2011年9月24日土曜日

娘の横転ポイント

一日中珍しく家事に精を出し、ワインを一杯飲んだだけで疲労して酔っぱらってしまった。
けれど、夕食前の買い物へ駆け足で行った時、ふと心に浮かんだことを乱文でも書き留めておきたかった。

娘の横転ポイントは果てどこだったのか、いつだったのか、そんなことを考えたことはない。渦中にいると、灯台下暗しのように、何も見えない。今までの道筋も見えなければ、今いる状況が道筋の一体どの辺りに位置しているのかもわからない。

今日は息子の学校の父母会だったのだ。そして生徒達の演奏によるマチネーの後、校長先生からの挨拶があり、その後やっと各クラスに移動するのだが、私自身はマチネーには行かず寝坊し、隠れるように直接クラスの教室に忍び込めば良いと思っていた。

担任の先生の挨拶があり、役員選出の段になって、なんの因果か知らないが、あれよあれよという間に役員になってしまった。反論のしようがなかった。確かにこのクラスでは古株であるが、どこまでこの非政治的な私に、こんな政治的役割が勤まるのか、努力する以外、申し訳が立たないだろう。

父母会の後、仲の良い親達と話していた時、有名なバイオリンの教授の話になった。
彼はベルリンの音大で長年教授職についているが、何しろ才能のある子供を一人前にするので有名な先生で、特別に目のつけられた生徒は、全員この先生のところに門下替えする。そうでなくても、常に実技の先生をこの先生のクラスに変えようと必死になっている親達ばかりである。

近寄りがたいかというと、全くそんなことはなく、学校のオープンデイなどは、何時間もの待ち時間が当たり前という、トライアルレッスンの行列ができるが、名前を書いて申し込みさえすれば、どんな子供でも先生に少しはレッスンしてもらえるのである。


娘が小さかった頃、私はバイオリンをやらせた。彼女がどんな子供になるか、決して想像できなかったが、私はバイオリンという楽器のレパートリーの多さ、そして室内楽や古楽での楽しみを思い、彼女には是非弦楽器をやらせようと思ったのだ。まさか職業にさせるなど、思いもよらなかった。
スイス時代についた先生は、親切だったがメソッド的には色々と問題のある教師だった。しかし私たち親の誰も、真面目にやらせようと思ったことがなかったので、気楽なものだった。
そして、彼女はいかんせん消極的すぎた。人前で大股で歩くことすらできず、挨拶に人の目も見れず、頭を下げる動作さえ恥ずかしく思い、単に歩くという動きだって、ぎこちなく見えるほど、自分の存在に対する感覚が鋭敏すぎた。彼女には、公で一歩足を動かすことが、凡人にとっての道ばたで転んでしまうほどの大げさな動きに感じ取れてしまったのだろう。

そんな子が、楽器を習得することが簡単であるはずがない。
そして私たち夫婦の姿も不安定で、彼女は殻にこもるばかりであった。

ベルリンに来て、初めて何らかのメソッドというものを持った先生についた。
彼女は3年生になっていた。一年後に才能援助試験を受けるよう勧められて、見事に受かり、無料で一時間半のレッスンを受け、音楽理論とオーケストラなどの授業も受けられるようになった。
この才能援助試験を毎年試験を受け直して更新し、公立音楽教室で彼女は優秀だなどと言われるようになった。
私にしてみれば、一切口をきかず、人形のように、棒立ちでバイオリンを弾いていただけだ。音楽に沿った自然の身体の動きなど、私には全く見えなかったのに。

彼女が7年生になった時、弟は有名な音楽ギムナジウムに入学することになった。7年生からギムナジウムに移行するのが通常だが、成績の良い子供達は、すでに5年生からのコースに試験を受けて転校し抜けてしまう。
息子は、そう言う類いの子だったのだ。
その関係でその年、名の知られたこの学校のオープンデイに娘を連れて行った。珍しく前夫が一緒で、娘に絶対にトライアルレッスンを受けるようにと、リストに名前を書き入れてしまった。

そろそろ思春期になっていた彼女は、その時顔面を崩して、この世の終わりのような顔をして、泣きじゃくった。体重全部をかけて地面にへばりつき、何があっても行かないとだだをこねた。
そして珍しくも普段一切子供の教育にも関与せず、非常に優しい父親が、このときとばかり、彼女を強制し、引きずるように連れて行ったのだ。
何の準備もなく、今弾いているVivaldiかなにかを持って行っただけである。

