の問題は、娘自身の性格、しかも、感受性の強いという性質に起因するもので、各教師、該当教師の態度には、なんら問題はなく、よってまったくの顧慮すべきケースには当てはまらず、1月下旬の学期末以前の転校は許されず、あと一日二日、理由なく休んだ場合は、即刻警察に親を訴えて、5000ユーロの罰金を払う羽目になり、青少年課から連絡が行くでしょう、と言う脅しであった。


途中、保険屋から電話が入り、この校長が息せき切ってヒステリックに、相手を責めつつ対応する会話を聞いていたら、軽蔑と言う言葉が浮かんだのだが。


これでも、一応シュトック博士なのである。君らの博士課程っていったいどんなだったの?と聞きたい。


この人もコミュニズムの下、色々と洗脳されちゃって、今更西欧式民主主義的教育なんて無理だろ、と、理解を示して百歩譲っても、この人の人格障害は隠せない。


そして、このような人格障害的教師が、このギムナジウムには多い。


端的に言えば、打ちの娘の馬鹿さ、怠け者さも、すさまじいのだが、その鋭い感性が、この人たちのような、「感」という文字に関係するすべての単語に備わった特性を一切備えていない人物とは、プラスとマイナスのように弾けあって全く合うところがないのである。

文系の先生ならまだ話は分かりそうだが、そうでもない、未だに社会主義的洗脳と現代ロシア語専攻による、感情消滅作戦のような線路を歩いてきた彼らの残骸に驚いているしだいである。


そして、感性の塊であるうちの娘は、心理的な洞察力にも優れているため、とかくプラグマティックな会話にならず、抽象的一本なものの思考と意思表示になる。

そういった娘の感性が、こいつらの気に入らないだろうし、思ってみれば、彼女も三年強の間に、どの教師とも、人間的共感や、シンパシーを受けたこと、交わしたことがないのだと、そう考えると、いくら馬鹿でも、娘がここにいたくない理由も分からなくもない。


フランス語の先生とはまあまあだったが、担任が数学の女性教師、化学のババア教師には、ほとんどモビングされ、体育のジジイ教師は、戦争時代さながらに、女子にも水をぶっ掛けるというから、親も黙っていない。のに、まだ在籍しているところが不思議でならない。これもあの校長のせいなのだ。


そういうわけで、日ごろから私が住めど住めど、脳みその髄まで合理主義の行き渡る人の多いドイツに対する違和感を消しきれないという構図を、娘はまさにDDR時代の残骸のようなギムナジウムというミクロコスモスで体験してしまったわけである。


あの女の非適応度も、世界一級品なので、原因はどっちもどっちだが、私だってこの人たちを軽蔑しただろう。そして、この人たちも、娘にあるだろう少しの価値すら、垣間見たこともないのであろう。


こういうところは、逃げるほうが勝ち。


しかしながら、逃げるにも、逃がしてくれない。

娘だけが悪うございました、と言わなければ、許してくれないし、許してくれても、気の毒に、あんなのじゃ社会は渡り歩けない、という幾ばくかの軽蔑を込めて送り出してくれるのであろう。


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ベルリンの一部のギムナジウムの荒廃ぶりは、目を覆うものがある。

エリート校のはずが、どこがエリートかという余裕のなさで、人道主義的教育も、古典言語に基づいた教育も、何にもありゃしないのである。

あるのは、点数、点数、成績、成績、順番、順番、数字しか本人を示していない。

どこにも、インディビジュアルという言葉が載っていないのである。

生徒は、マスであり、個人としての生徒は、取り扱えない。


うちの娘は、インディビジュアルという点では、群を抜いているので、こんなマス教育はだめだったと反省している。



何を教育してきたのですか?と担任に言われた。

余計なお世話だ。

学校を転校するって言ったって、どこの学校も移民対策で、移民によって追加的問題をこうむりたくないから、学校探しも楽じゃないですよ。

と言える校長は、知識人なのであろうか。文化人なのであろうか。曲がりにも、君は博士なのだろう?

思っていることをそのまま言うのこそ、教養のない労働者じゃない?


この移民問題を、悪気なく口に出せるのが、DDRの人たちで、人種差別というのとも違う。

移民は問題だし、教養がないし、その中でも頭の良い子が出てくるのは事実でも、背景は自分たちよりはるかに気の毒なほど下だと言う世界に生きてきたため仕方ない。

しかし、西側で育った教養ある人間が聞くと、メン玉が飛び出すほど、野卑な物言いに聞こえてしまう。


正直と言う形容詞で、終わらせればいいのでしょうか。



なんにせよ、音楽的才能があるといわれるお嬢さんが、人一倍繊細なのは、非常に納得のいく関連性ではあるけれど、それは個人の特性に原因があると予想できる問題であり、特殊ケースとは扱われず、よって学期中の転校はなし!却下できん!

