2012年5月6日日曜日

その日はまだ見えない

呟きサイトを利用するようになったのは、2009年初頭であった。
交流するのがアホらしくなって、アカウントを何度か変えて、一人で密かに思いを吐き出していた。
同じような人ばかり集めて、その人々の思いを読んでいたが、最近は鼻について仕方が無い。

もっと差し迫った事情が私には幾つもあるのだと見えて来て以来、彼らの苦しそうな言葉の裏で、本当にのたうち回っている姿をあからさまに語る人は殆どいないということに気がついた。
紡ぎ出される言葉がいくら自分を責めるものであっても、そのどこかに自分の存在を強く肯定する部分が見えるような瞬間、私はその人の健康さに目眩を覚えるのである。
それ以来、あまり書かなくなった。

私は本気で垂れ流していたけれど、本気を曝け出すことほど頭の悪いことは無い。
皆はちゃんと自分の心臓は手に包んで守っているのに、私はそのまま転がしてしまっているような馬鹿さである。

私が吐いていることは、他人には重要でもなければ、役に立つわけでもない。けれど、その内容は余りにも私的なもので、それを公に投げ飛ばすのは、倫理的に苦しくなったということもある。
私は問題を抱えつつ、自分の生き方を良いとは思わなくとも、必死であるからこそ、私の家族を交えた私の生活を話題にすることに罪の意識を覚えたのだ。
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一度訪れた初夏はどこへやらといった天候である。

どんよりとした雲に包まれつつ、昨日は大掃除をして気分が少し回復した。
掃除婦を頼んだのだが、未だに断り続けている。もしや週末の掃除が、日常を愛するための行為かもしれないと思ってみる。掃除婦がいつも私の整理されていない家に侵入し、片付けてくれるとしたら、私の気分は良くなるのだろうか。
タワシを使って風呂場を磨き、モップで床を拭う運動が、私を日常に貼付けているという気もする。
つまり、家の掃除ぐらいまともにできなくなったら、精神的におしまいという指針かもしれない。

死が訪れる日が大体いつ頃なのか、そんなことは誰も知りたくないだろう。
しかし5年とか10年とか、現実的に限られた時間が見えるとしたら、どう生きるのだろうか。実際は、明日死ぬことがあってもおかしくない。それほど死に至る危険というのは世の中に潜んでいる。
もちろん人は昔のように死人を間近に見ることもなくなり、死を意識して生きることは少ない。けれど生きる以上、死は常に背後にいるのだろう。

あと五年生きられれば、あと十年生きられればという望みがかなったとしても、本当にその日を平然と迎えること等できるのだろうか。
作家の吉村昭は、娘に逝くよと言い残して、自分で管を抜いてしまった。
弟の死に苦しみ、自らも重い病を乗り越えて生きて来た彼は、死を常に意識してきた過去から、死が普通の人よりもずっと近いものとして潜在的に心の中にあったのかもしれない。

けれど、普通はやはり死は別れ以外のなにものでもなく、一人だけでこの世に残る人々や、この世の愛おしく小さな自然に別れを告げるのは難しいのだろうと思う。

美しい夕日も見れず、はかなく舞ってその姿を消してしまう桜も見れなくなる。小鳥のさえずりも聞こえなくなり、もちろん家族にも別れを告げねばならず、自分はどこに行くのか分からないまま、その日を意識し出したときから、目にする全てのもの、耳にする全ての音、家族との全ての時間を愛おしく失いがたいものとして心に刻んで行くのだろうか。

最近家族の病気が続いている。
ぽつんと一人遠くにいながら、この災難が私を襲う日も遠くはないのかもしれないと思う。しかしそんなことは普段考えて生きて行かれない。神経質に検査にばかり通うことも実際はできない。
けれど、確実に自分にも死は訪れ、それは年単位で数えられる近い将来なのではないかと、必ずそう想像したに違いない家族が、また一人増えた。

命の限りがいつであるか、そればかりはどんなことをしても制御できない。
けれど、その家族の者が今まで歩み、築いて来た道を振り返ると、病気の状況や今後の見通しなどといった諸々の状況など全て忘れ去り、ただひたすら、死なせてはいけない、死なせるわけにはいかないと、その言葉が脳裏にこだまするのである。
何もできることもなく、何も手を貸すこともできない。私にあるのは、ただの思いと願いだけである。

最後のひと呼吸まで、どんなことがあっても命の「ために」闘わなくてはいけない。それは家族も本人も同じである。



2 件のコメント:

  1. 人に心というものがあるからこそ、人は豊かな感情を持てるわけなんですけれど、同時に逃れようの無い辛さ苦しさ哀しさもまた心があるせいなわけで、心なんか無くなってしまえばよいなどと愚かなことを考えることがあります。
    父ならこう思っているだろう、私なら(娘達に)こう思うだろう、というようなことをぼんやり考えながら、それでもとにかく今を生きるしかない状態です。
     妹が「人生はトータルで見て(量って?)どうだったかではなく、その場その場の一瞬一瞬なのだ」と呟いていました。当たり前だろうけど、そんなふうに考えて生きたいと思うようになりました。
     今日もまた私がやるべき様々な闘いもまだまだ続いていて、頑張ってきます。全く無知で不器用で情けない状態です。(また、いつか様々なことがひと段落した頃に、メールを差し上げてしまうかもしれませんが、読んでいただけるだけで結構ですので・・)

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  2. Pearlさん

    そうですね、その場その場の一瞬だと、私も思います。一瞬の素晴らしさというのは、胸が一杯になるような一瞬なんですけれど、それは自分の思いようで、日常のそこここに見つけることができるような気がします。そう思ったのは、私も最近なんです。そしてその一瞬の素晴らしさというのは、とても長く、一日中ぐらいは続くんですね。つまり、人とのかかわりに関係なく、無私のような低い「期待」しかなければ、平凡な日常の小さな見たもの聞いたことに感動や感謝を覚えるのかもしれません。
    他の人は楽しそうなのに、何で私は毎日こう闘うんだろうなと思います。それで先を見通しても、休める時期が来るだろうというのが見えない。あくせくして終わるんだという恐怖ばかりです。けれど、だからこそ、道端に花が咲いているのを末っ子と見ただけで、嬉しくてビールが美味しかったというようなことも、段々と覚えてきました。
    とにかくできるところまで、がんばりましょう。
    いつでもお気軽にメールください。

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