2015年10月6日火曜日

娘の最終章

思えば娘のことばかりを考えてきた。親として彼女のために何かを考えてやったことは殆どない。そうではなくて、如何にすれば私自身が彼女から逃れられるのか、そう考え続けてきたのだ。娘のことを思い浮かべると、どうしようもない良心の呵責に身の縮む思いをしてきた。酷い親だったのだ。しかし酷い親なりに、苦しみ抜いて常に格闘してきた。子供と格闘するなど、一体どんな親なのだろうと人は思うに違いない。しかし実際、私自身が病み、彼女の父親に追い込まれたように、自らを病人とでも思わなければ、とても尋常な精神を保っていられなかった。本気で苦しみ、本気で自分を責め、本気で娘に立ち向かい、本気の感情を娘にぶつけてきた。おそらく、本気の感情をぶつけるという最後の部分に関しては、親としておそらく決して見せてはいけない態度であったのかもしれない。
それでも、娘が私を見捨てることはなかった。

今思いなおしても、未だに一体どのような関係なのか理解できない。娘の父親と自分との長年の関係性においては、最初からはっきりとしたパターンが生まれ、その関係をいくら変えようと思っても、底なし沼のように深みに引きずり込まれるばかりで、全く解決への糸口が見つからなかった。やがて私は毎日のように頻脈に悩まされ、閉所に入れば突然嗚咽に襲われ、何かを注意されれば泣き叫んで謝罪するという、まさに病気としか
説明のしようがない状態に陥った。
何かを境目に、身近に存在する人間によって自らが系統的に崩壊に導かれていることを悟り、自己防衛から自己確立へと足掻き始めてから、「別れ」という解決しかないのだということが、うっすらと見えてきた。

このまさに記憶として失われた10年の歳月に体験したパターンの種は、娘の生まれた頃から着々と彼女と私の間に撒かれていたのだった。

娘はその父親に瓜二つであると確信した私に育てられた彼女は不幸だったのである。
それを察してか、あるいは生まれつきなのか、物心の付いた彼女は私にさえ警戒心を見せ、抱締めても、さすっても、何をしても慰め様がなく、ただただ身体を硬直して、抱きしめられることを拒絶していたのだ。このような彼女の態度が私の親としての自信をさらに小さくしたことは間違えない。

しかし今、私は心の底から、誰よりも彼女を深く愛していたのだと思っている。そうでなければやはり説明が付かない気持ちが心の奥深くから湧き出してくるのだ。
私が彼女の父親を愛さなかった日は一日たりとなかった。彼女の父親を心の底から憎いと思った年月も短くはなかった。それでも私が身を投げてまで関係を修復しようと必死に自分を殺してきたのは、それよりももっと奥深くから、彼自身の肉体を剥いだ中にある、その魂のような部分を愛していたからとしか言いようがない。そう言う意味で、私は心の底から嫌った日にも、やはり自らの気づかない次元で、彼へエネルギーを投入してきたのだった。
エネルギーを投入するということは、祈りと同じことである。欲や言い訳から切り離された祈りは、純粋な愛を求めている姿である。そう思えば、私はずっと彼を愛してきたのだった。
同じように、色々な意味で紙一重の関係しか持てなかった私と娘は、それでも常に互いを見つめ合ってエネルギーを投入し続けてきた。その大半の年月は火花が飛び散り、私は娘を壊し、私自身も娘の絶え間なく激しく責め立てるエネルギーにひどく壊された。

彼女の責めは、しかし病ではなかったのだ。そして私に計り知れない落ち度や悪があったわけでもない。長年私たちの不安定極まりない、そしてドラマの耐えない苦しく嘆かわしい家庭生活の真ん中で、まるでものを言わぬぬいぐるみのように存在していた長女の娘は、他の誰よりも過敏な感受性を持て生まれてしまった。何年間も口を利かず、2年間帽子をかぶったまま過ごし、小学校に入っても私の手を離すことができなかった彼女の無言の心の中にたまった叫びであったといえば、今の私には納得がゆく。募り積もったどこにもはけ口を見いだせなかった10年分の心の錆が、思春期という恐るべき正体を暴き、姿を晒す現象によって、ついにはけ口を見つけ、そして彼女は私が暗黒の5年間と名付けたあの思春期に、すべてを口から火を吐くように噴出したのである。

