2017年10月15日日曜日

娘の帰宅

娘が10か月ぶりに帰宅した。むろん家族に会うという目的ではなく、友人がオーガナイズするギグに参加するためにほんの3日間滞在するだけである。
楽しみかどうかといつも問われるのだが、それはどこかで楽しみであるけれど、実際は不安の方が大きいのだった。娘が成長した今、私たちが険悪になることはほとんどなくなった。だからそのことを心配しているのではない。そうではなくて、私は娘の心の一挙一動を感じ取り、自分の気持ちも100%彼女の気持ちに覆われてしまい、彼女の心の中にも全く同じことが起こってしまうという、その自分たちでは制御できない相互作用を恐れているのだった。

迎えに行った日、様々な都市からの旅行者が続々と到着口から噴き出してくる中、ロンドンスタンステッドからの客を見分けることはそう難しくはなかった。特にあの格安飛行機の乗客は、その若さとパーティー気分で直ぐにわかるのだ。ほろ酔い気分の若者が、旅の興奮に舞い上がって、大きな声でロンドン訛りの英語を響かせていた。服装も実に個性的で、ぶっ飛んだ格好の若者たちは、まるでショーディッチやダルストンの一角をもぎ取ってきたような様子だった。その中に、娘はいた。彼らの中に、一切の違和感なく溶け込んで、娘は私たちの方向に笑みを浮かべてずんずんと歩いてきた。元気そうだった。苦労経ても少し丸みを帯びたような気さえした。ここでも、無事到着した安堵は感じたが、嬉しいという気持ちよりも、目に見えない小さな不安の存在に気づいてしまったことで、小さな黒雲の入る隙ができてしまったことで、むしろ悲しみを覚えたほどであった。

その晩は、遅かったが前からカクテルをごちそうしてやりたいと思っていたので、バーに連れ出して二杯飲んで帰宅した。彼女はコミュニケーション能力に長けており、皆にオープンなのでその場が非常に楽しくなる。私は随分と静かな人間になってしまったので、彼女のエネルギーに驚かされた。このエネルギーをフルに回転させて、どんなに苦し事にも立ち向かい、一人で乗り越えている彼女はたくましくさえあった。彼女を見ていても昔感じたような憐れみは全く湧き起らなかった。随分大人になったのだと実感した。

次の日の晩は、娘を美味し夕食に連れ出した。これも兼ねてから食べさせてやりたいと思っていたので、存分に注文してもらった。娘は嬉々としてたくさん食べ、たくさんお礼を述べてくれた。子供がもりもりと食べる姿ほど親を喜ばせるものはない。私も満足であった。

3日目、いよいよ彼女が友人のためにギグをやるという日、ピアニストが来て練習をしていたのだが、どうやら友人のオーガナイズに不備があり、ピアニストは激怒し、娘も怒り出した。多くのファンや友人たちが、娘を聴きたいと思ってわざわざ来てくれたのである。ロンドンに飛び出して2年、今はどんな曲をどんな風に歌うのか、全員が楽しいみにしているそのプレッシャーを娘は背中に感じ取っていた。しかし友人には、そうした娘の立場は全く理解できておらず、じゃあ単に来てくれれば、音楽こっちでアレンジするから即興して歌ってよという態度を変えなかった。娘は、そうした半端なことを一切やりたくないと決心していたので、プレッシャーが募り、友人を蹴るわけにもいかず、かといって自分で客に説明するわけにもいかず、相当ないら立ちを見せていた。
そこで、彼女は男友達に電話を入れ、よくよく聞いてもらい、力つけたように見えたのだが、彼が違う女性シンガーとツアーに行くという話を聞いて、さらに悲しみに心が覆われてしまった。

私は彼女をその場所まで送って行ったのだが、私自身の神経がピリピリとなり、まったく慰めたり、心を楽にさせてやることができない。むろん、彼女は人に何を言われようが、慰めなどを受け取る人間ではない。それにしても、私はすっかりと深い悲しみに包まれてしまい、今すぐにでも涙が出そうなぐらいであった。
今回の彼女に襲い掛かったストレスは、決して彼女自身が引き起こしたことではない。友人のためにと思って飛行機をとり、ただで歌いに来たのに、何も自分のためにオーガナイズされておらず、サウンドチェックさえ終わらないまま、単に来て即興で歌えと言う態度をとられ、彼女のファンに対する責任を全く理解しないその友人に怒りがわくのも当然であった。その上、心配して何でも話してと言ってくれた男友達から、最後につまらない話まで聞かされ、自分のキャリアのために最近すべてを投げうった彼女にとって、その悔しさは彼女の今のストレスにさらに拍車をかけて、心を燃やしてしまうほどの火玉となって彼女の心の中で飛び散っていたのに違いない。

