2010年4月4日日曜日

マタイ受難曲聴きてみたいが



1. Arie.

Erbarme dich, mein Gott,
Um meiner Zähren Willen!
Schaue hier, Herz und Auge
Weint vor dir bitterlich.
Erbarme dich, erbarme dich!

1. Aria.

Have mercy, my God,
for the sake of my tears!
Look here, heart and eyes
weep bitterly before You.
Have mercy, have mercy!

Chapelle Royale.

Rene Jacobs (Countertenor).

Dir. Philippe Herreweghe.

外で鳥が鳴いている。もう七時を回ったが、まだまだ明るいからだろう。春となると一気に明朗な雰囲気に溢れるから不思議。

今日は復活祭だが、昨日に引き続き、重々しい心を引きずりながら、でも内面の中心には、溶岩のように熱いものが沸き立っているのを感じる。
それがナンなんだか、全く分からないが。

イエスの生涯を考えながら、やはり無抵抗な生き方に思いを馳せた。
人の心を動かすことは大変なことだが、無抵抗に人が死を選んでいく姿は身にしみる。

マタイ受難曲の断片を聴いた時、 Eli, Eli, lama asabtani? とイエスが最後に嘆いた言葉が思い浮かんだ。どのような思いで、どのような意味があるのか。

アラム語がヘブライ語に翻訳された時点でasabutaniの意味が変わったというのを何処かで読んだことがあるが、記憶にあるのは、これはイエスの嘆きや、感情があらわになった失望の言葉ではないということ。

イエスが人間の罪を一手に背負ったため、精霊に見放され、神の存在を感じられなくなり、最期にこうした言葉となったとする説も多くあり、それはそれで正しい解釈であると思うが、実際は、次のようではないか。

神よ、神よ、今自分には分かった、何のためにあなたが私を選んだのか

結局、自ら無抵抗に死を選んだことの意味、そしてその死が無駄ではなく、そこに大きな役割、つまりそのために他の人間たちを救えるのだということを理解した瞬間なのではないか。
やはりあの死をもって、イエスはイエスたり得たのであり、あの言葉は感情的な嘆きではなく、彼の死を前にした納得ではなかったかと思いたい。

そういう思いで聴くと、マタイ受難曲は、耐え難い苦悩に満ち満ちているが、最期にはイエス自身が神の元へ戻ってゆくというAuflösung 解放があるのだという救いがある。
私達を救済したのはイエスであったが、彼もまた、十字架の死によって救われたのだと思うことで、少しはこちらも慰められるのではないか。

 そんなことを考えた日であった。

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