2010年4月30日金曜日

身体的なもの

とにかく朝起きてから、今日はダメだ、今日こそはつぶれるのだと、それだけを実感していた。
とてつもない荒野に一人きりで置き去りにされたような孤独感と共に起き、いや起きることもできなかった。仕事だけが支えで、締め切りに追われたり、学校に教えに行くことが、もはや私の救いであり、社会との唯一のか細いつながりになってしまった。

August Rodin The Kissers


そうして自分の教室に入る。二人の生徒から断りがあり、建物の中庭に面した窓を開けた。今日は20度以上気温が上がり、すっかり春爛漫といった風情であった。

私も去年買った淡い黄色い革のバレリーナを素足に履いて、珍しくスカートをひらつかせて家を出たのだ。
窓の外には、小さな子供達が砂場に集まって遊んでいる。母親が何人か一緒に砂場に腰を下ろして、日向ぼっこをしていた。すっかり緑が色濃くなった。

10日ぐらい前だろうか、ARTEである番組を見た。
それは、Gerard Depardieuの息子、Guilleum Depardieuに関する小さなドキュメンタリ番組だった。彼のデビュー作は、16世紀のガンバ奏者であったSt. Colombeの映画であり、Marin Maraisの若い時期を演じていた。それ以来、彼のファンになった私は、ことあるごとに彼の映像を見てきた。
その彼が、バイクの事故を起こし膝を怪我した。手術の際にMRSAというバクテリアに感染し、それから苦悩の年月が始まった。
痛みと炎症の繰り返しに耐えかねた彼は、右足を切断し、映画界に復帰したが、おそらくMRSAによる肺炎で3日以内に死亡してしまった。
その彼の映像が、ドキュメンタリーとしてテレビに流れ、どうしようもなく悲しい気持ちになってしまった。若く、健康で、男性的な人間が、三日以内で亡くなったことも悲しければ、彼のように自虐に近い形で、仕事に闘魂し、よき父であろうと努力しつつ、離別も経験し、MRSA被害者の会も設立して活動していたという、その溢れんばかりの生きる活力が消えたということが信じがたかった。

教室の中で、開け放った窓から聞こえてくる、屈託のない子供達の声を背後に、私は椅子にポツリと座ったまま、ピアノを弾くでもなければ、本を読むでもなく、ただそこにじっと張り付いてしまったように座っているだけだった。

一昨日、私は最終的な家の整理のために、夫宅へ向かった。一人で以前一緒に住んでいた家に行き、その残骸を見ながら、子供達の残りの玩具や私のキッチン用品など、細かいものの整理をする気力はなかった。その日のことを考えただけでも、胃痛が激しくなって、吐き気をもよおしたほどである。夫を見たくないのではない。夫を見るのが怖いのだった。何かを感じてしまうという心の動きが怖い。

情けない私は、学校の引けた真ん中の息子を手伝いに連れて作業に向かった。家の中は男の住処と化しており、私が一緒に住んでいた頃よりもすっかりくすんでしまった。地下倉庫の整理も終え、過去にじっくりと対面し、できる限りのものを捨てようと心がけて、箱をまとめた後、息子とま再び階上の部屋へ戻った。間もなくして夫も帰宅した。
3ヶ月ぐらい会っていなかったのだ。様々な事情が重なって、会うはずが会えなくなり、会うつもりが会いたくなくなって、半ば自然消滅にも似た中途半端な状態である。
血色の良い顔をした夫は、挨拶の抱擁をし、私の仕事ぶりを察するや、何か飲んだ方がよい、疲れているようじゃないかと、私の顔を覗き込んだ。

その目は、私の知っているあの目だった。あの優しい犬のように従順な目だったのだ。

その目を見たとき、私は大きなショックを受けた。それこそコミュニケーションだったのだ。言葉のない、しかし明らかに私の心を動かしたコミュニケーションだった。

夫は、驚くべき金銭感覚と、驚くべき楽天的な性格により、様々な問題を抱え込んでいる。私達が知り合った頃、すでにその問題は頭角を現していたが、そんなこと一々恋人達は話題にしなかった。
それらの生活上の問題が、私たちを遠ざけたのかどうか、今の段階では分からない。
しかし夫との関係は、以前のような魂だとか精神だとか、そういった太い縄にがんじがらめにされたような感覚は一切ないのだが、それでも何かが強く私達を惹きつけている。

椅子の上にずっしりと腰をかけたままの私の目には、自分の膝、足元、そして胸元が目に入った。春らしい陽気なので、いつものように子悪魔さながらに黒一色ではあったが、ジャージーのフレアスカートにぴったりとした胸がV字に開いたトップに小さなボレロを着ていた。何ヶ月ぶりの素足が憎らしかった。脚を伸ばした時に見える自分のふくらはぎも憎らしければ、Vカットから見える胸のふくらみすら憎らしかった。特に胸は、若い頃の新鮮さは失せ、脂がのって自慢げにすら見えた。
こういう自分の姿をすっかり持て余しながら、私は自分が女であることを実感し、今や13歳の息子にも追い越された私は、この身体で意地になって地面に足を付き、一人で肩をいからせながら生きているのかと思ったら、うんざりしてしまった。

あの俳優ギヨームのせいなのだ。なぜってギヨームは、夫が若かった頃に瓜二つなのである。
あれから、ギヨームのTVでの姿がことあるごとに私の目の前にちらついた。彼の熱い声、彼の無防備な態度、彼の自分勝手な暴走。そういったものが彼 の見かけと一体となって、私の目の前に何度もちらついたのだ。
私は、そして必ず連想する夫のことも思い出さずに入られなかった。

夫の目を見た瞬間、夫の腕の感触を実感し、夫の髪の毛の香りを実感した。そして、それは全て過去の遺産のように、私からは手の届かぬほど遠いところにあった。あの目は、まるで妹や他人を気遣うように優しかったが、それは、私達の間にすでに何も熱いものがなくなってしまったからであろう。


椅子の上に座ったまま、自分がまぎれもない女性なのだと実感した瞬間、私と夫は、身体的に結ばれあっていた、そしてそれだけが理由なのだと直感した。

どれだけ愛し合っていても、もうどうしても触れることはできないと言うことはある。私はそれも知っている。
しかし、愛し合っていなくとも、身体同士が触れ合いたいと、まるで細胞が声を出しているように聞こえることもある。見かけが素晴らしいのでもない、立ち居振る舞いが洒落ているのでもない。肌が合う、そういう言葉ともまったく違う。
性欲というような具体的な感覚でもなく、通り過ぎたり、向かい合ったりした瞬間に、極自然に身体同士が磁石のように引きあってしまう。そういう感覚であり、求め合っているというような熱さはどこにも見当たらないのである。

一緒にいる、隣同士にいる体温を感じあうことで、問題を解決し、あるいは問題に目をつぶり、今までやってきた。けれど空間を別にしてしまったら、そこには何も残らなかったのである。身体を切り離したら、何もなくなってしまったという、ぞっとするような話だったのだ。

どれだけ楽しい日々であったか、旅行に行った思い出や、議論に議論を重ねて闘争しあった思い出もある。しかしその密度は、すっかり影をなくして、実質何が残ったのか皆目分からない。身体性が保障される間、このような交流が意味をもっていたのである。

分かり合えるからセックスをする。だからお互いが満足するというのが図式である。

セックスをするから口語面での交流もできる、だから満足するという図式だったのだと、今分かった。

だからといって身体的な面から、よりを戻そうなどと考えたこともない。一度壊れてしまったものは、通常の図式でも、第一段階の分かり合うという言葉ですらブロックされているのだ。

今、私は夫に抱きしめられたとしても、おそらく私には、二度と血は通わないのだと思う。もう血は冷めてしまっているのだ。

しかし、彼を見るたびに感じる欠乏感は、分かり合える人がいないという次元ではない。そうではなくて、すれ違うたび、目を見るたびに吸い寄せられそうになる身体を制して動かさずにいる際に感じる、身体自体の欠乏感なのだ。そしてそれは必ずしも性欲などのように具体化しておらず、本当に私と言う身体が、硬い地面に棒立ちになって途方にくれているような、そういった寂しさなのである。

最初の夫の時とは比べ物にならないほど、浅い層で起きている感情の動きだ。
どこかを切り裂いてくるような痛みはない。
愛ではない、愛したこともないという冷たい言葉を吐いていた私は、夫に会わなかった3ヶ月、すっかり落ち着いてしまった自分の気持ちを、整理がついたものと認めていた。
ところが、会ってみてはっきりとわかった。整理などついていない、整理など付けられない何か言葉には言い表せない、自分でも理解のできない磁石が今でも働いているということを実感してしまった。
これが、身体的な愛だったのかもしれないと思った時、私はなんとも言えず悲しくなった。
どんなに魂の住む次元が違う男でも、どんなに生活感覚の違う男でも、私を何年間も暖めることはできたのだと。空洞のような心を抱えた私の過去8年は、確かに魂の枯れ切った時代であった。けれど、私の身体は常暖められていたのだ。私はずっと女性であったし、私はずっと抱きしめられていた。
私の感情の氷山の一角しか理解できない夫であっただけに、私は感情的には、完全に自立していた。感情的には、彼は常に、一番遠い地点に見えないような場所に立っていた。けれど、私達はそれを体温で呼び戻しあったのだ。

時々、私の身体が私に囁く。
自分を硬直させてはだめだと。

私はしなやかな女性であるべきだし、女性以外にはどう転んでもなれない。

2010年4月23日金曜日

Julian Lennon雑考 ― オイディプスの旅を終えた彼のトラウマ

全然関係ないのだが、ちょっと思ったことで、それをどこに書いていいやら、ここに記すしかないの で記録する。





私が絶大なるレノンファンであるのは、周知の事実である。
なぜ、彼の前妻シンシアの息子が、音楽活動をしていたにもかかわらず、突然その活動を止め、世界から姿を消し、レストランなど経営し、マイスペースあたりでしか声を聞くことができなくなったのか、私にはなかなか理解できずにいた。
彼は、私より数年年上だが、ほぼ同世代である。

それなりの才能を授かって、デビューで花開いたにもかかわらず、かなりたってからインタビューで、父親を許せないと言うようなことを堂々と語っていたのには驚いた。その頃、彼はもう40過ぎていたのではなかろうか。

ここのところ、おそらく2005年ごろ、母親が再び、「JOHN」という題名で当時のお互いのバイオグラフィーのようなものを執筆出版したのをきっかけに、息子 のJulianもメディアに顔を出すようになった。

母親を全面的に支えており、レノン所有物の展示会だのなんだの、そういったイヴェントも、レノンの故郷リヴァプールにて協力して企画してるようだ。


彼女の本を読んだが、正直な人柄と素直な性格がにじみ出ており、批判に値するような毒を持たないため、メディアでも彼女に対する扱いは温厚である。
しかし文章そのものは、作文に近く、心に響く部分は多くあるのだが、自分の思考や苦しみ、悩みを深く掘り下げてみると言う経験が少ないのか、能力が少ないのか、果てはそういうことはしないと言う合理主義なのか、あまり作文以上の力量を見せることはできなかったと言うほどの内容であった。

レノンのような人間と離婚劇をしたからには、もっと精神的葛藤 や、精神的やり取り、修羅に至るようななじり合いさえあったっておかしくない。それほど彼は複雑であるし、自分勝手であり、しかし非常に傷つきやすく、不 安定な精神状態を抱えている男であった。

それが、彼女は始終何も言わないで時が過ぎていくのである。レノンが勝手に洋子を連れ込んで、彼女は怒りで出て行くが、彼にそれをぶつけないのである。最初に出会った頃から、彼のことを恐ろしいと思っていたという反面があったが、それは、終わりに至 るまでそうであったらしい。
 

と言うことは、彼女自身、あそこまでドラマチックな人生劇の裏で結婚生活を送っていたにもかかわらず、レノンとは共に歩 まなかった、あるいは歩めなかったのではないかと言う感じがする。

レノンは、家にいる時間は、初期の頃に限ればほとんど無かったし、サテリコンのような様で、酷い遊びを行っていたと言うことにも、ビートルズの女性陣は、納得づくで我慢せねばならないと言う面もあったろう。
しかしながら、 大人に成長していく二人が、本当に精神的につながっていたのなら、共に歩んだ軌跡というものがもうちょっと見えてもよさそうなものであるが、彼女の言葉からは、傍観し続け、我慢し続け、おとなしくし続けてきたという時間しか見えない。

