2011年1月29日土曜日

故郷

心の故郷を求めて、さまざまなところを彷徨い続け、けれどけれどどこにも故郷を定められない自分を、もしかしたらそれも神からの贈り物かも知れないと、今日そんなことを思った。


空に青空が見えるようになった。

その青は、12月に見上げていたあの灰色がかった青ではない。

澄み通るような青に、白い雲が浮かんでいる、あの春先の空。

そして、運転しながら、そろそろサングラスが必要だなと思うこともでてきた。

極寒を越えた後の光ほどうれしいものはない。生き物としての自分を実感できる。


昨日前から気になっていた歌手のアルバムをやっと買った。

そして、懐かしく過去を思い出し、憂う心で未来を思い描き、深い暖かさと共に現在の幸福と静けさに感謝した。


彼女はスイス人で、父親の関係で欧州を渡り歩き、英独仏とスイス語で歌う。

私のお気に入りのオルタナティブシンガーソングライターである。

(最下段動画参照)


彼女の曲を聞いていると、スイス時代、本当に手のひらにしか乗らないような、他人にはわからないような小さな小さな幸せを、胸の中に抱きながら、一心に子供を育てて夫を待っていた自分を思い出してしまう。

そんな自分を不幸だとも、苦労だとも思ったことがない。

必死だった。


そのわき目も振らない必死さに、当時純粋だった自分を見る。

いとおしいと思う。

そして、彼女のスイス語で歌うその曲を聞くと、涙がほろリとこぼれてくるのだ。


ドイツから引っ越す前、長男が生まれ、夫婦は大変な危機に陥った。

ある日突然、ツアーから帰ってきた夫は、どうしてもできるだけ早く私と子供二人を日本に帰し、自分は新しい人生を始めると言い出したのだ。


彼の帰宅に備えてご馳走を作っておいた、その料理がキッチンで湯気を立てていた。

あまりの不意を付かれて、そう言えばそれ以来拒食症になってしまい、さっぱり母乳がでなくなり、二ヶ月の息子を小児科に連れて行き、栄養が足りていないと言われたことを思い出す。

恨む気持ちはまったくなかった。

それより、いよいよこの時が来た、自分の至らなさを突きつけられる瞬間が来ただけだと、そう実感すると、食べ物など一口も喉を通らなかった。

空腹すら感じなかった。


泣いてばかりいる乳飲み子をいつもひざに抱いて、夫が恋に落ちた悩みを聞かされ、その共演した彼女のことを愛しすぎているから、自分たちの間にはどんな関係もない。それほど、聖なるものなのだ、どうしたらいい?どうしたら僕と彼女はうまくいくだろうか、そんな話を聞いていた。