の一点張り。


ああそうですか、では人道的に見ても、教師が悪いと私も言うつもりはさらさらないけれど、世の中と言うのは、粗野な言動に満ち溢れているので、粗野な人間が自らを振り返る代わりに、感受性の強い人間が、そういった社会に自らを適合させていくのが筋であり、よって娘の性格特性が鍛えられべきと言うのが学校側の主張なのですね、と聞けば、腹を叩いて、その通りですといった校長。


即刻転校にいるものは、何か、これを矢継ぎ早に聞いて、精神科医か心理学者の診断書、もしくは新学校の入学許可を盛ってくれば、無言で成績表をまとめて出してやると言う。

試験期間として、一週間他の学校いくことは認めないと。


そんなこと、他の学校ではどんどん許可しているのにな。



ということで、即刻転校の書類を集めてやりましょうじゃないですかと、笑顔を振りまいて、懇切丁寧に校長に礼を言い、心は阿保か!!と怒鳴りつつ、退出した。


こんな学校、いまどき見たことありません。



これ以上かけないな、今日は。


では、明日は納品なので、忙しい。


また書きます。



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ところで、今日は真ん中息子のギムナジウムのオープンデイで、マチネーでトリオを演奏した息子を聞きに行った。

ここはここで、親の干渉が激しく、シャンデリアの下がったおうちの人たちばかりで、スノッブだらけで、先生も学校も厳しく、息子文句を言われたり、注意を受けたりと面倒なのだが、とにかく現代の文化的オアシスのような威厳があり、行くたびに手の行き届いた良い学校だと実感し、多少、コミュニズム風体育会系の芸術教育に腹は立つのだが、クオリティに文句を言う筋合いはない。


娘の一家の黒い羊振りを考えると、困ったような、かわいそうなような、なぜ、他の兄弟のように、一切勉強に苦労なく、単にやることをやって要領よくついていけないのかと首をかしげる。


しかし、要領にかけては、できの良かった私は、自分というプソイド人間が、一体何を達成したか、と考えると、何かを成し遂げるのは、問題のないできの良い息子どもではなくて、この一点集中型、かつ自分を適応ごときで絶対に曲げない、外の空気など読むつもりもない、コツコツのろま型の娘であろうと、そういうことは思うのである。


そう思うからこそ、学校ってなんぞや???と思うばかりなのである。


知識供給が学校だとしたら、そんなものはイランのではないか?

人間として生き抜く際の、最重要条件は、子供の頃に覚える極単純なことなのである。

本来、倫理、そこから道徳、さらに哲学、さらに神学というものの見方の起点を植えつけてやるのが、ヒューマニズム教育だと思うんですけど、その辺は、教育とは関係なくなってしまった。

本当の意味の教養人がいない。


かといって、改革主義教育でピカピカに磨くセルフエスティームの向上が、本当に人生の役に立つのか、といわれればたいしたことないぜ、という気もする。


一にも二にも、人間は、良心であり、善意であり、またしても良心であると思う。

それが人間教育であり、自己強調、自分教育、そういうのはいかがかなと思う。


そういう自分とは何か?それは大人になっても分からない。

自分を語る先から、それは他者なのだという事実がある以上、そんな自己にこだわっているようではダメだという気もする。



娘の転校先は、キリスト教系になる予定である。


己などささげてしまえ。

2010年11月21日日曜日

過眠症

夜中に校正者にメール納品し、9時間ぐらい寝て、二時間も起きていられずに、午後じゅう何も食べずにずっとベッドにいて、そうするとどんどん眠ってしまって、それでも眠り足りなくて。


