2010年10月31日日曜日

今年の誕生日

 



去年の誕生日は混沌としたものだった。
友人ともいえない知人とつるんで、夜遅くまで飲んだのではなかったか。
彼らは私が作った友人ではなかったのだ。

私が誰かの取り巻きでしかなかった時代の、不思議な誕生日だった。
自分ひとりで築いたのではない、誰かの世界に属している人々を知人としてあてがわれた形の人々との関係は、不安と義務に満ちており、無理強いしても好意を膨らませていかなくてはならないという強迫感。
リラックスもできず、いつかは切れてしまうのも当然の結果なのだ。

そんな檻から自分で再び這い出したのは、もう8ヶ月ぐらい前の話になる。
それ以来、私の周りには新しい何かが作用し始めて、多くの人と知り合うことができた。

友人とは、本当に知り合うべくして知り合うものだとつくづく思う。
知り合いが、私の人生に及ぼす影響は限りなく少ないとしても、友人の意味するところ本当に大きい。
外国生活が長くなっても、ドイツ人の性質というのもあってか、私のこの引きこもり的性格による原因の方が大きいとは思うのだが、あまり友人と呼べる人がいない。
引越しを重ねてきたのもひとつの理由だろう。
そして、私の変な人の良さが、友人関係に疲れを覚えてしまう要因であるのかもしれない。

ところが、ここ最近、檻から抜け出した途端に、さまざまなことが再び動き出したのだ。
家族に心配事が起きたり、仕事面で大きなターニングポイントが訪れたり。
私自身の身の回りの扉が一斉に開きだしたように、問題は私と誰かとの関係ではなく、私の身の回りに絞られ、私に与えられた強制的友人は消え去り、替わりに思ってもいない偶然で知り合ったり再開したりする人間との発展があった。

そうして、これまで仕事を通して共同作業をしてきた人々とは、仕事以外の面でも大きな人間的意味を持ち始めて、私はすでに彼らにたいして、仕事上の乾燥した会話だけではない関係を感じ始めている。

その皆と、昨夜私の誕生日には、鍋を囲んで楽しく会話が弾んだ。
仲間が集まって、打ち解けて話し出すと、実は信じられないほど相手が遠い世界に存在していることを知ってしまい、どうしても噛み合わない歯車に孤独を覚えた、ということは数多くある。知っていたようで、知らなかった人々。それは友人ではなく、互いに友人を探している人々であったのかもしれない。

しかし、昨夜はそうでなかった。
仕事の仲間なので、悉くドライに振舞おうとしてきた仲間である。それが、どこからともなく集まろうという話になって、期待もせずに集まってみたけれど、それが思わず暖かい集まりとなって、話せば話すほど、お互いのシンパシーが高まっていくという、本当にまれにみる幸運だったのだ。

私が檻から出たことによって、いろいろなことが動き出し、私は無意識に選び、無意識に選ばれている。孤独を恐れずに、自分とあまり意味のない繋がっていただけの糸を切ってみると、私自身の糸は、孤独の中にも、自由に自分自身の物語をつむぐための前準備をしてきたのかもしれない。

その下地が、今ある仕事の発展であり、彼らと共に、それぞれがプライベートでも近づきになっていくこの過程なのかもしれない。

一番近しい彼の奥さんが、私を見て、会が終わった後に、すぐさま言ったらしい。
「彼女は、あなたと双子なのね」

彼女は、華奢でメイクもないもしないその素顔が、惚れ惚れするほど美しい。
パリで大学を出て、彼のいるベルリンに移り住んできたのだが、才女とは思えないほどのやわらかさ、しなやかさを持っている。私より10歳も若いと思われるが、少女の面影はなく、彼女は立派な魅力的な女性である。

彼女が、何を持って彼女の夫である彼が私と双子だと称したのか謎なのだが、私はそれを美しい女性からの好意だと受け取った。
彼と私は、会った瞬間から意気投合したし、何より仕事の段取りでのテンポや優先順位のつけ方、または効率に対する考え方がぴったりと一致している。二人三脚のように二人で組むと仕事が上手くいくのである。
そういう彼に、私は大きく一目を置いている。そして、おそらく彼自身も、私と仕事をすることを「楽しい」と表現する気持ちに嘘はないのだと思う。

