あっという間に一年が過ぎてしまう。前回の投稿が一年前の夏だったことに愕然とする。そして…、この一年は決して安泰と言える年ではなかった。様々な過去の断片が蒸し返すように表出し、現在の状況と複雑に入り混じりながら、私は心の整理を再び強いられたような一年だった。
昨年のクリスマスに子ども達が集まったとき、2年前に涙を流して過去を洗い流し、平和協定を結んだはずの長男と長女が突然理由にもならない些細な一言で文字通り再び決裂してしまった。それはイブの晩の出来事で、一生懸命作ったご馳走に手を付けるかつけないかという時だった。つまり、その後のプレゼントのお楽しみも台無しになってしまい、間接的に傷つけられた末っ子も「どっちみちうちの家族は崩壊してるんだ!」と捨て台詞を吐いて自室に籠もってしまった。
傷ついたのは末っ子だけではない。長男も長女も、そして私も同じように深く傷ついてしまった。家族が集まって絆を強めようという時に限って、こうして亀裂がもっと深く、もっと大きく広がってしまう。親としての責任感が限界を感じるほどに私の胸を締め付けた。
しかし、それは大きなドラマのほんの序曲でしかなっかったのである。
よりによってその晩、父親から電話があり、思春期の真っ只中で精神的な父親殺しの最中であった末っ子は爆発し、状況は一気に地獄に突入してしまった。
尤も、父親の言い分も大変勝手なもので、次の日に飛行機に乗って自分のところへ来い、その話はしてあったはずなのに、なぜ手配してなかったのだと、末っ子を半ば叱りつけたらしい。子供を呼び寄せるなら自らが飛行機を手配するなりして進行させなければ子供は動かないのに、無論そんなことを彼にできるわけもないのだ。
事態はさらに急展開し、娘ともあれを言った言ってないと電話口で揉め、終いには娘に嘘をついたのは許せないなどと有りもしない事実を怒鳴りつけ、彼女はバスルームに入って呼吸ができないほど嗚咽し、その前の長男との出来事もあり文字通り倒れ込んでしまった。
子どもたちをそこまで追い詰める彼の神経が信じられず、「自分の思う通りに動かないという理由だけで、よくも子供たちのクリスマスイブを台無しにしてくれたわね」と私は彼に怒鳴りつけた。
…これが去年の素晴らしいクリスマスだったのである。
その後、私達が精神的に立ち直れるまでに2週間ぐらいはかかったのではないだろうか。
これをきっかけに、ある意味で大変な一年が幕開けしたのである。あれもこれも書けばきりがない。しかし、この一年の主役であったのは間違えなく末っ子である。一時期は中度の鬱病となり、学校にまったく行かれなくなった。もともとの原因が私達の結婚生活の崩壊にあることは明らかだった。二度も転校させたが、とてもそうしたことで兆しが見えるような軽い問題ではなかったのである。私も夜中に呼び出され、眠気を堪えて話を聞き、一緒に泣き、それでも出口の見えない日々を過ごしてきた。私が本気で一緒に苦しまなければ、この子は回復しないということはわかっていた。親子という関係があるからこそ、同じ次元に降りて同じ深みにはまって同じ目線で苦しみを見なければ、子供は私を信頼することはない。鬱の心の世界の暗黒さは、たとえ傍から見ただけでも、私自身の心をもたちまち真っ暗に塗り込めてしまった。その重さを背負い、信じがたいほどゆっくりとした速度で共に日常を一歩一歩前進してゆくこと以外に目標は持てなかった。もはや学校などというテーマは口に出せるような状況ではなかったのだ。
父親と一緒に暮らしたことがなかったからこそ、できるだけ平穏に末っ子を育ててきたつもりだったが、ルーツというのは容赦ない。末っ子の心には、私の知らない欠落と深い欠乏感と絶望、そして父に対する怒りや崩壊家族に生まれた深い孤独感が常に存在していたのだった。それを思うと「単に受け止める」などということはできない。毎日積み重ねてすくい上げるように一言一言に耳を傾けなければならないのは、私の当然の役割だった。
結局、他の子供達に負けず、末っ子も自分なりの思春期を全うしたのだ。
繊細な子供にとって思春期はより激しい形で襲ってくる。それほど思春期の精神状態は耐え難く、誰しも気分障害になる。思春期で一度子供は死を体験し、そこから再生するという河合隼雄氏の言葉の意味が、3人の子どもたちを育てた今になって、より一層重く身にしみるのであった。
それにしても別れて15年以上経った今、子どもたちが背負った傷の深さ、複雑さ、そして生々しさを改めて思い知ることになったのである。人生とは、本当に苦しい。しかし、やはり若ければ若いほど苦しみが深いのではないかと、今はそんな気がしている。
__________________
料理をしながら、私が3人の子供と4人で生活していたとき、ドイツを訪れた母が作ってくれたハンバーグを思い出した。夜7時過ぎに仕事で帰ってくると、母がキッチンで一生懸命大量のハンバーグを作ってくれていたのだ。その頃すでに母は年老いており、ドイツで1人でスーパーに買い物に行ったり、私無しで自発的に料理や外出をするということはできなくなっていた。おそらくあのハンバーグが、母が私と孫たちに作ってくれた最後の料理だったのである。
それを思うと、無性に寂しくなってしまった。あのハンバーグは決して上出来ではなかった。しかし、そこには愛情が込められていた。今の母にはもう料理することはできない。できなくなっていくことが一つ一つ増えていくのが老いの顔である。老いが憎いと、時々そう感じる。しかし人間は誰しも死を避けて通ることはできない。年を重ねれば死を語るのが怖くなくなるという。確かに私は今、死を思っても怖くはない。しかし、80歳を超えた両親を見ていると、死を語るもなにも、死そのものが背中に張り付いているような気がしてくるのだ。本人達にも見えてはいないのだが、確実に死が背中に密着している。そしてどれだけ太陽が明るく、花々が咲き乱れ、自然の素晴らしさを実感しても、心中が晴れ渡ることはもはやないのではないかと、そんな風に思えてしまうのだ。死は怖いものではないのかもしれない。しかし、死が訪れるとき、人は誰しも必ず一人きりである。だからこそ、死が近づくと一層孤独が深まるのだと、そう確信している。
2018年11月16日金曜日
2017年10月15日日曜日
娘の帰宅
娘が10か月ぶりに帰宅した。むろん家族に会うという目的ではなく、友人がオーガナイズするギグに参加するためにほんの3日間滞在するだけである。
楽しみかどうかといつも問われるのだが、それはどこかで楽しみであるけれど、実際は不安の方が大きいのだった。娘が成長した今、私たちが険悪になることはほとんどなくなった。だからそのことを心配しているのではない。そうではなくて、私は娘の心の一挙一動を感じ取り、自分の気持ちも100%彼女の気持ちに覆われてしまい、彼女の心の中にも全く同じことが起こってしまうという、その自分たちでは制御できない相互作用を恐れているのだった。
迎えに行った日、様々な都市からの旅行者が続々と到着口から噴き出してくる中、ロンドンスタンステッドからの客を見分けることはそう難しくはなかった。特にあの格安飛行機の乗客は、その若さとパーティー気分で直ぐにわかるのだ。ほろ酔い気分の若者が、旅の興奮に舞い上がって、大きな声でロンドン訛りの英語を響かせていた。服装も実に個性的で、ぶっ飛んだ格好の若者たちは、まるでショーディッチやダルストンの一角をもぎ取ってきたような様子だった。その中に、娘はいた。彼らの中に、一切の違和感なく溶け込んで、娘は私たちの方向に笑みを浮かべてずんずんと歩いてきた。元気そうだった。苦労経ても少し丸みを帯びたような気さえした。ここでも、無事到着した安堵は感じたが、嬉しいという気持ちよりも、目に見えない小さな不安の存在に気づいてしまったことで、小さな黒雲の入る隙ができてしまったことで、むしろ悲しみを覚えたほどであった。
その晩は、遅かったが前からカクテルをごちそうしてやりたいと思っていたので、バーに連れ出して二杯飲んで帰宅した。彼女はコミュニケーション能力に長けており、皆にオープンなのでその場が非常に楽しくなる。私は随分と静かな人間になってしまったので、彼女のエネルギーに驚かされた。このエネルギーをフルに回転させて、どんなに苦し事にも立ち向かい、一人で乗り越えている彼女はたくましくさえあった。彼女を見ていても昔感じたような憐れみは全く湧き起らなかった。随分大人になったのだと実感した。
次の日の晩は、娘を美味し夕食に連れ出した。これも兼ねてから食べさせてやりたいと思っていたので、存分に注文してもらった。娘は嬉々としてたくさん食べ、たくさんお礼を述べてくれた。子供がもりもりと食べる姿ほど親を喜ばせるものはない。私も満足であった。
3日目、いよいよ彼女が友人のためにギグをやるという日、ピアニストが来て練習をしていたのだが、どうやら友人のオーガナイズに不備があり、ピアニストは激怒し、娘も怒り出した。多くのファンや友人たちが、娘を聴きたいと思ってわざわざ来てくれたのである。ロンドンに飛び出して2年、今はどんな曲をどんな風に歌うのか、全員が楽しいみにしているそのプレッシャーを娘は背中に感じ取っていた。しかし友人には、そうした娘の立場は全く理解できておらず、じゃあ単に来てくれれば、音楽こっちでアレンジするから即興して歌ってよという態度を変えなかった。娘は、そうした半端なことを一切やりたくないと決心していたので、プレッシャーが募り、友人を蹴るわけにもいかず、かといって自分で客に説明するわけにもいかず、相当ないら立ちを見せていた。
そこで、彼女は男友達に電話を入れ、よくよく聞いてもらい、力つけたように見えたのだが、彼が違う女性シンガーとツアーに行くという話を聞いて、さらに悲しみに心が覆われてしまった。
私は彼女をその場所まで送って行ったのだが、私自身の神経がピリピリとなり、まったく慰めたり、心を楽にさせてやることができない。むろん、彼女は人に何を言われようが、慰めなどを受け取る人間ではない。それにしても、私はすっかりと深い悲しみに包まれてしまい、今すぐにでも涙が出そうなぐらいであった。
今回の彼女に襲い掛かったストレスは、決して彼女自身が引き起こしたことではない。友人のためにと思って飛行機をとり、ただで歌いに来たのに、何も自分のためにオーガナイズされておらず、サウンドチェックさえ終わらないまま、単に来て即興で歌えと言う態度をとられ、彼女のファンに対する責任を全く理解しないその友人に怒りがわくのも当然であった。その上、心配して何でも話してと言ってくれた男友達から、最後につまらない話まで聞かされ、自分のキャリアのために最近すべてを投げうった彼女にとって、その悔しさは彼女の今のストレスにさらに拍車をかけて、心を燃やしてしまうほどの火玉となって彼女の心の中で飛び散っていたのに違いない。
