2010年11月9日火曜日

反権威主義教育に一言申す

私は、まるっきり教育の素人である。教育論や教育学などを履修したらしいが、そんなものの内容すら講義室の様子すら覚えていない。

それでも、子供三人を持つと教育テーマとは縁を切れない。今日は、最近あまりにも身近に感じている反権威主義的な教育について、だからどうだと意見をまとめて、論じるまでは無理だが、思うままを書いてみたいと思う。

音楽教室で教えていると、時々信じがたい子供を目にする。練習する、しないの云々ではなく、とにかく場所にそぐわない大声を出し、「ここから弾いて、もう一度やってみて、指はこうよ、この音が間違っているわよ」といった指摘に、いちいち「もう~やだ~・やりたくない~・間違ってない~!・あんたが間違ったんだよ!・がはははは~」のいずれかの反応が入る。
こちらは、流石に3分後には怒鳴るのだが、怒鳴られたという状況が見えていないらしい。
つまり、音楽の先生は、楽器を教えてくれる人なので黙って習う、という姿勢はゼロで、この人にも私は何を言っても許されるし、ここでも私は家でいる時と同じような声を出していいのだ、という感覚しかない。
流石に、小学校1~3年生ぐらいまでだが、それにしてもひどすぎて頭に血が上る。

さらに、少し上級になると、たちが悪い。
「この曲はやりたくない・ここそうやって弾いたじゃん!・もう一度は弾きたくない・ここからはできないから、最初から弾く・こんなリズム書いた人がおかしい・ちがうよここの音指差したじゃん、この隣のやつ、だからそこから弾いたんじゃない・(手や指のフォームを直すと)私の好きなように弾きたい」
声量や爆笑などの問題は解決するが、さらに言い訳や好き勝手に拍車がかかる。

そして、とうとう私の堪忍袋の緒が切れると、私は声を荒らげたり、脅しをかけたりするわけでもないが、冷酷な人になる。そして楽譜を閉じて出て行きなさいと言ったり、今までの態度が、どれほど失礼なものか、その子の真似をしてみせ、こういうことをあなたは人に対してやっているのよ、あなたがそうやられたらどう思うの?と突きつけてやる。

その際に、大人に向かってそういう言い方はない、先生に向かってそういう失礼なことは言わない、と口をついて出そうになるのだが、そんなこと、この子供たちは聞いたこともないし、親から文句が出るのが恐ろしい。

「そういう上から押し付けるような言い方は止めてください。」
言われたことはないが、言われそうになったことはある。

例えばチューインガムをかんだまま弾くので、冗談じゃない、口を動かしながら、指も動かして楽譜も見るなんて無理でしょ、と言えば、ガムを噛んで唾液を分泌させると集中力が増すと返してくる。
授業中にもやっているの?と聞けばそうだと言う。先生は何も言わないの?と聞いても別にだそうだ。

そりゃあ、どの先生も何も言わないとは思えないが、このような反権威主義、子供を自由活発に、自分の意志を尊重し、決して強制することなく教育する、という風潮があまりにも強すぎる。

だから、そうして私に冷酷に怒られた子は、突然大声を出して泣き出し、楽譜をかっさらって、さようならも言わずに出て行くか、下を向いて知らぬ顔をして解放されるのを待っているか、怒られたことすら自覚できずに笑い続けて追い出されるかに別れる。

さて、親たちに目を向けてみよう。
どのような親なのだろうか。放任主義で、自分勝手、自分のプライベートや仕事に忙しくて、どうにも時間がない。子供より私の人生なのだろうか。

それは正反対なのである。
親たちは、揃って高学歴で、非常に教育意識が高い。無害な木製のおもちゃを与えて育て、夫婦で高収入の仕事につき、街中なのに一軒屋のような家に住み、ベビーシッターも複数抱えているような家庭がほとんどである。
そして、母親たちがレッスンを一緒に聴くと、事態は更に悪化し、妹が平気でお菓子を食べ出したのを見て、レッスン中の姉はずるいと号泣し、母は、「○○ちゃん、そんなに泣くのはおよしなさい。アイス食べに行くんでしょう?ママはもう聞きに来ないわよ」、などとひそひそ声でたしなめているのである。利口で美しい母親だが、私なら下の子のお菓子をもぎ取って、その子を抱きかかえて謝って、即刻退室するだろう。未だにそれが最良の選択だと思うが、その母は号泣し、周囲の部屋に迷惑をかけ、レッスン妨害しているその子をもてあましているだけである。

