2019年10月6日日曜日

娘の木の人形

いつだったろうか。きっと娘がまだ幼稚園の頃に、木の人形をプレゼントしてやったことがあった。娘は小さい頃からとても繊細な子で、外に出れば太陽や雨風、虫や草木など身の回りの環境を敏感に感じ取り、一つ一つを確かめるように触ったり、見つめたりして立ち止まっていた。だから散歩に連れ出しても10歩進むのに10分もかかるようなことがあり、目的地の公園にたどり着く前に、その道のりだけですでに疲れて帰ってくることさえあったほどである。

ある日長い坂道をゆっくり歩きながら登り、黄色い落ち葉で地面が埋め尽くされている小さな公園にやっと着いた。そこには小さなばね仕掛けの木馬があったので、娘をそこに乗せてやろうと思ったが、彼女は一向に関心を示さず、すぐに飛び降りて、枯葉の下に隠れている石ころを探し出しては、一つ一つの石を丁寧に見比べて、気に入ったものは手のひらに収めていった。その後は、どんぐり集めをして、きれいな葉っぱをいくつも集めて、またのろのろと坂道を下って帰ってきたことがあった。数個の石とどんぐりと葉っぱを彼女はいつまでも大切そうに手に握っていた。結局、遊び道具よりも、自然の小さな世界を発見する方が、彼女には楽しいらしかった。

春になれば、なんでもない道路の端っこに集まった蟻を見つけてしゃがみ込み、いつまでも「アリさんだ」とニコニコ呟きながら黙って蟻の一行を観察していた。ダメな母親であった私は、買い物の時間とか、その後の家事などが頭にあって、娘のことをいつも急かしてしまった。発見や観察の喜びを彼女と一緒にじっくりと味わうという余裕を大人になった私はすでに失っていたのだ。

そんな娘は、リカちゃん人形のようなものよりも、自然に近いものをこよなく愛した。どんぐり人形はもちろんのこと、手編みの毛糸のセーターを着たテディや、布地で作った人形をこよなく愛し、ベッドの枕もとに並べて良く世話をしていた。出かけるとき、彼女は人形用の乳母車にそうした大切なぬいぐるみや人形を入れて、どこへでも持って行った。乳母車を押せないときには、かならず一つ人形を手にし、汗で濡れてしまうほど大切にそれを握りしめていた。

それもあって、Waldorfschuleのバザーを訪れたときに、ちょうど手のひらに収まる男の人と女の人と一対の木の人形を買ってやったのだ。思い返せば、そんな娘にはWaldorfschuleこそぴったりではないかと思い、ごくまれにしかいない当時の夫に頼み込んで、娘と三人そろってバザーに行った。私達の関係は当時まだ非常に情熱的であったが、付き合い始めた当初より波乱万丈の日常で、私は常に一触即発の雰囲気に脅え、夫の一挙一動に注意して腫れ物に触るように行動していた。幼かった娘は、それを完全に感じ取っていたはずである。そんな不安定な親子三人がバザーに出向き、見知らぬ環境で様々な人に会い、多くの教室を見学し、蟻んこ一匹で10分も楽しめる娘は、ほとほとその情報量の多さに疲れ切ってしまったのかもしれない。最後にたどり着いた教室では、裁縫作品が販売されており、可愛らしい人形がたくさん売っていた。そこで布の人形と木の人形も買ってやったわけなのだが、娘は手のひらサイズの木の人形を特に気に入っていたようだった。…いや、実はそうではない。それが男女一対だったから、娘は常に手に握りしめていたのに違いない。両親の情熱的だが常に不安定な関係を見て育った娘は、常にある種の不安や悲しみに付きまとわれて育ってきた。だからこそ、男女一対の人形を手に力を入れて握りしめていた娘の姿は、今思い出しても、涙が出るほど心が痛む。

ある日、私たちはまた喧嘩をしたのだろうか。あの頃の記憶はほぼ飛んでしまっているので、あまりよく覚えていないのだが、どこかで私たちはまた3人だったのだ。娘が寂しそうにしていたからか、娘がぽつんと一人で立っていたからか、私は「ほらお人形だよ、これ忘れるところだったね。○○ちゃん、これいつも持ってるでしょう?」と言って彼女の手のひらに対の木の人形を握らせてやった。娘は突如、糸が切れたように泣き出し、やがて嗚咽に代わり、私はいったいどうしたものか途方に暮れて娘の腕を握って彼女の前にしゃがみこんでいた。

