2010年12月1日水曜日

急激な冬、そして日常

 急に吹雪いている。昨夜から家の外で竜巻が舞っているような不気味なうなり声が絶えない。


今朝外に出ると、あまりの寒さに皮膚がピリピリと痛んだ。

子供達も防寒具を重装備して学校へ行ったが、まだ暗いうちに出すので心が痛む。


10時に真ん中の息子が駆け戻ってくる。家の前を走りすぎて建物に飛び込んだのが聞こえた。

何事かと思う。


今日は日曜日のコンサートのプローべがあったのだが、楽器を忘れたと言う。

しかもこのマイナス10度の極寒の中、ジャケットも忘れたようで、薄いプルオーバーひとつで顔を真っ赤にしているではないか。

馬鹿さ加減は母親似であろう。

私もレッスンに楽器を持たずに行って、先生が来るまで一時間も待たされても気づかず、やっと先生に楽器は?と言われて気がつくほどの馬鹿であった。

まあ、それだけ緊張が激しく思考が回らなかったというのもあるが、言い訳にはならぬ。


息子を学校に送り届けてFiatに向かう。

いい加減にスノータイヤに交換しないとならない。

北東へと進むと、どんどん未来都市のように旧東独時代の団地が聳え立つ光景に突入してゆき、住人の姿も様変わりする。

この未来都市のような、タイル張りの団地郡の無機質さは、どんよりとした灰色の空と重なって、なんとももの悲しい。


しかしFiatは、どこへ行ってもFiatであり、サービスもなかなかでコーヒーも美味しく、私的にはリラックスゾーンである。

自動車修理工のマイスターと車に関して相談して、その後コーヒーを頂いて、真っ赤なソファにどっかり座り、雑誌をぱらぱらめくり待つこと一時間半で、タイヤ交換とウィンターチェックが済んだ。


Fiatの目の前に、新しいIKEA Lichtenbergができていた。

13日オープンである。電気はついていたが、まだ開店ではなかったようだ。


ベルリンにはIKEAが3店舗あるのだが、どれも西側で私には、距離は遠くなくても、交通量が多く、行くのが面倒くさかった。

これから、またIKEAに通ってしまう予感。近いだけでなく、街の中心を通り抜けて西へ行く必要がないだけに、スイスイと行けてしまう。


運転席前のKOMBIパネルのLDC表示が壊れて読めなくて不便だった。

相談して見てもらった結果、KOMBIを交換する必要があるという。おかげさまで3年間の保証期間があるため、ただで交換してもらえる。

来週の木曜日に予約を取った。

市電が目の前から出ており、それを使用すれば何のことはない、10分ぐらいでALEXに着き、そこから私の家までは二駅なのだが、仕事もある日なので代替車があるか聞いてみると、Cinquecento!!があいていると言う。26ユーロで一日中のり放題。

即予約。来週木曜日はCinquecento乗れると思うと、なかなか嬉しい。仕事前にどこかへ出てしまおうか。



帰宅して、とっくに入っているはずの仕事がまだないので、問い合わせる。

親会社が今回の案件を取り逃したという。

クリスマス前の、大きな収入がぼつった。

FIATにいる間に、もうひとつの専属会社からTELがあり、仕事をしてくれ、どうしてもと押された。

仕方ないので、後で電話して、そちらの仕事をとることにする。

西側なので、行くのが面倒なのと、レイアウトの仕事なので、あまり得意でないグラフィックソフトを使用するため疲れる。が、クリスマスは思春期の子供を二人も抱え、何しろお金がかかる。いくらでも稼がねばならない。


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ろうそくと灯す機会がぐっと増えた。

ライトニングが美しい季節でもある。

個人的には、クリスマスフィーバーが大嫌いであるが、陰鬱な冬の天気につられて、家にいる機会が多くなり、内向的に色々と自分と向き合うことも多くなる。

本を読んだり、音楽を聴いたりするときに、陰鬱な環境は、感受性の感度をぐっと高めるということも、一応心理学的には実証されているらしい。


自分もそれなりに、それを実感している。


そういう冬が嫌いではない。

クリスマスフィーバーするよりは、キリストの誕生によって、人間の何が変わり、今でも何が変わらず、モラルとは倫理とは何か、生きるとは何か、信ずるとは何か、と言ったような、普段は語るのも気恥ずかしいようなことを、静かにしかし直接的に提議してみたいという気もする。

子供たち、特に息子たちとそんなことを語りたい。


そう言えば、真ん中の息子が、PSPでネットをしているうちに、HIROSHIMAの原爆について知るきっかけを持ち、あらゆる情報を集めて学習したと言う。

はだしのゲンや、蛍の墓などの話から、USAのモラル、原爆投下というものの是非などについて語った。

自発的に興味をそそられ、自分でその興味から知識を広げてくれる息子は、好奇心の強い私に似ているなと思うと同時に、こういうマルチ人間を一人前にするのこそ、至難の業だと、今から心している。


一つのことしかできない人間が一番強い。


そういうわけで、日曜のコンサート用の黒シャツと靴がないというので、息子をピアノの稽古に迎えにいってから買い物に行く。

仕事がぼつったので、普通に母親をしている。

嫌ではない。楽しい。が、金を稼がない不安は大きい。

やはり、春先には社員にしてくれるという話を具体化させようと思う。

フリーだと穴があくこともあるが、社員ならない。



では、吹雪の中へ。

2010年11月24日水曜日

過去30年という映画と私の過去20年

 Die letzten 30 Jahren (クリックすると動画へリンク)― 過去30年」

と言う映画を見た。
珍しくテレビをつけたら、惹きつけられてしまった。

俳優が良かったのもあるが、やはり過去が自分にダブったからだろう。
89年にドイツに来た私だが、あの頃はまだ80年代で、つまり70年代の面影もいたるところに残っていた。
服装、部屋の内装、外を走る車、そういうのはまだまだ70年代を引きずっているものだった。


大学に入って、私の周りには日本人などもいなかったので、最初からどっぷりとドイツ人の中に投げ込まれた。
また、兄の大学の門下生が私の大学に教授と共に移ってきたため、兄の友人の多くに最初から支えられ、日本人と知り合うきっかけもあまりなかった。

メンザ(学食)、パーティー、恋愛、勉強、練習。
とにかくすべてに、程度を知らずに夢中でエネルギー投入した…。
むさぼるように、体験を重ね、景色を焼き付け、言葉を吸収し、文化を探っていた。

しかし、最初に思ったのは、こんな馬鹿なことである。
でも大切なポイントだったりする。女はこういうところを見ていたりする。

主人公たちが知り合い、意気投合してOne Night Standを終えた後の場面を見て思う。


そうだ、優しい男は、事を終えた朝も冷たくない。
コーヒーを飲んで、いそいそと帰るとき、それがたとえ一夜限りであっても、必ず口にキスして別れを告げさせてくれたものだ。

それは、はっきり言って最低限の礼儀だと思う。

これができる男は、そんなにいなかった。

女が道具みたいに利用されたのじゃなくて、君はぼくの気に入ったからそうしたのだし、本当に楽しかった、という確証を与えて女の子を帰せない奴は、やはり男として見込みがないのだ。


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彼らは、30年を通じて、常に偶然に再会してしまう。
たどっている道が、まるで裏で通じているかのように、いやそれがたとえ交差していても、同じように人生のモットーに向かって突き進む姿が、まるで互いを引き寄せてしまうかのように。

長年会わなくても、会った途端に、どうしても距離が縮められてしまい、互いにその距離感覚をつかめず、戸惑いながら、頭とは別のところで、まったく無実に磁石のように引き寄せあってしまい、触れ合いたい、一緒にいたい、体温を感じたい、と思ってしまう関係と言うのがある。

それは、なんとなく知っているような、理解できるような気がする。
幸せとか、未来の計画とか、同じ価値観とか、一緒にいると落ち着くとか、そんな相性とは全く関係ない。
それよりも、細胞同士が惹きあってしまうような、自分の意志とはまったく別のところで、ありえないような人物に惹かれてしまうということもある気がする。

それは、もっと生物的なもので、遺伝子の踊りを舞うためには、もしかすると最強の組み合わせなのかもしれない。
でも、文化人である人間は、遺伝子だけで結ばれるわけではないのが、なかなか悲しく、虚しいことである。

最後には、決定を下すのも、判断をするのも、脳みそにある理性なのだろう。

もちろん、彼らもそうなのだが、彼女がその踊りに終止符を打つ。理性は学ぶのだと実感する。そして学びこそ、自分を救ってくれる。

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良家のボンボンなのに、学生時代から、恐るべき活動家となり、政治に関与し、あらゆる体制に反発し、弱者、生態系のために関与し、資本主義の拡大や成長に疑問を投げかける生き方をして、大変な暴れぶりを見せてくれる人がいる。
この映画でもそうだが、私も若い頃ある人を見ていて、君がそんな馬鹿をやれる勇気や、君がドロップアウトやはぐれ者になるのを恐れない無謀さは、その分厚いバックボーンにあるのだろうと、いつも思っていた。

お金だって困ることはない、馬鹿をやって警察沙汰になっても、コネがあったりするのだ。
余裕のある生き方をしてこなければ、アクティビストなどなれないのではないか。

彼女の方は、地味にパン屋の娘で、努力を重ねて法学部を最優秀で卒業し、そのハングリー度と、努力で得たものを手放したくないという損失への恐れは、これは前述の男とは、比べ物にならないほど大きい。今手放したら、もう手に入らないかもしれない。親への申し訳なさ、今までの努力の甲斐が、水の泡になることへの恐怖。



この二人の30年後だが、彼は突然政治家としてデビューし、しかも左から大きく右へと移行して、現在は保守党でキャリアを積み、郊外に一軒家を建て、自ら絶対に欲しくないと断言していた子供が二人もいたりするのだ。
小さなプライベートな幸せにだけは、時間を浪費するまいと言っていた人間の、30年後の姿である。


彼女は、結婚もせずに、法学と言うシステム内に収まる分野にいながらにして、見事に左に位置し、活動家を支援する弁護士となっている。
家庭背景に多少苦労のあるものは、自分のキャリアを築いても、苦労を忘れないし、弱者の意味が分かっている。オポチュニストになれない十分理由があるのだろう。


こんな例をたくさん知っている、そんなことを自分の過去に重ねて、ずっと見ながら心躍る思いがしていた。
私なら、間違えなく、ボンボンが好い気になって活動家となり、甘えに乗じてある程度年をとると、さっさと保守に転身してしまったという、やはりボンボンから抜け出せない男性を選ぶだろう。

筋金入りの活動家には、セクシーさがないのかもしれない。

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私は、むろん68年世代ではないし、学生運動に染まっていた訳では全然ないが、子供の頃から70年代の音楽を聴くと胸騒ぎがしたものだ。
中学生のことから、ママス&パパスとか、ドアーズ、ザ・フー、フリートウッドマックなんかに凝って、集めていた。8年間ロンドンに暮らした、10歳年上の従姉が、たんまりレコードを持って帰国したこともあったかもしれない。
今日の音楽も、私をすぐにトランスへと導いてくれるような、かったるい懐かしい、そしてちょっと不健康な音楽だった。

小学校6年生のとき、この曲を聞いて、ショックを受けた。古い曲だったが、日本の歌謡曲しか耳にする機会のなかった当時、誕生日にもらったラジオカセットレコーダーで夜中に隠れて聞き出したFENでこれを聞いたとき、洋楽の稲妻に打たれた。

ハウスミュージックとか、テクノの分野でもトランス状態になるような音楽はたくさんあるらしいが、70年代のデジタルじゃない、アナログなトリップは、味がまったく違うのだ。もっと人間味があって、個人が後ろに隠れている。個人の詩があって、声があって、個人の姿があった。そして、本当に多くのミュージシャンが、もったいないように、ドラッグにおぼれて死んでしまった。当時のロックなトリップ音楽には、自らの命を自虐するような代償を払っていた事実が、どこかににじみ出ていた気がする。

話は逸れまくるが、やはり擦り切れるほど聴いたのは、これだ。
 
"EALES HOTWL CALIFORNIA"

この曲を聞きながら、思春期に突入思想だった私は、最初の予感にとらわれた。
どこで暮らすのだろう、誰に知り合うのだろう、どんな人生を歩むのだろう。
夢をつむぎながら、溢れんばかりの予感に囲まれて、突き進んでいく時代は、本当に手探りだが、一番幸せなときだった。

今は、予感も予兆も感じられない。
現実だけが、私の周りを取り巻き、がんじがらめにしている。

それでも、今晩は、なんだか満足だった。
私の過去20年を振り返り、胸が痛いほど懐かしいことも、心が躍りだすほど楽しい思いでも、その多くは、やはり青春が象徴するのように恋愛に関するもので、その多くがこのドイツと言う国にあることに、ハッとし、若干ショックを受け、それでも過去に対する愛着は、やはり変わらないと実感した。

この地を去ったら、やはり体の一部を剥ぎ取られるような肉体的痛みだけでなく、魂のどこかを永遠にセピア色にしてしまうような、ある種の殺人行為をすることになるのだろうと、それを実感せあるを得ない一夜であった。

そして、普段は書かないようなことを書けば、私が男性を思い出すとき、よく腕と手を思い出す。
学生時代の友人でも最近の友人でも、知り合いでも、男性の腕と手というのは、実に身近にある。
様々な種類の腕と手を、標本のように思い浮かべることができ、重さや暖かさ、筋肉や骨格、そして無駄毛の量や、縮れ具合まで思い出しては、ああいうのは嫌だな、ああいうのは素敵だな、といった具合である。
残念ながら日本人の腕や骨格は、あまり想像できない。
非国民みたいな発言で、自分でも嫌なのだが、握手したり、肩を組んでもらったり、一緒にテニスをしたり、腕相撲をしたり、知らない人なのに触れてしまったり、バーのカウンターでたまたま前にいた人の腕だったり、泣いてきるときに抱擁して慰めてくれた腕や手を一つ一つ、懐かしいものだなと思い出している。

そして、日本人だったら、どうやって慰めてくれるのか、どうやって腕相撲をするのか、肩を組まれるとどんな感触なのか、握手するとどんな風に握ってくるのか、そんなことを全然想像できない。つまり、記憶の中にインプットされていない。

日本と言う国に帰れば、祖国になり、同志であることを感じ、ストレスフリーである気がするのに、青春は、熱を持った暖かい記憶として、全部ここにあるというのは、本当に皮肉なものである。

2010年11月22日月曜日

DDRの残骸が残るギムナジウム

 実は、成績も優れない娘が、とうとう登校を完全ボイコットし出してしまった。それぐらい、しゃーない、そういうこともあると見守っていた馬鹿親(私)は、友人の豊富な娘は、いじめらレているわけもないので安心していたが、やはり起きれない、うそが出る、学校と言えば鬱である、授業で何も頭に入らない、と言うのは困る。

話を聞きだそうにも、あいつらが馬鹿の一点張りで、そういうお前こそ、反省のない馬鹿だ!と怒鳴り散らしてたのだが。


何が嫌なのか、言えない。精神的なストレスが、これはおそらく長年記憶に染み付いているなと言うのが私の予想で、いじめではなく、もう先生の顔を見れないほど、嫌悪を感じているという、犬猿の仲的な問題だと察してきた。


これは、娘の適応能力のなさも問題なのだが、今までに話してきた先生との会話を思い浮かべるだけで、私自身が鬱になるほど、釈に障る教師が多いのだ。

化粧をしたり、よそ行きの格好をして学校に行っただけで(仕事帰りだし)、もう白い目なのである。そんなちゃらちゃらした母親!といった偏見。オレは、まったく外見もちゃらちゃらしていないのだが、グレーの景色の中で、消費社会を知らずに生きてきた彼らには、ベトナムではなく、西側で育った私と言うアジア人はそう見えるらしい。


結局、現ギムナジウムと大変なる揉め事になって、担任と話し合うわ、校長と話し合うわ、正式な嘆願書を二通書くわ、頭に血が上りつつ、次の学校を探すやら、探さないやら、とんでもないことのなっているのである。


さらに、ずっと伸ばしてきた長い論文の翻訳が入っており、件の人迷惑な話の尻拭いとして世話になったすさまじい弁護士代も出て行ったので、やはりこういう仕事こそやらねばならず死に物狂いなのである。


おまけに、末っ子の風邪が真ん中に行き、それを私がもらい、憎憎しい娘は、今日も健康体で遊び歩いている。学校の話はするな、と言うのだが。



それにしても、旧DDRとは絡めたくないが、お前ら本当に「教養」ある文化人としての教師なのか?と疑いたくなるような教師にばかりめぐり合う。


娘のギムナジウムは、私が吟味して、ここが良い、あそこが良いと、2,3選出したのは、もう3年以上前の話だ。

校長のアンガージュモン、スポンサーの有無、進学状況、外に向けた広報の姿勢などを見たのだが、目にかなう学校は、いわゆるがり勉校で、認識障害のあると私が勝手に決めている娘には無理だった。


