2011年1月4日火曜日

画家石田徹也を知って ― ロストジェネレーション世代の画家が描き出したグローバル経済の中で生きる現代人の病んだ世界

皆様明けましておめでとうございます。
この更新不定期で、だらだらと長い文章の続く不人気のブログを、今年もまたふらりと訪れてくださいますよう、よろしくお願いいたします。


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画家石田徹也を知って ― ロストジェネレーション世代の画家が描き出したグローバル経済の中で生きる現代人の病んだ世界


1.

実は昨日、ある絵にめぐり合って、恐ろしほどのショックを受けた。
若くして踏切事故で亡くなった石田徹也氏である。

この絵を見た時は、感覚というものを実感するより先に、ショックとして胸に突き刺さってきた。

この時代に生きてきて、毎日繰り返す日常の中で、何かおかしい、何かがずれているのではないか、何かがしっくり来ない、どこかが息苦しいと感じている人も多いと思う。
感じていない人は、それこそひとつの能力であって、全く問題なのであるが、私は常に言葉では言えない抽象的な不安を抱えてきたように思う。

自分の人生の出来事の中にも、ある種の時代性というのが背景にあるのかもしれないが、自分自身のイニシエーション・個性化の過程と、時代背景とのつながりを理路整然と分析して意味づけるなど、渦中にいるからこそ、なかなかできるものではない。

でもどこかに、やはりこの時代特有のものがあるのではないかと感じているのだ。
私の無意識下に潜み、ある瞬間ふと顔を出して私を驚かせる深い不安感は、もはや私の子供時代や過去の出来事、家族関係という心理療法的範囲を超えた、「世代」というものに直結している不安感ではないかと思うことがよくある。それは、その不安の原因や対象を特定できないからであり、またその不安はどういう状況において自分を襲うかも一定でないため、不安回避の対策すらとれない。そういうものは、やはり世代につながっているのではないかと言う気がしてならない。

そしてこの作家の絵を見たとき受けたショックは、私が言葉を使って、これ、と言えなかった何かを的確に捉え、しっかりと絵の中に表現されていることを実感したことによるショックなのだと、段々わかってきた。
絵というものの凄さを改めて見せ付けられたような気分である。

このような不安、底なしの感覚は、上述したように何も特定できない。
その特定できないが確かに存在する「何か」を言葉によって表現するには、言葉すなわち文字という平面的な媒体を使って、文字から生まれる言葉から適切な想像力を駆り立てることにより、立体的な描き方に繋がる必要があり、そこには起承転結のような説明のつかない「何か」が確実に実感しうるものとして表現されていなくてはならないという難しさがある。

その点絵画は、視覚を通して、潰された絵だから苦しいとか、水に浸っているから冷たいという理路・筋道を超えた次元で複雑な構造をした「何か」を表現できるのだと、この絵を見て改めて感心した。

これらの絵を見ているとどこまでも苦しくなり、どこまで行っても「この先」が見えてこない。行き場・居場所・安全・暖かさ、そういったものがどこを探しても一向に見当たらないのだ。
この絵の作者は、ロストジェネレーション(1972~1982年生まれ)にあたるが、彼らが大学を卒業し始める1995年は、神戸大震災に始まり、就職氷河期、サリン事件、山一證券倒産、さらには2001年のNYのWTCテロに至るまで、世界は揺れ動き続き、既存の価値観は木っ端微塵となってしまった。

おそらく失われたものは、規制の価値観なのではないだろうか。
エリート大学を出ても就職できない。エリートサラリーマンになっても会社がつぶれる。街の中にテロがあふれ、これまで手にしたものが、こぼれていくように失われていったのではないだろうか。

そしてこれらの失われていった既存の価値観、価値観の中心とは反対に、この絵の中に、はっきり見て取れるように、物ばかりがどんどん溢れているのである。そして、便利さばかりがどんどん追求されていくのである。

いくつかの絵をずっと眺めていると、結局人というのは、物として扱われているのではないかという疑問がわいてくる。
いつか書いたこともあるが、最近は真贋の区別をつけることも難しい。
どこへ行っても、ファミレスやファーストフードチェーンなどで、同じ味覚ばかりになる。きれいにディスプレイされた野菜に味がなかったりする。

