2018年11月16日金曜日

また一年が過ぎ…

あっという間に一年が過ぎてしまう。前回の投稿が一年前の夏だったことに愕然とする。そして…、この一年は決して安泰と言える年ではなかった。様々な過去の断片が蒸し返すように表出し、現在の状況と複雑に入り混じりながら、私は心の整理を再び強いられたような一年だった。

昨年のクリスマスに子ども達が集まったとき、2年前に涙を流して過去を洗い流し、平和協定を結んだはずの長男と長女が突然理由にもならない些細な一言で文字通り再び決裂してしまった。それはイブの晩の出来事で、一生懸命作ったご馳走に手を付けるかつけないかという時だった。つまり、その後のプレゼントのお楽しみも台無しになってしまい、間接的に傷つけられた末っ子も「どっちみちうちの家族は崩壊してるんだ!」と捨て台詞を吐いて自室に籠もってしまった。

傷ついたのは末っ子だけではない。長男も長女も、そして私も同じように深く傷ついてしまった。家族が集まって絆を強めようという時に限って、こうして亀裂がもっと深く、もっと大きく広がってしまう。親としての責任感が限界を感じるほどに私の胸を締め付けた。

しかし、それは大きなドラマのほんの序曲でしかなっかったのである。
よりによってその晩、父親から電話があり、思春期の真っ只中で精神的な父親殺しの最中であった末っ子は爆発し、状況は一気に地獄に突入してしまった。
尤も、父親の言い分も大変勝手なもので、次の日に飛行機に乗って自分のところへ来い、その話はしてあったはずなのに、なぜ手配してなかったのだと、末っ子を半ば叱りつけたらしい。子供を呼び寄せるなら自らが飛行機を手配するなりして進行させなければ子供は動かないのに、無論そんなことを彼にできるわけもないのだ。
事態はさらに急展開し、娘ともあれを言った言ってないと電話口で揉め、終いには娘に嘘をついたのは許せないなどと有りもしない事実を怒鳴りつけ、彼女はバスルームに入って呼吸ができないほど嗚咽し、その前の長男との出来事もあり文字通り倒れ込んでしまった。
子どもたちをそこまで追い詰める彼の神経が信じられず、「自分の思う通りに動かないという理由だけで、よくも子供たちのクリスマスイブを台無しにしてくれたわね」と私は彼に怒鳴りつけた。
…これが去年の素晴らしいクリスマスだったのである。
その後、私達が精神的に立ち直れるまでに2週間ぐらいはかかったのではないだろうか。

これをきっかけに、ある意味で大変な一年が幕開けしたのである。あれもこれも書けばきりがない。しかし、この一年の主役であったのは間違えなく末っ子である。一時期は中度の鬱病となり、学校にまったく行かれなくなった。もともとの原因が私達の結婚生活の崩壊にあることは明らかだった。二度も転校させたが、とてもそうしたことで兆しが見えるような軽い問題ではなかったのである。私も夜中に呼び出され、眠気を堪えて話を聞き、一緒に泣き、それでも出口の見えない日々を過ごしてきた。私が本気で一緒に苦しまなければ、この子は回復しないということはわかっていた。親子という関係があるからこそ、同じ次元に降りて同じ深みにはまって同じ目線で苦しみを見なければ、子供は私を信頼することはない。鬱の心の世界の暗黒さは、たとえ傍から見ただけでも、私自身の心をもたちまち真っ暗に塗り込めてしまった。その重さを背負い、信じがたいほどゆっくりとした速度で共に日常を一歩一歩前進してゆくこと以外に目標は持てなかった。もはや学校などというテーマは口に出せるような状況ではなかったのだ。

父親と一緒に暮らしたことがなかったからこそ、できるだけ平穏に末っ子を育ててきたつもりだったが、ルーツというのは容赦ない。末っ子の心には、私の知らない欠落と深い欠乏感と絶望、そして父に対する怒りや崩壊家族に生まれた深い孤独感が常に存在していたのだった。それを思うと「単に受け止める」などということはできない。毎日積み重ねてすくい上げるように一言一言に耳を傾けなければならないのは、私の当然の役割だった。

結局、他の子供達に負けず、末っ子も自分なりの思春期を全うしたのだ。
繊細な子供にとって思春期はより激しい形で襲ってくる。それほど思春期の精神状態は耐え難く、誰しも気分障害になる。思春期で一度子供は死を体験し、そこから再生するという河合隼雄氏の言葉の意味が、3人の子どもたちを育てた今になって、より一層重く身にしみるのであった。

それにしても別れて15年以上経った今、子どもたちが背負った傷の深さ、複雑さ、そして生々しさを改めて思い知ることになったのである。人生とは、本当に苦しい。しかし、やはり若ければ若いほど苦しみが深いのではないかと、今はそんな気がしている。

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料理をしながら、私が3人の子供と4人で生活していたとき、ドイツを訪れた母が作ってくれたハンバーグを思い出した。夜7時過ぎに仕事で帰ってくると、母がキッチンで一生懸命大量のハンバーグを作ってくれていたのだ。その頃すでに母は年老いており、ドイツで1人でスーパーに買い物に行ったり、私無しで自発的に料理や外出をするということはできなくなっていた。おそらくあのハンバーグが、母が私と孫たちに作ってくれた最後の料理だったのである。
それを思うと、無性に寂しくなってしまった。あのハンバーグは決して上出来ではなかった。しかし、そこには愛情が込められていた。今の母にはもう料理することはできない。できなくなっていくことが一つ一つ増えていくのが老いの顔である。老いが憎いと、時々そう感じる。しかし人間は誰しも死を避けて通ることはできない。年を重ねれば死を語るのが怖くなくなるという。確かに私は今、死を思っても怖くはない。しかし、80歳を超えた両親を見ていると、死を語るもなにも、死そのものが背中に張り付いているような気がしてくるのだ。本人達にも見えてはいないのだが、確実に死が背中に密着している。そしてどれだけ太陽が明るく、花々が咲き乱れ、自然の素晴らしさを実感しても、心中が晴れ渡ることはもはやないのではないかと、そんな風に思えてしまうのだ。死は怖いものではないのかもしれない。しかし、死が訪れるとき、人は誰しも必ず一人きりである。だからこそ、死が近づくと一層孤独が深まるのだと、そう確信している。