本来は山に行くはずだった。山に行けばその雄大な姿に心を鎮めることができると信じていた。心の中に大きな問題を抱えている自覚はなかったが、飽きることなく私の心を乱す何かは未だに存在していた。そうしたものからすっかり離れて、自分は自由であり、十分に幸福なのだということを、都会の喧騒から離れた自然の中で確認してみたかった。
海を恋しいと思ったことはない。むしろ水平線の彼方にその広がりを思い描くだけで、眩暈がしそうになった。水の中では呼吸できないということも、酸素があふれかえる山とは違い、私の中に大きな不安を呼び覚ました。
そう言えば、呼吸ができなくなる恐怖は、私が物心ついたときから存在している一つの症状でもあった。私は何か機会があるごとに過呼吸になった。それは決して実際に予測できる恐怖を前に表れることはなく、常に表面的には一体私の中の何がそんな症状を生み出すのか想像できないほど平穏な日々の平穏な時間に突如として現れた。その度に私は死の恐怖を味わった。それは友人と大笑いして遊んでいる最中にも訪れたし、車の中で眠気と戦っている最中にも表れた。「息ができない」と恐怖に包まれた顔で訴え、苦しいからこのまま死ぬという恐怖が、おそらく呼吸をさらに激しくさせたのだろう。誰にもその理由はわからなかった。
心配した母は、私を大病院に連れて行き、相談すると精密検査を受けることになった。4歳か5歳の私に、その時の記憶はほとんどない。検査結果を聞きに行った時の、グレーの机が隅に置かれた殺風景な診察室がうっすらと記憶に残っている。子供心にも、重大な病気かもしれないと不安でいっぱいだったに違いない。母が医者の話を一部始終聞いた後、私たちは外に出た。何だったのと、母にしつこく質問を浴びせたことも覚えている。何でもないのよ、大丈夫なの、という答えに一向に満足しない私に、母は仕方なしに医者の言った所見を教えてくれた。どうやら医者は「心臓アレルギー」という言葉を使ったらしい。私はアレルギー体質で、鼻炎や湿疹などにことあるごとに苦しまされていたから、医者はこれも心臓が何等かの物質に過剰反応するアレルギーとでも判断したのだろうか。こんな病名はどこを探しても見当たらないので、つまりは器質的には異常はありませんでしたということなのだ。しかし当時、誰も私の過呼吸を心の問題にすり替えてみなかったことに、その時代性を感じる。70年代初頭であった。心療内科という言葉もなかった。子供が過呼吸で苦しんでいるのに、誰も児童心理の側面から症状を判断所しようとは思わなかったのだ。もし母が医者から、小児精神科にでも相談した方が良いと助言されていたら、心配だからこそ、それに従ったに違いない。
当時の両親が一体どのような状況にいたのかは、私には知る由もない。父は演奏家を辞めて会社員になった頃だったのだろうか。それとも起業した頃だったのだろうか。私は少なくとも表面的には幸せな両親の下、何の不自由もなく育っていたのだ。おそらく心理学的にも取り立てて問題にする点は見つからなかったろうと思う。そうではなくて、すべては私の鋭利すぎる感受性だけが問題だったのだと思う。あの頃から、自分では意識のできない何かに突如襲われ続け、それは今でも止むことなく続いている。
山には、こうした「何か」を鎮める作用がある。そう知ったのは欧州に来てからだった。私は子供の時から「息ができない」ということを口癖のように言っていた。夜中にベッドで寝ていても、突然呼吸が止まると思い、眠りに落ちることができなかった。あるいは夜中に目を覚ますと、なぜ眠っている間も勝手に心臓が動き、自分が息をしているのか理解できず、また眠れば必ず心臓が止まると恐怖に震え、うとうとしてはまた恐怖に飛び上がるという日が何日もあった。
大人になってからは、さすがにこのような具体的な呼吸の恐怖を覚えることはなくなったが、「何か」にはしょっちゅう襲われ続けた。山はこのような不安感を抑えてくれるのではない。山の激しい自然の姿に、むしろ不安感が煽られることの方が多かった。しかし山は、それを超える力を見せてくれた。自然に負けじと立ち、一度雪崩やがけ崩れでその姿が破壊されても、山自体が消えることはなかった。次の年に訪れれば、前年に丸裸になった山肌でさえ、緑に覆われ、何事もなかったかのように多くの生き物と共に再生していた。山の夜は果てしなく孤独感を感じる。真っ暗闇の中で星を見ていると、木々のそよぐ音が話し声となって聞こえてくる。まさに彼ら生きている証を聞いたような気分になった。特別な次元で時が動いているという確信を持つことができた。私はその度に、星空の下の自分の存在の小ささを見せつけられ、世俗的な悩みに潰されそうになる自分を恥じた。この雄大な宇宙の下に自分が生まれ、生きているという事実に驚きを覚え、とにかくこの偶然と不思議に敬意を払って「全う」しなければならないという、ある種の使命感を感じた。おそらく生ききるとか、耐えきるとか、そうしたことを全うと感じたのだと思う。
こうした体験が重なるにつれ、私は山を時折求めるようになった。
今年、久しぶりに休暇に行かれるということになり、どこに焦点を当てようかと考え、迷うことなくアルプスへ行きたい、そう思った。
旅というのは私にとっては常に再訪である。新しい土地への関心がないわけではないが、大人になってからというもの、常に何かを上書きしたいかのように、どこかを再訪することを考えている。そしてアルプスは私がそうした力を得ることができた魔力のある土地として、心の中にしっかりと位置づけられていた。今年はアルプスを訪れ、自分の微小さを感じると同時に、その核に触れ、自分という存在の手ごたえを手にすれば、「全う」するのだという十分な意思が沸き起こり、それが小さな幸せの実感につながり、心の中を恐怖なく泳ぎ周ることができる自由を手にできると思っていた。
ところが、私は何の前触れもなく海に変更した。それも生まれてから訪れたことがある土地の中で最も南に位置する島だった。その島を訪れた背景は、説明することさえ躊躇したくなるような悲しいものだった。
一家の、そして私自身の精神をなんとか正常に保つには、初めて築いた家族を壊すことが唯一の解決策であると、数年苦しんだあげくに決心を下したその春が去った夏、私の築いた小さく脆い一家は、もう一度一つになってこの島を訪れたのだった。
なぜ、突如あの島に行きたいと思ったのかは説明できない。
その海の話は、また体力と気力がある時に書こうと思う。
2016年9月19日月曜日
2016年3月13日日曜日
ラディッシュと母
料理をしていると嫌でも母を思い出す。母の元気だった頃を。
昨日友人を招いたのでお酒を飲むにふさわしい軽食を色々と用意していた。
ラディッシュをスライスしていたら、新鮮な葉を捨てるのはもったいないなと思い至る。
いつものことなのだ。母がドイツに来たときは、日本ではあまり見かけないラディッシュ一束を好んで買い、その葉もきれいに刻んで美味しいサラダを作ってくれた。
ラディッシュの葉も食べられるのよと教えてくれたのは、もう10年以上も前の話である。
それ以来、ラディッシュを買うたびに、つまり少なくとも月に一回は、この野菜を切りながら母のことを思わずにはいられないのである。
葉を捨てるたびに、毎回胸が痛む。葉を捨てずにサラダにしても、やはり胸が痛むのである。
自分で築いてきた生活の中に、母の姿はあまりなかった。
外国に暮らしているため、母が生活の一部のように訪ねてくることもなかった。
そんな日常で、母の姿が野菜と共に、突如鮮明な記憶として蘇ってくる。いや押し寄せてくるのだった。それは、必ず苦く痛みを伴う記憶だった。
もしも、今も母が元気であったとしても、母が何千マイル以上も離れている限り、痛みや苦みが癒えることはないのだ。
離れている悲しみなのではない。そうではなくて、私を苦しめるのはそばにいないことの罪悪感である。それは母が老い、元気を失っていくのと共に年々深まって行く。そして
卑怯な私は、痛みが大きくなるにつれ、ますます電話をかけなくなった。母のためを思えば、一層頻繁に電話をして、私の話しではなく「声」を聞かせることのみを目的とすべきであるというのに、私は痛みを感じるのを無意識に避け、自分の日常に没頭しているふりをしている。
母親の老いとは、子供にとってこのように向き合いがたいことなのかと改めて驚いている。日本に残っていれば、私とて母子一体のまま、行ったり来たりを重ねて、本当の意味での自立を達成できなかったかもしれないと思う。
埋めようのない距離が二人の間をバッサリと割いていたからこそ、私は人生で決定的な分岐点に立った時に、母の顔を見ず、帰国せず、相談をしないという道を選択した。一人きりになって、何の雑音も意見も助言もない状況で、まるで真空の世界のように無音な状況で、自分のこの先を見定めたかった。それだけ大きな責任を負っているという意識があった。
あの時、日本に住んでいたら、無音の世界を作ることは決してできなかった。つまり本当の意味での自立を強行することはできなかった。それが日本の良さでもあるし、日本独特の母子の構造であるとも言える。
この自立を成し遂げたあと、私にとっての母は、守るべき存在に代わり、もう誰も守ってくれる人はいない、子供も母親も、私が守る番なのだということを痛く実感した。それが大人になったということだと思った。30を過ぎた頃だった。
この時点を超えてもう20年近く経つ今に至るまで、私は何一つ母に返せたという実感がない。幸せのニュースを告げることはできたが、母の与えてくれたことを思うと、それではとても足りない。
しかしそれが親というものなのだ。親からもらったものと同等のものを返すことはできない。そして自立した親ならば、そんなことは望んでいないのである。
しかし、それを納得したところで、痛みと苦みを消し去ることはできない。私は老いから逃げているのである。日常の平穏の裏に隠されている私自身の老いを「生きる」ことで、実は精いっぱいなのかもしれなかった。認めたくない自分の老いが時と共に迫り来るのを感じながら、親の老いを考える時、それは無意識の中で自分の将来の姿に重なり、触れずにいることでのみ、私自身の「老いへの日々」を何の痛みもなく突き進むことができるのかもしれない。
そして自分の勝手さを噛みしめながら、自分を少しは責め、そして親が「元気に老いる」ことを密かに望んでいる。
その自分の姿に触れるのが嫌だから、電話をかけなくなったのである。
以前のように母の意見が大切なものだとは思えなくなった「自分の大人の時代」が開始していらい、電話は報告になり、その後義務になり、そして触れたくないものになってしまった。
声を聴かせ合うことが思いやりの基本であるにもかかわらず、声しか交換できない者同士のコミュニケーションには、声から様々なことを聴きとる習慣が成り立っている。
平穏の裏に実はずっと流れ続けている現実を凝視できない。
どんなことにも真っ向から直面して、まるで挑むように乗り越えてきたと、そういう実感がある私でさえ、この現実は凝視しないと決めているようなのだった。
ラディッシュを切る時、私はいつもむな苦しくなる。時には涙さえ流れてくる。しかし解決はないのだった。生きるからには死が来る。そのどうあがきようもない自然の掟こそ、やっと日常が平穏になった私の身に、最も堪えることなのだと、今思い知った。半分というターニングポイントを過ぎた人間の背後には、死への葬送曲が聞こえるか聞こえないかのような、かすかな気配を見せるのである。それを感じ取ってしまったら、平穏というカモフラージュを駆使して、静かに最期を待つしかないと思い知るのだった。しかし親の老いを見ることで、その現実がふと前面に押し出される。それをまたすぐに押しやるために、私は日常を生きているのだった。そのために日常はあるのだと、それも今にして分かった。
子供達の瑞々しい人生を見ていると、心の奥から深い満足感が湧いてくる。それぞれの人生を生き抜く力を与えてやることができた。それ以上は何も望まない。
しかし、私自身はとうとう日常生活を「つき進むべき道」としてではなく、「現実への蓋」として使うようになっていたのだった。
そんな逃げ腰の生き方をとうの昔に通り越した自分の親のことを思えば、彼らは実に静寂に満ちており、私は何の罪悪感も恐怖感も抱く必要はないはずなのだった。
私は私自身の「自然の摂理」を恐れているだけであり、実にエゴに満ちた小心から来る理由で、自分の蓋をしっかりと閉めているだけの話なのだった。
ラディッシュを見るとどうしても買いたくなる。母のようにサラダを作りたくなる。しかし葉を捨てるか使うか迷う段階で、必ずどうしようもないジレンマにかられ、大抵は葉を捨て、そして一晩胸の痛みをさすって癒す。