娘は、私の選んだすべての学校にNOを突きつけ、当時近所だった歩いて5分のオンボロみすぼらしい学校に決めたと言う。


そのオープンデイに行って、校長の談話を聞いた私は、こいつダメのお墨付きを下した人だった。

まず、人間としての信じられないような荒さ。アグレッシブなのではなくて、繊細の真逆。おそらく私の会話の99パーセントは理解できないだろうと言う、粗野なプラグマティズム。

人間的会話、と言う言葉は辞書にないだろうなと言う体型と服の趣味。


そして、つばを飛ばして形式上のことをマイクにまくし立てている、そのロボット的、ヒステリー的、一切個人を感じさせない人物像。


機能すれば、いかなる金もかけず、広告精神もひとつもないからこその、薄汚い学校。


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今回、私の戦うべく相手は、この人なのだ。

詳細を書くには、あまりにも腕が腱鞘炎なのと、あまりにも脳みそが疲労しているので書かないが、悉く、法の名の下に、人間的対処を却下されて、娘の問題は、娘自身の性格、しかも、感受性の強いという性質に起因するもので、各教師、該当教師の態度には、なんら問題はなく、よってまったくの顧慮すべきケースには当てはまらず、1月下旬の学期末以前の転校は許されず、あと一日二日、理由なく休んだ場合は、即刻警察に親を訴えて、5000ユーロの罰金を払う羽目になり、青少年課から連絡が行くでしょう、と言う脅しであった。


途中、保険屋から電話が入り、この校長が息せき切ってヒステリックに、相手を責めつつ対応する会話を聞いていたら、軽蔑と言う言葉が浮かんだのだが。


これでも、一応シュトック博士なのである。君らの博士課程っていったいどんなだったの?と聞きたい。


この人もコミュニズムの下、色々と洗脳されちゃって、今更西欧式民主主義的教育なんて無理だろ、と、理解を示して百歩譲っても、この人の人格障害は隠せない。


そして、このような人格障害的教師が、このギムナジウムには多い。


端的に言えば、打ちの娘の馬鹿さ、怠け者さも、すさまじいのだが、その鋭い感性が、この人たちのような、「感」という文字に関係するすべての単語に備わった特性を一切備えていない人物とは、プラスとマイナスのように弾けあって全く合うところがないのである。

文系の先生ならまだ話は分かりそうだが、そうでもない、未だに社会主義的洗脳と現代ロシア語専攻による、感情消滅作戦のような線路を歩いてきた彼らの残骸に驚いているしだいである。


そして、感性の塊であるうちの娘は、心理的な洞察力にも優れているため、とかくプラグマティックな会話にならず、抽象的一本なものの思考と意思表示になる。

そういった娘の感性が、こいつらの気に入らないだろうし、思ってみれば、彼女も三年強の間に、どの教師とも、人間的共感や、シンパシーを受けたこと、交わしたことがないのだと、そう考えると、いくら馬鹿でも、娘がここにいたくない理由も分からなくもない。


フランス語の先生とはまあまあだったが、担任が数学の女性教師、化学のババア教師には、ほとんどモビングされ、体育のジジイ教師は、戦争時代さながらに、女子にも水をぶっ掛けるというから、親も黙っていない。のに、まだ在籍しているところが不思議でならない。これもあの校長のせいなのだ。


そういうわけで、日ごろから私が住めど住めど、脳みその髄まで合理主義の行き渡る人の多いドイツに対する違和感を消しきれないという構図を、娘はまさにDDR時代の残骸のようなギムナジウムというミクロコスモスで体験してしまったわけである。


あの女の非適応度も、世界一級品なので、原因はどっちもどっちだが、私だってこの人たちを軽蔑しただろう。そして、この人たちも、娘にあるだろう少しの価値すら、垣間見たこともないのであろう。


こういうところは、逃げるほうが勝ち。


しかしながら、逃げるにも、逃がしてくれない。

娘だけが悪うございました、と言わなければ、許してくれないし、許してくれても、気の毒に、あんなのじゃ社会は渡り歩けない、という幾ばくかの軽蔑を込めて送り出してくれるのであろう。


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ベルリンの一部のギムナジウムの荒廃ぶりは、目を覆うものがある。

エリート校のはずが、どこがエリートかという余裕のなさで、人道主義的教育も、古典言語に基づいた教育も、何にもありゃしないのである。

あるのは、点数、点数、成績、成績、順番、順番、数字しか本人を示していない。

どこにも、インディビジュアルという言葉が載っていないのである。

生徒は、マスであり、個人としての生徒は、取り扱えない。


うちの娘は、インディビジュアルという点では、群を抜いているので、こんなマス教育はだめだったと反省している。



何を教育してきたのですか?と担任に言われた。

余計なお世話だ。

学校を転校するって言ったって、どこの学校も移民対策で、移民によって追加的問題をこうむりたくないから、学校探しも楽じゃないですよ。

と言える校長は、知識人なのであろうか。文化人なのであろうか。曲がりにも、君は博士なのだろう?

思っていることをそのまま言うのこそ、教養のない労働者じゃない?


この移民問題を、悪気なく口に出せるのが、DDRの人たちで、人種差別というのとも違う。

移民は問題だし、教養がないし、その中でも頭の良い子が出てくるのは事実でも、背景は自分たちよりはるかに気の毒なほど下だと言う世界に生きてきたため仕方ない。

しかし、西側で育った教養ある人間が聞くと、メン玉が飛び出すほど、野卑な物言いに聞こえてしまう。


正直と言う形容詞で、終わらせればいいのでしょうか。



なんにせよ、音楽的才能があるといわれるお嬢さんが、人一倍繊細なのは、非常に納得のいく関連性ではあるけれど、それは個人の特性に原因があると予想できる問題であり、特殊ケースとは扱われず、よって学期中の転校はなし!却下できん!

の一点張り。


ああそうですか、では人道的に見ても、教師が悪いと私も言うつもりはさらさらないけれど、世の中と言うのは、粗野な言動に満ち溢れているので、粗野な人間が自らを振り返る代わりに、感受性の強い人間が、そういった社会に自らを適合させていくのが筋であり、よって娘の性格特性が鍛えられべきと言うのが学校側の主張なのですね、と聞けば、腹を叩いて、その通りですといった校長。


即刻転校にいるものは、何か、これを矢継ぎ早に聞いて、精神科医か心理学者の診断書、もしくは新学校の入学許可を盛ってくれば、無言で成績表をまとめて出してやると言う。

試験期間として、一週間他の学校いくことは認めないと。


そんなこと、他の学校ではどんどん許可しているのにな。



ということで、即刻転校の書類を集めてやりましょうじゃないですかと、笑顔を振りまいて、懇切丁寧に校長に礼を言い、心は阿保か!!と怒鳴りつつ、退出した。


こんな学校、いまどき見たことありません。



これ以上かけないな、今日は。


では、明日は納品なので、忙しい。


また書きます。



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ところで、今日は真ん中息子のギムナジウムのオープンデイで、マチネーでトリオを演奏した息子を聞きに行った。

ここはここで、親の干渉が激しく、シャンデリアの下がったおうちの人たちばかりで、スノッブだらけで、先生も学校も厳しく、息子文句を言われたり、注意を受けたりと面倒なのだが、とにかく現代の文化的オアシスのような威厳があり、行くたびに手の行き届いた良い学校だと実感し、多少、コミュニズム風体育会系の芸術教育に腹は立つのだが、クオリティに文句を言う筋合いはない。


娘の一家の黒い羊振りを考えると、困ったような、かわいそうなような、なぜ、他の兄弟のように、一切勉強に苦労なく、単にやることをやって要領よくついていけないのかと首をかしげる。


しかし、要領にかけては、できの良かった私は、自分というプソイド人間が、一体何を達成したか、と考えると、何かを成し遂げるのは、問題のないできの良い息子どもではなくて、この一点集中型、かつ自分を適応ごときで絶対に曲げない、外の空気など読むつもりもない、コツコツのろま型の娘であろうと、そういうことは思うのである。


そう思うからこそ、学校ってなんぞや???と思うばかりなのである。


知識供給が学校だとしたら、そんなものはイランのではないか?

人間として生き抜く際の、最重要条件は、子供の頃に覚える極単純なことなのである。

本来、倫理、そこから道徳、さらに哲学、さらに神学というものの見方の起点を植えつけてやるのが、ヒューマニズム教育だと思うんですけど、その辺は、教育とは関係なくなってしまった。

本当の意味の教養人がいない。


かといって、改革主義教育でピカピカに磨くセルフエスティームの向上が、本当に人生の役に立つのか、といわれればたいしたことないぜ、という気もする。


一にも二にも、人間は、良心であり、善意であり、またしても良心であると思う。

それが人間教育であり、自己強調、自分教育、そういうのはいかがかなと思う。


そういう自分とは何か?それは大人になっても分からない。

自分を語る先から、それは他者なのだという事実がある以上、そんな自己にこだわっているようではダメだという気もする。



娘の転校先は、キリスト教系になる予定である。


己などささげてしまえ。

2010年11月21日日曜日

過眠症

夜中に校正者にメール納品し、9時間ぐらい寝て、二時間も起きていられずに、午後じゅう何も食べずにずっとベッドにいて、そうするとどんどん眠ってしまって、それでも眠り足りなくて。


全く起きる気にも、何かを口にする気にもならず、今晩校正者から戻ってくるデータを待っているのだが、目を開けているのも辛い。


時々、心をよぎる娘の問題とか、帰宅した娘の暴言とか、そういうことを聞いても、心拍数が多少上がっても、全く反応する気も起きない。


やはりちょっと担任の先生には電話を入れておかないと、事が大きくなるだろうかなどと考えていると、また眠くなるのだ。


眠りこけそうになって思いつくのは、もちろん日照時間の現象によることもあるのだろうけど、これは鬱だなという感じ。


一過性だけど、このノックアウト感は鬱。


自分で忙しいのか、忙しくないのか、疲れているのかいないのか、まったく気がつかない。

娘のことでも、つらいなとか、大変だなとか、困ったなとは思わない。


淡々とことをこなしているだけなのだが、それだからこそ、こういう身体的問題が浮上するのだ。



まずいなと思いつつ、明日もあさっても、いや、今晩も仕事なのだ。

娘のことは急を要するし。



そう思いながらも、同僚にも電話入れていないし、何にも食べていないし、起き上がれないんだよな。


意外と大変なんだ、私の状況は。

そうなのかもしれないけど。実感ないけど。

2010年11月16日火曜日

シンプルで古臭く、高価ではないのに、ずっと暖かい匂いのするもの

先日末っ子の誕生日の日、大好きな女の子のおじいちゃんが迎えに来た。
彼女は賢い子供で、息子と同い年には見えず、世間に通じており、身の回りのことも、人の世話までできるような良い子なのだ。
そして、そんなに社会的に地位の高くない家庭の子供が、向上心から習い事をする場合、大体縦笛かギターなのだが、彼女は熱心にギターのレッスンに通い、いくつのレパートリーがあって、毎日何分練習するかをとつとつと話してくれた。

彼女は、私たちの家からそう遠くない高層団地に住んでいる。
この界隈は、ジェントリフィケーションが進み、最近の家賃の高騰ぶりで、今までになかったような憎らしい顔ぶれの住民が多くなった。
その中でも、このいわゆる構造がタイル張りのPlattenbauと呼ばれる高層団地は、DDRの生き残りとして、ところどころに聳え立っている。
何年もかけてお金をため、時にくじ引きのような幸運にめぐり合ってやっと手にしたアパートの同じ棟、そうでなければ、同じ団地群に一族が集まって住む様は、当時のDDRの夢の縮図をセピア色のレンズを通して見ているようなのである。

今ではその中にいくつもあった保育所(DDRでは女性の労働は当然であった)も閉鎖され、団地の一階にあった想像のできないほど飾り気のない、飲み屋やヴェトナム人経営の軽食店もどんどん閉鎖されてしまった。

この女の子は、そんな団地に生まれ育ったのである。
おじいちゃんも、お母さんも、この団地で壁が開くのを見つめ、横柄な西ドイツ人が引っ越してきて、ロハスな環境を築き上げ、彼らを端っこに追いやってしまったのを見つめてきたのである。

おじいちゃんは、玄関のベルを鳴らすと、内気そうに階段を上って私の家の戸口まで来た。
白髪にひげを生やし、丸メガネをかけたさまは、団地群に住む荒々しい労働者のイメージとは違い、温厚なおじいさんそのものであった。
握手をしたその手は暖かく、孫を見る目は細い。

私のような外国人を見れば、何らかの反応を示すものも少なくはないのだが、このおじいさんに私の肌の色も目の色も、珍しいはずであるが、まったく刺激を与えないらしい。
ただただ、孫娘がジャケットを着込んで、楽しかったよ、おじいちゃんと言って話をしているのを見ている。

寂しさが漂うほどの、暖かさがそこにあった。
まるで、おじいさんが、団地の小さな居間にある、自分の価値すらあまりない切手コレクション、いや80年代のオンボロテレビ、もしくはクロスワードパズルの雑誌かなにかの一場面を切り取って持ってきてくれたような、家庭の温かさがそこにはあった。

グリーンエネルギーの学会論文を今晩は訳していたのだが、今後の食生活、もしくは技術開発の価値観を率いてゆくのは、ロハスであるということを見逃すわけにはいかない、という行をタイプしながら、何かしらいい気分ではなかった。

ロハスの環境意識の高さ、いや環境以外にも、あらゆるものに対する意識の高さと、高収入グループとしての購買能力は流石なものであろう。

けれど、私はそんなところでぬくぬくした子供時代を送っている子供には、何の感銘も受けない。
この少女のように、小さな、そのぬくもりを少しも感じうけるセンサーのない人間には、到底何の話をしているのかさっぱり分からないほどの、小さく地味で、色あせた、古臭い匂いのする居間にある一家団欒の暖かさこそ、それこそ涙がこぼれるほど、懐かしく、手にしたくて憧れてしまうものなのだ。

DDRは過ぎ去った。
けれど、世間が冷たいばかりに、冷たくなっていく人間とは反対に、世間が冷たくとも、自分の暖かさを手のひらの中に大切に保管して、家族のためだけにそれを分け与え、小さな小さな平和と団欒を保ってきた人々もいるのである。

先日のおじいさんは、きっとそんな人間の一人で、彼女は、お金がなくても、大学に行くチャンスがなくても、お父さんやお母さんが別れていても、自分の幸せをきちんと手のひらに載せてもらって、それを大切に閉じて、暖めながら生きているのだろうと、そういうことが分かるのだった。

もう5日も経つというのに、私はそのおじいさんの存在に、未だに感動しているのだ。

私が求めているのは、そんなに小さなものなのに、それだけがどうしても手に入らないような、到底簡単には手にすることはできないんだと実感せざるを得ない、何か貴重なものらしい。

シンプルで古臭く、高価ではないのに、ずっと暖かい匂いのするもの。

2010年11月15日月曜日

可能性なのか終着駅なのか

 朝はどんよりとした雲が立ち込めていた。4時間睡眠ぐらいだが、割と早起きをしてシャワーを浴びた。コーヒーを飲んで静かな部屋で読書をしていたら、思わず眠りこけていた。


びっくりして起きてみると、分厚い雲が、空を駆け抜けるように動いている。

ちらほらと青空がその向こうに見え始めていた。

こういう日の低気圧、および気圧の変化は激しい。私の場合、ひどい低気圧が来ると、かならず意識不明になる。それも睡眠薬を飲んだように突然。


晴れ間が見えた頃から、少しばかり気分も良くなってきた。



そして、先日からうわさしていた、オルタナティブスクール、いわばフリースクールの見学に行ってきたのだ。偶然今日はオープンデイで、転入の相談や手続きなどもとりやすい。



当の娘は、気があるのかないのかわからないままである。

先に車に行って、ナヴィゲーションをセットしておくから、後から来てね、と言う。

家を出て、右に進む、うちの通りの家と同じ側に停めてあるわよ、と伝える。

これで、間違える人はいないだろう。

つまり、目の前、右に15メートルぐらいのところに路上駐車していただけの話。


娘は、ひょっこり電話押してきて、徒歩4分ほどのスーパー前にいるという。

なんで???