どのような苦しみがつらいかと言えば、自分ではどうしようもできない状況で、自分の名を汚さねばならない現実と、自分が手にしかけている最初の一歩の手前で、一番大切な男友達がすでにその一歩を踏み出した違う女性シンガーのサポートでツアーに出ると言う、その何とも言い難い悔しい気持ちより辛いことは、今の彼女にはあり得ないだろうと言うのが、私にはつくづく感じられるのであった。それで涙腺が弱っている。一緒に苦しんでしまうのだ。彼女の気持ちが生のまま、彼女の心の中で起こるのと同時に私の心の中に伝わってくるのである。

あの子は、必ず何かをなし遂げる。仕事に対する心構えと、プロ意識が実にしっかりしている。ドラッグや酒にまみれずに、カジュアルなくせに根本で絶対に自分を見失わずに、酒を飲んでもシンガーになるという目的を一秒たりとも失わずに、呪文のように唱えて一直線にそれに向かっている。そのために無駄なことは一切せず、全てをかけている。そういう生き方は、当然父親譲りなのだが、見ている者の心を打つのである。私は娘の気持ちに乗っ取られたから悲しいということに間違えはないが、それとは別に、娘の歌に賭けるすさまじいまでの精神力と闘争力と、その真剣さに心を打たれるのである。

彼女の父親の隣に生きた12年間はすさまじかった。エネルギーを吸い取られたが、感動の毎日であった。彼の音楽を聴けたから感動していたのではない。そんな即物的な感動ではなく、彼と言う存在が人を揺り動かすのである。その血走った生きざま、精神力、闘争力、そういったものが、私の皮膚が直接感じ取り、鳥肌が立つまでに圧倒され続けた、その感動なのだった。そして、それを娘は持っている。だから彼女に人が感動するのである。だからあの男友達が、彼女を「必要」としているのである。娘は凄まじい力を持った人物なのだと改めて実感させられるのであった。

彼女は、成し遂げる。それは確実なことである。でもそこに至るまでの彼女の過剰なまでの心の揺れに私自身も揺さぶられてしまうのである。親子だからというよりは、彼女の存在そのものが、人を揺り動かす、その力によって揺さぶられているのだ。彼女が大きく花開くまでのその苦渋に満ちた道のりを私は一緒に体験しているということなのだった。

舞台に立つ彼女の父親は素晴らしいオーラを醸し出している。びくともしないプロの自信と人を感動させるカリスマがあった。しかしその裏で、彼は自分を罵倒し、時に人を罵倒し、泣き崩れ、どん底に落ち込み、そしてしばらくすると得体のしれないところから、再び血走った様相でエネルギーを振り絞り、確実に立ち上がるのである。それをただただ繰り返しているその姿を私は長年見てきた。人の心を動かす才能を持って生まれた者の苦しみは、傍にいる人を一緒にむしり取って気持ちに渦に巻き込む、そういう激しさがある。娘との再会に一抹の不安を感じてしまう私は、そうした彼らのエネルギーに巻き込まれるしかないことを知っているからこその不安なのであった。

私には何の才能もなんの実力もない。しかし彼らの心へ通じる扉を私自身の心の中に持っているらしかった。だから彼らは私を選び、その扉を意識もせずに開き、私の心の中にずかずかと入ってくるのであった。しかし、私はその扉があるからこそ、苦しまなければならないことがあるとしても、彼らの生きざまをその扉を超えて、まさに一心同体で体験できることで、何度心を打たれてきたかしれない。人間として、私はそれを垣間見れただけでも素晴らしいことであったと実感している。創造でき、人の心を動かすことのできる芸術家を観客として味わうことは素晴らしい。かけがえのない心への刺激を感じ、心臓が揺さぶら思いを体験できる。しかし創造でき、人の心を動かすことのできる芸術家の生きざまを、一心同体に生きることは、時にその同伴者を破滅に導くこともある。道半ばで血まみれになり、息も絶え絶えになったとしても、その相手を見上げると、太刀打ちできない血走ったエネルギーに圧倒され、ある種の感動としてその同伴者は中毒状態に再び陥ってしまうのである。