寝る前に公衆電話から彼女に電話するために、毎晩外に出て行った。

そして泣き腫らした目をして帰宅した。

私はベッドの上で天上を見つめ、魂を失った人形のように、ただ息をしているだけだった。


帰宅した彼を黙って見つめ、愛を全うして欲しいと本気で願っていた私は馬鹿だろうか。


そんな一騒ぎがあったあと、君の愛が足りないから、僕は孤独でこういうことが起きた、と突然ヴェネチアから電話があった。

一年が経過していた。それほど、この話は尾を引いたのだ。


あまりに孤独だから、今から海に飛び込んでしまうかもしれない。


そんな道化のようなことを、でも本人に泣き声で聞かされ、私は自分の愛の足りなさを恥じた。

そんなこと言わないで、死ぬまで努力するから、そう答えて力説していた私は、やはり悪魔の輪に巻き込まれていたとしか言いようがない。



スイスの話が来た。

やり直そう。


私は場所を変えて問題が解決するとは思ったことはない。

やり直しは無理だと思ったけど、希望というのを絶つことは生きている以上、やはりなかなかできないのだ。

希望は悲しくも、やはり抱いてしまう。


そうして始めた新生活がスイスだった。


全然違う言葉を話し、小さな町で、まったく違うメンタリティーの中で、一からやることは苦労ではなかった。

むしろ新しいからこそ、希望をいつまでも抱き続けられたのだ。


___________


スイス語を聞くと、悲しくて仕方ない。

そしていとおしくて仕方ない。


私たちのあの頃は、本当に馬鹿が付くほど未熟であったけど、お互いに必死で、愛を守ろうとし続けた。

そして、小さい子供たちが常に私たちの間には存在しており、それを愛する気持ちは、ぴったりと一致していた。


きっと、家族崩壊のトラウマが消えることはない。

初めて弁護士のところを二人で尋ねて、気をしっかり持っていた私が、道路に出たとたんに泣き崩れてしまった。

その隣で彼も泣き崩れた。


次に一人で弁護士を訪ねたとき、地下駐車場に留めた後、財布を忘れていることに気がつき、近くの警察署でお金を借りて駐車場を出た。

よほど、気が動転していたのだろう。


家族が崩壊した場所なのだが、何があっても救おうと毎日醜い闘いを続けながら、私ができることのすべてを投入しきった土地もあそこなのだった。

本当に倒れるまであきらめないと決め、最後にシェルターに逃げる形で、終止符を遂げた。



あれから私は随分と打たれ強くなった。

でも、一皮むけば、あのころの傷はすぐにまた、どくどくと血を流し始める。

何もかわっていない…。

私という人間の交渉の仕方は変わったけれど、私という人間の在り方あまったく変わっていないのだった。


過去の自分が、そのまま皮膚の下にまだあのころのままで住んでいるのだった。

それは私が全人生を賭けて守ろうとしたものであり、一生に一度の何にも変えがたいものであったのだろうと思う。


だからスイスは、私の故郷とも言える。

あそこには、必死で正直で純粋で、ただ夢中だった私がいた。

そして、それこそ、私の素の姿であり、私の原型なのに違いない。


だから、私は彼女の歌を聞いていると、私の全人格が揺り動かされ、見知らぬ彼女を抱擁したい衝動に駆られる。


彼女こそ、彼女の人格がそのまま表現と歌に現れている。

感動するということは、恐れを持たない人間を実感するときなのかもしれない。

そして、評価に対する恐れをまったく持たずに、素の姿をそのまま丸裸に世間になげうってしまえる、その直接さが私の心を打つのだろうと思う。

それができるということは、自分が常に自己と一体であり、その自我と自己の一致した根底から、一貫した自分への信頼があるからこそ、世間に防御なき自分の波打つ心臓をさらけ出すことができるのだろうと、そんなことを思う。


そして、スイスに暮らしていた私は、まさにそういう生き方をしていた。

自分の試みは、どこまでも正しい、いや正しいなどという判断をする間もなく、ただ一心に信じていたのだろう。



そういう生き方は、もはやできない。

それは大人になってしまったのだから、本当に仕方ない。


でも、私には、いろいろな心の故郷があることが、実はとても豊かなことだと思えるようになった。


言語は精神を支配している。


そのさまざまな言語が使用される場所で、生き、体験し、感じてきたからこそ、私には、4言語の心の思い出がある。

個人的な体験が、周囲社会の言語という支配下にある言葉の世界の中で、一つ一つ微妙に違った様相を見せているのだ。



そのうち、どれが私の心なのかわからない。

そのどれも自分の心なのだろうと思う。


4ヶ国語で歌ってくれるSophieは、私の心の琴線に触れる。



過去を思って涙を流しても、実感するのは不思議なことに、私はなんて幸せなのだろう、そういった満ち足りた気分なのは、鈍感なのか、鍛えられたのか、それともフロムが言うように、苦労や喜びの如何に関わらず、集中的(インテンシブ)な人生こそ、真の満足と意義をもたらすのかもしれない。



週末はSophie三昧だろう。





2011年1月17日月曜日

燃えろアタック

 こんなタイトルの番組があった。


久しぶりに風邪を引いて、寝込んでいる。

水曜日に気分が悪くなり、木・金と仕事を休んだ。

休んだとは言え、翻訳の仕事を休むわけには行かない。

引き受けたものには締め切りがあるし、今回の案件は、翻訳ソフトウェアを扱える人間が私しかいなかったため、ほかに人に代わってもらうことができなかったのだ。


私の同僚に、優秀な中国人がいる。

同じ案件を違う言語で引き受けていたので、打ち合わせもあって風邪だということを伝えた。


風邪を引く時点でだめなんでしょうね。

自己管理能力の欠如なんだわね。いや、しかし子供が風邪を持ってくるわけだし。


と自己叱咤とも言い訳ともつかぬ半端なことを言ったわけだ。


しかしね、子供が三人もいて、一人きりで二つの仕事を掛け持ってやっているというのは、それだけでパワフルじゃないの。

僕なんか、子供が一人で妻が世話をしていても、時々死にそうになる。

そういう意味で、君のことはいつも、よくやってるなと思うんだよね。



普段こういうことを私に敢えて言ってくれる人はほとんどいない。

私自身、誰かに何かをやってもらったことがない、つまりそういう人にめぐり合わない、選択しない、または無意識に拒否しているところがあるので、自分の立場を比較できる状況を知らない。