おそらく彼女には物申す内容すら浮かばないほど、素直な人間で、捨て去 る努力を要するようなプライドの高さすら持ち合わせていなかったのであろう。

だから、若かりし頃のレノンと共に暮らすことが可能であったのだろうし、レノンも彼女をかわいらしいと感じていたに違いない。

しかし、猛々しい若者も、年齢と共に成長していくのは止むを得な い。レノンは、基本的に恐ろしく内向的なので、実は内へ内へと考えを深めていくタイプである。社交家で、華々しい成功を求め、真のエンターテイナーと呼べ るマッカートニーとは、根本的に違うのである。

ヒットソングを書けないと暫し悩んだこともあったレノンだが、彼の曲はもっと食いついてく るように語り掛けてくる。同じ感性を持った人間には、たまらないほど鋭い力で、問いかけてくるのである。
彼の音楽の軌跡を見ても明らかだが、彼自身の心の動きと彼の創作活動がシンクロしている。彼の音楽は多くの場合、カタルシス的に自分の療法として現れていることがほとんどである。それに対しマッ カートニーは、常に安定して世の中の需要にぴったりと適したヒットソングを書いてきた。

単純に言えば、価値の中心が外にある場合は外向的であるし、価値観が内面に向いている場合は、内向的といえる。その意味で、レノンとマッカートニーは、対極にあったといっても良い。

さて、その前妻が、ドラッグやインドへの傾倒を通して、レノンの内向的な精神的活動が深まていく様を指を咥えて見ているしかなかったと言うのは、信じがた いのだが、事実かもしれないと思うようになった。
彼女は、自著の中で、ドラッグさえなかったら、私達はまだ一緒だったかもしれないと言うことを言っているが、それを読んだ時、私はその短絡的な解釈にほとんどショックを受けた。
いかに当事者だとしても、それほどまでに関係の終焉を簡潔化 して納得するのは、なかなか難しい。

私も離婚経験者だが、その前後につむぎだした思考の糸は、無限に近く、ああでもない、こうでもないと自分に原因を探し、相手に原因を探し、世代に答えを求め、文化背景に影響を探し、果てはさかのぼって互いの育ちに埋められぬ穴を見つけ、また自分の身に帰ってき て、二人の成長線を心に描き、どこでそれてしまったのかと、その思考趣向の相違にまで思いをめぐらせた。

それは、決して解けることのないこんがらがった毛糸のようなカオスであった。

決して、あそこがこうでなかったらとか、あの時ああしていたらで止められるような、または方向転換できるような、そんな問題ではなかった。それなら離婚などしなくてすんだのだ。

問題は、複雑で入り組んでおり、様々な要素が絡み合っ て、そうならざるを得ないからこそ、離婚に至ったのである。彼女のように、ドラッグさえなかったらと、離婚後40年たった今でもそう信じているとしたら、 やはりそのシンプルな考え方や、ナイーブな性質にこそ、離婚の原因があったのではないかとまで言いたくなってくる。

レノンは、複雑怪奇で インテリな人間であったことを肝に銘じたい。

さて、話が飛んでばかりいるが、今日はこのことに関して書きたいと思い、そ の気力があるのでどんどん書いてしまいたいと思う。

その息子Julianは、この母を全面的に支えているとは書いた。二人で肩を組ん で、母の著書を紹介し、サイン会や講演に出席し、レノンの思い出話を語る。
そして、彼らのファンは、洋子を忌み嫌っている場合がほとんどである。

はっ きり言って、私は洋子に対して色々と思いがあり、決して彼女のことを認めたいとは思わない。
でも、この二人の姿を見ていて、微笑ましいと思って も、応援したいとは思えないのである。

そんなに君達は傷つけられ、虐げられたのか。だとしたら、今のその姿も理解できるが、実際人生を通 して、未だにそのテーマにしがみついて、本を書いたりインタビューで父を許せないと語るほど、トラウマになったのであろうか。
その辺が、私にはい まひとつ理解できなかったのである。

もちろん、私が伝記と言う伝記を全部読みつくし、記事という記事も読みつくしていると言う事実があっても、理解できない。

今晩、携帯のプッシュ機能が鳴り、JulianのFacebookがアップされたと言う知らせが入る。見に行ってみると、新曲が掲載されており、聞いてみると、これまた有名なBeatlesの曲、Lucy In The Sky With DiamondsのLucyは、Julianの当時の幼馴染であったのだが、そのLucyと言う名前を題名にした新曲なのである。

またかよ…

思わずそうつぶやきたくもなる。
まあ、この実在Lucyさんは、この秋若くして亡くなったばかりなので、彼女にささげた歌なのかもしれない。
それにしても、そのコメントに「もう父を許せる」と言うようなことが書いてあって、彼は46だかなんだかになるはずなのだが、そこま で時間がかかるものかと唖然としてしまった。

しかし、ネックになった理由と言うのがごく簡潔に書かれている。
父 はインタビューで語った。

洋子との息子Seanは、はっきりと望んだ子である。
Julianは、望まれた子ではなかった。事故 だったんだ。

この後、NYに渡ったレノンは、洋子との生活、洋子とのファミリーに心身共に費やし、Julianに会ったのは、離婚後暗殺 されるまで7回だったと言う話もある。
それが彼のトラウマになっているということらしい。
それは、何度も何度も読んでいたことだったが、今晩、突然、

いや、それもわかるかもしれない。それももっともかもしれない。

そんなことを思ってしまったのである。
な ぜだかは自分でもわからない。なぜ今だからわかると言う心境なのか、私にはわからない。

しかし、これはやはり重大なことである。直球でど 正直なレノンは、しばしばこのような発言をした。しかし、これが彼の息子の人生最大のトラウマになろうとは、彼自身思いもしなかったことであろう。

結 局、こんなことではないだろうか。

私には常々考えてきたテーマがある。自分では決して左右することのできない運命の一つに、生まれと言うものが ある。
そして、もしその生まれそのものに、不幸の種がまかれていたとしたら、具体的に言えば、望まれなかった命としてこの世に生を受けた場合、人 間には、根本的に生きていく力を授かっているのかと言うことである。

子供の教育は三歳児までと言うし、生まれてきた子供が3歳になるまで は、愛情をしっかりと与え、自己意識を安定させることが大切だとはよく言われているが、そういうことではなく、もし3歳児まで溢れるような愛情を受けて 育ったとしても、その生まれが実は望まれていなかった場合、その子が逆境にぶつかったときに、まるで自分では理解できない地の底から湧き出るような、いわ ば人生を生き延びていく生命力が、本当に望まれた子供達と同じように備わっているのか、ということをずっと問い続けてきた。

そして、今晩 私は、自分の生を父親から、こういとも簡単に公で「Julianは望んだ子じゃなかった」、

などと言われたら、もしかしたら地面にどんどんひびが入っ て、自分が恐ろしく小さく思え、周りの人間の顔もまともに見れないような、恐怖感を覚えるかもしれない、そんなことがあってもおかしくないと、感覚的に理解できた。

どんなに自分より劣った子でも、醜い子でも、恵まれていない子でも、彼らには、おそらくその子を望んだ親がいる。
しか し、僕にわかっていることは、僕は親に望まれなかったと言うことだ。

もし、これが事実なら、自分の存在価値を一体なにを物差しにして 計って良いのかわからなくなるだろう。生まれるということは、自然界の現象で、そこに望むも望まれるも、そんな倫理的解釈はもともとする必要の無いもので ある。でも、原始人じゃあるまいし、核家族のなか、小さな子供が育っていくときに、父親がインパクトの強い女性とさっさと外国に行ってしまい、インタ ビューで自分のことを望まなかったと答え、新しい女性と、不妊治療を重ねて念願の一人息子をもうけたという話を聞いて育ったとなれば、46のいい歳をした男が、未だに父を許すの許さないのと言うのもわかるような気がしてきた。

結局、私の話題はまた、レノンの前妻のCynthiaに戻るので ある。
彼女は、前述したような通りの女性で、何の罪も無い、まさに無実の人である。息子にも愛情を注ぎ続けて、立派な大人に育て上げたのである。 彼女が、弱い人間なのかといえば、決して弱いのではない。言うべきことを言わずに、そのまま「離婚されて」来た女性というと、まるで弱弱しい影の薄い人間 に聞こえるが、彼女は決してそんなに弱い人間ではないのである。

どこかそれでも芯が通っていて、経済的も自立し(レノンからは信じられな い微々たるお金しかもらっていなかった)、再婚相手も見つけるほどのバイタリティのある女性なのだ。話し方も、若干静かだが、抑揚があり笑ったり、泣いた り、とても豊かな感情のある女性だなとすぐにわかる。

しかし、生き延びる力と、自己意識の高さ、安定感は違うのだ。結果から言うと、ナル システィックな母親が子育てをすると、難しいと言うことである。ナルシズムと言う意味は、決して自己愛が強いと言う病理学的な意味じゃない。そうじゃなく て、他人の補償作用がないと、自分に自信が持てないという意味で。

自分が安定するために、または自分がこれでいいのだと思うために、他人の感情や、他人の言葉によってそれを一々確認しないと、確信できない人が多くいる。
私もそんな一人である。
子供は鋭く母親のそういった心情を察知して、母親が必要としている感情のみ表示し、それ以外の感情を抑圧したりする。母親のききたい言葉をさっと言って、本当は言いたいことを我慢して いたりする。
それは良い子でいたいという欲求からなのであるが、良い子でいたいのはなぜか。
なぜなら、母親自身が自分の精神状態や、人間 形成や、人生の問題で手一杯で、子供のことを愛しいと思っても、子供からもママはこれでいいのだろうか、ママのこと好き?、ママはがんばっている?などと 無言の質問を突きつけていることがあるのだ。
そして、このような母親もまた、同じような母親に育てられた犠牲者といってもいいらしい。

Julian の母には、最低限の性格的強さや、人間としての張りは備わっていたが、自信の無さにかけては、トロフィーものといっても良いほど、セルフエスティームが低 かったことは間違えない。それはレノンの度重なる浮気もあったろうし、アイドルとしての夫を失う不安もあったという様々な背景が複雑に絡み合って、彼女の セルフエスティームの低さは改善されることが無かったのであろう。そういう母の元に、大切に育てられたJulianは、父親の発言を知って、俺にはそんな 発言、どうだって良いと言える地盤が無かった。一年、二年で消化できる地盤が無かったのかもしれないと、ふっとひらめいたのだ。

地盤がな いといえば、まるで彼も軟弱ひ弱な感じになってしまうが、あの父とそれなりに人生を乗り越えてきた母親との子である。簡単につぶれるような貧弱な性格では ないはずだ。しかし、結局感受性が強いから、つまり非常に繊細な人間だから、一言一言が余計に突き刺さるのであろう。そして一々貴人の価値と結び付けてし まうのである。

それこそが、ナルシシスティックな母親に育てられたことの証であるし、無神経な子供なら、そんな母親の無言の問いかけを踏み潰すよ うに、無神経そのものに図太く育っていくのであるが、才能があったり、繊細で利口な子供ほど、そのコミュニケーションの「裏側」にある言葉、行間のような ものを本能的に読み取るのである。

Julianは、自分の生まれに付随した「傷」に深く傷ついた。
そんなにみすぼらし子供でも、親に望ま れたなら胸を堂々と張って生きていけば良い。しかし、「僕は、父親にも母親にも望まれなかった」と悟りきってしまったら、それは思春期の子供には、突き刺さる ような痛みであろうと思う。子供時代に一回終止符を打って、思春期、青年期に移行する際、子供時代を締めくくれない子供がおり、中には自殺してしまう子供達も多くいるという。

Julianは自殺こそしなかったが、精神的にその代わり、彼は父親を殺したのだと思う。オイディプスのようであるが。その父親と今和解することができると、そう彼は語っているのだとわかってきた。

それにしても、悲劇的な話である。大スターの息子だか らゆえもあるし、離婚後、母子家庭ではないが、母だけが肉親であるという家庭に育った男児の問題でもあるし、もっともいけないのは、実父が養育に関する一 切を経済的なことを除いて、拒否したと言う点であろう。


ところで、無駄話だが、この離婚で彼女がもらった慰謝料というのは、レノ ンが洋子の前夫に払った慰謝料の3分の1とも4分の1とも言われている。Julianへの養育費も、スーパスターからは考えられないほど、微々たる物であ るらしい。


