2011年1月29日土曜日

故郷

心の故郷を求めて、さまざまなところを彷徨い続け、けれどけれどどこにも故郷を定められない自分を、もしかしたらそれも神からの贈り物かも知れないと、今日そんなことを思った。


空に青空が見えるようになった。

その青は、12月に見上げていたあの灰色がかった青ではない。

澄み通るような青に、白い雲が浮かんでいる、あの春先の空。

そして、運転しながら、そろそろサングラスが必要だなと思うこともでてきた。

極寒を越えた後の光ほどうれしいものはない。生き物としての自分を実感できる。


昨日前から気になっていた歌手のアルバムをやっと買った。

そして、懐かしく過去を思い出し、憂う心で未来を思い描き、深い暖かさと共に現在の幸福と静けさに感謝した。


彼女はスイス人で、父親の関係で欧州を渡り歩き、英独仏とスイス語で歌う。

私のお気に入りのオルタナティブシンガーソングライターである。

(最下段動画参照)


彼女の曲を聞いていると、スイス時代、本当に手のひらにしか乗らないような、他人にはわからないような小さな小さな幸せを、胸の中に抱きながら、一心に子供を育てて夫を待っていた自分を思い出してしまう。

そんな自分を不幸だとも、苦労だとも思ったことがない。

必死だった。


そのわき目も振らない必死さに、当時純粋だった自分を見る。

いとおしいと思う。

そして、彼女のスイス語で歌うその曲を聞くと、涙がほろリとこぼれてくるのだ。


ドイツから引っ越す前、長男が生まれ、夫婦は大変な危機に陥った。

ある日突然、ツアーから帰ってきた夫は、どうしてもできるだけ早く私と子供二人を日本に帰し、自分は新しい人生を始めると言い出したのだ。


彼の帰宅に備えてご馳走を作っておいた、その料理がキッチンで湯気を立てていた。

あまりの不意を付かれて、そう言えばそれ以来拒食症になってしまい、さっぱり母乳がでなくなり、二ヶ月の息子を小児科に連れて行き、栄養が足りていないと言われたことを思い出す。

恨む気持ちはまったくなかった。

それより、いよいよこの時が来た、自分の至らなさを突きつけられる瞬間が来ただけだと、そう実感すると、食べ物など一口も喉を通らなかった。

空腹すら感じなかった。


泣いてばかりいる乳飲み子をいつもひざに抱いて、夫が恋に落ちた悩みを聞かされ、その共演した彼女のことを愛しすぎているから、自分たちの間にはどんな関係もない。それほど、聖なるものなのだ、どうしたらいい?どうしたら僕と彼女はうまくいくだろうか、そんな話を聞いていた。


