2012年5月11日金曜日

あそこへ、本当にいたのだが…

夢だった。
夢らしくない夢だった。
生々しくて、それが現実と区別がつかず、重苦しい空気で目を覚ましたが、目元に手をあてても涙は出ていなかった。

私はどこにいたのだろう。その少し前まで、どこにいたのかわからない。
けれど、常にガラスを通してその向こうの世界で起こっていることを眺めているといった感覚である。
または、あの昔のガラスのまるっこい金魚ばちの中から、水とガラスを通してゆがんだ世界を見ているような感覚でもある。

いや、私は紛れもなく、私の育った家の前にいた。
どういうわけか、私は大谷石の石塀を超えて勝手口の前にしゃがんでいた。
子供の頃、いつも隠れて遊んでいた場所である。
勝手口の扉と石塀の間には水撒き用の蛇口があり、ままごとをするなどにも便利であった。
また階段を下りると車庫へつながっており、自転車で帰宅したり、一家で帰宅しても玄関口まで必ず通る一角であった。

その周辺の大谷石にも車庫側の壁にも、20年以上が経ったころ、コケが生えてきた。水撒きや気候のせいであろう。

私はそこにしゃがんでいた。そして寄りかかっていた車庫の階段の壁にあてた手に緑色のコケが触れたのである。反対側には、大谷石の前に植え込んである杉の木に触れることができる。
あまりの現実感に、私は壁をたたいた。いつもの冷たいコンクリートの感触で、コツコツとした硬い手応えがあった。
うそでしょう?
左の手で杉の木に触れると、ざらざらとした感触が手の中に残った。
全てが現実なのだった。

信じられずにしゃがみこんでいると、母が帰宅する気配がする。石塀の向こうを、母が外出先から鼻歌交じりに歩いているのだ。

しばらくすると、トントンと玄関口への階段を上がる音がする。間もなく門が開く。私は勝手口の前から塀伝いに玄関口の前にしゃがんでいた。
母が目の前を通る。
目の前の母の足が私には見えるのである。
私はしゃがんでいるから、彼女の全体像は見えない。けれど、彼女の良く知った足が見慣れた靴を履いて目の前を歩いていた。

なぜ私は彼女の目に入らないのだろうか?
私はここにいるのよ!

その時鍵を探し出していた母が、明るい声で独り言を言う。
「あ~ら、誰が帰ってきたのかしら?誰がそこにいるの?」
そう言うと、家族を待たせたのではないかと、彼女は急ぎ足で扉を開けて家の中に入ってしまった。
ドアが目の前でばたりと閉まる。

私はしゃがんだまま、また無人となった玄関口の前の空間を見つめていた。
母には、私のことは見えなかった。
けれど、誰か家族の気配は感じ取っていたのだ。
私は、 9000キロ離れた場所にいる。今も夢を見る前と変わらずにここにいる。
けれど、私は確かに「あそこ」にいたのである。
現に、壁や木に触っていたはずである。夢の中で疑い、何度も壁をたたいたはずである。

けれど、私の身体は、やはりここにあったのだ。その証拠に、私のことを誰も見ることはできなかった。
私だけが、身体を失くした目で、あそこを見てきただけなのである。
その孤独感は、口では言い表せない。
その疎外感は、寂しいなどという言葉も当てはまらなく、どう表現していいのかわからない。

私は彼らの実態のある生活には存在しておらず、彼らの心の中にしか存在していないのである。
そして、私にとっても彼らは心の中でしか交流できず、それで十分だけれど、私がそこにいたのに、見えないので通り過ぎられてしまうことは、何かを比喩しているようで、悲しいのだった。

そこにしゃがみこんだまま、私は泣き出した。
悲しみというのもあったけれど、そこに本当にいたのだという現実感に感動していたというのもある。私は本当に帰国していたのだ。その深い驚きと、心だけならば動けるのだという確信に、震えるようにして泣いた。

けれども、その後目を覚ました私は泣いていなかった。所詮夢だったのだ。


夢の中で見た母は、今よりもずっと若かった。
ストッキングを履いて、形の良いふくらはぎを懐かしく思った。ベージュのスカートの上には黒いニットを着ており、茶色い革の大きなショッピングバッグを持っていた。
きっと私と同じぐらいの年齢だったのだ。
きっと私は10歳ぐらいだったのだ。

玄関の戸口で、縄跳びやボール遊びをして、時々大谷石の塀から身を乗り出して母が駅の方から歩いてくるのを待っていた。そうでなければ、母の車のエンジンが聞こえるのを耳を澄まして待っていた。
その玄関口では、チョークでよく落書きもした。母のハイヒールを履いて、トコトコと歩き回ったりもした。
これでも内気だった私は、友達と約束していなければ、外の通りで遊ぶことができず、家の敷地内の色々な場所でままごとをしていた。
家の前は遊び場道路といって、5時までは居住者以外車が通れなかったのにである。

ドイツのDCTPというテレビ制作会社の番組で多和田葉子のインタビューを聞いた時、彼女が自分の魂をシベリアのどこかで失ったきり、見つかっていない。というようなことを述べていたのをはっきりと覚えている。
身体的にはここにいるけれど、私の魂は、気体のように浮遊しているはず、というのである。

その言葉を聞いたとき、私自身の中に長年抱いていた気持ちとぴったりと一致し、やはりそうか、という思いを持ったのを覚えている。

身体と「魂」は独自の動きをとることがある。
それで、私が身体を失った目で、どこかに飛んでいかれるというのは現実であるとしか言いようがない。私は今まで少なくとも3回は、このような現実感を体験しているのである。