Julianの歌声を聴いた。それは張りを失い、つやを失い、ほとんど震えているように不安定な歌声であった。彼の顔 は、父親よりもいっそう母親に似ており、声色も父親とは根本的にかけ離れたものである。

その男が、父親の歌を題材に、今和解できると銘 打って、小気味良い明るいポップソングをリリースしたという。
私は、なんとも言えない心苦しい気持ちになって、ほとんど同情の気持ちがわいてき て、これを書いているという次第である。

ご苦労様でした。
親にされた仕打ちというのは酷い言い方だが、親が偉大なのも楽ではな い。また、レノンもそんな発言を世界に向かって発言するようなナイーブな面を持っていたのだからしょうがない。こういうときこそ、抑制、自己制御という言 葉を思い出さないといけないと思う。

自分に正直で、心に正直に洗いざらい言えば許されるということは、大間違いである。

正直さゆ えに傷つく人が多くいる。
息子はある意味、この言葉の犠牲になって、生まれを検証する作業に入ってしまった。
そこで母親が安定して、精神的に極め て健康な人間でなくとも、せめて無神経な図太さでも持っていてくれたならまだしも、繊細で感受性が強い上、息子の自己肯定の答えを与えられるような土台な ど持っているはずもなかったのである。彼女こそ、私はこれでいいのかと、更に問い続ける人生に突入しており、Julianが青春時代多かれ少なかれドロッ プアウトしたのは、もっともな結果だったといえる。

50を前に、彼はオイディプス同様、放浪のたびを終えたらしい。失明こそしていないが、オイディプスがテゼウスに保護されたように、彼にも聖林のような、聖家があるのであろうか。
ちなみに、彼は結婚もしていなければ、子供もいな い。無論、そこはオイディプスと違うのであるが、Julianがそこに至れなかった理由、つまり彼の放浪の旅の全面が、今晩パーッと視界に広がった。

ある意味、これからもこうして皺を増やしながらも、父親の影との戦いをまだ続けていくのかと思うと落ち込むのだが、運命は本当に厳しい。

父親を殺した後の旅は終えたのだ。
早く聖林に入って、女神達となぞの死を遂げるような方向に進んでもらいたいと思う。

洋子のこと、レノンと彼女の息子Seanのことにも、こうして綴ってきたこと以上の思いがある。

また体力と気力があるときに、書いてみた い。


才能のある子供のドラマ

かなり前、こんな本を読んだ。
あまりにも落ち込むので、読んだ後しばらく放って置いた。
ピアノの上にあったので、再び広げてみた。内容を忘れないように、最後のまとめをメモ的に記す。

ちなみに日本語のタイトルは、「才能のある子供のドラマ」。




子供時代のあの不幸な時期にいつも感じていたものは、そう、恐怖と不安感だったのだ。
僕自身が、禁止され、犯罪的だとまで感じていた、あの罰を受ける恐怖、自らの良心に対する不安、自らの魂が荒れることに対する不安の数々…
Hermann Hesse



母親が全くナルシスティックでないと言うことは不可能である。と言うことは、多かれ少なかれ、子供達は、繊細であったり、知能が高かったり、周りを察する能力に優れているほど、母親自身の欲求に気付き、それを満たすように対応してしまう。自らの感情を母親との共有した感情として体験できなかった子供は、その感情をどんどん抑圧してゆき、自らが失望しないように、その加害者とも言える母親を理想化してしまう。Habermasが「Die Universalitäts der Hermeneutik」の中で"Spiel"と呼んだこの関係のゲームの意義を解読するのは、精神分析を使用するしかない。「マスクをかぶったセルフ(自己)」は、深く無意識に埋もれてしまったまま、未知の一部としてずっと認識されることはないのである。それが、空虚という感情になって表出し、鬱へと発展してゆく。

母親が不安の多き時代に子育てを行うだけで、子供はすでに母親の不安を取り除こうと、つまり母親のために存在することを始めてしまうのである。

そして、特別でなくてはいけない自分、平均的な自分を許容できなくなり、壮大な自分を多くは、インテレクチャルな道を取得することで可能にしてゆく。そしてナスシズムスとデプレッションの狭間に落ち込む。

これらが、子供の虐待や苛めの現象をつまり防ぐには、犠牲者がこの循環を絶つ必要がある。つまり、分析を受け、抑圧され全く体験されることのなかった真の自分を呼び起こすしかないと言うのだが。

彼女は、Winnicott派のような気がする。



私のメモは、ドイツ語からなので、訳書とは異なります。

  1. 子供には、常に罪がない
  2. 全ての子供は、安全、安心感、保護、接触、誠実さ、暖かさ、優しさを絶対的に必要としている
  3. この要求は滅多に満たされることはなく、しばしば大人たち自身の目的のために悪用される(子供虐待のトラウマ)
  4. 虐待は生涯にわたる影響を及ぼす
  5. 社会は大人の側に立ち、子供の受けた行為に対して子供を非難する
  6. 子供が犠牲者となる事実は、従来どおり否定される
  7. 従ってこの犠牲によるその後の経過は見過ごされる
  8. 社会から見放された子供は、トラウマを抑圧し、加害者を理想像に仕立て上げる以外選択がない
  9. 抑圧は、ノイローゼ、精神異常、心身障害、さらに犯罪に導く
  10. ノイローゼでは、独自の要求が抑圧・否定され、その代わり罪の意識を感じるようになる
  11. 精神異常では、虐待が妄想へと変移する
  12.  心身障害では、虐待の痛みに苦むが、実際の苦しみの原因は隠されたままになる
  13. 犯罪では、当惑、誘惑、虐待が繰り返し、新しい形で演じられる
  14. セラピーによる治療努力は、患者の子供時代の真実が否定されない場合にのみ、効果があるとされる
  15. 「小児性欲」の精神分析理論は、社会の盲目さを助長することになり、子供への性的虐待を正当化する。子供を罰することになり、大人は罪を逃れる結果となる
  16. 空想は、生存し続けるための役割を果たし、耐えられない子供時代の現実を明確に述べていく助けとなり、更にはそれを隠したり無害としてしまう。所謂「でっちあげられた」妄想の体験またはトラウマが、真実のトラウマを覆い隠してしまう
  17. 文学、芸術、神話、夢の中には、しばしば幼少時の抑圧された経験が、シンボルの形をとって現れる
  18. 子供の置かれた本当の状況に対する我々の慢性的な無知によって、我々の文化に潜むこの苦悶のシンボル的証言は、寛容されてしまうだけでなく、尊重されてしまうのだ。この暗号化されたメッセージの裏にある真実の背景が理解されることがあるとすれば、それはおそらく社会から拒絶されてしまうだろう
  19.  犯罪行為の結果は、加害者と犠牲者が盲目で、混乱していたと言う事実を通して取り消されることはない
  20. 新しい犯罪は、犠牲者が見ようとするならば回避することが可能である。これにより、再犯強迫観念が取り消されるか、少なくとも減少される
  21. 子供時代に起こったことに隠されている知識源を誤解なく確定的に曝しだすことができれば、当事者の報告は、一般的には社会、さらに特に学術における意識を変えてゆく助けになるであろう
次の項は、この本を読んだ後に思いついたLennon考である。

    長々しい失敗の告白


    しつこくも、また私自身の過去の話である。牛の咀嚼なので、致し方ない。クリスマスの後に書いた文章が出てきた。さらけ出すことをテーマとしている私である。これも載せてしまう。


    ______

    離婚 しているのに、父親と仲が良いなんておかしい。それなら離婚しなければよかったという声を時々聞く。

    そうかもしれない。

    け れど、当時あれ以外の選択はなかったのだ。

    クリスマスは、欧州では紛れもなく家族の行事であるので、どうしても家族とか過去に思いがさかのぼってしまう。

    私の前夫は、私の兄と同じ大学で同門であったため、欧州学生オケや仕事で日本に来る際には、必ず私の家に泊まっていた。
    私 は大学3年生で、将来は留学すると決めていたときであった。

    そんな時分からの付き合いである。
    兄と彼は、魂を分かち合うような時 を共にし、兄は彼の才能を天才と呼び、

    命を削って芸術をしているような奴だ。音楽をしないと死んでしまうような奴だ。そういう人間を前 に、くだらない望みや期待をかけて結婚生活に不満を言うお前がわがままで完全に間違っている。

    と、私が後に結婚したあと、何度もこう私を叱咤した。

    その言葉に、悔しさと絶望と孤独を感じながら、それでも納得して夏休みが終わると、ドイツへ帰ってきたものである。

    あ の日々のことはほとんど覚えていない。
    10年以上一緒に暮らしたのだが、ほとんど具体的なことは覚えていない。
    必死であった。

    人 をしのぐようなエネルギー、夜がさめても気がつかずに音楽をし続け、レッスンをし続けるそのエネルギーに感動し、付いていくのが精一杯であった。

    彼 のマスタークラスに行けば、そのカリスマ性に学生達がどんどん上達していく。その様を見るのは、まさに魔法と言っても良いほどであった。
    どんな犠 牲を払っても、共に生きる価値のある、すばらしい芸術家である。

    ところが、日常生活は、孤独を極めた。
    家にいないこともそうであ るが、子供が出来てからは、演奏旅行に同行することも出来ず、演奏活動をやめてしまった私は、彼がその生き生きと踊るような音楽への奉仕の魂を他の音楽家 と日々分かち合い、理解しあい、彼の本質を共有していることが、ほとんど恐怖のような焦燥感となって、私を苦しめた。

    帰宅すればスコア を持って自室にこもるか、熟睡し続けるか、レッスンに行くだけである。
    食事にも、外の景色にも、友人関係にも、何の興味もない。批判ではなくて、 天才とはこれほどのものだといいたい。それほど一つのことに精魂ささげなければ、凡人と同じである。生き様で人を感動させることは、まさに命を削るように日常とは逸脱した平面で生活しているということなのである。

    音楽を刻一刻と分かち合えなくなり、日常生活の中に閉じ込められた私と彼の間に、断絶はなかったが、孤独が募っていった。
    彼は、一瞬一瞬に大きなドラマを必要としている人間である。それは事が大きいということより、常 に感受性のアンテナが張り巡らされ、キャッチした情報をかみ締めてそれが不安を掻き立てれば、私に攻撃的になったり、同調を求めてきたりする。その情報が 心躍るような喜ばしいものであれば、その感動を私と分けようと、夢中になって語り続けるのである。

    24時間のうち、どのようなドラマが起 こるか、その次の瞬間のことも誰も予想ができない。
    このような生活は、ものすごく内容が深い。しかし私の幸は、私もそのようなアンテナ だけは立派にもっており、彼が何かをキャッチした場合は、目を見なくとも、その気配だけですぐにそれを察知できた点である。
    しかし私の不幸は、 同様に鋭敏なアンテナを持っていた故に、二人の生活に安定が訪れることは決してなかったということである。

    互いが、その鋭いアンテナで互いの心の動向を察知し続け、無意識のうちに常に影響しあっていた。
    それだけ関係は、奥深かったのは事実である。本人達がわかるより、無意識下でのつながりは、非常に強かった。
    孤独に対する感受性の強さが同様だったということもある。
    その孤独とは、生きているがゆえの孤独というよう な、普遍的なレベルのもので、本人達に理解できていたわけでは決してない。


    12年ほどして、三人の子供達を授かって、家庭とい うものを立派に築いてきた私達であったが、その家庭の要求する安定した日常というものが重要になればなるほど、二人の関係には問題が生じた。

    し かし関係の不一致というような、何か実用的理由で説明できる類の原因はないのである。そうではなくて、すべてが二人の無意識下で起こっていたように、エ ネルギーとエゴも含んだ才能が、私と言う人間よりも何十倍も大きい彼は、彼の知らぬ間に精神的にマニプレートしている部分があったのである。

    これは私に対してとは限らない。仕事でも、彼は常に人を圧倒するような才能を示し、誰しも彼と舞台に上がることを夢に見たが、彼の意向以外の結果は絶対にないのである。それで多くの開催者と決裂したこともあった。
    このようなエネルギーとエゴなので、私の生活も、本当に精神的に苦しいものであった。

