2023年8月21日月曜日

大人への道 ― 無力な親

子供が大人としてはばたく時に寄り添いながら、その血を垂れ流して瀕死の状態にある顔を見ながら思うのは、自分自身がどんなにか親に心配をかけたかということだった。私自身は自分のことに精いっぱいで、親の気持ちなんて努力したところで到底わかるはずもなかったのだ。しかし、今親になってしばらくたち、子供たちが一人ひとり大人になる過程へと飛び込んでいく様子を見ながら、やっと自分の親の気持ちの一かけらに触れたようなそんな気がした。

忙しさにかまけて、いや仕事が忙しいのはいつものことだが、長男の問題が絶頂に達したため、精神的な余裕を失ったとたんに、父のために設けた小さなミニ仏壇まがいのスペースをすっかり疎かにしていた。見るたびに心苦しく、何を伝えればいいのか、何を訊けばいいのかも分からず、いつも通り過ぎていた父の写真の前に立ち、改めてお線香を焚いて手を合わせた。今日、2度もそれをやった。

私が大人になるまで、いくつもの試練があった。大人になってからもたくさんの苦労に見舞われたが、父や母はそれをどんな気持ちで見ていたのだろうか。
私が親に悪態をついたことはなかったけれど、それでも喧嘩したことは何度もあった。どんなに怒られても、私は最終的に親の強い愛情を感じずにはいられなかった。
そういう愛情を軸に、子供というのは親の気持ちも知らずに自立の道を歩んでいくものなのだ。親の気持ちなどまともに考えたことはなかったのだと思う。私自身の子供たちも、年齢的には全員成人したのだが、誰一人として一人前になったとは言えない。自分の20代なんて、今から思えば本当に世の中への扉を開けたぐらいで、まだまだ片足は子供時代に足を突っ込んでいたとしか思えないのだから、自分の子供たちが完全に大人になるのはもっと先のことだろうと思う。

子供たちの大人への道のりが順調ではないだろうということは、ずっと昔から気が付いていた。彼らの育った環境を思えば当然のことなのだ。それでも、彼らがもがく姿を見るのは楽ではない。今その渦中にいる長男も例外なく、血を流すような苦しみを味わっている。

人生というのは不思議で、多数の小さな「真っ直ぐでではない事柄」が長年にわたって無視された後、やがてクライマックスに到達するときちんと瓦解するのだ。クライマックスに達すると様々なことが同時多発する。そしてクラッシュすると、人はどん底に近いほどの深み突き落とされる。今思えば私にはすぐにわかる。この若き日の第一の奈落の底こそがチャンスなのだと。それから正しく築き直し、諸々の出来事に対する自分なりの対処の仕方を学ぶチャンスだということが大人の私には見える。しかし、当人は、社会になじめない自分、他とは違う自分に大きな劣等感を抱き、ひたすらカメレオンのように状況に自分を合わせることを学ぶ者もいれば、夢のために、目的のために突き進んでいた自分が、ある日突然完全に崩壊して逃げ道に走ることもある。自分を偽らない生き方とは何なのか、社会に身を置きながら、自分を見失わず、自分を壊さない生き方とは何なのか。果て、自分とは一体誰なのだろうか…。そういう存在の根源的な問題にぶつからなければ、本当の意味で大人にはなれない。その問題にぶつかる衝撃の度合いは個人差があるだろうけれど、創造的な人は特に、その衝撃が大きい気がする。

私は創造的な人間であるはずもない。何も生みだしたことがないし、そんな能力もないからだ。しかし、創造的であれという職種の家庭に生まれ育ち、親戚の中にも芸術を生業にしている人間が何人もいる。そうした価値観で育った私自身の大人への道の衝撃は大きかった。そして、筋金入りの創造的人間との間に生まれた子供たちの道のりの衝撃は、家庭崩壊した歴史背景もあって、それよりもはるかに大きく深いようであった。今回は、長男の衝撃である。
辛いのは、助言など与えることができないということだ。子供と言っても十分な大人の思考力がある。ただ、彼らには人生から距離をとって俯瞰するという余裕も考えもない。ただただ、波にのまれて溺れそうになりながら、自らの哲学を紡ぎだしたり、自らの主張を掲げて「自分」の主観を大きく語る。そりゃそうだろう、そうでもしなければ溺れるんだから。

親に求めるものは、「圧力をかけずに、自分に健全に期待して欲しい、苦しい時は寄り添い、関心を持って自分の人生に関わって欲しい。でも、もう一度言うけれど、自分はもう自分を曲げるつもりも、誰か他の人のようにふるまうつもりも、誰かのために何かするつもりもないから、信頼しつつ、野放しにして欲しい」というような壮大なものなのだ。そうとわかると私は固まってしまう。長男の未来に触れることも、長男の気持ちを訊くことも恐ろしくなってしまう。質問に罪がなくても、ノンバーバルに伝わることがある。いくら理性的に正当な質問を投げかけても、私が自分自身ですら気が付いていない息子への期待が、まさに言葉とは関係なく伝わってしまうこともある。自由に「本当の自分自身の人格を生きる」というのは、まさに人生の大きな課題でもある。それには自分自身を見つけなければならない。そのとき、「そんなくだらないことを考えずに、早く大人になって、これとあれとそれというおまえの義務と責任をしっかりまっとうせい!」と怒鳴ってくれる父親像をいつも心に描いている。私自身が父に何度も怒鳴られた場面を何度も思い出す。私は無論反抗を試みたが、父が怒鳴るという壁は大きかった。父には何の論理武装などなかったが、父の言葉は常に痛い矢となって私の胸に突き刺さった。
その役割を、私自身が子供たちに対して全く果たせていない。私は固まって言葉を失うばかりである。無力さを実感し、非常に情けなく自分をことごとく親として無能に感じる。母親だからだろうか。

結局、私は私の人格から生じる、自分のやり方を手さぐりで見つけていくしかないのだ。別の人格と真剣に対するとき、自分の人格を取り繕ってもすぐにばれる。そんなもの通用しないのだ。
子供と話すとき、「ママのときはね」と言うのはあまり良くないのではないかと思っている。子供と私では時代も背景も違う。子供は自分と似ていることがあったとしても、まったく別の時代を生きる、性格も異なる別人なのだ。その別人に、「ママにもそういうことがあったからわかる」という話し方は、ごく限られた場面でしか効果がないと思っている。すくなくとも子供が聞きたい話ではない。私が子供を理解したことを感情をもって伝えるために、私の経験談を出す必要はない。相手の話を聞くということは、自分に話しを振らないということなのだ。
だから私は耳をそばだてる。長男の言っていることも理解できるし、気持ちも理解できる。何とかなんらかの方向性や希望をあげようと考えをまとめている矢先に、息子はすでに自己完結しており、さっさと私が言おうと思った答えを自分で言っている。「ママのの話が終わるのを待つのも、考えをまとめて話のポイントを言うのを待つのも、そんな忍耐はない」との賜った。

私も年を取ったなと思う。仕事では第二母語のようになった外国語もすらすらと間違えなく出てくるが、感情的になるとどうも支離滅裂で毎日すらすらと話す外国語の速度が遅れる。結局母語ではないと、理路整然と言いたいことがわかっていなければ、話す速度が落ちつということらしい。まあ、それ以外にも最近、本当に脳みその瞬発力がなくなったと日々実感している。