また、4歳児が来たので、鍵盤に慣らせようと色々と違った方法をその子に教えていたのだが、その子は、突然ピアノのいすに飛び立って、踊りだしたり、鍵盤をがんがん叩く。
母は、私のほうを見て、「この子、今日水泳の時間があったので今日はもう無理みたいです」という。「無理って、毎週この時間だし、たかが30分だから、しっかり座ってもらえばできることですから」と答えると、「でも強制しても意味がない」と。「でも強制しないと、この年頃の男の子って、いつまでも座らないじゃないですか」といえば、「いえ、この子、疲れていなければ、おとなしくて集中力のある良い子なんです」という。「それは疑ったことはないですけど、ここは時間も少ないし、ピアノの前に座って話を聞いて、いわれたことをやるのが基本中の基本で、それができないなら、今はレッスン受けるのは無理でしょう」と答えた。そうしたら、それ以来私のやるようにやらせてくれるが、それでもその坊やも猿の気が抜けない。

これはほんの一部である。

子供の好きなように、子供がどれだけの分量をこなし、これ以上無理かを決める。強制はしないというスタンス。

私には理解できない。私は強制され、無理強いされ、仕方なくやったから身についたことがどれほどあったろうと言う記憶しかない。そして自らやりたくて努力し覚えたこともあるのだが、強制されて覚えたことの量にはかなわない。量ではなく質だと言われれば、確かに自主的な方が記憶も鮮明かもしれないが、小さい子は、好きにどうぞだけでは、彼らの不安が膨張するばかりにもなり兼ねない。
それで、耐性がなく、すぐに泣いてしまったり、レッスンを止めてしまうのだ。

はっきり言おう。
このような子供たちの中で、しっかり着実に、まともに上達している子はいない。
みんな、でれでれとただ来ているだけで、そのただ通っている範囲内でしか上達しないのである。練習も誰にも強制されずに、家でも好きなことを自主的にやるように言われるのだろうか。
とにかく、大きい声で怒らない、一方的に威圧的に否定しないということは、教育でも大事だと思うのだが、社会はそんなに甘くない。独立自尊が崩壊することもあれば、その根拠なき自尊心がお門違いであることも多くある。

もっと成長すると娘の世代になる。思春期である。
娘の親友は、4人の兄弟がいて、すべて父親が違う。そして母親は、最近レスビアンになったのである。見かけもまともで、極普通の幼稚園の先生をしている。私自身ホモセクシュアリティには、一切の偏見はない。しかしながら、彼女の中で、「Emanzipation解放」という言葉が大きな価値を持っていることは、その生き様を見ても一目瞭然だ。
その娘が、心の不安を訴えるらしい。父親には会えないし、兄弟と言っても半分の兄弟だし、母親の彼女も同居している。彼らのセクシュアリティにも思いを馳せるだろう。
そして、この可愛い娘が、パーティーに行くというと、
「好きなだけアルコールを飲んで、色々なものを試し、早いうちに自分のアルコールの限界を勉強しなさい。タバコもなにも、すべてやってみれば良い。それでもあなたが本当に必要だ、欲しい、と思えるなら、やればよい」
と言う考えであるらしい。私の娘も証言したし、私もその母親と何度も電話してこの耳で聞いている。
この娘たちは若干15歳である。


その娘の精神不安定のために、彼女は一回70ユーロを投入してセラピストに行かせているという。思えば、こんな境遇ではそれは良い考えなので反対しないが、もうひとつは、この学校で成績が悪いのは、あの旧東独の制度の残った教師の授業のせいだと言い、娘を諭すこともなく、私立の学校へ行かせてあげると、娘と二人で見学中で、娘が選べば良いと計画しているらしい。

