2017年8月11日金曜日

急に状況が変わりだした。
母の容体が思わしくないのはいつものことだが、父の精神状態も限界に近づいているようであった。老いているからであろうか、一度そちらの方向に動き出すと、転がるように状況が変化してしまう。

私は故郷で怒りを買っているようである。
親を除く家族に対して、私は謝罪を要求されているようである。
確かにその場にいないのだから謝罪して当然なのだろう。それで済むのなら、何度でも頭を下げる。

しかし、感情的にはとてもつらいものがある。傍から見れば「好き勝手」で「我儘」で「はちゃめちゃ」で「我慢が足らない」ようにしか見えないとしても、自分としては今まで一秒たりとも人生を「軽く」捉えたことはない。毎日必死の思いで乗り越えてきた。他人を責めずとも、自分を責めなかった日はない。しかし何万マイルも離れている所にいる誰かが、どうしてそれを理解できるというのだろう。
外部から見える事象だけを追っていれば、単なるバカにしか見えないのかもしれない。それも十分理解できる。

今更、弁解するつもりも理解してもらおうと努力するつもりもない。その代わり、ほぼ自分一人で戦い抜き、築いてきたほんの僅かながらの「何か」を犠牲にしてまで故郷の人々に納得してもらおうとは思えない。私の払った対価のことは、私自身が一番よく知っている。払った労力などすでに忘れ去ってしまったが、それで得た小さなものは、とてもじゃないが、どんなことがあっても手放すことはできない。私の人生の全てと言っても良いものなのである。

それは自らが壊した家庭をゼロ以下から苦労して一人きりで再建してやっと得ることができた、ごく小さな私だけの「家族の絆」である。子供たちの傷は最初の頃よりも、思春期になってからの方がよほど明らかに表出し始めた。私は申し訳ない気持ちがあったからこそ毎日自分を叩きのめした。自分がこれらの嵐に巻き込まれて負けたら、子供たちはバラバラになる。家庭再建の機会は二度と巡ってこない。そう知っていたからである。

登校拒否も、暴力も、家出も、酒もドラッグも全部ありだった。特別にぐれていたわけではない。ただ心に空いた穴は、ほかの子供以上に深かった。年頃になって再び魂から血が流れだしたと言えるのかもしれない。それを目の当たりにして、無責任に目を背けたり時が経つのを待ったりすることはできなかった。毎日毎回、一緒に何時間でも私は彼らと向き合った。苦しかったが、それ以上に彼らは大切だった。

何はともあれ、三人の思春期は大方終わった。そして私は今辛い気持ちになると「でも、私には私だけの家族がある」とつぶやいて自分を慰めている。そう呟けるようになったのは、ここ1年ぐらいの話で、それ以前はずっと孤独で、まさに四面楚歌のような気持ちで手を離れようとしている子供たちを必死に守ろうとあがいていた。今は、子供たちの姿を思い浮かべるだけで、温かい液体が体中にゆっくりと充満してゆくような感覚に満たされる。彼らには感謝してもしきれない。
子供たちは成長し、二人は家を去ったが、その代わりに私は心の中で、子供たちとの絆を実感して、それを文字通り、もう離すまいと手に握りしめているのである。

このごく小さな温かい安らぎを得るために通り過ぎた時間を考えてみると、とてもではないが、私の魂が必死に乗り越えてきたこの地を捨て去って、本格的に帰国などという話を思い浮かべることすらできない。
これはどんなに恨まれようと、一点も譲れない部分である。私はこの地を去らない。この地が私を育ててくれたのである。私を大人にしてくれ、意識を変革させ、新しい出発の機会を与えてくれ、私に生きることの何であるかを教えてくれた。今の自分は日本で生きていたらあり得ない姿なのである。良し悪しに関わらず、私は猿真似をして日本を捨てたと言われようが、その代償は十分払ったつもりでいる。自らの意志で、当地が故郷であると迷いなく選択する。

私の両親は、私の心の隅々まで理解しているに違いないという信頼感がある。私は両親との絆を強く感じている。不思議なことに、絆があれば、距離感など怖くないのだ。物理的な苦労はあっても、心は常に一つであると実感できる。私が帰らなくても、彼らは決してそれを責めることはない。甘えかもしれないが、それは絆のなせる業ではないかと、今ではそう考えている。私も巣立った子供たちを引き戻そうなどとは決して考えない。どんなことがあっても、縛り付けてはいけない。そう心している。

日本には帰らないと固く決心したのは、2010年である。20年滞在したあと、仕切り直しを一度考えたが、種々の理由で実行できなかった。その時、もう二度と帰るまいと決心したのだ。しかし、矛盾するようであるが、つつましやかで目立たないが一生懸命にそれぞれの人生を生きている日本人が多く写る集団の写真などをみると、わけもなく涙ぐむのである。日本なんか帰るもんか、と言っているのではない。日本が愛おしいという気持ちを抑圧しなければ、絶対に乗り越えられない時期があった。だからと言って、その気持ちが小さくなったことはない。抑圧しているだけに、ふとした瞬間に涙腺が崩壊する。彼らを見るたびに、そして日本の気配を感じるたびに罪悪感を感じ、安らぎを捨て去った自分と、当地では埋めきれない深い孤独を思い知らさせれてしまう。行く先々で知らない人に知り合うと、ここで育ったのかと訊かれる。しかしそれが何だというのだ。そんな希少なことよりも、未だにまぎれもないFremdkörper(異物)であると思い知らされる場面の方が、はるかに多いのである。

それだけに、やっと得た「小さな家族の絆」だけが、私の心の中で唯一小さく揺らめく一点の灯なのである。目をつぶってこの小さな消えそうな光を必死で見据えると、私の魂が静かに安らいでゆく。心の中でただ一つの安全な場所なのだ。それを捨てることは、やはりどう考えてもできない。

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苦しい時に、見事なタイミングで娘から電話が入った。親の私が甘えてあまり元気じゃないと伝える。「どうしたのママ。元気じゃないなんて。大丈夫だよ。最後にはみんな理解し合える。必ずまた直ぐに気持ちが楽になるはず。また明日必ず電話しようね。私にいろいろ話してくれればいいよ、私も色々と知りたいから。元気出してね。」と言われた。言葉で書いただけでも立派な発言であるが、あの子が口にすると、まるでセラピストに慰められているような効果があるのである。胸の中心から心が徐々に温まっていく。「まるでセラピストみたい。どうしてそうやって人の心をつかめるの?あなたはやっぱりすごい。」そう伝えると娘は「どっちがセラピストなの?私が一言いえば、ママは千もわかってくれるから気持ちわるい。そっちこそセラピストでしょ」と言われた。こんな会話を娘とできるようになるなんて、どうしてあの時考えられたというのだろう!また申し訳ない気持ちと感謝とが入り混じて涙ぐんでしまう。すでに子供は私をはるかに超えているのである。あの子は大丈夫、あの子は大丈夫と呪文のように唱え、感謝した。