娘の姿は小さな子犬のように愛おしかった。
彼女の下着や靴下を見るだけで、涙があふれてくる、そんな寂しい背中を持つ子供だった。
バイオリンの稽古にも通えず、ずっと私の洋服の裾を引っ張っていた。初めての発表会で、彼女は舞台で突如泣き出してしまった。これはすべて彼女が弱いからではない。彼女を取り囲む環境が、人間ドラマの中でも最も悲劇と言えるシナリオを演じていたのである。そして彼女の両親である私たちは、目を見るだけでその瞳の奥のすべての言葉を理解しあってしまうような、言葉で取り繕うことは絶対にできない生々しい、皮膚を持たないような関係にあった。その両親の間に挟まっていた彼女の感受性が、「普通の生活」を送れるような肌の厚みを持っていなかったということを察するのはそれほど難しいことではないのかもしれない。

実際に思春期がどうであったか、まるで彼女の父親との結婚生活のように、その記憶はほぼ抜け落ちている。しかし、本能的に私は2度目の夫に別れを告げ、来るべきものに備えるかのように、子供達と私だけの環境を整えた。うろ覚えの記憶を引きずり出して考えてみれば、覚悟を決めたのだった。意味のない面倒ばかり持ち込んでくる子供とは関係のない男をきれいさっぱりと整理し、私が実はないがしろにしてきた子供達に全面的に向き合う覚悟を。
おそらく第一の夫との離婚後、支えてもらわねば私は前進できなかったのかもしれない。悪夢にうなされなくなるまで、およそ一年かかった。子供も私も病気ばかりした。何も思い出せない。
第二の夫は、文字通り私に笑顔を取り戻させてくれ、新しく生きる場所を提供してくれたのかもしれない。ターニングポイントの鍵のような人だったのだ。それだけの象徴を持っていても、生活には縁のない人だった。

子供達と私だけの家庭は温かかった。最初の一年は、希望に満ちていた。しかしやがて才能教育補助まで受けていた娘がバイオリンを勝手にさぼり、オーケストラを止め、学校に行かれなくなり、一年間日中はベッドで過ごすまでになった。私は本を読み漁り、ものを書いて理解しようと努めたが、足元の全く見えていない愚かな親のごとく、役所や病院を毎日のように駆けずり回った。そして狂ったように仕事に逃げた。

その頃からの5年間、私と娘は暗黒の時を過ごした。長男も末っ子も私と彼女の日常的な確執に、決して消すことのできない傷を受けてしまった。娘を愛せない自分を責め、他の兄弟たちに姉は病気だと言い聞かせ、それを娘には隠した。長男は優越な立場に立ち、自分の思春期とも合わさって娘の心をひどく傷つけた。暴力沙汰になるほんの一歩手前だったのだ。色々な部分が紙一重だった。

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娘はしかし天使のように優しい。それは悪魔の裏面ではないかと疑いたくなるほど、純粋に優しい子だった。誕生日には必ず何日も前から何かを手作りして、丁寧な手紙を添えて私に贈ってくれた。おこずかいをやり忘れる酷い親だった私のせいで、時に道端に捨ててあったものなどを拾って、それに手を加えて物入れや花瓶などにして贈ってくれた。添えられるカードも手が込んでおり、刺しゅうや美しいイラストが描いてあった。書いてある文章は「ママ大好き」という内容に尽きた。
娘は今でも私に必ずプレゼントをくれる。一流の菓子店のケーキや、仕事が忙しいとリラックスして欲しいという思いで入浴剤をくれることもあった。最近はあのブレスレットが気に入ってると話したら、バイト代をはたいて、それを贈ってくれた。無論肌身離さずに身に付けている。
このような贈り物は、儀式だといえばそれでおしまいだが、贈り物を考えたり、買に行く行為は愛情がなければなかなかできないことである。娘は年に二回、誕生日とクリスマスに贈り物を欠かしたことがない。お金が一銭もなくても、色々なものを工作してくれたのだった。
その愛情はまさに人に対するエネルギーに置き換えられるものである。彼女は愛する人に惜しみなくエネルギーを注ぎ続けている。
傷つけられた長男に対しては恐れをいだきながらも、それでもまだ彼女は彼を愛する試みを怠っていない。これは私は親としても彼女に敵わない点であり、非常に尊敬している。彼女の筋の通った愛に対する能力は、私の比ではない。だからこそ、彼女は音楽に対しても、私の数十倍のエネルギーつまり愛情を費やしているのである。これは父親にあやかった素晴らしい才能であろう。