私の言いたいことは、このような解放主義的、反権威主義的教育の影響から出てきた錆の部分を、一生懸命に補おうとして金銭や労力を投入しているようだが、その錆が出る前に、もう少しやりようもあるのではないかと思うのだ。
アルコールもやれ、タバコもドラッグもやってみれば良い、成績さえ正常なら同棲したって良い、苦しければセラピストを紹介するわよ、嫌なら転校したって良い…。
極端に見れば、これでは子供はどうしていいか分からないのではないか。実際は、二人三脚とも言え、父がいないので、文字通り仲の良い母娘の硬い絆があるに違いない。愛情も満ち溢れているだろう。けれども、どこか私は反権威主義になじめないのである。

下記に、独語WikiからAntiautoritäre Erziehung(反権威主義的教育)という項目を抜き出した。拙訳である(ちなみにこの用語の項目は独語・蘭語しかない)。

これをざっと訳しながら、アレルギー的に、この教育には従えないと思いつつ、私自身の問題児である娘の性格を考えたとき、彼女を十分に抑圧的要素のある伝統的教育に押し込めることはまったく不可能であろう、という別の観点での確認をしてしまった。彼女は、抑圧的従属的教育の中で、明らかに謀反を起こしたり、ついていきたくないと拒否したり、なじめないでいるわけだが、そうして落ちこぼれていくならば、本当に落ちこぼれでしまう前に、この反権威主義でも解放主義でもいいから、教育として形態を成しているものを基盤とした学校に入れないと、後で取り返しがつかぬかもしれないと言う不安が出てきたのである。

そういう私は、まさに「伝統的・権威主義教育」の落とし子であり、独立自尊はおろか、決断力もなければ、自分の決心したことこそ間違えであるに違いないと言う不安に襲われてしまうのである。
これが、反権威主義教育を受けていたとしたら、あの子は転校しかない!と言い切れるのであろうか。

一概に良いとも言えず、一概に悪いとも言えない。
しかし、ある一定の子供たちは、この教育方針にしか従えないと言う場合もあるらしい。そして伝統的抑圧的教育を押し付けるよりも、いっそフリースクールのようなものに入れた方が、予後が良いのではないかという印象がある。

それにしても、音楽学校に来ている問題児たちは、そんな重症な子は少なく、単にビシッと言われさえすれば、普通にできるというぐらいだろう。ある程度の調教は、それは特に、他人に対する態度として、絶対に施される必要があると思う。社会というのは、何らかの犠牲を払わねば所属できないのは、昨日書いたとおりだが、この子達は、オレ様だぜと言って、この異常な(これはまた後日)界隈を闊歩しながら勝手に振舞ってしまうのだろうか。

いくらなんでも、できの悪い私の猿どもでさえ、音楽のレッスンと言えば、一言も発せずに先生の前で緊張しきって言われるがままに、人形のように弾いていたというのは事実である。

そして、これは余談だが、今日いつまでたっても練習せずに、1年以上やっているのに、さらに一切の練習をしなくなったのでバイエルの冒頭部分の実力に舞い戻ってしまい、それ以来上達できない子がいる。明るい子で可愛い。利口なので回転が遅いから上達が滞っているとも思えない。嫌なら好きなことやりなさい、止めてもいいのよ、と言うと、どうしても来たい、やめたくないという。
今日帰り際に、

引っ越すかもしれないんだよ、という。

この界隈だけど。ママがボーイフレンドと別れたので、どっちかが家を出ないとならないの。弟なんて一歳にもならないのに、自分のパパがいなくなっちゃうの、可哀想。わたしは火・金に、私のパパのおうちなの。

と言うではないか。
週二日、パパのうちに寝泊りし、学校へ行き、家には半分の弟がいて、せっかくママのボーイフレンドとの暮らしも落ち着いたのに、別れるから引っ越すと言う。

まあ、私のたどった道のりと似ているのだが、そんな背景で、彼女のピアノが、断然ひどくなり、下降の一途だということは、非常に納得ができた。家庭に落ち着きがなければ、練習などできるものではない。

これは余談だが、この界隈では、父親と住んでいる子供は殆ど皆無に近い。


さて、話は反権威主義にもどるが、興味のある方は是非、以下の記事を参照してください。


反権威主義教育とは、反抑圧的且つできるだけ強制的ではない形態の子供教育を指している。「伝統的で抑圧的な国家教育」とは反対に位置しているようであるが、 放任主義の姿勢ともはっきり異なっている。子供たちは、独立自尊且つ創造的で、社会性と困難と向き合う能力を備えた人格に成長するべきだと言う考えである。その目標も、それに至るまでの過程も、今日の教育に継続的に影響を与え続けている。反権威主義教育は、権威主義教育に反対するものではなく、子供の自己啓発を不要に抑圧すること、つまり権威的人物とシステムに対抗する姿勢をとっているだけである。