だから、あまり泣き言も言わないのかもしれない。

泣いても、一人でなくと白けるのだ。


しかし、それとは別に、父のことを思い出す。

私の父は頑固で、厳しかった。厳格で長身、インテリ、という素敵なお父様じゃない。

気風の激しい、東京育ちの厳しさである。


私が何かを相談しようと思っても、一切相手にされなかった。

そして一言、居間に掛けてある額縁を指差して、でかい声で言う。


「不言実行!」


この額縁は、鎌倉の浄智寺の先代のご住職に書いていただいたもので、父は大切にしているのだ。

やりたいこと、言いたい事があったら、物言わず実行し、結果を見せて相談に来い!


まあ、単に面倒くさかっただけ。しつけも教育も、一切関心なかった、といってしまえばそれだけ。

まったく便利な額縁であったのだ。


しかしながら、不思議なことに、彼の熱いバイタリティは私の中に宿っているらしい。

私がすばらしく努力家であるとか、すばらしい成果を上げているとか、とんでもない。

そんな世界とは180度反対の、くすんだ世界にいるのだが、好き勝手にやりたい代わりjに、泣き言を言わずに自分で生きていく、という部分は似ているらしい。


そこで、結果は全部ハチャメチャなのだが、責任は引き受けているつもりなので、許してほしい。



話がそれた。

熱がある頭では、あまり文章を書けない。


その同僚は、上海出身のそれなりの家柄の中国人であるのだが、ベルリンでメディア学の修士を取り、小津安二郎に関する論文を書いたというほど日本びいきなのだ。


その彼に、いよいよ中型プロジェクトが入った。

まだ熱はあるけど、ファイルが来たので、仕事配分をしたり、ファイルの変換をしたりと準備していたら、結局仕事を始めちゃったわ。


というメールを書いた。

すると彼から、一つのリンクが送られてきたのだ。


この番組の主役に、君ならなれるなと、僕はいつも思ってたんだよね。

懐かしくない?これ?

君を見ると、この主題歌がなっちゃうんだよね。



メールの最後にウィンクマークがついている。


私は、実は人生に一つの戦略しかもっていなかったと気づく。


根性。


効率も、道筋も、論理も何にも考えずに、ただ相撲取りがぶつかっていくように、前面に体当たりしていくだけという、超原始的な戦略。


人生の時間を無駄にしまくり、壊したくないものが壊れ、(ポイント!自分で壊したものは一応壊して正解でした)、未だに先が見えていない。



根性のどこが悪いんだと思うのだ(今の時代馬鹿にされます)。


効率だけが人生じゃない(言い訳)。



でも、これ、毎日見てました。

歌ってたよ、一緒に。

私の人生戦略は、燃えよアタックだったのか。

2011年1月8日土曜日

ヘルダーリン ヒュペーリオン 第一部 引用

私の鼻のかおりだけをかぐ人は、その花を知る人ではない。それを摘んで、ただ学ぼうとする人もまた、それを知る人ではない。

いいかい、ベラルミン。ときおり僕がこんな言葉をもらし、怒りのあまり涙まで浮かべていると、きまって、きみたちドイツ人のあいだに出没する賢い御仁がやってきたのだ。悩めるこころこそ、格言を吹き込むのにうってつけだと信じて疑わない哀れな連中が。かれはぼくに言うべき言葉を思いついてうれしそうだった。「嘆いてはいけない、行動せよ」と。
ああ、行動などすべきではなかったのだ。どんなに多くの希望が残され、どんなにゆたかでいられたことだろう。――

その風のやわらかな波がこの胸にたわむれると、ぼくの全存在はもだし、耳をすます。はるかな空の青さにこころを奪われ、しばしば、アイテールを仰ぎ、聖なる海を見おろす。すると、親しい霊が僕に向かって両手を広げ、孤独の苦痛も神々しい生に溶けていくような気がする。
いっさいとひとつであること、これこそは神の生、これこそは人間の天だ。
生きとし生けるものとひとつであること、至福の忘我のうちに自然のいっさいのなかへはいってゆくこと、これこそは思想と喜びの頂点、聖なる山頂、永遠の安らぎの場なのだ。そこでは真昼は不快な暑さを、雷は声を失い、沸き立つ海は麦畑の穂波にひとしくなる。