話が横にそれたが、長男の話を聞けば聞くほど、子供というのは実に自律的に機能するもので、どこかで答えを知っているのだという確信を得る。よって子供を信頼してやることしかできないという、下手すれば投げやりにも聞こえる答えに辿り着く。本当はガミガミ親父のような父親がいてくれればと望んでいるが、そんな人はいないし、子供の将来に対して現在責任を担っているのは、子供自身と私しかいない。そうなれば、仕方なくても私が対決するしかないのだ。自分のやっていることが正しいのか、あるいは何をやっているのかさっぱりわからない不安の中、文字通り手探りしながら子供に立ち向かう。そして最終的には、多くの場合子供自身がほぼ答えを出していることを知るのである。ここが思春期とは違うところなのかもしれない。しかし、思春期の方が大変であったと思うが、あの頃は子供に助言する言葉が天から絶え間なく降ってきた。「あれもこれも、話にならない。そっちに行ってもだめだ。こっちに進んで、このように考えながら進め!」といくらでも言うことができた。そして子供たちは反抗しながらも、まだまだ生活を親に依存しており、結局従うしかないという結果になることが殆どだった。
だから、思春期の方がドラマは大きく、次から次へと絶え間なく学校だ友達だと問題が発生し、日常生活の至る所で反抗され、まったく言うことを訊かなくなった子供に手を焼く。その労力はおそらく今よりもずっと大きい。しかし同時に、親としての役割を果たそうとしている無我夢中の自分を確実に実感することができた。

ところが、今はどうであろう。親としての役割すら果たせていない自分を発見したのである。親の役割とは何か、それを改めて問い直す分岐点に到着したような気がするのである。今までのような関わり方では通用しなくなり、子供自身が親に求めているものが変化していることに気が付く。結局、このターニングポイントに生じた何らかの事件を基に、子供、つまりは長男に「新たにめぐり逢い」、彼が自立の道をとうに歩き出していることに気づかされたということかもしれない。

何はともあれ、私は父のことをインテンシブに思い出した。今日こそ父の助言を訊いてみたいと思った。おそらく「人生なんて分かんないからな。なるようにしかならない。」と言い捨てられて結局は何も言ってもらえないのがオチなのだろうと思う。けれど父亡き今、父の立場を改めて思うと、すっかり大人になった私に何を今さら教え込めるというのだろう。「意見は何とでも言えるが、答えはおまえが出すしかない。何も言うことはない、自分で考えろ。」そういうことなのだと納得がいった。そして、私自身もしばらくしたら、長男にもこれ以外の答えを出してあげることはできなくなってしまう。今、その入り口に差し掛かっているということに気が付いた。彼はまだ大人ではない。だから私は寄り添い、見守らなければならない。足を踏み外しても見守り、傷ついて血を流してもずっと見守る。明らかに間違った方向に行ったら、取り返しがつかなくなる前に助け舟を出しに行く。常に本能を研ぎ澄ませて、相手に関心を持って視界から離さない。それが見守ることなのだと思う。

私の精神もまだまだ健全とは言えない。そんな中、本当に次から次へと問題が生じてくる。それも超ド級の深刻な問題ばかりだ。それに耐えなければいけない。そのために私は充電しなければならない。子供がもうすぐ大人になれるからこそ、もうすぐあと一歩で自立できるからこそ、その前で血を流している。私もあと一歩で静かな老人への道を歩みだす、その一歩手前で今一度最後のエネルギーを振り絞らなければならないということなのだ。

子供、いや家族のコンステレーションとは非常に面白いもので、子供が三人いると、誰かが問題を抱え、その問題が一段落してしばらくすると「必ず」また違う誰かが同じぐらい大変な問題を持ち出してくる。そしてすべての問題が進行形のまま、交互にそれぞれの山場が襲ってくる。1人が治まったと思えばまた次といった具合である。実存の問題が完全に解決するには長い年月がかかるから、常に進行形なのであるが、それでも一番苦しかった娘の問題は随分と平坦になってきた。山場がエベレスト級ではなくなってきたのだ。それと並行して私のエネルギーも消耗しつつあるのだが、あともう少し。子供たちはきっと立派に大人になる。そう信じて毎日重い体に鞭を打って起きている。

物心ついた時からインテンシブな人生を求めたのは自分だった。それを裏切らない人と結婚し、文字通りドラマに力尽きて別れたが、子供たちが理想通りのインテンシブな人生を未だ与え続けてている。皮肉を込めた物言いだが、つまりはすべて望み通りの人生というわけなのだ。文句を垂れる資格はない。自分が望んだことが原因で今の人生がある。私は死んでも負けない。できることがある限り、絶対にあきらめない。私は立派なことは何も成し遂げられなかった。だから人生のモットーは、ただ一つ「あきらめない、逃げない」これだけである。
明日も、頑張ろうと思う。

2021年9月2日木曜日

音楽を忘れてはいけない

いずれその時がやってくるのはわかっていた。
母を施設に入れるまでも、それは大変な道のりだったが、こんなにも早くそして突然父の問題が生じるとは、正直想像していなかった。
どちらにせよ、父は一か月半にわたる検査期間を経て、大手術に挑んだのである。手術時間は10時間以上となり、輸血も行われた。
そして、2週間が過ぎた今、父はいまだに歩行できていない。コロナ禍で面会制限となっており、実質誰も父には会いに行かれないのである。それなのに、入院期間は最低1か月、場合によっては2か月を超えることもあるらしい。大手術後の痛みと苦しみだけでなく、一人切りで過ごす夜中、明け方を父はどのような思いで乗り越えてきたのだろうか。それを考えただけでも心が痛むのである。父は少なからず「死」を身近に感じとったはずである。そして何度となく、これ以上生きる意味や気力を問いただしたはずである。老いとは、本当に酷なものである。老いと共に、人間が仙人のように成熟してゆけばよいが、自分を振り返っても、今の自分は20代の頃の敏感さや弱さをまったく改善できていないようにも思えるのである。どんな年齢であろうと、死が目の前に立ちはだかって、おびえない人、何も感じぬ人はいないはずだ。老いとは酷だなと、今日もそれを思い、自分自身にも言い聞かせるのである。死は明日やってくるかもしれない。死を遠ざけてはいけない。唯一確実なことは、自分が死ぬということ以外にないの
だ。
妻を突然奪われるような形で自宅に一人きりになり、その寂しい生活が少しは軌道に乗ってきたかと思ったら、急に病気が発見されてしまった。 年を取っていくと、急激な変化で生活が一変してしまうこともあるということを思い知らされた過去3年であった。すぐさま飛び立って帰国したいところだが、父にも施設の母にも会えない。数か月帰国できる身ならば良いが、仕事や自分の糧を振り返ると、とても不可能だろう。それを思うと、退院のめどが立つまで待って、その後日本での滞在時間をできるだけ父と過ごす時間に当てなければと思う。
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自分の家庭と言えば、成人した子供たちそれぞれに対して、未だに様々な心配事を抱えている。
独立した娘も、誰もが経験する人生一度きりの激しい恋が過ぎ去り、その痛みをやっと乗り越えてきているところである。自分で決定を下し、自分で前に進んだとたん、ゆっくりではあるが、彼女の目の前にもやはり光が見え始めている。これは、まさに方程式といえるもので、人の人生は、自らが行動を起こさなければ、道は切り開かれないということなのだ。もちろん、巡ってくるチャンスというのは、運に関わっているともいえるが、運を待っている姿勢と、気力がないので何かを待っている姿勢は比べられない。まずは、やはり行動ありきなのである。打開しようという気力を取り戻すことが、何よりも大事であり、最終的には、何を切り捨ててでも、自分自身を立て直す以外に方法はない。