そういう時代とは何かと、彼の絵を見つつ思いを馳せる。

結局グローバル経済の影響ではないか。
金と金で交換取引をすることは、等価のものを交換するために共通化することを目的とした。
これが、グローバル化=画一化なのではないだろうか。

もう欧州はユーロばかりで、それ以外の通貨は少なくなりつつある。便利といえばそうだが、ここに属しているという固有なものの印は、どんどんと消され、画一化・共通化されているのである。
そして、資本主義世界の中で、判で押したように同じものを欲しがっている。

その影響は、日本も多大に受けている、いや飲み込まれているのかもしれない。
その画一化は、表面だけでなく内部にも及び、学校教育も画一化し、グローバル経済に都合の良い人物を排出して行こうとしている。

下の二枚の絵を見ると、特にそんなことを感じる。









だから、どうしたら良いのか。
答えはない。当面は時代にもまれて流れていくしか仕方がないと思うのである。

2.
ところが、そうなのだろうか、と今日ふと考えた。

物や可能性がこれだけ溢れる世の中で、こうして「今まで」を失った現在、人と出会うということはどういうことかと考えてみる。
人と出会うということは、分かり合うために出会うのではなく、むしろ分かり合えないことを確認するために出会うのではないか。
そうして、一つ一つの事象に、また分かり合えなかったことを実感し、「物」へとおぼれていく。
その物とは、彼の絵の中でも多くのエレクトロニクスが描かれているわけだが、電子世界へと埋もれていくのである。

そこでの繋がりを求めている姿は、FacebookへのアクセスがGoogleを超えたことや、Twitter、Mixiなどの揺るがぬ人気を見ても理解できるし、そういったSNSポータルは増える一方である。

しかし、孤独は癒えているのだろうか。そうではないと感じさせる事件が、日常で頻繁に目に付くようになった。
では物が溢れるばかりの中で、募ってゆく孤独感は、どのように処理すればよいのか。

孤独と過酷こそ、生きていることを実感させる手っ取り早い状況であり、日常と格闘することで孤独と過酷さを得ることができる。
つまり、この画一化社会で生きのびるため、どこかに自分がまだ固有の自分であるという居場所探し、固有の自分を示す表現を探すことなどは、人をモノとして扱おうとする社会では、反社会行為とも取れる。
しかし大人としては所属するために、労働や役割など日常的社会的行為を半ば自己欺瞞としての続けていかなくてはならない。

鍵は、その相反する行為の必死さに、ある意味完全な無力者として陶酔してしまうことが、明日も生きて行こうというエネルギー源になるのかもしれないというパラドックスにあるのではないか。

ひとつの無常を受け入れ確実なものはないと悟ることの中に救いがあるのかもしれない。

しかし無常を受け入れ、確実なものはないと悟るということは、仏教者でもない限り、生命力を完全に失ってしまうことにいずれは繋がる。

しかし無力者として物として扱われながら、固有の自分を保とうとする行為に陶酔することにも限界がある。
なぜなら、これは紛れもなく自分を追い込む行為へとつながるからである。
社会的役割を担いつつ、物で扱われていることに疑問を抱かず、グローバル経済の中でのメリットを得て、判で押した価値観による欲求を満たして行く生き方をせずとも、それを否定することなく、影でもう一人の本当の自分、いわば魂の宿った自分を生かし続けなくてはならない。
この矛盾に耐えられる人間はいるだろうか。
社会放棄して、固有の自分と引き換えに孤独に生きてゆけるか。

シリアスすぎる(私はシリアス過ぎる状態というのはありえないと思うが)人間は、こういった疑問と毎日闘い続け、この闘争の合間に、救いがたい空虚を感じるようになり、空虚から目を覚ますために、極限まで自分を追い詰めてしまう。自分に忠実ということは、社会的に順応する条件をこれほど奪ってしまうことなのかと自分でも驚いている。

極限を求めるとは、死を身近に感じることに他ならない。誰かが死ぬ姿を見るごとに、あるいは自分自身が死と隣り合わせに在る状態を作り出すことで、頬を打たれ、空虚から目を覚まし、死を選ぶことはできない故の「生きる」道を選んでいくだけになるのではないだろうか。
死なないために、つまり生き延びるために、死の姿を求めている人間があるのかもしれない。

では、本気でこの社会でモノとして扱われることを拒否するなら、この作家のように踏切事故で、無意識が死を呼び寄せたような形で人生を終えるしかないのだろうか。


3.