そうした種類の人間の隣に、自分の破滅直前まで、寄り添えたことが私の人生のすべてであり、そうした人間の子供を得たことで、私は人生を全うしたとさえいえるのであった。どのぐらいの頻度でこうした血が受け継がれるのかわからない。しかし、こうした人間はその後世の中の文化して大切なものを残す可能性がある。娘を語るとき、だからこそ私は彼女の父親を語らないわけにはいかない。娘には彼の何かが確実に受け継がれているのだった。私はそうしたことに本当に今更になって気が付き出しているのである。






2017年8月11日金曜日

急に状況が変わりだした。
母の容体が思わしくないのはいつものことだが、父の精神状態も限界に近づいているようであった。老いているからであろうか、一度そちらの方向に動き出すと、転がるように状況が変化してしまう。

私は故郷で怒りを買っているようである。
親を除く家族に対して、私は謝罪を要求されているようである。
確かにその場にいないのだから謝罪して当然なのだろう。それで済むのなら、何度でも頭を下げる。

しかし、感情的にはとてもつらいものがある。傍から見れば「好き勝手」で「我儘」で「はちゃめちゃ」で「我慢が足らない」ようにしか見えないとしても、自分としては今まで一秒たりとも人生を「軽く」捉えたことはない。毎日必死の思いで乗り越えてきた。他人を責めずとも、自分を責めなかった日はない。しかし何万マイルも離れている所にいる誰かが、どうしてそれを理解できるというのだろう。
外部から見える事象だけを追っていれば、単なるバカにしか見えないのかもしれない。それも十分理解できる。

今更、弁解するつもりも理解してもらおうと努力するつもりもない。その代わり、ほぼ自分一人で戦い抜き、築いてきたほんの僅かながらの「何か」を犠牲にしてまで故郷の人々に納得してもらおうとは思えない。私の払った対価のことは、私自身が一番よく知っている。払った労力などすでに忘れ去ってしまったが、それで得た小さなものは、とてもじゃないが、どんなことがあっても手放すことはできない。私の人生の全てと言っても良いものなのである。

それは自らが壊した家庭をゼロ以下から苦労して一人きりで再建してやっと得ることができた、ごく小さな私だけの「家族の絆」である。子供たちの傷は最初の頃よりも、思春期になってからの方がよほど明らかに表出し始めた。私は申し訳ない気持ちがあったからこそ毎日自分を叩きのめした。自分がこれらの嵐に巻き込まれて負けたら、子供たちはバラバラになる。家庭再建の機会は二度と巡ってこない。そう知っていたからである。

登校拒否も、暴力も、家出も、酒もドラッグも全部ありだった。特別にぐれていたわけではない。ただ心に空いた穴は、ほかの子供以上に深かった。年頃になって再び魂から血が流れだしたと言えるのかもしれない。それを目の当たりにして、無責任に目を背けたり時が経つのを待ったりすることはできなかった。毎日毎回、一緒に何時間でも私は彼らと向き合った。苦しかったが、それ以上に彼らは大切だった。

何はともあれ、三人の思春期は大方終わった。そして私は今辛い気持ちになると「でも、私には私だけの家族がある」とつぶやいて自分を慰めている。そう呟けるようになったのは、ここ1年ぐらいの話で、それ以前はずっと孤独で、まさに四面楚歌のような気持ちで手を離れようとしている子供たちを必死に守ろうとあがいていた。今は、子供たちの姿を思い浮かべるだけで、温かい液体が体中にゆっくりと充満してゆくような感覚に満たされる。彼らには感謝してもしきれない。
子供たちは成長し、二人は家を去ったが、その代わりに私は心の中で、子供たちとの絆を実感して、それを文字通り、もう離すまいと手に握りしめているのである。