先日娘と電話で話した時、笑い話で終わるはずが、なぜか急に木の人形の話になった。
「ママ、覚えてる?私が木の人形をいつも持っていたこと。」
「そういえば、あったね、いつも握っていた人形。」
「そう。あれね、あれをママに渡してもらって、いつだっかた大泣きしたこと覚えている?」
「うっすらと覚えているよ。あれどうしたんだっけ?」
「私ももう覚えていないけど、とにかくもう感情がそれ以上我慢できなくなって、木の人形見ただけでもう感情があふれだしてきて、悲しいのか、嬉しいのか、それもわからないけれど、どうにも我慢できなくなって大泣きしちゃったの。私、昔のこと、色々覚えているんだけど、とにかくいつも感情があふれだして、どうにもならなくなって泣いちゃったことがたくさんあった。」
「そうだね、見知らぬおじいさん見ても泣いたし、訳もなく泣き出すことがたくさんあった。」
実際は、彼女に泣かれると5分かそこらで済むことではなく、何時間にもわたって泣き続けることも稀ではなく、私は神経は擦り切れ、疲れ果て、慰めきれず、いっそ頬を打てば目でも覚ますのではと思ったことも1回や2回ではなかった。
私はだからこそ、娘のことをおとなしくてどんな言うことも聞くのだけれど、とても難しい子だと認識していたのだ。

しかし、この電話で娘の言った「感情があふれてきてどうしようもなかった」という言葉に、私はほとんどショックを受けてしまった。
彼女を身ごもった時、そしてそれを知った時の悲しい背景、私自身が健全な精神を保つ限界にあった妊娠時代、深い愛があってもその愛が果たして健全と言えたかどうかはわからない両親のもとに生まれた娘。こうしたいくつもの要素を考慮すると、娘にとって男女一対の木の人形の象徴する意味を推し量ることはそう難しくはない。
あの時、娘が円らな瞳から大粒の涙を流して、顔を真っ赤にして大泣きしていた。汗ばんだ手にはしっかりと人形が握られていた。なだめようと、人形を受け取ってやろうとしたが、彼女が人形を離すことはなかった。

私は、およそ20年経った今、親としての責任を改めて実感せざるを得なかった。幼い子供にも、夫婦の緊張感はしっかりと伝わるのである。子供の感性というのは大人とは比べ物にならない。娘は毎日のように、悩み苦しみあがき続ける私の背中を見て育ち、父親が帰ってくれば、溢れんばかりの愛情と、次の瞬間は殺気立った緊張感が走るそのギャップをしっかりと感じ取り、色々な人形を握りしめながらおとなしく振舞っていたのである。私はふとした瞬間に、親らしく優しい一面を見せて、人形などを握らせてあげると、何かがきっかけで突如嵐のように泣き出してしまうということだったのかと、新たに彼女の当時というのを理解できたような気がした。それと同時に、胸がしくしくと痛み、あんな幼い子どもに、私は何という寂しい日々を与えてしまったのだろうかと、悔やみきれない思いになった。

人形というのは握りしめ、可愛がり、一緒に寝ることで魂が宿っていくものなのだろうか。それが真実であるかどうかはわからないが、少なくとも娘にとっての人形には魂が宿っていたのではないかと察している。彼女は人形に本当に話しかけていたのだ。そして必ず人形の方からも自分の悲しい心を温めてもらっていたの違いない。彼女は風とも、草木とも、蟻んことも話ができる子供だった。そんな繊細さは、幸に恵まれれれば、スクスクと個性的に育っていくのだろうが、悲しみや不安に囲まれた環境では、そんな繊細さがあるからこそ感受性がさらに鋭くなり、彼女自身では到底抱えきれない感情の波を生み出してしまったのに違いない。

「人形だけじゃなくて、ママがパパに怒られてね、一人でベッドで泣いてたの。だから私、ママの所に行って、膝の上に乗って、ママ大丈夫?って聞いたことも覚えてる。そうしたら、まま泣きながら笑ってくれて、私も少し涙が出たと思う。」
娘はもう一つの思い話も語ってくれた。私はこの時のことはよく覚えている。いや、ほとんどの記憶が飛んでしまったけれど、娘が私を助けてくれた光景や、娘が私を助けるために描いた絵や手書きの手紙のことは、ほぼすべて覚えている。それは大変ありがたいことである。これらの記憶すら忘れてしまっていたとしたら、私はこれ以上生きていかれないほど不幸であったのに違いない。

私自身が無我夢中で生き残ろうとしていたあの頃、死ぬつもりで早朝に車を走らせに行ったあの頃について、私は文字通り私の側から見たわずかな記憶しか残っていない。確かにそこに存在していた娘が、今あの頃の気持ちを吐露してくれたことで、私の消えそうな記憶が再び鮮明に浮かび上がってきた。思い出すのが辛いと同時に、娘の小さい頃に思いを馳せて深い愛情を感じるという、甘さと苦さの混ざった後味がしている。ただ、子供というもののすさまじいほどに鋭い感受性に本当に驚いた。そんなことも知らずに、まだ半人前の子供だった自分が一生懸命幼子を育てようとしていたことを思うと、恥じるというよりも、自分に対する哀れみが沸き起こってくる。
人はだれしも一度は未熟であったものなのだ。子供というのは大抵の場合親を許してくれるが、たとえそうであったとしても、私はやはり娘に、子供たちに本当に心の底から謝罪し、ごめんなさいと何度も何度も唱えたくなるのである。