どのような苦しみがつらいかと言えば、自分ではどうしようもできない状況で、自分の名を汚さねばならない現実と、自分が手にしかけている最初の一歩の手前で、一番大切な男友達がすでにその一歩を踏み出した違う女性シンガーのサポートでツアーに出ると言う、その何とも言い難い悔しい気持ちより辛いことは、今の彼女にはあり得ないだろうと言うのが、私にはつくづく感じられるのであった。それで涙腺が弱っている。一緒に苦しんでしまうのだ。彼女の気持ちが生のまま、彼女の心の中で起こるのと同時に私の心の中に伝わってくるのである。
あの子は、必ず何かをなし遂げる。仕事に対する心構えと、プロ意識が実にしっかりしている。ドラッグや酒にまみれずに、カジュアルなくせに根本で絶対に自分を見失わずに、酒を飲んでもシンガーになるという目的を一秒たりとも失わずに、呪文のように唱えて一直線にそれに向かっている。そのために無駄なことは一切せず、全てをかけている。そういう生き方は、当然父親譲りなのだが、見ている者の心を打つのである。私は娘の気持ちに乗っ取られたから悲しいということに間違えはないが、それとは別に、娘の歌に賭けるすさまじいまでの精神力と闘争力と、その真剣さに心を打たれるのである。
彼女の父親の隣に生きた12年間はすさまじかった。エネルギーを吸い取られたが、感動の毎日であった。彼の音楽を聴けたから感動していたのではない。そんな即物的な感動ではなく、彼と言う存在が人を揺り動かすのである。その血走った生きざま、精神力、闘争力、そういったものが、私の皮膚が直接感じ取り、鳥肌が立つまでに圧倒され続けた、その感動なのだった。そして、それを娘は持っている。だから彼女に人が感動するのである。だからあの男友達が、彼女を「必要」としているのである。娘は凄まじい力を持った人物なのだと改めて実感させられるのであった。
彼女は、成し遂げる。それは確実なことである。でもそこに至るまでの彼女の過剰なまでの心の揺れに私自身も揺さぶられてしまうのである。親子だからというよりは、彼女の存在そのものが、人を揺り動かす、その力によって揺さぶられているのだ。彼女が大きく花開くまでのその苦渋に満ちた道のりを私は一緒に体験しているということなのだった。
舞台に立つ彼女の父親は素晴らしいオーラを醸し出している。びくともしないプロの自信と人を感動させるカリスマがあった。しかしその裏で、彼は自分を罵倒し、時に人を罵倒し、泣き崩れ、どん底に落ち込み、そしてしばらくすると得体のしれないところから、再び血走った様相でエネルギーを振り絞り、確実に立ち上がるのである。それをただただ繰り返しているその姿を私は長年見てきた。人の心を動かす才能を持って生まれた者の苦しみは、傍にいる人を一緒にむしり取って気持ちに渦に巻き込む、そういう激しさがある。娘との再会に一抹の不安を感じてしまう私は、そうした彼らのエネルギーに巻き込まれるしかないことを知っているからこその不安なのであった。
私には何の才能もなんの実力もない。しかし彼らの心へ通じる扉を私自身の心の中に持っているらしかった。だから彼らは私を選び、その扉を意識もせずに開き、私の心の中にずかずかと入ってくるのであった。しかし、私はその扉があるからこそ、苦しまなければならないことがあるとしても、彼らの生きざまをその扉を超えて、まさに一心同体で体験できることで、何度心を打たれてきたかしれない。人間として、私はそれを垣間見れただけでも素晴らしいことであったと実感している。創造でき、人の心を動かすことのできる芸術家を観客として味わうことは素晴らしい。かけがえのない心への刺激を感じ、心臓が揺さぶら思いを体験できる。しかし創造でき、人の心を動かすことのできる芸術家の生きざまを、一心同体に生きることは、時にその同伴者を破滅に導くこともある。道半ばで血まみれになり、息も絶え絶えになったとしても、その相手を見上げると、太刀打ちできない血走ったエネルギーに圧倒され、ある種の感動としてその同伴者は中毒状態に再び陥ってしまうのである。
そうした種類の人間の隣に、自分の破滅直前まで、寄り添えたことが私の人生のすべてであり、そうした人間の子供を得たことで、私は人生を全うしたとさえいえるのであった。どのぐらいの頻度でこうした血が受け継がれるのかわからない。しかし、こうした人間はその後世の中の文化して大切なものを残す可能性がある。娘を語るとき、だからこそ私は彼女の父親を語らないわけにはいかない。娘には彼の何かが確実に受け継がれているのだった。私はそうしたことに本当に今更になって気が付き出しているのである。
2017年8月11日金曜日
絆
急に状況が変わりだした。
母の容体が思わしくないのはいつものことだが、父の精神状態も限界に近づいているようであった。老いているからであろうか、一度そちらの方向に動き出すと、転がるように状況が変化してしまう。
私は故郷で怒りを買っているようである。
親を除く家族に対して、私は謝罪を要求されているようである。
確かにその場にいないのだから謝罪して当然なのだろう。それで済むのなら、何度でも頭を下げる。
しかし、感情的にはとてもつらいものがある。傍から見れば「好き勝手」で「我儘」で「はちゃめちゃ」で「我慢が足らない」ようにしか見えないとしても、自分としては今まで一秒たりとも人生を「軽く」捉えたことはない。毎日必死の思いで乗り越えてきた。他人を責めずとも、自分を責めなかった日はない。しかし何万マイルも離れている所にいる誰かが、どうしてそれを理解できるというのだろう。
外部から見える事象だけを追っていれば、単なるバカにしか見えないのかもしれない。それも十分理解できる。
今更、弁解するつもりも理解してもらおうと努力するつもりもない。その代わり、ほぼ自分一人で戦い抜き、築いてきたほんの僅かながらの「何か」を犠牲にしてまで故郷の人々に納得してもらおうとは思えない。私の払った対価のことは、私自身が一番よく知っている。払った労力などすでに忘れ去ってしまったが、それで得た小さなものは、とてもじゃないが、どんなことがあっても手放すことはできない。私の人生の全てと言っても良いものなのである。
外部から見える事象だけを追っていれば、単なるバカにしか見えないのかもしれない。それも十分理解できる。
今更、弁解するつもりも理解してもらおうと努力するつもりもない。その代わり、ほぼ自分一人で戦い抜き、築いてきたほんの僅かながらの「何か」を犠牲にしてまで故郷の人々に納得してもらおうとは思えない。私の払った対価のことは、私自身が一番よく知っている。払った労力などすでに忘れ去ってしまったが、それで得た小さなものは、とてもじゃないが、どんなことがあっても手放すことはできない。私の人生の全てと言っても良いものなのである。
それは自らが壊した家庭をゼロ以下から苦労して一人きりで再建してやっと得ることができた、ごく小さな私だけの「家族の絆」である。子供たちの傷は最初の頃よりも、思春期になってからの方がよほど明らかに表出し始めた。私は申し訳ない気持ちがあったからこそ毎日自分を叩きのめした。自分がこれらの嵐に巻き込まれて負けたら、子供たちはバラバラになる。家庭再建の機会は二度と巡ってこない。そう知っていたからである。
登校拒否も、暴力も、家出も、酒もドラッグも全部ありだった。特別にぐれていたわけではない。ただ心に空いた穴は、ほかの子供以上に深かった。年頃になって再び魂から血が流れだしたと言えるのかもしれない。それを目の当たりにして、無責任に目を背けたり時が経つのを待ったりすることはできなかった。毎日毎回、一緒に何時間でも私は彼らと向き合った。苦しかったが、それ以上に彼らは大切だった。
何はともあれ、三人の思春期は大方終わった。そして私は今辛い気持ちになると「でも、私には私だけの家族がある」とつぶやいて自分を慰めている。そう呟けるようになったのは、ここ1年ぐらいの話で、それ以前はずっと孤独で、まさに四面楚歌のような気持ちで手を離れようとしている子供たちを必死に守ろうとあがいていた。今は、子供たちの姿を思い浮かべるだけで、温かい液体が体中にゆっくりと充満してゆくような感覚に満たされる。彼らには感謝してもしきれない。
子供たちは成長し、二人は家を去ったが、その代わりに私は心の中で、子供たちとの絆を実感して、それを文字通り、もう離すまいと手に握りしめているのである。
子供たちは成長し、二人は家を去ったが、その代わりに私は心の中で、子供たちとの絆を実感して、それを文字通り、もう離すまいと手に握りしめているのである。
このごく小さな温かい安らぎを得るために通り過ぎた時間を考えてみると、とてもではないが、私の魂が必死に乗り越えてきたこの地を捨て去って、本格的に帰国などという話を思い浮かべることすらできない。
これはどんなに恨まれようと、一点も譲れない部分である。私はこの地を去らない。この地が私を育ててくれたのである。私を大人にしてくれ、意識を変革させ、新しい出発の機会を与えてくれ、私に生きることの何であるかを教えてくれた。今の自分は日本で生きていたらあり得ない姿なのである。良し悪しに関わらず、私は猿真似をして日本を捨てたと言われようが、その代償は十分払ったつもりでいる。自らの意志で、当地が故郷であると迷いなく選択する。
私の両親は、私の心の隅々まで理解しているに違いないという信頼感がある。私は両親との絆を強く感じている。不思議なことに、絆があれば、距離感など怖くないのだ。物理的な苦労はあっても、心は常に一つであると実感できる。私が帰らなくても、彼らは決してそれを責めることはない。甘えかもしれないが、それは絆のなせる業ではないかと、今ではそう考えている。私も巣立った子供たちを引き戻そうなどとは決して考えない。どんなことがあっても、縛り付けてはいけない。そう心している。
日本には帰らないと固く決心したのは、2010年である。20年滞在したあと、仕切り直しを一度考えたが、種々の理由で実行できなかった。その時、もう二度と帰るまいと決心したのだ。しかし、矛盾するようであるが、つつましやかで目立たないが一生懸命にそれぞれの人生を生きている日本人が多く写る集団の写真などをみると、わけもなく涙ぐむのである。日本なんか帰るもんか、と言っているのではない。日本が愛おしいという気持ちを抑圧しなければ、絶対に乗り越えられない時期があった。だからと言って、その気持ちが小さくなったことはない。抑圧しているだけに、ふとした瞬間に涙腺が崩壊する。彼らを見るたびに、そして日本の気配を感じるたびに罪悪感を感じ、安らぎを捨て去った自分と、当地では埋めきれない深い孤独を思い知らさせれてしまう。行く先々で知らない人に知り合うと、ここで育ったのかと訊かれる。しかしそれが何だというのだ。そんな希少なことよりも、未だにまぎれもないFremdkörper(異物)であると思い知らされる場面の方が、はるかに多いのである。