そして母を思う。
子供も孫も育ち、身体が追い、精神がかすみ、きっと随分と寂しい思いをしているだろうなと。
昨日友人を招いたのでお酒を飲むにふさわしい軽食を色々と用意していた。
ラディッシュをスライスしていたら、新鮮な葉を捨てるのはもったいないなと思い至る。
いつものことなのだ。母がドイツに来たときは、日本ではあまり見かけないラディッシュ一束を好んで買い、その葉もきれいに刻んで美味しいサラダを作ってくれた。
ラディッシュの葉も食べられるのよと教えてくれたのは、もう10年以上も前の話である。
それ以来、ラディッシュを買うたびに、つまり少なくとも月に一回は、この野菜を切りながら母のことを思わずにはいられないのである。
葉を捨てるたびに、毎回胸が痛む。葉を捨てずにサラダにしても、やはり胸が痛むのである。
自分で築いてきた生活の中に、母の姿はあまりなかった。
外国に暮らしているため、母が生活の一部のように訪ねてくることもなかった。
そんな日常で、母の姿が野菜と共に、突如鮮明な記憶として蘇ってくる。いや押し寄せてくるのだった。それは、必ず苦く痛みを伴う記憶だった。
もしも、今も母が元気であったとしても、母が何千マイル以上も離れている限り、痛みや苦みが癒えることはないのだ。
離れている悲しみなのではない。そうではなくて、私を苦しめるのはそばにいないことの罪悪感である。それは母が老い、元気を失っていくのと共に年々深まって行く。そして
卑怯な私は、痛みが大きくなるにつれ、ますます電話をかけなくなった。母のためを思えば、一層頻繁に電話をして、私の話しではなく「声」を聞かせることのみを目的とすべきであるというのに、私は痛みを感じるのを無意識に避け、自分の日常に没頭しているふりをしている。
母親の老いとは、子供にとってこのように向き合いがたいことなのかと改めて驚いている。日本に残っていれば、私とて母子一体のまま、行ったり来たりを重ねて、本当の意味での自立を達成できなかったかもしれないと思う。
埋めようのない距離が二人の間をバッサリと割いていたからこそ、私は人生で決定的な分岐点に立った時に、母の顔を見ず、帰国せず、相談をしないという道を選択した。一人きりになって、何の雑音も意見も助言もない状況で、まるで真空の世界のように無音な状況で、自分のこの先を見定めたかった。それだけ大きな責任を負っているという意識があった。
あの時、日本に住んでいたら、無音の世界を作ることは決してできなかった。つまり本当の意味での自立を強行することはできなかった。それが日本の良さでもあるし、日本独特の母子の構造であるとも言える。
この自立を成し遂げたあと、私にとっての母は、守るべき存在に代わり、もう誰も守ってくれる人はいない、子供も母親も、私が守る番なのだということを痛く実感した。それが大人になったということだと思った。30を過ぎた頃だった。
この時点を超えてもう20年近く経つ今に至るまで、私は何一つ母に返せたという実感がない。幸せのニュースを告げることはできたが、母の与えてくれたことを思うと、それではとても足りない。
しかしそれが親というものなのだ。親からもらったものと同等のものを返すことはできない。そして自立した親ならば、そんなことは望んでいないのである。
しかし、それを納得したところで、痛みと苦みを消し去ることはできない。私は老いから逃げているのである。日常の平穏の裏に隠されている私自身の老いを「生きる」ことで、実は精いっぱいなのかもしれなかった。認めたくない自分の老いが時と共に迫り来るのを感じながら、親の老いを考える時、それは無意識の中で自分の将来の姿に重なり、触れずにいることでのみ、私自身の「老いへの日々」を何の痛みもなく突き進むことができるのかもしれない。
そして自分の勝手さを噛みしめながら、自分を少しは責め、そして親が「元気に老いる」ことを密かに望んでいる。
その自分の姿に触れるのが嫌だから、電話をかけなくなったのである。
以前のように母の意見が大切なものだとは思えなくなった「自分の大人の時代」が開始していらい、電話は報告になり、その後義務になり、そして触れたくないものになってしまった。
声を聴かせ合うことが思いやりの基本であるにもかかわらず、声しか交換できない者同士のコミュニケーションには、声から様々なことを聴きとる習慣が成り立っている。
平穏の裏に実はずっと流れ続けている現実を凝視できない。
どんなことにも真っ向から直面して、まるで挑むように乗り越えてきたと、そういう実感がある私でさえ、この現実は凝視しないと決めているようなのだった。
ラディッシュを切る時、私はいつもむな苦しくなる。時には涙さえ流れてくる。しかし解決はないのだった。生きるからには死が来る。そのどうあがきようもない自然の掟こそ、やっと日常が平穏になった私の身に、最も堪えることなのだと、今思い知った。半分というターニングポイントを過ぎた人間の背後には、死への葬送曲が聞こえるか聞こえないかのような、かすかな気配を見せるのである。それを感じ取ってしまったら、平穏というカモフラージュを駆使して、静かに最期を待つしかないと思い知るのだった。しかし親の老いを見ることで、その現実がふと前面に押し出される。それをまたすぐに押しやるために、私は日常を生きているのだった。そのために日常はあるのだと、それも今にして分かった。
子供達の瑞々しい人生を見ていると、心の奥から深い満足感が湧いてくる。それぞれの人生を生き抜く力を与えてやることができた。それ以上は何も望まない。
しかし、私自身はとうとう日常生活を「つき進むべき道」としてではなく、「現実への蓋」として使うようになっていたのだった。
そんな逃げ腰の生き方をとうの昔に通り越した自分の親のことを思えば、彼らは実に静寂に満ちており、私は何の罪悪感も恐怖感も抱く必要はないはずなのだった。
私は私自身の「自然の摂理」を恐れているだけであり、実にエゴに満ちた小心から来る理由で、自分の蓋をしっかりと閉めているだけの話なのだった。
ラディッシュを見るとどうしても買いたくなる。母のようにサラダを作りたくなる。しかし葉を捨てるか使うか迷う段階で、必ずどうしようもないジレンマにかられ、大抵は葉を捨て、そして一晩胸の痛みをさすって癒す。
そして母を思う。
子供も孫も育ち、身体が追い、精神がかすみ、きっと随分と寂しい思いをしているだろうなと。
2015年10月12日月曜日
星空
眠れないほど心の中が乱れたのはもう何か月ぶりだった。
自分でも理解できないような穴にはまり込んで、理性が働いているにもかかわらず、病的なループのように状況を悪化させるばかりのことを話していたような気がする。
余りにも眠れなくて階上へ行き、ソファの上に寝転がった。二枚毛布を重ねて猫のように丸くなり、秋の澄とおるような星空を見上げた。
いくつもの星がはっきりと空に浮かんで見え、そのいくつもが光を揺らめかせながら瞬いていた。
一瞬にして想像を超えるほど遠い宇宙に心を馳せた。秋風が吹き抜けるような寒さを感じた。
辛い時は必ず寒気を覚える。それは18歳のころからずっと同じだった。
星の輝きを飽きずにずっと見つめながら、過去何十年もずっと変わらない自分が、まるで10代の頃の未熟さのままそこに座っているような錯覚を覚えた。意識は10代の頃と変わっていなかった。ものの見方も人間への期待も、大して変化はないことに唖然とした。幾分落ち着いて、色々なことを平然と受け止めることができるようになったけれど、何かをお腹の底から話そうと思えば、悲しくもないのに、自分の感情に押しつぶされそうになり、涙をこらえることができないのも、全くあの頃と変わっていなかった。
星の光が届いたのは今晩だけれど、この星が一体今も輝いているのかは謎だった。それほど星というのは遠いところに存在している。
時空を超える遠いところに今現在の光を失った私がいて、今私の心だけが、時間差でこの星の光を浴びながら再び10代の頃のように輝いているのだろうかと、不思議な考えに陥った。肉体は輝きを失ったけれど、あの頃の心はところどころ光を放ちながら、全く変貌を遂げずに存在しているような気がしていた。
幾ら学んでも、肌を分厚くしても、理由を理解しても、私の頑なさや脆さや激しさは一切変わることはないのだった。そんなことをこの年になって真夜中に実感し、やはり少し落ち込む。こんな自分自身と死ぬまで付き合っていくのも本当に大変だ。
___________
断絶は始まる前から見えていた。言い換えれば断絶のない人間関係はない。100%の理解は不可能なのだから、至る所に小さな断絶が見え隠れしているものだ。大切なひとでなければ、その距離感こそ健全な関係の基本であるが、大切な人との断絶は一体どこまでが健全で、どこからが欠乏なのか私には未だにわからないのだった。
とにかく私は辛くなると断絶を生じさせる。辛いから人を求めることは今まで一度もなかった。辛くなると決まって周囲を遮断した。自分の存在の底辺から知らない間に、また起き上がり、また笑う力が出てくるのを一人きりでずっと待っている、きっとそういう行為なのだ。
久しぶりに徹夜に似た夜中を過ごし、今日は一日中疲労感で一歩も歩けないほどである。ここでまた、肉体の衰えを感じる。肉体はごまかすことができない。考えてみれば、幾つになってもこんな未熟な心を抱えながら、それでも身体は衰えていくのだから、人間は実に滑稽な生き物だなと思う。個人の成長を自発的に求めて、毎日少しでもましな人間になるべく、随分頑張ってきたと自分ではそう言う実感がある。しかし、本当に個人的に成長できたのかどうか、その辺はまったく判断できない。あの苦しかった何年も乗り越えてきたことで、自分は強靭になり、打たれ強くなり、決してクラッシュしない精神力を鍛え上げた、それが唯一はっきりと公言できることである。しかし私は思考や物の見方や対人で、少しでも大人のようになれたのかどうか、そこは全くと言ってよいほど自信がないのだった。
_____________
しかし、熱く煮え切らない人間が嫌いなのは言うまでもない。決断できずにそのままさらりと生きている人間も、人に決断させる人間も、どちらの態度も許容できない。毎日がまるでサバイバルのように感じてしまう私には、同じようにサバイバル感覚で生き抜こうと日々激しい闘いを繰り広げている人が合っているのだろうか。思えば最初の夫は、実に私にぴったりの人間だった。しかし絶対に相いれないエネルギー同士の撥ねつけ力が強すぎ、二人は消耗し切ってしまった。
あの生きているという実感。あの隙のない全力投球の時間は、別れた後も続き、子育てが長引くとともにさらにそのインテンシブさを増した。
今は、全く違う。「年相応」の生き方を身に付けたことは確かだろう。しかし子育ての難しさからも解放されてしまった私は、毎日のように欠乏感に苦しみ、からからに乾き切った喉が焼き付いてしまいそうなのを感じながら、未だに一人で溺れかかっている。そこに岸はあり、そこに植物が育ち、そこに果物も暖かな空気もあるというのに、私は未だに好んで激しい波の中へともぐりこんでは溺れ槽になることを選択している。頭では理解できない生き方である。人を巻き込む危険のある今、私は自らまた断絶を深く掘り続けてしまうのだろうか。
断絶が、自己防護であると同時に他者の防護でもあるのだろうか。
なぜ、断絶を埋めるために土を盛れないのだろうか。
それはおそらく、土を盛り続けたのにまったく穴が埋まることがなかったからなのだ。トラウマのように、私は土を埋めずに、溝を掘り続け距離を広げ、ゆっくりと離れていくことを好む。埋められない断絶を知るより、自分がもっと断絶を深めてしまった方がよほど楽なのだ。
これは一体強い心なのか、それとも社会に順応できないほど弱い心なのか、それすらわからずにいる。
_______________
星は今夜も瞬きそうである。すっかり冬らしいキリキリとした空気になってしまった。私は月末に遠いところに逃げようかと計画を立てている。しかも大切な人なしで、何の予告もなく。この冷たさで人を傷つけるのは本当に良くない癖である。しかしいつまでも機能するばかりの生き方にもうこれ以上耐えられないという自分もまた別に存在しているのも事実である。
どうなるのだろうか。
自分でも理解できないような穴にはまり込んで、理性が働いているにもかかわらず、病的なループのように状況を悪化させるばかりのことを話していたような気がする。
余りにも眠れなくて階上へ行き、ソファの上に寝転がった。二枚毛布を重ねて猫のように丸くなり、秋の澄とおるような星空を見上げた。
いくつもの星がはっきりと空に浮かんで見え、そのいくつもが光を揺らめかせながら瞬いていた。