真ん中の息子は非常に順調であるが、いよいよ人生の分かれ目に差し掛かっている。様々なオーディションが目の前に転がり込んできた。ポストが空くだけでも幸運なのだ。それがいくつか空きが出て、公募がかかったということは、人生のチャンスと捉えるべき出来事であろう。本人もそれはよく理解しており、今までのだらけた自分の尻を叩いて、ようやく起き上がったところである。職人気質で、楽器が好きで楽器を完璧に操ることに情熱を抱いているという性格であれば、とりあえずコンクールやオーディションと言った場面には強い。しかし、息子は幸か不幸か、まったく正反対の性格で、揺れ動き、あっちこっちへと興味が移り、本来素養があると誰にも認められていながら、それを棒に振っているのかと思うような不安定さを見せていた。もちろん、いざという時に実力を発揮できなければ、それ自体が才能のなさを象徴しているのだ。
音楽の演奏解釈だとかいう以前に、まずは何をしてでもプロにならなければならない。プロとはあの楽器の場合、オーケストラに入ることである。それも首席奏者にならなければならない。これは、高望みというわけではなく、今までの経緯から、誰しもが彼からそれだけの結果を期待しているという事実に基づいているのだ。つまりそれを達成できないとしたら、それは単に本人の努力不足に過ぎないということである。
そうした中、息子は、自分はまだまだ駄目だと言いつつ、段々職業としてやっていく覚悟ができてきたなど、まったく意識が熟していないのだ。もっと一直線に盲目に前を見なければいけない。演奏家として、この姿勢はどうかと思うが、残念ながらスポーツと同様に、勝ち取る場面では、そのぐらいの勢いがないと職を取れないのである。全ては、根底に流れる恐怖心のなせる業である。恐怖心は克服しなければならない。何が何でも自分で制御して、乗り越えなければならない。自分を丸裸にして差し出そうと思うことが第一歩である。自分の失敗を恐れるということは、自分を信用していないと同様である。自分の実力に、自分自身で一つ一つ実績を載せていけば、恐怖心は消える。その実績が毎日の練習時間であり、集中力である。 息子の試練はどのように転ぶのか、私にはまったく予想がつかない。しかし、親として、たとえすべてのオーディションに無残にも大敗したとしても、息子の価値を疑うようなことがあってはならないと考えている。

さて、末っ子であるが、これが最もよろしくない。私が甘やかしたなれの果てだと認識して、毎日何とも言えない苦い後味を感じている。
何がよろしくないかと言えば、彼の集中力も探求心も恐るべき意志の強さも、他人にはまねのできない筋金入りのものである。これは彼の兄である真ん中の息子とは比べ物にならない。しかし、これは、彼が関心があることだけに言えることであって、彼にとってどうでもよいことは、まったく無視、嫌それどころかそういった分野を軽蔑しているのではないかとさえ思えるのである。こういう人は世間でまともに生きて行かれない。義務ということを拒否する人なのだ。たぐいまれな才能があろうとも、絶対的な自由を確保してやらなければ、廃人になるか狂人になるかして、才能は単なるゴミとして墓場まで持っていかなければならない。
しかし、考えてみれば、彼の原動力は100パーセントコンプレックスなのである。それは身体的なコンプレックスかもしれないし、男女平等を訴えるのも男性性のコンプレックスかもしれない。あるいは、他人と同じにはできないことに対するコンプレックスというのもあるはずだ。どちらにせよ、激しいコンプレックスを抱えており、それを認めるにはあまりにも自我が強すぎるため、それをカバーする強靭な意思やエネルギーを武器にするという解決法なのである。だから、彼の目指したことに対する意志はすごい。それは自分を完全に守り、一生コンプレックスに触れないで済むように、強靭な鎧を着るということ。つまり、本人にとっては生きるか死ぬかの問題なのである。この末っ子に、普通になってくれ、と頼み込んでも無駄である。母への情けなど、彼の心には一切響かないのである。それには、自分に課した使命が大きすぎるのだ。表面的には、社会的使命、社会を救おうとする使命感である。しかし、私にしてみれば、自分を完全に完璧に救済する手段なのである。これに対する対処法が私にはまったく思い浮かばない。下手に知能が高いと、下手に議論を交わすこともできない。気が付くと、あちらが正しいとする会話に巻き込まれて全く反論できなくなるのである。まったくもって、不安が積もり募ってゆく。
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そんなこんなで、なんだ、大した心配じゃないじゃないか、そんな程度で気分が落ち込むようでは、何にもならない。そう言われても当然だろう。私自身、何がここまで私を鬱にさせるのか、私の奥深くに何が鬱積しているのか、まるで分析できない。

しかし、父のことを思いながら、父の昔聴いていた曲を繰り返し聞いてみる。父はかつてオーケストラの団員だったので、子供時代はいつだってクラシック音楽がかかっていた。そして、火がついたように次から次へと楽曲、指揮者、演奏者をあさって聴きだす。もう止まらない。同じ楽曲を幾多の指揮者と演奏者で聞き比べる。何度でも聞く。狂ったように夢中になる。音楽を聴いた感動は、殆どがその後に悲しみを覚える。何かが常に死と直結している。そして自殺行為のように、いやアルゴリズムのせいでか、最後は決まって前夫の音源へとたどり着くのである。そしてそれを聴いた途端、私はまた泣きじゃくる。私の魂をあれだけ揺さぶる音楽家はいなかった。そして私にあれだけの苦しみを与えもしたのだが、あれ以上の芸術に対する歓びを与えてくれた人もいなかった。私の若い時代のすべてを捧げた人物なのである。泣いて当然だろう。そして、やっと心にたまった緊張感が崩壊する。私はやっと周囲に音のない静けさを実感できるようになる。真空パックの中に一人で佇んでいるような、切り離された孤独感を実感でき、やっと安心できる。あ、私が、ここに、いた。生きている。そうだったのか…と。

まったくまとまりがない。単に書きなぐっているだけである。それでも、私は何かしらを書きなぐれたことがうれしい。まとまった作品らしきものも書けなければ、文芸的な言葉を並べる才能もない。しかし、私には、吐き出さねばいられない思いがあるらしく、それを書きなぐれただけでも、心がずっと軽くなるのだ。

今後、全てがどう動いていくのか、全く予測はつかない。が、人生は容赦なく刻々と先へ進んでいく。死は実は常に背後に迫っているのである。せめて、それをしっかり心に留めて、毎日感謝しつつ生きていかなければならないと思っている。

2021年3月28日日曜日

 生殖機能がきちんと働いている時代を生きるということは、忙しく、苦しみもあり、乗り越える壁も多いのだが、その変化に富んだ時代には、幾多の小さな喜びにあふれていることも間違えない。
私のように枯れかかってくると、変化が少なくなってきて、日常の色が格段に褪せてくるのである。安定とは色褪せることなのかと思わせるほど、その一直線の道筋は、空虚感さえ感じさせる。

そんな生活に唯一の彩りを与えてくれるのが、子供たちの人生である。彼らは経済的にはまだ無理でも、精神的には一人前として自らの道を、いや自らの道を探して歩み出した。そんな彼らの日常は、聞いているだけでこちらの胸が再び熱くなるような出来事に満ち溢れいている。三人三様に、長い苦しみの後に少しずつ出口を見つけ、小さな喜びの意味を学び、人生は生きるに値するものなのだということを身体で実感している最中である。そんな彼らの姿を遠目に見守っているだけで、無論心配や不安もあるのだが、やはり人生は誰にとっても、素晴らしいものになり得るのだなということを再認できる。