日本には帰らないと固く決心したのは、2010年である。20年滞在したあと、仕切り直しを一度考えたが、種々の理由で実行できなかった。その時、もう二度と帰るまいと決心したのだ。しかし、矛盾するようであるが、つつましやかで目立たないが一生懸命にそれぞれの人生を生きている日本人が多く写る集団の写真などをみると、わけもなく涙ぐむのである。日本なんか帰るもんか、と言っているのではない。日本が愛おしいという気持ちを抑圧しなければ、絶対に乗り越えられない時期があった。だからと言って、その気持ちが小さくなったことはない。抑圧しているだけに、ふとした瞬間に涙腺が崩壊する。彼らを見るたびに、そして日本の気配を感じるたびに罪悪感を感じ、安らぎを捨て去った自分と、当地では埋めきれない深い孤独を思い知らさせれてしまう。行く先々で知らない人に知り合うと、ここで育ったのかと訊かれる。しかしそれが何だというのだ。そんな希少なことよりも、未だにまぎれもないFremdkörper(異物)であると思い知らされる場面の方が、はるかに多いのである。
それだけに、やっと得た「小さな家族の絆」だけが、私の心の中で唯一小さく揺らめく一点の灯なのである。目をつぶってこの小さな消えそうな光を必死で見据えると、私の魂が静かに安らいでゆく。心の中でただ一つの安全な場所なのだ。それを捨てることは、やはりどう考えてもできない。
_____________________
苦しい時に、見事なタイミングで娘から電話が入った。親の私が甘えてあまり元気じゃないと伝える。「どうしたのママ。元気じゃないなんて。大丈夫だよ。最後にはみんな理解し合える。必ずまた直ぐに気持ちが楽になるはず。また明日必ず電話しようね。私にいろいろ話してくれればいいよ、私も色々と知りたいから。元気出してね。」と言われた。言葉で書いただけでも立派な発言であるが、あの子が口にすると、まるでセラピストに慰められているような効果があるのである。胸の中心から心が徐々に温まっていく。「まるでセラピストみたい。どうしてそうやって人の心をつかめるの?あなたはやっぱりすごい。」そう伝えると娘は「どっちがセラピストなの?私が一言いえば、ママは千もわかってくれるから気持ちわるい。そっちこそセラピストでしょ」と言われた。こんな会話を娘とできるようになるなんて、どうしてあの時考えられたというのだろう!また申し訳ない気持ちと感謝とが入り混じて涙ぐんでしまう。すでに子供は私をはるかに超えているのである。あの子は大丈夫、あの子は大丈夫と呪文のように唱え、感謝した。
続く
2017年6月30日金曜日
平穏に潜む老いへの恐怖
平穏な日々が続く中、少しほろ酔い気分になりながら、ふと聴きたいと思うのはバッハなのであった。そして聴けば胸が締め付けられる。
私には、制御しがたい情動と言うものがあったはずなのだ。そんなものは大人になるためには、邪魔以外の何物でもなかった。しかし絶えず自分のそうした情動に振り回されながら、一体何が自分の本質で、目指すところは何であって、何を失ってはならず、何を変えていかねばならないのか、そうした方向性をまったくわからないまま、壁伝いに手を当てて、真っ暗闇をまさに手探りで伝い歩きながら、何度も激しいどん底を体験して、ようやく光が見えたのが2013年頃だった。それ以来、私は少し平穏や安定というものを体験できるようになったが、情動というものに振り回されることはすっかりなくなってしまった。それが寂しいという感覚もない。ただ、焼けるように音楽を求めた日々、へたくそでも何時間も音楽を奏でなければいてもたってもいられなかった日々、できもしないのに、自分の奏でる音に涙が止まらなかった日々というのは、一体どこへ消えてしまったのかと思うのである。それが寂しい。何も感じなくなった自分が寂しい。安定と言うのはこのように平坦な世界であったのかと知ると、決して昔に戻りたいとは思わないのだが、寂しくていてもたってもいられなくなる。
これもセンチメンタルに思考しているつもりになっている若い未熟さを失っただけの話であると、理性ではわかっているのだが、やはり年老いるということは、失いつつあるものを如実に目の当たりにするということであり、ある種のやりきれなさとは切っても切り離せないということを思い知らされる。
今、目標と言えるのは、未来の職業でもキャリアでもなく、子育ての理想でもなく、死ぬまでにまだどのぐらい自分を成熟させることができるだろうかと言う葛藤である。
しかし、哲学書や詩を読んでは涙に暮れていた感受性は理性にまみれて眠ってしまった。もう決してあの新鮮な感覚ではどんな書物にも巡り合うことはできない。そう思うとさらに絶望が目の前に広がるのである。
今まで生きていて、世界はましになったかと言えば、一方でましになれば、他方でまた新たな問題がせりあがるといった具合で、一項に収まる気配はない。こうした改善の難しさを見せつけられる世の中で単に100年に満たない命を全うする時、個人というレベルで如何ほどのことができるのだろうか。個人レベルにとどまって、せめて家族を幸せに、家族の繁栄と、家族の資産を増やせば責任を果たしたと言えるのだろうか。それが大人として生きることの課題なのであろうか。と、こんなバカな思考に問わられながら、自分はいったい大人になったのはいつで、いつまで青年時代を生きていたのかという境界線があいまいなまま、未熟な意識と共に50歳を迎えてしまった。
そんな時、私の感覚がいまだに衰えておらず、今でも鳥肌が立つような生への欲望があると実感させてくれるのはバッハなのであった。バッハの和声を聴くと、深い深い底辺に潜む本質が何であるのかを訴えかけてくるような揺さぶりを受ける。
個人の情動を制御し、子孫を育て、教育を与え、自分を成熟させ、伝統を引き継ぎ、愛情を育み、博愛を自ら実践するという人としての義務を全うするために、自らに課すべき試練と、自らに与えるべき精神的肥しが何であるかを思い知らされるのである。
歳を重ねるからこそ、哲学しなければならない。哲学は未熟な青年期と老年期にこそ、自らを追い込むように読み込まなければならない。そして消費を減らし、外部からの刺激に揺さぶらることのない、自分だけの価値観を築かなければならない。自分と自己をつなぐ糸を見失ってはならない。つまりいかなる時にも、直ぐに自己と対話できるような直結感を保ていなければならない。価値観を世間ではなく自らの中心に移していかなければならない。
社会とのつながりに果てしない感謝を注ぎながら、社会への義務を全うし、そして自己との糸をより一層に強めていかなければならない。死ぬことというのは、自己との対話に他ならない。自己を十分に納得させることが許しを得るということなのである。死が訪れるまでに、自分を十分に対話をする関係を築いていかなければならない。
それには失ってしまった感性を成熟への肥しとして利用するのではなく、自分自身に対する感性として再建しなければならないのである。
もはや成長はできないが、次第に視線を自己に戻して行き、何度でも振り返り、自分なりに過去に納得するまで何度でも噛み下さなければならない。その間、謝らなければならないことも、感謝を述べなければならないことも、さらには告白しなければならないことも出てくる。それを一つ一つぶれずにこなしてゆくことで、老いだけが達成できる深みと静けさへと到達することができるのではないだろうか。
そうした意味で、バッハには老若男女問わず、自己との対話を促進してくれる素晴らしい効果がある。感情や感性はメロディーであっても、和声への愛着には、さらに深い骨髄から揺さぶるような計り知れないKraftが眠っているのである。
私はフランス組曲やイギリス組曲を一つずつ少しずつ丁寧に奏でてゆくことで最も癒される。せめてどんなにへたくそでも奏でたいという欲求が失われたことはない。物心ついたころから、ミミズ腫れができるほど毎日太ももを叩かれて練習してきたことの恩恵である。それで自己を見失わずに救われている。
本質は、老いが怖い。その一言に尽きる。親を見ていると心苦しくなる。老いとは決して戦うべきものではないが、立ち向かうべきものではあるのだ。時間に負けてはならない。人間として時間に対決してゆかねばらないと思う。これを実践するのが、この世の中で最も難しいことであると実感するのであった。
私には、制御しがたい情動と言うものがあったはずなのだ。そんなものは大人になるためには、邪魔以外の何物でもなかった。しかし絶えず自分のそうした情動に振り回されながら、一体何が自分の本質で、目指すところは何であって、何を失ってはならず、何を変えていかねばならないのか、そうした方向性をまったくわからないまま、壁伝いに手を当てて、真っ暗闇をまさに手探りで伝い歩きながら、何度も激しいどん底を体験して、ようやく光が見えたのが2013年頃だった。それ以来、私は少し平穏や安定というものを体験できるようになったが、情動というものに振り回されることはすっかりなくなってしまった。それが寂しいという感覚もない。ただ、焼けるように音楽を求めた日々、へたくそでも何時間も音楽を奏でなければいてもたってもいられなかった日々、できもしないのに、自分の奏でる音に涙が止まらなかった日々というのは、一体どこへ消えてしまったのかと思うのである。それが寂しい。何も感じなくなった自分が寂しい。安定と言うのはこのように平坦な世界であったのかと知ると、決して昔に戻りたいとは思わないのだが、寂しくていてもたってもいられなくなる。
これもセンチメンタルに思考しているつもりになっている若い未熟さを失っただけの話であると、理性ではわかっているのだが、やはり年老いるということは、失いつつあるものを如実に目の当たりにするということであり、ある種のやりきれなさとは切っても切り離せないということを思い知らされる。
今、目標と言えるのは、未来の職業でもキャリアでもなく、子育ての理想でもなく、死ぬまでにまだどのぐらい自分を成熟させることができるだろうかと言う葛藤である。
しかし、哲学書や詩を読んでは涙に暮れていた感受性は理性にまみれて眠ってしまった。もう決してあの新鮮な感覚ではどんな書物にも巡り合うことはできない。そう思うとさらに絶望が目の前に広がるのである。