常に家にいて、まだ小さな子供の面倒を見ている彼女は、私のことを聞き伝にしか知らない。けれど、私たちの仕事の楽しさは、彼女に伝わっていたのだろうし、その相棒を現実に見たら、なんと似たもの同士じゃないの、といった彼女に、私はどんな理由なのかさっぱり分からないが、底なしの信頼と好感を持っている。

おそらくそれは、男女の仲にも、本当に信頼できる友情というものが、あってもおかしくないのだという、そういう友情の始まりに対するひとつの肯定的な証明に感じたからなのかもしれない。
結婚している男性と近しくなると、必ず私はある種の不安感と罪悪感を抱く。
それは、私自身が結婚していた当時に、そういった夫の同僚女性のせいで言い尽くせぬほどの孤独を味わったからであり、そういった女性達がやはり女である立場を決して忘れているわけではないという場面を、嫌というほど見せ付けられてきたからに違いない。

私は、偽善ぶる気持ちなどまったく抜きに、彼女にそういう不安感を抱かせることになったとしたらは本当に心苦しい。
それと同時に、男性と友人関係であるという状況に陥らないように距離を保つべきであるという、多くの場合正しい選択を時に非常に残念だと感じていたのかもしれない。

そこで出会ったこの彼とも、まったく友情という言葉も、プライベートという言葉も抜きに接してきたが、仕事上の意気投合はすべてにおいて肯定的で、隠し立てするような問題ではないのだが、わけの分かららぬ不安が沸き始めていたのかもしれない。

彼女が、私をすんなりその輪に受け入れてくれたことは、私の誕生プレゼントのひとつであり、私は大きく安堵して、仕事上でもプライベートでも、この心からシンパシーを感じている彼と、そして彼のすばらしい家族とを友人だと思って良いのだというお墨付きをもらった気分なのだ。

欧州では、男女というものがやはり表面に常に浮き彫りにされており、それを超えて勝手に友情だと思い込んで、好き勝手に仲良くし、関係を築こうとするのは、無礼にあたるし、あまりにも世間知らずで無知である。
そしてたいていの場合、そんな友情は存在しないのである。
けれど、だからといって、あきらめてしまうには、あまりにももったいない「興味」というのがある。それをなんとか形にしてゆくには、自分で私は女ではない、といっているだけではまったく十分でなく、自分のセクシュアリティをニュートラルにする要因が必要となる。それは、互いの結婚だけでも十分ではなく、友人関係となる相手のパートナーにも、同じように深い愛情を抱くことである。その人を何があっても傷つけないという、二人一組と友情を築いていく、そういう思いやりがないと上手くいかない。そんな風にしか、私は男女の友情には可能性がないのじゃないかと思っている。

今後、この仲間たちとどうなってゆくのか分からないけれど、彼らは私にあてがわれた人間ではなく、私が一人きりで生きていく中で、必然的に私の人生を通り過ぎてゆく人々で、そしてすでにこの短い期間で、幾ばくかの影響を与えてくれている。

このめぐり合い、そしてこの作用のダイナミクスからも、私の人生が再び過渡期に差し掛かり、今もまだ浮遊を続けているのだと実感する。
そして彼らも、おそらく新しいなにか見つけるべく、彼らなりの流れに乗っていることだろう。私が彼らのつむぐ物語の中で、ただの動く知り合いでしかないのか、なんらかの痕跡を残すことになる友人となりうるのか、私には知る由もないが、願わくば、友人となって行きたいと、ひそかに願っている。そして、彼らにはそのために必要な、小さな愛情の積み重ねを、本当に厭わずに注ぎ込んで生きたいという気持ちがあることを、私は昨夜実感した。

本当に素敵な誕生日だった。

2010年10月28日木曜日

ただの日記

最近はどうも忙しいらしい。
いったいどういう状況が忙しくて、いつが忙しくないのか。
いつ自分自身ストレスを感じていて、いつリラックスできているのか、そういったことがまったく実感できなくなっている。
けれど、それなりに受注が押し寄せて、締め切りに向かって毎日夜中まで仕事をしているからか、3日前、恐ろしい背筋痛に見舞われて、にっちもさっちも行かなくなった。