ぼくはきみたちのもとでじつに理性的になった。自分と自分を取り巻くものを区別することを徹底的に学んだ。その挙句に、こうしてうつくしい世界の中で孤立し、ぼくを育て、花開かせてくれた自然の園から投げ出され、真昼の太陽のもとで干からびている。
おお、人間は夢見るとき神であり、思いをめぐらせるとき物乞いである。感激がうせれば、父親から追い出された出来そこないの息子同然に立ち尽くし、憐れみが餞別として投げ与えられたわずかな小銭を見つめている。

子供はまったくあるがままにある。だから、あんなにも美しい。
掟と運命の強制は、子供に手を触れない。子供には自由だけがある。
子供には平和がある。子供はまだ自分自身との不和を知らない。富は子供の中にある。子供は自分のこころを知っている。生の乏しさは知らない。子供は不死である。死についてなにも知らないからだ。

自然の一番奥深くにあるもの、それは父ではないだろうか。だが、ぼくはそれを捉えているのだろうか。ほんとうにそれを知っているのだろうか。
それが見えるように思われることもある。だが、そう思うそばから、見たものは自分の姿だったではないかと愕然とせずにはいられない。友人の暖かい手のように、じかに世界の霊にふれたような気がすることものある。だが、目が覚めると、握っていたのは、自分の指かと思うのだ。

まったき感激の全能に比べれば、人間の勤勉はどれほど自発的であってもなんと無力なことだろう。
感激は、表面にとどまっていない。そこかしこでわれわれを捉えるものでもない。時間も手段も必要とせず、命令も強制も説得も必要としない。感激は、あらゆる側面、あらゆる深み、あらゆる高みにおいて瞬時にしてわれわれをつかみ、われわれの眼前に姿を現すよりも早く、われわれがわが身に何が起こったか問うよりも早く、われわれを変化させ、あますところなくその美と至福にひたらせる。

そのようにして内面が素材にふれて強化され、自他を区別し、いっそう固く結びつき、われわれの精神が徐々に武器を操れるようになると、めったに味わえない快感が生じる。

2011年1月7日金曜日

駈落 ― リルケ

「…僕だってもう子供ではありません。けふでもあしたでも、少し収入があるやうになりさへすれば、あなたと一緒にどこか遠いところへ行きませうね。意地ですから。」

中略

「あなたは本当に私を愛していらっしゃって。」

中略

「なんともかとも、言ひやうのない程愛しています。」かう云って少年は、何か言ひさうにしている娘の唇にキスをした。

中略

「そのあなたがわたくしを連れて逃げてくださると仰るのは、いつ頃でせうか。」
少年は黙っている。

中略

娘は少年の肩に身を寄せ掛けて、あっさりとした調子で云った。「あなたそう心配なさらなくても好くってよ。」
こんな風にもたれ合って、ふたりは暫くぢっとしていた。
突然少年が頭を挙げて云った。「僕と一緒に逃げてください。」
娘は涙のいっぱい溜まっている、美しい目で、無理に笑はうとした。そして頭を振ったが、その様子が奈何にも心細げに見えた。

中略

机の上のラテン筆記帳の上には手紙が一本ある。

中略

「…あなたの仰った通りだと思ひます。御一しょに逃げませうね。アメリカでも好いし、そのほかどこでも、あなたのお好きな所へ参りますわ。…わたくしきっと待っていてよ。六時ですよ。どうしてもあなたとは死ぬまで別れません。アンナより。」

中略

少 年は手紙を読んでしまってから大股に室内を歩き出した。なんだか今までの苦痛がなくなったやうな心持がする。動悸が激しい。兎に角一人前の男になったとい ふ感じがある。アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する立場に立つのだ。保護して遣れば、あの女は己のものになるのだと思ふと、ひどく嬉しい。血が 頭に昇ってくる。

中略
机の上にあった筆記帳は部屋の隅へ投げた。
「己はもう出て行くからこんな所に用はない」と、壁に向って威張っていると云う風である。

中略

横になってから、又どこへ行かうかと考へた。そして声を出して云った。
「なに。真の恋愛をしている以上はどうにでもなる。」

中略

時計がこちこちと鳴っている。窓の下の往来を馬車が通って、窓硝子に響く。時計は十二時まで打って草臥れていると見えて、不性らしく一時を打った。それ以上は打つことができないのである。
少年は、その音を遠くに聞くような心持で、またさっきの「真の恋愛をしている以上は」と云う詞うを口の内で繰り返した。
その内、夜が明け掛かった。