今まで生きていて、世界はましになったかと言えば、一方でましになれば、他方でまた新たな問題がせりあがるといった具合で、一項に収まる気配はない。こうした改善の難しさを見せつけられる世の中で単に100年に満たない命を全うする時、個人というレベルで如何ほどのことができるのだろうか。個人レベルにとどまって、せめて家族を幸せに、家族の繁栄と、家族の資産を増やせば責任を果たしたと言えるのだろうか。それが大人として生きることの課題なのであろうか。と、こんなバカな思考に問わられながら、自分はいったい大人になったのはいつで、いつまで青年時代を生きていたのかという境界線があいまいなまま、未熟な意識と共に50歳を迎えてしまった。
そんな時、私の感覚がいまだに衰えておらず、今でも鳥肌が立つような生への欲望があると実感させてくれるのはバッハなのであった。バッハの和声を聴くと、深い深い底辺に潜む本質が何であるのかを訴えかけてくるような揺さぶりを受ける。
個人の情動を制御し、子孫を育て、教育を与え、自分を成熟させ、伝統を引き継ぎ、愛情を育み、博愛を自ら実践するという人としての義務を全うするために、自らに課すべき試練と、自らに与えるべき精神的肥しが何であるかを思い知らされるのである。
歳を重ねるからこそ、哲学しなければならない。哲学は未熟な青年期と老年期にこそ、自らを追い込むように読み込まなければならない。そして消費を減らし、外部からの刺激に揺さぶらることのない、自分だけの価値観を築かなければならない。自分と自己をつなぐ糸を見失ってはならない。つまりいかなる時にも、直ぐに自己と対話できるような直結感を保ていなければならない。価値観を世間ではなく自らの中心に移していかなければならない。
社会とのつながりに果てしない感謝を注ぎながら、社会への義務を全うし、そして自己との糸をより一層に強めていかなければならない。死ぬことというのは、自己との対話に他ならない。自己を十分に納得させることが許しを得るということなのである。死が訪れるまでに、自分を十分に対話をする関係を築いていかなければならない。
それには失ってしまった感性を成熟への肥しとして利用するのではなく、自分自身に対する感性として再建しなければならないのである。
もはや成長はできないが、次第に視線を自己に戻して行き、何度でも振り返り、自分なりに過去に納得するまで何度でも噛み下さなければならない。その間、謝らなければならないことも、感謝を述べなければならないことも、さらには告白しなければならないことも出てくる。それを一つ一つぶれずにこなしてゆくことで、老いだけが達成できる深みと静けさへと到達することができるのではないだろうか。
そうした意味で、バッハには老若男女問わず、自己との対話を促進してくれる素晴らしい効果がある。感情や感性はメロディーであっても、和声への愛着には、さらに深い骨髄から揺さぶるような計り知れないKraftが眠っているのである。
私はフランス組曲やイギリス組曲を一つずつ少しずつ丁寧に奏でてゆくことで最も癒される。せめてどんなにへたくそでも奏でたいという欲求が失われたことはない。物心ついたころから、ミミズ腫れができるほど毎日太ももを叩かれて練習してきたことの恩恵である。それで自己を見失わずに救われている。
本質は、老いが怖い。その一言に尽きる。親を見ていると心苦しくなる。老いとは決して戦うべきものではないが、立ち向かうべきものではあるのだ。時間に負けてはならない。人間として時間に対決してゆかねばらないと思う。これを実践するのが、この世の中で最も難しいことであると実感するのであった。
2017年5月2日火曜日
長男の試練
なんだかんだ言いながら、長男が父親の下に学びに出て以来、すでに8か月が過ぎた。あの地へ引っ越して以来、期待に胸を膨らませた最初の一か月を除けば、彼の精神状態は常にうつ状態であった。私の下を離れたのはすでに17歳半の時だったので、一人暮らしの寂しさが鬱を呼び起こしているのではないことは明らかだった。
ベルリンに帰宅するたびに、彼の話を聞くのだが、なにが鬱の原因なのかもはっきりしない。スイス人もスイスの街も何もかもが嫌だ、自分はベルリンで育ったのだから、あんな町では生きていかれないという子供じみた不満から、父親の教授の仕方が自分には合わない、楽器も音楽も愛せなくなったなど、こちらの心も暗くするような深刻な悩みも打ち明けてくれた。
彼は次第にクラシック音楽から遠のき、必要最低限の義務をこなしながら、次第にテクノの世界にのめり込み、自分で機材を整えて様々なサウンドを生み出し、テクノをアートとして見ているなどと語りだすようになった。母親というのはこうした場面で子供と一緒に揺れてしまいがちである。私も本気ならそういうものを大学で学んだっていいじゃないという、とんでもない発言をしてしまいそうになった。
元々長男は優秀で有名な学校に行き、コンクールを賞をたくさん獲得し、多くの青年や学生オケで経験を積み、ひっきりなしに演奏の仕事をもらい、ベルリンの音大に入った当時は引っ張りだこと言ってもよかった。そんな彼が、父親の下で学ぶという彼の人生で避けることのできない道を歩み出したとたんに、鬱に入ってしまったのである。
最初は、ベルリンのような成功体験がないから、友人を失ったから、あるいは迷うことなく一途に突き進んできた道を、遅い思春期を迎えて疑問に思い始めているのだろうが、それも時期に落ち着くことであろうと、このように楽観していた。
しかし、鬱が去る気配は見えず、練習もしたくない、夜中に涙が出てきたなどという話に発展してしまったのだ。テクノ音楽を生産しているときだけ、唯一「表現する人間として」自由に創作できるのだと訴えるような目で私に語るのである。多忙な父親は月に一回しかレッスンできない。技術のことは殆ど言わず、レッスンは音楽の解釈の話に始終する。強烈な個性を持った父親のレッスンは、息子の肌には全く合わないらしい。そんなことは行く前から親子で承知していたが、息子は父親に「あなたのところでは学ばない」と面と向かって言おうと思ったこともなかった。それはあの楽器をやるには、父親を通り過ぎて一人前にはなれまいと、彼が薄々わかっていたからである。
それでも、実際に行ってみれば音楽解釈を強制されるのに耐えられない、自分の人間には関心を持てもらえず、単にいわれたことをコピーするまであきらめてくれないだけのレッスンなのだと嘆く。彼のレッスンについては色々な見方があるが、私としては、どのような解釈にも発言にも必ず学ぶべきことが隠されていると、そう叱咤して励ますしかなかった。
復活祭の休みにまた帰宅した息子は、可愛らしい女の子を連れてきて、少しは元気になったようだった。大学は転校しない、ここで最後まで卒業する、これを中断したらすべてが中途半端になると、そういう決意をしたようである。しかし学位を取ればいいんだろ、と言ってみたり、本能的に進むべき道が見え、決心できたとしても、その根拠を説明できない危うさがあった。私はまだまだ不安であった。
10日間の滞在後、息子を西の果てのバスターミナルに送った。車の中で殆ど何も話さなかったが、人生には乗り越えなければいけない石がいくつかあって、これがきっとあなたの最初の石なのだから、絶対に乗り越えなければだめなのだと、それだけは私の中でも言葉としてまとめることができた。彼の迷いの中で、今の道ではない方向に行きたいという気持ちが見えたときに、私は決してその方向転換を手伝ってはならない、この石を乗り越えさせるのが親としての支えである、ということは、私の中でも本能的にわかったのだ。しかし息子自身の中に、すでに方向転換する考えはなかった。彼も私と同時期に、なすべきことを理解したのだった。そういうところは親子である。どこかが精神的にシンクロしているのである。しかし私たちのどちらも「根拠」は分かっていなかったのだ。
時間があったので、長旅に備えてビールを2本の他に、サンドイッチやお菓子も買い与えた。今回は、帰っても少し持ち直すのではないかという予感があった。頬をさすり、しばし抱擁し合ってしっかりしなさいと激励して息子に別れを告げた。
夜の10時近く、ベルリンを西から東まで一人で車を走らせるのは本来なら気持ちよいはずだった。しかしその夜はやはり寂しかった。14時間もバスに乗って帰宅する息子が不憫に思えた。
次の日の朝、出勤中の車の中で私は突然理解した。これは息子の遅い思春期でもない、息子が楽器をへの思いを失いかけているのでもない、クラシック音楽への情熱が薄れたのでもない。そうではなくて、息子はあのとてつもなく強烈な父親との戦いに挑むために引っ越して行ったのだ。今、息子が立ち向かっているのは父親像であり、それをエディプスの話のように一度は殺さなければ、自我を形成し、立派な強い一人前の大人にはなれないのである。息子は8歳の時に父親と同じ楽器を選んだ。その決心は揺るぎのないものだった。そしてメキメキと力をつけたが、同じ楽器ゆえに父親とは違う道に進むわけにはいかない。その道での地位を確立した父親を避けて通り過ぎ、彼が自分なりの道を歩むわけにはいかないのだった。そして今父親と対立するときが来たのである。
彼の立ち向かっている父親は、確かに凄まじい人格である。私は10年以上に及ぶ戦いで、何度となく精神的に殺されかけ、体系的に自我を粉々にされたあと、初めて自分が跪くのではなく、自分を防護する権利があることを学び、実行に移した。その後私は当然別れを選んだ。なぜなら彼の下には彼を尊敬し、彼の教えを聞きながらそれに従う生徒のような関係でなければ共存できないからだた。
そうしためまいのするような巨大なエゴとして立ちはだかる父親の隣に存在するだけで、息子がエネルギーを吸い取られて枯れ果ててしまうと考えれば、今までの出来事がすべて納得できる。彼は他人のエネルギーを吸い取るのである。それは故意に行っているのではなく、存在の大きさの違いとしか言いようがない。しかし彼は常に信仰者に囲まれている。彼の妻も然り、彼の生徒たちも然りである。皆彼の言うなりに音楽を奏で、その解釈を心の底から信じているのである。
彼の音楽家としての実力も魅力も、何もかも認めなければならない。彼が好みの問題を超えたもっと高次の能力をもった人間であることには間違えない。
しかし、その息子が同じ道を選んでしまたことは、ある種の運命であるような気もする。長男は最も私に似ており、普通に人に合わせることができ、自分を過剰に突き通すことを好まない。しかし強い自我を突き通すことを疑いもしない他の子供たちではなく、よりによって長男が父親と対抗する羽目になったのである。