    終いには、雨が降ってもすみません。子供が泣いてもすみませんということになった。
    私の魂は縮み上がって、すっかり萎縮していたのである。
    この才能に歯止めをかけているのは私であり、家族である。
    この人を解放しないといけない。
    この人に、子供だの家庭だのを要求する私が間違っ ている。

    心の底で、そんなことを確信していた私は、まるっきり彼を理解していなかったのである。

    それで、いかに私が彼を支えないか、どこから私のコンプレックスが来て、どれだけそれで私は子供達をだめにし、どれだけ人生で失敗し、どれほど問題を複雑にしているか、と散々彼に説教された。それも繰り返し何年にもわたって、発作的に怒るのである。


    一度は子供を放り出して、車で高速道路に出て、どこか遠くへ行ってしまおうと思った。ふっと死んでしまおうかなと本気で考えた。このまま私がいなくなれば、子供達は新しいもっと強く、もっと明るい母親を手にし、幸福な父親と新しくやり直せるのではと本気で信じたのだ。
    2時間ほど走り回って、帰って来た私はぼろきれのようだった。

    何年間かは強度のパニック障害に侵され、車で外出するのが怖くなった。彼の帰宅 する飛行場に迎えに行くたびに、体中に蕁麻疹が出た。彼の帰宅前に、突然パニック障害に襲われた。

    そうした中、這うようにして精神科に行った。



    ご主人が原因なのは明らかだけれど、病気になるのはあなただから、あなたが自分を守らないといけない。

    その言葉を聞き、セラピーを断った。
    人に世 話になってたまるか。自分で自分の心ぐらい守ってやる。

    何かが変わった。
    閉所が私の問題だった。窓のない風呂場、夜中の真っ暗な寝室、そして特に運転中のトンネル。そこでは必ずといってよいほど、パニックに侵された。

    毎回トンネルの中でパニックがくるので、毎日朝早く、みなが寝静まっている間に、トンネルを走りに出かけた。パニック障害で死ぬことはないという医師の言葉を固く信じたら怖くなかった。
    パニックが襲ってくるのがわかったら、時間を数えた。 絶対に30分以上からだの防御反応であるパニック症候群が続くことはない。どんなに長くても30分と言う言葉だけに支えられた。

    私が、思ったことを行ったり、自分で自分を守るようになってから、私達を強くつなげていた無意識下のシステムが壊れはじめた。

    もう雨が降っても すみませんとは思わなくなった。
    彼のエゴを許せなくなった。


    そうして絶え間ない喧嘩のあと、別居になったのだが、その 間どれほどの孤独感が二人にあったか、どれほどの努力が私の側にも彼の側にもあったか、どれほどの子供達への愛があふれ出たか、それは計り知れない。

    12 月までと決めたり、死ぬまで、もう出来ないと悟るまで、私が精神病院に入るまでやると覚悟したり、それは精神的に壮絶と言って良いほどの日々であっ た。

    なので別居したときは、ホッとしたのである。
    毎日毎日、彼が尋ねてきて、泣きついてきて、懇願されて戻っても、そこには私達の間にあるマニュプレートされる人間とする人間の関係が戻ってくるだけである。
    私達のように、深淵でつながっていた人間が、そういう病理的な関 係でしか存在できなかったというのは、非常に残念である。または、そういう病理的な関係だからこそ、依存関係となって切っても切れなかったのかもしれな い。

    とにかく、あらゆることを尽くし、あらゆるドラマを見て、暴力の寸前まで行き、病気の寸前まで行ったから別れたのであり、修業が足りないなどと言われる筋合いはない。選択の余地などなかったのである。文字通り、暴力と言う修羅を潜り抜け、命からがら出てきた。

    ところが、

    今、ここ何年かして思うのである。

    私の唯一の失敗は、あの結婚を放棄したことであると。
    もうどんな恋人が出てこようと、どんなに支えになる人がでてこようと、私は永遠に、私だけの家族 を失ったのである。

    家族全員でクリスマスを行うこともなければ、休暇にいくこともない。
    子供達をどんなにかわいいと思っても、それを分かち合える片割れはいないのである。

    どれほどの体験を彼にさせてもらったのか、それを思えば、自分の精神病も、自分の苦しかった日 々も、自殺願望も、すべて帳消しになる。
    私は彼の音楽に震え、彼に初めて音楽を生み出す姿勢を見せ付けられた。コマーシャリズムに自分を汚さず、 成功を一切求めないで音楽への絶え間ない尊敬を抱き続けて、自分自身を奉仕の手段として犠牲にする、その姿勢は誰にもまねできないからこそ、凡人とは一 線を隔てていのである。

    私は、自分の価値観を彼を見ながら、隣に体験しながら形成してきた。

    今思えば、礼を尽くしても足りないほどなのである。

    私は彼よりも早くパートナーを見つけ、再婚した。
    彼もその後、自分の学生と再婚した。

    けれど、私は完全に失敗である。
    彼のような人間と人格形成上最も大切な時を共にしたら、もう誰とも一緒になど住めないのだ。

    別れてから2,3年は酷かった。子供達を引き渡すので会う度に、お互に涙が止まらないのである。
    目を見るだけで涙がほとばしり出るのである。それでも、翻るように自分を引き裂くように、言葉も交わさずに子供を渡して帰ってくる。
    家の影で、道路の影で、号泣したものである。

    4,5年しても同じだった。
    彼のコンサートに行ったときは、帰宅してから、なんと言う失敗を犯したのかと鬱に落ち込み、夫の顔も見れないのである。彼の音楽に触れた瞬間、私の魂は、生き血を得たかのように、踊りだす。体中が振動して、血管が駆け巡るとでも言えばよいか。震え、涙がでるという震撼であった。恐ろしい体験である。

    今年に入っても同じである。子供達を交えて食事をして、ワインで乾杯しただけで、涙がほとばしるのである。
    彼も、酷くなるばかりだね、と真赤な目をしている。

    でも、もうあれ以上できなかったことだけは、私達にはわかりすぎるほどわかっている。

    彼の新しい奥さんは、日本人で私達のベビー シッターだった学生であった。
    その彼女と一緒になったと聞いたとき、ショックを受けたが、彼女の屈託のない性格を知っていたので、安堵したところ もある。
    それでもその晩は、号泣した。再婚しても、一向に幸せではなかったからである。なぜかと言えば、新しい夫のことなど、これほども愛していなかったからだ。どこまでも勝手な女である。

    2年ぐらい前、彼らに子供が出来ると突然直感し、2週間ぐらい落ち込んで仕方なかったことがあ る。前夫は、毎回そんなことは僕は今は望めないと言って、私を毎日のように慰めてくれた。

    しかし時は過ぎ去る。
    今年の夏、彼女は 妊娠した。
    私の覚悟は出来ていたので、まったく平然とことを受け止めている。それどころか、彼らの幸せを真に望んでいる。

    彼女に、私の出来なかったことができる、などと考えたことはない。彼女と私は違う人間で、彼女とはそんな病的な関係ではないのであろう。
    ありがたいことで ある。私は彼が何の心配もなく、音楽をしていられることが一番の望みである。

    それでもクリスマス、こうして一人きりで過ごすことは気楽で嬉しいのだが、書き始めてみれば、こんな長文になり、やはり私はのどから手が出るほど、家族を取り戻したいのだと勝手ながら実感するのである。
    でも、勝手は通用しない。
    自分の人生には、きちんと付けを払わなくてはならない。
    私には、その力も意志も立派に備わっているが、幸福になれるのか、と問われれば、もう無理だと思うと考えてしまう。

    子供達の成長が嬉しく楽しみで、小さな幸福はいたるところに見出すのだが、 乾ききった魂の孤独は深く、普段は一切感じることはないのだが、いざ押し殺している自分の殻を取り除けば、本当は失敗したと認め、でも他にどういう方法もなかったという絶望に涙し、これから精神的には死ぬまで一人で歩むのだと言う覚悟を決めている自分に、多少疲れを感じるのである。

    以上のような経緯であるが、前夫と仲が良いというのが、故にまったく不思議ではない。自分たちの意志とは別なところで、ある意味何かが一致しているのである。
    精神医学的だとか、心理学的だとか、そんな難しいことはさっぱりわからないが、目を見れば、さらには挨拶の抱擁をしただけで、互いに涙が出てくるというのは、別居後8年たっても一向にかわらないのである。

    それがもう決して起こらなければ良いと願って8年たったが、それだけは変 わることない。
    兄弟のような、家族のような、そんな気持ちなのである。
    私はそんな立場にいないが、彼の命に何かがあったときは、礼を言うために駆けつけたいと思う。
    また私が死ぬときには、他の誰でもない、彼に来てもらって、最後に礼を述べさせてもらいたいと。それだけである。

    今年の締めくくりとしては、いかにも情けなく、自分でも嫌気がさす。
    しかし、これが現状であり、失敗ばかりの人生を見つめ、それでも歩き続けなくて はならない自分の人生に対面するのが、やっぱり宿題ではないかと思うのである。

    来年は、後悔のないように、子供達に思い切り時間を割き、 たくさんの思い出を作って、家庭らしいことをたくさんしてみようと思う。それが間違いなく、私を少しでも幸せにしてくれると信じている。

    独り言



    いっそ、イタリアに移住してしまおうか。そんなことを考えている。この頃、鬱々とした感じはないのに、なぜか再び過去に対 面している。過去とは、決着をつけずに抑圧していても、つけは払わないといけないってことらしい。

    センチメンタルになっているつもりもな いけれど、過去に向き合うのは難しい。強がっていたことを、少しずつ認めて、私も弱いし、私って孤独であると言うことを認めたうえでの前進と、否定し続け た前進とではやはり持久力が違ってくるのだ。

    若かりしころ、根拠のない自信から、私だって捨てたモンじゃないと思っていた自分が、実は糞 でしかなかったと思い知らされ、ゼロから立て直さなくてはいけなかった壮絶な戦いを思い出す。
    流石に、あそこまであがく必要はないだろうが、いま ひとつ、自分の立たされた状況に失敗や、後悔を認めるのは快くない。

    後悔はないのだけれど、相変わらず、持ち前の行動力で飛び込みすぎた ために、色々なところで曲がり角を曲がりすぎている自分の過去を認めないわけにはいかない。
    行動力は私を支えるバイタリティーでもあるけれど、も らわなくても良い傷を自分で拾っている感もある。
    それを無駄と思うか、強靭な精神を築く糧と思うか…。

    自分の人生対処は問題ない し、ますます下り坂どころか、がんばろうと言う意欲に燃えているのに、過去を思うと、やはり心苦しくなるのである。私が捨てられたのではない。私が捨てた 数々の現状。それを捨てるしかなかったから捨てたのだが、思い切りの良い破壊主義も、この歳になると自分に対する脅威となっている。
    次は何を壊す のであろうか。

    ものを大切にしないわけじゃないけれど、心にそぐわないものはことごとく切り捨てたい。少しも仮面をかぶって生きていたく ないという、非社会的とも言える馬鹿正直さなのかもしれない。
    勝手である…。

    これだけ望郷の念があっても、私などどこで生きても ダメなのだ。
    どこで生きても、探し続け、孤独をかみ締め、そして放浪するのだと思う。


    幸い、どこに住んでも出来る仕事を 持っている。
    このまま、過去の震源地であるイタリアへ行って、思い切り対面して、思い切り切り裂いて、そして新しく生まれ変わりたいと言う気持ち もある。

    しかし、私がこの町にいるのも、人間関係などという平面ではなく、もっと大きな平面で見た場合、ある種の運命なのだともう。
    何 をこの街でするべきなのか、考えあぐねて、わかってきたような、実行しているような、あいまいな段階である。

    もう人間と深いかかわりあい になろうと思うのは中断しようと思う。
    自分で歩くことは十分学んできた。これからは、歩きながら自分らしい道を固めて生きたい。

    も う人に迎合して生きるのは中断しようと思う。
    お人よしなんだ、自分が思っている以上に。
    そういうことが見えてきた今、私は本当に自分の中 心や核を保護できる力が出来るまで、人とは深くかかわらないようにしようと思った。


    支離滅裂だ。

    これもまた2日 後には、収まっていくだろう。
    最近は、ネガティブな状況が続くことがなくなってありがたい。思考に思考を重ねるエネルギーすらない。

    2010年4月16日金曜日

    離婚考 ― Helen Fisher

     随分前に読んだものだが、最近書いたテキストが出てきたので掲載する。私は手に入らず独語で読んだが、日本語でも手に入るようである。表題は「愛は何故終わるのか」。原文は英語。