他の子供達はこの日、この有名な教授につくために、もう何ヶ月も前からレパートリーを整えて来た、そう言う背景がある。
我々は、教授の名こそ知っていたが、それがどのような意味を持ち、この教授をめぐってこのような熾烈な競争があるなどとは、露程も知らない、それほど無知であったのだ。
つまり、バイオリンをやらせている親としては、露程の野心もなかったということである。

この教授は優しく娘をレッスンし、
「何一つ間違った奏法もなければ、まだまだ聞こえないが、あなたの中には、驚くほど繊細な音楽が宿っていることも、フレージングを聞いていれば分かります。」
と非常に優しい声色で話し始めた。
小さく震えるような娘の肩越しにかがみ込んで、
「でもね、よく考えてごらん。ここにいる子供達は、おそらく君の4倍ぐらいは多く練習しているはずだよ。君が7年生だとすると、君のこの学校での実力は5年生ぐらいだろうし、それも入れるかどうか分からない、そういったレベルなんだ。バイオリンを止めないでおくれ、でも、この学校に入りたいと君がいうんだったら、今日から最低2時間練習して、二年間頑張って遅れを取り戻してご覧なさい。そうしたらまた会えるかもしれないね。」

そう言って、ごく短いトライアルレッスンは終わった。

私は満足だった。娘も頑張ったし、父親も満足だった。こんな一流の学校にバイオリンで入れるとは思ってもいなかったのだ。つまり入れるつもりすらなかった。


……

しかし今日閃いたのは、彼女の横転ポイントは間違えなく、このトライアルだったということだ。
あれが、親から受けた強制の最たるものであり、それは5歳の時からずっと握らされて来たバイオリンという強制の総集編のような力を持って、彼女の意志、いや反抗心を目覚めさせた。

その後、彼女は才能援助試験から、いよいよ音大準備コースに移行すべき試験を受けるよう言われていたのだが、その試験を更新できなかった。やる気がなく、棒立ちに、不機嫌な顔をして、単に舞台に上がったというだけの、見せつけるような酷い試験だった。親として恥をかかされたと言っても良い。
試験のために、彼女は一切練習をしなかったし、バイオリンのレッスンを私の知らないところでサボってさえいたのだ。
言うことを聞き、母親の趣味の服を着て、宿題もし、バイオリンの稽古もして、理論もオーケストラもやって来た彼女が、突然転がるようにすべてをなげうった。

間もなく成績は急降下になり、私との関係は悪化し、彼女と私との確執がいよいよ表面化した。
思春期というせいもあるが、つまり人格形成の時期が来て、彼女の「消極的」な姿は消え去ってしまった。代わりに、猛烈な反抗心が芽生えたのである。

抑圧されていたものの、それでも母親の言うことに依存し、しがみついていれば良いという安心を彼女は求めていた。あまりの感受性に、しかし重圧感も自分の思いも、気分すら一切表現することのできない子だった。その彼女がこれを機に、極端な内気さに突然別れを告げたのだ。

その後のことは、ここに記録するまでもなく、今現在もなお進行中である。
彼女のその後の進展は、また改めて書くべきであろう。

今日父母会に行ってあの教授の名を聞かなかったら、息せき切って子供達の夕食のために買い物に急いでいた先ほど、あの出来事こそ彼女のターニングポイントならぬ横転ポイントだったとは気づかなかったはずだ。

実は、あの教授のあの言葉は、彼女には信じられないほどの屈辱だったのである。
やりたくもないバイオリンを10年近くやらされ、受けたくもない試験を受けさせられて、半ばできの良い子さながらに扱われる、言いようのない苦痛と違和感。
そして挙げ句の果てに、世界でも有名なこの教授の公開レッスンにまで強制されて、そしてかけられた言葉に、彼女は文字通り打ちのめされた。
もちろん、こうした今までの道筋があったから、屈辱と受け取ったというのもある。

しかし、真実は違うのではないか。
あの子供目線で、優しい声音を持った教授こそ、実は魔物のように厳しい人間なのだ。
彼のあの言葉は、言うなれば「君など話にならない」という言葉に、人間としての社交能力を持った人の親切な仮面をつけた言葉でしかなかった。
それを勘の鋭い娘は親より早く悟ったのである。
そして、それは必ずしも必要な最後通達ではなかった。親に強制されて来た道のりに対する最後通達である。
それをまた「意訳」すれば、「こんなものは止めて、君の道を歩みなさい」ということであったのだ。
「君がこの学校に来たいのなら、練習しなさい。」これが全てを言い表している。
馬鹿な素人の親が、何の常識もなく、こんな先生に縋り付くように連れて行った、そういう図式だったかもしれない。そして実際私たちは、何の期待も、何の脈略もなく、祭りの一つで行った訳だが、「無意識」という領域の話になると、父親があれだけ固辞して譲らなかったのは、受動的な彼女に「さあ大人になりなさい」という切り札を与えた、ということもできるかもしれない。そして自分こそ誰にも劣らぬプロの演奏家である彼は「無意識」に、この教授の娘に言うだろう言葉を知っていたのである。やはり、何の勝手も知らない素人の親というはずはないのである。