長男の孤独は深い。クラスにも彼を理解する者はだれ一人いない。全員が教授を崇め、言いなりに演奏することで、その震えるような音楽のかけらを一片ずつ自分の身に着けようとして彼に傾倒しているのである。息子だけが言われること、指図されるフレーズにことごとく内心逆らっているのである。四面楚歌という状況の中、親しい友人にもこの話の背景がわかろうはずもないのだった。彼はまさに孤独というものを初めてなめることになったのである。
その長男から今晩電話があった。自分が大人にならなければいけないということをひしひしと感じ、自分の精神衛生に一人きりで責任持たなければならないことを分かったという。モチベーションがなければ自分でモチベーションの源を見つけるように努力し、練習したくないからこそ、練習して没頭しなければならないと語る。言っていることはすべて正しい。特に、多くの学生初心者が共通して最初に乗り越えなければならない壁とは、まさにこの長男の言うことである。
しかし、私は長男が力をつけ、決心を固めたのを察して、私の解釈を告げた。あなたが乗り越えなければならないものは、もちろんあなた自身であるけれど、本当は父親に対抗しなければならない。父を認め越えなければ、あなたは残念ながら大人になれない。けれど絶対に打ち勝つことができる戦いしか、人生にはやってこないはずだから、どんなことがあっても自分を見失ってはならないと伝えた。
すると息子は目から鱗が落ちたように、自分の今までの出来事が腑に落ちたようである。
「パパのように夢中になり、発見されていない楽曲を掘り出し、編曲し、寝る間も惜しんでそのことしか考えないようでなければ、自分は音楽を愛しているとは言えないと名指しされているような気がした。どれだけ頑張って努力してもしなくても、どれだけの成果を出しても出さなくても、常に才能を褒めてくれ、実際どれほどの関心があるのかはわからず、自分の存在は透明のような気がした。他の学生は全員一致で言われた通りにやっている。自分だけが父親の解釈ややり方に疑問を持っていた。しかし誰も口にできない。僕も口にできない。しかし、父親とは違う奏で方や音楽の愛し方があってもいいはずだ。それが父親には全く通じない。」
私は息子の言葉を繰り返して、それがあなたの行くべき正しい道なのだと諭す。「何度も何度も、今言ったその自分の道を父親に揺らがされ、その道はおかしい、こっちの道が正しいと言われ続け、とうとう自分の意志にさえ疑問がわいてくるでしょう。折れそうになるでしょう。しかし、絶対に自分を見失うな。言われたことはすべて言うとおりにやりなさい。それでも今言ったことがあなた自身であることを忘れたらいけない。折れたら彼を崇めている他の皆と同じになり、あなたは父親の傘下に入る。あなたが息子でなければ、それだけで充分に音楽家として学ぶところがあるだろうが、あなたは息子だから傘下に入るわけにはいかない。あなたの道を父親とは違う地盤に築かなければならない。凄まじい威力で立ち向かわれるから至難の道になるだろうが、これがあなたの課題なのだと私にもわかった。いままで一年近くもやもやとしていたことが、いまやっと頭でも理解できたから、必ず次の段階に上って行かれる。また違う景色が見えてくる。そうして一歩一歩歩みなさい。最後に父親が無言で送り出してくれるような卒業演奏をしなさい。それにはあなた自身が人をつまり父親を感動させなければならない。それにはあなた自身があなたの心臓と直結した音楽を奏でなければならない。そうでなければ誰の心も動かない。父親に言われたことを100%実践して完璧に演奏すれば、それも素晴らしい演奏になるでしょう。でもあなたは『違う在り方があるはずだ』と言った。だからそれを探り、確立し、あなたのやり方で人の心を動かさなければならない。あなたの父親はそれを一人きりで築いてきた。そして多くの人の涙を誘う演奏をしてきた。あなたも一人きりでそのあなた自身の演奏を築かなければならない。それには孤独を愛し、孤独に負けることなく立ち向かいなさい。それが父親という壁を超える最大の基盤になるはず。」
私は思いにかませて、これだけのことを精一杯に息子に伝えた。息子はやはり今までの気持ちの動きに納得するだけでなく、背景を理解できたと考えることで、少し元気が出たという。もやもやというのは人の心を不安にする。その一つ一つが文字になり、理解することにより、ずっと晴れやかな風景になるのだ。電話を終えて、やっとここまで来たかと胸をなでおろした。これで息子は必ず前進できる。どこまで前進できるかわからないが、また大きく成長を遂げる。あとはまた遠くから見守ていれば十分なのだった。
やはり母親だけでは育たない。だから息子はあえて父親を求めて彼の下に学びに行ったのである。そして彼は理解するもっとずっと前に、無意識に父親との対決に腹を決め、覚悟の上で出て行ったのである。父親は子供の成長にはほぼ関わらなかった。関われなかったというのもあるが、音楽が何よりも重要な彼にとって、子供に割く時間はどうしても取れなかったのだろう。それぐらいでなければ一流などにはなれないのである。しかし、父親がただの壁だたとしても、存在しているだけで息子の成長にとっては重要なことだったのだ。それを乗り越えるだけでも、重大な課題となるのである。
殴り書きで、まったくうまく書けないが、人生の節目となる出来事だったので、どうしても書き記しておきたかった。今後期待と不安をもって、見守ってゆこうと思う。
ベルリンに帰宅するたびに、彼の話を聞くのだが、なにが鬱の原因なのかもはっきりしない。スイス人もスイスの街も何もかもが嫌だ、自分はベルリンで育ったのだから、あんな町では生きていかれないという子供じみた不満から、父親の教授の仕方が自分には合わない、楽器も音楽も愛せなくなったなど、こちらの心も暗くするような深刻な悩みも打ち明けてくれた。
彼は次第にクラシック音楽から遠のき、必要最低限の義務をこなしながら、次第にテクノの世界にのめり込み、自分で機材を整えて様々なサウンドを生み出し、テクノをアートとして見ているなどと語りだすようになった。母親というのはこうした場面で子供と一緒に揺れてしまいがちである。私も本気ならそういうものを大学で学んだっていいじゃないという、とんでもない発言をしてしまいそうになった。
元々長男は優秀で有名な学校に行き、コンクールを賞をたくさん獲得し、多くの青年や学生オケで経験を積み、ひっきりなしに演奏の仕事をもらい、ベルリンの音大に入った当時は引っ張りだこと言ってもよかった。そんな彼が、父親の下で学ぶという彼の人生で避けることのできない道を歩み出したとたんに、鬱に入ってしまったのである。
最初は、ベルリンのような成功体験がないから、友人を失ったから、あるいは迷うことなく一途に突き進んできた道を、遅い思春期を迎えて疑問に思い始めているのだろうが、それも時期に落ち着くことであろうと、このように楽観していた。
しかし、鬱が去る気配は見えず、練習もしたくない、夜中に涙が出てきたなどという話に発展してしまったのだ。テクノ音楽を生産しているときだけ、唯一「表現する人間として」自由に創作できるのだと訴えるような目で私に語るのである。多忙な父親は月に一回しかレッスンできない。技術のことは殆ど言わず、レッスンは音楽の解釈の話に始終する。強烈な個性を持った父親のレッスンは、息子の肌には全く合わないらしい。そんなことは行く前から親子で承知していたが、息子は父親に「あなたのところでは学ばない」と面と向かって言おうと思ったこともなかった。それはあの楽器をやるには、父親を通り過ぎて一人前にはなれまいと、彼が薄々わかっていたからである。
それでも、実際に行ってみれば音楽解釈を強制されるのに耐えられない、自分の人間には関心を持てもらえず、単にいわれたことをコピーするまであきらめてくれないだけのレッスンなのだと嘆く。彼のレッスンについては色々な見方があるが、私としては、どのような解釈にも発言にも必ず学ぶべきことが隠されていると、そう叱咤して励ますしかなかった。
復活祭の休みにまた帰宅した息子は、可愛らしい女の子を連れてきて、少しは元気になったようだった。大学は転校しない、ここで最後まで卒業する、これを中断したらすべてが中途半端になると、そういう決意をしたようである。しかし学位を取ればいいんだろ、と言ってみたり、本能的に進むべき道が見え、決心できたとしても、その根拠を説明できない危うさがあった。私はまだまだ不安であった。
10日間の滞在後、息子を西の果てのバスターミナルに送った。車の中で殆ど何も話さなかったが、人生には乗り越えなければいけない石がいくつかあって、これがきっとあなたの最初の石なのだから、絶対に乗り越えなければだめなのだと、それだけは私の中でも言葉としてまとめることができた。彼の迷いの中で、今の道ではない方向に行きたいという気持ちが見えたときに、私は決してその方向転換を手伝ってはならない、この石を乗り越えさせるのが親としての支えである、ということは、私の中でも本能的にわかったのだ。しかし息子自身の中に、すでに方向転換する考えはなかった。彼も私と同時期に、なすべきことを理解したのだった。そういうところは親子である。どこかが精神的にシンクロしているのである。しかし私たちのどちらも「根拠」は分かっていなかったのだ。
時間があったので、長旅に備えてビールを2本の他に、サンドイッチやお菓子も買い与えた。今回は、帰っても少し持ち直すのではないかという予感があった。頬をさすり、しばし抱擁し合ってしっかりしなさいと激励して息子に別れを告げた。
夜の10時近く、ベルリンを西から東まで一人で車を走らせるのは本来なら気持ちよいはずだった。しかしその夜はやはり寂しかった。14時間もバスに乗って帰宅する息子が不憫に思えた。
次の日の朝、出勤中の車の中で私は突然理解した。これは息子の遅い思春期でもない、息子が楽器をへの思いを失いかけているのでもない、クラシック音楽への情熱が薄れたのでもない。そうではなくて、息子はあのとてつもなく強烈な父親との戦いに挑むために引っ越して行ったのだ。今、息子が立ち向かっているのは父親像であり、それをエディプスの話のように一度は殺さなければ、自我を形成し、立派な強い一人前の大人にはなれないのである。息子は8歳の時に父親と同じ楽器を選んだ。その決心は揺るぎのないものだった。そしてメキメキと力をつけたが、同じ楽器ゆえに父親とは違う道に進むわけにはいかない。その道での地位を確立した父親を避けて通り過ぎ、彼が自分なりの道を歩むわけにはいかないのだった。そして今父親と対立するときが来たのである。