    Anatomy of Love: A Natural History of Mating, Marriage, and Why We Stray (ペーパーバック)
    0449908976

    離婚や別れというのは、自然史的に見ると近代文明と関係があるというわけではないようだ。ローマ時代に、戦争で資産を築いた都市貴族たちは、例えばそれを義理の息子ではなく娘たちに託した。そうして女性が財産に関する権利を所持することによって、貴族的地位の上に立っていったという背景の中では、結婚を含む未来に対する決定権も多くの場合、女性にあったと言うことになる。こうした階層が増えてくるにあたり、離婚率が急増したという事実があった。

    結婚生活中に、様々な不満や喧嘩の原因が渦巻くのは、どの文化でも同じである。イスラムでもユダヤ教でも、アフリカの部族間でも、アメリカのような先進国で も、蓋を開ければ似たような原因の諍いと不満にあふれている。

    宗教改革前、キリスト教社会では聖職者の独身性を重んじ ていたが、その社会における結婚には、神の存在しない世界でのグロテスクな性的無規律性から、性交を聖なるリトスとして守ると言う意味があった。

    ムハンマドのイスラム教には、聖職者の独身性は存在しない。性交や愛を重んじることにキリスト教にあるようなネガティブなイメージはなかった。
    ところが、ムハンマドはもう一つの義務を与えた。
    それは、結婚生活での厳しい役割分担であり、妻は子供を生み、料理し、夫に仕える必要があった。


    し かしながら、イスラムの世界では、結婚はあくまでも法律的契約であったため、いつでも離婚が可能であった。これに対しキリスト教では、礼典に従った契約 が結婚であるため、カトリック教会は、離婚を認めていない。
    現在でもイスラム世界での離婚は珍しくないと言う。

    さて、離婚の理由 であるが、
    1. 一位 妻の浮気
    2. 不妊
    3. 夫の浮気
    となっている。

    ダーウィンの説によると子孫繁栄が結婚の目的であるので、これらが多くの離婚理由のトップに立っていることをFisherは疑問に思わないそうだ。
    離婚は、深くセクシュアリティーと生殖にかかわっていることに間違いはない様である。
    その証として、生殖能力のある年齢の離婚者は、約80パーセント再婚すると言う。
    人間は、次のパート ナーに関しては、非常に楽観的であるらしい!

    さて、そうは言っても離婚にはある種のモデルがあるらしい。社会学者のS. Johnson の説によると、パートナーの双方に、土地、家畜、支払い能力、情報、その他の財産や資源がある場合、さらに双方がその私財を家族間で分割したり交換したり する権利を所持している場合は、離婚が日常茶飯事であると言う。

    つまり、生き残るために男女が経済的に依存しあっていない場合、良好では ない結婚生活はしばしば解消されると言う。

    これはアフリカ原住民の間でも同じで、食物を得ることに関して互いに独立した能力を備えている場合は、離婚率が非常に高いと言う。つまりこうした部族間では次の結婚でも、同様の狭い部族社会で生きるため、背景は変わらない。よって生殖能力のある間、五回ほど結婚離婚を繰り返すこともまれではないという。
    その理由の一つに、母親が食物を採取しにいっている間、子供たちの面倒を見るのは、残された父親ではなく、むしろこうした狭い家族部族間では、母親の兄や弟と言った場合が多い。父親が自分の子供の面倒を見るより、姉や妹の子供の面倒を見る 率が高いと言うのである。

    南アメリカの部族間でも、同様の傾向が見られ、不幸な結婚は、双方が別れる能力がある場合、解消される。そして彼らはまた再婚する。

    反対に、お互いが生計を立てるために、かけがいのない存在である場合は、離婚率がずっと低いと言う。
    その典型が農家である。収穫するのは男性だが、収穫したものを加工するのは女性の役割であった。
    産業革命以前の欧州で、離婚率が低い原因の一つである。

    また、11世紀に結婚が典礼に加えられたことで、欧州での離婚率は、一部の地域で未だに低いままである。

    この傾向は、産業革命後に大きな 変化を遂げた。
    収入を得ている女性の場合、男性が夕食のパンを稼いでくる家庭の女性よりも、結婚の問題に対する耐性がかなり低くなる。
    女性の経済力と離婚率が平行して上昇するのは、ローマ時代の例で明らかである。

    結局、愛だけでは結婚生活は持たない。その他、文化的、経済的背景が大きく絡んでくる。

    社会学者Martin Whyteが、アメリカのデトロイト459人の女性に質問をした結果が次にある。

    • 類似した人格性質
    •  同様の習慣
    •  共通の興味と価値観
    •  共通の自由時間の過ごし方と共通の友人
    などが、安定した結婚生活に最も有効な条件である。
    さらなる利点をWhyteは挙げている。

    • 成熟した年齢での結婚
    • 深く恋に落ちた事実
    • 白人 (これはアメリカの統計である)
    • しっかりと結ばれた家族で育った背景

    これらの条件を満たさないと言うことは、リスクを抱えての結婚ということになるらしい。
    さらに言えば、リスクを最小限に保つためには、相違への対処として妥協が求められる。
    パートナーの一方でも、妥協する姿勢が少ない場合、離婚になる 確率が高い。

    更なる点として、息子がいる家庭、就学前の子供たちがいる家庭では、離婚率がやや低く、反対に若年で結婚したカップルの大半は離婚すると言う。

    母権制での離婚率も高い。これは女性が自給できるからであろう。
    またポリガミー社会でも、嫉妬や男性の財産をめぐる女性間での喧嘩が多く、離婚率が高い。
    イスラムなどのモノガミーでは、自分のために料理し、仕えてくれる女性を捨てると言う結果を男性が簡単に下すことは少ない。モノガミーが結婚を安定させている。

    共に笑い、深いまなざしで見つめあい、恋に落ちた際の引き込まれるよう な感覚、共通の秘密、二人だけの冗談、ベッドでのすばらしい時、友人や家族と日夜一緒だったとき、二人の間の子供たち、一緒に築いた財産、多くの年月を 通して笑い、愛し、喧嘩しながら、共に体験してきた変化に飛んだ時間など…

    なぜ、このようなすばらしい体験を男女は、捨ててしまうのだろうか?

    おそらく、日ごとの生殖活動に勤しんでいた暗黒の過去から発展した、深遠で永遠なる生殖に尽力する力からくる、絶え間ない精神の流れが理由であろうと締めくくっている。

    さて、結婚は7年目が危ないと言われているが、実際は、長年の調査でも実証されているように、 3~4年目が危険らしい。
    イスラム社会での相違などは略すとして、西洋社会では結婚後4年目の離婚が一番多いそうだ。
    なぜなら、恋に落 ち、愛から結婚にいたるわけであるが、その愛と言うのは、私たちのごく私的な「私」というものを補うか強化するものであり、それはおおよそ4年ぐらい続くと言う。
    それで、地味な事務職が、ブロンドの派手な秘書に恋をし、女性学者が詩人と一緒になることもうなづけると言う。

    また人間の子供というのは、おおよそ4年ほどで一人で歩き、食事を取り、下の世話も要らなくなる。ここで、結婚し子供を共同で育てるという基本的な仕事に、一時的に終止符が打たれることも興味深い。
    生殖的に、互いにまだ最高の状態であるにもかかわらず、である。
    トリスタンとイゾルデの話にもあるように、恋というのは、大体3年ぐらいで終わるものなのだろうか?

    またここからは簡略して述べるが、アメリカの例では、20~24歳で結婚したカップルでは離婚率が高い。
    そして、女性は4年、男性は3年ほどで再婚する率が高くなっている。
    子供がいても、 生殖能力の高い20代から30代のカップルは、離婚する確率が高いという。

    Fisherがこの章を締めくくっているその総括に、私は自分の過去も合わせて妙に納得してしまった。
    それをここに記したい。

    人間のパートナーシップを形成するモデルは、女性の経済的 自立、都市化、世俗化、オーガナイズされた結婚などの多くの種類の文化的要素に影響される。この多岐にわたる影響にもかかわらず、両性共存に関しては、幾 つかの基本法則がある。

    西シベリアから南アメリカの最南端まで、男女は結婚し、多くは再び離別する。大半は結婚後4年目に離婚し、多くは離別の時点でまだ若い年齢にある。一人目の子供が誕生した後、多くの男女は別れ、また再び再婚する。

    毎年毎年、10年毎、あるいは100年毎、何世紀にもわたって、この太古のシナリオを演じ続け、自分たちに価値を与え、清潔にし、色目を使い、求愛し、互いに影響し合い、征服し合う。
    その後、家庭的になり生殖する。そして、また新しい愛の冒険へと飛び出していく。
    結婚という港を去るのである。

    生殖能力のある期間、人は救いよう のない楽観主義者であり、途方もない生き物でもあり、やっと熟年になってから落ち着くようである。
    なぜか?

    答えは、Fisherの見解では、「高貴な野蛮人として森の中を自由に歩き回っていた」変化に富んだ私たちの過去にあると述べている。

    長くなったが、結局私の二度目の結婚の個人的背景を重ね合わせてみると:

    • 生殖しなかった
    •  女性側が経済的に私財に関する権利を所持していた
    •  互いに生計を立てるために依存していなかった
    •  女性が他の男性の子供たちを連れていた
    •  子供たちが就学した後であった
    •  一緒になって7年、結婚4年目で あった

    といった理由がくっきりと重なる。

    さらに、夫側の経済的基盤の不安定さがあり、これが更にジェンダーの転回という問題につながった。

    役割分担がなかった(例えば男が稼ぎ、私が家事をするといった分担)
    さらに、私の私財の一部は、以前の男性から来るものであった。
    夫の社会的背景が変わり続けるため、共通の友人を保ち続けることができなかった。

    などという細部のリスクが加わってきた。

    どちらにせよ、現在住んでいる欧州のこの街では、伝統的な価値観はすでにその基盤を失いつつある。ジェンダーが転回し、女性の経済的自立は、当然のこととなり、離別を繰り返す例が多くなり、それぞれ違う父親を持つ子供を三人抱える例も珍しくない。従って少子化の問題が増加する。
    女性の経済的自立と共に、共同で子供たちを育てる契約をしないカップルが多くなり、子供を作らないと言う選択が 増えた。

    以前、有名な女性ジャーナリストが、彼女の本で述べていたことであるが、
    「ヒトラーの第三共和国時代のように、 女性もHERD(直訳はレンジ、比喩は家庭)に帰れ」
    と言って顰蹙を買い、文字通りメディアから抹消されたという事実がある。

    しかし伝統は悪くない。一理あると思う。

    • 役割分担がある
    •  経済的に依存しあっている
    •  子供は二人まで
    •  成熟してから結婚する
    •  共通の文化的背景を持つ
    これが結婚の味方である。

    あまり進歩進歩と言って、 ジェンダーがあいまいになるのは、人間の生殖危機につながるというのもまんざら嘘ではないだろう。

    私の現夫は、こうした安定した、つまり静止状態の生活のことをボヘミアンさながら
    「超退屈で、軽蔑に値する」と豪語していた。
    私がそのような生活を望むことに、非常に落胆させられたと言う。

    しかし、それは結婚という枠に収まるには、あまりにもリスキーな生き方である。
    結局夫は、森をさ迷い歩く人間本能を実現し続けているのだ。
    決 して悪くない。
    本能を生きるとは、エネルギッシュであり、変化に富み、新しいことが生まれる可能性がずっと高い。

    しかし、私は子供を持つ親。しかも、三人というハイリスクな女性である。
    スタティックな生き方を望むのは、自己防御なのである。

    結局、この相違 と、私が糧を稼がずに帰宅するくせに、口だけは大きく、計画倒れである夫の男としてのプライドを大きく傷つけたことが直接の理由だろうと思われる。

    彼は、今までもわりとすんなり、そして突然別れてしまう。
    ぐずぐずと対策を練って、苦しい時を潜り抜けないのである。
    それは、プライドの高い男のざっくりとした決断力であり、彼の自己防御でもある。