中略

フ リッツは床の上で寒気がして、「己はもうアンナは厭になった」と思っている。なんだか頭がひどく重い。「兎に角アンナは厭だ。あれが真面目だらうか。二つ 三つ背中を打たれたからと云って、逃げ出すなんて。それにどこへ行くといふのだらう。」中略「どうもわからない。それに己はどうだ。何もかも棄ててしまは なくてはならなくなる。両親も棄てる。何もかも棄てる。そして未来はどうなるのだ。馬鹿げ切っている。アンナ奴。ひどい女だ。そんな事を言ふなら、打って 遣っても好い。本当にそんな事を言ふなら。」

中略

やはり停留所に行った方が好いやうに思はれる。行ってあいつの来ないのを見てやらうと思ふのである。時間が来ても娘が来なかったらどんなに嬉からうと思って見てやるのである。

中略

茶色のジャケツはどこにも見当たらない。
フリッツはほっと息をした。

中略

「来ないには極まっている。己には前から分かっていた。」

中略

フリッツがふいとその方向を見ると、茶色のジャケツを着た、小さい姿が、プラットフォオムの戸の向うへ隠れるのが見えた。帽子の上に揺らめいている薔薇の花も見えたのである。
フ リッツはぢっとそれを見送っていた。その時少年の心に、この人生をおもちゃにしようとしている、色の蒼い弱弱しい小娘に対する恐怖が、圧迫するやうに生じ てきた。そして娘が跡へ引き返してきて、自分を見附けて、知らぬ世界へ引き摩って行くのだらうとでも思ったらしく、フリッツは慌てて停車場を駆け出して、 跡も見ずに町の方へ帰っていった。


_______________

女は子供でもすぐに決心できる。決心したら無茶でも盲目にやり通す。
男は、合理的疑問が心をよぎり、決心が揺らぐ。
ラテン語に精を出し、プラトンのシンポジウムを読んでいる彼は、自分の未来を不安に陥れ、邪魔するものは、やはり一夜で厭になるようだとも言えるし、合理の世界に浸りきって、そこに信頼の基盤をおいているからこそ、恋愛に陥ってしまったとも言える。

少年のロマンチックな恋心の告白に対して、娘はすでに具体的な答えを要求し、「あっさりと」心配しなくて好いのよと、肝を据えて少年を勇気付けている。
女は目に涙をためて、物語のクライマックスとなるのだが、この涙は正直でもあり、無意識にとまどいもあるのではないか。

あっ さりと心配するなと言えるまで、娘は変わらぬ愛の気持ちに従って、①愛を告白させ、②一緒に逃げようと願わせることを達成するために、本能的に相手を導い てきたのに違いない。しかし、この二つが達成されてしまったその時、物語のクライマックスと同時に、娘の中に本当にそれが欲していることなのかどうかとい う不安が無意識下にもたげてくるのではないか。

それでも、物語を実行に移す力を支えているのは、女の陶酔力であろう。
陶酔こそ、現実を作っていくもので、リアルな合理的世界は、偽りの世界にしか見えないのではないだろうか。

そして決心した女を前に、男は恐れをなすのである。

少年にこそ、逃げる意地があったのに、それを信頼し切って洒落をきどった女の帽子の上に揺らめく薔薇が、一層哀れを物語っている。

やはり健康な男性なら、老若に関係なく、捧げきる捨て身のような献身の愛の形は受け止めれないのではないか。
更に、少年は恋愛云々より、男を実感すること、自分を男たる存在にしてくれる娘に恋をしていたのであり、逃げることで男の意地を見せ、格好をつけて筆記帳を投げつけてみたものの、真の愛などやはり信じきれないのである。


私自身、本気の気持ちをぶつけることで、拓けていくものがあると信じていた時期が長かった。
献身は報われると信じて疑わなかった。
あまりにも過ちに気づくのが遅かった。

この物語は、娘が一人で汽車に乗ったまま裏切られる形で終わるのだが、成熟した大人が読めば、この少年の決心は卑怯であるが、十分に正しく、これで互いの人生を見失うことを避けたのではないかと思うのではないだろうか。