彼の立ち向かっている父親は、確かに凄まじい人格である。私は10年以上に及ぶ戦いで、何度となく精神的に殺されかけ、体系的に自我を粉々にされたあと、初めて自分が跪くのではなく、自分を防護する権利があることを学び、実行に移した。その後私は当然別れを選んだ。なぜなら彼の下には彼を尊敬し、彼の教えを聞きながらそれに従う生徒のような関係でなければ共存できないからだた。
そうしためまいのするような巨大なエゴとして立ちはだかる父親の隣に存在するだけで、息子がエネルギーを吸い取られて枯れ果ててしまうと考えれば、今までの出来事がすべて納得できる。彼は他人のエネルギーを吸い取るのである。それは故意に行っているのではなく、存在の大きさの違いとしか言いようがない。しかし彼は常に信仰者に囲まれている。彼の妻も然り、彼の生徒たちも然りである。皆彼の言うなりに音楽を奏で、その解釈を心の底から信じているのである。
彼の音楽家としての実力も魅力も、何もかも認めなければならない。彼が好みの問題を超えたもっと高次の能力をもった人間であることには間違えない。
しかし、その息子が同じ道を選んでしまたことは、ある種の運命であるような気もする。長男は最も私に似ており、普通に人に合わせることができ、自分を過剰に突き通すことを好まない。しかし強い自我を突き通すことを疑いもしない他の子供たちではなく、よりによって長男が父親と対抗する羽目になったのである。
長男の孤独は深い。クラスにも彼を理解する者はだれ一人いない。全員が教授を崇め、言いなりに演奏することで、その震えるような音楽のかけらを一片ずつ自分の身に着けようとして彼に傾倒しているのである。息子だけが言われること、指図されるフレーズにことごとく内心逆らっているのである。四面楚歌という状況の中、親しい友人にもこの話の背景がわかろうはずもないのだった。彼はまさに孤独というものを初めてなめることになったのである。
その長男から今晩電話があった。自分が大人にならなければいけないということをひしひしと感じ、自分の精神衛生に一人きりで責任持たなければならないことを分かったという。モチベーションがなければ自分でモチベーションの源を見つけるように努力し、練習したくないからこそ、練習して没頭しなければならないと語る。言っていることはすべて正しい。特に、多くの学生初心者が共通して最初に乗り越えなければならない壁とは、まさにこの長男の言うことである。
しかし、私は長男が力をつけ、決心を固めたのを察して、私の解釈を告げた。あなたが乗り越えなければならないものは、もちろんあなた自身であるけれど、本当は父親に対抗しなければならない。父を認め越えなければ、あなたは残念ながら大人になれない。けれど絶対に打ち勝つことができる戦いしか、人生にはやってこないはずだから、どんなことがあっても自分を見失ってはならないと伝えた。
すると息子は目から鱗が落ちたように、自分の今までの出来事が腑に落ちたようである。
「パパのように夢中になり、発見されていない楽曲を掘り出し、編曲し、寝る間も惜しんでそのことしか考えないようでなければ、自分は音楽を愛しているとは言えないと名指しされているような気がした。どれだけ頑張って努力してもしなくても、どれだけの成果を出しても出さなくても、常に才能を褒めてくれ、実際どれほどの関心があるのかはわからず、自分の存在は透明のような気がした。他の学生は全員一致で言われた通りにやっている。自分だけが父親の解釈ややり方に疑問を持っていた。しかし誰も口にできない。僕も口にできない。しかし、父親とは違う奏で方や音楽の愛し方があってもいいはずだ。それが父親には全く通じない。」
私は息子の言葉を繰り返して、それがあなたの行くべき正しい道なのだと諭す。「何度も何度も、今言ったその自分の道を父親に揺らがされ、その道はおかしい、こっちの道が正しいと言われ続け、とうとう自分の意志にさえ疑問がわいてくるでしょう。折れそうになるでしょう。しかし、絶対に自分を見失うな。言われたことはすべて言うとおりにやりなさい。それでも今言ったことがあなた自身であることを忘れたらいけない。折れたら彼を崇めている他の皆と同じになり、あなたは父親の傘下に入る。あなたが息子でなければ、それだけで充分に音楽家として学ぶところがあるだろうが、あなたは息子だから傘下に入るわけにはいかない。あなたの道を父親とは違う地盤に築かなければならない。凄まじい威力で立ち向かわれるから至難の道になるだろうが、これがあなたの課題なのだと私にもわかった。いままで一年近くもやもやとしていたことが、いまやっと頭でも理解できたから、必ず次の段階に上って行かれる。また違う景色が見えてくる。そうして一歩一歩歩みなさい。最後に父親が無言で送り出してくれるような卒業演奏をしなさい。それにはあなた自身が人をつまり父親を感動させなければならない。それにはあなた自身があなたの心臓と直結した音楽を奏でなければならない。そうでなければ誰の心も動かない。父親に言われたことを100%実践して完璧に演奏すれば、それも素晴らしい演奏になるでしょう。でもあなたは『違う在り方があるはずだ』と言った。だからそれを探り、確立し、あなたのやり方で人の心を動かさなければならない。あなたの父親はそれを一人きりで築いてきた。そして多くの人の涙を誘う演奏をしてきた。あなたも一人きりでそのあなた自身の演奏を築かなければならない。それには孤独を愛し、孤独に負けることなく立ち向かいなさい。それが父親という壁を超える最大の基盤になるはず。」
私は思いにかませて、これだけのことを精一杯に息子に伝えた。息子はやはり今までの気持ちの動きに納得するだけでなく、背景を理解できたと考えることで、少し元気が出たという。もやもやというのは人の心を不安にする。その一つ一つが文字になり、理解することにより、ずっと晴れやかな風景になるのだ。電話を終えて、やっとここまで来たかと胸をなでおろした。これで息子は必ず前進できる。どこまで前進できるかわからないが、また大きく成長を遂げる。あとはまた遠くから見守ていれば十分なのだった。
やはり母親だけでは育たない。だから息子はあえて父親を求めて彼の下に学びに行ったのである。そして彼は理解するもっとずっと前に、無意識に父親との対決に腹を決め、覚悟の上で出て行ったのである。父親は子供の成長にはほぼ関わらなかった。関われなかったというのもあるが、音楽が何よりも重要な彼にとって、子供に割く時間はどうしても取れなかったのだろう。それぐらいでなければ一流などにはなれないのである。しかし、父親がただの壁だたとしても、存在しているだけで息子の成長にとっては重要なことだったのだ。それを乗り越えるだけでも、重大な課題となるのである。
殴り書きで、まったくうまく書けないが、人生の節目となる出来事だったので、どうしても書き記しておきたかった。今後期待と不安をもって、見守ってゆこうと思う。
2016年9月19日月曜日
息苦しさと山と海(支離滅裂な走り書き)
本来は山に行くはずだった。山に行けばその雄大な姿に心を鎮めることができると信じていた。心の中に大きな問題を抱えている自覚はなかったが、飽きることなく私の心を乱す何かは未だに存在していた。そうしたものからすっかり離れて、自分は自由であり、十分に幸福なのだということを、都会の喧騒から離れた自然の中で確認してみたかった。
海を恋しいと思ったことはない。むしろ水平線の彼方にその広がりを思い描くだけで、眩暈がしそうになった。水の中では呼吸できないということも、酸素があふれかえる山とは違い、私の中に大きな不安を呼び覚ました。
そう言えば、呼吸ができなくなる恐怖は、私が物心ついたときから存在している一つの症状でもあった。私は何か機会があるごとに過呼吸になった。それは決して実際に予測できる恐怖を前に表れることはなく、常に表面的には一体私の中の何がそんな症状を生み出すのか想像できないほど平穏な日々の平穏な時間に突如として現れた。その度に私は死の恐怖を味わった。それは友人と大笑いして遊んでいる最中にも訪れたし、車の中で眠気と戦っている最中にも表れた。「息ができない」と恐怖に包まれた顔で訴え、苦しいからこのまま死ぬという恐怖が、おそらく呼吸をさらに激しくさせたのだろう。誰にもその理由はわからなかった。
心配した母は、私を大病院に連れて行き、相談すると精密検査を受けることになった。4歳か5歳の私に、その時の記憶はほとんどない。検査結果を聞きに行った時の、グレーの机が隅に置かれた殺風景な診察室がうっすらと記憶に残っている。子供心にも、重大な病気かもしれないと不安でいっぱいだったに違いない。母が医者の話を一部始終聞いた後、私たちは外に出た。何だったのと、母にしつこく質問を浴びせたことも覚えている。何でもないのよ、大丈夫なの、という答えに一向に満足しない私に、母は仕方なしに医者の言った所見を教えてくれた。どうやら医者は「心臓アレルギー」という言葉を使ったらしい。私はアレルギー体質で、鼻炎や湿疹などにことあるごとに苦しまされていたから、医者はこれも心臓が何等かの物質に過剰反応するアレルギーとでも判断したのだろうか。こんな病名はどこを探しても見当たらないので、つまりは器質的には異常はありませんでしたということなのだ。しかし当時、誰も私の過呼吸を心の問題にすり替えてみなかったことに、その時代性を感じる。70年代初頭であった。心療内科という言葉もなかった。子供が過呼吸で苦しんでいるのに、誰も児童心理の側面から症状を判断所しようとは思わなかったのだ。もし母が医者から、小児精神科にでも相談した方が良いと助言されていたら、心配だからこそ、それに従ったに違いない。
当時の両親が一体どのような状況にいたのかは、私には知る由もない。父は演奏家を辞めて会社員になった頃だったのだろうか。それとも起業した頃だったのだろうか。私は少なくとも表面的には幸せな両親の下、何の不自由もなく育っていたのだ。おそらく心理学的にも取り立てて問題にする点は見つからなかったろうと思う。そうではなくて、すべては私の鋭利すぎる感受性だけが問題だったのだと思う。あの頃から、自分では意識のできない何かに突如襲われ続け、それは今でも止むことなく続いている。
山には、こうした「何か」を鎮める作用がある。そう知ったのは欧州に来てからだった。私は子供の時から「息ができない」ということを口癖のように言っていた。夜中にベッドで寝ていても、突然呼吸が止まると思い、眠りに落ちることができなかった。あるいは夜中に目を覚ますと、なぜ眠っている間も勝手に心臓が動き、自分が息をしているのか理解できず、また眠れば必ず心臓が止まると恐怖に震え、うとうとしてはまた恐怖に飛び上がるという日が何日もあった。