続く








2017年6月30日金曜日

平穏に潜む老いへの恐怖

平穏な日々が続く中、少しほろ酔い気分になりながら、ふと聴きたいと思うのはバッハなのであった。そして聴けば胸が締め付けられる。
私には、制御しがたい情動と言うものがあったはずなのだ。そんなものは大人になるためには、邪魔以外の何物でもなかった。しかし絶えず自分のそうした情動に振り回されながら、一体何が自分の本質で、目指すところは何であって、何を失ってはならず、何を変えていかねばならないのか、そうした方向性をまったくわからないまま、壁伝いに手を当てて、真っ暗闇をまさに手探りで伝い歩きながら、何度も激しいどん底を体験して、ようやく光が見えたのが2013年頃だった。それ以来、私は少し平穏や安定というものを体験できるようになったが、情動というものに振り回されることはすっかりなくなってしまった。それが寂しいという感覚もない。ただ、焼けるように音楽を求めた日々、へたくそでも何時間も音楽を奏でなければいてもたってもいられなかった日々、できもしないのに、自分の奏でる音に涙が止まらなかった日々というのは、一体どこへ消えてしまったのかと思うのである。それが寂しい。何も感じなくなった自分が寂しい。安定と言うのはこのように平坦な世界であったのかと知ると、決して昔に戻りたいとは思わないのだが、寂しくていてもたってもいられなくなる。
これもセンチメンタルに思考しているつもりになっている若い未熟さを失っただけの話であると、理性ではわかっているのだが、やはり年老いるということは、失いつつあるものを如実に目の当たりにするということであり、ある種のやりきれなさとは切っても切り離せないということを思い知らされる。
今、目標と言えるのは、未来の職業でもキャリアでもなく、子育ての理想でもなく、死ぬまでにまだどのぐらい自分を成熟させることができるだろうかと言う葛藤である。
しかし、哲学書や詩を読んでは涙に暮れていた感受性は理性にまみれて眠ってしまった。もう決してあの新鮮な感覚ではどんな書物にも巡り合うことはできない。そう思うとさらに絶望が目の前に広がるのである。
今まで生きていて、世界はましになったかと言えば、一方でましになれば、他方でまた新たな問題がせりあがるといった具合で、一項に収まる気配はない。こうした改善の難しさを見せつけられる世の中で単に100年に満たない命を全うする時、個人というレベルで如何ほどのことができるのだろうか。個人レベルにとどまって、せめて家族を幸せに、家族の繁栄と、家族の資産を増やせば責任を果たしたと言えるのだろうか。それが大人として生きることの課題なのであろうか。と、こんなバカな思考に問わられながら、自分はいったい大人になったのはいつで、いつまで青年時代を生きていたのかという境界線があいまいなまま、未熟な意識と共に50歳を迎えてしまった。
そんな時、私の感覚がいまだに衰えておらず、今でも鳥肌が立つような生への欲望があると実感させてくれるのはバッハなのであった。バッハの和声を聴くと、深い深い底辺に潜む本質が何であるのかを訴えかけてくるような揺さぶりを受ける。
個人の情動を制御し、子孫を育て、教育を与え、自分を成熟させ、伝統を引き継ぎ、愛情を育み、博愛を自ら実践するという人としての義務を全うするために、自らに課すべき試練と、自らに与えるべき精神的肥しが何であるかを思い知らされるのである。

歳を重ねるからこそ、哲学しなければならない。哲学は未熟な青年期と老年期にこそ、自らを追い込むように読み込まなければならない。そして消費を減らし、外部からの刺激に揺さぶらることのない、自分だけの価値観を築かなければならない。自分と自己をつなぐ糸を見失ってはならない。つまりいかなる時にも、直ぐに自己と対話できるような直結感を保ていなければならない。価値観を世間ではなく自らの中心に移していかなければならない。

社会とのつながりに果てしない感謝を注ぎながら、社会への義務を全うし、そして自己との糸をより一層に強めていかなければならない。死ぬことというのは、自己との対話に他ならない。自己を十分に納得させることが許しを得るということなのである。死が訪れるまでに、自分を十分に対話をする関係を築いていかなければならない。
それには失ってしまった感性を成熟への肥しとして利用するのではなく、自分自身に対する感性として再建しなければならないのである。
もはや成長はできないが、次第に視線を自己に戻して行き、何度でも振り返り、自分なりに過去に納得するまで何度でも噛み下さなければならない。その間、謝らなければならないことも、感謝を述べなければならないことも、さらには告白しなければならないことも出てくる。それを一つ一つぶれずにこなしてゆくことで、老いだけが達成できる深みと静けさへと到達することができるのではないだろうか。

そうした意味で、バッハには老若男女問わず、自己との対話を促進してくれる素晴らしい効果がある。感情や感性はメロディーであっても、和声への愛着には、さらに深い骨髄から揺さぶるような計り知れないKraftが眠っているのである。

私はフランス組曲やイギリス組曲を一つずつ少しずつ丁寧に奏でてゆくことで最も癒される。せめてどんなにへたくそでも奏でたいという欲求が失われたことはない。物心ついたころから、ミミズ腫れができるほど毎日太ももを叩かれて練習してきたことの恩恵である。それで自己を見失わずに救われている。

本質は、老いが怖い。その一言に尽きる。親を見ていると心苦しくなる。老いとは決して戦うべきものではないが、立ち向かうべきものではあるのだ。時間に負けてはならない。人間として時間に対決してゆかねばらないと思う。これを実践するのが、この世の中で最も難しいことであると実感するのであった。



2017年5月2日火曜日

長男の試練

なんだかんだ言いながら、長男が父親の下に学びに出て以来、すでに8か月が過ぎた。あの地へ引っ越して以来、期待に胸を膨らませた最初の一か月を除けば、彼の精神状態は常にうつ状態であった。私の下を離れたのはすでに17歳半の時だったので、一人暮らしの寂しさが鬱を呼び起こしているのではないことは明らかだった。

ベルリンに帰宅するたびに、彼の話を聞くのだが、なにが鬱の原因なのかもはっきりしない。スイス人もスイスの街も何もかもが嫌だ、自分はベルリンで育ったのだから、あんな町では生きていかれないという子供じみた不満から、父親の教授の仕方が自分には合わない、楽器も音楽も愛せなくなったなど、こちらの心も暗くするような深刻な悩みも打ち明けてくれた。

彼は次第にクラシック音楽から遠のき、必要最低限の義務をこなしながら、次第にテクノの世界にのめり込み、自分で機材を整えて様々なサウンドを生み出し、テクノをアートとして見ているなどと語りだすようになった。母親というのはこうした場面で子供と一緒に揺れてしまいがちである。私も本気ならそういうものを大学で学んだっていいじゃないという、とんでもない発言をしてしまいそうになった。

元々長男は優秀で有名な学校に行き、コンクールを賞をたくさん獲得し、多くの青年や学生オケで経験を積み、ひっきりなしに演奏の仕事をもらい、ベルリンの音大に入った当時は引っ張りだこと言ってもよかった。そんな彼が、父親の下で学ぶという彼の人生で避けることのできない道を歩み出したとたんに、鬱に入ってしまったのである。
最初は、ベルリンのような成功体験がないから、友人を失ったから、あるいは迷うことなく一途に突き進んできた道を、遅い思春期を迎えて疑問に思い始めているのだろうが、それも時期に落ち着くことであろうと、このように楽観していた。