全く起きる気にも、何かを口にする気にもならず、今晩校正者から戻ってくるデータを待っているのだが、目を開けているのも辛い。


時々、心をよぎる娘の問題とか、帰宅した娘の暴言とか、そういうことを聞いても、心拍数が多少上がっても、全く反応する気も起きない。


やはりちょっと担任の先生には電話を入れておかないと、事が大きくなるだろうかなどと考えていると、また眠くなるのだ。


眠りこけそうになって思いつくのは、もちろん日照時間の現象によることもあるのだろうけど、これは鬱だなという感じ。


一過性だけど、このノックアウト感は鬱。


自分で忙しいのか、忙しくないのか、疲れているのかいないのか、まったく気がつかない。

娘のことでも、つらいなとか、大変だなとか、困ったなとは思わない。


淡々とことをこなしているだけなのだが、それだからこそ、こういう身体的問題が浮上するのだ。



まずいなと思いつつ、明日もあさっても、いや、今晩も仕事なのだ。

娘のことは急を要するし。



そう思いながらも、同僚にも電話入れていないし、何にも食べていないし、起き上がれないんだよな。


意外と大変なんだ、私の状況は。

そうなのかもしれないけど。実感ないけど。

2010年11月16日火曜日

シンプルで古臭く、高価ではないのに、ずっと暖かい匂いのするもの

先日末っ子の誕生日の日、大好きな女の子のおじいちゃんが迎えに来た。
彼女は賢い子供で、息子と同い年には見えず、世間に通じており、身の回りのことも、人の世話までできるような良い子なのだ。
そして、そんなに社会的に地位の高くない家庭の子供が、向上心から習い事をする場合、大体縦笛かギターなのだが、彼女は熱心にギターのレッスンに通い、いくつのレパートリーがあって、毎日何分練習するかをとつとつと話してくれた。

彼女は、私たちの家からそう遠くない高層団地に住んでいる。
この界隈は、ジェントリフィケーションが進み、最近の家賃の高騰ぶりで、今までになかったような憎らしい顔ぶれの住民が多くなった。
その中でも、このいわゆる構造がタイル張りのPlattenbauと呼ばれる高層団地は、DDRの生き残りとして、ところどころに聳え立っている。
何年もかけてお金をため、時にくじ引きのような幸運にめぐり合ってやっと手にしたアパートの同じ棟、そうでなければ、同じ団地群に一族が集まって住む様は、当時のDDRの夢の縮図をセピア色のレンズを通して見ているようなのである。

今ではその中にいくつもあった保育所(DDRでは女性の労働は当然であった)も閉鎖され、団地の一階にあった想像のできないほど飾り気のない、飲み屋やヴェトナム人経営の軽食店もどんどん閉鎖されてしまった。

この女の子は、そんな団地に生まれ育ったのである。
おじいちゃんも、お母さんも、この団地で壁が開くのを見つめ、横柄な西ドイツ人が引っ越してきて、ロハスな環境を築き上げ、彼らを端っこに追いやってしまったのを見つめてきたのである。

おじいちゃんは、玄関のベルを鳴らすと、内気そうに階段を上って私の家の戸口まで来た。
白髪にひげを生やし、丸メガネをかけたさまは、団地群に住む荒々しい労働者のイメージとは違い、温厚なおじいさんそのものであった。
握手をしたその手は暖かく、孫を見る目は細い。

私のような外国人を見れば、何らかの反応を示すものも少なくはないのだが、このおじいさんに私の肌の色も目の色も、珍しいはずであるが、まったく刺激を与えないらしい。
ただただ、孫娘がジャケットを着込んで、楽しかったよ、おじいちゃんと言って話をしているのを見ている。

寂しさが漂うほどの、暖かさがそこにあった。
まるで、おじいさんが、団地の小さな居間にある、自分の価値すらあまりない切手コレクション、いや80年代のオンボロテレビ、もしくはクロスワードパズルの雑誌かなにかの一場面を切り取って持ってきてくれたような、家庭の温かさがそこにはあった。

グリーンエネルギーの学会論文を今晩は訳していたのだが、今後の食生活、もしくは技術開発の価値観を率いてゆくのは、ロハスであるということを見逃すわけにはいかない、という行をタイプしながら、何かしらいい気分ではなかった。

ロハスの環境意識の高さ、いや環境以外にも、あらゆるものに対する意識の高さと、高収入グループとしての購買能力は流石なものであろう。

けれど、私はそんなところでぬくぬくした子供時代を送っている子供には、何の感銘も受けない。
この少女のように、小さな、そのぬくもりを少しも感じうけるセンサーのない人間には、到底何の話をしているのかさっぱり分からないほどの、小さく地味で、色あせた、古臭い匂いのする居間にある一家団欒の暖かさこそ、それこそ涙がこぼれるほど、懐かしく、手にしたくて憧れてしまうものなのだ。

DDRは過ぎ去った。
けれど、世間が冷たいばかりに、冷たくなっていく人間とは反対に、世間が冷たくとも、自分の暖かさを手のひらの中に大切に保管して、家族のためだけにそれを分け与え、小さな小さな平和と団欒を保ってきた人々もいるのである。