しかしどうしてもできないことは、「今」という時間の中で「そこ」へ行くことである。
それだけは、どうしてもできないけれど、彼らやあの場所に「出会う」ことは、身体がなくてもできる。それは望んで望んでかなうことではないけれど、ある日突然私はそこへ行き、彼らに出会い、その場所に触れ、大きく心を動かされて、またここに戻ってくるのであった。

不思議であるが、そのたびに心は満たされる。




2012年5月6日日曜日

その日はまだ見えない

呟きサイトを利用するようになったのは、2009年初頭であった。
交流するのがアホらしくなって、アカウントを何度か変えて、一人で密かに思いを吐き出していた。
同じような人ばかり集めて、その人々の思いを読んでいたが、最近は鼻について仕方が無い。

もっと差し迫った事情が私には幾つもあるのだと見えて来て以来、彼らの苦しそうな言葉の裏で、本当にのたうち回っている姿をあからさまに語る人は殆どいないということに気がついた。
紡ぎ出される言葉がいくら自分を責めるものであっても、そのどこかに自分の存在を強く肯定する部分が見えるような瞬間、私はその人の健康さに目眩を覚えるのである。
それ以来、あまり書かなくなった。

私は本気で垂れ流していたけれど、本気を曝け出すことほど頭の悪いことは無い。
皆はちゃんと自分の心臓は手に包んで守っているのに、私はそのまま転がしてしまっているような馬鹿さである。

私が吐いていることは、他人には重要でもなければ、役に立つわけでもない。けれど、その内容は余りにも私的なもので、それを公に投げ飛ばすのは、倫理的に苦しくなったということもある。
私は問題を抱えつつ、自分の生き方を良いとは思わなくとも、必死であるからこそ、私の家族を交えた私の生活を話題にすることに罪の意識を覚えたのだ。
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一度訪れた初夏はどこへやらといった天候である。

どんよりとした雲に包まれつつ、昨日は大掃除をして気分が少し回復した。
掃除婦を頼んだのだが、未だに断り続けている。もしや週末の掃除が、日常を愛するための行為かもしれないと思ってみる。掃除婦がいつも私の整理されていない家に侵入し、片付けてくれるとしたら、私の気分は良くなるのだろうか。
タワシを使って風呂場を磨き、モップで床を拭う運動が、私を日常に貼付けているという気もする。
つまり、家の掃除ぐらいまともにできなくなったら、精神的におしまいという指針かもしれない。

死が訪れる日が大体いつ頃なのか、そんなことは誰も知りたくないだろう。
しかし5年とか10年とか、現実的に限られた時間が見えるとしたら、どう生きるのだろうか。実際は、明日死ぬことがあってもおかしくない。それほど死に至る危険というのは世の中に潜んでいる。
もちろん人は昔のように死人を間近に見ることもなくなり、死を意識して生きることは少ない。けれど生きる以上、死は常に背後にいるのだろう。

あと五年生きられれば、あと十年生きられればという望みがかなったとしても、本当にその日を平然と迎えること等できるのだろうか。
作家の吉村昭は、娘に逝くよと言い残して、自分で管を抜いてしまった。
弟の死に苦しみ、自らも重い病を乗り越えて生きて来た彼は、死を常に意識してきた過去から、死が普通の人よりもずっと近いものとして潜在的に心の中にあったのかもしれない。

けれど、普通はやはり死は別れ以外のなにものでもなく、一人だけでこの世に残る人々や、この世の愛おしく小さな自然に別れを告げるのは難しいのだろうと思う。

美しい夕日も見れず、はかなく舞ってその姿を消してしまう桜も見れなくなる。小鳥のさえずりも聞こえなくなり、もちろん家族にも別れを告げねばならず、自分はどこに行くのか分からないまま、その日を意識し出したときから、目にする全てのもの、耳にする全ての音、家族との全ての時間を愛おしく失いがたいものとして心に刻んで行くのだろうか。

最近家族の病気が続いている。
ぽつんと一人遠くにいながら、この災難が私を襲う日も遠くはないのかもしれないと思う。しかしそんなことは普段考えて生きて行かれない。神経質に検査にばかり通うことも実際はできない。
けれど、確実に自分にも死は訪れ、それは年単位で数えられる近い将来なのではないかと、必ずそう想像したに違いない家族が、また一人増えた。

命の限りがいつであるか、そればかりはどんなことをしても制御できない。
けれど、その家族の者が今まで歩み、築いて来た道を振り返ると、病気の状況や今後の見通しなどといった諸々の状況など全て忘れ去り、ただひたすら、死なせてはいけない、死なせるわけにはいかないと、その言葉が脳裏にこだまするのである。
何もできることもなく、何も手を貸すこともできない。私にあるのは、ただの思いと願いだけである。

最後のひと呼吸まで、どんなことがあっても命の「ために」闘わなくてはいけない。それは家族も本人も同じである。



2012年5月4日金曜日

揺れるカーテンの向こう

今週、新しいソフトウェアを使った翻訳案件が入り、翻訳者を探すのにひときわ苦労した。おまけにゴールデンウィークとやらで、日本は殆ど機能せず、日本在住の訳者の方々とは、ほぼ連絡を取れなかった。