若いからこそ、深みを見たくなり、深みに入って、傷つき、傷つけ、また立ち上がるというサイクルを繰り返すことができるのである。そうして10年余り、無意識に己の真の姿を追いかけて、人は対人関係を織りなしてゆくのだ。人は相手があってこそ、自らの限界や、自らの知らない己の姿を反映させることができるのだ。彼らの日常が小学生の使う色とりどりのクレヨンの色彩にあふれているとすれば、私の日常はパステルカラーでも、グレーのトーンが混ざった褪せた色になってしまったのだ。

しかし、それを決してネガティブにとらえているわけではない。年を老いること、そしてやがては死にゆくことは恐ろしいことだが、自然とはそういうもので、人間はそれを繰り返してきたのだ。私は自分の過去を振り返った時に、あまり後悔はない。一点だけ、進路の面で後悔と言える瞬間があったが、それがあったからこそ、私は今この土地に暮らし、自分の子供たちを授かることができたのである。

一回限りというのはまさに一回限りで、二度とはないから一回限りなのだ。人はどこかでそれを知りつつ、若い時には、だからこそ突っ走りたいという欲望に駆られる。私は失敗もし、そして失敗に感謝している。私は深く思い悩み、何年間もひどく苦しんだ時代もあった。しかしそれだからこそ、私は大人になれたのだとも思う。もしも、衝動に駆られて突っ走らなかったら、そして常に理性を保って計画通りに人生を歩んでいたら、私はこの色褪せた日常に満足できたかどうかわからない。もしかすると、生殖機能を失いつつある老いの入り口で、もう一度色鮮やかなクレヨンで思いっきり書き殴りたくなったかもしれない。

人生は、自分のキャンバスなのだ。自分の心と一人で対話しながら、自分一人で描こうとしなければならない。鮮やかな生命力の漲る色をキャンバスにぶつけていかなくてはならない。年を重ね、色褪せたときに、それだけの鮮烈な色で描く力も感受性もない。思う存分書き殴ったからこそ、私は子供たちの人生ただなかの話を遠い目をしながら聞き、時に静かにアドバイスを送り、自分の胸を密かに熱くしながら過去に思いを馳せ、そして満足感を得ているのだと思う。

皆、それぞれに羽ばたいてほしい。成功も安定も、そういうことを目的とせずに、「己を戒め、己を掘り下げ、己を知れ」ということだけを目標に、まっすぐに追求していってほしい。人と世間には迷惑をかけずに、一瞬一瞬を心底楽しみ、常に自分には厳しい目を向けて、深い友情と深い愛情を育んでいってほしい。


2021年1月30日土曜日

生き様を見直して、厳しく変えていきたい

 寂しさに追いかけられているような、寂しさに包まれているような、人生を振り返ると、なにかそういう感覚が浮かび上がってくる。
そして、子供たちの人生を見ても、両親の人生を見ても、それぞれに素晴らしい時があるにも関わらず、背後に常に消し去ることのできない寂しさが宿っているような気がしてならない。

しかし、寂しさのない人生を思い描いてきたときの、なんとも言えない空虚な感じは何なのだろうか。寂しいと感じることのない人生、大人になるときに自分が一人で存在していることを実感するときにも、孤独感は現れず、自身に満ち溢れた未来を描く人生。そういう生き方もあるのかもしれないが、私はおそらくその空虚感に耐えきれなくなるのではないか、そんな思いがある。

人が人であるからこそ、文化が生まれる。言語があるから文学が生まれ、感性があるから言語を超えた芸術が生まれる。そうした創造性が一体どこからやってくるのか、それを考えてみるとき、やはりそこには寂しさというものが大きく関係しているような気がしてならない。

そして人を強くするもの、寂しさに耐える力を学ぶことなのではないかという気がしてならない。

言いたいことがある人で、才能に恵まれている人で、十分に強い性格を持った人は、成長の中で必ず表現する術を見つけるものである。しかし、言いたいことを表現できるようになると、彼らは必ず根源的な問いに突き当たるらしい。なぜ表現するのか、なぜ生きているのか。生きている中で、あたかも寂しさや苦しさを敢えて選ばなければ到達できない何かがあるとでもいうように、彼らは表現するという使命の下に、どのような困難にも恐れずに立ち向かい、乗り越え、表現を通して人々をつないでいく。それは恐るべき財産である。これこそ人類が築いた文化であり、歴史に残る文化人が生きた時代の政治家を覚えている人は数少なくとも、その文化人の遺作は世代を超えて引き継がれていくのである。

彼らは、まるでイエスであるかのように自分を切り裂きながら、表現を通して常に与え続ける。そこに疑いの余地はない。

そして彼らは一様に常に孤独である。家族があっても、愛する誰かが傍にいても、彼らは表現に対峙するとき、常に激しい孤独と闘っている。だからこそ、文化を通したつながりに命を懸けて作品を残していくのである。

私はそのような人間に巡り合うと鳥肌が立つような感動と尊敬を覚える。
そして、文化がなおざりにされている世界に危機感を覚える。文化があるから、芸術や文学があるから生き残れた人と言うのも存在するのだ。
戦争で家族が引き裂かれ、家族全員を失った人間でさえ、通常は到底耐えることのできない身に降りかかった現実を背に負い、彼らは生き延びていく。その時故郷を思ったり、家族の伝統を思い描きながら、彼らは自分の心を形成した過去を胸に大切に描きながら、一歩一歩再出発してゆく。多くの場合、その時に心の情景を糧にするが、それは自分の身体にしみ込んだ、育った土壌の文化なのである。

コロナで私の子供たちの精神、特に一人暮らしをしている上二人の精神にも影響が出始めている。特に娘は個人的にも人生できっとマイルストーンとなるような苦しい出来事が起きた時が、コロナと重なった。アルバイトをすることもできなくなり、経済的に危機的で、私が腹をくくって援助しなければならず、一年後にやはり私の下にもコロナの影響がやってきたのかと実感した。が、逆に一年ももってくれたのかという思いもある。

そういう今現在も、多くの子供たちが例えば難民キャンプで「凍え」死んでいる。飢えで亡くなる子供も、戦争で亡くなる子供もいる。自分の生きる国の情勢が安定していないということは、想像を絶する根源的な不安を駆り立てる。その中で、彼らに文化である芸術や文学を受け入れる余裕がないかと言えばそうではなく、むしろそういうものに癒されることに飢えているのだ。人間というのは、絶望的な状況においても、決して美しいものや尊いものを感じ、受け入れる能力は失わないのである。つまり、芸術というのは、特に音楽と言うのは、どのような状況にあっても、希望の灯を照らすことができるという証として存在しているのではないかという考えを拭い去ることができない。

表現する人間は、常に根源的な「問い」から逃れることができない。そして問いの答えを見つけようと創造力を自分の限界まで駆使して探し続ける。そしてそういう人が集まって素晴らしい作品となり、人々が感動してつながっていくのである。そういう機能が文化にはある。だから私は寂しい人に多大なるシンパシーを感じ、寂しい人生を恨めしいとも思わない。そして、文化をないがしろにする世界に怒りを感じ、これこそ悲惨的な状況であると悲しみを覚えている。