ところで、この作品の原題は「Die Flucht(逃走または逃亡)」と言うが、駆落以外の比喩的な意味も含まれているように思う。
厳しい父親の下に育っている娘の企画化された生活の退屈さと父親への恐怖からの逃走とも言えるし、少年が現実での成長過程を飛躍して、大人の男として新たに出発したいという逃走であるとも考えられる。
愛という基盤は、実は偽装でもあり、それぞれに逃亡願望・理由とも十分に備わっていたのではないかとも取れる。

もっと良い表題があったかと考えても分からない。駆落ちという題名からでも、十分に「逃げ」の要素を読み取れる。


午後のひと時、休憩時間に小品を読んで感じたことの備忘録。

2011年1月4日火曜日

画家石田徹也を知って ― ロストジェネレーション世代の画家が描き出したグローバル経済の中で生きる現代人の病んだ世界

皆様明けましておめでとうございます。
この更新不定期で、だらだらと長い文章の続く不人気のブログを、今年もまたふらりと訪れてくださいますよう、よろしくお願いいたします。


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画家石田徹也を知って ― ロストジェネレーション世代の画家が描き出したグローバル経済の中で生きる現代人の病んだ世界


1.

実は昨日、ある絵にめぐり合って、恐ろしほどのショックを受けた。
若くして踏切事故で亡くなった石田徹也氏である。

この絵を見た時は、感覚というものを実感するより先に、ショックとして胸に突き刺さってきた。

この時代に生きてきて、毎日繰り返す日常の中で、何かおかしい、何かがずれているのではないか、何かがしっくり来ない、どこかが息苦しいと感じている人も多いと思う。
感じていない人は、それこそひとつの能力であって、全く問題なのであるが、私は常に言葉では言えない抽象的な不安を抱えてきたように思う。

自分の人生の出来事の中にも、ある種の時代性というのが背景にあるのかもしれないが、自分自身のイニシエーション・個性化の過程と、時代背景とのつながりを理路整然と分析して意味づけるなど、渦中にいるからこそ、なかなかできるものではない。

でもどこかに、やはりこの時代特有のものがあるのではないかと感じているのだ。
私の無意識下に潜み、ある瞬間ふと顔を出して私を驚かせる深い不安感は、もはや私の子供時代や過去の出来事、家族関係という心理療法的範囲を超えた、「世代」というものに直結している不安感ではないかと思うことがよくある。それは、その不安の原因や対象を特定できないからであり、またその不安はどういう状況において自分を襲うかも一定でないため、不安回避の対策すらとれない。そういうものは、やはり世代につながっているのではないかと言う気がしてならない。

そしてこの作家の絵を見たとき受けたショックは、私が言葉を使って、これ、と言えなかった何かを的確に捉え、しっかりと絵の中に表現されていることを実感したことによるショックなのだと、段々わかってきた。
絵というものの凄さを改めて見せ付けられたような気分である。

このような不安、底なしの感覚は、上述したように何も特定できない。
その特定できないが確かに存在する「何か」を言葉によって表現するには、言葉すなわち文字という平面的な媒体を使って、文字から生まれる言葉から適切な想像力を駆り立てることにより、立体的な描き方に繋がる必要があり、そこには起承転結のような説明のつかない「何か」が確実に実感しうるものとして表現されていなくてはならないという難しさがある。

その点絵画は、視覚を通して、潰された絵だから苦しいとか、水に浸っているから冷たいという理路・筋道を超えた次元で複雑な構造をした「何か」を表現できるのだと、この絵を見て改めて感心した。

これらの絵を見ているとどこまでも苦しくなり、どこまで行っても「この先」が見えてこない。行き場・居場所・安全・暖かさ、そういったものがどこを探しても一向に見当たらないのだ。
この絵の作者は、ロストジェネレーション(1972~1982年生まれ)にあたるが、彼らが大学を卒業し始める1995年は、神戸大震災に始まり、就職氷河期、サリン事件、山一證券倒産、さらには2001年のNYのWTCテロに至るまで、世界は揺れ動き続き、既存の価値観は木っ端微塵となってしまった。

おそらく失われたものは、規制の価値観なのではないだろうか。
エリート大学を出ても就職できない。エリートサラリーマンになっても会社がつぶれる。街の中にテロがあふれ、これまで手にしたものが、こぼれていくように失われていったのではないだろうか。