大きなプロジェクトは2つあったのだが、 その1つ目の訳者が見つかった時は、本当に礼を述べたいほどだった。

彼女のことは、翻訳者の特別ポータルで見つけたのだが、プロフィール写真がなかなか良いのだ。
きっと私よりも若干年上なのかもしれないけれど、翻訳者や通訳者に多いキリキリカリカリしたイメージはゼロで、優しく信頼のおけそうな顔写真である。
背景はもちろん殆ど見えないのだが、それでもその写真がおそらく彼女の書斎で撮られたものであることには間違えない。

白い半透明のカーテンを通して、美しいペルシャ絨毯の敷かれた部屋にほんのりと光が差し込んでいる。壁に備え付けられた重厚な本棚にはたくさんの辞書などが収められ、その向こうには葉の大きな観葉植物が置かれていた。それはいかにも市民的な、いや小市民的とさえ言えるものだった。

この小さな写真を見たのは一瞬である。仕事中なので、別にじっくり見るわけもない。
しかし今朝、もう一度彼女の情報を確かめにプロフィールを閲覧し、もう一度写真を目にした。
一瞬なのであるが、私の心の中に、安定した家庭、安定した環境、安定した心情という言葉が、その写真の背景に思い浮かび、彼女はおそらく驚くほど規則的に生活し、忙しさを理由にもせず、毎日夫(彼女の苗字は日本名ではない)や家族のために、色とりどりの食事を用意しているだろうと想像をめぐらせた。小市民的という批判に満ちた私の言葉の中には、まるで自分の奥深くに隠しがたい小市民の幸せという過去を持っているかのように、このような憧れがあったのである。

その途端に、私の一生工事現場のような人生に疲労を感じ、自分のいかにも掃除の行き届いていない部屋を見て失望し、自分の書斎のカオス状態に恥じ入ってしまった。

いつまで経っても、仮の住まいに、仮の人生のようである。
彼女のようなどっしりとした安定感は、私の写真にはあろうはずもない。



彼女の経歴も輝かしく、東京で1、2を争う一流の女子大の英文科を出て、アメリカの大学に留学し、専門的翻訳学科でマスターを取得し、立派な職歴の後に、どこかで知り合ったご主人の故郷に移り住んで、今まで翻訳家として活躍したことがうかがえる。

私のように、そこらへんに転がっていた仕事をやりながら、本当に学んだことや本当に取得した卒業証書とは、どれも似つかぬ仕事についていると言う支離滅裂振りではない。

激しく心細さを覚え、夏前には辞めようかなと、いよいよ本格的に思い直している仕事に、今日も重い心持で出かけていくのである。

柔らかな風にふわりとゆれる美しい白いカーテンのある部屋で、整然とした仕事場を前に、仕事をしつつ、状況はまったく安定して揺るぎのない達成感がある、というシナリオに目を細めて憧れを抱くが、今ある私の現実こそ、私の求めていたものなのである。ないものねだりは、逃避でしかない。
今日も、明日も、自分の尻をたたきながら、何とかやっていきます。


2012年4月20日金曜日

思い出のパリ

パリのことを思い出す。
パリは随分良く訪れた。初めてパリを見たのは留学してきた年に、フランス人の友人にもらった見知らぬ人のアドレスを尋ねて一人で訪れた時だった。
東駅に着いてフランに両替した後、ベルヴィルにあるそのアパートにたどり着くまでが苦労の連続であったが、今思えば甘酸っぱい記憶となって、心の奥に刻まれている。

その後、当時のボーイフレンドだった人の親友のガールフレンドがパリに住んでおり、幾度となくパリで落ち合ったものだった。
彼女のアパートは4区にあった。確かEtienne Marcelというメトロの駅の近くであった。当時随分年上であったが、まだ学生だった彼女のアパートは当然のごとく屋根裏部屋にあった。長くくねる階段を上りきった所に見える小さなドアを開けると、彼女の二部屋のせまっ苦しい部屋があったのだ。

どこにどう4人で寝泊りをしたのか覚えていないが、何度もそこを訪れては、話し合い、笑い合い、喧嘩も悲しい思いも互いに分け合ったことは覚えている。

彼女の部屋の窓を開けても、隣や裏の家の屋根が見えるばかりで、パリの全景を望むことができたわけでもない。
それでも私達は、近所のワインショップに行っては、高級なブルゴーニュ産とフランスパンを買い求めて、屋根裏部屋に戻った。窓から見える星の美しさに惹かれて、窓を開け、厳しく禁止されているのに、ワインボトルとフランスパンを抱えて屋根の上に出ては、ひそひそ声で小さな宴会をしたのを覚えている。
いつも、ものの20分もしないうちに近所の人に通報されて、大家から怒鳴り声の電話を受けて退散することになった。
そのパリを懐かしいと思う。
あんな体験は、若さゆえの馬鹿でなければなかなかできなかったろう。

そこで私はビールばかり飲むドイツ人学生とは違い、フランス人やイタリア人学生は、通常はワイン党なのだと知り、いろいろなワインを覚えるきっかけにもなった。
私の連れの親友だった彼は、トリノの銀行につとめる父を持つ中流家庭の出身であった。その彼女にいたっては、パドヴァの有名な心臓外科の娘で、様々な政治家も親戚に持つような、言わば上流階級の出身だった。
それでも、常に誰もお金は持っていなかったのを覚えている。
朝食は、決まって小麦粉と水でクレープを焼いて、Nutellaの大瓶から大量にクリームをかき出しては、べっとりと塗って食べた。
昼は、メトロ駅の目の前にあるCafe Etienneでバゲットのサンドイッチを調達してきた。
夜は、Sebastopolという大通りを渡ってユダヤ人街の方に歩き、安い料理を探して食べた。