しかし、鬱が去る気配は見えず、練習もしたくない、夜中に涙が出てきたなどという話に発展してしまったのだ。テクノ音楽を生産しているときだけ、唯一「表現する人間として」自由に創作できるのだと訴えるような目で私に語るのである。多忙な父親は月に一回しかレッスンできない。技術のことは殆ど言わず、レッスンは音楽の解釈の話に始終する。強烈な個性を持った父親のレッスンは、息子の肌には全く合わないらしい。そんなことは行く前から親子で承知していたが、息子は父親に「あなたのところでは学ばない」と面と向かって言おうと思ったこともなかった。それはあの楽器をやるには、父親を通り過ぎて一人前にはなれまいと、彼が薄々わかっていたからである。
それでも、実際に行ってみれば音楽解釈を強制されるのに耐えられない、自分の人間には関心を持てもらえず、単にいわれたことをコピーするまであきらめてくれないだけのレッスンなのだと嘆く。彼のレッスンについては色々な見方があるが、私としては、どのような解釈にも発言にも必ず学ぶべきことが隠されていると、そう叱咤して励ますしかなかった。

復活祭の休みにまた帰宅した息子は、可愛らしい女の子を連れてきて、少しは元気になったようだった。大学は転校しない、ここで最後まで卒業する、これを中断したらすべてが中途半端になると、そういう決意をしたようである。しかし学位を取ればいいんだろ、と言ってみたり、本能的に進むべき道が見え、決心できたとしても、その根拠を説明できない危うさがあった。私はまだまだ不安であった。
10日間の滞在後、息子を西の果てのバスターミナルに送った。車の中で殆ど何も話さなかったが、人生には乗り越えなければいけない石がいくつかあって、これがきっとあなたの最初の石なのだから、絶対に乗り越えなければだめなのだと、それだけは私の中でも言葉としてまとめることができた。彼の迷いの中で、今の道ではない方向に行きたいという気持ちが見えたときに、私は決してその方向転換を手伝ってはならない、この石を乗り越えさせるのが親としての支えである、ということは、私の中でも本能的にわかったのだ。しかし息子自身の中に、すでに方向転換する考えはなかった。彼も私と同時期に、なすべきことを理解したのだった。そういうところは親子である。どこかが精神的にシンクロしているのである。しかし私たちのどちらも「根拠」は分かっていなかったのだ。
時間があったので、長旅に備えてビールを2本の他に、サンドイッチやお菓子も買い与えた。今回は、帰っても少し持ち直すのではないかという予感があった。頬をさすり、しばし抱擁し合ってしっかりしなさいと激励して息子に別れを告げた。

夜の10時近く、ベルリンを西から東まで一人で車を走らせるのは本来なら気持ちよいはずだった。しかしその夜はやはり寂しかった。14時間もバスに乗って帰宅する息子が不憫に思えた。
次の日の朝、出勤中の車の中で私は突然理解した。これは息子の遅い思春期でもない、息子が楽器をへの思いを失いかけているのでもない、クラシック音楽への情熱が薄れたのでもない。そうではなくて、息子はあのとてつもなく強烈な父親との戦いに挑むために引っ越して行ったのだ。今、息子が立ち向かっているのは父親像であり、それをエディプスの話のように一度は殺さなければ、自我を形成し、立派な強い一人前の大人にはなれないのである。息子は8歳の時に父親と同じ楽器を選んだ。その決心は揺るぎのないものだった。そしてメキメキと力をつけたが、同じ楽器ゆえに父親とは違う道に進むわけにはいかない。その道での地位を確立した父親を避けて通り過ぎ、彼が自分なりの道を歩むわけにはいかないのだった。そして今父親と対立するときが来たのである。
彼の立ち向かっている父親は、確かに凄まじい人格である。私は10年以上に及ぶ戦いで、何度となく精神的に殺されかけ、体系的に自我を粉々にされたあと、初めて自分が跪くのではなく、自分を防護する権利があることを学び、実行に移した。その後私は当然別れを選んだ。なぜなら彼の下には彼を尊敬し、彼の教えを聞きながらそれに従う生徒のような関係でなければ共存できないからだた。
そうしためまいのするような巨大なエゴとして立ちはだかる父親の隣に存在するだけで、息子がエネルギーを吸い取られて枯れ果ててしまうと考えれば、今までの出来事がすべて納得できる。彼は他人のエネルギーを吸い取るのである。それは故意に行っているのではなく、存在の大きさの違いとしか言いようがない。しかし彼は常に信仰者に囲まれている。彼の妻も然り、彼の生徒たちも然りである。皆彼の言うなりに音楽を奏で、その解釈を心の底から信じているのである。
彼の音楽家としての実力も魅力も、何もかも認めなければならない。彼が好みの問題を超えたもっと高次の能力をもった人間であることには間違えない。
しかし、その息子が同じ道を選んでしまたことは、ある種の運命であるような気もする。長男は最も私に似ており、普通に人に合わせることができ、自分を過剰に突き通すことを好まない。しかし強い自我を突き通すことを疑いもしない他の子供たちではなく、よりによって長男が父親と対抗する羽目になったのである。

長男の孤独は深い。クラスにも彼を理解する者はだれ一人いない。全員が教授を崇め、言いなりに演奏することで、その震えるような音楽のかけらを一片ずつ自分の身に着けようとして彼に傾倒しているのである。息子だけが言われること、指図されるフレーズにことごとく内心逆らっているのである。四面楚歌という状況の中、親しい友人にもこの話の背景がわかろうはずもないのだった。彼はまさに孤独というものを初めてなめることになったのである。

その長男から今晩電話があった。自分が大人にならなければいけないということをひしひしと感じ、自分の精神衛生に一人きりで責任持たなければならないことを分かったという。モチベーションがなければ自分でモチベーションの源を見つけるように努力し、練習したくないからこそ、練習して没頭しなければならないと語る。言っていることはすべて正しい。特に、多くの学生初心者が共通して最初に乗り越えなければならない壁とは、まさにこの長男の言うことである。

しかし、私は長男が力をつけ、決心を固めたのを察して、私の解釈を告げた。あなたが乗り越えなければならないものは、もちろんあなた自身であるけれど、本当は父親に対抗しなければならない。父を認め越えなければ、あなたは残念ながら大人になれない。けれど絶対に打ち勝つことができる戦いしか、人生にはやってこないはずだから、どんなことがあっても自分を見失ってはならないと伝えた。
すると息子は目から鱗が落ちたように、自分の今までの出来事が腑に落ちたようである。
「パパのように夢中になり、発見されていない楽曲を掘り出し、編曲し、寝る間も惜しんでそのことしか考えないようでなければ、自分は音楽を愛しているとは言えないと名指しされているような気がした。どれだけ頑張って努力してもしなくても、どれだけの成果を出しても出さなくても、常に才能を褒めてくれ、実際どれほどの関心があるのかはわからず、自分の存在は透明のような気がした。他の学生は全員一致で言われた通りにやっている。自分だけが父親の解釈ややり方に疑問を持っていた。しかし誰も口にできない。僕も口にできない。しかし、父親とは違う奏で方や音楽の愛し方があってもいいはずだ。それが父親には全く通じない。」