一瞬にして想像を超えるほど遠い宇宙に心を馳せた。秋風が吹き抜けるような寒さを感じた。
辛い時は必ず寒気を覚える。それは18歳のころからずっと同じだった。
星の輝きを飽きずにずっと見つめながら、過去何十年もずっと変わらない自分が、まるで10代の頃の未熟さのままそこに座っているような錯覚を覚えた。意識は10代の頃と変わっていなかった。ものの見方も人間への期待も、大して変化はないことに唖然とした。幾分落ち着いて、色々なことを平然と受け止めることができるようになったけれど、何かをお腹の底から話そうと思えば、悲しくもないのに、自分の感情に押しつぶされそうになり、涙をこらえることができないのも、全くあの頃と変わっていなかった。
星の光が届いたのは今晩だけれど、この星が一体今も輝いているのかは謎だった。それほど星というのは遠いところに存在している。
時空を超える遠いところに今現在の光を失った私がいて、今私の心だけが、時間差でこの星の光を浴びながら再び10代の頃のように輝いているのだろうかと、不思議な考えに陥った。肉体は輝きを失ったけれど、あの頃の心はところどころ光を放ちながら、全く変貌を遂げずに存在しているような気がしていた。
幾ら学んでも、肌を分厚くしても、理由を理解しても、私の頑なさや脆さや激しさは一切変わることはないのだった。そんなことをこの年になって真夜中に実感し、やはり少し落ち込む。こんな自分自身と死ぬまで付き合っていくのも本当に大変だ。
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断絶は始まる前から見えていた。言い換えれば断絶のない人間関係はない。100%の理解は不可能なのだから、至る所に小さな断絶が見え隠れしているものだ。大切なひとでなければ、その距離感こそ健全な関係の基本であるが、大切な人との断絶は一体どこまでが健全で、どこからが欠乏なのか私には未だにわからないのだった。
とにかく私は辛くなると断絶を生じさせる。辛いから人を求めることは今まで一度もなかった。辛くなると決まって周囲を遮断した。自分の存在の底辺から知らない間に、また起き上がり、また笑う力が出てくるのを一人きりでずっと待っている、きっとそういう行為なのだ。
久しぶりに徹夜に似た夜中を過ごし、今日は一日中疲労感で一歩も歩けないほどである。ここでまた、肉体の衰えを感じる。肉体はごまかすことができない。考えてみれば、幾つになってもこんな未熟な心を抱えながら、それでも身体は衰えていくのだから、人間は実に滑稽な生き物だなと思う。個人の成長を自発的に求めて、毎日少しでもましな人間になるべく、随分頑張ってきたと自分ではそう言う実感がある。しかし、本当に個人的に成長できたのかどうか、その辺はまったく判断できない。あの苦しかった何年も乗り越えてきたことで、自分は強靭になり、打たれ強くなり、決してクラッシュしない精神力を鍛え上げた、それが唯一はっきりと公言できることである。しかし私は思考や物の見方や対人で、少しでも大人のようになれたのかどうか、そこは全くと言ってよいほど自信がないのだった。
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しかし、熱く煮え切らない人間が嫌いなのは言うまでもない。決断できずにそのままさらりと生きている人間も、人に決断させる人間も、どちらの態度も許容できない。毎日がまるでサバイバルのように感じてしまう私には、同じようにサバイバル感覚で生き抜こうと日々激しい闘いを繰り広げている人が合っているのだろうか。思えば最初の夫は、実に私にぴったりの人間だった。しかし絶対に相いれないエネルギー同士の撥ねつけ力が強すぎ、二人は消耗し切ってしまった。
あの生きているという実感。あの隙のない全力投球の時間は、別れた後も続き、子育てが長引くとともにさらにそのインテンシブさを増した。
今は、全く違う。「年相応」の生き方を身に付けたことは確かだろう。しかし子育ての難しさからも解放されてしまった私は、毎日のように欠乏感に苦しみ、からからに乾き切った喉が焼き付いてしまいそうなのを感じながら、未だに一人で溺れかかっている。そこに岸はあり、そこに植物が育ち、そこに果物も暖かな空気もあるというのに、私は未だに好んで激しい波の中へともぐりこんでは溺れ槽になることを選択している。頭では理解できない生き方である。人を巻き込む危険のある今、私は自らまた断絶を深く掘り続けてしまうのだろうか。
断絶が、自己防護であると同時に他者の防護でもあるのだろうか。
なぜ、断絶を埋めるために土を盛れないのだろうか。
それはおそらく、土を盛り続けたのにまったく穴が埋まることがなかったからなのだ。トラウマのように、私は土を埋めずに、溝を掘り続け距離を広げ、ゆっくりと離れていくことを好む。埋められない断絶を知るより、自分がもっと断絶を深めてしまった方がよほど楽なのだ。
これは一体強い心なのか、それとも社会に順応できないほど弱い心なのか、それすらわからずにいる。
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星は今夜も瞬きそうである。すっかり冬らしいキリキリとした空気になってしまった。私は月末に遠いところに逃げようかと計画を立てている。しかも大切な人なしで、何の予告もなく。この冷たさで人を傷つけるのは本当に良くない癖である。しかしいつまでも機能するばかりの生き方にもうこれ以上耐えられないという自分もまた別に存在しているのも事実である。
どうなるのだろうか。
2015年10月6日火曜日
娘の最終章
思えば娘のことばかりを考えてきた。親として彼女のために何かを考えてやったことは殆どない。そうではなくて、如何にすれば私自身が彼女から逃れられるのか、そう考え続けてきたのだ。娘のことを思い浮かべると、どうしようもない良心の呵責に身の縮む思いをしてきた。酷い親だったのだ。しかし酷い親なりに、苦しみ抜いて常に格闘してきた。子供と格闘するなど、一体どんな親なのだろうと人は思うに違いない。しかし実際、私自身が病み、彼女の父親に追い込まれたように、自らを病人とでも思わなければ、とても尋常な精神を保っていられなかった。本気で苦しみ、本気で自分を責め、本気で娘に立ち向かい、本気の感情を娘にぶつけてきた。おそらく、本気の感情をぶつけるという最後の部分に関しては、親としておそらく決して見せてはいけない態度であったのかもしれない。
それでも、娘が私を見捨てることはなかった。
今思いなおしても、未だに一体どのような関係なのか理解できない。娘の父親と自分との長年の関係性においては、最初からはっきりとしたパターンが生まれ、その関係をいくら変えようと思っても、底なし沼のように深みに引きずり込まれるばかりで、全く解決への糸口が見つからなかった。やがて私は毎日のように頻脈に悩まされ、閉所に入れば突然嗚咽に襲われ、何かを注意されれば泣き叫んで謝罪するという、まさに病気としか
説明のしようがない状態に陥った。
何かを境目に、身近に存在する人間によって自らが系統的に崩壊に導かれていることを悟り、自己防衛から自己確立へと足掻き始めてから、「別れ」という解決しかないのだということが、うっすらと見えてきた。
このまさに記憶として失われた10年の歳月に体験したパターンの種は、娘の生まれた頃から着々と彼女と私の間に撒かれていたのだった。
娘はその父親に瓜二つであると確信した私に育てられた彼女は不幸だったのである。
それを察してか、あるいは生まれつきなのか、物心の付いた彼女は私にさえ警戒心を見せ、抱締めても、さすっても、何をしても慰め様がなく、ただただ身体を硬直して、抱きしめられることを拒絶していたのだ。このような彼女の態度が私の親としての自信をさらに小さくしたことは間違えない。
しかし今、私は心の底から、誰よりも彼女を深く愛していたのだと思っている。そうでなければやはり説明が付かない気持ちが心の奥深くから湧き出してくるのだ。
私が彼女の父親を愛さなかった日は一日たりとなかった。彼女の父親を心の底から憎いと思った年月も短くはなかった。それでも私が身を投げてまで関係を修復しようと必死に自分を殺してきたのは、それよりももっと奥深くから、彼自身の肉体を剥いだ中にある、その魂のような部分を愛していたからとしか言いようがない。そう言う意味で、私は心の底から嫌った日にも、やはり自らの気づかない次元で、彼へエネルギーを投入してきたのだった。
エネルギーを投入するということは、祈りと同じことである。欲や言い訳から切り離された祈りは、純粋な愛を求めている姿である。そう思えば、私はずっと彼を愛してきたのだった。
同じように、色々な意味で紙一重の関係しか持てなかった私と娘は、それでも常に互いを見つめ合ってエネルギーを投入し続けてきた。その大半の年月は火花が飛び散り、私は娘を壊し、私自身も娘の絶え間なく激しく責め立てるエネルギーにひどく壊された。
彼女の責めは、しかし病ではなかったのだ。そして私に計り知れない落ち度や悪があったわけでもない。長年私たちの不安定極まりない、そしてドラマの耐えない苦しく嘆かわしい家庭生活の真ん中で、まるでものを言わぬぬいぐるみのように存在していた長女の娘は、他の誰よりも過敏な感受性を持て生まれてしまった。何年間も口を利かず、2年間帽子をかぶったまま過ごし、小学校に入っても私の手を離すことができなかった彼女の無言の心の中にたまった叫びであったといえば、今の私には納得がゆく。募り積もったどこにもはけ口を見いだせなかった10年分の心の錆が、思春期という恐るべき正体を暴き、姿を晒す現象によって、ついにはけ口を見つけ、そして彼女は私が暗黒の5年間と名付けたあの思春期に、すべてを口から火を吐くように噴出したのである。
娘の姿は小さな子犬のように愛おしかった。
彼女の下着や靴下を見るだけで、涙があふれてくる、そんな寂しい背中を持つ子供だった。
バイオリンの稽古にも通えず、ずっと私の洋服の裾を引っ張っていた。初めての発表会で、彼女は舞台で突如泣き出してしまった。これはすべて彼女が弱いからではない。彼女を取り囲む環境が、人間ドラマの中でも最も悲劇と言えるシナリオを演じていたのである。そして彼女の両親である私たちは、目を見るだけでその瞳の奥のすべての言葉を理解しあってしまうような、言葉で取り繕うことは絶対にできない生々しい、皮膚を持たないような関係にあった。その両親の間に挟まっていた彼女の感受性が、「普通の生活」を送れるような肌の厚みを持っていなかったということを察するのはそれほど難しいことではないのかもしれない。
実際に思春期がどうであったか、まるで彼女の父親との結婚生活のように、その記憶はほぼ抜け落ちている。しかし、本能的に私は2度目の夫に別れを告げ、来るべきものに備えるかのように、子供達と私だけの環境を整えた。うろ覚えの記憶を引きずり出して考えてみれば、覚悟を決めたのだった。意味のない面倒ばかり持ち込んでくる子供とは関係のない男をきれいさっぱりと整理し、私が実はないがしろにしてきた子供達に全面的に向き合う覚悟を。
おそらく第一の夫との離婚後、支えてもらわねば私は前進できなかったのかもしれない。悪夢にうなされなくなるまで、およそ一年かかった。子供も私も病気ばかりした。何も思い出せない。
第二の夫は、文字通り私に笑顔を取り戻させてくれ、新しく生きる場所を提供してくれたのかもしれない。ターニングポイントの鍵のような人だったのだ。それだけの象徴を持っていても、生活には縁のない人だった。
子供達と私だけの家庭は温かかった。最初の一年は、希望に満ちていた。しかしやがて才能教育補助まで受けていた娘がバイオリンを勝手にさぼり、オーケストラを止め、学校に行かれなくなり、一年間日中はベッドで過ごすまでになった。私は本を読み漁り、ものを書いて理解しようと努めたが、足元の全く見えていない愚かな親のごとく、役所や病院を毎日のように駆けずり回った。そして狂ったように仕事に逃げた。
その頃からの5年間、私と娘は暗黒の時を過ごした。長男も末っ子も私と彼女の日常的な確執に、決して消すことのできない傷を受けてしまった。娘を愛せない自分を責め、他の兄弟たちに姉は病気だと言い聞かせ、それを娘には隠した。長男は優越な立場に立ち、自分の思春期とも合わさって娘の心をひどく傷つけた。暴力沙汰になるほんの一歩手前だったのだ。色々な部分が紙一重だった。