だってママ、家を出たらまっすぐって言うから、まっすぐ行った、と。

つまり、右に折れず、道を渡って(まっすぐと言う意味らしい)、さらに、目の前の公園を突き抜けて(まっすぐらしい)、右に曲がったらスーパーだったと。


またしても、重症なる認識障害が発覚したが、ここは喧嘩になるのも嫌なので、あきれた思いを抱えつつ、スーパーで拾う。


_________





学校内は、自宅に毛が生えたような感じであり、それも典型的な演出だと言うことは承知していた。

教師は全員国家資格を所持しているが、レゲエ・アーティストさながらに、髪の毛をフェルト状などにアレンジしているため、とても教師には見えない。

いわゆる、オルタナティブの、ゆるゆるな感じである。しかし大きな好感は覚えた。


話をしてくれたり、娘とじっくり話し合ってくれるのは、社会教育士といわれる資格を持った人々で、これは社会福祉学科で、社会福祉士になるか、社会教育士になるかを選択するのである。

彼らは、ソーシャルワーカーのような、一般社会福祉の法律・事務・相談などの分野ではなく、福祉教育の面でサポートをする役割を担った人々である。

問題児施設、少年院などに配属されていると言うと、聞こえも恐ろしいが、そういう分野だけでなく、主に、地域の青年活動を率いているのが彼らである。教育相談を区のソーシャルワーカーにすると、活動場所やグループを紹介してくれ、そこで実践しているのが教育士の方である。


しかしながら、こういう人がいるというのは、内容の複雑さを証明しているということだ。しかし同時に、じっくり若者と核心を突くような会話をして、必要とあらば更生の道に導く教育を受けている彼らであるため、確かに手の行き届いた部分は大いにあるだろうと期待する。


まるで、問題児の学校かと思うが、そうではなく、普通の家庭で、反権威主義教育に断然賛成している家庭の子供たちは、小学生のときから通っており、問題児と言うレッテルを貼るのは、まったく正しくない。

ここは、特に革新的教育に沿ったカリキュラム、つまり、フリースクールの中でも、規則以外の強制は一切なしと言う、つわもの的存在である。


娘は、今の学校での不満、教師たちとのコミュニケーションの難しさ、自分の怠惰、興味のないことはやりたくないが、少しは良い成績で、就学卒業試験(16歳で受ける統一国家試験 MSA)を収めたいと話している。

ちなみに、このMSAを終えると、普通は職業訓練校に移って、例えば看護師や金融関係の専門職、または職人、または簿記、幼稚園や保育園の先生などの教育課程に進むのである。


ギムナジウムは、今後3年かけて、ABITURを取得し、あるものは大学へ、あるものは高等専門学校へ進む。ABIのあるなしで職種も給与も違ってくるのである。


娘は、まだそこまで考えておらず、音楽をやりたいと言うが、国立バレエ学校や一部の美大などと違って、音大は総合大学と同様にABIを要求する。

この学校には、後一年半しかいられず、その後、ギムナジウム、あるいはABI課程のあるほかのフリースクールに移る。


この学校は、クラス15人足らずだが、その中から何人がABIを取るつもりかは、不明。しかし極少ないであろう。


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学力や家庭環境、社会層は、低層であるという考えはしかし間違っており、ここには、ある種の人種に属するオルタナティブな人々が集まっていると言うだけである。

問題児は、やはりこのまたっくの自発的学習のシステムに合わず、学校側も共同作業ができない場合は、生徒に止めてもらうと言うことは、多々あるらしい。


親は、月々30時間、母子家庭は、15時間学校のために労働しなくてはならない。

参加できない時間は、一時間12ユーロで自由を買うということになる。

忙しい私には、鬼のように厳しい義務だ。


学校周りの掃除、落ち葉の処理、催事の企画に、その際のケーキ、クッキー、サンドイッチ飲み物などの調達。もちろんすべて手作りである。


私は、音楽のレッスンや授業をすることや、事務関係でカバーするつもりだが、骨が折れる。

しかし、自分たちで「独立自尊」の学校を運営するということは、義務があるのである。


このような、筋金入りのオルタナティブの人々の中で、娘が順応できるのか、私がが順応できるのか、まだ分からない。

私は、何度も政治的オルタナティブや、社会的オルタナティブに傾いたことがあるので、若干人々との交流には自信が持てるが、何せ、超自然派・超エコロジー・超反権威主義・超高い自己意識ですから…。



この人々の、ありがちな服装と、ありがちな髪型、そして健康色に満ち溢れた手作りケーキと、様々なハーブティーに囲まれて、私は一瞬、娘にとって、私の価値観にとって、まるで大きな扉が開くような可能性を垣間見た。


しかし、次の瞬間、娘はこの学校でMSAをやれないかもしれない。自主性が芽生えず、MSAがないということは、最下層の学校の卒業証書以下の資格で、社会に放り出される可能性もある。ギムナジウムからの、急降下ドロップアウトにもなりえる選択であることをしっかりと自分に言い聞かせた。


ギムナジウムからレアルシューレに段階を落とすのとは違うのである。

卒業証書や成績評価と言う意識を剥ぎ取った価値観の中で、社会的に順応するために、希望者がMSAを準備するという学校に入れるのである。


しかし私は忍耐だけを鍛え、子供の自主性に任せ、信頼し、教育者たちと密にコンタクトを取り、月15時間学校に尽くし、庭掃除をして、せっせとケーキを焼いていれば良いらしい。

なにしろ娘の自己選択と自己決心と自主性がものを言うのだ。



可能性なのか、終着駅なのか、私としては、かなり覚悟を決めている。

彼女に関しては、当の昔に従来のシステム評価を下すことはあきらめている。

けれど、彼女の前衛的写真技術、子供との交流の機微に優れていること、絶対音感、歌への情熱、社会順応能力、深い洞察力、そして鋼のような自己だけは、評価してやろうと思っている。

どれも長所は表裏一体で、欠点が隠れていることにもなるのだが、今彼女の欠点を並べ立てることには意味はない。


病気でもなく障害があるわけでもない「普通」と言う範囲で、彼女はインディヴィジュアルの本当の意味を体現している。

順応・適応範囲のがけっぷちで、彼女は「世間」の隅に居場所を見つけようともがき、マスとして自分を見られることを拒否し続けている。

親としては、やれるところまで来た感じがある。

後は、後一年半、彼女の本当のやる気、いや生きるエネルギーを鍛えてもらうしかない。


子供時代から、恐るべき受動性で、一切自らは動かず、幼稚園でも二年間一言も言葉を発せず、内股歩きに、それでも自分の世界を守ってきた彼女である。

今、強制や抑圧という殻から解放されることで、自主性を鍛える最後のチャンスなのだと意識し、乗り越えて欲しい。

2010年11月13日土曜日

モンチッチ

 


生徒がモンチッチを見せてくれました。

昔モンチッチが欲しくて、毎日近所の雑貨屋さんのウィンドウの前に、長時間突っ立っていました。おじさんが出てきて、欲しいの?ときかれたけど、1200円ぐらいしたので、とても買えなかった。結局母にねだりました。

フランスパン小僧

 


小僧は、秋のある週末、フランスパンを買いに行って、帰宅途中、むちゃむちゃとつまみ食いをしているのでふらついています。

アクマ君も10歳に

 おかげさまで、アクマも10歳。寝ぼけた顔でろうそくを吹き消す誕生日当日のアクマ。




2010年11月11日木曜日

型、そして個性

 型にはめようとしても、どうしてもはみ出してしまうものがある。一見収まったかのように見えても、やはり徐々にはみ出してきて、溢れてしまったり、飛び出してしまったり。ゴムのような形態が、適応能力なのかもしれないが、抑圧が大きければ大きいほど、跳ね返りも大きい。


娘にはそんなところがあった。

小さい頃、手を引いてすぐそこのスーパーまで買い物に行くのに、一時間、いやに時間ぐらいかかった。彼女は、歩道のコンクリートタイルの目地に生えているコケ、道端の建物との境目にある蟻の巣、目に見えないほど小さな、けれどちょっと光沢のある石などを決して見逃すことがなかった。

効率重視の私は、そんな娘の手を引っ張りながら、やっとのことでたどり着くのであった。


しかし、娘は時間の許す限り、蟻の巣を見つけ、蟻が出てくるまで待ち、蟻が歩いていれば、蟻がどこまで行くのか見届けた。

それは、放っておけば、何分間も微動だにせずしゃがみこんで観察する能力であった。


彼女は、すでにその頃から、周囲を見届ける行為を怠り、ただ一点の、しかも他人には見えないような物体にフォーカスを当てて、それ以外のことは、時間であろうが、体の痛みであろうが、まったく心の中には浮かんでこないのであった。


2歳ぐらいから見えるようになった彼女の、この特殊な性質は、そのまま変わることなく持ち越され、色々な部分で軋みを見せている。


分析家や色々な人に言わせれば、きっと様々な「理由」を持ってきてくれるかもしれない。

いやこの、人には理解できないもの、見えないもの、重要ではないことへの限りないこだわりこそ、自閉症の傾向ではないか、ということ自ら疑ったほど、私も色々な情報を集め、自分を追い詰めもした。


けれど、そんなことは実は重要ではない。

彼女にはそういう顕著な傾向があるが、実際彼女のようなこだわりが、なにか他とは違うものを生み出すことになる「個性」というものなのだと納得すれば良いのかもしれないと思うようになった。


システムにはまらないことは、恐怖感を煽る。

他の子とは違うのかしら、なぜ他の子にできることができないのかしら。

外へ行って、自慢できる子といういうのは、親孝行なものだと思う。

けれど、苦労をかけられたからと言って、愛情が減るわけでもなく、社会に疑問を投げかけるその姿勢に、社会に順応することに全生涯をかけているような、つまり私のような親には、なにか違った気づきを与えられて、はっとするようなこともたまにはある。


しかし、彼女とのコミュニケーションは困難を極め、会話が成り立たない。蟻の巣や、コケ、小石集めのスペシャリストだった彼女には、他の音も声も聞こえないのである。


それは、もしかすると、喧嘩ばかりしていた、あるいは不安ばかり抱えていた私たち夫婦や、私と言う母親の世界から、自らを遮断するような行為であるとも取れる。

彼女が、そういう風になったのは、彼女の無意識と、私たち夫婦の深い不安定な平面とが、意識のもっとも深い面で通じていたことによって、形成されてしまったとも、言えなくもないのである。


コミュニケーション能力に問題があるのではなく、それは決して病理的なものでも、先天的な異常でもなく、彼女自身が、コミュニケーション能力を遮断して自分を守ったのかもしれない。


そういう過剰な繊細さが彼女には備わっているのだと、そういうことを改めて教えられ、とても悲しくなった。



しかし、型からはみ出すと言うことは、強いと言うことでもある。

つぶされない、収縮してしまわない。


昨日、末っ子の誕生日で、日本ではとっくに公開された「ポニョ」を見てきた。

なんでもない画面で、ポニョがどうしても父親の押さえつける型の中に納まらず、自らの内面の力を振り絞って、殻を破ってしまう場面がある。


そのなんでもない場面から、型にはまらない者には、ある種の大変強い神経と意志が備わっている場合もあるということを実感した。

娘には、そういう強さがあり、私がしばしば鋼のような壁と称しているのは、すでに知られていることだ。



私は、彼女にバイオリンをさせ、できるところまで一緒に努力し、才能児童用の奨学金をもらわせ、音大コースにまで乗せた。それは、私と先生の手柄だったのだ。

あるとき、彼女は、一切の手段を使ってバイオリンを拒絶し、きっぱりとやめてしまった。

手の施しようがないというのはこのことである。


娘は、去年の期末試験で、一切の答案を白紙で出して、落第した。

これは、宣戦布告だった。

しかし、彼女のことである、政治的に旗を立てて、教育方針や学校制度を批判して、親や先生を糾弾すると言う才能はゼロなのである。

突然、オバマとは、どこの誰か、と言う質問を飛ばすような強力な世間への無関心と言う才能を持っている子である。



現在、彼女はエネルギーを失いつつあり、制度という抑圧にとうとうつぶされかかっている。歌も歌わず、友人関係もずっと制限してしまった。理解できない人たちといるのは時間も無駄、と言う理由で。

彼女自身が、自分の意識の特殊性、そして自分の思考の深さ、そしてその複雑怪奇さ、そしてこだわりの強さと言ったものに、なんとなく気がつき始めているのではないか。


そう思うと、私もやはり悲しくなってくるのである。


個性のある人間が、常に寂しく孤独な思いをする。


私は、これを機に、学校が何だと思うようになった。

自分は学校の成績が怖くてびくびくし、いつも良い成績だった(どれもたいした学校ではない)が、それが何になったろうか。

研究者になったわけでもなく、自分の文章や性質は、やはり限りなく創作というジャンル・雰囲気に近く、学術界のように、「感」を横において、きっぱりと分類的思考ができない。

それも良さだと思うが、だったら、あんなに学校制度と、成績と世間に縛られなければ良かったと言う後悔しかない。


特にドイツは、ギムナジウム、レアルシューレ、ハウプトシューレと言う成績順に三段階の教育制度であり、これこそ、社会的カテゴリー化、社会層を反映させた、格差の象徴であると言わざるを得ない。

だからこそ、ギムナジウムの生徒たちは、レアルシューレとは一切付き合わないし、その逆も同じである。


ギムナジウムには、今でもどこかに、19世紀のスノッブの匂いがしていることが多い。


そんな中で、娘はギムナジウムの厳しい現実に疑問を投げている。

言われるように、与えられるままに知識を、半ば消費物のように吸収して飲み込んでいくと言う行為をどうしてもやりたくない、いや、生理的にできないらしい。

やりたくないことは徹底的にやらないという、彼女のこれまた鋼のようなエゴイスムであるが、これは嘆いてもしょうがない。再三にわたって、そうではない、人の立場、他の立場というものがあると、徹底的に言い聞かせねばならないが、それでも蟻しか見えない彼女には、聞こない。


私は、成績表もスノッブ意識もいらないと思った。かといってドラッグやミニ犯罪と背中合わせにある最下位の学校にも彼女の複雑な思考や意識には合わない。

16歳から職業実践学校に直通しているレアルシューレも、彼女のような世間音痴、使い物にならない現実離れま子供はついていかれない。


結局、私も周囲も、彼女に葉っぱをかけ、押さえつけ、強制し、脅し、罰してきたが、一歩たりとも前進していないどころか、後退していると気がついたのである。

抑圧は、彼女の場合何ももたらさなかった。

抑圧を基本とした学校制度が、他の兄弟の場合は、モチベーションになることさえあると言うのに。


意を決して、私は日曜日、オルタナティブスクールを見に行く。

あれだけ、反権威主義に反対したのに、反対することでよく調べた結果、彼女にはむしろ適しているのではないかと、逆思考を始めたからである。

抑圧と反対にある、解放教育が、一体どの成果をもたらすのか、社会的卒業証書を手にすることができるのか、それは、独立自尊で「自己決心」した彼女の、自己責任である。

大嫌い、且つ問題な用語が並んだが、賭けに出るしかない。


今なら、彼女なら大丈夫だろう。あの子なら、と言う思いが少しだけ生まれている。

抑圧して彼女を支配しようと教育に一生懸命だった頃には、不安しかなかったのにである。


私自身、彼女を通して、思いもよらず、多くのことを学んでいるらしい。

自慢できる子ではなかったことに、実は礼を言いたいぐらいである。


やはり、人生が紆余曲折、波乱万丈で、一般よりも苦しく険しいものになることが明らかであっても、やはり個性の中にこそ、発芽のチャンスがあるのだと、それこそ、自と他を分けているものなのだと、思い知ったところである。



最後に一言彼女は、「でも私歌いたくてしょうがない、体がうずいてしょうがない。だからちゃんと音大で歌を学びたい。そのために、何が必要か自分でも分かってるから。」と言い残して自室へ消えた。


