2005年1月31日月曜日

Mozart :映画「Amadeus」

 2005年1月31日
今日もまた雪です。
この間、四回目かなんかだが、また「
Amadeus」を見た。Mozartのあの映画は全く奥が深い。たいした手柄だと思っている。おそらくあのような気性だったろうし、知ることができる以上でも以下でもない情報が元になっているようだ。 コロレド大司祭と大喧嘩をして去ったザルツブルグ。私が伝記、手紙を読み、またゼミで分析した経験から言うと、Mozartには義務と要求のバランスが欠けていたという感じであった。もちろん恐ろしいほどの才能に恵まれていた訳で、本人もそれを承知していたが、やはり時代を突き破るような新しさをもたらす才能と言うものが、社会に認められるのにはかなり時間がかかるようだ。 Mozartの才能を確信していたのは、極限られた者たちだったと思う。妻であるコンスタンツェは、何も批判されるような人間ではないはずだが、彼の才能を自覚するにはあまりにもナイーブな人間だった。彼女の及ぶ範囲ではなかったのだ。 しかし、そのような才能を宿した彼の周りには、すでに深い音楽文化が築かれており、大司祭をはじめとした教会が主権を握っていたザルツブルグにも、大都会であったウィーンにも、それなりの体制があり、そこに属す者には従わなくてはならない規則と言うものがあった。 今の時代もそうだが、芸術だけを追っていては、生活と言うものができない。才能を発揮するには才能を発揮できる場を確保しなくてはならない。そういう自覚が彼にはなかった。当然の権利と言えばそうだが、ある種の傲慢さがあった上、それを全く省みる態度ではなかったのが、色々と摩擦を生んだ。
コロレドは、実に彼の才能をわかっていた者の一人だが、どうもこれがけち臭い人間で、芸術家から生き血を吸い取り、報酬はできるだけ少なくといったところがあったのもいけない。これを調整しようとして苦労したのが、
Mozartの父親だった。Mozartは払いが悪いといっては仕事をしなかったともいえる。また、入った金もことごとくばら撒いてしまった。普通の小心者には信じられない神経である。
こんなこともあって、ウィーンに行くことにしたのだが、それは耳の肥えたウィーンだけあって、大変だった。最初の扱いは素晴らしかったが、彼らは新し物を次々に求める。そのわりには、古いスタイルから抜け出ないと言う、大都会の保守的側面を表しているようなところがあった。
Mozartは本格的に苦労するのだ。 このようなあらすじは誰しも知っているだろうが、やはりその時代背景と、事情の詳細を知っているかいないかで、映画の楽しみも一段と違ってくるのだ。ありきたりの伝記では、こうなってくると足りない。手紙の分析をも盛り込んだ、本格的心理的側面から迫った伝記を読む必要性が出てくる。それが、Wolfgang Hildesheimerのこれ
紹介にもあるように、アポロ的理想像とはかけ離れたMozartの姿を暴き出す。音楽とは何にも関係のない人にもお勧めで
Mozartといえばすごい作品に溢れています。とめもこれがお勧めとはいえない。しかしその中でも、ピアノ協奏曲はやはり彼らしさに溢れています。楽しい性質と、悲しい性質が見事に溶け合っている。それが更には、楽しいメロディーさえ悲しくしか聞こえないと言う作用になるからすごい。20212225は非常に有名なだけでなく、泣けます151617も非常に良い。木管楽器が後ろでばっちり映える。 誰の演奏が良いかと言うことになると、私も一言では言えません。皆それぞれに違った形がありますから。気分と言うこともあるし。 でも、やっぱりオーストリアの人の演奏が断然光っている気がします・・・。問えば、大体絞り込まれると思いますが・・・。ご自分で聞いてください。こういう曲ですと、失敗はないんです。MozartCDに、演奏の云々はあれ、曲が良くなかったということはないはずです。改めてすごい才能を感じます。最敬礼

2005年1月6日木曜日

Kristeller

2005年1月6日

今日はずっと頭に引っかかっていたことがひらめいた。Monteverdiは、彼の人生後半で、すでにバロックの時期にあったにもかかわらず、何故、もう一度マドリガルやオペラの中で、百年以上も前のヒューマニズムの詩人、ペトラルカなどを取り入れる必要があったのかと言うことが分からなかった。何故、イタリアに、ルネッサンスの終わりに、ヒューマニズムのリヴァイヴァルがあったのかと言うことを説明することができない。色々と調べたが、どこにも載っていない・・・。しかし、かの有名なルネッサンス学者、Kristellerの本を開いたら、やはりあった。