そしてこれらの失われていった既存の価値観、価値観の中心とは反対に、この絵の中に、はっきり見て取れるように、物ばかりがどんどん溢れているのである。そして、便利さばかりがどんどん追求されていくのである。

いくつかの絵をずっと眺めていると、結局人というのは、物として扱われているのではないかという疑問がわいてくる。
いつか書いたこともあるが、最近は真贋の区別をつけることも難しい。
どこへ行っても、ファミレスやファーストフードチェーンなどで、同じ味覚ばかりになる。きれいにディスプレイされた野菜に味がなかったりする。

そういう時代とは何かと、彼の絵を見つつ思いを馳せる。

結局グローバル経済の影響ではないか。
金と金で交換取引をすることは、等価のものを交換するために共通化することを目的とした。
これが、グローバル化=画一化なのではないだろうか。

もう欧州はユーロばかりで、それ以外の通貨は少なくなりつつある。便利といえばそうだが、ここに属しているという固有なものの印は、どんどんと消され、画一化・共通化されているのである。
そして、資本主義世界の中で、判で押したように同じものを欲しがっている。

その影響は、日本も多大に受けている、いや飲み込まれているのかもしれない。
その画一化は、表面だけでなく内部にも及び、学校教育も画一化し、グローバル経済に都合の良い人物を排出して行こうとしている。

下の二枚の絵を見ると、特にそんなことを感じる。









だから、どうしたら良いのか。
答えはない。当面は時代にもまれて流れていくしか仕方がないと思うのである。

2.
ところが、そうなのだろうか、と今日ふと考えた。

物や可能性がこれだけ溢れる世の中で、こうして「今まで」を失った現在、人と出会うということはどういうことかと考えてみる。
人と出会うということは、分かり合うために出会うのではなく、むしろ分かり合えないことを確認するために出会うのではないか。
そうして、一つ一つの事象に、また分かり合えなかったことを実感し、「物」へとおぼれていく。
その物とは、彼の絵の中でも多くのエレクトロニクスが描かれているわけだが、電子世界へと埋もれていくのである。

そこでの繋がりを求めている姿は、FacebookへのアクセスがGoogleを超えたことや、Twitter、Mixiなどの揺るがぬ人気を見ても理解できるし、そういったSNSポータルは増える一方である。

しかし、孤独は癒えているのだろうか。そうではないと感じさせる事件が、日常で頻繁に目に付くようになった。
では物が溢れるばかりの中で、募ってゆく孤独感は、どのように処理すればよいのか。

孤独と過酷こそ、生きていることを実感させる手っ取り早い状況であり、日常と格闘することで孤独と過酷さを得ることができる。
つまり、この画一化社会で生きのびるため、どこかに自分がまだ固有の自分であるという居場所探し、固有の自分を示す表現を探すことなどは、人をモノとして扱おうとする社会では、反社会行為とも取れる。
しかし大人としては所属するために、労働や役割など日常的社会的行為を半ば自己欺瞞としての続けていかなくてはならない。

鍵は、その相反する行為の必死さに、ある意味完全な無力者として陶酔してしまうことが、明日も生きて行こうというエネルギー源になるのかもしれないというパラドックスにあるのではないか。

ひとつの無常を受け入れ確実なものはないと悟ることの中に救いがあるのかもしれない。

しかし無常を受け入れ、確実なものはないと悟るということは、仏教者でもない限り、生命力を完全に失ってしまうことにいずれは繋がる。

しかし無力者として物として扱われながら、固有の自分を保とうとする行為に陶酔することにも限界がある。
なぜなら、これは紛れもなく自分を追い込む行為へとつながるからである。
社会的役割を担いつつ、物で扱われていることに疑問を抱かず、グローバル経済の中でのメリットを得て、判で押した価値観による欲求を満たして行く生き方をせずとも、それを否定することなく、影でもう一人の本当の自分、いわば魂の宿った自分を生かし続けなくてはならない。
この矛盾に耐えられる人間はいるだろうか。
社会放棄して、固有の自分と引き換えに孤独に生きてゆけるか。

シリアスすぎる(私はシリアス過ぎる状態というのはありえないと思うが)人間は、こういった疑問と毎日闘い続け、この闘争の合間に、救いがたい空虚を感じるようになり、空虚から目を覚ますために、極限まで自分を追い詰めてしまう。自分に忠実ということは、社会的に順応する条件をこれほど奪ってしまうことなのかと自分でも驚いている。

極限を求めるとは、死を身近に感じることに他ならない。誰かが死ぬ姿を見るごとに、あるいは自分自身が死と隣り合わせに在る状態を作り出すことで、頬を打たれ、空虚から目を覚まし、死を選ぶことはできない故の「生きる」道を選んでいくだけになるのではないだろうか。
死なないために、つまり生き延びるために、死の姿を求めている人間があるのかもしれない。

では、本気でこの社会でモノとして扱われることを拒否するなら、この作家のように踏切事故で、無意識が死を呼び寄せたような形で人生を終えるしかないのだろうか。


3.