母としての不安は、さておいておこう。

そして、不安とは切り離した部分で、本当に彼女を信頼しないと、彼女自身が大人になれないと、深く反省したのである。

2010年11月10日水曜日

フランス風田舎の夕べ

おととい、美味しい鳥の手羽が手に入ったので、にんにくを10片ぐらい丸ごとと、ローズマリーを若干入れて煮込んだ。水と塩コショウだけで、もの40分ぐらいである。

ホクホクとして美味しいワインのつまみになった。


寒かったこともあり、本格的にオニオンスープも。赤たまねぎで作ったので、色味は濃くなってしまったが、味はこくがあっておいしかった。

やはりブイヨンをしっかり牛からとることが大切かもしれない。


最近気にっている、シチリア産のMerlotと田舎風バゲットと一緒に、もぐもぐと頂いた。


こういう食が、知らない間に私の体に入り、私を癒しているのだと実感する。


今度は、ワインもフランスものにしてみないと。


冬は冬で、料理の楽しみがいっそう高まる。

夜中に焼くケーキ

夜中に、キッチンへ入った。

そっと小さなCDプレイヤーのスイッチを入れた。

美しいピアノの音色が聞こえてくる。


オーブンの火をつけて、私は卵とバターを取り出した。

ひたすら、ケーキを焼いていたのだ。


シンと静まり返った夜中に、私は末っ子のケーキ焼いた。

そして、虚しかった。

どこまでも虚しいので、ケーキ作りに専念した。

出来上がったケーキは、とても良いにおいがした。

レモンケーキが良いというリクエストだったのだ。

バターがたっぷりと入っており、息子も喜ぶに違いない。


それにしても、ケーキを焼くという暖かい作業に、喜びを感じられずに、ひたすら孤独感を押し付けられていたtのはなぜだろうか。


こんなケーキでは愛情が通じないと言う恐怖かもしれない。

一生懸命やるだけでは意味がないのだ、と言う恐怖であるかもしれない。


それでもケーキを焼かない誕生日はない。



明日、紅茶と一緒に、この甘いケーキを口に含んだときは、おそらくもっと具体的な悲しみが襲ってくるようで、陰鬱な気持ちを抱えつつ就寝する。


明日起きたら、また違う一日が始まる。

ケーキを焼いた人は、他人になるかもしれない。


空虚な便り

 ある人が、また突然メールを出してきた。

いつものごとく、すべては順調で、盛大なるパーティも行ったと、ご丁寧にパーティーの写真まで付けてくれた。

その最後の写真には、その人に深い関係のある人が、ピンボケで写っており、そこに添えてあ

コメントも、謎に満ちていながら、私には解読できてしまうという、シンプルな細工だった。


心は何も動かない。

硬直したように安定感を保っている。

それは、何もしりたくない、見たくない、聞きたくない、と言う姿勢があるからだろう。

嫌っているのでも好きなのでもなく、一切の感情がそこにはないのだった。

その自らの関与のなさに、殆ど驚きを感じるのだが、伝送されたメールの内容は、空虚そのものであった。


この界隈で開催されるプライベートパーティーを数えていたら。それはきりがないだろう。

人々は、一心にパーティーを計画し、さもインテリな議論を交わしつつ、朝まで飲み続け、踊りまくる。


しかし実際、それを練り歩くように見渡してきた私には、いかにそれらが希薄な関係であるか見えてしまうのだ。

関心も友情も利害関係も殆ど存在しない。

自分のクールネスとインテリジェンスと、いや知識を見せ合い、そして多くの肯定的確認を得るために、彼らは出かけていっているのではないか。

ひたすら吐き出される白い煙と、消費され続けるアルコールをどんどん喉下に注ぎ込む彼らを見ていると、麻酔薬をダブルで摂取しているのではないかと疑いたくなるほどであった。


この辺のインテリたちの危機感はなんだろうか。

インテリたちの、自己主張せずにいられない、あの衝動は何であろうか。

そして、インテリたちの、あのクールだという、しかし一個の石も積み上げていないような生き方は何の恐怖によるものであろうか。


しかし、それももう過去の話なのだ。

よくも、あんな世界に身を置いていた。

行く道が、いとも簡単に180度反対を向いてしまった。


振り返ることのない二人の間には、一切の残留物はなく、まるで空虚な時間をすごしてしまったような悲しみがある。


言い聞かせることもやめ、失敗も認め、つけも払い、すべてが清算された後、ほっとした気持ちで、身の回りを見回すと、自分の生活も、徐々に新しい軌道に乗り始めていると言うことが見える。


ああいう形のパーティーなど、もう二度と必要ない。

存在しない私など主張しても意味がなく、そしてどうせ通じない言葉を吐き続ける関係にも意味がない。


自分と関係しているかどうか、なによりも一番最初に問われるべきことではないだろうか。

洞窟の死人

 学生だった頃に夢を見た。ユング派に懲りだした頃から、よく夢を見るようになった。

いくつも強烈な夢を記憶しており、それは20年たった今でも薄れることはない。


その中でも特によく覚えているのは、洞窟の夢だ。

私はどこかの洞窟にたどり着いた。洞窟の前には、その洞窟に関する案内が、ガラスの箱の中に入って置かれていたような気がする。その内容は定かではないが、なんでも8人の古代人が洞窟に入ったきり、そこで死に絶えたと言うことだ。

闘士であったのかもしれない。鎧を着ていたのかもしれないし、原始人であった様な気もする。

どちらにせよ、象徴的なことが中で起こり、その8人は出てこれなかったと言うのだ。

夢の中で、私は洞窟に入り、そのすさまじい雰囲気を体験したのかもしれない。うっすらと亡霊のように、私は8人を見たのかもしれない。

しかし、それが何を意味しているのか、私には分からなかった。


先日、ひょんなことから、どうしても動画を見たくなり、なぜか「八つ墓村」を見た。なぜかと言えば、私はこの小説も知らないし、この映画も番組も見たことがなかったからだ。クラシックな推理映画を見たくなって、横溝正史のこの表題を思い出したのだ。


映画を見ながらびっくりした。

洞窟ではないが、8人の侍が鍾乳洞の中で、村人に殺されたと言う設定であった。

無論、これは小説であり、事実ではないのだが、夢のシンボルと言うのは、こうして小説のシンボルにもなりうる。つまり、小説家などは、無意識レベルまで自分の意識を下降させて、あるいは、無意識下のシンボルがアイデアとして浮上するような才能をやはり持っているのだと実感した。


洞窟、鍾乳洞、戦士など、やはりシンボリックな要素があるのだろう。


それにしても、8という数字の意味は何であろうか。


今度、今更ながらだが、ちょっと考えてみようと思う

2010年11月9日火曜日

反権威主義教育に一言申す

私は、まるっきり教育の素人である。教育論や教育学などを履修したらしいが、そんなものの内容すら講義室の様子すら覚えていない。

それでも、子供三人を持つと教育テーマとは縁を切れない。今日は、最近あまりにも身近に感じている反権威主義的な教育について、だからどうだと意見をまとめて、論じるまでは無理だが、思うままを書いてみたいと思う。

音楽教室で教えていると、時々信じがたい子供を目にする。練習する、しないの云々ではなく、とにかく場所にそぐわない大声を出し、「ここから弾いて、もう一度やってみて、指はこうよ、この音が間違っているわよ」といった指摘に、いちいち「もう~やだ~・やりたくない~・間違ってない~!・あんたが間違ったんだよ!・がはははは~」のいずれかの反応が入る。
こちらは、流石に3分後には怒鳴るのだが、怒鳴られたという状況が見えていないらしい。
つまり、音楽の先生は、楽器を教えてくれる人なので黙って習う、という姿勢はゼロで、この人にも私は何を言っても許されるし、ここでも私は家でいる時と同じような声を出していいのだ、という感覚しかない。
流石に、小学校1~3年生ぐらいまでだが、それにしてもひどすぎて頭に血が上る。

さらに、少し上級になると、たちが悪い。
「この曲はやりたくない・ここそうやって弾いたじゃん!・もう一度は弾きたくない・ここからはできないから、最初から弾く・こんなリズム書いた人がおかしい・ちがうよここの音指差したじゃん、この隣のやつ、だからそこから弾いたんじゃない・(手や指のフォームを直すと)私の好きなように弾きたい」
声量や爆笑などの問題は解決するが、さらに言い訳や好き勝手に拍車がかかる。

そして、とうとう私の堪忍袋の緒が切れると、私は声を荒らげたり、脅しをかけたりするわけでもないが、冷酷な人になる。そして楽譜を閉じて出て行きなさいと言ったり、今までの態度が、どれほど失礼なものか、その子の真似をしてみせ、こういうことをあなたは人に対してやっているのよ、あなたがそうやられたらどう思うの?と突きつけてやる。

その際に、大人に向かってそういう言い方はない、先生に向かってそういう失礼なことは言わない、と口をついて出そうになるのだが、そんなこと、この子供たちは聞いたこともないし、親から文句が出るのが恐ろしい。

「そういう上から押し付けるような言い方は止めてください。」
言われたことはないが、言われそうになったことはある。

例えばチューインガムをかんだまま弾くので、冗談じゃない、口を動かしながら、指も動かして楽譜も見るなんて無理でしょ、と言えば、ガムを噛んで唾液を分泌させると集中力が増すと返してくる。
授業中にもやっているの?と聞けばそうだと言う。先生は何も言わないの?と聞いても別にだそうだ。

そりゃあ、どの先生も何も言わないとは思えないが、このような反権威主義、子供を自由活発に、自分の意志を尊重し、決して強制することなく教育する、という風潮があまりにも強すぎる。

だから、そうして私に冷酷に怒られた子は、突然大声を出して泣き出し、楽譜をかっさらって、さようならも言わずに出て行くか、下を向いて知らぬ顔をして解放されるのを待っているか、怒られたことすら自覚できずに笑い続けて追い出されるかに別れる。

さて、親たちに目を向けてみよう。
どのような親なのだろうか。放任主義で、自分勝手、自分のプライベートや仕事に忙しくて、どうにも時間がない。子供より私の人生なのだろうか。

それは正反対なのである。
親たちは、揃って高学歴で、非常に教育意識が高い。無害な木製のおもちゃを与えて育て、夫婦で高収入の仕事につき、街中なのに一軒屋のような家に住み、ベビーシッターも複数抱えているような家庭がほとんどである。
そして、母親たちがレッスンを一緒に聴くと、事態は更に悪化し、妹が平気でお菓子を食べ出したのを見て、レッスン中の姉はずるいと号泣し、母は、「○○ちゃん、そんなに泣くのはおよしなさい。アイス食べに行くんでしょう?ママはもう聞きに来ないわよ」、などとひそひそ声でたしなめているのである。利口で美しい母親だが、私なら下の子のお菓子をもぎ取って、その子を抱きかかえて謝って、即刻退室するだろう。未だにそれが最良の選択だと思うが、その母は号泣し、周囲の部屋に迷惑をかけ、レッスン妨害しているその子をもてあましているだけである。

また、4歳児が来たので、鍵盤に慣らせようと色々と違った方法をその子に教えていたのだが、その子は、突然ピアノのいすに飛び立って、踊りだしたり、鍵盤をがんがん叩く。
母は、私のほうを見て、「この子、今日水泳の時間があったので今日はもう無理みたいです」という。「無理って、毎週この時間だし、たかが30分だから、しっかり座ってもらえばできることですから」と答えると、「でも強制しても意味がない」と。「でも強制しないと、この年頃の男の子って、いつまでも座らないじゃないですか」といえば、「いえ、この子、疲れていなければ、おとなしくて集中力のある良い子なんです」という。「それは疑ったことはないですけど、ここは時間も少ないし、ピアノの前に座って話を聞いて、いわれたことをやるのが基本中の基本で、それができないなら、今はレッスン受けるのは無理でしょう」と答えた。そうしたら、それ以来私のやるようにやらせてくれるが、それでもその坊やも猿の気が抜けない。

これはほんの一部である。

子供の好きなように、子供がどれだけの分量をこなし、これ以上無理かを決める。強制はしないというスタンス。

私には理解できない。私は強制され、無理強いされ、仕方なくやったから身についたことがどれほどあったろうと言う記憶しかない。そして自らやりたくて努力し覚えたこともあるのだが、強制されて覚えたことの量にはかなわない。量ではなく質だと言われれば、確かに自主的な方が記憶も鮮明かもしれないが、小さい子は、好きにどうぞだけでは、彼らの不安が膨張するばかりにもなり兼ねない。
それで、耐性がなく、すぐに泣いてしまったり、レッスンを止めてしまうのだ。

はっきり言おう。
このような子供たちの中で、しっかり着実に、まともに上達している子はいない。
みんな、でれでれとただ来ているだけで、そのただ通っている範囲内でしか上達しないのである。練習も誰にも強制されずに、家でも好きなことを自主的にやるように言われるのだろうか。
とにかく、大きい声で怒らない、一方的に威圧的に否定しないということは、教育でも大事だと思うのだが、社会はそんなに甘くない。独立自尊が崩壊することもあれば、その根拠なき自尊心がお門違いであることも多くある。

もっと成長すると娘の世代になる。思春期である。
娘の親友は、4人の兄弟がいて、すべて父親が違う。そして母親は、最近レスビアンになったのである。見かけもまともで、極普通の幼稚園の先生をしている。私自身ホモセクシュアリティには、一切の偏見はない。しかしながら、彼女の中で、「Emanzipation解放」という言葉が大きな価値を持っていることは、その生き様を見ても一目瞭然だ。
その娘が、心の不安を訴えるらしい。父親には会えないし、兄弟と言っても半分の兄弟だし、母親の彼女も同居している。彼らのセクシュアリティにも思いを馳せるだろう。
そして、この可愛い娘が、パーティーに行くというと、
「好きなだけアルコールを飲んで、色々なものを試し、早いうちに自分のアルコールの限界を勉強しなさい。タバコもなにも、すべてやってみれば良い。それでもあなたが本当に必要だ、欲しい、と思えるなら、やればよい」
と言う考えであるらしい。私の娘も証言したし、私もその母親と何度も電話してこの耳で聞いている。
この娘たちは若干15歳である。


その娘の精神不安定のために、彼女は一回70ユーロを投入してセラピストに行かせているという。思えば、こんな境遇ではそれは良い考えなので反対しないが、もうひとつは、この学校で成績が悪いのは、あの旧東独の制度の残った教師の授業のせいだと言い、娘を諭すこともなく、私立の学校へ行かせてあげると、娘と二人で見学中で、娘が選べば良いと計画しているらしい。

私の言いたいことは、このような解放主義的、反権威主義的教育の影響から出てきた錆の部分を、一生懸命に補おうとして金銭や労力を投入しているようだが、その錆が出る前に、もう少しやりようもあるのではないかと思うのだ。
アルコールもやれ、タバコもドラッグもやってみれば良い、成績さえ正常なら同棲したって良い、苦しければセラピストを紹介するわよ、嫌なら転校したって良い…。
極端に見れば、これでは子供はどうしていいか分からないのではないか。実際は、二人三脚とも言え、父がいないので、文字通り仲の良い母娘の硬い絆があるに違いない。愛情も満ち溢れているだろう。けれども、どこか私は反権威主義になじめないのである。

下記に、独語WikiからAntiautoritäre Erziehung(反権威主義的教育)という項目を抜き出した。拙訳である(ちなみにこの用語の項目は独語・蘭語しかない)。

これをざっと訳しながら、アレルギー的に、この教育には従えないと思いつつ、私自身の問題児である娘の性格を考えたとき、彼女を十分に抑圧的要素のある伝統的教育に押し込めることはまったく不可能であろう、という別の観点での確認をしてしまった。彼女は、抑圧的従属的教育の中で、明らかに謀反を起こしたり、ついていきたくないと拒否したり、なじめないでいるわけだが、そうして落ちこぼれていくならば、本当に落ちこぼれでしまう前に、この反権威主義でも解放主義でもいいから、教育として形態を成しているものを基盤とした学校に入れないと、後で取り返しがつかぬかもしれないと言う不安が出てきたのである。

そういう私は、まさに「伝統的・権威主義教育」の落とし子であり、独立自尊はおろか、決断力もなければ、自分の決心したことこそ間違えであるに違いないと言う不安に襲われてしまうのである。
これが、反権威主義教育を受けていたとしたら、あの子は転校しかない!と言い切れるのであろうか。

一概に良いとも言えず、一概に悪いとも言えない。
しかし、ある一定の子供たちは、この教育方針にしか従えないと言う場合もあるらしい。そして伝統的抑圧的教育を押し付けるよりも、いっそフリースクールのようなものに入れた方が、予後が良いのではないかという印象がある。

それにしても、音楽学校に来ている問題児たちは、そんな重症な子は少なく、単にビシッと言われさえすれば、普通にできるというぐらいだろう。ある程度の調教は、それは特に、他人に対する態度として、絶対に施される必要があると思う。社会というのは、何らかの犠牲を払わねば所属できないのは、昨日書いたとおりだが、この子達は、オレ様だぜと言って、この異常な(これはまた後日)界隈を闊歩しながら勝手に振舞ってしまうのだろうか。

いくらなんでも、できの悪い私の猿どもでさえ、音楽のレッスンと言えば、一言も発せずに先生の前で緊張しきって言われるがままに、人形のように弾いていたというのは事実である。

そして、これは余談だが、今日いつまでたっても練習せずに、1年以上やっているのに、さらに一切の練習をしなくなったのでバイエルの冒頭部分の実力に舞い戻ってしまい、それ以来上達できない子がいる。明るい子で可愛い。利口なので回転が遅いから上達が滞っているとも思えない。嫌なら好きなことやりなさい、止めてもいいのよ、と言うと、どうしても来たい、やめたくないという。
今日帰り際に、

引っ越すかもしれないんだよ、という。

この界隈だけど。ママがボーイフレンドと別れたので、どっちかが家を出ないとならないの。弟なんて一歳にもならないのに、自分のパパがいなくなっちゃうの、可哀想。わたしは火・金に、私のパパのおうちなの。

と言うではないか。
週二日、パパのうちに寝泊りし、学校へ行き、家には半分の弟がいて、せっかくママのボーイフレンドとの暮らしも落ち着いたのに、別れるから引っ越すと言う。

まあ、私のたどった道のりと似ているのだが、そんな背景で、彼女のピアノが、断然ひどくなり、下降の一途だということは、非常に納得ができた。家庭に落ち着きがなければ、練習などできるものではない。