このごく小さな温かい安らぎを得るために通り過ぎた時間を考えてみると、とてもではないが、私の魂が必死に乗り越えてきたこの地を捨て去って、本格的に帰国などという話を思い浮かべることすらできない。
これはどんなに恨まれようと、一点も譲れない部分である。私はこの地を去らない。この地が私を育ててくれたのである。私を大人にしてくれ、意識を変革させ、新しい出発の機会を与えてくれ、私に生きることの何であるかを教えてくれた。今の自分は日本で生きていたらあり得ない姿なのである。良し悪しに関わらず、私は猿真似をして日本を捨てたと言われようが、その代償は十分払ったつもりでいる。自らの意志で、当地が故郷であると迷いなく選択する。

私の両親は、私の心の隅々まで理解しているに違いないという信頼感がある。私は両親との絆を強く感じている。不思議なことに、絆があれば、距離感など怖くないのだ。物理的な苦労はあっても、心は常に一つであると実感できる。私が帰らなくても、彼らは決してそれを責めることはない。甘えかもしれないが、それは絆のなせる業ではないかと、今ではそう考えている。私も巣立った子供たちを引き戻そうなどとは決して考えない。どんなことがあっても、縛り付けてはいけない。そう心している。

日本には帰らないと固く決心したのは、2010年である。20年滞在したあと、仕切り直しを一度考えたが、種々の理由で実行できなかった。その時、もう二度と帰るまいと決心したのだ。しかし、矛盾するようであるが、つつましやかで目立たないが一生懸命にそれぞれの人生を生きている日本人が多く写る集団の写真などをみると、わけもなく涙ぐむのである。日本なんか帰るもんか、と言っているのではない。日本が愛おしいという気持ちを抑圧しなければ、絶対に乗り越えられない時期があった。だからと言って、その気持ちが小さくなったことはない。抑圧しているだけに、ふとした瞬間に涙腺が崩壊する。彼らを見るたびに、そして日本の気配を感じるたびに罪悪感を感じ、安らぎを捨て去った自分と、当地では埋めきれない深い孤独を思い知らさせれてしまう。行く先々で知らない人に知り合うと、ここで育ったのかと訊かれる。しかしそれが何だというのだ。そんな希少なことよりも、未だにまぎれもないFremdkörper(異物)であると思い知らされる場面の方が、はるかに多いのである。

それだけに、やっと得た「小さな家族の絆」だけが、私の心の中で唯一小さく揺らめく一点の灯なのである。目をつぶってこの小さな消えそうな光を必死で見据えると、私の魂が静かに安らいでゆく。心の中でただ一つの安全な場所なのだ。それを捨てることは、やはりどう考えてもできない。

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苦しい時に、見事なタイミングで娘から電話が入った。親の私が甘えてあまり元気じゃないと伝える。「どうしたのママ。元気じゃないなんて。大丈夫だよ。最後にはみんな理解し合える。必ずまた直ぐに気持ちが楽になるはず。また明日必ず電話しようね。私にいろいろ話してくれればいいよ、私も色々と知りたいから。元気出してね。」と言われた。言葉で書いただけでも立派な発言であるが、あの子が口にすると、まるでセラピストに慰められているような効果があるのである。胸の中心から心が徐々に温まっていく。「まるでセラピストみたい。どうしてそうやって人の心をつかめるの?あなたはやっぱりすごい。」そう伝えると娘は「どっちがセラピストなの?私が一言いえば、ママは千もわかってくれるから気持ちわるい。そっちこそセラピストでしょ」と言われた。こんな会話を娘とできるようになるなんて、どうしてあの時考えられたというのだろう!また申し訳ない気持ちと感謝とが入り混じて涙ぐんでしまう。すでに子供は私をはるかに超えているのである。あの子は大丈夫、あの子は大丈夫と呪文のように唱え、感謝した。