_________________
娘はしかし天使のように優しい。それは悪魔の裏面ではないかと疑いたくなるほど、純粋に優しい子だった。誕生日には必ず何日も前から何かを手作りして、丁寧な手紙を添えて私に贈ってくれた。おこずかいをやり忘れる酷い親だった私のせいで、時に道端に捨ててあったものなどを拾って、それに手を加えて物入れや花瓶などにして贈ってくれた。添えられるカードも手が込んでおり、刺しゅうや美しいイラストが描いてあった。書いてある文章は「ママ大好き」という内容に尽きた。
娘は今でも私に必ずプレゼントをくれる。一流の菓子店のケーキや、仕事が忙しいとリラックスして欲しいという思いで入浴剤をくれることもあった。最近はあのブレスレットが気に入ってると話したら、バイト代をはたいて、それを贈ってくれた。無論肌身離さずに身に付けている。
このような贈り物は、儀式だといえばそれでおしまいだが、贈り物を考えたり、買に行く行為は愛情がなければなかなかできないことである。娘は年に二回、誕生日とクリスマスに贈り物を欠かしたことがない。お金が一銭もなくても、色々なものを工作してくれたのだった。
その愛情はまさに人に対するエネルギーに置き換えられるものである。彼女は愛する人に惜しみなくエネルギーを注ぎ続けている。
傷つけられた長男に対しては恐れをいだきながらも、それでもまだ彼女は彼を愛する試みを怠っていない。これは私は親としても彼女に敵わない点であり、非常に尊敬している。彼女の筋の通った愛に対する能力は、私の比ではない。だからこそ、彼女は音楽に対しても、私の数十倍のエネルギーつまり愛情を費やしているのである。これは父親にあやかった素晴らしい才能であろう。
やがて娘が家を出ていった。私は心底ほっとし、心から応援してやった。しかしお金を援助してやるほどの愛情はなかったのかもしれない。自分で稼いで世の中に打たれてほしかった。そして右も左も区別できなかった彼女は、立派に仕事をこなし、ものの一年で立派に自立したのである。その頃から、娘の関係が激変し、私たちは深い次元で最も近しい存在であり、ほとんどの物事に対して、殆ど同じ考えを抱き、出来事を殆ど同じ感覚で受け止めているという確信を一瞬にして感じ合うことができるようになった。その近しさには信じがたいものがあった。
父親と瓜二つ、だから父親に対する関係と同じパターンしか築けないと勝手に知ったような顔をしていた私は、彼女が自分に瓜二つであることを知り、衝撃を受け、自分を激しく恥じた。
_________________
娘を送って行った朝、私の脱力感は尋常ではなかった。
たった2時間で飛んで行かれる街である。しかし彼女はもう「直ぐそこ」に住んでいるわけではないのだった。その事実が私を打ちのめした。コーヒーを飲みに行ったこともなく、二人で出かけることもなかった。それだけ接近すれば、また元の木阿弥であることを互いに無言のうちに承知していたのだ。
しかし彼女は一週間に一度は私たちを訪ねてきた。そうすればご飯を食べさせてやりたくなり、お金もあげたくなった。お茶も入れてあげたし、洗濯もしてあげた。驚くことに随分話をするようになった。そして私は彼女の人生の発展に心を弾ませていたのだ。まるで、自分自身が二十歳だった頃を目の前に走馬灯のように見ているようだった。
ああ、私は再体験しているのだ。ああ、こうして魂が再び生き返るのだと実感するにつれ、彼女という存在に心から感謝するようになった。子育ての苦労など、決して嘆いてはいけない。恥を忍んで言えば、今更、私は今更になって、そういうことが理解できるのだった。子供は必ず少なくとも相応のものを返してくれるのだ。私の場合は、与えたもの以上を娘からもらっていると思って神に感謝している。
娘の教えてくれた音楽、娘にもらった香水やアクセサリなど、影響を受けているのは私の方で、彼女こそ、人生の真っただ中にいるのだと思い知らされた。そしてどこからともなく、確信が湧いてきた。あの子はやり遂げる。やり遂げないわけがない。あの子のような特別な感受性と、特別なエネルギー、そして天使のようにフェアで純粋な心を持った人間がやり遂げないわけがなかった。しかしそれだけではない。彼女には人を撥ねつけるような強さも備わっている。人を押しのけてものし上がっていくような図太さも持っている。それほどアンバランスな彼女は、やはり簡単な人間ではないが、私のように揺れ動いて時間を無駄にすることはないだろう。彼女は20歳にして、すでに私のあの頃よりもはるかに安定しているのだ。
たった一日でも、彼女が行ってしまった事実を目にし、私は身体に大きな疲労感を感じた。脱力したのだ。心のどこかからエネルギーを吸い取られてしまったかのように。彼女から逃れることこそ、私の長年の夢だったはずなのに、彼女が去った後、脱力したのは私なのだった。
子育てに余裕がなかったのがいけなかったのかもしれない。私だってやれるだけのことはやったという実感はある。自分だって倒れる寸前だったのだ。今度私が手術するのだって、あれだけのストレスを何年も抱えて、何も影響を残さないはずがないと考えたことが、命中したのではないかとさえ思える。
それでも、親として全く至らなかった私の子供たちが、一人前に育ってゆく姿を「見送る」のは辛い。十分に家庭らしいことをしてやれなかったという罪悪感に加え、それでも育っていく彼らを見て、自分という存在の無力さもまざまざと突きつけられる。
来年は長男がこの地を去る。
末子が大学生になる頃、私はもう口を閉ざし、親らしい口をきくことは控えるべきなのだろうと思う。「親」は子供の安全圏を確保するために子供を「監視」する権利はあっても、「デカい顔」をする権利などどこにもないのだ。子供の伸びていく力の方がよほど強く健全である。独自に成長しようとする力を親がへし折るからいけないのだ。そう言う意味で、何もしてやれなかったけれど、子供をへし折るほどの力もない私は、まだましだったのかもしれない。
娘の成功を心より祈っている。
それでも、娘が私を見捨てることはなかった。
今思いなおしても、未だに一体どのような関係なのか理解できない。娘の父親と自分との長年の関係性においては、最初からはっきりとしたパターンが生まれ、その関係をいくら変えようと思っても、底なし沼のように深みに引きずり込まれるばかりで、全く解決への糸口が見つからなかった。やがて私は毎日のように頻脈に悩まされ、閉所に入れば突然嗚咽に襲われ、何かを注意されれば泣き叫んで謝罪するという、まさに病気としか
説明のしようがない状態に陥った。
何かを境目に、身近に存在する人間によって自らが系統的に崩壊に導かれていることを悟り、自己防衛から自己確立へと足掻き始めてから、「別れ」という解決しかないのだということが、うっすらと見えてきた。
このまさに記憶として失われた10年の歳月に体験したパターンの種は、娘の生まれた頃から着々と彼女と私の間に撒かれていたのだった。
娘はその父親に瓜二つであると確信した私に育てられた彼女は不幸だったのである。
それを察してか、あるいは生まれつきなのか、物心の付いた彼女は私にさえ警戒心を見せ、抱締めても、さすっても、何をしても慰め様がなく、ただただ身体を硬直して、抱きしめられることを拒絶していたのだ。このような彼女の態度が私の親としての自信をさらに小さくしたことは間違えない。
しかし今、私は心の底から、誰よりも彼女を深く愛していたのだと思っている。そうでなければやはり説明が付かない気持ちが心の奥深くから湧き出してくるのだ。
私が彼女の父親を愛さなかった日は一日たりとなかった。彼女の父親を心の底から憎いと思った年月も短くはなかった。それでも私が身を投げてまで関係を修復しようと必死に自分を殺してきたのは、それよりももっと奥深くから、彼自身の肉体を剥いだ中にある、その魂のような部分を愛していたからとしか言いようがない。そう言う意味で、私は心の底から嫌った日にも、やはり自らの気づかない次元で、彼へエネルギーを投入してきたのだった。
エネルギーを投入するということは、祈りと同じことである。欲や言い訳から切り離された祈りは、純粋な愛を求めている姿である。そう思えば、私はずっと彼を愛してきたのだった。
同じように、色々な意味で紙一重の関係しか持てなかった私と娘は、それでも常に互いを見つめ合ってエネルギーを投入し続けてきた。その大半の年月は火花が飛び散り、私は娘を壊し、私自身も娘の絶え間なく激しく責め立てるエネルギーにひどく壊された。
彼女の責めは、しかし病ではなかったのだ。そして私に計り知れない落ち度や悪があったわけでもない。長年私たちの不安定極まりない、そしてドラマの耐えない苦しく嘆かわしい家庭生活の真ん中で、まるでものを言わぬぬいぐるみのように存在していた長女の娘は、他の誰よりも過敏な感受性を持て生まれてしまった。何年間も口を利かず、2年間帽子をかぶったまま過ごし、小学校に入っても私の手を離すことができなかった彼女の無言の心の中にたまった叫びであったといえば、今の私には納得がゆく。募り積もったどこにもはけ口を見いだせなかった10年分の心の錆が、思春期という恐るべき正体を暴き、姿を晒す現象によって、ついにはけ口を見つけ、そして彼女は私が暗黒の5年間と名付けたあの思春期に、すべてを口から火を吐くように噴出したのである。
娘の姿は小さな子犬のように愛おしかった。
彼女の下着や靴下を見るだけで、涙があふれてくる、そんな寂しい背中を持つ子供だった。
バイオリンの稽古にも通えず、ずっと私の洋服の裾を引っ張っていた。初めての発表会で、彼女は舞台で突如泣き出してしまった。これはすべて彼女が弱いからではない。彼女を取り囲む環境が、人間ドラマの中でも最も悲劇と言えるシナリオを演じていたのである。そして彼女の両親である私たちは、目を見るだけでその瞳の奥のすべての言葉を理解しあってしまうような、言葉で取り繕うことは絶対にできない生々しい、皮膚を持たないような関係にあった。その両親の間に挟まっていた彼女の感受性が、「普通の生活」を送れるような肌の厚みを持っていなかったということを察するのはそれほど難しいことではないのかもしれない。
実際に思春期がどうであったか、まるで彼女の父親との結婚生活のように、その記憶はほぼ抜け落ちている。しかし、本能的に私は2度目の夫に別れを告げ、来るべきものに備えるかのように、子供達と私だけの環境を整えた。うろ覚えの記憶を引きずり出して考えてみれば、覚悟を決めたのだった。意味のない面倒ばかり持ち込んでくる子供とは関係のない男をきれいさっぱりと整理し、私が実はないがしろにしてきた子供達に全面的に向き合う覚悟を。
おそらく第一の夫との離婚後、支えてもらわねば私は前進できなかったのかもしれない。悪夢にうなされなくなるまで、およそ一年かかった。子供も私も病気ばかりした。何も思い出せない。
第二の夫は、文字通り私に笑顔を取り戻させてくれ、新しく生きる場所を提供してくれたのかもしれない。ターニングポイントの鍵のような人だったのだ。それだけの象徴を持っていても、生活には縁のない人だった。
子供達と私だけの家庭は温かかった。最初の一年は、希望に満ちていた。しかしやがて才能教育補助まで受けていた娘がバイオリンを勝手にさぼり、オーケストラを止め、学校に行かれなくなり、一年間日中はベッドで過ごすまでになった。私は本を読み漁り、ものを書いて理解しようと努めたが、足元の全く見えていない愚かな親のごとく、役所や病院を毎日のように駆けずり回った。そして狂ったように仕事に逃げた。
その頃からの5年間、私と娘は暗黒の時を過ごした。長男も末っ子も私と彼女の日常的な確執に、決して消すことのできない傷を受けてしまった。娘を愛せない自分を責め、他の兄弟たちに姉は病気だと言い聞かせ、それを娘には隠した。長男は優越な立場に立ち、自分の思春期とも合わさって娘の心をひどく傷つけた。暴力沙汰になるほんの一歩手前だったのだ。色々な部分が紙一重だった。
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娘はしかし天使のように優しい。それは悪魔の裏面ではないかと疑いたくなるほど、純粋に優しい子だった。誕生日には必ず何日も前から何かを手作りして、丁寧な手紙を添えて私に贈ってくれた。おこずかいをやり忘れる酷い親だった私のせいで、時に道端に捨ててあったものなどを拾って、それに手を加えて物入れや花瓶などにして贈ってくれた。添えられるカードも手が込んでおり、刺しゅうや美しいイラストが描いてあった。書いてある文章は「ママ大好き」という内容に尽きた。
娘は今でも私に必ずプレゼントをくれる。一流の菓子店のケーキや、仕事が忙しいとリラックスして欲しいという思いで入浴剤をくれることもあった。最近はあのブレスレットが気に入ってると話したら、バイト代をはたいて、それを贈ってくれた。無論肌身離さずに身に付けている。