これは余談だが、この界隈では、父親と住んでいる子供は殆ど皆無に近い。


さて、話は反権威主義にもどるが、興味のある方は是非、以下の記事を参照してください。


反権威主義教育とは、反抑圧的且つできるだけ強制的ではない形態の子供教育を指している。「伝統的で抑圧的な国家教育」とは反対に位置しているようであるが、 放任主義の姿勢ともはっきり異なっている。子供たちは、独立自尊且つ創造的で、社会性と困難と向き合う能力を備えた人格に成長するべきだと言う考えである。その目標も、それに至るまでの過程も、今日の教育に継続的に影響を与え続けている。反権威主義教育は、権威主義教育に反対するものではなく、子供の自己啓発を不要に抑圧すること、つまり権威的人物とシステムに対抗する姿勢をとっているだけである。

反権威主義教育の成立

この思想は、 Alexander Sutherland Neill Wilhelm Reich によって、すでに1920年代に築かれ、60年代の学生運動の最中に新たに再燃し、近代の教育を構成する一部となった。学生運動と議会外の反対派らの活動による結果、教会の青年組織、その他の教育関連機関などが生まれ、さらに既存の権威主義と認識されている教育に対する議論や 代替モデルが発展していった。
「反権威主義教育運動」という概念は、非常に異なる理論家・実践家による影響を受けているため、簡単に定義することはできない。つまり人道主義の伝統に属するAlexander Sutherland Neill Hartmut von Hentig Janusz Korczakらの改革教育者、Paulo Freire Ivan Illichら救済教育家、更に左翼または精神分析理論 ( Lutz von Werder Otto Rühle)などの人物が影響を与えてきた。「反権威主義教育」へ所属しているかどうかは、実際に活動している現場での定義、ならびにこの運動の批評家の定義によって異なってくる。
この位置相違が「反権威主義」の概念を明確にする決め手となった。「反権威主義」運動の一部が、(市民階級の)権威に反対する声として理解される一方、別の討論では、権威者に反対し、民主主義社会を追い越した教育形態に向かいつつある教育が発展したという議論が繰り広げられるようになった。
子供たちは、好きなことだけを行うことができる、あるいは行うべきであるという意見もあるため、一般社会では、無秩序な「教育」としてのイメージが一部で生まれるようになった。指導者および教育者の中には、いわゆる放任主義教育を追い求める者さえあった。他の教育法の中でもとりわけ青少年の活動、キャンプ教育または冒険体験教育などにおいても、共同決定と自己決定を重視した。
この概念を明確にするために、「抑圧の少ない」「反権威主義的」「解放的」といった用語は、すべてこれらのグループの中で形成されたことを述べておく。
一般的には、これらの相違は殆ど認識されることはないが、一部では反権威主義が権威者と伝統的教育者を批判したことへの反応として、意識的に誹謗されることもある。
最後にすべての反権威主義運動においては、性教育のタブーも解放されたということを付け加えておく。
今日の反権威主義教育
当時発展したメソッドの多くは、現在の教育でも継続して生き残っている。しかしながら反権威主義教育という概念は今日、 広範囲において社会的討論の枠から消え去ってしまい、解放的教育という概念に統合されてしまった。独立自尊且つ創造力豊かで、社会性と困難に立ち向かう能力に優れた人格は、今日殆ど当たり前のこととして受け止められている。特に、女子活動、プロジェクト方式の授業、体験教育、フリースクール、オルタナティブ(自己管理による)スクール、アクティブスクール、アドベンチャー公園、オルタナティブ(自己管理による)幼稚園、フリースペース教育、改革教育、子供共和国などの分野では、顕著な傾向である。
反権威主義教育の価値に従う姿勢は、多くの現場で目にするが、実際に教育実践としては、政治的立ち位置によって様々に評価される。批評家は、3つに分類された学校制度を保持している点を取り上げて、これでは構造も内容も個人主義的な教育に反しているため反動的であるだけだと批判している。理由としては、未だに存在している試験、成績表、なんらかの卒業証明書をめぐる思考を挙げている。その他、Lob der Disziplin (規律称賛)という本を取り上げ、これこそ反権威主義教育の掲げる目的に到達するための唯一正しい教育法であるとする声も出ている。更に社会は規則と職業などの従属によって規定され、学校制度はそれらを学ぶために、適した場所であるという指摘もある。社会のルールを守ることができて初めて、自己決定による人生が可能であるという理由による。
教育も、原則的にはこの軸上にあるはずだが、女子活動、プロジェクト形式の授業、体験教育、そしてオルタナティブスクールなどで見られるように、一部では反権威主義教育に明らかに関連している様々な思想、メソッドが受け継がれている。

左派生徒活動などの興味深いグループは、今日「解放主義的教育」もしくは「解放主義的教育任務」という言葉を表明している。

2010年11月8日月曜日

不潔よ

最近、左の肩に霊魂が宿ってしまったように痛みが激しい。激痛と言える瞬間もあり、内臓かとも思うのだが、明らかに筋肉痛である。
左の肩が象徴するものは何であろうか、などとユング風に考えてみつつ、左は無意識だなんて、昔覚えた馬鹿なことを言ってみる。しかし、身体はあらゆることの象徴であることは真実だ。
精神的に何かを吐き出す必要があるとき、人は原因不明のむかつきや嘔吐を患ったりする。
また、精神的にもうこれ以上、その事実を消化できない飲み込めない、と言ったときにも、首の息苦しさや、食事がのどを通らないという症状が出てくることもある。

それを考えると、左側のこの痛みはなんだろうか。背中が肩に移動し、それが今度は上腕にまで降りてきており、携帯を支えるのすら痛い。本を左手に持って右手でめくることさえ辛い。
まあ、そういうユング的アプローチは、あまりここでは意味を持たない。

大プロジェクトを終えた途端の清浄なので、体は正直だと思う。やはり無理があったのだ。
しかし、プロジェクトを終えたとき、過去清算のいよいよ最終段階に突入したことを象徴する請求書が弁護士から来た。ああ、この稼ぎは、全部泡のごとく消えていくんだと思い、一瞬不快になったが、無駄働きを一回せねばと言う覚悟はできていたので、もう仕方ない。クリックしてしまえば清算された事になるのだ。

夏前の日記を読むと、どうも過去を引きずっていた。過去が湯気を立てているなどと言う表現もあった。現在は、直近の過去は終了している。影響力も失い、過去としての位置も定着してしまった。
云わば、これからスタート地点という場所に立つ直前に私はいるらしいというのは分かる。

今後は、仕事上の更なる発展と見直しを予定しているので、その方向で前進して行ければと思っている。すっかりきれいごとの文章になってしまった。
___________


同僚が、小津安次郎の映画作品集を誕生日にくれた。20本弱を焼いてくれたのだ。そしてもう5本以上見た。そして毎回、静かに涙をこぼしている。小津が好きだと言ったら、彼が最近の特集を録画したものをどこかからダウンロードしてくれた。

小津に関してどうこう言うのは専門家に任せるが、本当にいつも思うのは、なんと美しい日本語であったかということ。当時の中流社会ではなされていた言葉、そして所作、そしてコミュニケーションの形式の美しさは、本当に背筋を伸ばしたくなるようなものがある。
古い道徳観念が、当時の女性を苦しめたことなど、今からは信じられないことであるが、私の母の男女関係における伝統的な道徳心、そして、まさにこの映画の中のような中流家庭に育った彼女の、あまりものを言わない辛抱強さと、凛としたその姿を今になって肯定的なものとして理解できる。

彼女は、本当にものを言わない。さすがに、今の時代「もう、いいんですの」などと言う上品な言葉遣いはしないが、彼女は取り乱すこともなく、嫌なことがあれば部屋に篭り、じきに出てきたときには、もう笑顔ですべてを忘れ去っているのだ。そんな母に、「何も考えなどないのか」という思いを抱いたこともあったが、それは大きな間違えであった。言わない辛抱は美徳であり、それ以前に礼節とたしなみであったらしい。

少女っぽい、世間知らずと母を優しい目で、しかし古いものとして見てきた私は、母の方に、よほど強い何かが宿っていたのだと改めて思った。

それにしても、言葉も劣化し、仕来りも所作も形式もすべて劣化したものだと思う。
小津の映画だからと言う理由を抜きにしても、当時は「美」というものが、文化の中に存在していたのかもしれないと思う。

そういえば、以前ドイツの新聞が、大市民層の崩壊を嘆く記事を書いていた。教養層の幅が、拡大し、中流層そのものの教養が高くなったが、それと同時に、当時絶対必須と考えられていた、神学、哲学、法学などのレベルが落ちたと言うのだ。大流行の経済学専攻の学生が最も多く、彼らはドイツでもディプロム証書なので、ちょっと前のマギスターの学生のように、三科目専攻する必要がない。今更哲学神学という地盤は、無用だと思う人間も少なくない。

話はそれたが、日本でも多かれ少なかれ、小市民層の豊かさが安定し、保証されたのと同時に、伝統的ななにか重厚な「美」に通じるような「形式」「精神」と言うものが失われたような気がする。

「おじさま、再婚なんて、なんだかきたならしいわ、不潔よ」

こんな台詞を今の時代口にする女性はいないだろう。
しかし、不潔を極めきっているような、云わば「あいつはあばずれさ」と言われて当然のこの私は、なぜかこの台詞に感銘を受けた。
生物的に考えれば、生き物は生殖活動を続けるために、常に番を捜し求めるのだが、人間はそれをモノガミーによって一人で落ち着けようと言う努力をする。最近は、その努力は無意味だとか、モノガミーは機能しないと言う意見もある。
キリスト教によって、男女関係が、不自由極まりなく縛られていただけでなく、ネガティブなものとして常に抑圧されてきた時代の不自然さは、異常なものがあるとしても、最近の、駄目なら、経済的に自立しているのなら、すぐに別れるという風潮も、やはり劣化と言ってもいい、何かネガティブな表れである気がしてならない。

社会に所属するためには、常にそれに対して犠牲を払わねばならないのは、どうやら事実である。
それが現代は仕事ということで、個としてのありかたを犠牲にして、経済的自立をするため、つまり金銭を稼ぐための会社に所属している。それは、就業している女性にも同じことが言える。つまり、家庭に入る、所属することによる犠牲は、女性からはすでに払われなくなっているということにもなる。

それは社会的には喜ばしいことであるが、では、どうやって二人三脚を組めばいいのだろうか。会社へ犠牲を払う男と家庭に犠牲を払う女が、性の営みで共同所属を象徴し合う形がないと、どうなるのであろうか。
女も男も犠牲は金銭を得るための活動に費やしているのである。家庭へは割り勘で犠牲を払う。精神が、経済的勘定をする機能になってしまい、まるで口座チェックをしあうような仲の男女関係ばかりのような気がする。

そこで、再婚は不潔、という一度きりの結婚への強い所属感情は、犠牲を払った本人の心の投入度を象徴しているように聞こえる。人生を文字通り、ささげ切った。個を捨てて、結婚に入った。その相手が死んでも私の場所は変わらない。
そんな覚悟が聞こえてくるのである。そして私は、それを美しいと感じる。

兼業主婦や社会で成功している女性の方が強く、実力があり、賢いというのは嘘だと思う。
母を見ていてもそうだが、人は社会的だからこそ、一人では生きていかれない。幸せとは、必ず一人ではなく、二人でつむぎ出してこそ、本当に深く根を張ってくるものなのだと思う。それには、自分を捨て嫁に行くというような時代の覚悟は、大いに結婚を助けたであろうし、二人の絆を強く結んだ例が多かったかもしれない。

駄目なら独り立ちできる、失敗したら経済的にも問題なくやり直せる、という状況が、結婚を危うくしているとは絶対に言わないが、そこに犠牲の精神は見えない。

やはり、熱愛ではなく、愛の基本は、犠牲に違いない。
失って、得るのが、愛なのだと思う。
そうして母を見ると、潔い。愚痴は短く、多くは言わない。
父も、家庭だけは懸命に守り、家族を深く愛してくれている。
私のように、論理立ててものを言う癖がつき、男女間の問題を徹底的に理性で解決し、「納得」した「妥協」を探す、などという現代的な人間は、なんだかむしろ劣化に思えて仕方ないのだが…。

2010年10月31日日曜日

今年の誕生日

 



去年の誕生日は混沌としたものだった。
友人ともいえない知人とつるんで、夜遅くまで飲んだのではなかったか。
彼らは私が作った友人ではなかったのだ。

私が誰かの取り巻きでしかなかった時代の、不思議な誕生日だった。
自分ひとりで築いたのではない、誰かの世界に属している人々を知人としてあてがわれた形の人々との関係は、不安と義務に満ちており、無理強いしても好意を膨らませていかなくてはならないという強迫感。
リラックスもできず、いつかは切れてしまうのも当然の結果なのだ。

そんな檻から自分で再び這い出したのは、もう8ヶ月ぐらい前の話になる。
それ以来、私の周りには新しい何かが作用し始めて、多くの人と知り合うことができた。

友人とは、本当に知り合うべくして知り合うものだとつくづく思う。
知り合いが、私の人生に及ぼす影響は限りなく少ないとしても、友人の意味するところ本当に大きい。
外国生活が長くなっても、ドイツ人の性質というのもあってか、私のこの引きこもり的性格による原因の方が大きいとは思うのだが、あまり友人と呼べる人がいない。
引越しを重ねてきたのもひとつの理由だろう。
そして、私の変な人の良さが、友人関係に疲れを覚えてしまう要因であるのかもしれない。

ところが、ここ最近、檻から抜け出した途端に、さまざまなことが再び動き出したのだ。
家族に心配事が起きたり、仕事面で大きなターニングポイントが訪れたり。
私自身の身の回りの扉が一斉に開きだしたように、問題は私と誰かとの関係ではなく、私の身の回りに絞られ、私に与えられた強制的友人は消え去り、替わりに思ってもいない偶然で知り合ったり再開したりする人間との発展があった。

そうして、これまで仕事を通して共同作業をしてきた人々とは、仕事以外の面でも大きな人間的意味を持ち始めて、私はすでに彼らにたいして、仕事上の乾燥した会話だけではない関係を感じ始めている。

その皆と、昨夜私の誕生日には、鍋を囲んで楽しく会話が弾んだ。
仲間が集まって、打ち解けて話し出すと、実は信じられないほど相手が遠い世界に存在していることを知ってしまい、どうしても噛み合わない歯車に孤独を覚えた、ということは数多くある。知っていたようで、知らなかった人々。それは友人ではなく、互いに友人を探している人々であったのかもしれない。

しかし、昨夜はそうでなかった。
仕事の仲間なので、悉くドライに振舞おうとしてきた仲間である。それが、どこからともなく集まろうという話になって、期待もせずに集まってみたけれど、それが思わず暖かい集まりとなって、話せば話すほど、お互いのシンパシーが高まっていくという、本当にまれにみる幸運だったのだ。

私が檻から出たことによって、いろいろなことが動き出し、私は無意識に選び、無意識に選ばれている。孤独を恐れずに、自分とあまり意味のない繋がっていただけの糸を切ってみると、私自身の糸は、孤独の中にも、自由に自分自身の物語をつむぐための前準備をしてきたのかもしれない。

その下地が、今ある仕事の発展であり、彼らと共に、それぞれがプライベートでも近づきになっていくこの過程なのかもしれない。

一番近しい彼の奥さんが、私を見て、会が終わった後に、すぐさま言ったらしい。
「彼女は、あなたと双子なのね」

彼女は、華奢でメイクもないもしないその素顔が、惚れ惚れするほど美しい。
パリで大学を出て、彼のいるベルリンに移り住んできたのだが、才女とは思えないほどのやわらかさ、しなやかさを持っている。私より10歳も若いと思われるが、少女の面影はなく、彼女は立派な魅力的な女性である。

彼女が、何を持って彼女の夫である彼が私と双子だと称したのか謎なのだが、私はそれを美しい女性からの好意だと受け取った。
彼と私は、会った瞬間から意気投合したし、何より仕事の段取りでのテンポや優先順位のつけ方、または効率に対する考え方がぴったりと一致している。二人三脚のように二人で組むと仕事が上手くいくのである。
そういう彼に、私は大きく一目を置いている。そして、おそらく彼自身も、私と仕事をすることを「楽しい」と表現する気持ちに嘘はないのだと思う。

常に家にいて、まだ小さな子供の面倒を見ている彼女は、私のことを聞き伝にしか知らない。けれど、私たちの仕事の楽しさは、彼女に伝わっていたのだろうし、その相棒を現実に見たら、なんと似たもの同士じゃないの、といった彼女に、私はどんな理由なのかさっぱり分からないが、底なしの信頼と好感を持っている。

おそらくそれは、男女の仲にも、本当に信頼できる友情というものが、あってもおかしくないのだという、そういう友情の始まりに対するひとつの肯定的な証明に感じたからなのかもしれない。
結婚している男性と近しくなると、必ず私はある種の不安感と罪悪感を抱く。
それは、私自身が結婚していた当時に、そういった夫の同僚女性のせいで言い尽くせぬほどの孤独を味わったからであり、そういった女性達がやはり女である立場を決して忘れているわけではないという場面を、嫌というほど見せ付けられてきたからに違いない。