続く








2017年6月30日金曜日

平穏に潜む老いへの恐怖

平穏な日々が続く中、少しほろ酔い気分になりながら、ふと聴きたいと思うのはバッハなのであった。そして聴けば胸が締め付けられる。
私には、制御しがたい情動と言うものがあったはずなのだ。そんなものは大人になるためには、邪魔以外の何物でもなかった。しかし絶えず自分のそうした情動に振り回されながら、一体何が自分の本質で、目指すところは何であって、何を失ってはならず、何を変えていかねばならないのか、そうした方向性をまったくわからないまま、壁伝いに手を当てて、真っ暗闇をまさに手探りで伝い歩きながら、何度も激しいどん底を体験して、ようやく光が見えたのが2013年頃だった。それ以来、私は少し平穏や安定というものを体験できるようになったが、情動というものに振り回されることはすっかりなくなってしまった。それが寂しいという感覚もない。ただ、焼けるように音楽を求めた日々、へたくそでも何時間も音楽を奏でなければいてもたってもいられなかった日々、できもしないのに、自分の奏でる音に涙が止まらなかった日々というのは、一体どこへ消えてしまったのかと思うのである。それが寂しい。何も感じなくなった自分が寂しい。安定と言うのはこのように平坦な世界であったのかと知ると、決して昔に戻りたいとは思わないのだが、寂しくていてもたってもいられなくなる。
これもセンチメンタルに思考しているつもりになっている若い未熟さを失っただけの話であると、理性ではわかっているのだが、やはり年老いるということは、失いつつあるものを如実に目の当たりにするということであり、ある種のやりきれなさとは切っても切り離せないということを思い知らされる。
今、目標と言えるのは、未来の職業でもキャリアでもなく、子育ての理想でもなく、死ぬまでにまだどのぐらい自分を成熟させることができるだろうかと言う葛藤である。
しかし、哲学書や詩を読んでは涙に暮れていた感受性は理性にまみれて眠ってしまった。もう決してあの新鮮な感覚ではどんな書物にも巡り合うことはできない。そう思うとさらに絶望が目の前に広がるのである。
今まで生きていて、世界はましになったかと言えば、一方でましになれば、他方でまた新たな問題がせりあがるといった具合で、一項に収まる気配はない。こうした改善の難しさを見せつけられる世の中で単に100年に満たない命を全うする時、個人というレベルで如何ほどのことができるのだろうか。個人レベルにとどまって、せめて家族を幸せに、家族の繁栄と、家族の資産を増やせば責任を果たしたと言えるのだろうか。それが大人として生きることの課題なのであろうか。と、こんなバカな思考に問わられながら、自分はいったい大人になったのはいつで、いつまで青年時代を生きていたのかという境界線があいまいなまま、未熟な意識と共に50歳を迎えてしまった。
そんな時、私の感覚がいまだに衰えておらず、今でも鳥肌が立つような生への欲望があると実感させてくれるのはバッハなのであった。バッハの和声を聴くと、深い深い底辺に潜む本質が何であるのかを訴えかけてくるような揺さぶりを受ける。
個人の情動を制御し、子孫を育て、教育を与え、自分を成熟させ、伝統を引き継ぎ、愛情を育み、博愛を自ら実践するという人としての義務を全うするために、自らに課すべき試練と、自らに与えるべき精神的肥しが何であるかを思い知らされるのである。

歳を重ねるからこそ、哲学しなければならない。哲学は未熟な青年期と老年期にこそ、自らを追い込むように読み込まなければならない。そして消費を減らし、外部からの刺激に揺さぶらることのない、自分だけの価値観を築かなければならない。自分と自己をつなぐ糸を見失ってはならない。つまりいかなる時にも、直ぐに自己と対話できるような直結感を保ていなければならない。価値観を世間ではなく自らの中心に移していかなければならない。

社会とのつながりに果てしない感謝を注ぎながら、社会への義務を全うし、そして自己との糸をより一層に強めていかなければならない。死ぬことというのは、自己との対話に他ならない。自己を十分に納得させることが許しを得るということなのである。死が訪れるまでに、自分を十分に対話をする関係を築いていかなければならない。
それには失ってしまった感性を成熟への肥しとして利用するのではなく、自分自身に対する感性として再建しなければならないのである。
もはや成長はできないが、次第に視線を自己に戻して行き、何度でも振り返り、自分なりに過去に納得するまで何度でも噛み下さなければならない。その間、謝らなければならないことも、感謝を述べなければならないことも、さらには告白しなければならないことも出てくる。それを一つ一つぶれずにこなしてゆくことで、老いだけが達成できる深みと静けさへと到達することができるのではないだろうか。

そうした意味で、バッハには老若男女問わず、自己との対話を促進してくれる素晴らしい効果がある。感情や感性はメロディーであっても、和声への愛着には、さらに深い骨髄から揺さぶるような計り知れないKraftが眠っているのである。