大人になってからは、さすがにこのような具体的な呼吸の恐怖を覚えることはなくなったが、「何か」にはしょっちゅう襲われ続けた。山はこのような不安感を抑えてくれるのではない。山の激しい自然の姿に、むしろ不安感が煽られることの方が多かった。しかし山は、それを超える力を見せてくれた。自然に負けじと立ち、一度雪崩やがけ崩れでその姿が破壊されても、山自体が消えることはなかった。次の年に訪れれば、前年に丸裸になった山肌でさえ、緑に覆われ、何事もなかったかのように多くの生き物と共に再生していた。山の夜は果てしなく孤独感を感じる。真っ暗闇の中で星を見ていると、木々のそよぐ音が話し声となって聞こえてくる。まさに彼ら生きている証を聞いたような気分になった。特別な次元で時が動いているという確信を持つことができた。私はその度に、星空の下の自分の存在の小ささを見せつけられ、世俗的な悩みに潰されそうになる自分を恥じた。この雄大な宇宙の下に自分が生まれ、生きているという事実に驚きを覚え、とにかくこの偶然と不思議に敬意を払って「全う」しなければならないという、ある種の使命感を感じた。おそらく生ききるとか、耐えきるとか、そうしたことを全うと感じたのだと思う。
こうした体験が重なるにつれ、私は山を時折求めるようになった。
今年、久しぶりに休暇に行かれるということになり、どこに焦点を当てようかと考え、迷うことなくアルプスへ行きたい、そう思った。
旅というのは私にとっては常に再訪である。新しい土地への関心がないわけではないが、大人になってからというもの、常に何かを上書きしたいかのように、どこかを再訪することを考えている。そしてアルプスは私がそうした力を得ることができた魔力のある土地として、心の中にしっかりと位置づけられていた。今年はアルプスを訪れ、自分の微小さを感じると同時に、その核に触れ、自分という存在の手ごたえを手にすれば、「全う」するのだという十分な意思が沸き起こり、それが小さな幸せの実感につながり、心の中を恐怖なく泳ぎ周ることができる自由を手にできると思っていた。
ところが、私は何の前触れもなく海に変更した。それも生まれてから訪れたことがある土地の中で最も南に位置する島だった。その島を訪れた背景は、説明することさえ躊躇したくなるような悲しいものだった。
一家の、そして私自身の精神をなんとか正常に保つには、初めて築いた家族を壊すことが唯一の解決策であると、数年苦しんだあげくに決心を下したその春が去った夏、私の築いた小さく脆い一家は、もう一度一つになってこの島を訪れたのだった。
なぜ、突如あの島に行きたいと思ったのかは説明できない。
その海の話は、また体力と気力がある時に書こうと思う。
海を恋しいと思ったことはない。むしろ水平線の彼方にその広がりを思い描くだけで、眩暈がしそうになった。水の中では呼吸できないということも、酸素があふれかえる山とは違い、私の中に大きな不安を呼び覚ました。
そう言えば、呼吸ができなくなる恐怖は、私が物心ついたときから存在している一つの症状でもあった。私は何か機会があるごとに過呼吸になった。それは決して実際に予測できる恐怖を前に表れることはなく、常に表面的には一体私の中の何がそんな症状を生み出すのか想像できないほど平穏な日々の平穏な時間に突如として現れた。その度に私は死の恐怖を味わった。それは友人と大笑いして遊んでいる最中にも訪れたし、車の中で眠気と戦っている最中にも表れた。「息ができない」と恐怖に包まれた顔で訴え、苦しいからこのまま死ぬという恐怖が、おそらく呼吸をさらに激しくさせたのだろう。誰にもその理由はわからなかった。
心配した母は、私を大病院に連れて行き、相談すると精密検査を受けることになった。4歳か5歳の私に、その時の記憶はほとんどない。検査結果を聞きに行った時の、グレーの机が隅に置かれた殺風景な診察室がうっすらと記憶に残っている。子供心にも、重大な病気かもしれないと不安でいっぱいだったに違いない。母が医者の話を一部始終聞いた後、私たちは外に出た。何だったのと、母にしつこく質問を浴びせたことも覚えている。何でもないのよ、大丈夫なの、という答えに一向に満足しない私に、母は仕方なしに医者の言った所見を教えてくれた。どうやら医者は「心臓アレルギー」という言葉を使ったらしい。私はアレルギー体質で、鼻炎や湿疹などにことあるごとに苦しまされていたから、医者はこれも心臓が何等かの物質に過剰反応するアレルギーとでも判断したのだろうか。こんな病名はどこを探しても見当たらないので、つまりは器質的には異常はありませんでしたということなのだ。しかし当時、誰も私の過呼吸を心の問題にすり替えてみなかったことに、その時代性を感じる。70年代初頭であった。心療内科という言葉もなかった。子供が過呼吸で苦しんでいるのに、誰も児童心理の側面から症状を判断所しようとは思わなかったのだ。もし母が医者から、小児精神科にでも相談した方が良いと助言されていたら、心配だからこそ、それに従ったに違いない。
当時の両親が一体どのような状況にいたのかは、私には知る由もない。父は演奏家を辞めて会社員になった頃だったのだろうか。それとも起業した頃だったのだろうか。私は少なくとも表面的には幸せな両親の下、何の不自由もなく育っていたのだ。おそらく心理学的にも取り立てて問題にする点は見つからなかったろうと思う。そうではなくて、すべては私の鋭利すぎる感受性だけが問題だったのだと思う。あの頃から、自分では意識のできない何かに突如襲われ続け、それは今でも止むことなく続いている。
山には、こうした「何か」を鎮める作用がある。そう知ったのは欧州に来てからだった。私は子供の時から「息ができない」ということを口癖のように言っていた。夜中にベッドで寝ていても、突然呼吸が止まると思い、眠りに落ちることができなかった。あるいは夜中に目を覚ますと、なぜ眠っている間も勝手に心臓が動き、自分が息をしているのか理解できず、また眠れば必ず心臓が止まると恐怖に震え、うとうとしてはまた恐怖に飛び上がるという日が何日もあった。
大人になってからは、さすがにこのような具体的な呼吸の恐怖を覚えることはなくなったが、「何か」にはしょっちゅう襲われ続けた。山はこのような不安感を抑えてくれるのではない。山の激しい自然の姿に、むしろ不安感が煽られることの方が多かった。しかし山は、それを超える力を見せてくれた。自然に負けじと立ち、一度雪崩やがけ崩れでその姿が破壊されても、山自体が消えることはなかった。次の年に訪れれば、前年に丸裸になった山肌でさえ、緑に覆われ、何事もなかったかのように多くの生き物と共に再生していた。山の夜は果てしなく孤独感を感じる。真っ暗闇の中で星を見ていると、木々のそよぐ音が話し声となって聞こえてくる。まさに彼ら生きている証を聞いたような気分になった。特別な次元で時が動いているという確信を持つことができた。私はその度に、星空の下の自分の存在の小ささを見せつけられ、世俗的な悩みに潰されそうになる自分を恥じた。この雄大な宇宙の下に自分が生まれ、生きているという事実に驚きを覚え、とにかくこの偶然と不思議に敬意を払って「全う」しなければならないという、ある種の使命感を感じた。おそらく生ききるとか、耐えきるとか、そうしたことを全うと感じたのだと思う。
こうした体験が重なるにつれ、私は山を時折求めるようになった。
今年、久しぶりに休暇に行かれるということになり、どこに焦点を当てようかと考え、迷うことなくアルプスへ行きたい、そう思った。
旅というのは私にとっては常に再訪である。新しい土地への関心がないわけではないが、大人になってからというもの、常に何かを上書きしたいかのように、どこかを再訪することを考えている。そしてアルプスは私がそうした力を得ることができた魔力のある土地として、心の中にしっかりと位置づけられていた。今年はアルプスを訪れ、自分の微小さを感じると同時に、その核に触れ、自分という存在の手ごたえを手にすれば、「全う」するのだという十分な意思が沸き起こり、それが小さな幸せの実感につながり、心の中を恐怖なく泳ぎ周ることができる自由を手にできると思っていた。
ところが、私は何の前触れもなく海に変更した。それも生まれてから訪れたことがある土地の中で最も南に位置する島だった。その島を訪れた背景は、説明することさえ躊躇したくなるような悲しいものだった。
一家の、そして私自身の精神をなんとか正常に保つには、初めて築いた家族を壊すことが唯一の解決策であると、数年苦しんだあげくに決心を下したその春が去った夏、私の築いた小さく脆い一家は、もう一度一つになってこの島を訪れたのだった。
なぜ、突如あの島に行きたいと思ったのかは説明できない。
その海の話は、また体力と気力がある時に書こうと思う。
2016年3月13日日曜日
ラディッシュと母
料理をしていると嫌でも母を思い出す。母の元気だった頃を。
昨日友人を招いたのでお酒を飲むにふさわしい軽食を色々と用意していた。
ラディッシュをスライスしていたら、新鮮な葉を捨てるのはもったいないなと思い至る。
いつものことなのだ。母がドイツに来たときは、日本ではあまり見かけないラディッシュ一束を好んで買い、その葉もきれいに刻んで美味しいサラダを作ってくれた。
ラディッシュの葉も食べられるのよと教えてくれたのは、もう10年以上も前の話である。
それ以来、ラディッシュを買うたびに、つまり少なくとも月に一回は、この野菜を切りながら母のことを思わずにはいられないのである。
葉を捨てるたびに、毎回胸が痛む。葉を捨てずにサラダにしても、やはり胸が痛むのである。
自分で築いてきた生活の中に、母の姿はあまりなかった。
外国に暮らしているため、母が生活の一部のように訪ねてくることもなかった。
そんな日常で、母の姿が野菜と共に、突如鮮明な記憶として蘇ってくる。いや押し寄せてくるのだった。それは、必ず苦く痛みを伴う記憶だった。
もしも、今も母が元気であったとしても、母が何千マイル以上も離れている限り、痛みや苦みが癒えることはないのだ。
離れている悲しみなのではない。そうではなくて、私を苦しめるのはそばにいないことの罪悪感である。それは母が老い、元気を失っていくのと共に年々深まって行く。そして
卑怯な私は、痛みが大きくなるにつれ、ますます電話をかけなくなった。母のためを思えば、一層頻繁に電話をして、私の話しではなく「声」を聞かせることのみを目的とすべきであるというのに、私は痛みを感じるのを無意識に避け、自分の日常に没頭しているふりをしている。
母親の老いとは、子供にとってこのように向き合いがたいことなのかと改めて驚いている。日本に残っていれば、私とて母子一体のまま、行ったり来たりを重ねて、本当の意味での自立を達成できなかったかもしれないと思う。