私はそもそもぎっくり腰の癖があるのだが、運動や変な動きとはまったく関係なく、ある日突然腰がくりっと壊れることがある。
そして、考えてみるとたいてい、仕事が押し迫り、寝不足が重なって、仕事の掛け合わせに、ちょっとあえいでいる時なのである。
そういう頃合を自分で先読みできればよいのだが、自分の事に関して鈍感な私にはまったくできない。


この通りにタイの伝統マッサージの店があるので、ひょっこり行ってみたら、大成功であった。
小柄で華奢な、年の頃がおそらく同じと思われる女性が、私の身体を解体するように癒してくれた。
大変な体力の要る仕事だと思うが、彼女は、無口でしかし優れたスキルを使用して、私の身体と対話をしてくれた。

次の日、若干良くなっかが、それほどでもないと言う感じだが、今日、かなり改善し、おそらく彼女の処置なく、ここまで改善しなかったのではないかと言う実感がある。
セクシュアルな意味ではなく、人に身体を触ってもらうと言うのは心地よい。セクシュアルな触体験にも、もちろん肌を触れあう癒しはあるのだが、リラックスとはまた違う。温かみを分かち合う、心を通じ合わせることが、男女の目的かもしれないが、癒しの触れ合いはそんなに熱くない。ひたすら、私自身をケアしてあげていると言う自己満足もある。

明日金曜日なのだが、気が早まって、今日仕事の後にスーパーの魚コーナーで、車えびとイカを買った。アサリもムール貝もなかったので。
そして、ル・クルーゼの鍋で、決してイタリアリゾットではないが、フランスの魚介リゾットを作った。にんにくをたっぷり入れて、ブイヨンなどは一切使わず、塩と胡椒のみ。
息子は、退屈な味だと言うが、最近私は何が入っているか分からないブイヨンには用心している。

どうでも良いことを書いた。
まるで誰かに宛てた手紙のように、時々、こうして何かを語りたくなる。
決して、私はこう思う、こういうことがあった、こうしていきたい、と言う具体性に一切欠ける文章であっても、後一時間も書いていればきっと出てくるであろう、本当に語られることの必要なテーマにも、こうした日常の語らいが影響を与えていると信じている。
思い切ったことだけを書いていこうと思ったブログだが、自分の部屋同然なのだから、好き勝手につまらないことも述べていこうと、そんなことを思った。

ブログを書きたくなるのは、一言、人恋しいのである。それに尽きる。

食後の白ワインを楽しみつつ、また仕事の残りに取り掛かる。

せめて手作りのものをしっかり振舞った晩は、子供たちの胃に良いものを入れたという満足感もあるし、彼らも食後は非常に静かである。
食事は侮れない。

2010年10月24日日曜日

雨の日曜日

朝起きると、窓から灰色の空に黄金色をした銀杏木がそびえて見えた。時折木々の枝が揺れては、たくさんの葉が舞うようにして落ちてゆく。


土曜日に買い物へ行きそびれたので、徒歩2分のスタンドまで歩いた。
雨が横から降ってきて、風が強い。

歩きながら小さな静寂を感じた。これから厳しい冬が来るが、むしろ楽しみでもある。外へ繰り出さねばと言う恐怖感もないし、凍えそうになりながら、暖かい家の中へ駆け込んだときのなんともいえない幸福。

知人が日本のお祭りの写真を送ってくれた。美味しそうな匂いが漂ってきそうな縁日の食べ物が湯気をたてている。
何気ない文章の最後に、添付されたその写真を見て、私は涙ぐむほど心が温まった。日本のお祭りと言う、またしても私の五感を刺激する写真であったからというだけではない。その人が、写真を添付してくれた、その取るに足らないような親切心が、思いやりのように感じられ、心が温まったのだと思う。

その人は、メールの中で「だんだん一人でいるのがきつくなってきました」と漏らしていた。
私自身は、一人になって長いわけではないので今のところ解放こそされても苦になったことはない。きついなと思ったこともない。ひとりになる前から、二人でもずっと一人でやってきたからかもしれない。
実は、本当に二人と言うのを知らないのだ。
誰かの人生を追いかけてきたことや、誰かに追いかけられたことはあっても、二人で共に歩んだと実感できる時間はわずかかもしれない。