    結局私達は、Fisherの言及しているモデルにすっぱりと納まる、凡人カップルであった。

    それが、不思議と大きな慰めである。
    私 の生殖年齢は、近い将来没になる。

    で、いよいよ彼女の説によれば、落ち着くらしい。

    いい加減、シャーマン的に静かに人の問題でも転がして生きていきたいと思う今日この頃。

    しかし、私の無意識の[ICH]は、すでにうごめき始めている。

    生殖能力のある人間の「救いようのない楽観主義」と言う点では、私も訓練をつんできた。
    腕があるだけに?、この先静かになるのかどうか、空恐ろしい未来である。

    また、最初の夫と今の「まだ夫」との人間性は、180度反対に当たる。なぜそのような事態が起きたのかと考えると、これもまた思い当たる節があるのだが、また後日書いてみようと思う。

    2010年4月14日水曜日

    絹糸の一すじ

    人生は、まったく止まることを知らずに流れていくものだと思う。その日を生きる生活に追われつつ、さまざまな感情に襲われては、また通りすぎと、すべてが限りある時間という流れの中で、時に私の心を揺さぶりながら、時に私の心を硬直させて、また形の無いものとなって流れ去っていく。

    私の人生もめまぐるしい動きの中で、様々な物を失ってきたけれど、それでもある中心だけは、まだ失わずになんとか持ちこたえている。


    「存在しようと!」と心に決めた以上、
    欠乏がこの世にあるなどという迷いにおちいるな。
    絹糸よ、おまえは織物の一すじなのだ。

    たとえおまえが心の中でどのような模様に織り込まれていようと
    (それがたとえ痛苦の生の一こまであろうと)
    讃めたたうべき壁掛けの全体こそ、おまえの志であったことを忘れるな。
    R.M. Rilke "Die Sonette an Orpheus"


    日々、単調に生活を続けていく中で、まるでこの国土にすっかり魂を吸い取られてしまったかのように、あの予想していた孤独感にふっと襲われる。それは、決して具体的に言葉にできる感情ではなくて、もっと動物の本能のように、胸の中から嗚咽するように、吐き気にも似た形で、思いもよらぬ瞬間に、私の喉元にやってくるのだ。
    もはや誰かに思いを告げて、慰められるような類のものではなく、日常に口をついて出てくる言葉を失ってしまったかのような、恐ろしい孤独感である。
    死を意識しているのではない。むしろ、死が美しい安らぎのように思えるほど、この孤独感は、黒く深く、不気味なのである。止むを得ず、私はそれに立ち向かい、まるでそれこそ絹糸の一すじとして、模様全体を相手に、糸を切られない様に、波に全身をゆだねるしか手立てがない。

    不思議なことに、そうしていつ私を襲うかわからぬ孤独感にしっかり向き合い、瞬間に目を背けずにしっかりと見つめ耐え忍んでいると、まるで浮き彫りになるように自分の中心というものが形どられて来るのを感じる。
    生は私を見捨てたどころではなく、しっかり私という存在を手中に収めて、一すじの絹糸となるために、何がしかの意味を与えてくれようとしている。何処か特定できぬ中心から、これで良いという肯定の感情がふつふつとわいてきて、生が私を見捨てるわけは無いはずだという深い信頼感が生まれてくるから不思議なものである。

    今までの失敗も、今までのおろかな行為も、今までの軽はずみも、今までの気分の行動も、一つ一つに判断や評価を与える必要は無く、私は、次々と私の目の前に現れる出来事と正面から見つめあうこと。そしてその際、意味があるのは唯一私自身の心の中に見るべきものを見る訓練をつんでいくことだけである。

    それまで多くの悲しみも痛みも、絶え間なく襲ってくるに違いないであろうが、必ずや私は生き延びるであろうし、それでこそ、やっと織物の模様の一すじとなって形跡を残すことができるかもしれない。その程度のものである。

    数えることも計算することもせずに、何が自分にとって幸福であるとか、何が不安であるとか考えることなく、ひたすら生に信頼感を持って生に自らをゆだねきってしまうことにより、生きるという本質が、実は野生のように荒涼としており、苦痛というのは、「肉体に対する鈍い誤解」にしか過ぎないということを発見するのかもしれない。

    それは夢のなかでのこと ―― 僕の心は 悲しかった。
    君は蒼白めて 不安そう。 と 君の魂は 鳴り出すのだった。

    かすかに かすかに 僕の魂も鳴った。
    二つの魂は 歌いあった ―― 「わたしはつらい」と。
    すると僕の心の奥ふかく  安らぎが生まれ、
    夢と昼とにはさまれた  銀の空に  僕はいるのだった。
      R.M. Rilke "Briefe I"

    この詩を読むと、私は何をしていても、まるで身体反応のように涙が出てきてしまう。ドイツ語もわからない頃、Rilkeの詩を音読することが楽しみだった。意味を解していないのに、音読を重ねていると、必ずどこかで突然の嗚咽に襲われる。日本語訳を見ると、そこには必ずや、深い悲しみや失望や、それでも純粋に終わることの無い生と神へのしっかりとした信頼感が書かれているのだった。

    まるで、ドイツ語など理解せずとも、言葉には独立した力と生命力が宿っているかのように、私の心に襲い掛かってきたのであった。
    その時、初めて言葉の持つ威力に気がつき、詩作というもののひたすらに重いその質量を感じ取ったものだ。
    何故なんだろうか、この詩にあるよう「悲しい」という言葉には、すべての言語にまるでこの悲しみの感情が刷り込まれているかのよう効力がある。einsam, traurig, sad, sorrow, triste, lacrimosoなど、どんな言葉にもそれに応じた魂が宿っているのではないか。そんなことを考えるほど、Rilkeの詩から発せられる生命力は大きかったのを覚えている。

    つらい時、何度も何度もこの詩を音読し、何度も何度も涙を流し、読んでいるうちに、次第に心の中に、絶対に大丈夫だという力がわいてくるのを待った。

    詩は、言葉の錬金術という表現に最近こだわるのは、それをこれまで以上に実感するからである。紡ぎだされる言葉には、作者の全人生が投入されており、そこに、彼の流血を見、彼の不安を感じ、それが一つの言葉の中に、さまざまにいりこんだ深い感情となって、刷り込まれている。一語の生まれるまでの彼の生きてきた過去とその悲痛な孤独を何故こうして瞬時に感じることができるのだろうか。

    それは天才といってしまえばお終いであるが、私個人の肯定感情が、作品の中で生まれ、そこに私はとてもではないけれど、自らは表現することの不可能な、広大な広がりを見て、自分を埋没させ、作者の助けを借りて、私自身をそこに見つけるのである。

    私自身を見つけるために結局生きているのであるが、それは死を目の前にしても、以前見つかることの無い答えでもある。
    自分の生が何であったのか、それを判断するのも考えることも人生の役割ではない。
    そうではなくて、その過程で、孤独を味わいつくし、深淵まで恐れることなく下って行き、自分と何年にも渡って対話することが役割なのかもしれない。
    そうして、やっとこの魂を伴った言葉をたった一語生み出すことができるのかもしれない。




    2010年4月10日土曜日

    孤独な老婆の目から湧き出てきたこと



    今日久しぶりに、動物の目を見たような気がする。いや人間の目なのだけれど、動物の光を放っていた目。

    先ほど買い物に出かけた。食べるものぐらいは美味しいものをと心がけているが、やはり高いスーパーで一週間分の買い物をするのはもったいない。
    安いスーパーに行って、そこで、できるだけ新鮮なものと良い商品を見つけて買い込んでくると言う習慣。

    末息子と共に入ったいつものスーパー。なかなか広々としており、普通二台の大型買い物ワゴンが通り過ぎる余裕は十分ある。そこに、一人の初老の夫人が通りがかり、どうもそのワゴンの角が、そこでパンを選んでいたもう一人の初老の女性に当たったらしい。

    当てられた女性は、

    「ちょいと!あなた人間の子供でしょう?見れば分かるもの、何でぶつかってくるのよ!」

    と怒鳴る。他方の女性は、すでに通り過ぎた後、振り返りもせずに背中を向けていた。傷ついたといった風情でもない。

    私は、家の裏庭の桜の木が 満開になったことに快くしており、美味しいものを子供たちにサービスしようと実に気分が良かったため、あまりにもその残酷な反応に、半ば腹が立って、その怒鳴った女性を見つめた。だれが、此れしきのことで、人々の気分を簡単に翻すのか見てやりたかった。

    その女性は、くたびれた綿のジャンパーを着て、なんともしまりのない姿でそこにたたずんでいた、買い物ワゴンに身体を寄りかからせ、半分白髪で、ハリネズミのようにただ散切り頭に刈ってあるそのショートカットは、妙に貧乏くさく不潔に見え、付かれきった顔には、まるで今までの人生の苦労が全て刻み込まれているような萎れ方である。白い肌は、蒼白に見え、落ち窪んだ目の下には灰色の隈ができている。飲酒で身体を痛めたのではなく、苦労と不満と欲求の塊として、長年生きてきたために、顔に生気を失ってしまった。そういう様相であった。

    しかし、その目には、恐ろしい光沢が光っていたのである。シチリアの知人宅に滞在していた時、夜外出したのだが、あの時丘の上の空き地に、10匹以上集まっていたであろう、あの恐ろしい野犬の目に良く似ていた。

    自動車のライトは、その粗い体毛を照らし、灰色の混ざった硬い毛並みを光らせていた。黄色がかった目をぎらぎらと光らせて、野犬たちは一斉に自動車に乗った私達に向かって吠え立てる。
    飼い犬の、媚びたような愛らしい目ではなく、人間に触れずに、人間に対向して生き延びてきた野生の光は、鋭く、まるで突き刺してくるような恐ろしさがある。

    その初老の女性は、うつろな目蓋の下に、そのような鋭い光を放っていたのである。まるで、目だけを見れば野生化した人間のような、孤独な光であった。

    ドイツに生きていると、ネガティブなエネルギーに時々、陰鬱な気分を移されることがある。それは、生きる階級とは関係なく、フランクフルトの空港で、図体のでかいビジネスマンに突き飛ばされても、横を歩け!と怒鳴り散らす人間も少なくない。前を見ろ!ならまだしも、横を歩け!とは、一体その言葉の背景に、どのような傲慢さが隠されているか、想像するに難くない。
    官庁に行けば、目も見てもらえず、まるで一枚の書類のように扱われることもしばしばであるし、サービス業に至っては、注文させていただき、買い物をさせていただくと思わせる場面もしばしば。個人の敏感度にもよるが、人種差別の話題に至っては、何をかいわんやである。

    この国には、陰鬱を誘う何かが隠されていることは事実だし、天候と同じように、暗い雲に包まれたように、社会が沈黙しているとも感じられる。議論も平等で正当性も謳われる国だが、それでも一番大切な何かは、すっかり国土の下に凍り付いて埋まったままになったかのように、ただただ重い圧迫感として感じること以上、探りようもないのである。

    合理的な理論が、ここまで簡単に受容され、賛同を持って生活に組み込まれている国は、他に例を見ないのではないか。私には、体感的な事実としてしか、説明のしようがないのだが、合理的な考えが、最も正しく、最も理にかなっていると納得するほど、この人たちには、生活には「必要のない」想像力が備わっていない。 ファンタジーがないのである。

    人の心や、気持ち、言葉の意味を考える時に、頭脳の明晰さとは別に、ファンタジーとも言える想像力が、とても大切な役割を果たすと思うのだが、この国の人々には、すっかり重要ではないものだとみなされて、削除されてしまう。まるで、キリスト教の五感の楽しみが、削除されてしまったように。まるで理解に及ばないラテン語のミサが、すっかりなくなってしまったように。もしかしたら、そこには響きという体感があり、響きを通した神の存在や、心の何かとの遭遇があるかもしれないのに、そういうことは証明できない。よって、必要なき物とされてしまうらしい。
    私個人にとっては、生きにくい国である。 機能的だけれど、機能的なことばかりしていると、人間は、発狂しそうになる。

    この野性の目を持った初老の女性は、このような背景で、貧しい環境に不幸を募らせて生きてきたようである。不幸の愚痴をこぼすにも、お金がない、失業した、浮気された、子供が犯罪を犯した、といったような、ある事実を述べ立てていくことしかできないのだろう。そこで、絶対に体の奥深く似蓄積しているはずの、辛苦の感情は、言葉の形をとって発散されることができないのである。教養の問題ではないと思う。そうではなくて、心を感じる能力が、彼女にはあまりなく、彼女の性質もあるが、それには間違えなく、この陰鬱な国土からじわじわと表出している、社会全体の沈黙の圧迫感に抑圧されたまま、存在せぬものとして葬られてきたのだ。