私はフランス組曲やイギリス組曲を一つずつ少しずつ丁寧に奏でてゆくことで最も癒される。せめてどんなにへたくそでも奏でたいという欲求が失われたことはない。物心ついたころから、ミミズ腫れができるほど毎日太ももを叩かれて練習してきたことの恩恵である。それで自己を見失わずに救われている。

本質は、老いが怖い。その一言に尽きる。親を見ていると心苦しくなる。老いとは決して戦うべきものではないが、立ち向かうべきものではあるのだ。時間に負けてはならない。人間として時間に対決してゆかねばらないと思う。これを実践するのが、この世の中で最も難しいことであると実感するのであった。



2017年5月2日火曜日

長男の試練

なんだかんだ言いながら、長男が父親の下に学びに出て以来、すでに8か月が過ぎた。あの地へ引っ越して以来、期待に胸を膨らませた最初の一か月を除けば、彼の精神状態は常にうつ状態であった。私の下を離れたのはすでに17歳半の時だったので、一人暮らしの寂しさが鬱を呼び起こしているのではないことは明らかだった。

ベルリンに帰宅するたびに、彼の話を聞くのだが、なにが鬱の原因なのかもはっきりしない。スイス人もスイスの街も何もかもが嫌だ、自分はベルリンで育ったのだから、あんな町では生きていかれないという子供じみた不満から、父親の教授の仕方が自分には合わない、楽器も音楽も愛せなくなったなど、こちらの心も暗くするような深刻な悩みも打ち明けてくれた。

彼は次第にクラシック音楽から遠のき、必要最低限の義務をこなしながら、次第にテクノの世界にのめり込み、自分で機材を整えて様々なサウンドを生み出し、テクノをアートとして見ているなどと語りだすようになった。母親というのはこうした場面で子供と一緒に揺れてしまいがちである。私も本気ならそういうものを大学で学んだっていいじゃないという、とんでもない発言をしてしまいそうになった。

元々長男は優秀で有名な学校に行き、コンクールを賞をたくさん獲得し、多くの青年や学生オケで経験を積み、ひっきりなしに演奏の仕事をもらい、ベルリンの音大に入った当時は引っ張りだこと言ってもよかった。そんな彼が、父親の下で学ぶという彼の人生で避けることのできない道を歩み出したとたんに、鬱に入ってしまったのである。
最初は、ベルリンのような成功体験がないから、友人を失ったから、あるいは迷うことなく一途に突き進んできた道を、遅い思春期を迎えて疑問に思い始めているのだろうが、それも時期に落ち着くことであろうと、このように楽観していた。

しかし、鬱が去る気配は見えず、練習もしたくない、夜中に涙が出てきたなどという話に発展してしまったのだ。テクノ音楽を生産しているときだけ、唯一「表現する人間として」自由に創作できるのだと訴えるような目で私に語るのである。多忙な父親は月に一回しかレッスンできない。技術のことは殆ど言わず、レッスンは音楽の解釈の話に始終する。強烈な個性を持った父親のレッスンは、息子の肌には全く合わないらしい。そんなことは行く前から親子で承知していたが、息子は父親に「あなたのところでは学ばない」と面と向かって言おうと思ったこともなかった。それはあの楽器をやるには、父親を通り過ぎて一人前にはなれまいと、彼が薄々わかっていたからである。
それでも、実際に行ってみれば音楽解釈を強制されるのに耐えられない、自分の人間には関心を持てもらえず、単にいわれたことをコピーするまであきらめてくれないだけのレッスンなのだと嘆く。彼のレッスンについては色々な見方があるが、私としては、どのような解釈にも発言にも必ず学ぶべきことが隠されていると、そう叱咤して励ますしかなかった。