このような贈り物は、儀式だといえばそれでおしまいだが、贈り物を考えたり、買に行く行為は愛情がなければなかなかできないことである。娘は年に二回、誕生日とクリスマスに贈り物を欠かしたことがない。お金が一銭もなくても、色々なものを工作してくれたのだった。
その愛情はまさに人に対するエネルギーに置き換えられるものである。彼女は愛する人に惜しみなくエネルギーを注ぎ続けている。
傷つけられた長男に対しては恐れをいだきながらも、それでもまだ彼女は彼を愛する試みを怠っていない。これは私は親としても彼女に敵わない点であり、非常に尊敬している。彼女の筋の通った愛に対する能力は、私の比ではない。だからこそ、彼女は音楽に対しても、私の数十倍のエネルギーつまり愛情を費やしているのである。これは父親にあやかった素晴らしい才能であろう。
やがて娘が家を出ていった。私は心底ほっとし、心から応援してやった。しかしお金を援助してやるほどの愛情はなかったのかもしれない。自分で稼いで世の中に打たれてほしかった。そして右も左も区別できなかった彼女は、立派に仕事をこなし、ものの一年で立派に自立したのである。その頃から、娘の関係が激変し、私たちは深い次元で最も近しい存在であり、ほとんどの物事に対して、殆ど同じ考えを抱き、出来事を殆ど同じ感覚で受け止めているという確信を一瞬にして感じ合うことができるようになった。その近しさには信じがたいものがあった。
父親と瓜二つ、だから父親に対する関係と同じパターンしか築けないと勝手に知ったような顔をしていた私は、彼女が自分に瓜二つであることを知り、衝撃を受け、自分を激しく恥じた。
_________________
娘を送って行った朝、私の脱力感は尋常ではなかった。
たった2時間で飛んで行かれる街である。しかし彼女はもう「直ぐそこ」に住んでいるわけではないのだった。その事実が私を打ちのめした。コーヒーを飲みに行ったこともなく、二人で出かけることもなかった。それだけ接近すれば、また元の木阿弥であることを互いに無言のうちに承知していたのだ。
しかし彼女は一週間に一度は私たちを訪ねてきた。そうすればご飯を食べさせてやりたくなり、お金もあげたくなった。お茶も入れてあげたし、洗濯もしてあげた。驚くことに随分話をするようになった。そして私は彼女の人生の発展に心を弾ませていたのだ。まるで、自分自身が二十歳だった頃を目の前に走馬灯のように見ているようだった。
ああ、私は再体験しているのだ。ああ、こうして魂が再び生き返るのだと実感するにつれ、彼女という存在に心から感謝するようになった。子育ての苦労など、決して嘆いてはいけない。恥を忍んで言えば、今更、私は今更になって、そういうことが理解できるのだった。子供は必ず少なくとも相応のものを返してくれるのだ。私の場合は、与えたもの以上を娘からもらっていると思って神に感謝している。
娘の教えてくれた音楽、娘にもらった香水やアクセサリなど、影響を受けているのは私の方で、彼女こそ、人生の真っただ中にいるのだと思い知らされた。そしてどこからともなく、確信が湧いてきた。あの子はやり遂げる。やり遂げないわけがない。あの子のような特別な感受性と、特別なエネルギー、そして天使のようにフェアで純粋な心を持った人間がやり遂げないわけがなかった。しかしそれだけではない。彼女には人を撥ねつけるような強さも備わっている。人を押しのけてものし上がっていくような図太さも持っている。それほどアンバランスな彼女は、やはり簡単な人間ではないが、私のように揺れ動いて時間を無駄にすることはないだろう。彼女は20歳にして、すでに私のあの頃よりもはるかに安定しているのだ。
たった一日でも、彼女が行ってしまった事実を目にし、私は身体に大きな疲労感を感じた。脱力したのだ。心のどこかからエネルギーを吸い取られてしまったかのように。彼女から逃れることこそ、私の長年の夢だったはずなのに、彼女が去った後、脱力したのは私なのだった。
子育てに余裕がなかったのがいけなかったのかもしれない。私だってやれるだけのことはやったという実感はある。自分だって倒れる寸前だったのだ。今度私が手術するのだって、あれだけのストレスを何年も抱えて、何も影響を残さないはずがないと考えたことが、命中したのではないかとさえ思える。
それでも、親として全く至らなかった私の子供たちが、一人前に育ってゆく姿を「見送る」のは辛い。十分に家庭らしいことをしてやれなかったという罪悪感に加え、それでも育っていく彼らを見て、自分という存在の無力さもまざまざと突きつけられる。
来年は長男がこの地を去る。
末子が大学生になる頃、私はもう口を閉ざし、親らしい口をきくことは控えるべきなのだろうと思う。「親」は子供の安全圏を確保するために子供を「監視」する権利はあっても、「デカい顔」をする権利などどこにもないのだ。子供の伸びていく力の方がよほど強く健全である。独自に成長しようとする力を親がへし折るからいけないのだ。そう言う意味で、何もしてやれなかったけれど、子供をへし折るほどの力もない私は、まだましだったのかもしれない。
娘の成功を心より祈っている。
2015年6月3日水曜日
二年ぶりに
「何かを書かなくてはならない」何度もそう思ってきた。「これもあれも書きたい」そういう瞬間もいくつもあった。書きながら突然自分の状況を理解しかけるというようなことを何度も体験したからこそ、書くことを止められなかったはずなのだ。
それが、突然何も書かなくなってしまった。
湧き出た思いが自分から離れていってしまうことがいやで、それだけは書き留めようとノートも買ったが、いつしか白紙のページばかりになってしまった。思ったことを素早く呟くことで、幾つかを何とか形にするということは辛うじて続けている。
文章を書きながら思いもよらなかった展開になる、という現象もすっかり忘れてしまった。
_______________
デンマークで最後に見た海は美しかった。遠くを見るという行為は心を洗うような効果があると改めて実感した。
遠浅で、長靴を履いたまま海の中に歩いて行かれた。透き通った海水の下には白い砂が見えた。まりものような海藻がフワフワと水中で揺れていた。水の真ん中に立って、四方を見回した時、足元をすくわれる様な感覚に襲われた。ふと倒れてしまうかと思った。足首ほどの深さしかなく、長靴を履いているから、水に入っているという身体感覚はない。けれど周囲は一面海水だった。その時のぐらりとしためまいの感覚は今でも覚えている。
振り向いて砂浜の方を見た。たくさんの
木々が砂浜に沿って並んでおり、住宅地に対する風よけになっていた。耳を澄ますと、波の音はほとんど聞こえない。それほど静かな昼下がり、この木々の唸り声が良く聞こえた。ざわざわを音を立て、葉を裏返して風を受けていた。この音も、また私の心のなかのざわめき達と会話しているかのように聞こえた。
本当に人気のない場所で、飾り気のない自然に触れるということは、日常で最も大切なものをいとも簡単に確認させてくれることかもしれないと思った。
寂しいことや悲しいことがあった時に、この場所が直ぐうちの裏にあったら、それは家の部屋の片隅で、布団をかぶって泣くよりも、「何かとの触れ合い」があるのではないだろうか。そんな気がした。
_____________
どんな生活形態をどんな人物と築いてゆこうが、自分との戦いは決して終わらないのだとわかった。何度も何度も戦い終えたと思ったが、それでも何度も何度も新しい戦いが始まった。いい加減、これは終わらないのだと、今の年齢になってようやく受け入れることができるようになった。しかし相手が自分と言う戦いは辛い。問題が起きても、それは常に他人た出来事ではなく、自分の情けないところ、弱いところ、醜いところに反映されてしまう。すべては自分に帰って来てしまう。元々ありもしない見栄も野心もすっかりなくなったので、自分がこれしきの人間でしかないということは、とうの昔に受け入れたはずである。しかし、醜い弱い姿を思い知らされるのは本当に心地よくない。他人と関わっていく以上、問題はつきつめれば、常に自分の取る立場と、自分の対処方法に頼るしかない。知能と賢さ、性格の強さと肯定的な性格がすべてを握っている。私には、こうした太陽に照らされている側面はない。常に陰性である。だから辛い。
そして、自分の自信のなさがここまで病的だったのかと未だに思い知らされている。
コンプレックスの強い人間には、必ず不当な優越感を伴っている。ダメだと言いながら競争したり、かなわないと言いながら、相手を憎んだりする。本当にダメなことを受け入れていれば、晴れ晴れとできるはずなのに、どこかで優越性を信じたい気持ちがあるのだ。
この厄介なコンプレックスとも長年葛藤を続けて対決したと思っていたが、この年になっても、色々とくすぶりを見せている。完全に消火できないらしい。
_________________
時に、自分の手首を掻き切ってしまいたい、このまま消えるように死んでしまいたいと思うことがある。思春期の頃、あまりにも辛くてナイフを手に持って、手首を切ってみようかなと随分長いこと自室で考えていたことがある。思えば、私はボーダーラインなもかもしれない。
実際に切ったことも、摂食障害になったこともないが、常にぎりぎりの線で生き延びてきている。「生きるか死ぬか」という大げさなシナリオでなければ「生きた心地がしない」という病的な欲求を抱えていたのかもしれない。そのためには、正しい人を最初の夫に選んだ。
現在は平和である。平和と幸せという二重の保証をもらったような錯覚になることがある。しかし平穏は心を癒してくれるが、平穏は何も生まない。守りの姿勢だけなのだと実感した。守るという姿勢がそもそも好きではない。守る、囲うということは、他とは区別した領域を囲んで、守るということである。「自分がやっとつかんだ『〇〇』を失いたくない」という自分の生き方に耐えられない。面倒な性格だと思いながら、どんどん肌が分厚くなり、他人の痛みに鈍感になり、今の平穏を慈しみ、変化を排除せんとばかりに、一日を平和に終えることに始終する、という生き方をしていたら、定期的に精神がクラッシュすることを発見した。非常に定期的にやってくる。議論を避け、表面的な共同体を最も良しとするパートナーやその取り巻きまで、耐え難い存在に思えてしまう。すべてを一気に破壊したくなる。
改めて、面倒で厄介な性格だと思う。
人とは生きていけないのかと不安になるが、こうしたことで深く共感し合える異性にも何人も出会ってきた。こういう「言語」を話す人は確かにいる。今私は違う言語を話す人と暮らしている。事情があって、深く感謝し、尊敬しているが、ピリピリしている私を持て余し、温和な人だが、自分の取っている行動の意味すら把握し切れていない、そのドイツ的なウドの大木的などっしり感が、時々私を発狂させる。この性質に支えられているとは知りながら、それでもこの性質は、間接的に私を押し退け、私の感情を跳ね除け、私を孤独に突き落す。
______________
娘との関係には、とても人に伝えることはできないほど辛く苦く、そして深い悲しみや業のようなものがある。その関係は、彼女の父親と私との病理的な関係が奥深いところに根差しており、一筋縄でどうにかできるようなものではなかった。私には、一人では抱えきれない罪の意識がある。この罪の意識は、私が持って当然といえるものである。母親として、まるっきり懐の大きさがなかった。娘にも娘の本能的に持つ、人を苛立てたり挑発する才能があった。また娘との関係は、私と彼女の父親との関係とぴったり一致するようなものであったため、私自身が、娘に対して新鮮に向き合えなかった。最初からアレルギー反応を起こしてしまった。娘と私は実に不幸な関係だと、誰しも疑いようがなかった。
それが最近、娘の心の優しさや、私より何倍も強い意志の力、そしてまるで私との過去は「無」であったかのように、娘は私を未だに愛してやまないその姿勢に心を打たれている。心の底から天に向かって娘を授かったことに感謝している。
親子の不思議を思い、親を選べぬ子の不幸を思い、子から親へのたゆまぬ関係への働きかけ、親を愛すことを止められない子の運命、そういうことに思いを馳せている。
そして自分を恥じ、人生の残酷を思い、時間のもたらす予想もつかない展開という人生の不思議を噛みしめている。
これに関しては、とても詳しく書かねばならない。しかし今はとてもまとめられない。
本当に何があるかわからない。死んでしまった方がましだ、心中でもしようと、真面目に悩んだことがある。高速道路のトンネルにぶち当たって死んでしまえと、早朝車で飛び出して文字通り、自殺しようと思ったこともあった。けれど死んではならないのだと知る。絶対に何が起こるか、誰も知りうることはできない。良いことが起こるかどうかは、これも誰も知らないことである。けれど思いもよらぬ展開がいつかやってくることは確かなのである。