    孤独とは、こういうことで、社会に属しているから、連帯感があるというものではない。一人ひとりが、自分の目に見えぬ心に、言葉を与えて、そして形にして表出させていくことから生まれる、コミュニケーションこそ、何かを生むのであって、それ以外の言葉など、実は機能させるための道具の言葉でしかない。

    しかし、こうして本当の自己の言葉を失ってしまった人々に、一体なんと声をかけてゆけばいいのか。本当のコミュニケーションを忘れてしまった社会で、辛苦の極みを舐めてきた人間は、社会からすら葬り去られ、その目には、ぎらぎらとした野犬のような光を秘めているのである。それはぞっとするような孤独とアグレッシブさを突きつけてくる。

     機能と合理を追求していくと、忘れ葬り去られた無意識の次元は、すっかり太古的になり、野生化しているのかもしれない。
    けれど、それがゲルマン人であり、その陰鬱から、時に、他の民族には例を見ない論理性と感受性、そして内観を伴った芸術が生まれると言う不思議がある。
    孤独と対決しながら、常に己を知るために、言葉を捜し、言葉をつむぎ、言葉の錬金術と言えるほど、その抽出過程に人生全体を投入する作業を続けることで、きっとそういうゲルマンの文学や芸術が生まれてくるのである。

    最近考えたDichtungという言葉は、アンドレ・ブルトンが以前シュールレアリズムに当てはめた、「言葉の錬金術」に他ならないと、買い物のあとふっと思いついたため、備忘として書き記した。

    ツイッターのフォロワーの方から、マンがDichtungをデモーニッシュと例えたという教えを頂いたが、まさに錬金術のように、化学反応を起こさせ、同類から同類を生み出すような錬金術の過程は、デモーニッシュと言えるほど、複雑で時に自分の制御を超えてしまう反応が起こることがある。本当の自己の言葉とは、発するまでに実は、気の遠くなるような年月と経験が必要なのだと、改めて実感した。

    陰鬱な地では実に明白なことだが、生きるに当たってその絶対的な孤独に打ち負けない方法は、ひたすら己との対話を探し出していくこと以外にはないと、そんなことを考えた。

    2010年4月6日火曜日

    フアナの狂気



    今日考えたことは、正常と異常の境目は当然つながっていて、その線は曖昧だということ。フアナの本を読んでいても、彼女が病理学的に異常、つまり二大精神病である、総合失調症や躁うつ病だというには資料も少ないが、言い切れないわけで、症状もボーダーライン上にあるという気がしてならない。

    そもそもボーダーラインと呼ばれる性格、性質があるように、人間は誰しも正常な部分と異常な部分を持ち合わせている。

    私は医者でもなければ、いかなる専門家でもないので、これについて語ることはできない。そういうのは専門書を読めばいい。

    ただフアナの本を読みつつ思ったのは、嫉妬する女は怖いとか、嫉妬は愛情の形とか、嫉妬深いとか嫉妬心というのが、大問題になっているけれど、嫉妬心は性格特性だけによるものじゃないと思う。
    状況によって、嫉妬心が強くでてくることもあるのは、誰でも知っていることだと思うけれど、私の個人的体験では、様々な要因が重なって嫉妬心が煽られることがあると実感する。

    まず、本人自身のコンプレックスの度合い。コンプレックスを持たない人間はいないが、そのコンプレックスが強いと、自信のよりどころが不安定である。なので、ちょっとした変化や出来事は、割りと簡単にその閾値を越えて、ストレス状態を生み出してしまうことがある。こうなると嫉妬はストレスによって左右されるとも言えるのではないか。

    そしてその変化や出来事は、おそらく第三者や環境によってもたらされる。
    何を仮定したいかと言えば、世の中には、もちろん故意にではなくとも、相手をヤキモキさせて常にストレス状態の閾値あたりに縛り付けておくような行動があるのではということ。

    これも個人的体験によるものであるが、当人はあっけらかんとしてるが、果てしない灰色状況を保ち、信頼関係を築こうと努力はしてくれるものの、そのコミュニケーションに本人の魂が宿っているのかどうか、どうひっくり返しても分からないという場合。
    何度慰められて、何度信じてくれと言われても、魂の宿らない言葉は、神経のむき出しのセンサーのようになったストレス下の嫉妬心には、あまり効き目がない。

    もっと酷いのは、相手自身の行動が神経症じみていて、さまざまな人格を操るかのように複数の仮面で接してくる場合。
    ある日は愛情深く、本人も愛していると信じて疑わないので、こちらも100パーセント心を開いてしまう。開かざるを得ないような正直さで、真摯に愛されるのである。つまり、こちらは傷つきやすい面を相手に委ねていることになる。
    ところが、予想できないきっかけにより、相手はいつ豹変するか分からないことから、ストレス状態への閾値にいるという緊張感は、一向に変わらない。
    そして、文字通り、昨日あれだけ愛されていたはずが、今日は罵倒され傷つけられ責められるといったことが起きる。こちらは、言い返すも元々通りが通っていない相手の行動である。道理で勝負すること自体が無意味と言うストレス。

    つまり、このような態度をとられると、売り言葉を買えば大喧嘩になり傷つけあい、売り言葉を買わずに相手の言葉に迎合すれば、お前は本当は聞き流していると罵倒され、無視すればどの部屋までもどんなところまでも追いかけてきて放してくれないという事態になるのである。
    よって、相手がこうなると、うずくまって耳をふさいでいようとも、嵐は必ずやってくるのであって、売り言葉を買おうが買うまいが、そのストレスの度合いはどれをとっても同じと言う結果。

    こういう相手の行動を私は、精神的テロ行為だと位置づけているが、こういう男性と例えば何年も生きていると、一体どちらの言い分が正論を述べており、健全であるか分からなくなってくることがある。

    正常と異常の境目は、完全に煙にまかれてしまうのだ。

    フアナは、アンテナのように繊細な心を持ち、不安感を抱え、政治的にも社会的にも若くして過剰な役割を担ったと言うストレスがかかっていた。そして言葉の分からないブリュッセルに嫁ぎ、夫フィリップだけが頼りであったが、このいわゆる浮気者で有名な王子は、おそらくフアナの情熱的で不安定な性格に疲労したのもそうであろうが、当人自体の行動も、大いに灰色ゾーンに包まれた上、彼女に対して熱くそして冷たく当たり、約束をし、それを破りと言う行為を続けたに違いない。さらに政治的な権謀数述が関わってきて、信頼関係の土台は崩れ去ったにもかかわらず、彼らは殆ど最後まで、男女としての交わりは止めなかったのである。

    狂女として彼女を知り、狂女として何世紀も有名になってしまった彼女についてより多く知ったとき、私は非常に悲しくなった。何日も何週間も、悲しみに明け暮れて、彼女の生きた世界から抜け出すことができなかったことを覚えている。
    当時、私は近世の死者のミサやMemoriaについて勉強していたので、死者が現存するものとしてごく当然に扱われていた当時の世界観に浸りきっていたともいえる。その中で、夫の遺志を遂げるべく、棺桶を引きずりながらスペインの乾いた国土を厳冬の中グラナダを目指し、さまよい続けていたフアナの姿を思い浮かべると、これが原因で狂女と言われたけれど、やはり納得がいかない気持ちで一杯になった。

    彼女は、常に想像を絶するストレスに曝され、ストレス症状(現代ではパニック症候群やノイローゼといった神経症)を発し、それが唯一甘えの対象、頼りの対象であったフィリップへの嫉妬心として向けられた。しかし、実はこのフィリップ自身が、彼女の嫉妬心を静めるべく術を知らず、精一杯の愛を持ってなだめても、彼女の深く繊細な心の奥までは到達できず、彼女にとっては灰色の答えでしかなかったり、また彼自身の行動の支離滅裂さが、一層嫉妬心を強めてしまったと言う結果になったとも言えるのではないか。

    何故今、またフアナに舞い戻って 考えているのか、私自身の中にある原因はわからない。

    けれど、正常も異常も、私はそんなことどうだって良いと今日考えた。
    病理としての精神病が発見されたなら、薬を飲んで治療する必要があるが、そんな症例は少ないだろう。

    今日、ツイッターである方が、「そういう精神病患者は一目見ればわかる、フアナの場合は、精神病ではなかった。環境がそうした。私の感がそう言う。」と返事を下さった。
    おそらく医師であろうと思うが、ずっしりと信頼できる言葉であった。

    フアナをみても、現代の医師は、おそらく神経症と診断するのではないか。
    そして、神経症なら、私達皆、多かれ少なかれ神経症であるということは、間違えない。

    今日の思考は、こんなところであった。

    2010年4月4日日曜日

    マタイ受難曲聴きてみたいが



    1. Arie.

    Erbarme dich, mein Gott,
    Um meiner Zähren Willen!
    Schaue hier, Herz und Auge
    Weint vor dir bitterlich.
    Erbarme dich, erbarme dich!

    1. Aria.

    Have mercy, my God,
    for the sake of my tears!
    Look here, heart and eyes
    weep bitterly before You.
    Have mercy, have mercy!

    Chapelle Royale.

    Rene Jacobs (Countertenor).

    Dir. Philippe Herreweghe.

    外で鳥が鳴いている。もう七時を回ったが、まだまだ明るいからだろう。春となると一気に明朗な雰囲気に溢れるから不思議。

    今日は復活祭だが、昨日に引き続き、重々しい心を引きずりながら、でも内面の中心には、溶岩のように熱いものが沸き立っているのを感じる。
    それがナンなんだか、全く分からないが。

    イエスの生涯を考えながら、やはり無抵抗な生き方に思いを馳せた。
    人の心を動かすことは大変なことだが、無抵抗に人が死を選んでいく姿は身にしみる。

    マタイ受難曲の断片を聴いた時、 Eli, Eli, lama asabtani? とイエスが最後に嘆いた言葉が思い浮かんだ。どのような思いで、どのような意味があるのか。

    アラム語がヘブライ語に翻訳された時点でasabutaniの意味が変わったというのを何処かで読んだことがあるが、記憶にあるのは、これはイエスの嘆きや、感情があらわになった失望の言葉ではないということ。

    イエスが人間の罪を一手に背負ったため、精霊に見放され、神の存在を感じられなくなり、最期にこうした言葉となったとする説も多くあり、それはそれで正しい解釈であると思うが、実際は、次のようではないか。

    神よ、神よ、今自分には分かった、何のためにあなたが私を選んだのか

    結局、自ら無抵抗に死を選んだことの意味、そしてその死が無駄ではなく、そこに大きな役割、つまりそのために他の人間たちを救えるのだということを理解した瞬間なのではないか。
    やはりあの死をもって、イエスはイエスたり得たのであり、あの言葉は感情的な嘆きではなく、彼の死を前にした納得ではなかったかと思いたい。

    そういう思いで聴くと、マタイ受難曲は、耐え難い苦悩に満ち満ちているが、最期にはイエス自身が神の元へ戻ってゆくというAuflösung 解放があるのだという救いがある。
    私達を救済したのはイエスであったが、彼もまた、十字架の死によって救われたのだと思うことで、少しはこちらも慰められるのではないか。

     そんなことを考えた日であった。

    2010年4月3日土曜日

    悲劇の循環に自ら入ってゆくこと


    Ci sono porte, lucchetti, finestre, imposte e cancelli fra noi.
    Io li ho chiusi tutti, e sull’ultimo mi sono appoggiata - sono rimasta ad aspettarti per troppi giorni.
    Ora ho gettato per terra le chiavi e ho voltato le spalle.
    Devo solo iniziare a camminare di fronte a me, lontano da te.
    Ti ho lasciato andare, non è amore anche questo?

    私は一歩前に歩みださなくては
    あなたからは遠いところへ
    あなたを解放したわ
    これだって愛とは言えない?

