2013年9月8日日曜日

どこかで知っていた

なぜだかはわからない。
初めて見た時も、次に会った時も、また一年間知り合いとして付き合った後も、魅力というものを感じたことがなかった。

しかし不思議な妄想が私を襲うことがあったのだ。
彼に愛されているというような場面が、突然暗闇のかなたから飛び出してきては、はっきりとしない夢想のように私の心を襲い、まるで晴天の霹靂のような問いかけに、いったいどこからこのような馬鹿げたイメージが湧いてくるのか、何度となく疑問に思ったことがある。
非常に稀であったが、あまりにも長期に渡って終わりを遂げることなく襲ってきたので、いつしかこの妄想じみたイメージを拒否することもなく受け入れ、そういうことになるなら、いずれそういうことになる、しかし今現在はそこから100万マイルも遠い所にいるのだから、なに、こんなことに考えを巡らせる必要もないと、そうしてこの話は、来るに任せ、過ぎ去るに任せていたのだった。

ところが、何が起きたのかもあまりしっかりと把握できないままに、このあり得ない知人は自分のパートナーにさえなっていた。
まさにあの突然襲ってきた夢想が、現実と化した形になったのである。

運命という言葉を信じるのは嫌なのだが、運命的な理由を持った二人が出会うということは実感したこともある。
しかしこの場合は違っていた。理性で考えても何の理由も見つからない。性格的にも最初はまるっきり油と水であったのだ。
ところが相手の方は違ったらしく、最初から好意を感じていたという。私は一切何の感情もなく、それどころか付き合いが長くなればなるほど、嫌悪感を覚えていったほどなのである。

男性と触れ合う機会というのは、数限りなくある。
ちょっと久しぶりに会ったといえば抱擁し合い、一緒に飲み交わしたお酒がおいしかったといえば抱擁し合う。抱擁の文化でなければ、頬にキスをし合い、見知らぬ人でも握手をするのが普通である。通常友人ならば、そこで抱擁し合ったところで、温かい友情というぬくもりを感じ、親しみを実感できたとしても、それ以上のものは何も残らないのが普通である。
ところが、この人の場合は違ったのである。
この人とは、すれ違った好きに骨ばった肘が触れただけで、何か相手の反応している様子が実感できたり、自分自身が触れてはいけないような、とても気軽には触れられないという、果てしない距離感があったのである。
友人として触れることに一切の躊躇はないというこの私でさえ、この人には触れがたい何かがあったのである。もしかすると、それは相手が私を意識していることを無意識に感じ取った上での安全的距離感だったのかもしれない。
けれど、今思えば何とも不思議なのである。

ごく初期の段階に集めた思いを語ったところで、将来的な意味はほとんどない。様々なホルモンが心を乱しては発散させている思いを、本物の人物への感情や愛情に変換させていくことにこそ難しさがあるのだが、まだその段階ではないので、何を言うこともないのだが、この時期にこそアンテナを張り巡らせておかなければ、今後困難に直面したときに、当たって砕けろになってしまうなとは思っている。
当たって砕けろだけしかできずに、偏った生き方や恋愛をしてきた私である。駆け引きというのは無意識に行っているとしても、駆け引きの価値を信じたことがない。
しかし今回はもう少し余裕をもって、穏やかな関係を築いていきたいものである。もう当たって砕けろでは、おそらくうまくもいかなければ、自分の体も精神も持たないだろうと予想できる。

色々なことがあったが、この人にはありがたみを感じている。精々指輪をドブに投げ捨てるだの、満席のレストランでバックをぶちまけるだの、人前で相手の顔にグラスの水をぶっかけるだの、そういうことはやらないように気を付けようと思う。
そもそも、そこまで私を激しくさせたのは、相手の果てしない鈍感さであったのだが、それはそうとしても、このような爆発は、長い目で見れば破壊以外なにも呼ばないのである。

とりあえず、小学生はいなくなり、子供たち全員がすさまじく独立し始めている。上二人は18と16さいで、家になどほとんどいない。いよいよというときに、全く新しい季節が始まった。前回の日記はまんざら嘘ではなかったらしい。文字通り、私は違う惑星へと大きく移動し始めているのかもしれない。

幸せということが、私の考える幸せで良いのなら、これで死ぬまで幸せなことは間違えない。悔いのない人生ですっきりしている。子供たちさえ不幸がなければ、私としてはもうこれで胸がいっぱいといえるほど満足している。こういうことを言うのは嫌なのだが、ずいぶん頑張ったといえるのかもしれない。