同じ線路を歩みながら、同じ駅に止まるのだが、乗車しながら二人は常に別々のことをし、別々の方向を見て、好きなものを探し、捉え、また違う方向を向く。けれど、喜びや悲しみを感じたときには、必ず隣の相手を振り返り、話かけ、喜びを分かち合い、悲しみを隠さずに露にする。そんな歩み方なら素敵だと思ってみたりする。

同じ事を行い、同じ関心を持って、友人を共有し、日常を共有しながら、でも二人三脚でどんどん線路を変えていくのは、サーカスの曲芸に近い。線路を変えるときに、必ず揉め事や意見の違いが起こる。線路を変えることは、時に生活を覆すような恐怖に満ちることもある。

私なら、私鉄の静かな沿線を選んで、その私鉄の線路自体に、ある程度の生き方の好みが表れているため、その沿線を愛する人と共に、退屈な景色を何往復でもしながら、同じ線路を歩み続けたい。けれど、なんでも共有するのは絶対に不可能だと思うので、いつもとなりにいるのに、いつも違う方向を見ているぐらいが良いのではないか。


そうでないと、誰の線路に乗るのか、という問題まで出てきてしまう。
誰の線路に乗るか、私の線路、あなたの線路、そういう意識は刺激的だが、もういくらなんでも私はそこまでのエネルギーも自分に対する信頼も残っていない。
だから、偶然行きあたりばったり、魚を買いに行ったら知り合って、一緒にそばを食べたら、リラックスできて、すきなのか、嫌いなのか全然分からないのだが、このひとは確実に同じ線路に乗っているだろうと言う、気づかぬほど小さな信頼さえあれば、今度は一度そういう人と歩みだしてみても良いかなと思っている。

熱いもの、というのは過去としての観念になった時、意義を与えられて心にずっと残ることがある。
さめてしまうものも多い中で、私自身は、人生で一度だけ、岸壁に立って、私の核心に大きく形跡を残すことになった危険だが深く美しいものを見たような気がする。
私は、どんなに年取っても、心の中のこの部分だけは手放さない、絶対にこれは死後も、私と共にもって行くのだと思えるものを蚕の中に包んで持っている。
これは、ある意味、本当に幸せなことだと思っている。だから、私はそれ以来人生を捨てたようなところもあり、行き当たりばったりに任せていたところもあり、魂自体を眠ったまま、凍結させてしまったというところもあったのだが、今は、熱いものにあこがれることも、それにめぐり合ってしまうことへの恐怖もない。
蚕があるからこそ、私はいつでも慰めを知っている。そして、相手にもそのような蚕があればよいと思う。過去を知る気もないし、その人の恋愛感をどこまでも追求するつもりもさらさらない。
ただ、その人も自分を形成してくれたなにか脅威にも近く美しいものを仕事や人生の中で体験していてくれたら、その思いだけを心の中に大切に秘めていてくれたら良いと思う。そして、まるでもう探すことも追求することも止めて、古くから自分の近くに常に存在していた線路に戻り、静かに余生を過ごすような形で歩んでいる人ならば良いと思う。
それは、決して年齢の問題ではない。
そういう体験をすると、その後がまるで抜け殻のような人生になることがある。その孤独は深く、どんな人間もどんな出来事も、なかなかその喪失感を埋めることは出来ない。
そういう孤独を抱えつつ、蚕と共にひたすら前進する姿。

あなたは知っている、私も知っている
Lo sai, lo so.
You know, I know.
Du weißt, ich weiß.