先日のおじいさんは、きっとそんな人間の一人で、彼女は、お金がなくても、大学に行くチャンスがなくても、お父さんやお母さんが別れていても、自分の幸せをきちんと手のひらに載せてもらって、それを大切に閉じて、暖めながら生きているのだろうと、そういうことが分かるのだった。

もう5日も経つというのに、私はそのおじいさんの存在に、未だに感動しているのだ。

私が求めているのは、そんなに小さなものなのに、それだけがどうしても手に入らないような、到底簡単には手にすることはできないんだと実感せざるを得ない、何か貴重なものらしい。

シンプルで古臭く、高価ではないのに、ずっと暖かい匂いのするもの。

2010年11月15日月曜日

可能性なのか終着駅なのか

 朝はどんよりとした雲が立ち込めていた。4時間睡眠ぐらいだが、割と早起きをしてシャワーを浴びた。コーヒーを飲んで静かな部屋で読書をしていたら、思わず眠りこけていた。


びっくりして起きてみると、分厚い雲が、空を駆け抜けるように動いている。

ちらほらと青空がその向こうに見え始めていた。

こういう日の低気圧、および気圧の変化は激しい。私の場合、ひどい低気圧が来ると、かならず意識不明になる。それも睡眠薬を飲んだように突然。


晴れ間が見えた頃から、少しばかり気分も良くなってきた。



そして、先日からうわさしていた、オルタナティブスクール、いわばフリースクールの見学に行ってきたのだ。偶然今日はオープンデイで、転入の相談や手続きなどもとりやすい。



当の娘は、気があるのかないのかわからないままである。

先に車に行って、ナヴィゲーションをセットしておくから、後から来てね、と言う。

家を出て、右に進む、うちの通りの家と同じ側に停めてあるわよ、と伝える。

これで、間違える人はいないだろう。

つまり、目の前、右に15メートルぐらいのところに路上駐車していただけの話。


娘は、ひょっこり電話押してきて、徒歩4分ほどのスーパー前にいるという。

なんで???

だってママ、家を出たらまっすぐって言うから、まっすぐ行った、と。

つまり、右に折れず、道を渡って(まっすぐと言う意味らしい)、さらに、目の前の公園を突き抜けて(まっすぐらしい)、右に曲がったらスーパーだったと。


またしても、重症なる認識障害が発覚したが、ここは喧嘩になるのも嫌なので、あきれた思いを抱えつつ、スーパーで拾う。


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学校内は、自宅に毛が生えたような感じであり、それも典型的な演出だと言うことは承知していた。

教師は全員国家資格を所持しているが、レゲエ・アーティストさながらに、髪の毛をフェルト状などにアレンジしているため、とても教師には見えない。

いわゆる、オルタナティブの、ゆるゆるな感じである。しかし大きな好感は覚えた。


話をしてくれたり、娘とじっくり話し合ってくれるのは、社会教育士といわれる資格を持った人々で、これは社会福祉学科で、社会福祉士になるか、社会教育士になるかを選択するのである。

彼らは、ソーシャルワーカーのような、一般社会福祉の法律・事務・相談などの分野ではなく、福祉教育の面でサポートをする役割を担った人々である。

問題児施設、少年院などに配属されていると言うと、聞こえも恐ろしいが、そういう分野だけでなく、主に、地域の青年活動を率いているのが彼らである。教育相談を区のソーシャルワーカーにすると、活動場所やグループを紹介してくれ、そこで実践しているのが教育士の方である。


しかしながら、こういう人がいるというのは、内容の複雑さを証明しているということだ。しかし同時に、じっくり若者と核心を突くような会話をして、必要とあらば更生の道に導く教育を受けている彼らであるため、確かに手の行き届いた部分は大いにあるだろうと期待する。


まるで、問題児の学校かと思うが、そうではなく、普通の家庭で、反権威主義教育に断然賛成している家庭の子供たちは、小学生のときから通っており、問題児と言うレッテルを貼るのは、まったく正しくない。

ここは、特に革新的教育に沿ったカリキュラム、つまり、フリースクールの中でも、規則以外の強制は一切なしと言う、つわもの的存在である。


娘は、今の学校での不満、教師たちとのコミュニケーションの難しさ、自分の怠惰、興味のないことはやりたくないが、少しは良い成績で、就学卒業試験(16歳で受ける統一国家試験 MSA)を収めたいと話している。

ちなみに、このMSAを終えると、普通は職業訓練校に移って、例えば看護師や金融関係の専門職、または職人、または簿記、幼稚園や保育園の先生などの教育課程に進むのである。


