2011年2月25日金曜日

後ろから追ってくる影

 排卵後に気分が抑うつになって、とても悲しい思いをしたり、イライラが募ったりすることは、実は20代からのことである。

今に始まったことじゃないので、別に更年期だと改めて思う必要もない。

若いころは、PMSなどと診断されて、ホルモン治療を進められたが、ピルでもないホルモンを錠剤で飲むことに抵抗があり、処方されたものを捨ててしまったこともあった。


当時の夫には、気を使い緊張した生活が続いていたため、排卵あたりに大喧嘩をして、そのあと二週間は地獄のような孤独感を味わう、といったパターンが日常化していたのを思い出す。


さすがに、現在はそんなにひどい波はないが、それでも未だにこの二週間タームでやってくる心の変調は続いている。ひどくならないだけありがたい。


そんなわけで、今私は後期二週間、抑うつの期間にあるのだが、洗い物をしながら、掃除機をかけながら、涙がこぼれてしまう、胸が締め付けられるような悲しみを感じるという思いをしている。


実は、心の中に誰にもどうすることもできない、運命のみぞ知るという心配事があって、それを抱えて生きていくということに対する、心の強さを要求されている。

背後に詰め寄るような重い不安感、暗色の何かが迫ってきているということを、随時実感しながら、それでも私は買い物をし、子供たちを教え、自分の子供たちに食事を作り、一緒に笑い、彼らを叱り、励まし、学校などの役割を果たし、夜は締め切りを大きく意識して、ひたすら翻訳をしなくてはならない。

つまり、どんな心配事があっても、誰しも今や明日にかかわる日常の役割を果たさないわけには行かない。

人は、つながっており、いろいろと助け合ったり、励ましあったりしていかねば生きていかれないけれど、本当のところ、結局「生きる」ことを全うするということに関しては、まったく一人ぼっちなのである。


心配事や不安を打ち明けられるパートナー、肩を抱いてくれるパートナーがいない私は、こうして一人で泣いているなんて、かわいそうなのかしら…。今日も洗い物をしながらそんなことを思った。

しかし、と思う。

いたとしても、いや実際日本を離れて以来、今まで私には常に誰かしらがいたはずなのだが、試験の不安とか、人間関係の不安など、自分で能動的に対策をとっていかれる悩みであれば、そうしてパートナーに支えてもらった思いではたくさんある。が、自分にもどうすることができない、つまり息をするのも歩くのも、本人がするしかなく、私が変わってあげられることができない、私が能動的に動いたから、何かが変わるわけでもないという根源的な悩みに関しては、どのパートナーがいてくれても、いっそう孤独感が募るのみだ他ことを思い出す。


一緒にいるからこそ強調されてしまう「一人ぼっち」感、孤独感。

一人でいると、誰かに何かを言う、分かち合う、慰めてもらう、そういうことはまったく期待していない。

だから、不安を一人で抱えることへの、理不尽さ、といったものを感じる隙がないのかもしれない。


パートナーのことなんか、今考える余裕はない。

自分は、今まで落ち着いた静かなパートナーシップというものを経験したことがないので、まるで今エネルギー切れしているように、枯れ果てている。

隣に人がいると思うとストレスであり、誰か男性が、今度いつ会える?ときいてくることを考えただけで、息切れがしそうなのだ。


そして、あらゆる意味での欲求は、死んでしまったかのように消え去った。

してもらいたい、やってほしい、一緒にわかちあいたい、という「~したい欲求」は存在しない。


そんな時、この後ろからやってくる心配事は、私に何を突きつけているのかと考える。

私は、これに関して他人に助けを求めることに、何の意味も慰めもないことは知っている。

だから、一人だけで抱えてたまにブログを書いたりしているのだ。


それだけのことがわかっていながら、それでもこの心配事に終わりがないのはなぜだろうか。


どんなに人を助けたくても、助ける力すら自分にないことを悟り、自分の目先の生活をしっかりやれというお告げだろうか。

助けることができる、という驕りを捨てて、この孤独な不安に耐え抜くことで、生きることの本当の自立を学べということだろうか。


できない、と心の中のひとつの声が言う。

それを聞いた私は涙を流す。

冗談じゃない、今までこれだけがんばってきたのに、乗り越えられないことはありえるわけがない!

という怒りの声を心の中に聞く。

私は涙をぬぐい、自分を強いと実感する。


実際は、まったくわからないのだ。

自分のことすらわからない。





そして、今日も仕事に行く前にこうしてちょっと書くことで、心をなだめている。

そして、帰宅したら、私には私にエネルギーをくれる子供たちの世話をして、話を聞いてやらなくてはならない。

そして、疲れていて面倒くさいと思うけど、一生懸命子供に向き合っていると、不思議と力となって返ってくるのである。

だから、私は子供たちを一生懸命育てないといけないと、本当に反省している。


そして、根源的な心配事を抱えながら、つまらぬ家事をこなし、ちょっと涙を流しても、また生きていくという、実に単純な「生活」にまみれる毎日を送る。

そして、永遠に思えるほど、毎日同じ営みを繰り返し、同じ行為を繰り返し、ひたすらに「生きている」ことだけを実感している。

生きていくことは、生活であり、生活を絶え間なく繰り返していくことに耐えていくこと。

そして、大きな事が起こらなくても、太陽が明るくなったことに、感謝して、今日も笑えたことに感謝している。

謙虚になっても、反省をしても、この心配事は消えない。


中世のカトリックのように免罪符を払ったところで、煉獄の日数が減るというものではない。

カルバンやルターのような運命予定説を一瞬思う。


信じても中世を誓っても、自分が救済されるのかされないのかは、神のみぞ知る。

自分の生前の行為で、そんなことは左右できないのである。

だから、結局自分と神との関係において、忠誠を尽くし、信仰し、自制しつつ、救済を請うことが、唯一能動的にできることの一つである。


ということは、今の私にできることは、望みを持ち続けること、そして、繰り返す日常生活の中に喜びを見出し、与えられるものは、今のうちにできる限り多くを与え、自分には多くを望まず、ただ今も息をして生きていることに、感謝をするのみだ、ということが今理解できた。


最近、キリスト信者になろうかと思うことがある。

神学に首を突っ込んでも、信者にはなれないと常に言い聞かせてきたが、自分が、他人の存在では解決できない、根源的問題に突き当たったとき、いつも私に答えをくれたのは、聖書だった。

西欧社会に長いこと生き、この文化圏で生活し、関わっているから、キリスト教がしっくりくるのかもしれない。

それも、若干他力本願とも解釈できるカトリックではなく、ひたすら自分と神との対話を追及するプロテスタントのほうに、親近感を覚える。

これも、私がプロイセンに住んでいるからだろうか…。


しかし、最近宗教の意味がうっすらと見えてきた。


そして、祈ることも、最大の能動的行為であると、私は思っている。



涙を流しながらでも、命そのものに人間は逆らえないということを理解して、私は精神的に寄り添い、「生きることの質」を「内面」から築くことを忘れないよいうにせねばならない。

そして、内面からこそクオリティが生まれてくるのであれば、私にも何かできることがありそうな気がしてきた。


意味不明な内容だと思います。

でも、私は元気になりました。

では行ってきます。


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