 
ルネッサンスでは、すでに音楽理論的には、自由な作法が許され、ポリフォニーからの自立がゆっくりとだが行なわれていた。その続きで器楽音楽がさかんになり、Camerataが生まれ、更にいよいよJacopo Periのエウリディーチェを筆頭に、オペラが成り立つ訳だ。その時代に、非常にポピュラーであったMarinoの詩を使う、Marinismをしかし、古い姿勢の古典的批判家は、徹底的に拒否する。マリにスムは、言葉の技巧と言っても良く、表面的なきらびやかな内容で、たくさんのテーマを扱い、人々の人気であったが、バロックの詩であり、いわゆるルネッサンス初頭のヒューマニズム時代のような、内省的な、精神の奥深くを探究せざるを得ない情感の表現とは全く違うものだった。この古典的批判家たちは、ペトラルカなどの作家の詩は、歌われ演奏されることを目的として書かれたものであるという点から、また再び認識し始めたと言うのだ。 うーん。大体これで説明がつく。オペラが成り立ったことにより、再び、詩と音楽の一体感が問われる様になったということか。しかし、Monteverdiは果たして、1607年にオルフェオがかかれる前に、器楽曲に集中したり、詩と音楽に執着しない作法を取っていたのだろうか・・・。ここのところ、もう少し調べてみる必要あり。記憶には残っていないところが恐ろしい。全部メモっておいたのに。 ところで、ここに、Kristellerの本をご紹介。ルネッサンスとヒューマニズムといったら、この人です。私は、この本から必要な点を発見した訳じゃないが、ドイツ語版のせいか、同様なものが無いので、これをここに付ける。しかし、この一冊で、ルネッサンスの思想は、すべて理解できるであろう。

2005年1月2日日曜日

Monteverdi マドリガル



http://www.amazon.com/Monteverdi-Ottavo-Libro-Madrigali-Vol-1/dp/B000005W5F

2005年1月2日
早速だが、このCDをここに残しておきたい。Monteverdiについて研究するにあたって、いろいろなCDが推薦されていると思うが、私の現在のテーマには、このCDがもっとも興味深い例をそろえている。これは、Monteverdiが1620年代から温めていた、新しい形式が実に良く表現されているもので、いわゆるstile oncitatoがデモンストレートされている。もともとはオーストリアのフェルディナンド二世にささげられたものだが、公式に出版されたのは、フェルディナンド三世の時期になってからで、三十年戦争の勝利を内容に加えて出版された。興奮した形式と呼ばれるが、もともとは、百年前に過ぎ去ったヒューマニズムの流行にのっとって、ギリシア古典時代のピリキウスの典型的戦争舞踏のリズムを再生しようとすることをモンテヴェルディは試みた。全音を十六分音符に分解することによって、興奮に対する音楽的表現を作り出したと言える。しかし本当の意味でのオリジナリティーは、モンテヴェルディが愛の詩の間にこそ、この戦争的リズムを取り入れたことにある。この時期の詩は、愛に敵対心を持って歌われることが多く、心を守る防御の壁を打ち破るものが愛だとされている傾向が見られる。その愛による心の乱れの部分に、この新しいスタイルが戦争的リズムをとって取り入れられ、いわゆる、メタファーとしての役割を果たしていると言えよう。つまり、愛によってかもし出される興奮を戦争的リズムが表しているといえる。このメタファーの使用、ギリシア古典の伝統の再使用などは、典型的なヒューマニズムの動きであり、1450年から150年にわたって、最盛期を迎えていたこの活動がすっかり過ぎ去ったあとに、Monteverdiが、もう一度このようなものを取り入れたことは、興味深い。彼は、実際、ルネッサンスに終焉の鍵を渡した人間で、バロックへとつないだ作曲家である。それが、こうして古典から生まれだした新しいスタイルを発展させたことによって、音楽史上、全く新しいディメンションが生まれたことは実に素晴らしい現象だ。 色々な録音も出ている模様だが、私はこのCDを強くお勧めしたい。学問的な興味が無くても、非常に美しい曲がそろっている。チェンバリスト兼指揮を受け持つRinaldo Alessandriniは、Monteverdiの第一人者と言っても良く、素晴らしい音質で録音され、スタイル的にも、他の音楽家の質も、素晴らしい出来上がりだと思っている。決め手はテンポ感で、速すぎても、遅すぎてもいけない。それには、エポックのスタイルを熟知している必要があり、彼はその点で素晴らしい感覚を見せていると私は思う。ルネッサンス時代の歌曲がすべてそうであるように、詩が躍り出るように前面に出て、音楽がその内容を更に強調するような解釈がなされなくてはいけない。その実力をアレッサンドリーニ率いるEnsemble Concerto Italianoは最大限に発揮している。音楽と詩が織り成す、魔術的とも言える、命のみなぎりと、力強さの効果はここで十分に証明され、これらがMonteverdiのもっとも生き生きとした作品に属することが分かるだろう。