人々が生きる中で関心を持つべきは、互いに地球上で共に生きる人間であるべきで、自分の足場を固めることは当然の権利であっても、やはり自分以外の人間の苦しみや絶望や危機的状況を無視できることは、人格的な欠陥としてみなされなければならないのではないかと、最近はそこまで強く思うようになってしまった。

どんなに小さなことでも、お金と引き換えずに、できることをして必要とする人に与えていく努力を怠ってはいけないと強く感じ、自戒を込めて自分の生き方も見直さなければならないと実感している。
食事を作って与えることも文化であり、読み聞かせも文化であり、話を聞くことも文化である。何も芸術家である必要はないのだ。人を癒すのはモノではなく、心に触れる何かなのだ。





2020年8月26日水曜日

走り書き

 30年ほど前に、私はパニック障害を患った。その頃、パニック障害などという病名はまだなかった。もちろんインターネットもない、何の情報もない。しかも私はドイツという外国に来て、まだ3年ぐらいしかたっていなかったから、まったくもって情報に乏しい環境にいた。
卒業試験を終え、これからという時、私は進路に迷っていた。自分の専攻楽器が大嫌いで、こればかりは今に始まったことではなく、その楽器を始めたときから好きだとも思えなかったのだが、親に楽器と恩師まで与えられたので、嫌と言えなかった。それでずっと続けてきた。
その楽器で留学することにしたのは、それが唯一の脱出の手段だったからである。

学生中に最初の夫に出会い、そのかつて見たことのないスケールの才能に巡り合い、私は大きく打ちのめされた。最初は恋愛のれの字もなかった。互いに他に好きな人がいたと、そう記憶している。

私たちは友人関係として会っていたが、いつしか別れると電話するようになり、相手にまた会う日を楽しみにするようになっていた。そうして純粋な友人関係としてスタートした私たちの関係は、その後私が死ぬまで書くことはできないと思われる経緯をたどって終焉を迎える。

それほどの人間に巡り合った私は、自分のようなディレッタントな人間が、音楽家になるよりも、このようなすでに世界に十分に貢献している素晴らしい演奏家を支えるべきだと決心し、試行錯誤の後、自分の本業を捨てることにした。

今思えば、それからパニック障害が始まったのである。
最初はとにかく心臓が凄まじい速度で破裂しそうに脈打つので、心臓病に違いないと思った。何もわからない学生の身分(本業をやめた後の試行錯誤の間、私はさらに別の学業を続けることにしたのだ)で、私は近所の内科医に駆け込んだ。その女医は私の健康診断を行い、2回会っただけで、おそらく身体は健康だから、心療内科の分野ではないかと思うと私に伝えた。そして精神科医を紹介してくれたのだった。

精神科医を受診した頃、私は藁にも縋る思いだった。毎週何回も発作に襲われ、とても生きた心地がしなかったのである。

女医は、何回か面談をした上で、私にそれはパニック障害という病気なのだと診断を伝えた。そして心理療法を進めたが、私は他の国に引っ越すことになっていたので、彼女の患者になることはできなかった。薬を出すかと聞かれたが、私は「引っ越し後、そこで他の医師を見つけ、自分で何とかしたいから薬はいらない」と断って最後の面談を終えた。

その後、私は数年にわたりパニック障害と闘った。それについては、いつかまた書くことができればよいなと思っている

しかし、パニック障害は完治していないのだ。未だに私はパニック障害に襲われるのである。
ある数年影を潜めていたが、上二人の思春期が去り、少しは幸せを実感できるようになったというのに、未だにパニック障害が静かに姿を現すのである。

つまり、原因を追究できていない。最初の女医は、間違えなく結婚生活と夫に原因があると言い切った。
国が変わった後に会った心理療法士も上記と同じことを確定した。それは当時はそうだったのだ。夫が帰ってくると空港に迎えに行くと、空港で発作に襲われた。明日夫が帰ってくるというその前の日に青天の霹靂の様に発作が襲ってきた。当時はあれが原因だったのだ。

しかし、その後も続くのは何故なのか。私にトラウマがあるのか、私が何かを抑圧しているのか、今の私には謎が解けないのである。
しかし、私は「家族」「団欒」「幼い子供、特に幼女」「結婚の崩壊」「夫婦喧嘩」「子供への罪悪感」というテーマに触れただだけで、心が崩壊する。二度と訪ねられない土地というのいくつもある。その土地を踏んだだけで嗚咽し続けるような場所である。
これはいささか尋常ではなく、やはりまともに心理療法士に会ってこの消えぬパニック障害のことを話すべきだという気が今さらしている。

単に大きな蓋を被せてしまっただけの過去だが、その中にはとてつもないマグマが潜んでいる。今までだれ一人私は自分の過去を話したことはない。それは私がそれについてまったく話せないからなのだ。しかし、いよいよ蓋を開けなければならない、そんな気がしている。

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本業をやめたあと30年近く経つが、私は今でも全く同じパターンの悪夢を見る。
試験会場にいる。舞台のそでである。自分の番はもう目前だというのに、楽器がない。血眼で探す。忘れてきたのか。そして焦って気が狂いそうになりながら探し回るというパターン。
楽器がない、友人に借りる。恥ずかしくて穴があったら入りたいというのに、楽譜を見ると一度も目にしたことがない曲だ。一日も練習していないので、初見で演奏するしかないというパターン。
楽器はあっても、必要な道具がない。またはその道具だけが新品で、一度も試奏したことがないから、一体どんな音色になるのかもわからないというパターン。
卒業試験のプログラムは3曲である。そのどれも入学して以来2、3回しか練習していない。突然できるようなものではない。というのに目前に迫っており、舞台に引きずり出されるパターン。
試験ではないが、自分はレッスンに行かなくなってしまい、教授とのスケジュール合わせに参加しなくなって何か月も経ち、しかし教授も何も言ってこない。風のうわさに私はもうやめたいということを知っているのだろうか。ということは卒業証書はもらえない、だって練習などもう何年もしていないのだから、卒業試験ができるわけがない、と言って教授の顔が頭から離れず恐怖でノイローゼになるというパターン。


どちらにせよ、3歳から26歳まで毎日練習練習練習と脅され、追い回され、追いつめられたのに、そこから逃げたという事実があると、この夢から逃れることができないらしい。

私のパニック障害の原因は、どこにあるのか、それが全く見えないのである。しかしこのアイデンティティの放棄からすべては始まった。それだけは間違えない。

2019年11月28日木曜日

知らなかった過去

今回の帰国で、ここまでことがスムーズに運ぶとは想像もしていなかった。ただ、母を施設に入れなければならないだろうという漠然とした覚悟を持って帰国しただけだったのに、帰国当日に相談員と面会し、次の日に3件見学し、その日のうちに最初のホームに決定してしまった。それから、何もかもが滞ることなく実行され、あっという間に母の施設入居は現実のものとなった。

夜、眠りに就こうとするたびに、様々な考えが思い浮かび、その多くは罪悪感、同情、憐憫、不安、悲しみといった感情に直結しているため、自然と涙が流れてしまう。身内の命という問題を扱うのが、ここまで重い仕事になるとは思ってもいなかった。頭で理解しているのと、実際に感情の揺れ動きをなだめながら体験してゆくのとはまったく違うのだと、今更ながら実感している。

何はともあれ、素晴らしく明るく温かい雰囲気で、活気のある介護士たちが誠実に働いていることが伝わってくるような施設を見つけたことは幸運だった。建物にも内装にも細部にわたるまで気遣いがなされており、ホテルのようなその様子には、まったく寂しさを感じることがない。対応も文句なく、すぐに信頼感を与えてくれたこのような施設に直ぐに巡り合えたのも、また何かの運命だったのだろうか。