私は、偽善ぶる気持ちなどまったく抜きに、彼女にそういう不安感を抱かせることになったとしたらは本当に心苦しい。
それと同時に、男性と友人関係であるという状況に陥らないように距離を保つべきであるという、多くの場合正しい選択を時に非常に残念だと感じていたのかもしれない。

そこで出会ったこの彼とも、まったく友情という言葉も、プライベートという言葉も抜きに接してきたが、仕事上の意気投合はすべてにおいて肯定的で、隠し立てするような問題ではないのだが、わけの分かららぬ不安が沸き始めていたのかもしれない。

彼女が、私をすんなりその輪に受け入れてくれたことは、私の誕生プレゼントのひとつであり、私は大きく安堵して、仕事上でもプライベートでも、この心からシンパシーを感じている彼と、そして彼のすばらしい家族とを友人だと思って良いのだというお墨付きをもらった気分なのだ。

欧州では、男女というものがやはり表面に常に浮き彫りにされており、それを超えて勝手に友情だと思い込んで、好き勝手に仲良くし、関係を築こうとするのは、無礼にあたるし、あまりにも世間知らずで無知である。
そしてたいていの場合、そんな友情は存在しないのである。
けれど、だからといって、あきらめてしまうには、あまりにももったいない「興味」というのがある。それをなんとか形にしてゆくには、自分で私は女ではない、といっているだけではまったく十分でなく、自分のセクシュアリティをニュートラルにする要因が必要となる。それは、互いの結婚だけでも十分ではなく、友人関係となる相手のパートナーにも、同じように深い愛情を抱くことである。その人を何があっても傷つけないという、二人一組と友情を築いていく、そういう思いやりがないと上手くいかない。そんな風にしか、私は男女の友情には可能性がないのじゃないかと思っている。

今後、この仲間たちとどうなってゆくのか分からないけれど、彼らは私にあてがわれた人間ではなく、私が一人きりで生きていく中で、必然的に私の人生を通り過ぎてゆく人々で、そしてすでにこの短い期間で、幾ばくかの影響を与えてくれている。

このめぐり合い、そしてこの作用のダイナミクスからも、私の人生が再び過渡期に差し掛かり、今もまだ浮遊を続けているのだと実感する。
そして彼らも、おそらく新しいなにか見つけるべく、彼らなりの流れに乗っていることだろう。私が彼らのつむぐ物語の中で、ただの動く知り合いでしかないのか、なんらかの痕跡を残すことになる友人となりうるのか、私には知る由もないが、願わくば、友人となって行きたいと、ひそかに願っている。そして、彼らにはそのために必要な、小さな愛情の積み重ねを、本当に厭わずに注ぎ込んで生きたいという気持ちがあることを、私は昨夜実感した。

本当に素敵な誕生日だった。

2010年10月28日木曜日

ただの日記

最近はどうも忙しいらしい。
いったいどういう状況が忙しくて、いつが忙しくないのか。
いつ自分自身ストレスを感じていて、いつリラックスできているのか、そういったことがまったく実感できなくなっている。
けれど、それなりに受注が押し寄せて、締め切りに向かって毎日夜中まで仕事をしているからか、3日前、恐ろしい背筋痛に見舞われて、にっちもさっちも行かなくなった。

私はそもそもぎっくり腰の癖があるのだが、運動や変な動きとはまったく関係なく、ある日突然腰がくりっと壊れることがある。
そして、考えてみるとたいてい、仕事が押し迫り、寝不足が重なって、仕事の掛け合わせに、ちょっとあえいでいる時なのである。
そういう頃合を自分で先読みできればよいのだが、自分の事に関して鈍感な私にはまったくできない。


この通りにタイの伝統マッサージの店があるので、ひょっこり行ってみたら、大成功であった。
小柄で華奢な、年の頃がおそらく同じと思われる女性が、私の身体を解体するように癒してくれた。
大変な体力の要る仕事だと思うが、彼女は、無口でしかし優れたスキルを使用して、私の身体と対話をしてくれた。

次の日、若干良くなっかが、それほどでもないと言う感じだが、今日、かなり改善し、おそらく彼女の処置なく、ここまで改善しなかったのではないかと言う実感がある。
セクシュアルな意味ではなく、人に身体を触ってもらうと言うのは心地よい。セクシュアルな触体験にも、もちろん肌を触れあう癒しはあるのだが、リラックスとはまた違う。温かみを分かち合う、心を通じ合わせることが、男女の目的かもしれないが、癒しの触れ合いはそんなに熱くない。ひたすら、私自身をケアしてあげていると言う自己満足もある。

明日金曜日なのだが、気が早まって、今日仕事の後にスーパーの魚コーナーで、車えびとイカを買った。アサリもムール貝もなかったので。
そして、ル・クルーゼの鍋で、決してイタリアリゾットではないが、フランスの魚介リゾットを作った。にんにくをたっぷり入れて、ブイヨンなどは一切使わず、塩と胡椒のみ。
息子は、退屈な味だと言うが、最近私は何が入っているか分からないブイヨンには用心している。

どうでも良いことを書いた。
まるで誰かに宛てた手紙のように、時々、こうして何かを語りたくなる。
決して、私はこう思う、こういうことがあった、こうしていきたい、と言う具体性に一切欠ける文章であっても、後一時間も書いていればきっと出てくるであろう、本当に語られることの必要なテーマにも、こうした日常の語らいが影響を与えていると信じている。
思い切ったことだけを書いていこうと思ったブログだが、自分の部屋同然なのだから、好き勝手につまらないことも述べていこうと、そんなことを思った。

ブログを書きたくなるのは、一言、人恋しいのである。それに尽きる。

食後の白ワインを楽しみつつ、また仕事の残りに取り掛かる。

せめて手作りのものをしっかり振舞った晩は、子供たちの胃に良いものを入れたという満足感もあるし、彼らも食後は非常に静かである。
食事は侮れない。

2010年10月24日日曜日

雨の日曜日

朝起きると、窓から灰色の空に黄金色をした銀杏木がそびえて見えた。時折木々の枝が揺れては、たくさんの葉が舞うようにして落ちてゆく。


土曜日に買い物へ行きそびれたので、徒歩2分のスタンドまで歩いた。
雨が横から降ってきて、風が強い。

歩きながら小さな静寂を感じた。これから厳しい冬が来るが、むしろ楽しみでもある。外へ繰り出さねばと言う恐怖感もないし、凍えそうになりながら、暖かい家の中へ駆け込んだときのなんともいえない幸福。

知人が日本のお祭りの写真を送ってくれた。美味しそうな匂いが漂ってきそうな縁日の食べ物が湯気をたてている。
何気ない文章の最後に、添付されたその写真を見て、私は涙ぐむほど心が温まった。日本のお祭りと言う、またしても私の五感を刺激する写真であったからというだけではない。その人が、写真を添付してくれた、その取るに足らないような親切心が、思いやりのように感じられ、心が温まったのだと思う。

その人は、メールの中で「だんだん一人でいるのがきつくなってきました」と漏らしていた。
私自身は、一人になって長いわけではないので今のところ解放こそされても苦になったことはない。きついなと思ったこともない。ひとりになる前から、二人でもずっと一人でやってきたからかもしれない。
実は、本当に二人と言うのを知らないのだ。
誰かの人生を追いかけてきたことや、誰かに追いかけられたことはあっても、二人で共に歩んだと実感できる時間はわずかかもしれない。

同じ線路を歩みながら、同じ駅に止まるのだが、乗車しながら二人は常に別々のことをし、別々の方向を見て、好きなものを探し、捉え、また違う方向を向く。けれど、喜びや悲しみを感じたときには、必ず隣の相手を振り返り、話かけ、喜びを分かち合い、悲しみを隠さずに露にする。そんな歩み方なら素敵だと思ってみたりする。

同じ事を行い、同じ関心を持って、友人を共有し、日常を共有しながら、でも二人三脚でどんどん線路を変えていくのは、サーカスの曲芸に近い。線路を変えるときに、必ず揉め事や意見の違いが起こる。線路を変えることは、時に生活を覆すような恐怖に満ちることもある。

私なら、私鉄の静かな沿線を選んで、その私鉄の線路自体に、ある程度の生き方の好みが表れているため、その沿線を愛する人と共に、退屈な景色を何往復でもしながら、同じ線路を歩み続けたい。けれど、なんでも共有するのは絶対に不可能だと思うので、いつもとなりにいるのに、いつも違う方向を見ているぐらいが良いのではないか。


そうでないと、誰の線路に乗るのか、という問題まで出てきてしまう。
誰の線路に乗るか、私の線路、あなたの線路、そういう意識は刺激的だが、もういくらなんでも私はそこまでのエネルギーも自分に対する信頼も残っていない。
だから、偶然行きあたりばったり、魚を買いに行ったら知り合って、一緒にそばを食べたら、リラックスできて、すきなのか、嫌いなのか全然分からないのだが、このひとは確実に同じ線路に乗っているだろうと言う、気づかぬほど小さな信頼さえあれば、今度は一度そういう人と歩みだしてみても良いかなと思っている。

熱いもの、というのは過去としての観念になった時、意義を与えられて心にずっと残ることがある。
さめてしまうものも多い中で、私自身は、人生で一度だけ、岸壁に立って、私の核心に大きく形跡を残すことになった危険だが深く美しいものを見たような気がする。
私は、どんなに年取っても、心の中のこの部分だけは手放さない、絶対にこれは死後も、私と共にもって行くのだと思えるものを蚕の中に包んで持っている。
これは、ある意味、本当に幸せなことだと思っている。だから、私はそれ以来人生を捨てたようなところもあり、行き当たりばったりに任せていたところもあり、魂自体を眠ったまま、凍結させてしまったというところもあったのだが、今は、熱いものにあこがれることも、それにめぐり合ってしまうことへの恐怖もない。
蚕があるからこそ、私はいつでも慰めを知っている。そして、相手にもそのような蚕があればよいと思う。過去を知る気もないし、その人の恋愛感をどこまでも追求するつもりもさらさらない。
ただ、その人も自分を形成してくれたなにか脅威にも近く美しいものを仕事や人生の中で体験していてくれたら、その思いだけを心の中に大切に秘めていてくれたら良いと思う。そして、まるでもう探すことも追求することも止めて、古くから自分の近くに常に存在していた線路に戻り、静かに余生を過ごすような形で歩んでいる人ならば良いと思う。
それは、決して年齢の問題ではない。
そういう体験をすると、その後がまるで抜け殻のような人生になることがある。その孤独は深く、どんな人間もどんな出来事も、なかなかその喪失感を埋めることは出来ない。
そういう孤独を抱えつつ、蚕と共にひたすら前進する姿。

あなたは知っている、私も知っている
Lo sai, lo so.
You know, I know.
Du weißt, ich weiß.



何が言いたいのか…。

そういう人に見えたその知人が、急に一人がきついと言い出したことに驚いたのだ。蚕を持っていないのかもしれない。だとしたら、寂しいだろう。何か出来ないかと思って考えている。その人が私の中に呼び起こしてくれた温かい気持ちをどうしたら、私がその人の中にも呼び起こせるか。人に何かを与えるとは、本当に難しい。それはいつも間接的に作用するからなのかもしれない。

2010年10月19日火曜日

写真箱

新しいプリンタを買って、それがあまりにも優れているので、写真を整理しながら印刷したり、スキャンしたりという作業を行おうと思った。

そうでなくても、この頃の過敏さは尋常ではなく、ちょっとヘルダーリンを読んだだけで、涙がぽろぽろとこぼれてくる有様だったのだ。
心が、何かを探している。それはよりどころなのか、それとも希望なのか、慰めなのか、共感なのか、あるいは孤独なのか。

封筒に入った写真を取り出してみると、6年前に亡くなった祖母のお葬式の写真だった。長生きしたので、ひっそりと家族だけで出したお葬式だが、母は気を使ってか、こまめに写真を撮ってくれ、私に送ってくれたのだ。
当時、私はあまりにも思いが新鮮だったため、その写真を見ても、おそらく何かがブロックされており、あまり何も感じることが出来なかった。まるで、写真の向こうの遠い祖国での出来事に思え、自分のここでの生活との接点を見つけ、私の身に起こった身内の不幸なのだと言う実感を持つことが出来なかったのかもしれない。

何の心の準備もなく、祖母のお棺を見て、そして入棺されるまえ、ふっくらとした布団に寝ている祖母の姿を見た途端、思わず涙がこぼれてきて、しばらく写真をそっと大切に胸に抱きながら、泣いていた。

あれだけ親しくなついて、色々世話もしてもらったおばあちゃんのお葬式にすら、私は出られなかったし、彼女を見取るどころか、世話すらする機会にも恵まれなかった。
同じようなことを両親にはやはり出来ない、一生の後悔になると、まるで一瞬にして、今の状況にある自分自身がどこに属するべきなのかを悟ったような「錯覚」を覚える。
錯覚と書くわけは、やはり子供のことや、ここにいた年月を考えると、やはりさっと決心できないだけの複雑な問題があることを承知しているからなのだが、それすら、もうどうでも良いと言う疲れも覚える。

写真箱を整理しつつ、涙は続けて流れてくる。
何年も見ることのなかった、私の過去。PCを買ったのは98年だが、写真を保存し始めたのは2000年あたりで、それ以前はアルバムに貼ったり、整理できないものは箱に小分けしていた。
つまり、そこには、離婚も病気も、どんな死も終局もない私と、私の子供たちと家族が写っている。
悩みを抱えた私は、それでも生き生きとし、若くエネルギーに満ち溢れている。苦しみがあっても、やはりそこには憎しみと同時に愛が存在していたのだろう。
がんばる甲斐とか、ものを継続させる甲斐というものを実感していたに違いない。

子供たちはしかし、誰をとっても不安そうな顔で、時折ニコニコとして写る写真のその顔は、本当にはかないほど繊細で、純粋で、傷つきやすい表情をしている。
こんなにかわいい子供たちを持つ喜びを一切十分に味わうことなく、私は葛藤を続け、夫を愛し、愛しきれず、自分に集中している年月を過ごしてしまった。
後悔は後を絶たない。

この写真箱は、2000年あたりから更新されなくなってしまった。同時に私も第二の人生を始めたわけだが、その後の写真は、常にPCやHDDに保存してあり、頻繁に目にする。
それだからと言うわけではないが、子供たちの目覚しい成長の記録以外は、私の人生はまるで、仮の人生を歩んでいるように、デジタルとしてしか存在しない写真のように、手ごたえのない軽いものに見えてしまうのはなぜだろうか。
苦しみの質は以前とは比べ物にはならないが、苦しかったと言う記憶は多くあり、考えずにすごすようになったわけでもなく、それなりに常に真面目に取り組んできたつもりであるのに、私の写真箱の中には、生々しくまだ息をしているような過去があるが、最近の写真はまるっきり訴えてくるものがない。

そして、自分でデジカメを所有するようになって、数こそ撮るようになった。昔は、デジカメすら持っていなくて、使い捨てカメラや安いカメラで少しだけ撮っていた。趣味でもなく、写真を撮るのが嫌いで、カメラは常に忘れるのが癖であった。
それでも撮った写真には、意味があるのだろうか。残したい思い出、そして心に焼き付けておきたい瞬間だったのだろう。


過去に癒されたり、過去に埋もれたりするのは、年をとったのか、今不幸なのか、そんなことぐらいしか思い浮かばない。
けれど、写真は心が出るのだと、本当に目からうろこのような体験をした。
今の私は、カメラもってどこへでも行き、撮るのが楽しいと思う。しかし愛が欠けている。生活にうそがあったから、それが写真に出たのだ。こなれた写真や、腕を磨いた写真、そんなものはいくらでもあるが、迫力のある写真がない。

昔は、写真には興味がないが、対象を愛する気持ちを一杯に込めて、一瞬のシャッターを切っていた。
親の心であり、妻の心であり、娘でもあり、その生き方のどこにも嘘はなかったのである。

今後、私が何かの折りに過去を振り返った時に、やはりこうして祖母の人柄や祖母との思い出がにじみ出てくるような、または幸せだと信じて疑わなかったあの頃の生活が、写真から踊りだしてくるような、そういう写真を子供たちと共に撮って行きたいと思った。
一歩ずつ、自分の人生からうそを取り払っている今、それも出来るかもしれないと希望を持っているが、若くないということは、何かを生み出すとき、無垢な姿勢には戻れないので、これは修業だと思うことにする。

一瞬、写真箱の中に目を通しただけで、愛おしいものが何で、何を大切にしなくてはならず、何に感謝をすべきで、何を忘れるべきではなく、そして私が何を失ったのか、はっきり見えた。
悲しみもあったけれど、心の中に、またひとつ小さく細いろうそくのともし火が点いた。

2010年10月11日月曜日

心のシンプルライフ

いよいよ、木々の葉が黄金色に染まってきた。
本格的な秋の到来である。澄み渡るような空であるが、外に出るとその冷たい空気は、衣服を通って肌をひんやりと冷やす。ああ寒いと、そう感じるほどに気温が下降してきた。