何が言いたいのか…。

そういう人に見えたその知人が、急に一人がきついと言い出したことに驚いたのだ。蚕を持っていないのかもしれない。だとしたら、寂しいだろう。何か出来ないかと思って考えている。その人が私の中に呼び起こしてくれた温かい気持ちをどうしたら、私がその人の中にも呼び起こせるか。人に何かを与えるとは、本当に難しい。それはいつも間接的に作用するからなのかもしれない。

2010年10月19日火曜日

写真箱

新しいプリンタを買って、それがあまりにも優れているので、写真を整理しながら印刷したり、スキャンしたりという作業を行おうと思った。

そうでなくても、この頃の過敏さは尋常ではなく、ちょっとヘルダーリンを読んだだけで、涙がぽろぽろとこぼれてくる有様だったのだ。
心が、何かを探している。それはよりどころなのか、それとも希望なのか、慰めなのか、共感なのか、あるいは孤独なのか。

封筒に入った写真を取り出してみると、6年前に亡くなった祖母のお葬式の写真だった。長生きしたので、ひっそりと家族だけで出したお葬式だが、母は気を使ってか、こまめに写真を撮ってくれ、私に送ってくれたのだ。
当時、私はあまりにも思いが新鮮だったため、その写真を見ても、おそらく何かがブロックされており、あまり何も感じることが出来なかった。まるで、写真の向こうの遠い祖国での出来事に思え、自分のここでの生活との接点を見つけ、私の身に起こった身内の不幸なのだと言う実感を持つことが出来なかったのかもしれない。

何の心の準備もなく、祖母のお棺を見て、そして入棺されるまえ、ふっくらとした布団に寝ている祖母の姿を見た途端、思わず涙がこぼれてきて、しばらく写真をそっと大切に胸に抱きながら、泣いていた。

あれだけ親しくなついて、色々世話もしてもらったおばあちゃんのお葬式にすら、私は出られなかったし、彼女を見取るどころか、世話すらする機会にも恵まれなかった。
同じようなことを両親にはやはり出来ない、一生の後悔になると、まるで一瞬にして、今の状況にある自分自身がどこに属するべきなのかを悟ったような「錯覚」を覚える。
錯覚と書くわけは、やはり子供のことや、ここにいた年月を考えると、やはりさっと決心できないだけの複雑な問題があることを承知しているからなのだが、それすら、もうどうでも良いと言う疲れも覚える。

写真箱を整理しつつ、涙は続けて流れてくる。
何年も見ることのなかった、私の過去。PCを買ったのは98年だが、写真を保存し始めたのは2000年あたりで、それ以前はアルバムに貼ったり、整理できないものは箱に小分けしていた。
つまり、そこには、離婚も病気も、どんな死も終局もない私と、私の子供たちと家族が写っている。
悩みを抱えた私は、それでも生き生きとし、若くエネルギーに満ち溢れている。苦しみがあっても、やはりそこには憎しみと同時に愛が存在していたのだろう。
がんばる甲斐とか、ものを継続させる甲斐というものを実感していたに違いない。

子供たちはしかし、誰をとっても不安そうな顔で、時折ニコニコとして写る写真のその顔は、本当にはかないほど繊細で、純粋で、傷つきやすい表情をしている。
こんなにかわいい子供たちを持つ喜びを一切十分に味わうことなく、私は葛藤を続け、夫を愛し、愛しきれず、自分に集中している年月を過ごしてしまった。
後悔は後を絶たない。

この写真箱は、2000年あたりから更新されなくなってしまった。同時に私も第二の人生を始めたわけだが、その後の写真は、常にPCやHDDに保存してあり、頻繁に目にする。
それだからと言うわけではないが、子供たちの目覚しい成長の記録以外は、私の人生はまるで、仮の人生を歩んでいるように、デジタルとしてしか存在しない写真のように、手ごたえのない軽いものに見えてしまうのはなぜだろうか。
苦しみの質は以前とは比べ物にはならないが、苦しかったと言う記憶は多くあり、考えずにすごすようになったわけでもなく、それなりに常に真面目に取り組んできたつもりであるのに、私の写真箱の中には、生々しくまだ息をしているような過去があるが、最近の写真はまるっきり訴えてくるものがない。

そして、自分でデジカメを所有するようになって、数こそ撮るようになった。昔は、デジカメすら持っていなくて、使い捨てカメラや安いカメラで少しだけ撮っていた。趣味でもなく、写真を撮るのが嫌いで、カメラは常に忘れるのが癖であった。
それでも撮った写真には、意味があるのだろうか。残したい思い出、そして心に焼き付けておきたい瞬間だったのだろう。