しかし、彼らはその背景もあって、非常に文化的には洗練されていた。そのおかげで、私は欧州に渡って何年もしていなかったのに、彼らの生活ぶりや会話から、様々なことを早くに吸収して行くことができた。
彼らの飲んでいる本、彼らの両親の考え、彼らのもらっている送金額、彼らの将来像、彼らの食生活、彼らの消費態度、金銭感覚、そういったものを悉く身近に見ることができた。不思議なことに、ドイツの学生生活で知り合う友人知人達からよりも、もっとより深い次元で学ぶことができたのは、個人的な親密度によるものなのか、それともフランスやイタリアと言うドイツよりも階級の色濃く残る文化によるものなのか、はっきりとは判らない。


その後、彼らとはパリの学生パーティーにも出向いたし、ピエモンテの別荘で釣りなどを楽しみながら過ごしたこともあり、パルマの年上の友人夫婦宅で毎月のように集まり、買い物や料理をして夜通し語り合ったことも数限りなかった。
体外は、若者の根拠のない自信で世の中を嘆き馬鹿にし、哲学書や古い文学を紐解いて、物をわかったような顔をしていただけである。当然、そこに音楽という中心があったことは当然であるが、思い出に残るのは、むしろ彼らとのインテンシブな生活であった。

親友はその後、私達の間ではつまらないと言われる指揮者を抱えるオーケストラに仕事を見つけた。彼女とは、最初から問題だらけであったが、その優れた知性と教養、また8歳も年上だったことから、彼を精神的に支えてくれたことで、別れるまでには至らなかった。
が、その知性ゆえ、彼女は彼の関心をずっと得るために、心理作戦を使いすぎ、彼は疲労困憊して結局別れてしまった。
間もなく、年下の建築学科の学生と出会って新しい彼女だと紹介されたが、もうあの頃のような団結はどこにもなかったのである。
その彼女は、モデルを小型にしたような見かけで、いかにもつまらなそうに私達の狂乱の過去の話には加わらず、そのまま団体行動も消えてしまった。

彼は、間もなくその建築学科の女学生とも別れてしまった。

パリの学生パーティーに参加すると、またドイツとの差にも驚いた。
どこを見ても、視線と視線の間にはゲームがあり、どこの隅っこにまで行っても、男は男で、女は女であった。
ドイツのパーティーなどでもそういうことは起こり得たのだが、視線と視線が合えば、そこには一種のあの雰囲気が直ぐに介在したなどということはなかったのである。視線と視線には、単なる目の合う瞬間があったと言うのが殆どであった。
そういう意味で、パリの学生パーティーは、もっと自由奔放であったし、もっとエロティックであり、もっと面倒で、疲労するものでもあった。自分がその気がなくても、女として扱われてしまう女の殻を脱ぎ捨てることは難しい。美醜に関わらず、彼らは女性を女性として扱ったものだ。それは感心することであるが、ある友人など、フランス人は目から精子を飛ばしているなどと、酷い冗談も出たほどである。

そのパリを頻繁に訪れたのは、おそらく92年から95年ごろまでであった。その後10年以上してからパリを再び訪れた。子供達をおいて一人旅である。
懐かしい街角をいくつも見つけて過去を抱くように写真に収めた。

レ・アールで一人で買い物をしていたら、フランス語でチェックを書けと言われ、英語ではだめだと断固拒否されたところに助けの手を出してくれた、ベルナデットという女の子と、その後バゲットをほお張りながら散歩し、ベンチに腰を掛けた午後。夕方彼女の叔父さんの勤めるカフェに行ってご馳走になったこと。いつしか文通も途切れてしまった。

オルセーの帰り、対岸に行こうと渡った芸術橋で「愛らしいお姉さんただで描いてあげるよ」と声を掛けてきた、あのカーリーヘアのアーティスト。朝の散歩をしていれば、配達の自転車に乗って後ろから近距離で追い越す際に「サリュ、ボンジュルネー」と爽やかに振り返って走り去っていったあの若者の笑顔。
自分の外見の如何に関わらず、パリでは常にと言ってよいほど、挨拶をされ声を掛けられた。旅人には嬉しい思い出である。
当然、しつこく言い寄ってくる危ない人もいるのだが、それは常識的な感覚を持っていれば、直ぐにわかるものである。断固とした態度でいれば、意外にしつこく追い詰めてくるものでもない。

そうしてあの角のカフェ、この橋の向こう、この公園のベンチ、あそこのスーパー、ここのパン屋と、色々な街角を訪ね歩いては、一人ため息をついていた。

すべては、私がまだ20代という非常に若い年齢であったから、集めることのできた思い出である。

セーヌは、生きている。

当時のメモに、そんなことを書いていた覚えがある。
セーヌは、どの橋から見ても、どの建物を向こう側に目にしても、常に違う顔を持っているのに、完璧なほど、その雑多な風景に溶け込んでいるのである。
セーヌは、ただの川ではなく、息づいていた。それはパリの人々の活気、決して親切で気持ちのよい人ばかりではないが、大都会だからと言って、東京のように表情のない顔をした人は少なかったのである。
厳しい表情も、生きることの只中にあるそのことを象徴しているようにさえ見えた。
その人々の生きるという息遣いは、川の中にも溶け込み、川自身がキャラクターをもった生きる存在のように、そこここで、その豊かな表情を見せていたともいえる。