やがて娘が家を出ていった。私は心底ほっとし、心から応援してやった。しかしお金を援助してやるほどの愛情はなかったのかもしれない。自分で稼いで世の中に打たれてほしかった。そして右も左も区別できなかった彼女は、立派に仕事をこなし、ものの一年で立派に自立したのである。その頃から、娘の関係が激変し、私たちは深い次元で最も近しい存在であり、ほとんどの物事に対して、殆ど同じ考えを抱き、出来事を殆ど同じ感覚で受け止めているという確信を一瞬にして感じ合うことができるようになった。その近しさには信じがたいものがあった。
父親と瓜二つ、だから父親に対する関係と同じパターンしか築けないと勝手に知ったような顔をしていた私は、彼女が自分に瓜二つであることを知り、衝撃を受け、自分を激しく恥じた。

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娘を送って行った朝、私の脱力感は尋常ではなかった。
たった2時間で飛んで行かれる街である。しかし彼女はもう「直ぐそこ」に住んでいるわけではないのだった。その事実が私を打ちのめした。コーヒーを飲みに行ったこともなく、二人で出かけることもなかった。それだけ接近すれば、また元の木阿弥であることを互いに無言のうちに承知していたのだ。
しかし彼女は一週間に一度は私たちを訪ねてきた。そうすればご飯を食べさせてやりたくなり、お金もあげたくなった。お茶も入れてあげたし、洗濯もしてあげた。驚くことに随分話をするようになった。そして私は彼女の人生の発展に心を弾ませていたのだ。まるで、自分自身が二十歳だった頃を目の前に走馬灯のように見ているようだった。
ああ、私は再体験しているのだ。ああ、こうして魂が再び生き返るのだと実感するにつれ、彼女という存在に心から感謝するようになった。子育ての苦労など、決して嘆いてはいけない。恥を忍んで言えば、今更、私は今更になって、そういうことが理解できるのだった。子供は必ず少なくとも相応のものを返してくれるのだ。私の場合は、与えたもの以上を娘からもらっていると思って神に感謝している。

娘の教えてくれた音楽、娘にもらった香水やアクセサリなど、影響を受けているのは私の方で、彼女こそ、人生の真っただ中にいるのだと思い知らされた。そしてどこからともなく、確信が湧いてきた。あの子はやり遂げる。やり遂げないわけがない。あの子のような特別な感受性と、特別なエネルギー、そして天使のようにフェアで純粋な心を持った人間がやり遂げないわけがなかった。しかしそれだけではない。彼女には人を撥ねつけるような強さも備わっている。人を押しのけてものし上がっていくような図太さも持っている。それほどアンバランスな彼女は、やはり簡単な人間ではないが、私のように揺れ動いて時間を無駄にすることはないだろう。彼女は20歳にして、すでに私のあの頃よりもはるかに安定しているのだ。

たった一日でも、彼女が行ってしまった事実を目にし、私は身体に大きな疲労感を感じた。脱力したのだ。心のどこかからエネルギーを吸い取られてしまったかのように。彼女から逃れることこそ、私の長年の夢だったはずなのに、彼女が去った後、脱力したのは私なのだった。

子育てに余裕がなかったのがいけなかったのかもしれない。私だってやれるだけのことはやったという実感はある。自分だって倒れる寸前だったのだ。今度私が手術するのだって、あれだけのストレスを何年も抱えて、何も影響を残さないはずがないと考えたことが、命中したのではないかとさえ思える。
それでも、親として全く至らなかった私の子供たちが、一人前に育ってゆく姿を「見送る」のは辛い。十分に家庭らしいことをしてやれなかったという罪悪感に加え、それでも育っていく彼らを見て、自分という存在の無力さもまざまざと突きつけられる。
来年は長男がこの地を去る。
末子が大学生になる頃、私はもう口を閉ざし、親らしい口をきくことは控えるべきなのだろうと思う。「親」は子供の安全圏を確保するために子供を「監視」する権利はあっても、「デカい顔」をする権利などどこにもないのだ。子供の伸びていく力の方がよほど強く健全である。独自に成長しようとする力を親がへし折るからいけないのだ。そう言う意味で、何もしてやれなかったけれど、子供をへし折るほどの力もない私は、まだましだったのかもしれない。

娘の成功を心より祈っている。













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