2010年10月11日月曜日

心のシンプルライフ

いよいよ、木々の葉が黄金色に染まってきた。
本格的な秋の到来である。澄み渡るような空であるが、外に出るとその冷たい空気は、衣服を通って肌をひんやりと冷やす。ああ寒いと、そう感じるほどに気温が下降してきた。

それと共に、私の食欲は増し、退屈な季節をやり過ごすために、家の中に楽しみを持って来ようとばかりに、料理にいそしんでいる。この私が、食べ物だとか、料理の献立などに凝るのだから、本当に何があるかわからない。
美味しいものを口に入れている間の幸福感、少しの贅沢がどれほど心を豊かに潤してくれるか、そんなことを実感する熟年になってきたらしい。考えてみれば、食だウェルネスだと言い出す、中年女、それもロハスだとか自然派だとか言う余裕のある、暇人中年女に、自分もなってしまったのかという失望感も伴っている。

ロハスは素敵だと思うし、実際日本に帰ったら、天然生活のような生き方を実践してみたいと、そんなことを一緒にできるパートナーなら良いなと、そんな具体的な夢まで見ながら、暇をつぶしている。

しかし、それも考えてみれば平和ボケしたとぼけた生き方だなとも思うのだ。

ウェルネス。子供のためのヨガ。アーユルヴェーダ。タイマッサージ。フットケア。そしてリラクゼーションという言葉。

本当に簡素な人生を求めれば、毎日善良な心を持って生活し、肉体を使って汗を流し、日々めぐりくる時間を大切にして、周りにいる人間に、思いやりと誠意をもって接してゆくこと。
これこそが、すべてなのではないだろうか。
そして、ここから学びえることこそ、私たちの生活には重要となってくることがあるのではないか。

道具を揃えたり、ステータスとしてのロハス的ライフスタイルなどを追う間は、何もわかっていないという気もして仕方ない。
これは自分に言い聞かせていることでもある。
日常を楽しむとはそういうことで、それなしには生きていかれないのであるが、もっと突き詰めて、簡素に生きていかなければ見えないことが多くあるのではないか。

そんな風に感じてしまう自分がいる。

私が、欧州を去ることに、ある種の恐怖を抱いてしまうのは、実は、そこのところなのではないかと感じている。
私の生活は、東京に住んでいる人から見れば、恐ろしく限られてるのだ。
決まった生活圏でしか動かず、娯楽もないし、日曜日のショッピングもない。テレビも見なければ、外に行くと豊かな商店街があって、暇つぶしができるという気晴らしもない。
自分たちの質素な生活の中で、一様に退屈な一色で染まってしまいそうだからこそ、心の中に目を向けていくしかないという状況になることがしばしばある。
これは学生時代からそうであった。

大学生のころ、日本にいたときは、化粧をしなければ友人ともつりあわない。
このようなショッピングをしなければ、友人とも買い物に行かれない。
このような値段を躊躇しているようでは、友人とお茶を飲むことすらできない。
自分の所属するカテゴリー、階層に見合った生き方や日常を追っていくことで、精一杯だった自分を思い出してしまう。

ところが、ドイツに留学してきて以来、その価値観はすべて、無駄なごみとして葬り去られてしまった。
化粧をせずとも、誰も見なければ何も言わない。むしろしている学生など数少ない。
テレビを持っている学生も当時は少なく、本当に大学にいて、その後は安い夕食を自分の屋根裏部屋で作って、さびしく食べた後は、PCもない時代なので、本当に本を読むしかなかった。そうでなければ、本当にボーっとして考えるしかなかった。
今でもそうなのであるが、ここに住んでいると、お出かけ用の服とか、アクセサリとか、まったく必要がない。演奏会に出すら、ラフないでたちで行っても問題がないのである。

私自身、モノに惚れることがあるという感性を持っている以上、それなりに服も選び、好きなものに囲まれて暮らしているが、所属している社会のグループを意識して日常を合わせていく適応能力を活用したことはない。
それぞれが、所属をまったく考慮せずに、個人の人生で精一杯かもしれない、という印象を受ける。そもそもが、日本よりはそれぞれがおそらくずっと孤独で、それを癒すかのようなパーティーだ、カーニバルだという気もしないでもない。

結局、心理的に私は常に独りきりにされており、所属するべく場所に対する気遣いがまったく抜け落ちているのだ。
その中で生活するとき、生活はそれだけでシンプルになる。
私は今日何をしたいか、すべきなのか。
そのときに、彼らの様子を伺う彼ら、というのが存在しない。
なぜなら、その彼らだと思っている彼らが、こちらの「私」の様子をそんなことぐらいで考慮してこないからである。

その中で生きてきた22年は、非常に大切なものを私の中にもたらした。
孤独を垣間見たことと、自分は、グループに所属することで服や好み、または集団の行動やライフスタイルなどの外見で知ってもらう、表明するものではなく、私個人の発言、具体的な人生の処世術、または具体的な活動を通してのみ、私というものの存在を訴えることができるということである。

日本に帰ると、それを誰も私には期待していない。
社会が私に期待していることは、根本的に、私がここで通り抜けてきたこととは違うことなのだ。
だから、私はまた、会社の人間として、または所属している同僚や友人、または自分の教育や職業に属した人種の送るべき生活、レベル、といったものに適合しようと勤めるということは、わかりきっている。

それが、天然生活やクーネルだとか、そういった希望を持つことによって、すでに予知的に準備をしている、または日本に帰るならば、属さなければやっていかれないことを本能的に知っている私がいるようだ。
そして、その際、この自由と責任と不安と孤独が4つのコンビネーションとして基盤となっている生活に、終止符を打つ。

つまり、精神的シンプルライフ、自分の生活を大切にし、身体を動かし、善良さをわきまえ、隣人に思いやりをもって接していれば良いはずである、という仮説が、見事に壊れてしまうのだ。
それだけでは決して足りない。
和の意識、集団としての団結感。
そんなものは、私には必要ないということはいかにも容易い。
けれど、それに適応しなければ、日本では非社会的人間とみなされてしまう危険がある。
そこで、再び、自分以外の、いや、自分の本質、核の部分にあたる、心の中心を見失いそうになりながらも、集団としての団結感の中に属していくことを選ぶ以外、選択の余地がないのである。


それが寂しいのだろう。

シンプルライフとは、生活スタイルじゃない。
心の中に、人間として最も大切な、しかもおそらくそれはもっとも単純な学びを植えつけた上で、精神的に如何にシンプルで在れるかどうかなのだった、と最近気がついた次第である。

読み直しなし。乱筆、書きなぐり、思いつき、早打ちのまま、記事を投稿します。
お見苦しいところはお許しください。

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