パリには、独特の魅力がある。
それは揺るがぬ事実であった。
現に、私は今でも遠いあの頃を思い出しては、あの街に深い憧憬を持っている。

冒頭に書いたように、留学直後初めて訪れたパリでは、フランス人女学生シルヴィーの知り合いの男性宅に間借りした。その思考自体が、日本から来た私には驚いたが、コンセルバトワールを卒業したばかりだった、ジャン・フランソワというその知人と彼の友人達の私に対する扱いにも、日本から来たばかりの私には、驚くべきものがあった。
その話は、またいつかどこかで書きたいと思う。

ちょうどあの頃リリースされ、毎日のように聞いていたアンテナ。







2012年3月14日水曜日

様々な断片

「症状の裏に隠れた人間性」という言葉が何回か頭の中で繰り返される。
症状というのは厄介なもので、通常の状態よりも激しいために、どうしてもその裏にあるものが見えない。しかしその裏にあるものに少しでも触れることができなければ、何の人間関係も築けないのだと言う問題もある。

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カミーユ・クローデルが精神を病んで療養所に送られる時、それを手配した弟のポール・クローデルは、彼女の乗せられた車を見送った。カミーユがポールを呼び続けていたというのは、映画での記憶だが、Anne Delbeeの本ではどうだったのか覚えていない。どちらにせよ、悲劇的な光景である。
彼女は長生きをした。と同時に長いこと苦しみ続けた。
弟は、とぎれとぎれではあっても、姉を最後まで忘れることなく気にかけ世話をした。

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体調を壊して娘は弱気になった。そんな彼女を見ていたら、やはり我が子である、辛そうなのが可哀想になった。それを察知してか、このところの彼女は攻撃性を潜めていた。昨日それを車中でふと考えたら、別の不安に襲われた。彼女の攻撃性が無い時は、依存性が強く顔を出し、全てを舐め尽くすように吸い取ろうと、必死に愛の証明を求めてくるのである。その予想が的中し、昨夜は甘えるような態度と、まったく自我を失った会話に、次に息をすべきか、それとも息を止めるべきかといったような、存在すら自力ではできないと思わせる会話で、私に「答え」求めて来た。息をしなさいと言っても、何故、または、単にそう言って私を追い返したいだけというダブルバインドで、何の解決にもならない。けれど会話をしないことは、彼女の依存と私への固執を高めるばかりである。一生懸命夜中まで続く会話の相手をする。なだめても疑われ、指摘しても反発され、本音を言えば人でなしと罵られる。根気との勝負だ。
しかし、いずれは彼女の側からのカタルシスが起きなければ解決しない。カタルシスを引き起こすという方法もあるが、それは体調の優れない私には激しすぎた。
彼女は、私の語り尽くした全ての言葉をすべて逆手に取って、酷い酷いと泣き崩れた。哀れであるが、抱きしめてやるような気持ちは沸き起こらない。それまでに私は吸い取られ尽くしているのである。二時間も禅問頭にもならないような不毛な会話をなだめるためだけに、細心の注意を払って、言葉を選んで相手をしているのである。もう眠気で声が出ないと言えば、声を出すまで、質問に答えるまで、揺さぶられ、揺り起こされ、泣きつかれるのである。

彼女は、泣いた後捨て言葉を吐いて自室に行く。ホッとしたと、今晩も生き延びたと、やっと就寝できると、安堵する瞬間である。

その後、間もなく携帯がちりんと音を出す。彼女からのSMSだと直感する。攻撃期ではないため、彼女は情に訴える、いや、こういうと語弊がある、彼女なりに、本心から私への思いを伝えようと、携帯のキーを打ったのである。

ママ、何があっても、ママのこと大好き。こんな風にずっとやっていくのは余りにも辛い。ママのためを思って言っているのだから、ママも変わって。

今朝起床して読み、胸が痛んだ。しかし痛むけれど、ママのためを思って忠告しているのだから変われ、そうでないと私はもう死にそう、という文の背景に、深い疲労感を覚える。

20年前、夫と付き合い、教育され、交渉を繰り返し、譲歩をし、不可能と分かり、全ての責任を背負い込んで私は疲弊し、精神科に駆けつけ、それを突っ返し、自分を痛めつけ、壊れ、別れ、再生したころのシナリオとぴたりと一致することに、深い悲しみと不安と哀れみと出口の無い息苦しさを感じる。

私が依存を生み出したのではないか。

そう言えば、彼女が5歳の頃から、その関係の問題で、彼女ではなく私が専門家の世話になっていたことを思い出した。
心配で仕方なかった。育て方を間違えたと思った。しかし違ったのだ、それは彼女自身の中にあるものなのだと気がついて以来、専門家など不要と決めつけて来た。
しかし、やはり苦しい。とてつもなく苦しい。

*******

それで彼女を人手に渡したら、と思った時にカミーユの叫び声が聞こえたような気がしたのだ。何の共通点も無い話である。しかし、彼女の悲痛な叫びと不安が、娘の悲痛な叫びと不安になって、聞こえて来たのである。彼女の裏にある人格は、心優しく、酷く繊細な一人の少女である。芯が強くどんなことにも負けない精神力がある代わりに、世の中の全ての小さな悲しい出来事に触れただけで、浮浪者を見ただけで涙を流し、心が不安になり、私に縋り付くような非現実的な善だけでできた目を持っている子である。