そして、買い物に汗を流し、早歩きに家に急いでいる間、あれだけ受動的だった彼女には、強制という形でしか、行動を促進することはできなかったのだ、という言い訳めいた、しかしながら真実を自分に言聞かせつつ、やはり申し訳ない、申し訳ない、申し訳なかった、そう思ったのである。

子供に期待しない親はあり得ない。
子供に期待するなということは不可能である。
だからこそ、この言葉を常に意識して、子供には夢を託すまい、私の価値観を塗り付けまいと思って来たのに、それでも私はおとなしい娘だからこそ、塗り絵のように彼女を扱っていたのだ。
そして、指一本人前で動かすことさえ、大げさすぎて恥ずかしいという異常な内気さを見せていた彼女の、内なるエネルギーと良い意味も含めたエゴは、誰にも勝るとも劣らぬほど強烈である。

人間とは、本当に摩訶不思議だ。
子供の小さかった時分に、私は子育ての失敗を幾つも犯したろう。
でも、精一杯だったのよ、ママも、という情けない一言で許しを請うことしかできない。

今の私の姿は、私の親としての失敗部分の結果である。
他の子供とは順調であるのに、なぜ、彼女とは?
そういう疑問もあるが、人間には相性というものもあると、いくら親子でも実感せざるを得ない。

しかし、彼女のような存在が私になにを課題として突きつけているかと言えば、親として彼女の強さに負けている私が、自分を鍛えるべきだというメッセージでもあるし、自由人の振りをして、相変わらず既成価値に捕われている私を、本当の意味で解放するための、象徴的対戦相手として存在しているということは薄々分かっている。

難しい娘、確執の深いこの関係を恨むより、挑まれた闘いを親として健全に受けて全うするしかない。

それが、彼女に対する、許してね、というメッセージになるのではないか。

ということで、備忘録としたい。




2011年9月17日土曜日

書きなぐり

あまりやりきれないので愚痴を書こう。

人にも言えない悩みというのがあって、それはプライドから言えないのではなくて、言ってしまうことが私自身の倫理に関わるような気がするのと、この話は家族以外、つまり私と子供達以外の誰も知るべきではないという 本能が働く。

それでも精神的にはかなり苦しい。
解決もなく、見通しもなく、その道の専門家にさえ絶対に分からないという直感だとしても強い確信がある。

命に対する愛情というのは、ほとばしるのだが、言葉が全ての良きものも破壊してしまうというその恐ろしさに、時々口をつぐみ、言葉を憎む。
しかし、言葉がなければ生きてもいかれない。

そして、夏前に身体を痛めたこともあり、この数年続けてきた仕事のあり方を整理した。
週末に何もなかったことは数えるほどしかなく、フリーランスのオーバーワークは恐るべき力で、家庭の楽しみを奪っていくと実感した。
仕事を納品しても、オファーの調節、断り、請求書の送信、チームの他の訳者の進行を打診し、質問に答え、クライアントへの質問状をまとめ、クライアントのケアもしなくてはならない。そこに、子供達の学校関係の行事、家事、家計の振込みやら子供達と私の医者や歯科のアポイントメント、自己負担の振込み、保険会社とのコンタクト、更には音楽教室の生徒の調整に、楽譜やマテリアルの調達、日常の買い物、各分別ごみ捨て、そして末っ子の宿題に練習にレッスンの送り迎え。

時間はいくらあっても足らず、一番辛かったのは、7時で仕事を終わりにできないことだった。
ここで終わりという区切りが絶対にない。金曜4時に入ったオファーにも、返事のメールは書かねばならない。客相手とはそういうことだ。

そういうしているうちに、心理的にも身体的にも限界が来た。
秋休みは10月の最初の二週間で終わる。その二週間、私は完全休暇をとった。
そして、音楽教室を9月いっぱいでやめることにした。
そしてオファーのあった翻訳会社で、訳者ではなく翻訳マネージャーとして働くことにした。
そう、つまらぬ正社員になったのだ。
そこで
「あなたが4時にいなくなった後の納品がある場合は、われわれに引き継いでください」
といわれた時には、これは世界が変わると思ったものだ。