過去に癒されたり、過去に埋もれたりするのは、年をとったのか、今不幸なのか、そんなことぐらいしか思い浮かばない。
けれど、写真は心が出るのだと、本当に目からうろこのような体験をした。
今の私は、カメラもってどこへでも行き、撮るのが楽しいと思う。しかし愛が欠けている。生活にうそがあったから、それが写真に出たのだ。こなれた写真や、腕を磨いた写真、そんなものはいくらでもあるが、迫力のある写真がない。

昔は、写真には興味がないが、対象を愛する気持ちを一杯に込めて、一瞬のシャッターを切っていた。
親の心であり、妻の心であり、娘でもあり、その生き方のどこにも嘘はなかったのである。

今後、私が何かの折りに過去を振り返った時に、やはりこうして祖母の人柄や祖母との思い出がにじみ出てくるような、または幸せだと信じて疑わなかったあの頃の生活が、写真から踊りだしてくるような、そういう写真を子供たちと共に撮って行きたいと思った。
一歩ずつ、自分の人生からうそを取り払っている今、それも出来るかもしれないと希望を持っているが、若くないということは、何かを生み出すとき、無垢な姿勢には戻れないので、これは修業だと思うことにする。

一瞬、写真箱の中に目を通しただけで、愛おしいものが何で、何を大切にしなくてはならず、何に感謝をすべきで、何を忘れるべきではなく、そして私が何を失ったのか、はっきり見えた。
悲しみもあったけれど、心の中に、またひとつ小さく細いろうそくのともし火が点いた。

2010年10月11日月曜日

心のシンプルライフ

いよいよ、木々の葉が黄金色に染まってきた。
本格的な秋の到来である。澄み渡るような空であるが、外に出るとその冷たい空気は、衣服を通って肌をひんやりと冷やす。ああ寒いと、そう感じるほどに気温が下降してきた。

それと共に、私の食欲は増し、退屈な季節をやり過ごすために、家の中に楽しみを持って来ようとばかりに、料理にいそしんでいる。この私が、食べ物だとか、料理の献立などに凝るのだから、本当に何があるかわからない。
美味しいものを口に入れている間の幸福感、少しの贅沢がどれほど心を豊かに潤してくれるか、そんなことを実感する熟年になってきたらしい。考えてみれば、食だウェルネスだと言い出す、中年女、それもロハスだとか自然派だとか言う余裕のある、暇人中年女に、自分もなってしまったのかという失望感も伴っている。

ロハスは素敵だと思うし、実際日本に帰ったら、天然生活のような生き方を実践してみたいと、そんなことを一緒にできるパートナーなら良いなと、そんな具体的な夢まで見ながら、暇をつぶしている。

しかし、それも考えてみれば平和ボケしたとぼけた生き方だなとも思うのだ。

ウェルネス。子供のためのヨガ。アーユルヴェーダ。タイマッサージ。フットケア。そしてリラクゼーションという言葉。

本当に簡素な人生を求めれば、毎日善良な心を持って生活し、肉体を使って汗を流し、日々めぐりくる時間を大切にして、周りにいる人間に、思いやりと誠意をもって接してゆくこと。
これこそが、すべてなのではないだろうか。
そして、ここから学びえることこそ、私たちの生活には重要となってくることがあるのではないか。

道具を揃えたり、ステータスとしてのロハス的ライフスタイルなどを追う間は、何もわかっていないという気もして仕方ない。
これは自分に言い聞かせていることでもある。
日常を楽しむとはそういうことで、それなしには生きていかれないのであるが、もっと突き詰めて、簡素に生きていかなければ見えないことが多くあるのではないか。

そんな風に感じてしまう自分がいる。

私が、欧州を去ることに、ある種の恐怖を抱いてしまうのは、実は、そこのところなのではないかと感じている。
私の生活は、東京に住んでいる人から見れば、恐ろしく限られてるのだ。
決まった生活圏でしか動かず、娯楽もないし、日曜日のショッピングもない。テレビも見なければ、外に行くと豊かな商店街があって、暇つぶしができるという気晴らしもない。
自分たちの質素な生活の中で、一様に退屈な一色で染まってしまいそうだからこそ、心の中に目を向けていくしかないという状況になることがしばしばある。
これは学生時代からそうであった。