彼女の人格に到達したとしても、それをどう守ってやれるのか分からないのだ。彼女の感性は「すがるもの」無しには、一日もこの荒波の世の中を渡り歩けないほど、超現実なのである。

彼女が、縋り付く行為とは、こうした背景を抱えた上での自己陶酔という自己防御を実践できる、表現とか芸事が良いのである。それを行っている間は、自己陶酔ができ、自己肯定となり、自己防御できるのである。それを可能にする道を与えてやらねばと、今は学校などという過小な問題は忘れさり、それだけを考えていると言った具合なのである。



2012年2月19日日曜日

エンガディンの谷間で


教会は谷間にあった。空は晴天で穏やかだった。教会の前に広がる小さな広場に私は座っていた。髪の毛を揺らす優しい風が吹くたびに、乾燥した髪の毛の香りを気持ち良く鼻先に感じていた。
この土地の日差しは強い。標高が2000メートルを超えているため、3日目に私の肌はボロボロとはがれて来た。

足下で可愛らしく頭を揺らせているのはカモミールの小花達だった。カラカラに乾いた土の中から顔を出し、夜には恐ろしく冷え込むのに、この花達は元気そうに輝いていた。私は幾つか花を優しく摘み取って、ポケットに入れた。教会の中に置いて来たリュックサックの中に、常に持ち歩いている日記帳があった。そこに挟んでおくつもりだった。

しばらくして太陽の光があまりにも眩しかったため、立ち上がった。プローベの行われていた教会の中に戻って行くためではなかった。私は駅へ向かって突然歩き出したのだ。歩いているうちに、どんどん気持ちが急いて行く。後ろを振り返ると教会は、若干小さくなっていたが、まだそこにすぐそこにあった。しかし教会の中からもう音楽は聞こえてこなかった。

駅の前には薬局があった。私は日焼け止めのクリームを買い足すために手に取り、店内に突っ立ったまま考え事をしていた。旅行客が何人かいたその薬局の売り子は、白衣を着ててきぱきと客の注文に応えていた。列に並んでいたのか、いなかったのか、記憶はすっかり消えている。が、いつしか私は白衣を着た薬剤師の女性の前に立っていた。手に持っていたクリームを差し出し、顔の顔がボロボロと向けてしまい、痛くて仕方ないと訴えた。彼女はやけどをしたようになった私の肌を見て気の毒がり、すぐその角にある医者を紹介してくれた。紙切れを受け取り、礼を言って出てこようと思った時、本来なぜ私は薬局に立ち寄ったのか、その理由が私の首を絞めるように押し寄せて来た。
私は付け加えるように、意を決したような様子もなく、妊娠検査キットをくださいと言った。薬剤師の女性はニコニコしながら引き出しからキットを取り出して、クリームと一緒に白い小さな紙袋に入れてくれた。慣れないフランでお金を払い、飛び出すように店から出た。

私は薬局の白い小さな紙袋を握りしめていた。薬局の外はすぐに小さな駅である。それでもレティシェ・バーンの駅の中では、一番大きな駅である。その駅に向かって左手には割と大きな書店があった。私は紙袋を握りしめたまま書店に彷徨うように入って行った。

入り口の本棚の前に立って、様々な本を見つめていた。しかし題名は頭に入ってこない。背表紙をするりと触って、意味もなく一冊の本を取り出した。ニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」であった。ニーチェの過ごしたSils Mariaまでは、何キロもなかった。私はその本の冒頭を開いた。

Als Zarathustra dreißig Jahre alt war, verließ er seine Heimat und den See seiner Heimat und ging in das Gebirge. Hier genoß er seines Geistes und seiner Einsamkeit und wurde dessen zehn Jahre nicht müde. Endlich aber verwandelte sich sein Herz, - und eines Morgens stand er mit der Morgenröte auf, trat vor der Sonne hin und sprach zu ihr also.........

アインザムカイト!ハイマート!ゲビルゲ!ドライスィッヒヤーレ!

私は迷わずその本を掴んでレジに向かった。静かな書店の中で、無言で金を払い、また外に出た。日差しは真昼の高みに達していた。
未だに右手に握りしめていた紙袋は、手のひらの汗で湿り気を帯びていた。私は書店でもらったビニールの手提げに小さな紙袋を入れた。十歩ぐらいトコトコと坂を下れば、もう駅である。一駅乗ろうか、それともどこかへ行ってしまおうか。彷徨うように、小さな駅構内に入った時には決心がついていた。
村のどこを見ても高級ホテルや高級車に溢れ、高価な山岳グッズや名物の食品を売っている店ばかりである。そんな高級観光地の駅は小さく、公衆便所に至っては、とても使用できるような代物ではなかった。こんなところに、シーズンを過ぎれば忘れ去られてしまう山脈の合間にある小さな村にいるのだということを実感させられる。

トイレは駅の裏に板を貼付けて即席で作った壁に囲まれていた。そこに二つの木の扉があり、ねじで取り付けてある緑色の古めかしい錠がかかっていた。しかし電車が来る前なのか、その二つは閉まっていた。しばらく待つと、中から中年の女性が出て来た。同時に隣からは男性が出て来た。二人とも登山靴を履いてリュックを背負っていた。

