2016年3月13日日曜日

ラディッシュと母

料理をしていると嫌でも母を思い出す。母の元気だった頃を。

昨日友人を招いたのでお酒を飲むにふさわしい軽食を色々と用意していた。
ラディッシュをスライスしていたら、新鮮な葉を捨てるのはもったいないなと思い至る。
いつものことなのだ。母がドイツに来たときは、日本ではあまり見かけないラディッシュ一束を好んで買い、その葉もきれいに刻んで美味しいサラダを作ってくれた。
ラディッシュの葉も食べられるのよと教えてくれたのは、もう10年以上も前の話である。
それ以来、ラディッシュを買うたびに、つまり少なくとも月に一回は、この野菜を切りながら母のことを思わずにはいられないのである。
葉を捨てるたびに、毎回胸が痛む。葉を捨てずにサラダにしても、やはり胸が痛むのである。

自分で築いてきた生活の中に、母の姿はあまりなかった。
外国に暮らしているため、母が生活の一部のように訪ねてくることもなかった。
そんな日常で、母の姿が野菜と共に、突如鮮明な記憶として蘇ってくる。いや押し寄せてくるのだった。それは、必ず苦く痛みを伴う記憶だった。

もしも、今も母が元気であったとしても、母が何千マイル以上も離れている限り、痛みや苦みが癒えることはないのだ。
離れている悲しみなのではない。そうではなくて、私を苦しめるのはそばにいないことの罪悪感である。それは母が老い、元気を失っていくのと共に年々深まって行く。そして
卑怯な私は、痛みが大きくなるにつれ、ますます電話をかけなくなった。母のためを思えば、一層頻繁に電話をして、私の話しではなく「声」を聞かせることのみを目的とすべきであるというのに、私は痛みを感じるのを無意識に避け、自分の日常に没頭しているふりをしている。

母親の老いとは、子供にとってこのように向き合いがたいことなのかと改めて驚いている。日本に残っていれば、私とて母子一体のまま、行ったり来たりを重ねて、本当の意味での自立を達成できなかったかもしれないと思う。
埋めようのない距離が二人の間をバッサリと割いていたからこそ、私は人生で決定的な分岐点に立った時に、母の顔を見ず、帰国せず、相談をしないという道を選択した。一人きりになって、何の雑音も意見も助言もない状況で、まるで真空の世界のように無音な状況で、自分のこの先を見定めたかった。それだけ大きな責任を負っているという意識があった。
あの時、日本に住んでいたら、無音の世界を作ることは決してできなかった。つまり本当の意味での自立を強行することはできなかった。それが日本の良さでもあるし、日本独特の母子の構造であるとも言える。

この自立を成し遂げたあと、私にとっての母は、守るべき存在に代わり、もう誰も守ってくれる人はいない、子供も母親も、私が守る番なのだということを痛く実感した。それが大人になったということだと思った。30を過ぎた頃だった。

この時点を超えてもう20年近く経つ今に至るまで、私は何一つ母に返せたという実感がない。幸せのニュースを告げることはできたが、母の与えてくれたことを思うと、それではとても足りない。

しかしそれが親というものなのだ。親からもらったものと同等のものを返すことはできない。そして自立した親ならば、そんなことは望んでいないのである。

しかし、それを納得したところで、痛みと苦みを消し去ることはできない。私は老いから逃げているのである。日常の平穏の裏に隠されている私自身の老いを「生きる」ことで、実は精いっぱいなのかもしれなかった。認めたくない自分の老いが時と共に迫り来るのを感じながら、親の老いを考える時、それは無意識の中で自分の将来の姿に重なり、触れずにいることでのみ、私自身の「老いへの日々」を何の痛みもなく突き進むことができるのかもしれない。

そして自分の勝手さを噛みしめながら、自分を少しは責め、そして親が「元気に老いる」ことを密かに望んでいる。

その自分の姿に触れるのが嫌だから、電話をかけなくなったのである。
以前のように母の意見が大切なものだとは思えなくなった「自分の大人の時代」が開始していらい、電話は報告になり、その後義務になり、そして触れたくないものになってしまった。

声を聴かせ合うことが思いやりの基本であるにもかかわらず、声しか交換できない者同士のコミュニケーションには、声から様々なことを聴きとる習慣が成り立っている。
平穏の裏に実はずっと流れ続けている現実を凝視できない。
どんなことにも真っ向から直面して、まるで挑むように乗り越えてきたと、そういう実感がある私でさえ、この現実は凝視しないと決めているようなのだった。

ラディッシュを切る時、私はいつもむな苦しくなる。時には涙さえ流れてくる。しかし解決はないのだった。生きるからには死が来る。そのどうあがきようもない自然の掟こそ、やっと日常が平穏になった私の身に、最も堪えることなのだと、今思い知った。半分というターニングポイントを過ぎた人間の背後には、死への葬送曲が聞こえるか聞こえないかのような、かすかな気配を見せるのである。それを感じ取ってしまったら、平穏というカモフラージュを駆使して、静かに最期を待つしかないと思い知るのだった。しかし親の老いを見ることで、その現実がふと前面に押し出される。それをまたすぐに押しやるために、私は日常を生きているのだった。そのために日常はあるのだと、それも今にして分かった。

子供達の瑞々しい人生を見ていると、心の奥から深い満足感が湧いてくる。それぞれの人生を生き抜く力を与えてやることができた。それ以上は何も望まない。
しかし、私自身はとうとう日常生活を「つき進むべき道」としてではなく、「現実への蓋」として使うようになっていたのだった。

そんな逃げ腰の生き方をとうの昔に通り越した自分の親のことを思えば、彼らは実に静寂に満ちており、私は何の罪悪感も恐怖感も抱く必要はないはずなのだった。

私は私自身の「自然の摂理」を恐れているだけであり、実にエゴに満ちた小心から来る理由で、自分の蓋をしっかりと閉めているだけの話なのだった。

ラディッシュを見るとどうしても買いたくなる。母のようにサラダを作りたくなる。しかし葉を捨てるか使うか迷う段階で、必ずどうしようもないジレンマにかられ、大抵は葉を捨て、そして一晩胸の痛みをさすって癒す。

そして母を思う。
子供も孫も育ち、身体が追い、精神がかすみ、きっと随分と寂しい思いをしているだろうなと。