大学生のころ、日本にいたときは、化粧をしなければ友人ともつりあわない。
このようなショッピングをしなければ、友人とも買い物に行かれない。
このような値段を躊躇しているようでは、友人とお茶を飲むことすらできない。
自分の所属するカテゴリー、階層に見合った生き方や日常を追っていくことで、精一杯だった自分を思い出してしまう。

ところが、ドイツに留学してきて以来、その価値観はすべて、無駄なごみとして葬り去られてしまった。
化粧をせずとも、誰も見なければ何も言わない。むしろしている学生など数少ない。
テレビを持っている学生も当時は少なく、本当に大学にいて、その後は安い夕食を自分の屋根裏部屋で作って、さびしく食べた後は、PCもない時代なので、本当に本を読むしかなかった。そうでなければ、本当にボーっとして考えるしかなかった。
今でもそうなのであるが、ここに住んでいると、お出かけ用の服とか、アクセサリとか、まったく必要がない。演奏会に出すら、ラフないでたちで行っても問題がないのである。

私自身、モノに惚れることがあるという感性を持っている以上、それなりに服も選び、好きなものに囲まれて暮らしているが、所属している社会のグループを意識して日常を合わせていく適応能力を活用したことはない。
それぞれが、所属をまったく考慮せずに、個人の人生で精一杯かもしれない、という印象を受ける。そもそもが、日本よりはそれぞれがおそらくずっと孤独で、それを癒すかのようなパーティーだ、カーニバルだという気もしないでもない。

結局、心理的に私は常に独りきりにされており、所属するべく場所に対する気遣いがまったく抜け落ちているのだ。
その中で生活するとき、生活はそれだけでシンプルになる。
私は今日何をしたいか、すべきなのか。
そのときに、彼らの様子を伺う彼ら、というのが存在しない。
なぜなら、その彼らだと思っている彼らが、こちらの「私」の様子をそんなことぐらいで考慮してこないからである。

その中で生きてきた22年は、非常に大切なものを私の中にもたらした。
孤独を垣間見たことと、自分は、グループに所属することで服や好み、または集団の行動やライフスタイルなどの外見で知ってもらう、表明するものではなく、私個人の発言、具体的な人生の処世術、または具体的な活動を通してのみ、私というものの存在を訴えることができるということである。

日本に帰ると、それを誰も私には期待していない。
社会が私に期待していることは、根本的に、私がここで通り抜けてきたこととは違うことなのだ。
だから、私はまた、会社の人間として、または所属している同僚や友人、または自分の教育や職業に属した人種の送るべき生活、レベル、といったものに適合しようと勤めるということは、わかりきっている。

それが、天然生活やクーネルだとか、そういった希望を持つことによって、すでに予知的に準備をしている、または日本に帰るならば、属さなければやっていかれないことを本能的に知っている私がいるようだ。
そして、その際、この自由と責任と不安と孤独が4つのコンビネーションとして基盤となっている生活に、終止符を打つ。

つまり、精神的シンプルライフ、自分の生活を大切にし、身体を動かし、善良さをわきまえ、隣人に思いやりをもって接していれば良いはずである、という仮説が、見事に壊れてしまうのだ。
それだけでは決して足りない。
和の意識、集団としての団結感。
そんなものは、私には必要ないということはいかにも容易い。
けれど、それに適応しなければ、日本では非社会的人間とみなされてしまう危険がある。
そこで、再び、自分以外の、いや、自分の本質、核の部分にあたる、心の中心を見失いそうになりながらも、集団としての団結感の中に属していくことを選ぶ以外、選択の余地がないのである。


それが寂しいのだろう。

シンプルライフとは、生活スタイルじゃない。
心の中に、人間として最も大切な、しかもおそらくそれはもっとも単純な学びを植えつけた上で、精神的に如何にシンプルで在れるかどうかなのだった、と最近気がついた次第である。

読み直しなし。乱筆、書きなぐり、思いつき、早打ちのまま、記事を投稿します。
お見苦しいところはお許しください。