私は忍び込むようにトイレに入り、中から古めかしい錠を閉めた。そしてその酷く劣悪な環境に一瞬場所を変えようかと思ったが、私の決心は固まっており、もう待ったなしというところまで緊張は高まっていたのだ。
板張りの壁の隙間から、太陽が差し込み、光の筋が内部を照らす。汲取式の酷いものであったが、私にはそんなことは目に入らなかった。床は地面であったため、手提げ袋を取って似かけ、キットを取り出す。ありがたいことに電車は去ってしまい、人の気配はなくなった。これで後一時間は汽車は来ないだろう。

ビリビリと包装を破き、生まれて初めて手にするスティックを持つ手は震えていた。目をつむり、意識はどこかへ飛んだまま、何を期待するでもなく、何を拒絶するでもなく、用を足した。それはそれは惨めな数分であった。それでも、私は今そこで、知らずにはいられなかったのである。それは子供を宿したことが真実かどうか分からなかった不安からではなかった。そうではなくて、私の人間としての本能が、子供を宿したに違いないと強く私の耳元でささやき続け、そのささやきを聞いていることで発狂しそうであったからなのだ。もう私は知っていた。それを確かめる儀式を行う、それだけの話だったのだ。

そしてそのセレモニーは孤独で寂しかった。揺れるカモミールは、皆で群れて揺れていたのに、私はたった一人で背中に太陽を浴びているだけだった。誰も周りにはいない。故郷は何万マイルも離れ、友人と言える人にも想像のできない穴の中に落ちたまま、一人で立っているのが精一杯であった。
薬剤師の女性の清潔そうで、自信に満ちあふれた仕事ぶりに圧倒され、小さな小娘が妊娠検査キットを買う等滑稽で、端から見たらままごとにしか見えないだろうと私は怯えていた。書店に逃げ込んだ、その時だけ、心の中に静けさが訪れた。見えないけれど、そこには数えきれない無数の言葉が宙を舞っていた。耳を澄ませばその言葉がささやいているのが聞こえるような気さえしていた。そこにある言葉は、絶対に私を責めることはない。私を救おうとして、人間を救おうとして、生きようとする人皆を救おうとして書かれたものに違いない。書くということは、それをしなければ書き手が先へ行かれないから書くものなのだ。その言葉さえ、私を見捨てるはずはない。そういう無意識につられ、私は書店に行ったのであった。

公衆便所の板張りの中に突っ立ったまま、私は時が過ぎ去るのを待った。堪え難いほど鼻を突くアンモニア臭を今でも思えている。息が浅いまま、私はスティックを見つめていた。吸収された水分がスティックの小窓を過ぎたその瞬間、二本のブルーの線がくっきりと現れた。私はそれを知っていたはずだ。既にその事実を知っていたはずであるが、打ちのめされ、衝撃を受け、何度も何度も線を見て、もう一分待って、線が消えやしまいかと最後のあがきを繰り返していた。

やがて、外に人の声がした。私は緑の錠を開けて、外に出た。薄暗い小屋の中にいたせいか、太陽の光は目に刺さるように痛かった。

私は駅の前の小道を左に上って、美しく雄大な景色が見えるベンチまで歩いて行った。私のお気に入りのベンチだった。何度も一人で散歩し、駅の周辺で果物や飲み物を買い終えた私は、このベンチに座って読書をしたり、日記を書いて、深呼吸をして、また歩いて私を待っているはずの人がいる場所へと重い足取りで帰って行ったのだ。

ベンチに腰掛けると、そこにはいつもの静けさと、いつもの美しい光景があった。目下には村が広がり、遠くには無数の峠が見える。
その峠の向こうには何があるのだろう。そのまた向こうの峠を超えれば、あの辺だろうか。そんなことを考えると、今すぐにでも逃げ出したい気分になって来た。しかし逃げると言って、どこへ逃げるというのだろうか。私は知らない間に、お腹に手を当てていた。一度さすり、二度さすったら、涙があふれて止まらなくなった。私は子供である。28才と言っても、意識の中では中学生や高校生のあの頃とは少しも差がないのだった。何も知らずに、何も分からず、なんの自信もないまま、子供を宿したって?情けなくて涙が流れ続けた。自信のありそうな言葉を選び、自信のありそうな言い方をすることをやっと少しだけ身につけた、そんな時であった。ところが、一度さすり出したら、その手は止まずに、ずっと何か愛おしいものがそこに入っているかのように、ずっとさすり続けていたのである。そして確かにそこにあるはずのものは愛おしいのだった。
命がそこに新しく生まれたという確信は、今真実になった。それを確かめることは辛かったが、今となっては自分の中に別の命がいるという事実に、驚愕し、うろたえ、申し訳ないと謝り、それでも愛おしくて仕方ないのか、本能的にさすり続けていたのである。いや、確かに愛おしかった。私はそのベンチで初めて、後に生まれる娘に「話しかけた」のである。その最初の一言は「こんなママでごめん」であった。次の一言は「何があっても頑張るから」という誓いであった。

泣きはらしたら、太陽は峠の道をオレンジ色に照らしていた。
昼過ぎに急いて歩いて来た道を今度は重く引きずるような足取りで帰って行った。教会の前の広場に近づくに連れ、またどこからともなく音楽が聞こえて来た。まだプローベをしているのだ。私が駅に行っていた何時間かの間も、彼らは変わらず練習をし、今夜の演奏家に備えていたのだ。それが彼らの仕事であり使命である。