埋めようのない距離が二人の間をバッサリと割いていたからこそ、私は人生で決定的な分岐点に立った時に、母の顔を見ず、帰国せず、相談をしないという道を選択した。一人きりになって、何の雑音も意見も助言もない状況で、まるで真空の世界のように無音な状況で、自分のこの先を見定めたかった。それだけ大きな責任を負っているという意識があった。
あの時、日本に住んでいたら、無音の世界を作ることは決してできなかった。つまり本当の意味での自立を強行することはできなかった。それが日本の良さでもあるし、日本独特の母子の構造であるとも言える。
この自立を成し遂げたあと、私にとっての母は、守るべき存在に代わり、もう誰も守ってくれる人はいない、子供も母親も、私が守る番なのだということを痛く実感した。それが大人になったということだと思った。30を過ぎた頃だった。
この時点を超えてもう20年近く経つ今に至るまで、私は何一つ母に返せたという実感がない。幸せのニュースを告げることはできたが、母の与えてくれたことを思うと、それではとても足りない。
しかしそれが親というものなのだ。親からもらったものと同等のものを返すことはできない。そして自立した親ならば、そんなことは望んでいないのである。
しかし、それを納得したところで、痛みと苦みを消し去ることはできない。私は老いから逃げているのである。日常の平穏の裏に隠されている私自身の老いを「生きる」ことで、実は精いっぱいなのかもしれなかった。認めたくない自分の老いが時と共に迫り来るのを感じながら、親の老いを考える時、それは無意識の中で自分の将来の姿に重なり、触れずにいることでのみ、私自身の「老いへの日々」を何の痛みもなく突き進むことができるのかもしれない。
そして自分の勝手さを噛みしめながら、自分を少しは責め、そして親が「元気に老いる」ことを密かに望んでいる。
その自分の姿に触れるのが嫌だから、電話をかけなくなったのである。
以前のように母の意見が大切なものだとは思えなくなった「自分の大人の時代」が開始していらい、電話は報告になり、その後義務になり、そして触れたくないものになってしまった。
声を聴かせ合うことが思いやりの基本であるにもかかわらず、声しか交換できない者同士のコミュニケーションには、声から様々なことを聴きとる習慣が成り立っている。
平穏の裏に実はずっと流れ続けている現実を凝視できない。
どんなことにも真っ向から直面して、まるで挑むように乗り越えてきたと、そういう実感がある私でさえ、この現実は凝視しないと決めているようなのだった。
ラディッシュを切る時、私はいつもむな苦しくなる。時には涙さえ流れてくる。しかし解決はないのだった。生きるからには死が来る。そのどうあがきようもない自然の掟こそ、やっと日常が平穏になった私の身に、最も堪えることなのだと、今思い知った。半分というターニングポイントを過ぎた人間の背後には、死への葬送曲が聞こえるか聞こえないかのような、かすかな気配を見せるのである。それを感じ取ってしまったら、平穏というカモフラージュを駆使して、静かに最期を待つしかないと思い知るのだった。しかし親の老いを見ることで、その現実がふと前面に押し出される。それをまたすぐに押しやるために、私は日常を生きているのだった。そのために日常はあるのだと、それも今にして分かった。
子供達の瑞々しい人生を見ていると、心の奥から深い満足感が湧いてくる。それぞれの人生を生き抜く力を与えてやることができた。それ以上は何も望まない。
しかし、私自身はとうとう日常生活を「つき進むべき道」としてではなく、「現実への蓋」として使うようになっていたのだった。
そんな逃げ腰の生き方をとうの昔に通り越した自分の親のことを思えば、彼らは実に静寂に満ちており、私は何の罪悪感も恐怖感も抱く必要はないはずなのだった。
私は私自身の「自然の摂理」を恐れているだけであり、実にエゴに満ちた小心から来る理由で、自分の蓋をしっかりと閉めているだけの話なのだった。
ラディッシュを見るとどうしても買いたくなる。母のようにサラダを作りたくなる。しかし葉を捨てるか使うか迷う段階で、必ずどうしようもないジレンマにかられ、大抵は葉を捨て、そして一晩胸の痛みをさすって癒す。
そして母を思う。
子供も孫も育ち、身体が追い、精神がかすみ、きっと随分と寂しい思いをしているだろうなと。
昨日友人を招いたのでお酒を飲むにふさわしい軽食を色々と用意していた。
ラディッシュをスライスしていたら、新鮮な葉を捨てるのはもったいないなと思い至る。
いつものことなのだ。母がドイツに来たときは、日本ではあまり見かけないラディッシュ一束を好んで買い、その葉もきれいに刻んで美味しいサラダを作ってくれた。
ラディッシュの葉も食べられるのよと教えてくれたのは、もう10年以上も前の話である。
それ以来、ラディッシュを買うたびに、つまり少なくとも月に一回は、この野菜を切りながら母のことを思わずにはいられないのである。
葉を捨てるたびに、毎回胸が痛む。葉を捨てずにサラダにしても、やはり胸が痛むのである。
自分で築いてきた生活の中に、母の姿はあまりなかった。
外国に暮らしているため、母が生活の一部のように訪ねてくることもなかった。
そんな日常で、母の姿が野菜と共に、突如鮮明な記憶として蘇ってくる。いや押し寄せてくるのだった。それは、必ず苦く痛みを伴う記憶だった。
もしも、今も母が元気であったとしても、母が何千マイル以上も離れている限り、痛みや苦みが癒えることはないのだ。
離れている悲しみなのではない。そうではなくて、私を苦しめるのはそばにいないことの罪悪感である。それは母が老い、元気を失っていくのと共に年々深まって行く。そして
卑怯な私は、痛みが大きくなるにつれ、ますます電話をかけなくなった。母のためを思えば、一層頻繁に電話をして、私の話しではなく「声」を聞かせることのみを目的とすべきであるというのに、私は痛みを感じるのを無意識に避け、自分の日常に没頭しているふりをしている。
母親の老いとは、子供にとってこのように向き合いがたいことなのかと改めて驚いている。日本に残っていれば、私とて母子一体のまま、行ったり来たりを重ねて、本当の意味での自立を達成できなかったかもしれないと思う。
埋めようのない距離が二人の間をバッサリと割いていたからこそ、私は人生で決定的な分岐点に立った時に、母の顔を見ず、帰国せず、相談をしないという道を選択した。一人きりになって、何の雑音も意見も助言もない状況で、まるで真空の世界のように無音な状況で、自分のこの先を見定めたかった。それだけ大きな責任を負っているという意識があった。
あの時、日本に住んでいたら、無音の世界を作ることは決してできなかった。つまり本当の意味での自立を強行することはできなかった。それが日本の良さでもあるし、日本独特の母子の構造であるとも言える。
この自立を成し遂げたあと、私にとっての母は、守るべき存在に代わり、もう誰も守ってくれる人はいない、子供も母親も、私が守る番なのだということを痛く実感した。それが大人になったということだと思った。30を過ぎた頃だった。
この時点を超えてもう20年近く経つ今に至るまで、私は何一つ母に返せたという実感がない。幸せのニュースを告げることはできたが、母の与えてくれたことを思うと、それではとても足りない。
しかしそれが親というものなのだ。親からもらったものと同等のものを返すことはできない。そして自立した親ならば、そんなことは望んでいないのである。
しかし、それを納得したところで、痛みと苦みを消し去ることはできない。私は老いから逃げているのである。日常の平穏の裏に隠されている私自身の老いを「生きる」ことで、実は精いっぱいなのかもしれなかった。認めたくない自分の老いが時と共に迫り来るのを感じながら、親の老いを考える時、それは無意識の中で自分の将来の姿に重なり、触れずにいることでのみ、私自身の「老いへの日々」を何の痛みもなく突き進むことができるのかもしれない。
そして自分の勝手さを噛みしめながら、自分を少しは責め、そして親が「元気に老いる」ことを密かに望んでいる。
その自分の姿に触れるのが嫌だから、電話をかけなくなったのである。
以前のように母の意見が大切なものだとは思えなくなった「自分の大人の時代」が開始していらい、電話は報告になり、その後義務になり、そして触れたくないものになってしまった。
声を聴かせ合うことが思いやりの基本であるにもかかわらず、声しか交換できない者同士のコミュニケーションには、声から様々なことを聴きとる習慣が成り立っている。
平穏の裏に実はずっと流れ続けている現実を凝視できない。
どんなことにも真っ向から直面して、まるで挑むように乗り越えてきたと、そういう実感がある私でさえ、この現実は凝視しないと決めているようなのだった。
ラディッシュを切る時、私はいつもむな苦しくなる。時には涙さえ流れてくる。しかし解決はないのだった。生きるからには死が来る。そのどうあがきようもない自然の掟こそ、やっと日常が平穏になった私の身に、最も堪えることなのだと、今思い知った。半分というターニングポイントを過ぎた人間の背後には、死への葬送曲が聞こえるか聞こえないかのような、かすかな気配を見せるのである。それを感じ取ってしまったら、平穏というカモフラージュを駆使して、静かに最期を待つしかないと思い知るのだった。しかし親の老いを見ることで、その現実がふと前面に押し出される。それをまたすぐに押しやるために、私は日常を生きているのだった。そのために日常はあるのだと、それも今にして分かった。
子供達の瑞々しい人生を見ていると、心の奥から深い満足感が湧いてくる。それぞれの人生を生き抜く力を与えてやることができた。それ以上は何も望まない。
しかし、私自身はとうとう日常生活を「つき進むべき道」としてではなく、「現実への蓋」として使うようになっていたのだった。
そんな逃げ腰の生き方をとうの昔に通り越した自分の親のことを思えば、彼らは実に静寂に満ちており、私は何の罪悪感も恐怖感も抱く必要はないはずなのだった。
私は私自身の「自然の摂理」を恐れているだけであり、実にエゴに満ちた小心から来る理由で、自分の蓋をしっかりと閉めているだけの話なのだった。
ラディッシュを見るとどうしても買いたくなる。母のようにサラダを作りたくなる。しかし葉を捨てるか使うか迷う段階で、必ずどうしようもないジレンマにかられ、大抵は葉を捨て、そして一晩胸の痛みをさすって癒す。
そして母を思う。
子供も孫も育ち、身体が追い、精神がかすみ、きっと随分と寂しい思いをしているだろうなと。
登録:
投稿 (Atom)