    Starcrossedより引用

     
    涙がボロボロとこぼれることは、今まで何度となくあった。けれど、何分間にも渡って涙が滲んでいるという状況は、今回が初めてではないだろうか。

    普通は感情が高まるから涙が出るのだが、感情の方は至って冷静であるのに、まるで身体反応のように涙が滲むのだ。それも何分間にも渡って。

    何のことはない。理由はいくらでも挙げることができる。
    私の前夫は再婚したのだが、彼らの子供が昨晩生まれた。
    今日は私の、いや私達の子供3人を連れて、彼は病院へ赤ん坊と妻を見舞いに行ったのだ。

    私が、彼と別れを決心し、私が乳飲み子を含む3人を連れて一方的に家を出て来た。それを今更後悔だとかトラウマだとか、そんなセンチメンタルな言葉で嘆くつもりも愚痴るつもりもない。

    事実は事実として、すでに受容してきており、涙を流したことも慰めを求めたこともあるが、今となっては全て消化してしまった現実である。
    自らが選び取った能動的選択だったという一点が、私に精気を残してくれ、一歩一歩それこそ自分の足で前進する力になったのである。

    しかし、前夫の今日の話は、いささか複雑な気持ちにさせるものがあった。複雑というのも正しくないかもしれない。それより実感していなかった壁を目の当たりに突きつけられ、今まで考え想像してきた未来というものが、覆されてしまうような事実を突きつけられたと言う気分だったのである。

    しかし、そういう何重にも重なって横たわる問題を実感し理解するまでには、多少時間がかかるものである。それが不思議なことに、怒涛の感情となって私を襲う代わりに、身体が先に反応して静かな一縷の涙として眼を湿らせては、時折頬を伝って流れていくと言う実に意外な形として現れた。

    こうして文章を書いている現在、やっと自分自身がターニングポイントに立たされていることを認識し始めたという感じである。

    私と前夫は、10代の頃から知っており、始めは何の屈託もない学生同士の友情として交流していただけである。彼の異常な背景は、その後もっと親密になり時間をかけた上で知っていくことになったのだが、その当時もすでに彼の存在は特別であり、コメディの中に深く計り知れない悲しみが潜んでおり、その不安定な体つきと身のこなしから、何か特別の能力を持っていることだけは、彼を知っている人間全員が心得ていた。

    何年も後、彼の崩壊した家族や育った環境を知るに連れて、その家族全体がゴーゴリの外套の主人公、アカーキエフ・アカーキエビッチ、またはドストエフスキーの貧しき人々の主人公、マカール・ヂェーヴシキンにつながるような悲劇が潜んでいることを発見する。
    誰よりも清い、いや無垢な魂を持った人々が、清貧な人生の中で自分を幸福だと言い切る謙虚さを持って、その生き様を肯定する。しかしその無垢さゆえ、まるで黒い穴がぽっかりその一家の中心に開いているかのように、次から次へと難題や不幸が容赦なくのしかかってくるのである。キリスト教的に言えば、まるヨブの話のように、何故彼らにという疑問が残る。

    無垢は愚鈍だという人間もおり、貧乏が自業自得という人種もいる世の中である。
    その世の中にあって、このような魂を持った者達は、一様に孤独感を募らせてゆく。さらに、孤独を骨の髄まで味わった者達は、それだからこそ、たとえ常軌を逸した形でも、愛さずにはいられない人々なのである。

    彼の育ちとその家族は、あまりにも深い悲劇性、つまり本人達にはこれ以上の幸福はないと認識されるような、悲劇的な清貧と謙遜によって、同じ空間にいるだけでも心が苦しくなり、悲しみのあまり泣き出してしまいそうな窒息感を感じざるを得ない。

    そういう彼との関係は、言葉の会話も要らないほど、底深い次元でつながっているという実感が伴うものであった。 友情が博愛になり、それが気がついたら互いの献身につながっていたのである。しかし、アカーキエビッチもヂェーヴシキンも決してその人生で報われることはなかった。まるでそれが法則であるかのように、正直と清らかさは、まったく誰の目にも気付かれないまま忘れ去られ、その中心にある愚鈍という黒い穴に、渦を巻くように不幸が襲ってくるばかりなのである。
    それと同じように、私達のように無垢だが無謀で無知な若者2人の間には、ありとあらゆる無理難題が襲ってきたのである。
    そして、彼の芸術家としての社会的成功が大きくなるに連れ、彼はサタンと聖者が同居したような複雑さを見せ、予想のつかない状況で、予想のつかないきっかけにより、予想のつかない度合いで、人格を変えていったのである。

    しかし、問題が降りかかると言うのは、ドラマ性があり、2人の人間の間の色づけとさえ言えるのが、若者の人生である。無知のおかげで大人であればさっさと切りをつけたろう、同じパターンの関係構図を繰り返し繰り返し描き出し、同じ過ちを犯し、一切向上を見せないコミュニケーションを取っていた。

    それだから愛ではなかったとは言いたくない。紛れもなく愛であったのだ。だからこそ、こうして終わりを告げてしまった。

    しかし、関係は終わりを迎えても、時とは恐ろしいもので、嫌悪や怒りが消えてしまうと、残るのは愛の断片や、美化された相手への親近感なのである。

    私は再婚し、また別れを遂げると言う一連のストーリを終え、彼は私を取り戻そうと、ヂェーヴシキンがワーリンカの乗った馬車を追いかける、あのみっともない場面にそっくりなやり方で、様々な努力をしたが、おろかな私は俗物のような相手にすがりついたままであった。

    何故、俗物が良かったのか。俗物には、安定感があった。しかし私がその年月で学び得たことは、一見効率的で有能に見える俗物こそ、愚鈍で無神経であるという事実である。半ばそれに耐えられなくなった私は、ましても独り者になり、その魂の自由を味わい、金輪際、能動的な愛の行為のない生き方はやめると自らに誓いを立てたのである。

    そして、彼は私を取り返すことができないとわかると、運命のように自分の弟子と再婚し、第2の人生を始めたのである。

    よく思うのは、自ら関係を断ち切って離婚に踏み出すのは女性が圧倒的に多い。しかし、別れられた男性のほ方が意外にもその後新しい連れ合いを見つけ、長いこと幸せに寄り添い続ける。一方当事者の女性の方は、次々と相手にめぐり合うが一向に幸せになれないという例を多く見受ける。

    私の場合もその例に漏れず、苦しんだ彼の方がむしろ近道で新たなる人生で成功し、先にスタートを切ったはずの私は、未だに宙ぶらりんであるという事実である。


    今日、彼は病院から子供達を連れて帰り、ひとしきりその場の話をしてから、さらにもう1つの話をした。

    彼の率いていたオーケストラを彼が去ったのは何年か前である。中庸なキャラクターと政治的活動という義務に嫌気が差して去ったのであるが、そのスポンサーがハウスコンサートに彼を招き、その後に彼の一切の活動を支持すると宣言したと言う。
    もちろん彼は大学に教授職もある身なので、何の苦労もないのであるが、自分でオケを作ったり、大学を作ったりするようなことには携われない。それをその紳士がパトロンになってスポンサーになるというのである。

    この話は具体化し、この秋ごろイタリアに行って広大な敷地とヴィラを買い、そこに前夫一家を住まわせ、将来は、夫の願いであった故郷イタリアで、他に例を見ないポストグラデュエート的な高等教育機関を設立すると言うのである。

    彼が若かりし頃から、伝説に残るような成功をしてきたことは自覚していた。が、成功を断り、メディアを軽蔑して関わらず、ことごとく宣伝しない人物であったため、世間の俗物さながらのソリストとは、全くかけ離れた位置にいたわけである。

    それが私と離婚して10年後、このような展開を見せて彼は故郷へ帰り、ヴィラに住まうことになり、新しい妻との間に立った今子供が生まれ、まさに前途洋洋、やっと家族の中でただ一人、新星と呼ばれたこの男には、悲劇の循環から抜け出せる兆しが見えてきたのである。これはある意味、大変なことだと思う。

    その話を聞かされた私は、俗人そのものである。自分を不幸だとは思ったことがない。苦しんでいることは、むしろ力を試されているような気持ちがして、どんなことにも挑んできた。よって、それなりの自信も持っているのである。だから彼とその新しい妻を妬ましいと思っているとは言い切れない。

    ただ、私は私の「あれからの人生」と、彼の「あれからの人生」に、取り返しが付かないほど大きな距離ができてしまっているのをまざまざと見せ付けられたことに傷ついているのである。
    一つ録音が終われば、私のところに駆けつけて、ワインを飲みながら、これは君に捧げたものだと言い、その目に涙をためるのである。
    彼の人生の中で、大きな転機となった局面では、私に一先に電話をしてきて、電話口で泣き崩れたのである。
    時々夕食を共にすれば、手を取り合って見つめあい、若かっただけだ、若さがいけなかっただけだと繰り返し、互いにオイオイと泣くのである。

    そうして10年間過ごしてきて、妻がいようとも私に夫なるものがいようとも、私たち2人にはまったく問題にならない、いや眼中に入らないほど、その絆はまるで家族、兄弟のように強いと言う信頼感があったのである。

    実は、私がこの地で歯を食いしばって自立のために力を尽くしたのも、日本に帰国しないと言い切ってきたのも、実は全ては夫どころではない、彼のためであったと薄々認めてはいたが、今晩はそれが自分の目の前に暴かれたのである。

    彼の未来には私の居場所はなく、彼の赤ん坊に興味を持てない自分は、おそらく妬んでいるのではなく、実はまだつながっているようで、まったく違った線路の上にいたとはっと気がついたのである。

    彼は国家公務員なので、将来の心配は一切ない。
    私は、3人の子供達を抱え、外国人、母子家庭、フリーランスという傍から見たら三重苦の不安と問題に溢れる地位である。
    確かに私には、これから思春期の子供たちと自分の老後、日本の両親、自分の更年期と、ろくでもない現実的な問題に曝されている。それは安定し、保証された彼の生活とはあまりにも違うものであり、まったく違った種類の緊張感に溢れている。
    彼の妻に至っては、私とはまったく違う絨毯の上にいるのである。彼女に、この緊張感はないだろうし、この不安感はないのではないか。

    はっきり言ってしまえば、苦労している私には、このような華々しい幸福を喜べない。なぜならその差異を見せ付けられるだけであり、ねたみたくないと言う良心との葛藤が起き、さらには想像のできない世界だからなのである。

    一軒のアパートも買えない人間に、ヴィラに住むだろうから、君もいつでもくればいい、良ければ一緒に移住すればよいと言われたところで、冒頭のように、麻痺した感情の下、涙がただにじむだけなのである。

    けれど、私はこれでも何も後悔していないし、惨めだと実感することもできない。
    私は自分が精神病院に入るのを防ぐために出てきた。結婚を救うために血を吐くような努力をし、全てを試みてもダメだったという確信があったから出てこれた。
    それよりも、何の打算をすることもなく離婚を決心し、社会的地位や経済的恩恵などの一切を投げ捨てても、自分で自分の足で歩こうと決意し、今もそれをほぼ守り通していることに、少しは誇りも抱いているのである。

    自立も離婚も、女性には勧めたくない。
    女性を早く年取らせるおそれがあるが、それは本来生物学的に、このような生き方が女性の自然と逆を行くからなのである。
    私は、逃げてでてきた。つまり選択も何も、それ以外の道が他になかったから出てきたのである。どうじゃなければ、離婚など選ぶものではない。

    けれど、いったんこの線路を歩みだしたからには、惨めだと思ったこともないし、ここまで来れた事を神に感謝したいほどである。

    周囲に同情を買うような私の人生状況であるが、それを私自身は、幸せを毎日実感でき、自分で歩んで行かれることに感謝さえすれど、後悔したことはないと言い切るあたり、だんだんアカーキエビッチやヂェーヴシキンに似てきたとさえ思える。
    あのような種類の愚鈍さを身につけだしたのである。
    それを証明するかのように、身の回りには黒い穴を巡り、問題が山積である。もはや私のまいた種ではない問題まで、私の人生に足を突っ込みだしている。

    しかし彼のような人間、いや私の今でも愛している前夫が、あの悲劇の循環から抜け出すことで、本当の社会的な成功を手にし、清貧を通し、世俗を拒否し続けたからこそ、このような褒美が転がり込むのであると思えば、私は自ら好んでこの悲劇の循環に変わりに入ってもよいと思うのである。

    愚鈍だからこそ、悲劇の中でも生き生きとし、人を愛せるような立場になくても、深い謙遜を持って、人に献身できるのである。

    本当のヒューマニズムは、やはり宗教とは切り離せないものである。

    今後は、あの人々が味わったようなどん底の孤独感が、断片的に私を襲うだろう。でも、私は違う線路に乗ってしまった前夫を心の支えに生きていくことをそろそろ止めなくてはいけないのである。それには、孤独を味わい味わいつくして他を愛せざるを得ない状況に陥るしかない。