ギムナジウムは、今後3年かけて、ABITURを取得し、あるものは大学へ、あるものは高等専門学校へ進む。ABIのあるなしで職種も給与も違ってくるのである。


娘は、まだそこまで考えておらず、音楽をやりたいと言うが、国立バレエ学校や一部の美大などと違って、音大は総合大学と同様にABIを要求する。

この学校には、後一年半しかいられず、その後、ギムナジウム、あるいはABI課程のあるほかのフリースクールに移る。


この学校は、クラス15人足らずだが、その中から何人がABIを取るつもりかは、不明。しかし極少ないであろう。


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学力や家庭環境、社会層は、低層であるという考えはしかし間違っており、ここには、ある種の人種に属するオルタナティブな人々が集まっていると言うだけである。

問題児は、やはりこのまたっくの自発的学習のシステムに合わず、学校側も共同作業ができない場合は、生徒に止めてもらうと言うことは、多々あるらしい。


親は、月々30時間、母子家庭は、15時間学校のために労働しなくてはならない。

参加できない時間は、一時間12ユーロで自由を買うということになる。

忙しい私には、鬼のように厳しい義務だ。


学校周りの掃除、落ち葉の処理、催事の企画に、その際のケーキ、クッキー、サンドイッチ飲み物などの調達。もちろんすべて手作りである。


私は、音楽のレッスンや授業をすることや、事務関係でカバーするつもりだが、骨が折れる。

しかし、自分たちで「独立自尊」の学校を運営するということは、義務があるのである。


このような、筋金入りのオルタナティブの人々の中で、娘が順応できるのか、私がが順応できるのか、まだ分からない。

私は、何度も政治的オルタナティブや、社会的オルタナティブに傾いたことがあるので、若干人々との交流には自信が持てるが、何せ、超自然派・超エコロジー・超反権威主義・超高い自己意識ですから…。



この人々の、ありがちな服装と、ありがちな髪型、そして健康色に満ち溢れた手作りケーキと、様々なハーブティーに囲まれて、私は一瞬、娘にとって、私の価値観にとって、まるで大きな扉が開くような可能性を垣間見た。


しかし、次の瞬間、娘はこの学校でMSAをやれないかもしれない。自主性が芽生えず、MSAがないということは、最下層の学校の卒業証書以下の資格で、社会に放り出される可能性もある。ギムナジウムからの、急降下ドロップアウトにもなりえる選択であることをしっかりと自分に言い聞かせた。


ギムナジウムからレアルシューレに段階を落とすのとは違うのである。

卒業証書や成績評価と言う意識を剥ぎ取った価値観の中で、社会的に順応するために、希望者がMSAを準備するという学校に入れるのである。


しかし私は忍耐だけを鍛え、子供の自主性に任せ、信頼し、教育者たちと密にコンタクトを取り、月15時間学校に尽くし、庭掃除をして、せっせとケーキを焼いていれば良いらしい。

なにしろ娘の自己選択と自己決心と自主性がものを言うのだ。



可能性なのか、終着駅なのか、私としては、かなり覚悟を決めている。

彼女に関しては、当の昔に従来のシステム評価を下すことはあきらめている。

けれど、彼女の前衛的写真技術、子供との交流の機微に優れていること、絶対音感、歌への情熱、社会順応能力、深い洞察力、そして鋼のような自己だけは、評価してやろうと思っている。

どれも長所は表裏一体で、欠点が隠れていることにもなるのだが、今彼女の欠点を並べ立てることには意味はない。


病気でもなく障害があるわけでもない「普通」と言う範囲で、彼女はインディヴィジュアルの本当の意味を体現している。

順応・適応範囲のがけっぷちで、彼女は「世間」の隅に居場所を見つけようともがき、マスとして自分を見られることを拒否し続けている。

親としては、やれるところまで来た感じがある。

後は、後一年半、彼女の本当のやる気、いや生きるエネルギーを鍛えてもらうしかない。


子供時代から、恐るべき受動性で、一切自らは動かず、幼稚園でも二年間一言も言葉を発せず、内股歩きに、それでも自分の世界を守ってきた彼女である。

今、強制や抑圧という殻から解放されることで、自主性を鍛える最後のチャンスなのだと意識し、乗り越えて欲しい。

2010年11月13日土曜日

モンチッチ

 


生徒がモンチッチを見せてくれました。

昔モンチッチが欲しくて、毎日近所の雑貨屋さんのウィンドウの前に、長時間突っ立っていました。おじさんが出てきて、欲しいの?ときかれたけど、1200円ぐらいしたので、とても買えなかった。結局母にねだりました。