2011年2月6日日曜日

日曜日 ― ミサ

日曜日、久しぶりに早起きをしてシャワーを浴び、しっかりと食事を取った。
息子が教会のミサを兼ねたコンサートに参加するので、こういうことになったのだ。

Frühstück2


ミサに参加したのは、もう何年ぶりだろうか。
一時はさまざまな教会を覗きに行って、さまざまな説教を聞いてみたことがある。
聖書を読んで、少し解釈して、ニュースを話題に出し、表面的に道徳的な教えを説いておしまいにするところが殆どだったが、今日行った教会の牧師様は、心に響いてくる言葉をたくさん下さった。

クロイツベルグという、マルチカルチャーな地区の小さな教会で、角にあるアパートの建物の天辺に鐘が突き出しているという、まさに住民とひとつになったようなつくりである。

80人の教会員のうち、常時参加は30人だというが、その小ささがちょうど良く、誰もが互いを知り、説教をする牧師様が自分に語りかけてくれているような、程よい距離なのである。

片隅に座った私に、世話係の老齢の男性が賛美歌の本を手渡してくれ、握手で挨拶を交わす。
牧師様は礼拝堂(といってもそんな大げさなものではないが)に入るなり、見知らぬ私を見つけ、握手して、ようこそいらっしゃいました、とで迎えてくれた。
はっきり言って、私たちの訪問が先に告げられていたとしても、このような暖かい歓迎は、あたりまえではない。
この教会の魅力をすぐに感じ取った。

説教の内容は、一字一句といって良いほど、心に刻まれている。
それほど、聞き逃したくなく、心に留めておきたい言葉ばかりであった。
しかし、それを全部ここに記してしまうと、非常にありきたりな言葉になってしまうそうなので、控えておく。
私の心は、確かに深いところで動いたのだが、それを書いてしまうと、まるである種の作用が無になってしまうそうで怖いのだ。

しかし、聖書のコリント人への手紙からの引用であり、それは物事の表裏に関してであり、裏こそに目を向けるべきであること、そして表の美しさというのは、非常に壊れやすく、赤絨毯の上できらびやかな装いを披露している有名人ですら、自分たちと同じ非常に中庸な人間性であるのに違いないということ。表面が壊れた場合には、中身に入っていたもののみが、価値のあるものとしてのこるということ、そういうことを聞かされた。
そして、Herrlichkeitというのは、紛れもなく光であり、光は、どこで一番明るいかといえば、暗闇で最もその明るさを発揮することができるという言葉である。

そして最後の逸話からは、真の幸福とは、自らの心底から欲して他人を助ける喜びを知った時ではないか、そしてそれは、極貧、または戦争のような世界にあっても可能であるということを教えられた。

その後、静かな祈りのときが来る。
うつむき、沈黙に入り、その説教の内容がこだまする中、頭の中で自らを捜し求める。そして他者の存在を思う。

そして厳かに主祷文を唱え、再び賛美歌を歌う。

__________

結局、信仰しているのか、信者なのか、それともわれわれは人間なのだろうか、ということを問うた時、この教会においては、信者であるかないかということは関係なく、訪れるもの皆、信者たちと一緒に、一つの深い思いへと至ることができるのだと実感した。
それは、自らの日常生活を振り返り、自らに問いかけながら意識して生きているかということを再び問われ、欲望と虚栄を振り払うべきであるという教訓を聞き、自分にとってでは失うことができないほど大切なもの、そして伝えていきたい大切なものとは何かということを直に問われる。
その思いの中で、礼拝堂にいる人間は一つとなっていた。
もちろん、私自身も動かされる心を意識しつつ、そこに共に在った。

教会の雰囲気といえるほどの建物ではない。
おなかに響くようなオルガンの音色ではない。
歌われる賛美歌は簡易で、ラテン語の魔術に惑わされることもない。
地に足を着いた普段着の人間が、心の扉を開ける時間、または自らの中へ帰る時間として、そこに立っている。
蝋燭の数も少なく、ステンドグラスもなければ、乳香が漂うわけでもない。

何が言いたいかといえば、教会という圧倒的な建築物、そしてそれの持つ神秘的な雰囲気に飲まれてしまったのではないということだ。
私の心が動いたのは、そして信者の心が毎週洗われ、思考を刺激され、反省を促されるのは、紛れもなく、「ロゴス・言葉」によってであり、神は目に見えず、自らの中に対話を通して見つけ出していくものであり、写実的な存在でもなければ、バロック的絢爛としてその光が現れるものでもないという、まさにプロテスタント的実感であった。

今まで、いくつのプロテスタント教会を訪れたろうか。
いったい、何回プロテスタントの説教を聞いただろうか。
私の心をここまで動かしたのは、しかし、このマルチカルチャーな街角の小さな教会なのであった。
人々が、生活の中に、この説教から生まれる「思い」を生かしているからこそ、この教会はこうして息づいているのに違いない。

特に経験から言うと、プロテスタント教会では、信仰しているのか、それならば、どれほど深く聖書を理解しているのか、洗礼を受ける気があるのか、教会の共同体に尽くしていかれるかなど、そういった質問が圧力を持って浮き上がってくることが多い。
カトリック教会は、個人的にはその点、非常に開かれているという気がしている。たとえ啓蒙がなされていなくても、万人に扉は開かれていると、個人的には感じる。
プロテスタントは、子供でもない限り、自らの意思の強さをしっかりと確認される。
私は、どちらが良いのか問うつもりもなければ、問うような立場にもない。
カトリック教会では、荘厳な雰囲気の中に、神の存在を天上に実感してしまう瞬間というものを見たし、信者のファナティックとも言える信仰心と、その祈る背中から立ち上る情熱に、心底心を打たれたこともある。