それと共に、私の食欲は増し、退屈な季節をやり過ごすために、家の中に楽しみを持って来ようとばかりに、料理にいそしんでいる。この私が、食べ物だとか、料理の献立などに凝るのだから、本当に何があるかわからない。
美味しいものを口に入れている間の幸福感、少しの贅沢がどれほど心を豊かに潤してくれるか、そんなことを実感する熟年になってきたらしい。考えてみれば、食だウェルネスだと言い出す、中年女、それもロハスだとか自然派だとか言う余裕のある、暇人中年女に、自分もなってしまったのかという失望感も伴っている。

ロハスは素敵だと思うし、実際日本に帰ったら、天然生活のような生き方を実践してみたいと、そんなことを一緒にできるパートナーなら良いなと、そんな具体的な夢まで見ながら、暇をつぶしている。

しかし、それも考えてみれば平和ボケしたとぼけた生き方だなとも思うのだ。

ウェルネス。子供のためのヨガ。アーユルヴェーダ。タイマッサージ。フットケア。そしてリラクゼーションという言葉。

本当に簡素な人生を求めれば、毎日善良な心を持って生活し、肉体を使って汗を流し、日々めぐりくる時間を大切にして、周りにいる人間に、思いやりと誠意をもって接してゆくこと。
これこそが、すべてなのではないだろうか。
そして、ここから学びえることこそ、私たちの生活には重要となってくることがあるのではないか。

道具を揃えたり、ステータスとしてのロハス的ライフスタイルなどを追う間は、何もわかっていないという気もして仕方ない。
これは自分に言い聞かせていることでもある。
日常を楽しむとはそういうことで、それなしには生きていかれないのであるが、もっと突き詰めて、簡素に生きていかなければ見えないことが多くあるのではないか。

そんな風に感じてしまう自分がいる。

私が、欧州を去ることに、ある種の恐怖を抱いてしまうのは、実は、そこのところなのではないかと感じている。
私の生活は、東京に住んでいる人から見れば、恐ろしく限られてるのだ。
決まった生活圏でしか動かず、娯楽もないし、日曜日のショッピングもない。テレビも見なければ、外に行くと豊かな商店街があって、暇つぶしができるという気晴らしもない。
自分たちの質素な生活の中で、一様に退屈な一色で染まってしまいそうだからこそ、心の中に目を向けていくしかないという状況になることがしばしばある。
これは学生時代からそうであった。

大学生のころ、日本にいたときは、化粧をしなければ友人ともつりあわない。
このようなショッピングをしなければ、友人とも買い物に行かれない。
このような値段を躊躇しているようでは、友人とお茶を飲むことすらできない。
自分の所属するカテゴリー、階層に見合った生き方や日常を追っていくことで、精一杯だった自分を思い出してしまう。

ところが、ドイツに留学してきて以来、その価値観はすべて、無駄なごみとして葬り去られてしまった。
化粧をせずとも、誰も見なければ何も言わない。むしろしている学生など数少ない。
テレビを持っている学生も当時は少なく、本当に大学にいて、その後は安い夕食を自分の屋根裏部屋で作って、さびしく食べた後は、PCもない時代なので、本当に本を読むしかなかった。そうでなければ、本当にボーっとして考えるしかなかった。
今でもそうなのであるが、ここに住んでいると、お出かけ用の服とか、アクセサリとか、まったく必要がない。演奏会に出すら、ラフないでたちで行っても問題がないのである。

私自身、モノに惚れることがあるという感性を持っている以上、それなりに服も選び、好きなものに囲まれて暮らしているが、所属している社会のグループを意識して日常を合わせていく適応能力を活用したことはない。
それぞれが、所属をまったく考慮せずに、個人の人生で精一杯かもしれない、という印象を受ける。そもそもが、日本よりはそれぞれがおそらくずっと孤独で、それを癒すかのようなパーティーだ、カーニバルだという気もしないでもない。

結局、心理的に私は常に独りきりにされており、所属するべく場所に対する気遣いがまったく抜け落ちているのだ。
その中で生活するとき、生活はそれだけでシンプルになる。
私は今日何をしたいか、すべきなのか。
そのときに、彼らの様子を伺う彼ら、というのが存在しない。
なぜなら、その彼らだと思っている彼らが、こちらの「私」の様子をそんなことぐらいで考慮してこないからである。

その中で生きてきた22年は、非常に大切なものを私の中にもたらした。
孤独を垣間見たことと、自分は、グループに所属することで服や好み、または集団の行動やライフスタイルなどの外見で知ってもらう、表明するものではなく、私個人の発言、具体的な人生の処世術、または具体的な活動を通してのみ、私というものの存在を訴えることができるということである。

日本に帰ると、それを誰も私には期待していない。
社会が私に期待していることは、根本的に、私がここで通り抜けてきたこととは違うことなのだ。
だから、私はまた、会社の人間として、または所属している同僚や友人、または自分の教育や職業に属した人種の送るべき生活、レベル、といったものに適合しようと勤めるということは、わかりきっている。

それが、天然生活やクーネルだとか、そういった希望を持つことによって、すでに予知的に準備をしている、または日本に帰るならば、属さなければやっていかれないことを本能的に知っている私がいるようだ。
そして、その際、この自由と責任と不安と孤独が4つのコンビネーションとして基盤となっている生活に、終止符を打つ。

つまり、精神的シンプルライフ、自分の生活を大切にし、身体を動かし、善良さをわきまえ、隣人に思いやりをもって接していれば良いはずである、という仮説が、見事に壊れてしまうのだ。
それだけでは決して足りない。
和の意識、集団としての団結感。
そんなものは、私には必要ないということはいかにも容易い。
けれど、それに適応しなければ、日本では非社会的人間とみなされてしまう危険がある。
そこで、再び、自分以外の、いや、自分の本質、核の部分にあたる、心の中心を見失いそうになりながらも、集団としての団結感の中に属していくことを選ぶ以外、選択の余地がないのである。


それが寂しいのだろう。

シンプルライフとは、生活スタイルじゃない。
心の中に、人間として最も大切な、しかもおそらくそれはもっとも単純な学びを植えつけた上で、精神的に如何にシンプルで在れるかどうかなのだった、と最近気がついた次第である。

読み直しなし。乱筆、書きなぐり、思いつき、早打ちのまま、記事を投稿します。
お見苦しいところはお許しください。

2010年9月17日金曜日

心理的カオス

再三書いてきたテーマだが、心の整理に記した走り書きを投稿。
__________


そういうわけで、少しは落ち着いただろうか、と思える感じに、また日常が回り出した。

ドイツに帰国してくることは毎回苦痛なのだが、今回は特に哀しくて、なかなか辛いものがあった。
新高輪まで送ってもらい、そこからリムジンバスで成田にくるようになって、もう何年か経つ。
昔は、母が成田まで送ってくれたものだが、今の彼女には長距離を一人で帰路につく気力もないし、私自身、そろそろ高速を使っての長距離運転はできるだけ控えて欲しいと伝えてあった。

そこで、発着共にリムジンバスとなったのである。

ホテルで別れる時、母はバスが来る前に、私たちを降ろしたら子供たちを一人ひとり抱きしめ、私の目をあえて見ずに、翻るように帰って行った。私は若干胸に痛みを感じつつ、彼女の車が去っていくのを見守った。

バスが来てから、気を取り直したのだが涙が流れてしまった。いつも我慢できていた涙が、今回は勝手に流れ出してきた。やはり病気の母を置いていくという良心の呵責が強かったのだろう。

バスの中から、日本の通勤風景が見える。ハンカチで汗を拭いながら急ぐサラリーマンや、日傘をさして歩くOLたち。制服を着た中高生、犬の散歩をする下着姿の老父。

何もかもが愛おしく映り、何を見ても涙があふれ出てきて仕方なかった。
日本を去るのは、日本の暮らしやすさや、育った場所や、母語を離れるから辛いというのではない。

この場において一言では語れないが、私の子供の頃の魂は、日本のどこかで私に捨てられたまま待っており、かたや、ベルリンから日本への飛行機に乗った途端に、私は大人になるためにずっと一緒にいてくれた私の魂の片割れをドイツにおいて来ている。

私のルーツと欧州はつながっておらず、私の立っている地面の足の下に、多少根が生えているぐらいである。
ところが、日本の国土は、私のルーツと直結しており、家族や友達、さらには、そういった人々と複雑に絡み合った思い出が、網の目のように地面の下に張り巡らされているのだ。

富士を見て涙が出るのは、私の五感による故郷という実感であるだけでなく、富士に関する思い出、歩いた道、家族との散策、そのときに食べたもの、来ていた服、はやっていた音楽、乗っていた車、読んでいた本などが、一丸となって、こみ上げてくるのである。

そして、それは横浜であり、中華街であり、東京のあらゆる場所、小さな横丁に至るまで、散りばめられている。

ドイツにもそういう思い出があるだろうと指摘されても、一人きりで、あるいは自らの配偶者や子供たちなどと築いてきた思い出など、無意識に襲われるような、半ば支配できないような思い出の嵐とは、比べ物にならない。

子供時代の思い出は、大人のように意識して体験されたものではなく、親というものに守られながら、感覚的な記憶として残っているからだろうか、その波は突然やって来て、そして常に思っているよりもずっと大きいものなのだと実感した。

そして、私は今、子供達が後に彼等の子供時代を思い出した時に、こうして胸に響くような体験となる、その大切な種をまいているところなのだと気がつく。

______

母は、元気な声を出しているが、彼女も娘と離れて暮らすことにすっかり慣れてしまっているのだ。
しかし、母が病気であるとか、家族が助けを必要としている場面で、私自身が一人、ドイツで歯を食いしばって、忙しいです、仕事が来ます、頑張っています、子供も育てています、と言ったところで、如何ほどの意味があるのかまったく自信がなくなってしまった。

自分はどうしたい、という次元ではなく、私の役割は何で、それはどこにあるのか、と言った考え方をするべきなのだろうと言うことだけは見えてきたのだが。


しかし、役割を考えるに当たって、子供たちの母であるべきか、母の娘であるべきか、私の場合、それを決して物理的には混合できないところが、本当に苦しくてしかたない。

子供の母としては、教育を考えてどうしてもドイツに居残ろうと思うだろう。私自身としても、どんなに五感から来る故郷を愛おしく思っても、20年以上暮らしてきた中で築いてきた幾ばくかの基盤を捨ててしまうのも怖いのだ。

けれど、私が日本に帰ると、母だけでない、役に立つことが重複して出てくる。
父も、そして母も、誰一人帰って来いとは言わないし、むしろ帰ってくるなと言っているのだが、兄や義姉がどれほど私の帰宅を待ちわびているか知れない。

家庭の事情で、私が帰ると、救われる問題と言うものある。

そして父いわく、

おまえが今までキャリアを積んで、立派に課長だ、何だという立場を持っているのなら、何も言わないが、ここまでやったって、フリーター以上のものにはならないじゃないか。リスクを負って生きるなら、日本だって同じではないか。

このような発言の次の日には、父も帰ってくるなと言うわけで、彼自身孫の将来と自分たちの立場とで、揺れに揺れているのだろう。

しかし、そうなのだ。私の立場など、日本の家族に苦労をかけてしがみつくほどの価値はないのかもしれない。
しいて言えば、子育てのために残ると、たったこれだけの理由のみが、帰国を阻止しているのであり、これが実は最大の問題なのかもしれない。

__________

日常が回りだすと、帰るという言葉が見えないところまで遠のいてしまう。
ドイツでもやっぱり良いや、などとそんなことを思うからではない。しかし、ここにいる限り、私には子供を除いて助けを求めてくる人もいないが、助けを求める人もいない。私の運命は、私だけの手にある。私の責任である代わりに、私が私自身の中心を常に実感しつつ、それを手中に収めたまま、生きているという直接的な人生への関与を実感できる、

日本に行ったらどうであろうか。
役に立っているという満たされ、意義のある実感、そして家族との連帯感、家と言うものを守るという伝統的行為。そういうものを私は得ることができるだろう。

しかし、この、明日もあさっても、どうころんでも、泣いてもわめいても、私が立ち上がらなければ、子供のご飯もなければ、私自身の明日もない、という、ある種ストイックで、純粋な生命の感覚は、もう得ることはできないかもしれない。

それを失ったら、強いと思っている私自身が崩れるようで怖い面もある。
私が日本に帰るならば、私の背中に常にいて、私と常に会話をしてくれる、もう一人の私の中の私という魂の片割れを置いていくことになるのだ。
何故なら、彼女は私が一人になったからこそ、私の中に生まれた。彼女の故郷はドイツなのだ。

まさに、二つの大陸に跨って、大切な過去(両親)と未来(子供)に向かう家族を抱え、どうしていいのか分からない。

日本ではドイツ学園にも行き、申し込み用紙もそろえた。
しかし、まだ申し込めていない。

日本の国土で当然と思える私の人生観や価値観、そして決意なとは、欧州の土地を踏んだ途端にぐらぐらとその足場を失う。

そして、欧州に一週間も滞在すれば、また過去20年の間に、私自身が築いてきたこの場所における価値観や人生観、決意などが、これこそ正しいと言わんばかりに、にょきにょきと芽を出すのであった。

「私」の言う「私」が、これほど意味がなく、筋が通っていない。
決意というものが、実際には少しも決意になっていない。

それとも私が二つあるのだろうか。


そう言いつつ、今晩も夕方は入った月曜納品の仕事を断れず、ワインもそこそこに下準備を始めている。

不満を言いつつ、仕事が来ることがありがたく、頼りにされていることがありがたく、私を探してくれる人がいることがありがたく、それを切断して帰国するのは、身体的な痛みにも感じられるほど、良くしてくれた欧州に対する、まるで裏切り行為のようにも感じてしまう。

そして、手術前に、頻繁に電話が来るようになった母と、電話するたびに、私は元気だし、またカならず元気になるのだから、帰って来ようなんて思わないで、と最後の一言として言うのである。
そして、だからこそ彼女の本心が見えてしまい、迷いを示して、彼女を残酷にも傷つけることだけはやるまいと、大丈夫、準備を進めますという自分に、なんともいえぬ欺瞞を感じて鬱病になりそうなのである。


そういうことで、備忘録。

2010年8月22日日曜日

ONCE

夏休みに実家で見た映画。
私の原点ともいえる単調アコースティックソングの魅力を十分に表現している映画だった。
音楽とその繊細な感情のやり取り、そして野暮と言われようと、愛というものをごく純粋に信じている姿に感銘を受けた。




Lyrics | Glen Hansard - Falling Slowly lyrics

2010年6月16日水曜日

春の病気

五月中、天気が悪く、今頃やっと五月になったような気分である。
そよ風、春の匂い、まぶしい太陽の光、外に繰り出す人々。
すべてが、ほんの少しでも私の心を躍らせる。



詩人の恋 Op. 48
Part 1, Songs 1-6

Im wunderschönen Monat Mai,
いと麗しき五月に
Als alle Knospen sprangen,
全ての蕾が花開いた時
Da ist in meinem Herzen
僕の心の中で
Die Liebe aufgegangen.
愛が芽生えた

Im wunderschönen Monat Mai,
いと麗しき五月に
Als alle Vögel sangen,
全ての鳥たちが歌をさえずった時
Da hab ich ihr gestanden
僕は彼女に
Mein Sehnen und Verlangen.
憧れと想いを打ち明けた

Aus meinen Tränen sprieße
僕の涙から
Viel blühende Blumen hervor,
たくさんの花が咲き出して
Und meine Seufzer werden
そして僕のため息は
Ein Nachtigallenchor.
小夜鳴鳥たちの合唱となる

Und wenn du mich lieb hast, Kindchen,
君が僕のことを好きならば、愛しい子よ
Schenk ich dir die Blumen all,
僕は君にこの花全て贈ろう
Und vor deinem Fenster soll klingen
そして君の窓辺には
Das Lied der Nachtigall.
小夜鳴鳥たちの歌声が響く

Die Rose, die Lilje, die Taube, die Sonne,
バラ、ユリ、鳩、太陽
Die liebt ich einst alle in Liebeswonne.
かつて僕は愛の喜びの中でこれらを愛した
Ich lieb sie nicht mehr, ich liebe alleine
今はもう愛してはいない、僕は
Die Kleine, die Feine, die Reine, die Eine;
小さく、繊細で、純粋な、一人だけを愛している
Sie selber, aller Liebe Bronne,
全ての愛の泉である彼女自身は、
Ist Rose und Lilje und Taube und Sonne.
バラであり、ユリであり、鳩であり、そして太陽なのだ

Wenn ich in deine Augen seh',
僕が君の目の中を覗くとだけで
So schwindet all' mein Leid und Weh;
すべての苦悩と痛みが消えてゆく
Doch wenn ich küße deinen Mund,
僕が君の口にキスをすれば
So werd' ich ganz und gar gesund.
僕の身体中が健康になる