やはり大切なのは魂だと思う。
ドストエフスキーの言葉がある。

『自分の内面に自分の魂を発見できなかった人、自分が何をしたいかとか自分の望むことが発見できなかった人は、つらく悲しい人だ。これこそ悲劇だ。』

では、固有の自分を保つこと、つまり魂を生かし続けることとは何か。
時代や世代、社会といったものとのひずみの中で、自分の魂で闘うことではないだろうか。
絵描きは絵で、作家は言葉で、詩人は詩で、音楽家は音楽で闘うことであり、それ以外に立ち向かう方法は無いはずである。
目の前の荒波を渦中そのものから直近に表現することで、立ち向かって書く(描く、奏でる、生み出す)ことが闘いの意味ではないだろうか。

その際、それ以外に手段はないはずと言ったことの意味は、直接自分の居場所と自分の在り方につながっていく。
この画家、石田の遺作集の帯にこんなことが書いてある。

『何かずーっと描いてて、描くのが僕だったと思う。描かないと僕じゃないような…』

まさに、これが表現者の条件ではないだろうか。
ドストエフスキーは、そういった魂を見つけられない人間は、悲劇だと言うのも尤もで、この魂を自分の中に見つけた人間は、言葉、絵画、詩句、音楽・作曲といった自分なりの魂の作業を続けていないと、存在を失ってしまうような人々なのであろう。

私の前夫に知り合った頃、はっきりと言ったものだ。

「僕は皿を洗っても演奏し続ける。演奏し続けられないなら死んだ方がまし。」

「死んだ方がまし」は、もちろん比喩であるが、それほどに魂の存続は緊急を要するものなのであった。

しかし自らの人生に生じ続ける荒波をその渦中から忠実に具体的に克明に描き出すことには、大きなリスクが伴う。それは周囲への影響である。
これは先にも述べたように、やはり自分勝手とも言える非社会的行為であり、近親の者の被る影響は甚だしい。
それを私は、新たに生まれる可能性のある「悪魔」または「負」と呼んでも良いと思うが、そのリスクを承知の上で、描いてゆかなくてはならない。
なぜなら、安全な距離をとって表現することなら、私たち凡人でもできることだからなのである。
そうではなくて、現代というものが抱える「病」に苦しむ人間が必要としている芸術、文化、文学とかどんなものであるかと考えると、それは安全な域を超えて「渦中」から描き出された「病」そのものの姿である必要があるのだ。つまり、作家が命を賭けて描いているという条件である。

そして表現者とは、見つけるべき魂を持っていること、その魂が媒体とする表現行為を行わなければ、自己が存在できないこと、そして過大な負を更に背負いなおす責任を承知で、克明に描き尽くすことではないだろうか。そして、その動機は、やはりそれをしなければ存在できないと言ういわば、命と魂の交換取引という象徴であるべきではないだろうか。

それだから、多くの表現者は、生み出してゆくために、故意に不幸に留まざるを得ないのだろうか。

石田徹也は、あまりにも幸せすぎるので彼女とは別れる。自分ですべてを成し遂げたいので親の援助は一切断ると言って、ほぼ昼夜描き続けたそうである。


補足:新に生まれる可能性のある悪魔、または負というのは、つまり近親者や周囲に居るものが、この表現者の真摯な社会との闘争を行うことによって受ける影響のことを意図した。言葉にこだわり、言葉のみを魂の媒体とした者の妻や子供が言葉を操れない、または音楽を媒体とした表現者の家族が、音楽を習得し理解を示していたのに、ぱったりと声が出なくなり歌えない、または止めてしまうなどの影響を考えてみた。これは新たな家族間での世代問題を生み出してしまうことになり、一筋縄で解決できる問題ではない。表現者の存在条件としての闘争が、家族を病に侵してしまうリスクと言うと具体的過ぎるが、一般にそういった負の連鎖を意味する。