2013年9月8日日曜日
どこかで知っていた
なぜだかはわからない。
初めて見た時も、次に会った時も、また一年間知り合いとして付き合った後も、魅力というものを感じたことがなかった。
しかし不思議な妄想が私を襲うことがあったのだ。
彼に愛されているというような場面が、突然暗闇のかなたから飛び出してきては、はっきりとしない夢想のように私の心を襲い、まるで晴天の霹靂のような問いかけに、いったいどこからこのような馬鹿げたイメージが湧いてくるのか、何度となく疑問に思ったことがある。
非常に稀であったが、あまりにも長期に渡って終わりを遂げることなく襲ってきたので、いつしかこの妄想じみたイメージを拒否することもなく受け入れ、そういうことになるなら、いずれそういうことになる、しかし今現在はそこから100万マイルも遠い所にいるのだから、なに、こんなことに考えを巡らせる必要もないと、そうしてこの話は、来るに任せ、過ぎ去るに任せていたのだった。
ところが、何が起きたのかもあまりしっかりと把握できないままに、このあり得ない知人は自分のパートナーにさえなっていた。
まさにあの突然襲ってきた夢想が、現実と化した形になったのである。
運命という言葉を信じるのは嫌なのだが、運命的な理由を持った二人が出会うということは実感したこともある。
しかしこの場合は違っていた。理性で考えても何の理由も見つからない。性格的にも最初はまるっきり油と水であったのだ。
ところが相手の方は違ったらしく、最初から好意を感じていたという。私は一切何の感情もなく、それどころか付き合いが長くなればなるほど、嫌悪感を覚えていったほどなのである。
男性と触れ合う機会というのは、数限りなくある。
ちょっと久しぶりに会ったといえば抱擁し合い、一緒に飲み交わしたお酒がおいしかったといえば抱擁し合う。抱擁の文化でなければ、頬にキスをし合い、見知らぬ人でも握手をするのが普通である。通常友人ならば、そこで抱擁し合ったところで、温かい友情というぬくもりを感じ、親しみを実感できたとしても、それ以上のものは何も残らないのが普通である。
ところが、この人の場合は違ったのである。
この人とは、すれ違った好きに骨ばった肘が触れただけで、何か相手の反応している様子が実感できたり、自分自身が触れてはいけないような、とても気軽には触れられないという、果てしない距離感があったのである。
友人として触れることに一切の躊躇はないというこの私でさえ、この人には触れがたい何かがあったのである。もしかすると、それは相手が私を意識していることを無意識に感じ取った上での安全的距離感だったのかもしれない。
けれど、今思えば何とも不思議なのである。
ごく初期の段階に集めた思いを語ったところで、将来的な意味はほとんどない。様々なホルモンが心を乱しては発散させている思いを、本物の人物への感情や愛情に変換させていくことにこそ難しさがあるのだが、まだその段階ではないので、何を言うこともないのだが、この時期にこそアンテナを張り巡らせておかなければ、今後困難に直面したときに、当たって砕けろになってしまうなとは思っている。
当たって砕けろだけしかできずに、偏った生き方や恋愛をしてきた私である。駆け引きというのは無意識に行っているとしても、駆け引きの価値を信じたことがない。
しかし今回はもう少し余裕をもって、穏やかな関係を築いていきたいものである。もう当たって砕けろでは、おそらくうまくもいかなければ、自分の体も精神も持たないだろうと予想できる。
色々なことがあったが、この人にはありがたみを感じている。精々指輪をドブに投げ捨てるだの、満席のレストランでバックをぶちまけるだの、人前で相手の顔にグラスの水をぶっかけるだの、そういうことはやらないように気を付けようと思う。
そもそも、そこまで私を激しくさせたのは、相手の果てしない鈍感さであったのだが、それはそうとしても、このような爆発は、長い目で見れば破壊以外なにも呼ばないのである。
とりあえず、小学生はいなくなり、子供たち全員がすさまじく独立し始めている。上二人は18と16さいで、家になどほとんどいない。いよいよというときに、全く新しい季節が始まった。前回の日記はまんざら嘘ではなかったらしい。文字通り、私は違う惑星へと大きく移動し始めているのかもしれない。
幸せということが、私の考える幸せで良いのなら、これで死ぬまで幸せなことは間違えない。悔いのない人生ですっきりしている。子供たちさえ不幸がなければ、私としてはもうこれで胸がいっぱいといえるほど満足している。こういうことを言うのは嫌なのだが、ずいぶん頑張ったといえるのかもしれない。
初めて見た時も、次に会った時も、また一年間知り合いとして付き合った後も、魅力というものを感じたことがなかった。
しかし不思議な妄想が私を襲うことがあったのだ。
彼に愛されているというような場面が、突然暗闇のかなたから飛び出してきては、はっきりとしない夢想のように私の心を襲い、まるで晴天の霹靂のような問いかけに、いったいどこからこのような馬鹿げたイメージが湧いてくるのか、何度となく疑問に思ったことがある。
非常に稀であったが、あまりにも長期に渡って終わりを遂げることなく襲ってきたので、いつしかこの妄想じみたイメージを拒否することもなく受け入れ、そういうことになるなら、いずれそういうことになる、しかし今現在はそこから100万マイルも遠い所にいるのだから、なに、こんなことに考えを巡らせる必要もないと、そうしてこの話は、来るに任せ、過ぎ去るに任せていたのだった。
ところが、何が起きたのかもあまりしっかりと把握できないままに、このあり得ない知人は自分のパートナーにさえなっていた。
まさにあの突然襲ってきた夢想が、現実と化した形になったのである。
運命という言葉を信じるのは嫌なのだが、運命的な理由を持った二人が出会うということは実感したこともある。
しかしこの場合は違っていた。理性で考えても何の理由も見つからない。性格的にも最初はまるっきり油と水であったのだ。
ところが相手の方は違ったらしく、最初から好意を感じていたという。私は一切何の感情もなく、それどころか付き合いが長くなればなるほど、嫌悪感を覚えていったほどなのである。
男性と触れ合う機会というのは、数限りなくある。
ちょっと久しぶりに会ったといえば抱擁し合い、一緒に飲み交わしたお酒がおいしかったといえば抱擁し合う。抱擁の文化でなければ、頬にキスをし合い、見知らぬ人でも握手をするのが普通である。通常友人ならば、そこで抱擁し合ったところで、温かい友情というぬくもりを感じ、親しみを実感できたとしても、それ以上のものは何も残らないのが普通である。
ところが、この人の場合は違ったのである。
この人とは、すれ違った好きに骨ばった肘が触れただけで、何か相手の反応している様子が実感できたり、自分自身が触れてはいけないような、とても気軽には触れられないという、果てしない距離感があったのである。
友人として触れることに一切の躊躇はないというこの私でさえ、この人には触れがたい何かがあったのである。もしかすると、それは相手が私を意識していることを無意識に感じ取った上での安全的距離感だったのかもしれない。
けれど、今思えば何とも不思議なのである。
ごく初期の段階に集めた思いを語ったところで、将来的な意味はほとんどない。様々なホルモンが心を乱しては発散させている思いを、本物の人物への感情や愛情に変換させていくことにこそ難しさがあるのだが、まだその段階ではないので、何を言うこともないのだが、この時期にこそアンテナを張り巡らせておかなければ、今後困難に直面したときに、当たって砕けろになってしまうなとは思っている。
当たって砕けろだけしかできずに、偏った生き方や恋愛をしてきた私である。駆け引きというのは無意識に行っているとしても、駆け引きの価値を信じたことがない。
しかし今回はもう少し余裕をもって、穏やかな関係を築いていきたいものである。もう当たって砕けろでは、おそらくうまくもいかなければ、自分の体も精神も持たないだろうと予想できる。
色々なことがあったが、この人にはありがたみを感じている。精々指輪をドブに投げ捨てるだの、満席のレストランでバックをぶちまけるだの、人前で相手の顔にグラスの水をぶっかけるだの、そういうことはやらないように気を付けようと思う。
そもそも、そこまで私を激しくさせたのは、相手の果てしない鈍感さであったのだが、それはそうとしても、このような爆発は、長い目で見れば破壊以外なにも呼ばないのである。
とりあえず、小学生はいなくなり、子供たち全員がすさまじく独立し始めている。上二人は18と16さいで、家になどほとんどいない。いよいよというときに、全く新しい季節が始まった。前回の日記はまんざら嘘ではなかったらしい。文字通り、私は違う惑星へと大きく移動し始めているのかもしれない。
幸せということが、私の考える幸せで良いのなら、これで死ぬまで幸せなことは間違えない。悔いのない人生ですっきりしている。子供たちさえ不幸がなければ、私としてはもうこれで胸がいっぱいといえるほど満足している。こういうことを言うのは嫌なのだが、ずいぶん頑張ったといえるのかもしれない。
2013年6月28日金曜日
新しい季節
新たな季節が始まった。いやもう一つの季節は過ぎ去り、次の季節が始まっていると言っても良かった。
太陽がその鋭い光線で地面を照らすようになった頃、息子が家出をした。
一大事であった。
それも10日間もいなかったのである。
帰宅するまでの道のりは長く、自己を責め、自己を恥じ、息子の安全を念じた。
結果、彼との深い会話を通して、彼の成熟した精神と、いたって健全な人間性を再確認した。
彼の家出は、彼自身の問題でもあったが、私の家庭の有様をあからさまに描き出し、むしろ私に対するショック療法であったと言っても良い。
その時に、私は決心をした。変わるしかない。
これは紛れもない、私の家庭の最後のチャンスであったからだ。
_______________
それから色々と風が吹いた。
この一件があってから、娘は感情カタルシスを起こしたが、それを機に、病状らしきものが消えてしまった。あれだけ医者へと駆けずり回った私が、道化であったことを証明するかのように、彼女とのコンフリクトは、下火になったのである。しかも朝、陽が昇ったら別人になったと形容してもおかしくない変化であった。
彼女の人格は相変わらず風変わりで、会話をしても通じ合うことはなかなか難しい。
けれど、家族の誰しもが、幸せな家庭を夢見て、愛し合いたいのだと、絶対的な安定の地を求めていることは事実として明るみに出たのだ。
すべては言葉なき事実であったが、それは誰の目にも明らかだった。
そこで、私は小さな幸せを家庭で実行に移したのである。
一緒に夕食も食べられなかった一家が、再び一つランプの下で食事をとるようになった。
そのために私は大金をかけて食卓のランプを調達した。
掃除がはかどった。心の中が整理されていった。
少しずつ、家族の形態が戻り始めた。
凄まじい八方ふさがりの暗黒は、3年間続いたのだった。
娘の病状が出るようになって以来、5年が経過していた。
全員が、限界まで来ていたのだった。
________________
また風が吹いた。
仕事帰りに買い物に行った帰り、久しぶりに5分の道のりを歩きながら、春の生暖かい空気をありがたく胸に吸い込んだ。
献立は決まっていた。すべてが予定通りだった。
この小さな満足感を誰かに伝えたかった。ひとこと「やっとここまでたどり着いたのだ」と。
それを思ったとき、母の顔が浮かんだ。懐かしい母の声も思い浮かんだが、彼女に電話をする気力は湧いてこなかった。
それはもう、彼女には何も伝わらないのだということを身をもって知ったからである。
彼女は、しぼんでゆく。彼女の世界は、老眼鏡のように周囲が曇っていくのである。
娘のこと、一挙一動を知りたいと思いながら、娘から連絡がなくなって何日かも数えられないのである。
その母に、この胸に湧いた一瞬の幸福感をどう伝えたらよいのだろうか。
その時に、心の中でまた一つ理解した。
もう私はここで歩いているように、どこへ行っても私の人生を私だけで味わうしかないのだと。
私と私の子供たちが、私の家族なのだった。
後ろを向いても、もう親はいない。少なくともこうした突発的な感情に対応できるほどの、精神的な支えは、もう彼女には果たせなくなったのである。
彼女がまだ生きていることが、大きな支えである。