私は息子の言葉を繰り返して、それがあなたの行くべき正しい道なのだと諭す。「何度も何度も、今言ったその自分の道を父親に揺らがされ、その道はおかしい、こっちの道が正しいと言われ続け、とうとう自分の意志にさえ疑問がわいてくるでしょう。折れそうになるでしょう。しかし、絶対に自分を見失うな。言われたことはすべて言うとおりにやりなさい。それでも今言ったことがあなた自身であることを忘れたらいけない。折れたら彼を崇めている他の皆と同じになり、あなたは父親の傘下に入る。あなたが息子でなければ、それだけで充分に音楽家として学ぶところがあるだろうが、あなたは息子だから傘下に入るわけにはいかない。あなたの道を父親とは違う地盤に築かなければならない。凄まじい威力で立ち向かわれるから至難の道になるだろうが、これがあなたの課題なのだと私にもわかった。いままで一年近くもやもやとしていたことが、いまやっと頭でも理解できたから、必ず次の段階に上って行かれる。また違う景色が見えてくる。そうして一歩一歩歩みなさい。最後に父親が無言で送り出してくれるような卒業演奏をしなさい。それにはあなた自身が人をつまり父親を感動させなければならない。それにはあなた自身があなたの心臓と直結した音楽を奏でなければならない。そうでなければ誰の心も動かない。父親に言われたことを100%実践して完璧に演奏すれば、それも素晴らしい演奏になるでしょう。でもあなたは『違う在り方があるはずだ』と言った。だからそれを探り、確立し、あなたのやり方で人の心を動かさなければならない。あなたの父親はそれを一人きりで築いてきた。そして多くの人の涙を誘う演奏をしてきた。あなたも一人きりでそのあなた自身の演奏を築かなければならない。それには孤独を愛し、孤独に負けることなく立ち向かいなさい。それが父親という壁を超える最大の基盤になるはず。」

私は思いにかませて、これだけのことを精一杯に息子に伝えた。息子はやはり今までの気持ちの動きに納得するだけでなく、背景を理解できたと考えることで、少し元気が出たという。もやもやというのは人の心を不安にする。その一つ一つが文字になり、理解することにより、ずっと晴れやかな風景になるのだ。電話を終えて、やっとここまで来たかと胸をなでおろした。これで息子は必ず前進できる。どこまで前進できるかわからないが、また大きく成長を遂げる。あとはまた遠くから見守ていれば十分なのだった。

やはり母親だけでは育たない。だから息子はあえて父親を求めて彼の下に学びに行ったのである。そして彼は理解するもっとずっと前に、無意識に父親との対決に腹を決め、覚悟の上で出て行ったのである。父親は子供の成長にはほぼ関わらなかった。関われなかったというのもあるが、音楽が何よりも重要な彼にとって、子供に割く時間はどうしても取れなかったのだろう。それぐらいでなければ一流などにはなれないのである。しかし、父親がただの壁だたとしても、存在しているだけで息子の成長にとっては重要なことだったのだ。それを乗り越えるだけでも、重大な課題となるのである。

殴り書きで、まったくうまく書けないが、人生の節目となる出来事だったので、どうしても書き記しておきたかった。今後期待と不安をもって、見守ってゆこうと思う。

2016年9月19日月曜日

息苦しさと山と海(支離滅裂な走り書き)

本来は山に行くはずだった。山に行けばその雄大な姿に心を鎮めることができると信じていた。心の中に大きな問題を抱えている自覚はなかったが、飽きることなく私の心を乱す何かは未だに存在していた。そうしたものからすっかり離れて、自分は自由であり、十分に幸福なのだということを、都会の喧騒から離れた自然の中で確認してみたかった。

海を恋しいと思ったことはない。むしろ水平線の彼方にその広がりを思い描くだけで、眩暈がしそうになった。水の中では呼吸できないということも、酸素があふれかえる山とは違い、私の中に大きな不安を呼び覚ました。

そう言えば、呼吸ができなくなる恐怖は、私が物心ついたときから存在している一つの症状でもあった。私は何か機会があるごとに過呼吸になった。それは決して実際に予測できる恐怖を前に表れることはなく、常に表面的には一体私の中の何がそんな症状を生み出すのか想像できないほど平穏な日々の平穏な時間に突如として現れた。その度に私は死の恐怖を味わった。それは友人と大笑いして遊んでいる最中にも訪れたし、車の中で眠気と戦っている最中にも表れた。「息ができない」と恐怖に包まれた顔で訴え、苦しいからこのまま死ぬという恐怖が、おそらく呼吸をさらに激しくさせたのだろう。誰にもその理由はわからなかった。

心配した母は、私を大病院に連れて行き、相談すると精密検査を受けることになった。4歳か5歳の私に、その時の記憶はほとんどない。検査結果を聞きに行った時の、グレーの机が隅に置かれた殺風景な診察室がうっすらと記憶に残っている。子供心にも、重大な病気かもしれないと不安でいっぱいだったに違いない。母が医者の話を一部始終聞いた後、私たちは外に出た。何だったのと、母にしつこく質問を浴びせたことも覚えている。何でもないのよ、大丈夫なの、という答えに一向に満足しない私に、母は仕方なしに医者の言った所見を教えてくれた。どうやら医者は「心臓アレルギー」という言葉を使ったらしい。私はアレルギー体質で、鼻炎や湿疹などにことあるごとに苦しまされていたから、医者はこれも心臓が何等かの物質に過剰反応するアレルギーとでも判断したのだろうか。こんな病名はどこを探しても見当たらないので、つまりは器質的には異常はありませんでしたということなのだ。しかし当時、誰も私の過呼吸を心の問題にすり替えてみなかったことに、その時代性を感じる。70年代初頭であった。心療内科という言葉もなかった。子供が過呼吸で苦しんでいるのに、誰も児童心理の側面から症状を判断所しようとは思わなかったのだ。もし母が医者から、小児精神科にでも相談した方が良いと助言されていたら、心配だからこそ、それに従ったに違いない。

当時の両親が一体どのような状況にいたのかは、私には知る由もない。父は演奏家を辞めて会社員になった頃だったのだろうか。それとも起業した頃だったのだろうか。私は少なくとも表面的には幸せな両親の下、何の不自由もなく育っていたのだ。おそらく心理学的にも取り立てて問題にする点は見つからなかったろうと思う。そうではなくて、すべては私の鋭利すぎる感受性だけが問題だったのだと思う。あの頃から、自分では意識のできない何かに突如襲われ続け、それは今でも止むことなく続いている。