反権威主義教育の成立

この思想は、 Alexander Sutherland Neill Wilhelm Reich によって、すでに1920年代に築かれ、60年代の学生運動の最中に新たに再燃し、近代の教育を構成する一部となった。学生運動と議会外の反対派らの活動による結果、教会の青年組織、その他の教育関連機関などが生まれ、さらに既存の権威主義と認識されている教育に対する議論や 代替モデルが発展していった。
「反権威主義教育運動」という概念は、非常に異なる理論家・実践家による影響を受けているため、簡単に定義することはできない。つまり人道主義の伝統に属するAlexander Sutherland Neill Hartmut von Hentig Janusz Korczakらの改革教育者、Paulo Freire Ivan Illichら救済教育家、更に左翼または精神分析理論 ( Lutz von Werder Otto Rühle)などの人物が影響を与えてきた。「反権威主義教育」へ所属しているかどうかは、実際に活動している現場での定義、ならびにこの運動の批評家の定義によって異なってくる。
この位置相違が「反権威主義」の概念を明確にする決め手となった。「反権威主義」運動の一部が、(市民階級の)権威に反対する声として理解される一方、別の討論では、権威者に反対し、民主主義社会を追い越した教育形態に向かいつつある教育が発展したという議論が繰り広げられるようになった。
子供たちは、好きなことだけを行うことができる、あるいは行うべきであるという意見もあるため、一般社会では、無秩序な「教育」としてのイメージが一部で生まれるようになった。指導者および教育者の中には、いわゆる放任主義教育を追い求める者さえあった。他の教育法の中でもとりわけ青少年の活動、キャンプ教育または冒険体験教育などにおいても、共同決定と自己決定を重視した。
この概念を明確にするために、「抑圧の少ない」「反権威主義的」「解放的」といった用語は、すべてこれらのグループの中で形成されたことを述べておく。
一般的には、これらの相違は殆ど認識されることはないが、一部では反権威主義が権威者と伝統的教育者を批判したことへの反応として、意識的に誹謗されることもある。
最後にすべての反権威主義運動においては、性教育のタブーも解放されたということを付け加えておく。
今日の反権威主義教育
当時発展したメソッドの多くは、現在の教育でも継続して生き残っている。しかしながら反権威主義教育という概念は今日、 広範囲において社会的討論の枠から消え去ってしまい、解放的教育という概念に統合されてしまった。独立自尊且つ創造力豊かで、社会性と困難に立ち向かう能力に優れた人格は、今日殆ど当たり前のこととして受け止められている。特に、女子活動、プロジェクト方式の授業、体験教育、フリースクール、オルタナティブ(自己管理による)スクール、アクティブスクール、アドベンチャー公園、オルタナティブ(自己管理による)幼稚園、フリースペース教育、改革教育、子供共和国などの分野では、顕著な傾向である。
反権威主義教育の価値に従う姿勢は、多くの現場で目にするが、実際に教育実践としては、政治的立ち位置によって様々に評価される。批評家は、3つに分類された学校制度を保持している点を取り上げて、これでは構造も内容も個人主義的な教育に反しているため反動的であるだけだと批判している。理由としては、未だに存在している試験、成績表、なんらかの卒業証明書をめぐる思考を挙げている。その他、Lob der Disziplin (規律称賛)という本を取り上げ、これこそ反権威主義教育の掲げる目的に到達するための唯一正しい教育法であるとする声も出ている。更に社会は規則と職業などの従属によって規定され、学校制度はそれらを学ぶために、適した場所であるという指摘もある。社会のルールを守ることができて初めて、自己決定による人生が可能であるという理由による。
教育も、原則的にはこの軸上にあるはずだが、女子活動、プロジェクト形式の授業、体験教育、そしてオルタナティブスクールなどで見られるように、一部では反権威主義教育に明らかに関連している様々な思想、メソッドが受け継がれている。

左派生徒活動などの興味深いグループは、今日「解放主義的教育」もしくは「解放主義的教育任務」という言葉を表明している。

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