そして今最後のプロジェクトの納品前、一生懸命急いで訳している。
これが大型だったため、8月からやっているのだが、やりながらホトホト嫌になり、その発展性のないフリーの立場に失望し、就職先を探していた。
ありがたいことに、時が熟していたのか、トントンと話が進んだ。

来週は新しい車も来る。

しかし、人には言えない悩みは、どんどん深みを増していく。
どこからエネルギーを補給しようかと思って、ここに来て、単に書きなぐった。
人の読めるスペースにこのような愚痴を書くことに、ひそかなる期待があるのかもしれないと、自分で想像しただけで、更に吐き気がして落ち込むが、最近はもう再生することもできずに、常に限界のあたりをさまよって這い上がれずにいるので、こうでもするしかなかった。


鬱どころか、気分は良好なのに、とにかくすさまじい疲労感に押しつぶされそうで、家から出たくない、動けない、料理できない、それどころか食欲すらない。


10月から改善することを祈っている。





2011年9月11日日曜日

故郷

やっと書きたい、何かを書かねば—何の具体的な内容がある訳でもないが、漠然とそういう気持ちが込み上げて来た。

麻痺していたと思われた感覚は、まだ生きている。

日本へ帰った。
楽しかった。
そして悲しかった。
ドイツへ帰って来た。
ホッとした。
そして何かを忘れて来たかのように、
未だに日本を引きずっている。

それは、多分今回の帰国がとても普通の帰国とは言えない、そういう感覚が自分の中にあったからなのだろうと思う。

あの日、私は前日まで仕事を抱えており、夜は息子の学校のオケの演奏会があって、忙しさに疲労を感じるまでもなく、トランクに多くの不要なものを詰め込み、多くの必要な物を自宅に置いたまま飛行機上に急いだ。

嬉しいのかと自分に聞けば、嬉しいとはっきり答えられるような気分ではなかった。
帰国したくない、そういう気持ちさえ強く感じていた。
それは、いつかは帰国すると、去年心に強く誓った日本と、滞在後にもう一度別れるのが辛かったからである。
しかし、何でも回避するわけにはいかない。
生きている間、傷つくと知っていても、やはりそれより重要なことというのがあるのだ。

飛行機に乗って、食事前にトマトジュースを頼んだ。
食事が来ても、ワインを頼む気もしない。
心は成田に飛んでおり、家族のもとにすでに到着しているのに、気分は一向に楽しくない。ある種の不安がつきまとっている。
私は食事を丸ごと残し、映画も見ずに、本を読んでは休み、また読んではウトウトとしていた。

日本のパスポートが切れて何年間も経ってしまった子供達は、外国人として入国する。
成田の入国審査で、外人の方に並んでいたら、中年のおじさんがやって来て、「お母さん、何事も経験だから、子供達に入国審査のカードを書かせて、お母さんは日本人として入国してください」と言われる。
その、少し馴れ馴れしい感じ、私より小さい背丈、そして熱心に子供達に日本語でカードを書かせている姿、そういったものに、私は大きく心を動かされて「故郷」というものを熱く実感した。
私は日本人として入国、そして子供達は外国人でありながら、日本語でおじさんから親切な案内を受けている。

成田に着いた途端に、私はリラックスしているのを実感した。もう肩肘張らなくても良いのだ。


のどを乾かした子供達に、いつも通りフレッシュジュースを買い与えて、私もキウイのジュースをすすりながらリムジンバスのチケットを買い、自動ドアの外に出る。

乳白色の空の下に、見慣れた成田の風景と、肌が知っているあの湿った生暖かい空気を感じた。バスの時間まであと一時間もある。
そうして私たちは、誰も座っていないベンチに腰掛けた。

いつもなら、この辺で少しずつ、帰国の時間が涌き、心が踊ってくるものだが、今回はそうではなかった。
ジュースをすすりながら、バスの案内をする若い従業員達を観察し、次々とドアから吹き出してくる、旅行帰りの到着客の姿を見ていたら、足下が震えるほど悲しくなって来た。

この国土で4ヶ月前、あの信じがたい震災が起き、大地が揺れ、ここから地続きのあの三陸で、多くの人々が一瞬にして、多くの想像を絶する「もの」を失い、何百キロにわたって一斉に悲しみに包まれ、何トンにも及ぶ涙が流された。そう思っただけで、ジュースを飲みながら、その目が滲んで来たのだった。