山には、こうした「何か」を鎮める作用がある。そう知ったのは欧州に来てからだった。私は子供の時から「息ができない」ということを口癖のように言っていた。夜中にベッドで寝ていても、突然呼吸が止まると思い、眠りに落ちることができなかった。あるいは夜中に目を覚ますと、なぜ眠っている間も勝手に心臓が動き、自分が息をしているのか理解できず、また眠れば必ず心臓が止まると恐怖に震え、うとうとしてはまた恐怖に飛び上がるという日が何日もあった。
大人になってからは、さすがにこのような具体的な呼吸の恐怖を覚えることはなくなったが、「何か」にはしょっちゅう襲われ続けた。山はこのような不安感を抑えてくれるのではない。山の激しい自然の姿に、むしろ不安感が煽られることの方が多かった。しかし山は、それを超える力を見せてくれた。自然に負けじと立ち、一度雪崩やがけ崩れでその姿が破壊されても、山自体が消えることはなかった。次の年に訪れれば、前年に丸裸になった山肌でさえ、緑に覆われ、何事もなかったかのように多くの生き物と共に再生していた。山の夜は果てしなく孤独感を感じる。真っ暗闇の中で星を見ていると、木々のそよぐ音が話し声となって聞こえてくる。まさに彼ら生きている証を聞いたような気分になった。特別な次元で時が動いているという確信を持つことができた。私はその度に、星空の下の自分の存在の小ささを見せつけられ、世俗的な悩みに潰されそうになる自分を恥じた。この雄大な宇宙の下に自分が生まれ、生きているという事実に驚きを覚え、とにかくこの偶然と不思議に敬意を払って「全う」しなければならないという、ある種の使命感を感じた。おそらく生ききるとか、耐えきるとか、そうしたことを全うと感じたのだと思う。

こうした体験が重なるにつれ、私は山を時折求めるようになった。

今年、久しぶりに休暇に行かれるということになり、どこに焦点を当てようかと考え、迷うことなくアルプスへ行きたい、そう思った。
旅というのは私にとっては常に再訪である。新しい土地への関心がないわけではないが、大人になってからというもの、常に何かを上書きしたいかのように、どこかを再訪することを考えている。そしてアルプスは私がそうした力を得ることができた魔力のある土地として、心の中にしっかりと位置づけられていた。今年はアルプスを訪れ、自分の微小さを感じると同時に、その核に触れ、自分という存在の手ごたえを手にすれば、「全う」するのだという十分な意思が沸き起こり、それが小さな幸せの実感につながり、心の中を恐怖なく泳ぎ周ることができる自由を手にできると思っていた。

ところが、私は何の前触れもなく海に変更した。それも生まれてから訪れたことがある土地の中で最も南に位置する島だった。その島を訪れた背景は、説明することさえ躊躇したくなるような悲しいものだった。
一家の、そして私自身の精神をなんとか正常に保つには、初めて築いた家族を壊すことが唯一の解決策であると、数年苦しんだあげくに決心を下したその春が去った夏、私の築いた小さく脆い一家は、もう一度一つになってこの島を訪れたのだった。
なぜ、突如あの島に行きたいと思ったのかは説明できない。

その海の話は、また体力と気力がある時に書こうと思う。


2016年3月13日日曜日

ラディッシュと母

料理をしていると嫌でも母を思い出す。母の元気だった頃を。

昨日友人を招いたのでお酒を飲むにふさわしい軽食を色々と用意していた。
ラディッシュをスライスしていたら、新鮮な葉を捨てるのはもったいないなと思い至る。
いつものことなのだ。母がドイツに来たときは、日本ではあまり見かけないラディッシュ一束を好んで買い、その葉もきれいに刻んで美味しいサラダを作ってくれた。
ラディッシュの葉も食べられるのよと教えてくれたのは、もう10年以上も前の話である。
それ以来、ラディッシュを買うたびに、つまり少なくとも月に一回は、この野菜を切りながら母のことを思わずにはいられないのである。
葉を捨てるたびに、毎回胸が痛む。葉を捨てずにサラダにしても、やはり胸が痛むのである。

自分で築いてきた生活の中に、母の姿はあまりなかった。
外国に暮らしているため、母が生活の一部のように訪ねてくることもなかった。
そんな日常で、母の姿が野菜と共に、突如鮮明な記憶として蘇ってくる。いや押し寄せてくるのだった。それは、必ず苦く痛みを伴う記憶だった。

もしも、今も母が元気であったとしても、母が何千マイル以上も離れている限り、痛みや苦みが癒えることはないのだ。
離れている悲しみなのではない。そうではなくて、私を苦しめるのはそばにいないことの罪悪感である。それは母が老い、元気を失っていくのと共に年々深まって行く。そして
卑怯な私は、痛みが大きくなるにつれ、ますます電話をかけなくなった。母のためを思えば、一層頻繁に電話をして、私の話しではなく「声」を聞かせることのみを目的とすべきであるというのに、私は痛みを感じるのを無意識に避け、自分の日常に没頭しているふりをしている。

母親の老いとは、子供にとってこのように向き合いがたいことなのかと改めて驚いている。日本に残っていれば、私とて母子一体のまま、行ったり来たりを重ねて、本当の意味での自立を達成できなかったかもしれないと思う。
埋めようのない距離が二人の間をバッサリと割いていたからこそ、私は人生で決定的な分岐点に立った時に、母の顔を見ず、帰国せず、相談をしないという道を選択した。一人きりになって、何の雑音も意見も助言もない状況で、まるで真空の世界のように無音な状況で、自分のこの先を見定めたかった。それだけ大きな責任を負っているという意識があった。
あの時、日本に住んでいたら、無音の世界を作ることは決してできなかった。つまり本当の意味での自立を強行することはできなかった。それが日本の良さでもあるし、日本独特の母子の構造であるとも言える。

この自立を成し遂げたあと、私にとっての母は、守るべき存在に代わり、もう誰も守ってくれる人はいない、子供も母親も、私が守る番なのだということを痛く実感した。それが大人になったということだと思った。30を過ぎた頃だった。

この時点を超えてもう20年近く経つ今に至るまで、私は何一つ母に返せたという実感がない。幸せのニュースを告げることはできたが、母の与えてくれたことを思うと、それではとても足りない。

しかしそれが親というものなのだ。親からもらったものと同等のものを返すことはできない。そして自立した親ならば、そんなことは望んでいないのである。

しかし、それを納得したところで、痛みと苦みを消し去ることはできない。私は老いから逃げているのである。日常の平穏の裏に隠されている私自身の老いを「生きる」ことで、実は精いっぱいなのかもしれなかった。認めたくない自分の老いが時と共に迫り来るのを感じながら、親の老いを考える時、それは無意識の中で自分の将来の姿に重なり、触れずにいることでのみ、私自身の「老いへの日々」を何の痛みもなく突き進むことができるのかもしれない。

そして自分の勝手さを噛みしめながら、自分を少しは責め、そして親が「元気に老いる」ことを密かに望んでいる。

その自分の姿に触れるのが嫌だから、電話をかけなくなったのである。
以前のように母の意見が大切なものだとは思えなくなった「自分の大人の時代」が開始していらい、電話は報告になり、その後義務になり、そして触れたくないものになってしまった。