Wenn ich mich lehn' an deine Brust,
僕が君の胸にもたれかかると
Kommt's über mich wie Himmelslust;
無上の幸福が湧き上がってくる
Doch wenn du sprichst: ich liebe dich!
そして君が「あなたを愛しているわ!」と言うならば
So muß ich weinen bitterlich.
僕はさめざめと泣くしかない

Ich will meine Seele tauchen
僕は僕の魂の中に沈み込みたい
In den Kelch der Lilie hinein;
ユリの花房の中に
Die Lilie soll klingend hauchen
そしてユリのため息が響くだろう
Ein Lied von der Liebsten mein.
それは僕の最も愛する人の歌

Das Lied soll schauern und beben
この歌は震えて慄くだろう
Wie der Kuß von ihrem Mund,
彼女の口によるキスのように
Den sie mir einst gegeben
かつて彼女が僕にくれたあの口
In wunderbar süßer Stund'.
素晴らしく甘い時間

Im Rhein, im heiligen Strome,
ライン河の聖なる流れの中に
Da spiegelt sich in den Well'n
波の合間に
Mit seinem großen Dome
あの大きなドームが反射している
Das große, heil'ge Köln.
大きく聖なるケルン

Im Dom da steht ein Bildnis,
ドームの中には肖像画がある
Auf goldenem Leder gemalt;
金色の革に描かれおり
In meines Lebens Wildnis
僕の人生の荒野の中に
Hat's freundlich hinein gestrahlt.
優しくそれは輝き込んできた
Es schweben Blumen und Eng'lein
花や天使が
Um unsre liebe Frau;
僕達の愛する女性の周りに浮遊している
Die Augen, die Lippen, die Wänglein,
目、唇、そして小さな頬は
Die gleichen der Liebsten genau.
最も愛する人のものと同じ


(拙訳)

Dietrich Fischer-Dieskau (baritone)
Gerald Moore (piano)

_____________


サッカー戦で興奮したのだろう。
そうしてワインをいつも少しより大目に呑んだのだ。

子供達とサッカーを観戦しながら食事をし、私の家に連れて帰ってきた。
玄関先で、酔ったために目を潤ませて、私をまじまじと見る。
そして、何かを言いかけた。
いつもの茶番と同じことを、何年も何年も言い続けているあのことが、また口をついて出た。

酔っていても、真面目であっても、悲しく苦しい時にも、彼の気持ちに嘘は見えない。
けれども、いつまで過去に支配されて生きれば良いのだろうか。
過去に終止符を打ちたい自分と同時に、過去をどこまでも引きずって、この悲しみや痛みと共に、
私にとてつもなく深い信頼を与えてくれる見えない糸を切りたくないとも思うのだ。

酔っていても、笑っていても、涙を流していても、辛苦を噛んでいても、私達の空間にあるZuneigungは、必ずいつも存在し、そして決して消えることがない。

茶番だと笑い飛ばして、彼に礼を言って送り出した。

そして、キッチンに行くとそこにはいつの間にか、彼の新しいCDが置いてあったのだ。
以前、これは君のために演奏し、君のために録音したというあのCDが。

次の日彼は突然尋ねてきた。

昨日は悪かった。ああいうことを言ったりして、謝りたかったから立ち寄ったんだ。

良いのよ。何にも気にしていない。もうあなたの発言に惑わされるようなことはなくなったのよ。

そりゃそうだね。

一杯飲まない?


行こうか。

そして二人で向かいのカフェで一杯だけビールを注文した。
まだ太陽が斜めに差しており、手でその光をかざしながら、並木通りの緑をボーっと眺める。
きらきらと光る深緑の葉は、若干オレンジがかって、儚いほど美しかった。
何も話さず、向かい合って座り、目が合えば微笑んだ。
そして、お互い同時に、この素晴らしい友情と関係は、神に感謝しなければならないほどの宝ものなのだと納得しあう。

しかも、一切の言葉を必要とせずに。

これほどの関係は、もう二度と得ることはないだろう。

男女の関係などといった枠組みなどをすっかり取り外してしまったこの関係は、
自由に開放されており、私達の魂は互いの中を行ったり来たりできるのだ。

時に共鳴し合い、融合し合い、そしてまた離れてそれぞれの胸中に帰ってくる。
これは、一切の言葉がないからこそ可能なのかもしれない。
そして、私たちが分離しているからこそ、可能なのかもしれない。

エロスは、どんな影響を与えることもなく、私達の間に扉として存在し、そして私達の信頼を固め、尊敬を保ちつつ、私達の融合を可能にしてくれる。

春には、ある種の魔術が働いているのではないかと、自然の中にふっと小さな命の息吹を見出すたびに、感じてしまうのである。

2010年6月2日水曜日

音楽への道は過酷である。
やるからには、その辺の音楽教師で良いなどという気持ちでは、鄙びた町の片隅の教師にもなれない。芸術の一部であるにもかかわらず、現実は競争に競争を重ねた世界である。
スポーツとの違いはどこにあるかと聞きたい。

また表現といったって、内面に向かう声を音に聴く耳を持った人間は少なく、教師、教授クラスだって、そんな耳を持たないものが大半である。

所謂競技的な教育は、楽譜に書いてあるダイナミクスを大げさに身体で表現し、楽譜を忠実に聴き取れるというレベルであれば良いのである。それが音楽性といわれるもので、和声を汲み取っているか、本人にしかわからぬ程の、実に繊細な音質の変化、音符の間隔、合間の取り方などは、学生である間は、無視したとしても、楽譜に忠実に、大げさな強弱表現をして、大きく体を動かして舞台で堂々と演奏する能力こそ、期待されているのである。

さて、息子は、音楽のエリート校といわれる学校に通っている。自慢でもなんでもない。むしろあんなところに入れた親として、責任を感じている。
その学校で、バリバリに体育会系、つまり学生、生徒の「出来」栄えで、自分のキャリアを証明する教授の門下に入り、全くのダメ息子、音楽性ゼロといわれているのが、うちの息子である。

私は、有名であるとか、テレビなどの露出メディアだとか、そういうメディアに出演している演奏家との共演などを出来るだけ断り続けて、地味に徹し、マスメディアの価値観に、絶対に自分の芸術を持ち込まないという彼の父親と共に学び、共に暮らしてきた人間である。

息子の音楽性を聴く耳は、教授のそれとは真反対の価値観に匹敵し、まったく接点がない。教授が才能あるという子供達こそ、ロボットのように楽譜の強弱をつけて、見せる音楽をするために身体を動かして、絶対に間違えない「安定性」を最強の武器にしている。

私にしてみれば、その子たちの音楽を聴いて、一瞬たりとも、このような繊細な感性はすごい、このような深い情景が聞こえてきたのは初めてだ、といったような感想を持ったことはない。「すごいね、君のテクニック。ドイツ製のロボットのできは、最高レベルで、これなら野太い音で、素晴らしい土のにおいのする完璧音楽マシンになるね。」と言うお墨付きを与えるぐらいである。

息子のは、貧弱で、テクニックも危うく、比べてば見劣りがし、まったくこの怠け者は、聞いているものをひやひやさせる!と、こちらの怒りも心頭なのである。
しかし、音楽への感性、音への感性と言うものがあるとすれば、この息子なのだ。
バリバリと、割れるような野太い音で安全に演奏し、スポーツ選手のような、筋肉質な野心で、負けじと迫ってくる演奏では、私の心は動かない。競技を終えた後、なかなかでしたねという、技術への感心は出てきても、それは音楽だったと言われると、すっかりハテナ印が頭上を飛び交うほど、音楽であったと言う実感がないのである。

息子は、殆ど気付かないポイントとやり方で、感じていることを音にしているのが聞こえる。この子には才能があるなと、「聴く耳」にはわかるのである。
ところが、この怠け者と、この自信のなさから来る不安定性と、このときに繊細すぎる性格では、この過酷なスポーツの世界を生き抜くことは出来ない。

不本意であるが、勝ち抜くのは上述の野太い子供達である。

その中から時々、本物が出るが、そんなのは100分の1ぐらいで、殆どは凡庸な才能をどう扱うかという問題になる。

凡庸な才能と言えば、野太い子達も息子も似たような凡庸な才能である。
しかし、世界は聞こえるもの、見えるもの、迫り来るもの、そして「引っ込み思案」でないものを認めるのである。
それを愛するのがマスメディアの規準なのだ。

息子をこの学校から引っ張り出そうかと思っている。
あの子は、頭の良いしどこでもやっていかれる。
あんな凡庸で繊細な傷つきやすい才能で、このようなスポーツ競技系エリート校にいるのは、確かに難しい。

私は、その内情を知っているからこそ、昨今の主流音楽業界に吐き気がするからこそ、この辞めさせちまおうという病が出てきてしまう。

まあ息子に決心させよう。
あんなにスポーツ競技同様に、「一流音楽家の卵」を排出、あるいは生産し続ける教育とは何かと、段々はらわたが煮えくり返ってくるのである。

2010年5月30日日曜日

鬱状態

こういう曲は、クラシックとは違うが、私の心を良く表現しているような気もする。



自分が鬱病ではないということは、承知している。
泣き言を言うつもりもないし、自分を叱咤する元気すらある。日常生活もそれなりに機能しているのだが、自分自身の内向性をどうしても改善することが出来ない。全てを悲観的に見てしまい、いじけた根性に、自分でも嫌気が指してくるのだ。そしてそれがもう一ヶ月以上続いている。

子供達はすでに自分の支配下にはなく、彼らは行動的には自立してしまった。
しかし、先立つものはなく、映画に行くにも外に行くにも小遣いというものをせびりに来る。
まるでお金が湯水の如く降ってくるとでも思っているのであろうか。

私は、行きたくないと思う日にも、毎日外出して仕事をしてくる。
そして、6時過ぎた頃、疲労を感じながら買い物をし、急いで夕食を作り片付けるともう9時を回るのである。

おいしかった。ありがとう。

子供たちが、こういうまともなことを言えないのは、全く私のしつけが悪いのであろう。
疲れていても、子供にクタクタだと告白したところで、何の交流もできない。子供の話を聞いてやることのほうが先決なのだ。子供はそもそも守られ、平和に育っていく権利があるのだから。

夜、ベッドにPCを持ち込んで、インターネット世界を垣間見たり、楽しみの読書に熱中するのが、私の唯一の逃避方法である。
思いを打ち明ける人間もいないが、例え打ち明ける相手がいたとしても、もうあまりそういう思いに熱をこめて話すような年齢でもない。すべてをそのまま受け入れてしまう自分がいるのである。期待度を下げ、幸福要求度を最低限まで下げいているのである。
そのため、私自身、本当に幸福だとは思うのである。金銭に困ることもなければ、子供も私も父親も健康である。思春期の渦中にあって、様々な問題が押し寄せては来るが、そんなもの、人生を長い目で見れば、おたおたする様なことではない。教育ママの理想もなければ、子供たちにエリートの道を行ってもらおうなどという、エゴイスティックな野心も見栄もないのだ。

人間の価値は、実は生きている、それだけで十分なはずである。
何を成し遂げなくとも、誰のためにならなくとも、社会における安全と平和を乱さない限り、どの人間も、生き続けているということだけで、十分なのだと常に言い聞かせている。
死にたくなる時もあるけれど、授かった命を自ら絶ってしまうのは、根本的に世界や人生そのものの否定になってしまう。自殺の手段すら与えられない情況というものがこの世の中には存在し、やはり私は生を全うすることはやり遂げたいと思うのだ。

子供というのは、やはり親のものなどであったためしはなく、親は授かった子供を大切に自立へ向けてしっかりと育てる義務があるが、子供達は親に礼を尽くす義務もなければ、親に感謝の気持ちを表さなくてはいけないという義務もない。
子供は、社会に出た瞬間に、彼ら自身の人生を生き抜いていかなくてはならず、それ自体が困難であるからには、親という過去を振り返ることなど出来ないのは、当然だろうと思うのだ。

しかしそれでも、私は人生のなんと過酷なことだろうと、改めて思うのである。
毎日単調に仕事に行き、買い物を済ませ、食事を作り、掃除をして瞬く間に日々が過ぎていく。
子供達は成長すればするほど、親から自立し、親に反抗してくるようになる。正しい成長過程である。私も、家庭や家族を守るために労働をし、感謝を期待せずに、毎日謙虚に人に尽くせと言い聞かせている。

それでも、心の奥深くに沈殿した垢の中には、多くの悲しみがあり、孤独があり、失望があり、存在の無意味を感じてしまうのである。

子供達の父親に赤ん坊が生まれ、彼らはこれでれっきとした家族としてのスタートを切ったわけである。今まで、父親の三人の子供を一人で育てている私への関心は高く、気を使ってくれたり、義務を果たしたりする中で、彼の妻の感じていた疎外感、または二番目の存在である自分という感覚は、とても辛かったと思う。
しかし、彼女は今、晴れて家族を持ち、夫と自らの子供を授かり、日々「我が家」という名の下に、人生を構築している最中なのだ。
一方、私の「我が家」は、私自身が崩壊させた過去がある。私の我が家と言う響きには、どれほどの罪悪感がこめられているか、自分には想像できない。

子供達にとっても、父親の家庭と言うものが、段々本物の家庭になってきた。我が家に父親が帰宅したときの、なんとも表現しがたい新鮮な風と言う感覚を私は忘れることができない。それは関係が必ずしも良くない時でさえ、父親の帰宅というのは、ある種の祭りのような空気が漂っていたのである。
そこには、そこはかとなく、人間の小さな営みの幸福というものが、見え隠れしているのであり、子供という動物的臭覚をもった者は、それを素早く嗅ぎ取るのである。

子供達の中心は、もはや私の家に父親が来ることではなく、子供たちが父親宅へ出向き、新しい命を含む、父親の家族の中へ、子供たち自身が融合されると言う形に変化しつつあるのだ。

おそらく、それが私の鬱の中心なのだろうと思う。
気持ちの良い家庭を与えてやることも出来ずに、必死にはした金を稼ぎに走り、毎日栄養のあるものを食べさせようと苦心し、泣き言一つ言わずに、不言実行を唱えて生きていても、一体誰がそれを良し、あるいは悪しとするのであろうか。
これだけ子供達から「我が家」を奪ったことを申し訳なく思いながら、なるべく「普通」に育てようと必死になっているのに、その「必死」は、子供達にとって「当然」であるどころか、それでもまだ何かが欠けていることは否めないのである。

私がどうしても一人では乗り切れないのではないかと言う境地にあっても、父親は不在であるし、一人きりで背中を震わせて泣きながら、子供を守るために、社会に対抗してきたつもりである。子供が情けない問題を起こした時も、何度でも頭を下げて、夜誰にその悔しさを打ち明けることも出来ずに、一人で気晴らしをし、一人きりで泣いてきたのは、この私である。
そして、この私こそ、子供達は今、中途半端、余裕がない、十分に時間を与えてくれない、という刻印を押して、罰しようとしているかのような有様なのである。

この場に及んで、私の存在価値とは、食事と金と掃除ではないかと疑ってしまうのも、無理もないのではないか。
もちろん、子供たちとて、そこまで馬鹿でもないだろうから、後で分かるとか、本心は違うとか、そういうことは想像できるのだが、私だって日々生き抜いていくに渡って、何処かから、おまえはそれでよいのだ、十分頑張っているのだと、許しをもらいたい。

二度目の結婚は、恋愛に過ぎず、子供に何をしてくれたわけでもなく、経済的に世話になったわけでもないので、彼自身は、私の恋人として存在していただけで、子育てに関して、直接支えてもらったことはない。話しても、実用的な側面までで、当然と言えば当然だが、他人の子供のことは、あまり関わりたくいないのである。それは父親と解決してくれという姿勢だった。

つまり、私のこの一人で背負ってきたと言う感覚は、別離以来、一度も中断されたことはない。

私は、私のやり方が正しいと言う話も聞きたくなければ、私自身の人格を肯定してもらう必要も感じない。

ただ、誰かが私を許してくれれば良いと、それだけが私の望みなのだ。
そんなに責めるな、何をしなくても、仕事もなく、食事もできず、寝たきりだとしても、お前が生きているだけで、周囲の人間には十分であり、課せられた任務を実行し続けなければ、価値がないとは思うなと、そういう許しを受けたいのである。

君は、それでよい。


それだけを言って欲しいと思う。
そして、それだけは、誰も言ってくれない。子供達はおそらく、将来礼こそいうことがあるかも知れずとも、許しと言うのは、子供にもらうものではないのだ。
自分を許さなくてはならないのは、実はこの私自身で、それをする自信が微塵もないため、ずっと自分は愛されていないと言う不安があるのである。
私が、立派な家庭を築いて、裕福な生活を与えない限り、子供達は私から去るだろう、つまり私の価値と言うのは、存在しているだけで十分ではない、そう生きているのが現在の私なのである。

どうやって、自分とこれ以上対決し、どうやって自分から自分に許しを与えてよいのか、本当に分からない。
そして、この鬱の渦巻きから、永遠に抜け出すことが出来ずに、他の人間より、おそらくほんの少し多く、人生の過酷さを実感しているのである。