けれど、私の思いは、空気のように彼女の耳を掠め、微笑んだとしても、それは自動的な動作で、その後一分もすれば、もう一度聞き返されるのである。
その暴力的ともいえる虚しさを、何度となく体験してからしばらくたったこの日、私は初めて自立した。
私のひらめきも感情も湧き出る思いも、もう一人きりで消化するだけなのである。
もう私の手のひらにしか、私の人生は握れないのである。
相談もなく、自分の経験と直感を信頼して、一人で舵を取ってゆくのだ。
そして、それを恐れとも残念だとも思わなかった。
生ぬるい風に吹かれながら、もうできる、そう小さなこぶしに力を入れたのだった。
________________________
娘の魂の核となることだけは、支えてやらねば。
どんなに喧嘩をし、どんなに争った過去があったとしても、親は私であり、大人なのは私だけなのだった。病気呼ばわりする親に育てられる彼女の失望感は、私には死ぬまで想像できないはずである。
そこで、イタリアに行くことにした。
彼女のたっての夢である大学が、イタリアでサマーコースを開催するからである。
それは、私からの真剣なそして正直な贈り物であった。
彼女が、最大のチャンスをつかむであろうことは今からわかっている。
あれほどの情熱と献身は、また彼女の父と同じく、他人にはまねのできない集中力に満ち溢れているからである。
それこそがカリスマ性なのであった。
この旅行を家族の転換を完全なものにする行事にすると心の中で決めた。
姉の目も見れない、姉など死んだ、彼女の一家を抹殺するなどと、ホラー映画さながらのことを吐き捨て、一緒に食事もしなければ、一切かかわりたくないと言っていた馬鹿な息子と彼女の関係は修復不可能であると思っていた。
そう信じていた疑わなかった親は、さらに馬鹿であった。これは私の罪である。
なんのことはない、うちの子たちは見事に心の優しい子供たちなのであった。
私が家族大改革計画を実行に移すと、誰しもが気を使って摩擦を避けるようになり、それが次第に中立関係に代わっていったのである。
息子も後からイタリアに来るようにと了解を取るまでに一か月かかった。
しかし、今は誰しもが楽しみにしているのである。
小さなアパートに閉じこもったまま、インターネットも電話もない世界で、しかし私たち4人は、なんとか楽しい夏を過ごすであろうと今から信じている。
_____________
偶然なのか、電話回線の契約切れと重なって、新しい回線を引いた。
テレビプログラムにイタリア語のチャンネルを入れてもらった。
子供たちもなぜか見ている。
ここでどんなにつらくても、ここだけが故郷なのではないという、逃げ道があると、色々なことに希望が見えたりするのである。
イタリアの歌ばかり聞いている。単なるイタリア好きではないのである。
イタリアの歌を聞けば、一瞬のうちに涙ぐむ。
私は前夫のメタファーとしてのイタリアを愛してやいまいかと、ある日突然雷のごとく、そんな思いに取りつかれた。
すべてが、勘違いなのではないか。
イタリア文化との関係は、そんな簡単な好き嫌いの感情ではないのだ。
その裏に、私の知らぬ無意識の意味が隠れているようだが、それを解読できない。
そんな矢先に前夫が姿を現した。
2か月の音信不通後であった。
父は死んだと、これまたグロテスクな嘘を宗教の教師に訴え、家庭は崩壊して、兄に殴られていますと訴え、青少年課を紹介しましょうと教師に言わしめた末子が、見るからに幸福そうであった。
そうだ、父親は大事なのである。
私のこれまでの思いはすべて大陸を隔てた向こうにいた彼の心の中にシンクロしていた。
彼は、知らなかったが知っていたのだ。
私の家族が肯定的に変わり果てた姿を見て、その間にあったことを察したという。
その間、彼の体調は悪く、かの地で自分の新たなる家族と共にいながら、とり憑かれたかのように毎晩私と子供たちのことを案じていたという。
やはりひともんちゃくあったのだねと。
目を見るだけで千言の会話ができることは、20年前から同じである。
その関係の深さが年々強くなり、さらに深くなり、殆ど恐怖に感じるという。
そう思えなくもない。
別れる理由は、愛があるだけでは足りないというものだった。
愛がないと言ったことはなかった。愛が多すぎたと言っても良いのだ。
そうだ、愛が深すぎて別れたのに違いないと、そう納得し合った。
____________________
ある出会いをした。
偶然にもイタリア人だった。
相手は果てしなく興味をそそられたらしい。
私は、知人に再会したような安心感を覚えた。
そして気味が悪くなるほど共通点があった。
しかしこのひとをTuつまりDuつまり君とは呼ばないと、どこかで不思議な決心をした。
相手は、二度も私にTuと言い、何度もLei(あなた)と言い直した。その時の彼の恥た顔は見逃すまでもなかった。
仕方ない、近しく感じてしまうのである。
しかし彼は去った。
私も去る。
彼が戻るまで時間がかかる。
それにLei(Sieやあなた)の人なのである。何という関係もない人なのである。
ところが人々に、何があったのかと聞かれるようになった。
キラキラと輝いるぞと言われた。
よく知らない人に、僕に電話してと番号まで手渡された。
恐ろしく、私はポジティブなオーラを放っているらしい。
5年の暗黒時代は、幕を閉じたのである。
イタリア人には、感情のひだがある。
ひょうきんだとか、明るいだとか、そんな話は嘘に近く、彼らはひどく繊細で、ひどく内気である。
それが、一瞬で会話をドイツ人とはありえない方向に発展させるのである。
娘が一言いった。
「イタリア語を話しているママが一番自然。一番リラックスしている。一番本当のママだよ。」
それは自分でも実感していたことなのであるが、はっとした。それは驚くほどはっとした。
_________________
しかし、この文化を愛する私は、何を隠すそう前夫を求めているのである。
自分で捨て、自分で出てきた家庭を取り戻したいなど、露ほども思っていない。
一緒になど五分たりとも暮せたものではない。
しかし、あの魂なのだった。あの魂と永遠につながっていたいという、つきつめればそれだけを心が求めることをやめないのだった。
彼を見るとき、私は彼を見ていない。
彼の中の目には見えないものを、しかしまさに具体的に目の前に見ているのである。
彼の言語を聞くと、彼がいなくても、あの魂の気配を感じるのである。
肉体も日常もいらないのだ。
あの魂とは、双子なのではないかと、本当にありきたりな安いスピリチュアルブックにある疑問を投げかけさえしたくなるのである。
あの音、あの歌いまわしは、あのことで、ああいう風に泣いていると私には聞こえてしまうのである。
あのビブラート、あのテヌートは、あれを訴えたくても伝わらない、その孤独を嘆いているのだと聞こえてしまうのである。
理屈はない。だから、一瞬を境に恋に落ちたのである。
だから結婚も家庭も、それが崩壊したことさえ、意味はなしていないのだった。
大陸を隔てても、意味をなしていないのだった。
いつでもいるのである。そこに。
_______________
長男は苦難の時を経て、また実技で一番になった。それも演奏にはポエジーがあるのだった。
一瞬顔を表す、魂の奏でる音は、それを聞いた者の心をはっとさせ、次の瞬間溶かすものである。
間違えやしまいか、大ミスをするのではないかと、未だに的外れな気持ちで聞いていると、時々ワープするのである。
気を緩めると、「あれっ、これは!」とハッとするのである。完全に父親の音を聞いたからである。同じミを二拍伸ばすのも、彼のそれには心を揺さぶる歌心が見え隠れするのである。はっとするのである。
このポエジーは、物差しで計れない、計ってはいけないものである。
これは才能なのだった。
その息子は国の音楽英才教育機関に送られることになった。学校以外にこうした半国営の基金でいわゆる才能教育を受けるのである。
親は関係ない。彼自身が花開いて獲得した結果である。
彼のポエジーは、彼の成熟と繊細さと壊れやすさと孤独から生まれるのである。家出も肥やしになったのかもしれない。
___________________
娘のところにある日突然電話があり、働きに行くようになった。
シックなツーリストが集まる、総合アジアンフードのような、ヌーベルキュジーヌのようあ店である。日本人が経営しているのだが、彼女の日本語は小学三年生である。
しかし客は日本人ではないのだからよいのだろう。
せっせと働きに行っている。
小遣いでコンサートへかよい、先日はミュンヘンまで自分で計画して二泊行って帰ってきた。
これは、左と言えば右へ、前と言えば後ろに向かって、年中道に迷っていた彼女にしたら奇跡である。
働き出したことで、とても生活が規則的に回転し始めた。
そして彼女の歌も極まりつつあり、ますますポップカルチャーから遠ざかり、のめり込んでいるようである。
彼女には、人目を惹くカリスマがあり、コンサートに行くたびにその思いつめた目と足取りで、アーティストと会話をし、ひと時の思い出を作ってくるのである。
毎回成功するのは、彼女の類まれな意志力と思いつめた集中力がにじみ出るからであろう。
彼女もメランコリーを持ってる。
果てしないメランコリーを背景に抱えながら、歌声を張り上げる旋律と節回しは、やはり人の寂しさに触れるのである。
彼女も、前進している。
親など関係ない。
子供は勝手に育っていくのである。
もう私は無力だ。
彼らはもう一人前なのだった。
_______________
生身の人間への興味は薄れはて、もう一人以上に良いことがあるとは思えなかった。
しかし、健康が回復しつつあるのである。
苦しさをはっきりと思いだした。
愛されたくもない。愛を乞うつもりも毛頭ない。
しかし子供以外愛せないことは、なんと辛いことであろうか。
愛が前提の子供ではなく、赤の他人だからこそ、小さな愛情でも与えなければ、関係は成立しないのである。
その活動をやめることは、人を信じていないことであった。
それが悲しい。
鳥が戻り、花が咲くという自然の摂理は、決して裏切らない。
そして、五年を経た今、陽はまた昇るのだと、身をもって教えられたのである。
もう一度、人を信じてみたくなった。
そういう気持ちで、イタリアに飛び立ち、毎日家族水入らずで過ごし、思い出づくりをしてくる。
おそらく最初で最後の4人の休暇である。
そして帰宅したら、私は必ず、新たな季節と共に、新たに出発するつもりである。
このまま「Lei」と呼び続けるには限界がある。
嫌でも近しくなることは見えているのである。
しかし頭では考えることは止めた。
セラピストさながらの知識で娘に接しても、悪化の一途であった。
心なのである。人間関係は、心でしか解決できないのである。
前途は、開けている。
もう何があっても、私は幸せに違いない。
太陽がその鋭い光線で地面を照らすようになった頃、息子が家出をした。
一大事であった。
それも10日間もいなかったのである。
帰宅するまでの道のりは長く、自己を責め、自己を恥じ、息子の安全を念じた。
結果、彼との深い会話を通して、彼の成熟した精神と、いたって健全な人間性を再確認した。
彼の家出は、彼自身の問題でもあったが、私の家庭の有様をあからさまに描き出し、むしろ私に対するショック療法であったと言っても良い。
その時に、私は決心をした。変わるしかない。
これは紛れもない、私の家庭の最後のチャンスであったからだ。
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それから色々と風が吹いた。
この一件があってから、娘は感情カタルシスを起こしたが、それを機に、病状らしきものが消えてしまった。あれだけ医者へと駆けずり回った私が、道化であったことを証明するかのように、彼女とのコンフリクトは、下火になったのである。しかも朝、陽が昇ったら別人になったと形容してもおかしくない変化であった。
彼女の人格は相変わらず風変わりで、会話をしても通じ合うことはなかなか難しい。
けれど、家族の誰しもが、幸せな家庭を夢見て、愛し合いたいのだと、絶対的な安定の地を求めていることは事実として明るみに出たのだ。
すべては言葉なき事実であったが、それは誰の目にも明らかだった。
そこで、私は小さな幸せを家庭で実行に移したのである。
一緒に夕食も食べられなかった一家が、再び一つランプの下で食事をとるようになった。
そのために私は大金をかけて食卓のランプを調達した。
掃除がはかどった。心の中が整理されていった。
少しずつ、家族の形態が戻り始めた。
凄まじい八方ふさがりの暗黒は、3年間続いたのだった。