私は、実に遠くからあの光景を見ているだけだったが、その時まで、自分の日常に食い込むほど傷ついていたは知らなかったのである。
実感のしようがなかった。

あの朝、私はいつものごとく、6時半頃眠い目をこすりながら、手元のiPhoneを取って、グーグルニュースを見た。その時は何の変化もなかったのだ。
子供達が学校へ出て行ったのが8時前で、その後PCのスイッチを入れ、本格的に新聞閲覧を開始した。すると、東北地方で大地震という記事が目に入り、それからすぐにUStreamに移行して、NHKで一部始終を目にしたのである。あの緊急地震速報の音と、あのアナウンサーのうわずった声とともに。

仕事に行った後も、心ここにあらずで何も手につかない。
それから毎日毎日、恐るべき量の映像と情報を吸収し、自分の子供達との日常を維持するのが精一杯だった。
誰とも話す気も、どこにも何かを書く気も、外に出る気もなくなった。

しばらくして、息子が音楽コンクールに出る準備で忙しくなり、会場まで泊まりがけで遠出したり、仕事が重なったり、夏休み前の生徒評価や発表会に、分刻みの予定をこなす生活を強いられた。
気がついたら、左半身が固くなり、鍋を持つこともできない、タイプすることも、ピアノを弾くこともできなくなり、挙げ句の果てに座っていることもままならなくなり、医者に駆け込んだ。

あの痛みは尋常ではなかった。
生徒の親と話していても、同僚と話していても、あまりの痛みで言葉を止め、うめき、結局人の話もまったく集中できくなってしまった。
誰とも口をきかない、誰にも私のことを語らない、話しかけさせない、それにはうってつけの症状だったのである。

診断は、頸肩腕症候群、頸椎ヘルニアの疑いということで帰国の運びとなり、詳しいことは分からずじまいだった。撮ったレントゲンも私には解読できない。

今思えば、あれは仕事のストレス、子供達の予定のストレスだけだったのではないと思う。
あの震災の後、確実に私の心の中で何かが壊れ、何かが泣いたままになっていたのだ。それはドイツでの心ない、傲慢で、批判精神に長け、ヒステリーを起こした、ものによっては無礼とも言える報道を強制的に目にしてしまったことにも、一因があるのかもしれない。
そして離婚届を出した収入のない元夫が、ここぞとばかりに、こともあろうに私の愛読新聞に次々と、20年以上日本に住んだことのない私から聞き集めた恥ずかしくなるような稚拙な知識まで盛り込んで、即席日本評論家になりすまし、幾つもの記事を投稿したことにも関係があるのかもしれない。そして、その記事はすべて、血も涙もない西洋至上主義に基づいた、日本人とその危機に面した政治批判に始終していたのだ。




日本に帰国して間もなく、高額の針治療をベルリンで受けたにもかかわらず、なかなか引かなかった痛みが減った。それは私の心配していた、私の心の中の唯一の関心ごとだった故郷の土を自分で踏み、人々に触れ、自分のこの目で確かめたことが救ったのではないだろうか。つまり心はまるで気体のように、何千マイルも離れた生まれ故郷に飛んだまま、ここには魂を失った身体しかいなかったのである。だから身体はすぐに異常を来した。

書きたいことは色々ある。
日本の心の問題、感情の問題、そして当地の議論に耐える秩序と論理そして裏返しの非情と傲慢。

しかし、今日はここで一区切りつけたい。
なぜなら、震災から6ヶ月経った今、私自身のあの謎の身体的痛みが、どこに発して、何故日本で消滅したのか、それを思いもよらぬ震災に関係づけ、それほど、遠方にいても私の心が傷ついていたのだと、それが分かっただけで、良いのだと思う。
身体がどこにあっても、故郷は否定できない。
猿真似で西洋人になり、その文化を肌の下まで吸収しても、心というのはその所属を変えられないらしい。
それは私だけの存在と生ではなく、私以前の何かと今でもずっと続き、それが私の子供達にも伝わっている何かなのだと感じざるを得ない。

震災の話や写真を見ると、今でも呼吸が速くなり、急ぎ足で、帰らねば、といういても立ってもいられない気持ちになる。しかし、私はそのとき、言いようのない暖かい気持ちに包まれるのだ。
私には、属する場所と、帰ってゆけば、誰にも何も言われずにお帰りなさいと言ってもらえる場所がある。
お帰りなさい、今その言葉を聞いた途端に泣き出してしまいそうだが、遠くに住んでいるからこそ、私はこれだけの思いを故郷というものにかけられるのだろうと思う。
田舎が欲しい、小学生の頃から常にそう思っていた私の、田舎への憧れは終わることがなかった。帰省できる家も土地もなかった私には、故郷ということばの響きはまさに憧れであった。
そして、横浜生まれ、東京育ちの私にも、こうして今いずれ帰ると心に決めている故郷がある。
それを糧に毎日を生きている。