やはり大切なのは魂だと思う。
ドストエフスキーの言葉がある。

『自分の内面に自分の魂を発見できなかった人、自分が何をしたいかとか自分の望むことが発見できなかった人は、つらく悲しい人だ。これこそ悲劇だ。』

では、固有の自分を保つこと、つまり魂を生かし続けることとは何か。
時代や世代、社会といったものとのひずみの中で、自分の魂で闘うことではないだろうか。
絵描きは絵で、作家は言葉で、詩人は詩で、音楽家は音楽で闘うことであり、それ以外に立ち向かう方法は無いはずである。
目の前の荒波を渦中そのものから直近に表現することで、立ち向かって書く(描く、奏でる、生み出す)ことが闘いの意味ではないだろうか。

その際、それ以外に手段はないはずと言ったことの意味は、直接自分の居場所と自分の在り方につながっていく。
この画家、石田の遺作集の帯にこんなことが書いてある。

『何かずーっと描いてて、描くのが僕だったと思う。描かないと僕じゃないような…』

まさに、これが表現者の条件ではないだろうか。
ドストエフスキーは、そういった魂を見つけられない人間は、悲劇だと言うのも尤もで、この魂を自分の中に見つけた人間は、言葉、絵画、詩句、音楽・作曲といった自分なりの魂の作業を続けていないと、存在を失ってしまうような人々なのであろう。

私の前夫に知り合った頃、はっきりと言ったものだ。

「僕は皿を洗っても演奏し続ける。演奏し続けられないなら死んだ方がまし。」

「死んだ方がまし」は、もちろん比喩であるが、それほどに魂の存続は緊急を要するものなのであった。

しかし自らの人生に生じ続ける荒波をその渦中から忠実に具体的に克明に描き出すことには、大きなリスクが伴う。それは周囲への影響である。
これは先にも述べたように、やはり自分勝手とも言える非社会的行為であり、近親の者の被る影響は甚だしい。
それを私は、新たに生まれる可能性のある「悪魔」または「負」と呼んでも良いと思うが、そのリスクを承知の上で、描いてゆかなくてはならない。
なぜなら、安全な距離をとって表現することなら、私たち凡人でもできることだからなのである。
そうではなくて、現代というものが抱える「病」に苦しむ人間が必要としている芸術、文化、文学とかどんなものであるかと考えると、それは安全な域を超えて「渦中」から描き出された「病」そのものの姿である必要があるのだ。つまり、作家が命を賭けて描いているという条件である。

そして表現者とは、見つけるべき魂を持っていること、その魂が媒体とする表現行為を行わなければ、自己が存在できないこと、そして過大な負を更に背負いなおす責任を承知で、克明に描き尽くすことではないだろうか。そして、その動機は、やはりそれをしなければ存在できないと言ういわば、命と魂の交換取引という象徴であるべきではないだろうか。

それだから、多くの表現者は、生み出してゆくために、故意に不幸に留まざるを得ないのだろうか。

石田徹也は、あまりにも幸せすぎるので彼女とは別れる。自分ですべてを成し遂げたいので親の援助は一切断ると言って、ほぼ昼夜描き続けたそうである。


補足:新に生まれる可能性のある悪魔、または負というのは、つまり近親者や周囲に居るものが、この表現者の真摯な社会との闘争を行うことによって受ける影響のことを意図した。言葉にこだわり、言葉のみを魂の媒体とした者の妻や子供が言葉を操れない、または音楽を媒体とした表現者の家族が、音楽を習得し理解を示していたのに、ぱったりと声が出なくなり歌えない、または止めてしまうなどの影響を考えてみた。これは新たな家族間での世代問題を生み出してしまうことになり、一筋縄で解決できる問題ではない。表現者の存在条件としての闘争が、家族を病に侵してしまうリスクと言うと具体的過ぎるが、一般にそういった負の連鎖を意味する。

1 件のコメント:

  1. 石田徹也の感想、たいへん、興味深く読ませていただきました。
    死と地続きな空虚な自己を徹底して描くところから、「生」に立ち戻ろうとする、逆立ちした希望。
    生きるためのニヒリズム。

    文字通りの全身を賭けた表現者が、商業レベルでは見当たらなくなって久しいものと思っておりましたが、近年、石田徹也に限らず、同時代の若い作家の中から先進国の住人の在り方(実存)を問う作品が出ていることに注目しています。

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