2015年10月12日月曜日

星空

眠れないほど心の中が乱れたのはもう何か月ぶりだった。
自分でも理解できないような穴にはまり込んで、理性が働いているにもかかわらず、病的なループのように状況を悪化させるばかりのことを話していたような気がする。

余りにも眠れなくて階上へ行き、ソファの上に寝転がった。二枚毛布を重ねて猫のように丸くなり、秋の澄とおるような星空を見上げた。
いくつもの星がはっきりと空に浮かんで見え、そのいくつもが光を揺らめかせながら瞬いていた。
一瞬にして想像を超えるほど遠い宇宙に心を馳せた。秋風が吹き抜けるような寒さを感じた。
辛い時は必ず寒気を覚える。それは18歳のころからずっと同じだった。

星の輝きを飽きずにずっと見つめながら、過去何十年もずっと変わらない自分が、まるで10代の頃の未熟さのままそこに座っているような錯覚を覚えた。意識は10代の頃と変わっていなかった。ものの見方も人間への期待も、大して変化はないことに唖然とした。幾分落ち着いて、色々なことを平然と受け止めることができるようになったけれど、何かをお腹の底から話そうと思えば、悲しくもないのに、自分の感情に押しつぶされそうになり、涙をこらえることができないのも、全くあの頃と変わっていなかった。

星の光が届いたのは今晩だけれど、この星が一体今も輝いているのかは謎だった。それほど星というのは遠いところに存在している。
時空を超える遠いところに今現在の光を失った私がいて、今私の心だけが、時間差でこの星の光を浴びながら再び10代の頃のように輝いているのだろうかと、不思議な考えに陥った。肉体は輝きを失ったけれど、あの頃の心はところどころ光を放ちながら、全く変貌を遂げずに存在しているような気がしていた。

幾ら学んでも、肌を分厚くしても、理由を理解しても、私の頑なさや脆さや激しさは一切変わることはないのだった。そんなことをこの年になって真夜中に実感し、やはり少し落ち込む。こんな自分自身と死ぬまで付き合っていくのも本当に大変だ。

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断絶は始まる前から見えていた。言い換えれば断絶のない人間関係はない。100%の理解は不可能なのだから、至る所に小さな断絶が見え隠れしているものだ。大切なひとでなければ、その距離感こそ健全な関係の基本であるが、大切な人との断絶は一体どこまでが健全で、どこからが欠乏なのか私には未だにわからないのだった。

とにかく私は辛くなると断絶を生じさせる。辛いから人を求めることは今まで一度もなかった。辛くなると決まって周囲を遮断した。自分の存在の底辺から知らない間に、また起き上がり、また笑う力が出てくるのを一人きりでずっと待っている、きっとそういう行為なのだ。

久しぶりに徹夜に似た夜中を過ごし、今日は一日中疲労感で一歩も歩けないほどである。ここでまた、肉体の衰えを感じる。肉体はごまかすことができない。考えてみれば、幾つになってもこんな未熟な心を抱えながら、それでも身体は衰えていくのだから、人間は実に滑稽な生き物だなと思う。個人の成長を自発的に求めて、毎日少しでもましな人間になるべく、随分頑張ってきたと自分ではそう言う実感がある。しかし、本当に個人的に成長できたのかどうか、その辺はまったく判断できない。あの苦しかった何年も乗り越えてきたことで、自分は強靭になり、打たれ強くなり、決してクラッシュしない精神力を鍛え上げた、それが唯一はっきりと公言できることである。しかし私は思考や物の見方や対人で、少しでも大人のようになれたのかどうか、そこは全くと言ってよいほど自信がないのだった。

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しかし、熱く煮え切らない人間が嫌いなのは言うまでもない。決断できずにそのままさらりと生きている人間も、人に決断させる人間も、どちらの態度も許容できない。毎日がまるでサバイバルのように感じてしまう私には、同じようにサバイバル感覚で生き抜こうと日々激しい闘いを繰り広げている人が合っているのだろうか。思えば最初の夫は、実に私にぴったりの人間だった。しかし絶対に相いれないエネルギー同士の撥ねつけ力が強すぎ、二人は消耗し切ってしまった。
あの生きているという実感。あの隙のない全力投球の時間は、別れた後も続き、子育てが長引くとともにさらにそのインテンシブさを増した。
今は、全く違う。「年相応」の生き方を身に付けたことは確かだろう。しかし子育ての難しさからも解放されてしまった私は、毎日のように欠乏感に苦しみ、からからに乾き切った喉が焼き付いてしまいそうなのを感じながら、未だに一人で溺れかかっている。そこに岸はあり、そこに植物が育ち、そこに果物も暖かな空気もあるというのに、私は未だに好んで激しい波の中へともぐりこんでは溺れ槽になることを選択している。頭では理解できない生き方である。人を巻き込む危険のある今、私は自らまた断絶を深く掘り続けてしまうのだろうか。
断絶が、自己防護であると同時に他者の防護でもあるのだろうか。
なぜ、断絶を埋めるために土を盛れないのだろうか。
それはおそらく、土を盛り続けたのにまったく穴が埋まることがなかったからなのだ。トラウマのように、私は土を埋めずに、溝を掘り続け距離を広げ、ゆっくりと離れていくことを好む。埋められない断絶を知るより、自分がもっと断絶を深めてしまった方がよほど楽なのだ。

これは一体強い心なのか、それとも社会に順応できないほど弱い心なのか、それすらわからずにいる。

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星は今夜も瞬きそうである。すっかり冬らしいキリキリとした空気になってしまった。私は月末に遠いところに逃げようかと計画を立てている。しかも大切な人なしで、何の予告もなく。この冷たさで人を傷つけるのは本当に良くない癖である。しかしいつまでも機能するばかりの生き方にもうこれ以上耐えられないという自分もまた別に存在しているのも事実である。

どうなるのだろうか。


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