声を聴かせ合うことが思いやりの基本であるにもかかわらず、声しか交換できない者同士のコミュニケーションには、声から様々なことを聴きとる習慣が成り立っている。
平穏の裏に実はずっと流れ続けている現実を凝視できない。
どんなことにも真っ向から直面して、まるで挑むように乗り越えてきたと、そういう実感がある私でさえ、この現実は凝視しないと決めているようなのだった。

ラディッシュを切る時、私はいつもむな苦しくなる。時には涙さえ流れてくる。しかし解決はないのだった。生きるからには死が来る。そのどうあがきようもない自然の掟こそ、やっと日常が平穏になった私の身に、最も堪えることなのだと、今思い知った。半分というターニングポイントを過ぎた人間の背後には、死への葬送曲が聞こえるか聞こえないかのような、かすかな気配を見せるのである。それを感じ取ってしまったら、平穏というカモフラージュを駆使して、静かに最期を待つしかないと思い知るのだった。しかし親の老いを見ることで、その現実がふと前面に押し出される。それをまたすぐに押しやるために、私は日常を生きているのだった。そのために日常はあるのだと、それも今にして分かった。

子供達の瑞々しい人生を見ていると、心の奥から深い満足感が湧いてくる。それぞれの人生を生き抜く力を与えてやることができた。それ以上は何も望まない。
しかし、私自身はとうとう日常生活を「つき進むべき道」としてではなく、「現実への蓋」として使うようになっていたのだった。

そんな逃げ腰の生き方をとうの昔に通り越した自分の親のことを思えば、彼らは実に静寂に満ちており、私は何の罪悪感も恐怖感も抱く必要はないはずなのだった。

私は私自身の「自然の摂理」を恐れているだけであり、実にエゴに満ちた小心から来る理由で、自分の蓋をしっかりと閉めているだけの話なのだった。

ラディッシュを見るとどうしても買いたくなる。母のようにサラダを作りたくなる。しかし葉を捨てるか使うか迷う段階で、必ずどうしようもないジレンマにかられ、大抵は葉を捨て、そして一晩胸の痛みをさすって癒す。

そして母を思う。
子供も孫も育ち、身体が追い、精神がかすみ、きっと随分と寂しい思いをしているだろうなと。


2015年10月12日月曜日

星空

眠れないほど心の中が乱れたのはもう何か月ぶりだった。
自分でも理解できないような穴にはまり込んで、理性が働いているにもかかわらず、病的なループのように状況を悪化させるばかりのことを話していたような気がする。

余りにも眠れなくて階上へ行き、ソファの上に寝転がった。二枚毛布を重ねて猫のように丸くなり、秋の澄とおるような星空を見上げた。
いくつもの星がはっきりと空に浮かんで見え、そのいくつもが光を揺らめかせながら瞬いていた。
一瞬にして想像を超えるほど遠い宇宙に心を馳せた。秋風が吹き抜けるような寒さを感じた。
辛い時は必ず寒気を覚える。それは18歳のころからずっと同じだった。

星の輝きを飽きずにずっと見つめながら、過去何十年もずっと変わらない自分が、まるで10代の頃の未熟さのままそこに座っているような錯覚を覚えた。意識は10代の頃と変わっていなかった。ものの見方も人間への期待も、大して変化はないことに唖然とした。幾分落ち着いて、色々なことを平然と受け止めることができるようになったけれど、何かをお腹の底から話そうと思えば、悲しくもないのに、自分の感情に押しつぶされそうになり、涙をこらえることができないのも、全くあの頃と変わっていなかった。

星の光が届いたのは今晩だけれど、この星が一体今も輝いているのかは謎だった。それほど星というのは遠いところに存在している。
時空を超える遠いところに今現在の光を失った私がいて、今私の心だけが、時間差でこの星の光を浴びながら再び10代の頃のように輝いているのだろうかと、不思議な考えに陥った。肉体は輝きを失ったけれど、あの頃の心はところどころ光を放ちながら、全く変貌を遂げずに存在しているような気がしていた。

幾ら学んでも、肌を分厚くしても、理由を理解しても、私の頑なさや脆さや激しさは一切変わることはないのだった。そんなことをこの年になって真夜中に実感し、やはり少し落ち込む。こんな自分自身と死ぬまで付き合っていくのも本当に大変だ。

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断絶は始まる前から見えていた。言い換えれば断絶のない人間関係はない。100%の理解は不可能なのだから、至る所に小さな断絶が見え隠れしているものだ。大切なひとでなければ、その距離感こそ健全な関係の基本であるが、大切な人との断絶は一体どこまでが健全で、どこからが欠乏なのか私には未だにわからないのだった。

とにかく私は辛くなると断絶を生じさせる。辛いから人を求めることは今まで一度もなかった。辛くなると決まって周囲を遮断した。自分の存在の底辺から知らない間に、また起き上がり、また笑う力が出てくるのを一人きりでずっと待っている、きっとそういう行為なのだ。

久しぶりに徹夜に似た夜中を過ごし、今日は一日中疲労感で一歩も歩けないほどである。ここでまた、肉体の衰えを感じる。肉体はごまかすことができない。考えてみれば、幾つになってもこんな未熟な心を抱えながら、それでも身体は衰えていくのだから、人間は実に滑稽な生き物だなと思う。個人の成長を自発的に求めて、毎日少しでもましな人間になるべく、随分頑張ってきたと自分ではそう言う実感がある。しかし、本当に個人的に成長できたのかどうか、その辺はまったく判断できない。あの苦しかった何年も乗り越えてきたことで、自分は強靭になり、打たれ強くなり、決してクラッシュしない精神力を鍛え上げた、それが唯一はっきりと公言できることである。しかし私は思考や物の見方や対人で、少しでも大人のようになれたのかどうか、そこは全くと言ってよいほど自信がないのだった。

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しかし、熱く煮え切らない人間が嫌いなのは言うまでもない。決断できずにそのままさらりと生きている人間も、人に決断させる人間も、どちらの態度も許容できない。毎日がまるでサバイバルのように感じてしまう私には、同じようにサバイバル感覚で生き抜こうと日々激しい闘いを繰り広げている人が合っているのだろうか。思えば最初の夫は、実に私にぴったりの人間だった。しかし絶対に相いれないエネルギー同士の撥ねつけ力が強すぎ、二人は消耗し切ってしまった。
あの生きているという実感。あの隙のない全力投球の時間は、別れた後も続き、子育てが長引くとともにさらにそのインテンシブさを増した。
今は、全く違う。「年相応」の生き方を身に付けたことは確かだろう。しかし子育ての難しさからも解放されてしまった私は、毎日のように欠乏感に苦しみ、からからに乾き切った喉が焼き付いてしまいそうなのを感じながら、未だに一人で溺れかかっている。そこに岸はあり、そこに植物が育ち、そこに果物も暖かな空気もあるというのに、私は未だに好んで激しい波の中へともぐりこんでは溺れ槽になることを選択している。頭では理解できない生き方である。人を巻き込む危険のある今、私は自らまた断絶を深く掘り続けてしまうのだろうか。
断絶が、自己防護であると同時に他者の防護でもあるのだろうか。
なぜ、断絶を埋めるために土を盛れないのだろうか。
それはおそらく、土を盛り続けたのにまったく穴が埋まることがなかったからなのだ。トラウマのように、私は土を埋めずに、溝を掘り続け距離を広げ、ゆっくりと離れていくことを好む。埋められない断絶を知るより、自分がもっと断絶を深めてしまった方がよほど楽なのだ。