寝る前に公衆電話から彼女に電話するために、毎晩外に出て行った。

そして泣き腫らした目をして帰宅した。

私はベッドの上で天上を見つめ、魂を失った人形のように、ただ息をしているだけだった。


帰宅した彼を黙って見つめ、愛を全うして欲しいと本気で願っていた私は馬鹿だろうか。


そんな一騒ぎがあったあと、君の愛が足りないから、僕は孤独でこういうことが起きた、と突然ヴェネチアから電話があった。

一年が経過していた。それほど、この話は尾を引いたのだ。


あまりに孤独だから、今から海に飛び込んでしまうかもしれない。


そんな道化のようなことを、でも本人に泣き声で聞かされ、私は自分の愛の足りなさを恥じた。

そんなこと言わないで、死ぬまで努力するから、そう答えて力説していた私は、やはり悪魔の輪に巻き込まれていたとしか言いようがない。



スイスの話が来た。

やり直そう。


私は場所を変えて問題が解決するとは思ったことはない。

やり直しは無理だと思ったけど、希望というのを絶つことは生きている以上、やはりなかなかできないのだ。

希望は悲しくも、やはり抱いてしまう。


そうして始めた新生活がスイスだった。


全然違う言葉を話し、小さな町で、まったく違うメンタリティーの中で、一からやることは苦労ではなかった。

むしろ新しいからこそ、希望をいつまでも抱き続けられたのだ。


___________


スイス語を聞くと、悲しくて仕方ない。

そしていとおしくて仕方ない。


私たちのあの頃は、本当に馬鹿が付くほど未熟であったけど、お互いに必死で、愛を守ろうとし続けた。

そして、小さい子供たちが常に私たちの間には存在しており、それを愛する気持ちは、ぴったりと一致していた。


きっと、家族崩壊のトラウマが消えることはない。

初めて弁護士のところを二人で尋ねて、気をしっかり持っていた私が、道路に出たとたんに泣き崩れてしまった。

その隣で彼も泣き崩れた。


次に一人で弁護士を訪ねたとき、地下駐車場に留めた後、財布を忘れていることに気がつき、近くの警察署でお金を借りて駐車場を出た。

よほど、気が動転していたのだろう。


家族が崩壊した場所なのだが、何があっても救おうと毎日醜い闘いを続けながら、私ができることのすべてを投入しきった土地もあそこなのだった。

本当に倒れるまであきらめないと決め、最後にシェルターに逃げる形で、終止符を遂げた。



あれから私は随分と打たれ強くなった。

でも、一皮むけば、あのころの傷はすぐにまた、どくどくと血を流し始める。

何もかわっていない…。

私という人間の交渉の仕方は変わったけれど、私という人間の在り方あまったく変わっていないのだった。


過去の自分が、そのまま皮膚の下にまだあのころのままで住んでいるのだった。

それは私が全人生を賭けて守ろうとしたものであり、一生に一度の何にも変えがたいものであったのだろうと思う。


だからスイスは、私の故郷とも言える。

あそこには、必死で正直で純粋で、ただ夢中だった私がいた。

そして、それこそ、私の素の姿であり、私の原型なのに違いない。


だから、私は彼女の歌を聞いていると、私の全人格が揺り動かされ、見知らぬ彼女を抱擁したい衝動に駆られる。


彼女こそ、彼女の人格がそのまま表現と歌に現れている。

感動するということは、恐れを持たない人間を実感するときなのかもしれない。

そして、評価に対する恐れをまったく持たずに、素の姿をそのまま丸裸に世間になげうってしまえる、その直接さが私の心を打つのだろうと思う。

それができるということは、自分が常に自己と一体であり、その自我と自己の一致した根底から、一貫した自分への信頼があるからこそ、世間に防御なき自分の波打つ心臓をさらけ出すことができるのだろうと、そんなことを思う。


そして、スイスに暮らしていた私は、まさにそういう生き方をしていた。

自分の試みは、どこまでも正しい、いや正しいなどという判断をする間もなく、ただ一心に信じていたのだろう。



そういう生き方は、もはやできない。

それは大人になってしまったのだから、本当に仕方ない。


でも、私には、いろいろな心の故郷があることが、実はとても豊かなことだと思えるようになった。


言語は精神を支配している。


そのさまざまな言語が使用される場所で、生き、体験し、感じてきたからこそ、私には、4言語の心の思い出がある。

個人的な体験が、周囲社会の言語という支配下にある言葉の世界の中で、一つ一つ微妙に違った様相を見せているのだ。



そのうち、どれが私の心なのかわからない。

そのどれも自分の心なのだろうと思う。


4ヶ国語で歌ってくれるSophieは、私の心の琴線に触れる。



過去を思って涙を流しても、実感するのは不思議なことに、私はなんて幸せなのだろう、そういった満ち足りた気分なのは、鈍感なのか、鍛えられたのか、それともフロムが言うように、苦労や喜びの如何に関わらず、集中的(インテンシブ)な人生こそ、真の満足と意義をもたらすのかもしれない。



週末はSophie三昧だろう。





0 件のコメント:

コメントを投稿