2021年3月28日日曜日

 生殖機能がきちんと働いている時代を生きるということは、忙しく、苦しみもあり、乗り越える壁も多いのだが、その変化に富んだ時代には、幾多の小さな喜びにあふれていることも間違えない。
私のように枯れかかってくると、変化が少なくなってきて、日常の色が格段に褪せてくるのである。安定とは色褪せることなのかと思わせるほど、その一直線の道筋は、空虚感さえ感じさせる。

そんな生活に唯一の彩りを与えてくれるのが、子供たちの人生である。彼らは経済的にはまだ無理でも、精神的には一人前として自らの道を、いや自らの道を探して歩み出した。そんな彼らの日常は、聞いているだけでこちらの胸が再び熱くなるような出来事に満ち溢れいている。三人三様に、長い苦しみの後に少しずつ出口を見つけ、小さな喜びの意味を学び、人生は生きるに値するものなのだということを身体で実感している最中である。そんな彼らの姿を遠目に見守っているだけで、無論心配や不安もあるのだが、やはり人生は誰にとっても、素晴らしいものになり得るのだなということを再認できる。

若いからこそ、深みを見たくなり、深みに入って、傷つき、傷つけ、また立ち上がるというサイクルを繰り返すことができるのである。そうして10年余り、無意識に己の真の姿を追いかけて、人は対人関係を織りなしてゆくのだ。人は相手があってこそ、自らの限界や、自らの知らない己の姿を反映させることができるのだ。彼らの日常が小学生の使う色とりどりのクレヨンの色彩にあふれているとすれば、私の日常はパステルカラーでも、グレーのトーンが混ざった褪せた色になってしまったのだ。

しかし、それを決してネガティブにとらえているわけではない。年を老いること、そしてやがては死にゆくことは恐ろしいことだが、自然とはそういうもので、人間はそれを繰り返してきたのだ。私は自分の過去を振り返った時に、あまり後悔はない。一点だけ、進路の面で後悔と言える瞬間があったが、それがあったからこそ、私は今この土地に暮らし、自分の子供たちを授かることができたのである。

一回限りというのはまさに一回限りで、二度とはないから一回限りなのだ。人はどこかでそれを知りつつ、若い時には、だからこそ突っ走りたいという欲望に駆られる。私は失敗もし、そして失敗に感謝している。私は深く思い悩み、何年間もひどく苦しんだ時代もあった。しかしそれだからこそ、私は大人になれたのだとも思う。もしも、衝動に駆られて突っ走らなかったら、そして常に理性を保って計画通りに人生を歩んでいたら、私はこの色褪せた日常に満足できたかどうかわからない。もしかすると、生殖機能を失いつつある老いの入り口で、もう一度色鮮やかなクレヨンで思いっきり書き殴りたくなったかもしれない。

人生は、自分のキャンバスなのだ。自分の心と一人で対話しながら、自分一人で描こうとしなければならない。鮮やかな生命力の漲る色をキャンバスにぶつけていかなくてはならない。年を重ね、色褪せたときに、それだけの鮮烈な色で描く力も感受性もない。思う存分書き殴ったからこそ、私は子供たちの人生ただなかの話を遠い目をしながら聞き、時に静かにアドバイスを送り、自分の胸を密かに熱くしながら過去に思いを馳せ、そして満足感を得ているのだと思う。

皆、それぞれに羽ばたいてほしい。成功も安定も、そういうことを目的とせずに、「己を戒め、己を掘り下げ、己を知れ」ということだけを目標に、まっすぐに追求していってほしい。人と世間には迷惑をかけずに、一瞬一瞬を心底楽しみ、常に自分には厳しい目を向けて、深い友情と深い愛情を育んでいってほしい。