一年前から真剣に介護のことで悩み、様々なサービスを利用しようと試みたが、うまく行かなかった、母自身の強い拒否感もあったが、何より父をはじめとする私達家族がそこまで決心できなかったというのが最も大きな理由だった、それでも段階を経て、今回はこれ以上父が母を介護することは不可能だという意見にまとまった。全員の気持ちが限界に達していたのだ。
しかし、母自身の人生の今後を決める決定権を我々は奪ってしまったことになる。彼女の背後で準備を進めることは、彼女の尊厳を無視していることになる。それが最も辛い。家族全員が、その重い罪悪感と共にこの日々を過ごしている。
そして、無理に入居させられた母が毎夜何を思い、どれだけ不安になり、どれほど家族を、とりわけ父を恋しく思うかを考えると胸が張り裂けそうになる。

そんな中、私は突如、祖母の位牌がある仏壇の下の引き出しを開けた。何の意味もなく、ただ好奇心から開けただけだった。そして私はそこに、いくつかの非常に大切なものを見つけてしまった。それらは母の人格をしっかりと象徴しているものばかりであった。

まず、祖母のお葬式の写真があった。それと共に祖母の施設での最後の数か月がくまなく記録された報告書もあった。私はそれらすべてを一語一句逃さず読んだ。祖母が7年以上にわたって暮らした施設での姿を私は殆ど見たことがない。すでに日本を離れて10年以上経っており、祖母が入居した次の年には末子が生まれ、引き続き別居となったため、日本に5年間帰国しなかったため、入居したその年に祖母を見舞ったのが最後となった。そのため、報告書から祖母の日常を知ることは、私にとって非常に新鮮なものだった。祖母の独語が増えたことや、最後は嚥下がうまく行かず痩せていったこと、それでも時折笑顔を見せて会話をしていたことを読み、施設で撮った2枚の写真と見比べながら、私は記憶の底から優しかった祖母を思い出していた。そしてその2枚の写真には痛々しいほど年老いた祖母の姿があった。
祖母のお葬式の写真は、母が送ってくれた。ちょうど私の所を訪ねてきたその時期に祖母の容体が変化して亡くなり、父が電話口で号泣していたのを覚えている。義理の母の死に声を出して泣く父の声を初めて聴き、私は父の優しさを知った。母は次の日、航空券を買いなおして帰国した。祖母の死に顔は穏やかで、母がそっと顔に手を当てていた。祖母を本当に慈しんでいる表情だった。ご苦労様という声が聞こえてくるようだった。

その母は、その時期を前後して、終活や介護に関する新聞記事を数多くスクラップしていた。その記事も引き出しに入っていた。傍線が引いてあったり、同意と記されていたりし、母が熱心に老いや死について考えを巡らせ、多くの情報や意見を集めていたことがうかがえる。なんと皮肉なことか、母は今はもうそうしたことを一切覚えていないに違いない。もう一度記事を見せ、読ませたところで、それを自分自身に反映させることはできなくなってしまった。病識が一切ないのだから、仕方ないのだ。しかし私は、老いに対する母の葛藤を、不安を確かに感じ取った。母も自分自身の老いを体験しながら、未来に不安を抱き、万全な準備をしようと心していたのだ。それが、今は何の役にも立たない。母自身、今一瞬でも明晰な考えを取り戻して、自分の今の状況を見ることができたなら、自ら進んで施設に入ることに同意したかもしれない。しかし、今となってはその答えを知ることはできない。

母方の祖父や祖母の写真の中に、母自身の幼少の写真も混ざっていた。目がクリっとした、目鼻立ちのはっきりした幼い母が、大切に育てられた様子がわかる。母の生まれは複雑であるが、母は暖かい家族に囲まれてすくすくと育ったに違いない。母自身も子供時代を何の苦労もなく幸福だったと言っていた。私は母の顔の中に自分の一部を認め、私自身が確実に母の血を受け継いでいることを改めて実感した。
子供の頃の写真と共に、母の中学時代の同級生の写真もあった。母が後日大学を卒業してから結核を患った際、ノートにこの同級生らが各自様々な格言を記して、母を励ましたらしい。その達筆さと種々の格言のすばらしさに私は胸を打たれた。それに加えて、母自身の小さなノートブックも出てきて、そこには母の記したいくつかの詩、そして草木のスケッチがあった。私は思わず泣いてしまった。そこには母の輝くような感受性があふれていた。このノートは若い母の魂がかつて存在し、たくさんの美しい言葉や描画を生み出す豊かな感受性が存在していたことを証明するものだった。今の思考力を失ってしまった母からは想像できない、生き生きとした若き母の姿がそこにあった。それは私が生まれすずっと前の若い女性としての母の姿だった。

さらに引き出しを探ると、二冊のノートが出てきた。
一冊は父が1960年新婚早々結核にかかった時のノートだった。父が万年筆で病室での日々を書き記し、たまには母もそのノートに自分の想いを綴っていた。
そしてもう一冊は、母が1962年に結核にかかった時のノートで、こちらは母が見舞客や父の様子と共に自分の病室での日々を克明に綴っていた。
両方のノートを読むのは、私にとって非常に気恥ずかしいことであったが、思いがけず私は二人の若々しく情熱的な愛情を知ることとなった。母は病床の父が寂しくはあるまいか、退屈してやいまいかと、絶えず気を使って、いかに喜ばせてやろうかと苦心しているようだった。母自身、夜は眠れない日々を過ごし、父を訪ねて笑顔を見ることを毎日心待ちにしていた。父も母の訪問を心待ちにし、同じく寂しい夜を過ごす空虚さを嘆いていた。
母が病気になった時のノートでは、母が入院するまでの父の気遣いと心配が書かれ、入院後も毎日のように母を訪れては、あらゆることを話し、明日も来るという約束を交わして家に帰り、母も二人の家を恋しく思って、何度も外出や外泊を願い出ていた様子がうかがえた。二人で外出や外泊した際の楽しさは格別で、二人がどれほど幸せな関係を築いていたかを知り、私は少し気恥ずかしくなったが、同時に誇らしくもあった。私自身の子供上二人のような年齢の両親の新婚夫婦としての姿は、本当に微笑ましく、彼らが幸せな結婚生活を送ってきたことに安堵した。そして父が此奴には本当に世話になったので、今度は俺の番なのだと言って、母を今まで7年も支え、介護してきたことにすんなりうなづけた。それだけ深い愛情の歴史と土台があったのだ。

ノート以外にも、父が学生時代に母に書き送った手紙が数通入っていたが、何かプライベートを侵すような気になって、これはまだ読んでいない。しかし、単純に母も父も達筆で文章がうまかったことに驚く。昔は手紙やはがきで通信しあったのだ。今のような崩れた日本語ではなく、しっかりと美しい日本語で、好意を書き記し、愛情を表現していた。私は両親の全く新しい姿を知り、年老いた彼らの姿を楽にタイムスリップさせて過去に戻り、若かりし頃の姿を生き生きと心に思い描くことができた。