娘の病状が出るようになって以来、5年が経過していた。
全員が、限界まで来ていたのだった。
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また風が吹いた。
仕事帰りに買い物に行った帰り、久しぶりに5分の道のりを歩きながら、春の生暖かい空気をありがたく胸に吸い込んだ。
献立は決まっていた。すべてが予定通りだった。
この小さな満足感を誰かに伝えたかった。ひとこと「やっとここまでたどり着いたのだ」と。
それを思ったとき、母の顔が浮かんだ。懐かしい母の声も思い浮かんだが、彼女に電話をする気力は湧いてこなかった。
それはもう、彼女には何も伝わらないのだということを身をもって知ったからである。
彼女は、しぼんでゆく。彼女の世界は、老眼鏡のように周囲が曇っていくのである。
娘のこと、一挙一動を知りたいと思いながら、娘から連絡がなくなって何日かも数えられないのである。
その母に、この胸に湧いた一瞬の幸福感をどう伝えたらよいのだろうか。
その時に、心の中でまた一つ理解した。
もう私はここで歩いているように、どこへ行っても私の人生を私だけで味わうしかないのだと。
私と私の子供たちが、私の家族なのだった。
後ろを向いても、もう親はいない。少なくともこうした突発的な感情に対応できるほどの、精神的な支えは、もう彼女には果たせなくなったのである。
彼女がまだ生きていることが、大きな支えである。
けれど、私の思いは、空気のように彼女の耳を掠め、微笑んだとしても、それは自動的な動作で、その後一分もすれば、もう一度聞き返されるのである。
その暴力的ともいえる虚しさを、何度となく体験してからしばらくたったこの日、私は初めて自立した。
私のひらめきも感情も湧き出る思いも、もう一人きりで消化するだけなのである。
もう私の手のひらにしか、私の人生は握れないのである。
相談もなく、自分の経験と直感を信頼して、一人で舵を取ってゆくのだ。
そして、それを恐れとも残念だとも思わなかった。
生ぬるい風に吹かれながら、もうできる、そう小さなこぶしに力を入れたのだった。
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娘の魂の核となることだけは、支えてやらねば。
どんなに喧嘩をし、どんなに争った過去があったとしても、親は私であり、大人なのは私だけなのだった。病気呼ばわりする親に育てられる彼女の失望感は、私には死ぬまで想像できないはずである。
そこで、イタリアに行くことにした。
彼女のたっての夢である大学が、イタリアでサマーコースを開催するからである。
それは、私からの真剣なそして正直な贈り物であった。
彼女が、最大のチャンスをつかむであろうことは今からわかっている。
あれほどの情熱と献身は、また彼女の父と同じく、他人にはまねのできない集中力に満ち溢れているからである。
それこそがカリスマ性なのであった。
この旅行を家族の転換を完全なものにする行事にすると心の中で決めた。
姉の目も見れない、姉など死んだ、彼女の一家を抹殺するなどと、ホラー映画さながらのことを吐き捨て、一緒に食事もしなければ、一切かかわりたくないと言っていた馬鹿な息子と彼女の関係は修復不可能であると思っていた。
そう信じていた疑わなかった親は、さらに馬鹿であった。これは私の罪である。
なんのことはない、うちの子たちは見事に心の優しい子供たちなのであった。
私が家族大改革計画を実行に移すと、誰しもが気を使って摩擦を避けるようになり、それが次第に中立関係に代わっていったのである。
息子も後からイタリアに来るようにと了解を取るまでに一か月かかった。
しかし、今は誰しもが楽しみにしているのである。
小さなアパートに閉じこもったまま、インターネットも電話もない世界で、しかし私たち4人は、なんとか楽しい夏を過ごすであろうと今から信じている。
_____________
偶然なのか、電話回線の契約切れと重なって、新しい回線を引いた。
テレビプログラムにイタリア語のチャンネルを入れてもらった。
子供たちもなぜか見ている。
ここでどんなにつらくても、ここだけが故郷なのではないという、逃げ道があると、色々なことに希望が見えたりするのである。
イタリアの歌ばかり聞いている。単なるイタリア好きではないのである。
イタリアの歌を聞けば、一瞬のうちに涙ぐむ。
私は前夫のメタファーとしてのイタリアを愛してやいまいかと、ある日突然雷のごとく、そんな思いに取りつかれた。
すべてが、勘違いなのではないか。
イタリア文化との関係は、そんな簡単な好き嫌いの感情ではないのだ。
その裏に、私の知らぬ無意識の意味が隠れているようだが、それを解読できない。
そんな矢先に前夫が姿を現した。
2か月の音信不通後であった。
父は死んだと、これまたグロテスクな嘘を宗教の教師に訴え、家庭は崩壊して、兄に殴られていますと訴え、青少年課を紹介しましょうと教師に言わしめた末子が、見るからに幸福そうであった。
そうだ、父親は大事なのである。
私のこれまでの思いはすべて大陸を隔てた向こうにいた彼の心の中にシンクロしていた。
彼は、知らなかったが知っていたのだ。
私の家族が肯定的に変わり果てた姿を見て、その間にあったことを察したという。
その間、彼の体調は悪く、かの地で自分の新たなる家族と共にいながら、とり憑かれたかのように毎晩私と子供たちのことを案じていたという。
やはりひともんちゃくあったのだねと。
目を見るだけで千言の会話ができることは、20年前から同じである。
その関係の深さが年々強くなり、さらに深くなり、殆ど恐怖に感じるという。
そう思えなくもない。
別れる理由は、愛があるだけでは足りないというものだった。
愛がないと言ったことはなかった。愛が多すぎたと言っても良いのだ。
そうだ、愛が深すぎて別れたのに違いないと、そう納得し合った。
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ある出会いをした。
偶然にもイタリア人だった。
相手は果てしなく興味をそそられたらしい。
私は、知人に再会したような安心感を覚えた。
そして気味が悪くなるほど共通点があった。
しかしこのひとをTuつまりDuつまり君とは呼ばないと、どこかで不思議な決心をした。
相手は、二度も私にTuと言い、何度もLei(あなた)と言い直した。その時の彼の恥た顔は見逃すまでもなかった。
仕方ない、近しく感じてしまうのである。
しかし彼は去った。
私も去る。
彼が戻るまで時間がかかる。
それにLei(Sieやあなた)の人なのである。何という関係もない人なのである。
ところが人々に、何があったのかと聞かれるようになった。
キラキラと輝いるぞと言われた。
よく知らない人に、僕に電話してと番号まで手渡された。
恐ろしく、私はポジティブなオーラを放っているらしい。
5年の暗黒時代は、幕を閉じたのである。
イタリア人には、感情のひだがある。
ひょうきんだとか、明るいだとか、そんな話は嘘に近く、彼らはひどく繊細で、ひどく内気である。
それが、一瞬で会話をドイツ人とはありえない方向に発展させるのである。
娘が一言いった。
「イタリア語を話しているママが一番自然。一番リラックスしている。一番本当のママだよ。」
それは自分でも実感していたことなのであるが、はっとした。それは驚くほどはっとした。
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しかし、この文化を愛する私は、何を隠すそう前夫を求めているのである。
自分で捨て、自分で出てきた家庭を取り戻したいなど、露ほども思っていない。
一緒になど五分たりとも暮せたものではない。
しかし、あの魂なのだった。あの魂と永遠につながっていたいという、つきつめればそれだけを心が求めることをやめないのだった。
彼を見るとき、私は彼を見ていない。
彼の中の目には見えないものを、しかしまさに具体的に目の前に見ているのである。
彼の言語を聞くと、彼がいなくても、あの魂の気配を感じるのである。
肉体も日常もいらないのだ。
あの魂とは、双子なのではないかと、本当にありきたりな安いスピリチュアルブックにある疑問を投げかけさえしたくなるのである。
あの音、あの歌いまわしは、あのことで、ああいう風に泣いていると私には聞こえてしまうのである。
あのビブラート、あのテヌートは、あれを訴えたくても伝わらない、その孤独を嘆いているのだと聞こえてしまうのである。
理屈はない。だから、一瞬を境に恋に落ちたのである。
だから結婚も家庭も、それが崩壊したことさえ、意味はなしていないのだった。
大陸を隔てても、意味をなしていないのだった。
いつでもいるのである。そこに。
_______________
長男は苦難の時を経て、また実技で一番になった。それも演奏にはポエジーがあるのだった。
一瞬顔を表す、魂の奏でる音は、それを聞いた者の心をはっとさせ、次の瞬間溶かすものである。
間違えやしまいか、大ミスをするのではないかと、未だに的外れな気持ちで聞いていると、時々ワープするのである。
気を緩めると、「あれっ、これは!」とハッとするのである。完全に父親の音を聞いたからである。同じミを二拍伸ばすのも、彼のそれには心を揺さぶる歌心が見え隠れするのである。はっとするのである。
このポエジーは、物差しで計れない、計ってはいけないものである。
これは才能なのだった。
その息子は国の音楽英才教育機関に送られることになった。学校以外にこうした半国営の基金でいわゆる才能教育を受けるのである。
親は関係ない。彼自身が花開いて獲得した結果である。
彼のポエジーは、彼の成熟と繊細さと壊れやすさと孤独から生まれるのである。家出も肥やしになったのかもしれない。
___________________
娘のところにある日突然電話があり、働きに行くようになった。
シックなツーリストが集まる、総合アジアンフードのような、ヌーベルキュジーヌのようあ店である。日本人が経営しているのだが、彼女の日本語は小学三年生である。
しかし客は日本人ではないのだからよいのだろう。
せっせと働きに行っている。
小遣いでコンサートへかよい、先日はミュンヘンまで自分で計画して二泊行って帰ってきた。
これは、左と言えば右へ、前と言えば後ろに向かって、年中道に迷っていた彼女にしたら奇跡である。
働き出したことで、とても生活が規則的に回転し始めた。
そして彼女の歌も極まりつつあり、ますますポップカルチャーから遠ざかり、のめり込んでいるようである。
彼女には、人目を惹くカリスマがあり、コンサートに行くたびにその思いつめた目と足取りで、アーティストと会話をし、ひと時の思い出を作ってくるのである。
毎回成功するのは、彼女の類まれな意志力と思いつめた集中力がにじみ出るからであろう。
彼女もメランコリーを持ってる。
果てしないメランコリーを背景に抱えながら、歌声を張り上げる旋律と節回しは、やはり人の寂しさに触れるのである。
彼女も、前進している。
親など関係ない。
子供は勝手に育っていくのである。
もう私は無力だ。
彼らはもう一人前なのだった。
_______________
生身の人間への興味は薄れはて、もう一人以上に良いことがあるとは思えなかった。
しかし、健康が回復しつつあるのである。
苦しさをはっきりと思いだした。
愛されたくもない。愛を乞うつもりも毛頭ない。
しかし子供以外愛せないことは、なんと辛いことであろうか。
愛が前提の子供ではなく、赤の他人だからこそ、小さな愛情でも与えなければ、関係は成立しないのである。
その活動をやめることは、人を信じていないことであった。
それが悲しい。
鳥が戻り、花が咲くという自然の摂理は、決して裏切らない。
そして、五年を経た今、陽はまた昇るのだと、身をもって教えられたのである。
もう一度、人を信じてみたくなった。
そういう気持ちで、イタリアに飛び立ち、毎日家族水入らずで過ごし、思い出づくりをしてくる。
おそらく最初で最後の4人の休暇である。
そして帰宅したら、私は必ず、新たな季節と共に、新たに出発するつもりである。
このまま「Lei」と呼び続けるには限界がある。
嫌でも近しくなることは見えているのである。
しかし頭では考えることは止めた。
セラピストさながらの知識で娘に接しても、悪化の一途であった。
心なのである。人間関係は、心でしか解決できないのである。
前途は、開けている。
もう何があっても、私は幸せに違いない。
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