これは一体強い心なのか、それとも社会に順応できないほど弱い心なのか、それすらわからずにいる。

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星は今夜も瞬きそうである。すっかり冬らしいキリキリとした空気になってしまった。私は月末に遠いところに逃げようかと計画を立てている。しかも大切な人なしで、何の予告もなく。この冷たさで人を傷つけるのは本当に良くない癖である。しかしいつまでも機能するばかりの生き方にもうこれ以上耐えられないという自分もまた別に存在しているのも事実である。

どうなるのだろうか。


2015年10月6日火曜日

娘の最終章

思えば娘のことばかりを考えてきた。親として彼女のために何かを考えてやったことは殆どない。そうではなくて、如何にすれば私自身が彼女から逃れられるのか、そう考え続けてきたのだ。娘のことを思い浮かべると、どうしようもない良心の呵責に身の縮む思いをしてきた。酷い親だったのだ。しかし酷い親なりに、苦しみ抜いて常に格闘してきた。子供と格闘するなど、一体どんな親なのだろうと人は思うに違いない。しかし実際、私自身が病み、彼女の父親に追い込まれたように、自らを病人とでも思わなければ、とても尋常な精神を保っていられなかった。本気で苦しみ、本気で自分を責め、本気で娘に立ち向かい、本気の感情を娘にぶつけてきた。おそらく、本気の感情をぶつけるという最後の部分に関しては、親としておそらく決して見せてはいけない態度であったのかもしれない。
それでも、娘が私を見捨てることはなかった。

今思いなおしても、未だに一体どのような関係なのか理解できない。娘の父親と自分との長年の関係性においては、最初からはっきりとしたパターンが生まれ、その関係をいくら変えようと思っても、底なし沼のように深みに引きずり込まれるばかりで、全く解決への糸口が見つからなかった。やがて私は毎日のように頻脈に悩まされ、閉所に入れば突然嗚咽に襲われ、何かを注意されれば泣き叫んで謝罪するという、まさに病気としか
説明のしようがない状態に陥った。
何かを境目に、身近に存在する人間によって自らが系統的に崩壊に導かれていることを悟り、自己防衛から自己確立へと足掻き始めてから、「別れ」という解決しかないのだということが、うっすらと見えてきた。

このまさに記憶として失われた10年の歳月に体験したパターンの種は、娘の生まれた頃から着々と彼女と私の間に撒かれていたのだった。

娘はその父親に瓜二つであると確信した私に育てられた彼女は不幸だったのである。
それを察してか、あるいは生まれつきなのか、物心の付いた彼女は私にさえ警戒心を見せ、抱締めても、さすっても、何をしても慰め様がなく、ただただ身体を硬直して、抱きしめられることを拒絶していたのだ。このような彼女の態度が私の親としての自信をさらに小さくしたことは間違えない。

しかし今、私は心の底から、誰よりも彼女を深く愛していたのだと思っている。そうでなければやはり説明が付かない気持ちが心の奥深くから湧き出してくるのだ。
私が彼女の父親を愛さなかった日は一日たりとなかった。彼女の父親を心の底から憎いと思った年月も短くはなかった。それでも私が身を投げてまで関係を修復しようと必死に自分を殺してきたのは、それよりももっと奥深くから、彼自身の肉体を剥いだ中にある、その魂のような部分を愛していたからとしか言いようがない。そう言う意味で、私は心の底から嫌った日にも、やはり自らの気づかない次元で、彼へエネルギーを投入してきたのだった。
エネルギーを投入するということは、祈りと同じことである。欲や言い訳から切り離された祈りは、純粋な愛を求めている姿である。そう思えば、私はずっと彼を愛してきたのだった。
同じように、色々な意味で紙一重の関係しか持てなかった私と娘は、それでも常に互いを見つめ合ってエネルギーを投入し続けてきた。その大半の年月は火花が飛び散り、私は娘を壊し、私自身も娘の絶え間なく激しく責め立てるエネルギーにひどく壊された。

彼女の責めは、しかし病ではなかったのだ。そして私に計り知れない落ち度や悪があったわけでもない。長年私たちの不安定極まりない、そしてドラマの耐えない苦しく嘆かわしい家庭生活の真ん中で、まるでものを言わぬぬいぐるみのように存在していた長女の娘は、他の誰よりも過敏な感受性を持て生まれてしまった。何年間も口を利かず、2年間帽子をかぶったまま過ごし、小学校に入っても私の手を離すことができなかった彼女の無言の心の中にたまった叫びであったといえば、今の私には納得がゆく。募り積もったどこにもはけ口を見いだせなかった10年分の心の錆が、思春期という恐るべき正体を暴き、姿を晒す現象によって、ついにはけ口を見つけ、そして彼女は私が暗黒の5年間と名付けたあの思春期に、すべてを口から火を吐くように噴出したのである。

娘の姿は小さな子犬のように愛おしかった。
彼女の下着や靴下を見るだけで、涙があふれてくる、そんな寂しい背中を持つ子供だった。
バイオリンの稽古にも通えず、ずっと私の洋服の裾を引っ張っていた。初めての発表会で、彼女は舞台で突如泣き出してしまった。これはすべて彼女が弱いからではない。彼女を取り囲む環境が、人間ドラマの中でも最も悲劇と言えるシナリオを演じていたのである。そして彼女の両親である私たちは、目を見るだけでその瞳の奥のすべての言葉を理解しあってしまうような、言葉で取り繕うことは絶対にできない生々しい、皮膚を持たないような関係にあった。その両親の間に挟まっていた彼女の感受性が、「普通の生活」を送れるような肌の厚みを持っていなかったということを察するのはそれほど難しいことではないのかもしれない。

実際に思春期がどうであったか、まるで彼女の父親との結婚生活のように、その記憶はほぼ抜け落ちている。しかし、本能的に私は2度目の夫に別れを告げ、来るべきものに備えるかのように、子供達と私だけの環境を整えた。うろ覚えの記憶を引きずり出して考えてみれば、覚悟を決めたのだった。意味のない面倒ばかり持ち込んでくる子供とは関係のない男をきれいさっぱりと整理し、私が実はないがしろにしてきた子供達に全面的に向き合う覚悟を。
おそらく第一の夫との離婚後、支えてもらわねば私は前進できなかったのかもしれない。悪夢にうなされなくなるまで、およそ一年かかった。子供も私も病気ばかりした。何も思い出せない。
第二の夫は、文字通り私に笑顔を取り戻させてくれ、新しく生きる場所を提供してくれたのかもしれない。ターニングポイントの鍵のような人だったのだ。それだけの象徴を持っていても、生活には縁のない人だった。