彼らも確かに存在していたのだった。
無垢な幼い子供として。
多感で傷つきやすい青年として。
そして、情熱的で思いやりにあふれた若い大人として。
私たちがこの世に生まれてくるずっと前から、彼らはこの地球上に存在し、血の通った人間として、彼らの人生を生き抜き、彼らのストーリーを紡いできた。その道のりの途中で私たち子供が加わり、今まで50年余、家族として共に歩んできたけれど、彼らが親になる前、彼らが自らを形成してきたずっと前の年月を垣間見て、私は初めて彼らを独立した個人として認識することができた。それは命に対する感動と言っても良かった。

私はなぜ、この引き出しを開けてしまったのだろうか。よりによって母が施設に行く四日前に。まるでそれは、母とのお別れのようだった。母の命はある。けれど、母と私は別れなければならない。物理的にではなく、心理的に私は母にさようならを告げなければならないのだ。なぜなら、確実に一つの時代が幕を閉じるから。彼女の意志に反してであるけれど、今彼女の終活への扉が開こうとしているから。

不思議なことに、今、ここで母のことを「母」と呼ぶのは相応しくないようにさえ感じる。私の中で、母と言うよりも「彼女」と呼ぶ方がしっくりくる。彼女は私たちの母であるというだけでないのだ。母は、何より一人の生き生きとした人格を持った女性であったのだ。

私たち家族が暮らし、私達兄妹が育ったこの家に母が帰ってくることはもうない。私が実家に帰宅しても、もう母の姿はここにはない。それに対して、私は今晩偶然にも母に精神的な別れを告げることになったのではないかと、そんな気がしている。

その後、リビングの棚に無造作に積み重ねられていた何百枚もの写真をじっくりと時間をかけて見て、大切なものはすべて写真に収めて、デジタル化した。それは、母の根源を初めて知った後、ゆっくりと現在までの道のりを時間軸に沿ってたどってきているような感覚だった。様々な年齢の、様々な場面の、様々な表情の母を見た。私の子供たちを抱き、弾けそうな笑顔を見せている写真。父が世界各地、日本中で撮影したいくつもの母の写真。もう十分に見納めたと感じることができた。

母は素晴らしい母だった。
そして母は父にとっても素晴らしい女性だったのだと初めて確信することができた。
母は祖母にとっても素晴らしい娘であったの違いない。
母は、母を取り巻く家族全員にとって、かけがえのない、素晴らしく、愛すべき存在であった。

その母は、認知症になって以来、すっかり変わってしまったように見える。しかし、母の魂に変わりがあるはずはなかった。私が帰国するたびに、母がこの上なく幸せになることは明らかだった。私が完全に帰国して、限界が来るまで母を介護すればよいのだろうか。私は仕事もやめて、家族も置いて、母の病状の悪化と老いを支えるべきではなかろうか。そんな考えが頭をもたげてくる。
しかし、その時、あの満面の笑みを見せた60代ぐらいの母の姿が浮かび上がってくるのだ。そしてこう言う。
「バカなこと言うんじゃありません。自分の家族や仕事をおろそかにしてまで親の面倒を見るなんてばかばかしい話はない。そんなこと私はこれっぽっちもしてほしくない。そんなこと言うなら、専門の人に見てもらった方がよっぼど合理的で理にかなっている。私はそんなこと許しませんよ。」
私は、脳裏に浮かぶ若かりし頃の母に、心の底から礼を述べ、そして同時に謝罪する。本当にごめんなさい。近くに住んでいないことを許してください。

父も年で、もう母の介護をすることはできない。
父の苦しみと葛藤は、私の比ではないだろう。父はそのことに関して深く話すつもりもなく、むしろ自分の感情には触れてくれるなと思っているに違いない。その父の思いを私は決して知ることはできないが、私が生まれるずっと前の両親を知った今、私は父がどのような思いでこの最後の日々を過ごしているのか、少しだけ想像がつくような気がしている。

今晩は、たくさん泣いた。施設に入居させるはずの母が、過去に生き生きとした人格を持ち、自分の意志で人生を生き抜いてきた、豊かな感情を持った女性なのだとわかったからである。申し訳ない気持ちでいっぱいになったからである。でも、母は私の母であり、愛する父の妻である。母に健全な理解力があれば、必ずや私達と同じ決心に至ったであろうということを信じて、私は今後過ごすしかない。

母は渋谷で生まれ、3歳で大田区に引っ越し、そこでずっと育った。
父は恵比寿で生まれ育ち、母と結婚して大田区に住み、一時一家で横浜に移ったが、10年も経たずにまた大田区に戻ってきた。
母の施設は、大田区でも母が育った家にほど近い。母の中学時代の友人も住んでいたのではないかと思われるほど近い位置にある。今の母にそんなことを言っても何も感じないかもしれないが、私はこれも何か、ルーツに立ち返るような気がし、ある種の運命としてとらえている。

この病気を憎むけれど、母への愛情はこれっぽっちも変わっていない。今晩、私は母の若かりし頃を知ることができただけでなく、このことを深く再認することもできたのだった。

どうか、許してください。
どうか、これも愛情から生まれた決心であることを信じてください。
そして、本当にどうもありがとう。あなたが存在しているだけで、今でも私は無条件に「愛情」というものの存在を信用できるのです。それは私があなたから、十分過ぎる愛情をいつどんな時でも受けたからに違いありません。
本当にありがとう。

2019年10月6日日曜日

娘の木の人形

いつだったろうか。きっと娘がまだ幼稚園の頃に、木の人形をプレゼントしてやったことがあった。娘は小さい頃からとても繊細な子で、外に出れば太陽や雨風、虫や草木など身の回りの環境を敏感に感じ取り、一つ一つを確かめるように触ったり、見つめたりして立ち止まっていた。だから散歩に連れ出しても10歩進むのに10分もかかるようなことがあり、目的地の公園にたどり着く前に、その道のりだけですでに疲れて帰ってくることさえあったほどである。

ある日長い坂道をゆっくり歩きながら登り、黄色い落ち葉で地面が埋め尽くされている小さな公園にやっと着いた。そこには小さなばね仕掛けの木馬があったので、娘をそこに乗せてやろうと思ったが、彼女は一向に関心を示さず、すぐに飛び降りて、枯葉の下に隠れている石ころを探し出しては、一つ一つの石を丁寧に見比べて、気に入ったものは手のひらに収めていった。その後は、どんぐり集めをして、きれいな葉っぱをいくつも集めて、またのろのろと坂道を下って帰ってきたことがあった。数個の石とどんぐりと葉っぱを彼女はいつまでも大切そうに手に握っていた。結局、遊び道具よりも、自然の小さな世界を発見する方が、彼女には楽しいらしかった。

春になれば、なんでもない道路の端っこに集まった蟻を見つけてしゃがみ込み、いつまでも「アリさんだ」とニコニコ呟きながら黙って蟻の一行を観察していた。ダメな母親であった私は、買い物の時間とか、その後の家事などが頭にあって、娘のことをいつも急かしてしまった。発見や観察の喜びを彼女と一緒にじっくりと味わうという余裕を大人になった私はすでに失っていたのだ。

そんな娘は、リカちゃん人形のようなものよりも、自然に近いものをこよなく愛した。どんぐり人形はもちろんのこと、手編みの毛糸のセーターを着たテディや、布地で作った人形をこよなく愛し、ベッドの枕もとに並べて良く世話をしていた。出かけるとき、彼女は人形用の乳母車にそうした大切なぬいぐるみや人形を入れて、どこへでも持って行った。乳母車を押せないときには、かならず一つ人形を手にし、汗で濡れてしまうほど大切にそれを握りしめていた。