広場の土はもう冷たかった。カモミールは相変わらず揺らめいていたが、それは寒さに震えているように見えた。
私は教会の古めかしい扉を開けた。小さかった音が、突然大音響のように耳に入る。同時に、彼らは私を一瞥したが、何事もなかったかのように演奏し続けた。楽章が終わり、彼らは演奏を止めた。私の立ち向かうべき相手は、私の方に再び顔を向け、「やあ、何して来たのかい?どこに行っていたの?」と訪ねて来た。その目は優しいめではなかった。その目は明らかに警戒していたのだ。何も知らないはずの彼は、私を警戒していた。

今の私なら、この男はどこまでも私を愛し続けてくれるだろうが、それは私が彼から髪の毛の一本も奪わない、欲しいと口にしないという条件があっての話であるということが分かる。彼が与えたいと思えば、いくらでも惜しまず与えてくれる。それは感動を超え、圧倒されるような愛情である。しかしそれは彼が与えたいときであり、その時はいつ来るかわらず、どのぐらいあるのかも分からず、あるいはもう二度と来ないのかもしれなかった。私は待つだけが許され、与え続ける代わりに、こちらから欲しい、必要だということは言ってはならないのだった。それが彼の警戒したあの目である。それが私には分からず、普通のまなざしであるはずなのに、なぜ、私は怯え続けていたのだろうと、何年間も来る日も来る日もノイローゼになるまで自問し続けていたのだ。しかし、当時の私に、何故それが分かるはずがあろうか。

プローベを終わりにして、軽く何か食べ、演奏会まで休もうということになって、彼らは立ち上がった。彼らの生きている世界と、私の生きている世界には、見えないがバリアのような断絶があった。私はあの午後、完璧に取り残されたのである。いや先に行かねばならなかったと言っても良い。どちらにせよ、私はあの世界にいたままでは、身体の中に宿った新しい命を守る力は吸い取られ尽くすはずだと知っていた。
私と彼を結ぶことになった命が、私と彼を断絶させたのである。
私のエネルギーを彼以外の他に注がねばならない、そう言うれっきとした事実が生まれてしまったのである。彼が止むことなく命を一日一日と削りながら音楽に献身して、文字通り捧げ尽くしているその姿と同様に、私は私の命を一日ずつ彼のために削り、献身を尽くし、情熱を絶えさせてはいけなかったのである。

ところが、望むと望まざるに関係なく、私はあの日の夕方誓ったのである。人生初めての誓いをしたのである。「何があっても頑張る」と。私は生まれて初めてお腹と会話をした代わりに、自分では気づかないまま、永遠に彼に別れを告げる決心をしたのである。新しい命は崩壊であり、私たちを繋げて家族にしたこの運命は、私たちの魂をしかしぱっくりと裂いてしまった。

だからである。言い訳ではないが、だからである、私がなぜ演奏会の後まで待たずに、いやホテルで二人だけになった瞬間を待たずに彼にこの真実を告げたのは。
ぶっきらぼうに「妊娠した」と吐き捨てるように全員の前で言ったのは、決別であり、彼からも決別させるために、挑発したのである。それが私の心の底からの、娘のために人生を掛けた覚悟だったのだ。別れようと決心していたのだ。その夜荷物をまとめて旅立とうと思っていたのだ。

その夜ツァラトゥストラの第一部七章を読んで泣いた。

予定通り、その後の私の人生は「失敗」が続き、繰り返し孤独に陥り、繰り返し起き上がることの繰り返しであった。しかし、私が生きているのは、未だにこのストーリーの中であり、あれ以来新しく始めること等できていないのである。そもそも新しく始める等、誰にもできない。私の人生はこの一つのストーリーであり、登場人物を変えたからと言って、私は何からも逃れられないのである。

Inzwischen kam der Abend, und der Markt barg sich in Dunkelheit: da verlief sich das Volk, denn selbst Neugierde und Schrecken werden müde. Zarathustra aber sass neben dem Todten auf der Erde und war in Gedanken versunken: so vergass er die Zeit. Endlich aber wurde es Nacht, und ein kalter Wind blies über den Einsamen. Da erhob sich Zarathustra und sagte zu seinem Herzen:

Wahrlich, einen schönen Fischfang that heute Zarathustra!
Keinen Menschen fieng er, wohl aber einen Leichnam. Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn: ein Possenreisser kann ihm zum Verhängniss werden. Ich will die Menschen den Sinn ihres Seins lehren: welcher ist der Übermensch, der Blitz aus der dunklen Wolke Mensch.
Aber noch bin ich ihnen ferne, und mein Sinn redet nicht zu ihren Sinnen. Eine Mitte bin ich noch den Menschen zwischen einem Narren und einem Leichnam.

Dunkel ist die Nacht, dunkel sind die Wege Zarathustra’s. Komm, du kalter und steifer Gefährte! Ich trage dich dorthin, wo ich dich mit meinen Händen begrabe.


これが、私の人生の本当の始まりのゴングであった。ここから全てが始まり、この7章のIch trage dich dorthinという言葉を信じて先へ一緒に歩んでしまったことで、私は夜に始まったその人生の相応しく、未だに迷路の中にいるままである。 これが愛なのかどうか、それは実は愛ではないと思うのだが、逃れられないほど強烈な体験に巡り会えたことが、私の人生の全てであり、それ以降の事物は、余りにも色あせて見え、生きている心地がしない。そうして未だに過去のストーリーを読み返して生きているだけという、実に閉鎖的な生き方しかできない。しかしそれで死んでしまっても、もう良いと本当に納得できる。それは悲しみの伴う大きな幸せである。