子供達と私だけの家庭は温かかった。最初の一年は、希望に満ちていた。しかしやがて才能教育補助まで受けていた娘がバイオリンを勝手にさぼり、オーケストラを止め、学校に行かれなくなり、一年間日中はベッドで過ごすまでになった。私は本を読み漁り、ものを書いて理解しようと努めたが、足元の全く見えていない愚かな親のごとく、役所や病院を毎日のように駆けずり回った。そして狂ったように仕事に逃げた。

その頃からの5年間、私と娘は暗黒の時を過ごした。長男も末っ子も私と彼女の日常的な確執に、決して消すことのできない傷を受けてしまった。娘を愛せない自分を責め、他の兄弟たちに姉は病気だと言い聞かせ、それを娘には隠した。長男は優越な立場に立ち、自分の思春期とも合わさって娘の心をひどく傷つけた。暴力沙汰になるほんの一歩手前だったのだ。色々な部分が紙一重だった。

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娘はしかし天使のように優しい。それは悪魔の裏面ではないかと疑いたくなるほど、純粋に優しい子だった。誕生日には必ず何日も前から何かを手作りして、丁寧な手紙を添えて私に贈ってくれた。おこずかいをやり忘れる酷い親だった私のせいで、時に道端に捨ててあったものなどを拾って、それに手を加えて物入れや花瓶などにして贈ってくれた。添えられるカードも手が込んでおり、刺しゅうや美しいイラストが描いてあった。書いてある文章は「ママ大好き」という内容に尽きた。
娘は今でも私に必ずプレゼントをくれる。一流の菓子店のケーキや、仕事が忙しいとリラックスして欲しいという思いで入浴剤をくれることもあった。最近はあのブレスレットが気に入ってると話したら、バイト代をはたいて、それを贈ってくれた。無論肌身離さずに身に付けている。
このような贈り物は、儀式だといえばそれでおしまいだが、贈り物を考えたり、買に行く行為は愛情がなければなかなかできないことである。娘は年に二回、誕生日とクリスマスに贈り物を欠かしたことがない。お金が一銭もなくても、色々なものを工作してくれたのだった。
その愛情はまさに人に対するエネルギーに置き換えられるものである。彼女は愛する人に惜しみなくエネルギーを注ぎ続けている。
傷つけられた長男に対しては恐れをいだきながらも、それでもまだ彼女は彼を愛する試みを怠っていない。これは私は親としても彼女に敵わない点であり、非常に尊敬している。彼女の筋の通った愛に対する能力は、私の比ではない。だからこそ、彼女は音楽に対しても、私の数十倍のエネルギーつまり愛情を費やしているのである。これは父親にあやかった素晴らしい才能であろう。

やがて娘が家を出ていった。私は心底ほっとし、心から応援してやった。しかしお金を援助してやるほどの愛情はなかったのかもしれない。自分で稼いで世の中に打たれてほしかった。そして右も左も区別できなかった彼女は、立派に仕事をこなし、ものの一年で立派に自立したのである。その頃から、娘の関係が激変し、私たちは深い次元で最も近しい存在であり、ほとんどの物事に対して、殆ど同じ考えを抱き、出来事を殆ど同じ感覚で受け止めているという確信を一瞬にして感じ合うことができるようになった。その近しさには信じがたいものがあった。
父親と瓜二つ、だから父親に対する関係と同じパターンしか築けないと勝手に知ったような顔をしていた私は、彼女が自分に瓜二つであることを知り、衝撃を受け、自分を激しく恥じた。

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娘を送って行った朝、私の脱力感は尋常ではなかった。
たった2時間で飛んで行かれる街である。しかし彼女はもう「直ぐそこ」に住んでいるわけではないのだった。その事実が私を打ちのめした。コーヒーを飲みに行ったこともなく、二人で出かけることもなかった。それだけ接近すれば、また元の木阿弥であることを互いに無言のうちに承知していたのだ。
しかし彼女は一週間に一度は私たちを訪ねてきた。そうすればご飯を食べさせてやりたくなり、お金もあげたくなった。お茶も入れてあげたし、洗濯もしてあげた。驚くことに随分話をするようになった。そして私は彼女の人生の発展に心を弾ませていたのだ。まるで、自分自身が二十歳だった頃を目の前に走馬灯のように見ているようだった。
ああ、私は再体験しているのだ。ああ、こうして魂が再び生き返るのだと実感するにつれ、彼女という存在に心から感謝するようになった。子育ての苦労など、決して嘆いてはいけない。恥を忍んで言えば、今更、私は今更になって、そういうことが理解できるのだった。子供は必ず少なくとも相応のものを返してくれるのだ。私の場合は、与えたもの以上を娘からもらっていると思って神に感謝している。

娘の教えてくれた音楽、娘にもらった香水やアクセサリなど、影響を受けているのは私の方で、彼女こそ、人生の真っただ中にいるのだと思い知らされた。そしてどこからともなく、確信が湧いてきた。あの子はやり遂げる。やり遂げないわけがない。あの子のような特別な感受性と、特別なエネルギー、そして天使のようにフェアで純粋な心を持った人間がやり遂げないわけがなかった。しかしそれだけではない。彼女には人を撥ねつけるような強さも備わっている。人を押しのけてものし上がっていくような図太さも持っている。それほどアンバランスな彼女は、やはり簡単な人間ではないが、私のように揺れ動いて時間を無駄にすることはないだろう。彼女は20歳にして、すでに私のあの頃よりもはるかに安定しているのだ。

たった一日でも、彼女が行ってしまった事実を目にし、私は身体に大きな疲労感を感じた。脱力したのだ。心のどこかからエネルギーを吸い取られてしまったかのように。彼女から逃れることこそ、私の長年の夢だったはずなのに、彼女が去った後、脱力したのは私なのだった。

子育てに余裕がなかったのがいけなかったのかもしれない。私だってやれるだけのことはやったという実感はある。自分だって倒れる寸前だったのだ。今度私が手術するのだって、あれだけのストレスを何年も抱えて、何も影響を残さないはずがないと考えたことが、命中したのではないかとさえ思える。
それでも、親として全く至らなかった私の子供たちが、一人前に育ってゆく姿を「見送る」のは辛い。十分に家庭らしいことをしてやれなかったという罪悪感に加え、それでも育っていく彼らを見て、自分という存在の無力さもまざまざと突きつけられる。
来年は長男がこの地を去る。
末子が大学生になる頃、私はもう口を閉ざし、親らしい口をきくことは控えるべきなのだろうと思う。「親」は子供の安全圏を確保するために子供を「監視」する権利はあっても、「デカい顔」をする権利などどこにもないのだ。子供の伸びていく力の方がよほど強く健全である。独自に成長しようとする力を親がへし折るからいけないのだ。そう言う意味で、何もしてやれなかったけれど、子供をへし折るほどの力もない私は、まだましだったのかもしれない。

娘の成功を心より祈っている。