それもあって、Waldorfschuleのバザーを訪れたときに、ちょうど手のひらに収まる男の人と女の人と一対の木の人形を買ってやったのだ。思い返せば、そんな娘にはWaldorfschuleこそぴったりではないかと思い、ごくまれにしかいない当時の夫に頼み込んで、娘と三人そろってバザーに行った。私達の関係は当時まだ非常に情熱的であったが、付き合い始めた当初より波乱万丈の日常で、私は常に一触即発の雰囲気に脅え、夫の一挙一動に注意して腫れ物に触るように行動していた。幼かった娘は、それを完全に感じ取っていたはずである。そんな不安定な親子三人がバザーに出向き、見知らぬ環境で様々な人に会い、多くの教室を見学し、蟻んこ一匹で10分も楽しめる娘は、ほとほとその情報量の多さに疲れ切ってしまったのかもしれない。最後にたどり着いた教室では、裁縫作品が販売されており、可愛らしい人形がたくさん売っていた。そこで布の人形と木の人形も買ってやったわけなのだが、娘は手のひらサイズの木の人形を特に気に入っていたようだった。…いや、実はそうではない。それが男女一対だったから、娘は常に手に握りしめていたのに違いない。両親の情熱的だが常に不安定な関係を見て育った娘は、常にある種の不安や悲しみに付きまとわれて育ってきた。だからこそ、男女一対の人形を手に力を入れて握りしめていた娘の姿は、今思い出しても、涙が出るほど心が痛む。

ある日、私たちはまた喧嘩をしたのだろうか。あの頃の記憶はほぼ飛んでしまっているので、あまりよく覚えていないのだが、どこかで私たちはまた3人だったのだ。娘が寂しそうにしていたからか、娘がぽつんと一人で立っていたからか、私は「ほらお人形だよ、これ忘れるところだったね。○○ちゃん、これいつも持ってるでしょう?」と言って彼女の手のひらに対の木の人形を握らせてやった。娘は突如、糸が切れたように泣き出し、やがて嗚咽に代わり、私はいったいどうしたものか途方に暮れて娘の腕を握って彼女の前にしゃがみこんでいた。

先日娘と電話で話した時、笑い話で終わるはずが、なぜか急に木の人形の話になった。
「ママ、覚えてる?私が木の人形をいつも持っていたこと。」
「そういえば、あったね、いつも握っていた人形。」
「そう。あれね、あれをママに渡してもらって、いつだっかた大泣きしたこと覚えている?」
「うっすらと覚えているよ。あれどうしたんだっけ?」
「私ももう覚えていないけど、とにかくもう感情がそれ以上我慢できなくなって、木の人形見ただけでもう感情があふれだしてきて、悲しいのか、嬉しいのか、それもわからないけれど、どうにも我慢できなくなって大泣きしちゃったの。私、昔のこと、色々覚えているんだけど、とにかくいつも感情があふれだして、どうにもならなくなって泣いちゃったことがたくさんあった。」
「そうだね、見知らぬおじいさん見ても泣いたし、訳もなく泣き出すことがたくさんあった。」
実際は、彼女に泣かれると5分かそこらで済むことではなく、何時間にもわたって泣き続けることも稀ではなく、私は神経は擦り切れ、疲れ果て、慰めきれず、いっそ頬を打てば目でも覚ますのではと思ったことも1回や2回ではなかった。
私はだからこそ、娘のことをおとなしくてどんな言うことも聞くのだけれど、とても難しい子だと認識していたのだ。

しかし、この電話で娘の言った「感情があふれてきてどうしようもなかった」という言葉に、私はほとんどショックを受けてしまった。
彼女を身ごもった時、そしてそれを知った時の悲しい背景、私自身が健全な精神を保つ限界にあった妊娠時代、深い愛があってもその愛が果たして健全と言えたかどうかはわからない両親のもとに生まれた娘。こうしたいくつもの要素を考慮すると、娘にとって男女一対の木の人形の象徴する意味を推し量ることはそう難しくはない。
あの時、娘が円らな瞳から大粒の涙を流して、顔を真っ赤にして大泣きしていた。汗ばんだ手にはしっかりと人形が握られていた。なだめようと、人形を受け取ってやろうとしたが、彼女が人形を離すことはなかった。

私は、およそ20年経った今、親としての責任を改めて実感せざるを得なかった。幼い子供にも、夫婦の緊張感はしっかりと伝わるのである。子供の感性というのは大人とは比べ物にならない。娘は毎日のように、悩み苦しみあがき続ける私の背中を見て育ち、父親が帰ってくれば、溢れんばかりの愛情と、次の瞬間は殺気立った緊張感が走るそのギャップをしっかりと感じ取り、色々な人形を握りしめながらおとなしく振舞っていたのである。私はふとした瞬間に、親らしく優しい一面を見せて、人形などを握らせてあげると、何かがきっかけで突如嵐のように泣き出してしまうということだったのかと、新たに彼女の当時というのを理解できたような気がした。それと同時に、胸がしくしくと痛み、あんな幼い子どもに、私は何という寂しい日々を与えてしまったのだろうかと、悔やみきれない思いになった。

人形というのは握りしめ、可愛がり、一緒に寝ることで魂が宿っていくものなのだろうか。それが真実であるかどうかはわからないが、少なくとも娘にとっての人形には魂が宿っていたのではないかと察している。彼女は人形に本当に話しかけていたのだ。そして必ず人形の方からも自分の悲しい心を温めてもらっていたの違いない。彼女は風とも、草木とも、蟻んことも話ができる子供だった。そんな繊細さは、幸に恵まれれれば、スクスクと個性的に育っていくのだろうが、悲しみや不安に囲まれた環境では、そんな繊細さがあるからこそ感受性がさらに鋭くなり、彼女自身では到底抱えきれない感情の波を生み出してしまったのに違いない。

「人形だけじゃなくて、ママがパパに怒られてね、一人でベッドで泣いてたの。だから私、ママの所に行って、膝の上に乗って、ママ大丈夫?って聞いたことも覚えてる。そうしたら、まま泣きながら笑ってくれて、私も少し涙が出たと思う。」
娘はもう一つの思い話も語ってくれた。私はこの時のことはよく覚えている。いや、ほとんどの記憶が飛んでしまったけれど、娘が私を助けてくれた光景や、娘が私を助けるために描いた絵や手書きの手紙のことは、ほぼすべて覚えている。それは大変ありがたいことである。これらの記憶すら忘れてしまっていたとしたら、私はこれ以上生きていかれないほど不幸であったのに違いない。

私自身が無我夢中で生き残ろうとしていたあの頃、死ぬつもりで早朝に車を走らせに行ったあの頃について、私は文字通り私の側から見たわずかな記憶しか残っていない。確かにそこに存在していた娘が、今あの頃の気持ちを吐露してくれたことで、私の消えそうな記憶が再び鮮明に浮かび上がってきた。思い出すのが辛いと同時に、娘の小さい頃に思いを馳せて深い愛情を感じるという、甘さと苦さの混ざった後味がしている。ただ、子供というもののすさまじいほどに鋭い感受性に本当に驚いた。そんなことも知らずに、まだ半人前の子供だった自分が一生懸命幼子を育てようとしていたことを思うと、恥じるというよりも、自分に対する哀れみが沸き起こってくる。
人はだれしも一度は未熟であったものなのだ。子供というのは大抵の場合親を許してくれるが、たとえそうであったとしても、私はやはり娘に、子供たちに本当に心の底から謝罪し、ごめんなさいと何度も何度も唱えたくなるのである。