しかし、この教会のミサに参加して再び実感するのは、宗教の存在の本来の目的は、信仰そのものなのではなく(教会の目的は信仰であり信者の拡大であるが)、人間性の中身を切り裂き、人間性、人間的とは何かを常に問いかけ、本当の喜び、満足は、実に献身の姿勢の中にしか見出せないのだ、という究極の真実を実感するために在るのではないのかということだった。

使徒達の思いを実感するには、新約聖書、特に手紙を相当読み込まないとなかなか難しい。
しかし、説教の中で、断片を聞き、その解釈や背景を知ることにより、彼らもたゆまぬ労苦と困難を乗り越えても、歩む限り壁に突き当たってばかりいたことを「体験」として実感できる気がするのである。
そして、暗い道を歩んでくるものこそ、希望も救いも、人によっては神との対話を通して、自らの中に見つけ出していくしかない、ということを知らないで通り過ぎることはできないのだということを理解する。

もう誰もいないと思った時に、言葉に出会う。
言葉によって、光が見える。
光によって、神なのかもしれない、神と呼ぶことを許容する。
不思議なことに、希望の足りないところに、希望が生まれてくる。
もう少し暗闇を歩んでみようと思う。
そして、一人ではなかったことに気つき、現在一人でいる人々が見えてくる。
そして、一人ではないことを、その人たちに何とか伝えようとする。
そして、献身の姿勢のなかに、今まで覚えたことのない幸福を感じ、自らが光るようになる。

私は、私たちのまったく気づかないどこか遠くの、またはどこか裏の世界で、こういう作用が起こっていることを信じているし、そういう人生は、光の当たるところには生まれないだろうということもなんとなく理解している。

教会へ行くこと、または何かを信仰することにより、人間が一番苦しいときに、一歩でも前進し、一つでも多くの希望を得ることができるなら、それこそ、宗教の意味ではないかと、そんなことを思ったのである。

そして、苦労がなく幸せで、何にも憂うことがないと実感している人間は、それが自分ひとりによって、得られたものではないことを忘れずに、感謝の気持ちを持って、虚栄と欲を捨て、謙虚に、そしてもっと謙虚に生きていくことを忘れず、良いときに分けることのできるものを、できるだけ分かち合う努力をすべきであると、本当に実感するのだった。


説教の間中、何回も仏門に入った方と、同じようなことを説いているなと思った。
つまるところ、人間には、生命に意義を与え、日々できるだけ内実を伴った生き方をしたいという根本的な気持ちがあり、それは表の成功ではなく、裏の人間としての成長に代わる物はないのではないかと気がついた。

そして私のように若干自己嫌悪や自己過小評価の傾向があるものには、こうした「言葉」を聞くたびに、生きる価値を得ようと努力する必要はないのだと救われる。
生きる価値は万人に在り、誰かの存在価値が低いことはないのだという原点を信用することができる。

私はたまたま、言葉に出会うと、光にめぐり合ったり、心が溶け出すことが多い。
その上、たとえ簡易化された賛美歌だとしても、皆で歌い、トーンを紡ぎ出す行為には、何か一つの浄化作用があるような気がしている。
なので、キリスト教会に通うことに違和感は覚えないが、信者になるつもりはなく、しかしそれは実は、全然関係のないことなのではないかと今日思ったのである。

神秘主義とか、インチキくさい霊能者とか、ペテン的占い(れっきとした統計学や天文学に基づいたものもあるが)などに頼るのではなく、もう一歩を踏み出せないときに、もっとこうした伝統宗教がその役割を担って欲しいものだと、これは日本に関して特に思うのである。
仏教では、例えばお寺がもっと意味を持って欲しいし、福祉と連帯して何かできないのだろうか、そういうことを思ってしまうのである。


良い日曜日だった。
帰宅後、二度目の朝食をとった。

Frühstück1

2 件のコメント:

  1. お久しぶりです、お元気でしょうか?
    今年もよろしくお願いいたします。

    とても良い素敵な時間を過ごされたようですね。
    「生きる価値は万人に在る」と言われると、私のようなダメ人間も救われるような気がします。
    私の試行錯誤は続いており、そろそろタイムリミットで追い詰められたような気持ちでひどく孤独なのですが、過度に感情的にならずにできるだけ穏やかに生きたいと思います。
    また、最近自分の現状の一部を肯定的に見てもいいんじゃないかと思えるようになり、それは諦めではなくて進歩かもしれないと思えたり・・。
    ささやかな幸せを幸せだと感じ取れることが一番の幸せかもしれません。
    不安はいっぱいですがなんとか頑張れるといいです。

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  2. パールさん
    こんにちは。すっかりお返事が遅くなってしまって。相変わらずほうりっぱなしです。
    お元気ですか?もうそろそろ春ですね。
    私も孤独です。私も穏やかにと目指しています。
    でも何年か前とも何も変わっていません。
    私は一人になってまだ一年も経っていないんですけど、孤独が深まった気もしないし、孤独だったといえばずっと誰かといてもそうでした。
    なので、今はむしろ孤独であることが静けさに感じ、辛いけど文句も言わずに淡々と生きています。
    お互い、これは進歩ですよね!
    またいらしてください。嬉しかったです。

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