復活祭の休みにまた帰宅した息子は、可愛らしい女の子を連れてきて、少しは元気になったようだった。大学は転校しない、ここで最後まで卒業する、これを中断したらすべてが中途半端になると、そういう決意をしたようである。しかし学位を取ればいいんだろ、と言ってみたり、本能的に進むべき道が見え、決心できたとしても、その根拠を説明できない危うさがあった。私はまだまだ不安であった。
10日間の滞在後、息子を西の果てのバスターミナルに送った。車の中で殆ど何も話さなかったが、人生には乗り越えなければいけない石がいくつかあって、これがきっとあなたの最初の石なのだから、絶対に乗り越えなければだめなのだと、それだけは私の中でも言葉としてまとめることができた。彼の迷いの中で、今の道ではない方向に行きたいという気持ちが見えたときに、私は決してその方向転換を手伝ってはならない、この石を乗り越えさせるのが親としての支えである、ということは、私の中でも本能的にわかったのだ。しかし息子自身の中に、すでに方向転換する考えはなかった。彼も私と同時期に、なすべきことを理解したのだった。そういうところは親子である。どこかが精神的にシンクロしているのである。しかし私たちのどちらも「根拠」は分かっていなかったのだ。
時間があったので、長旅に備えてビールを2本の他に、サンドイッチやお菓子も買い与えた。今回は、帰っても少し持ち直すのではないかという予感があった。頬をさすり、しばし抱擁し合ってしっかりしなさいと激励して息子に別れを告げた。

夜の10時近く、ベルリンを西から東まで一人で車を走らせるのは本来なら気持ちよいはずだった。しかしその夜はやはり寂しかった。14時間もバスに乗って帰宅する息子が不憫に思えた。
次の日の朝、出勤中の車の中で私は突然理解した。これは息子の遅い思春期でもない、息子が楽器をへの思いを失いかけているのでもない、クラシック音楽への情熱が薄れたのでもない。そうではなくて、息子はあのとてつもなく強烈な父親との戦いに挑むために引っ越して行ったのだ。今、息子が立ち向かっているのは父親像であり、それをエディプスの話のように一度は殺さなければ、自我を形成し、立派な強い一人前の大人にはなれないのである。息子は8歳の時に父親と同じ楽器を選んだ。その決心は揺るぎのないものだった。そしてメキメキと力をつけたが、同じ楽器ゆえに父親とは違う道に進むわけにはいかない。その道での地位を確立した父親を避けて通り過ぎ、彼が自分なりの道を歩むわけにはいかないのだった。そして今父親と対立するときが来たのである。
彼の立ち向かっている父親は、確かに凄まじい人格である。私は10年以上に及ぶ戦いで、何度となく精神的に殺されかけ、体系的に自我を粉々にされたあと、初めて自分が跪くのではなく、自分を防護する権利があることを学び、実行に移した。その後私は当然別れを選んだ。なぜなら彼の下には彼を尊敬し、彼の教えを聞きながらそれに従う生徒のような関係でなければ共存できないからだた。
そうしためまいのするような巨大なエゴとして立ちはだかる父親の隣に存在するだけで、息子がエネルギーを吸い取られて枯れ果ててしまうと考えれば、今までの出来事がすべて納得できる。彼は他人のエネルギーを吸い取るのである。それは故意に行っているのではなく、存在の大きさの違いとしか言いようがない。しかし彼は常に信仰者に囲まれている。彼の妻も然り、彼の生徒たちも然りである。皆彼の言うなりに音楽を奏で、その解釈を心の底から信じているのである。
彼の音楽家としての実力も魅力も、何もかも認めなければならない。彼が好みの問題を超えたもっと高次の能力をもった人間であることには間違えない。
しかし、その息子が同じ道を選んでしまたことは、ある種の運命であるような気もする。長男は最も私に似ており、普通に人に合わせることができ、自分を過剰に突き通すことを好まない。しかし強い自我を突き通すことを疑いもしない他の子供たちではなく、よりによって長男が父親と対抗する羽目になったのである。

長男の孤独は深い。クラスにも彼を理解する者はだれ一人いない。全員が教授を崇め、言いなりに演奏することで、その震えるような音楽のかけらを一片ずつ自分の身に着けようとして彼に傾倒しているのである。息子だけが言われること、指図されるフレーズにことごとく内心逆らっているのである。四面楚歌という状況の中、親しい友人にもこの話の背景がわかろうはずもないのだった。彼はまさに孤独というものを初めてなめることになったのである。

その長男から今晩電話があった。自分が大人にならなければいけないということをひしひしと感じ、自分の精神衛生に一人きりで責任持たなければならないことを分かったという。モチベーションがなければ自分でモチベーションの源を見つけるように努力し、練習したくないからこそ、練習して没頭しなければならないと語る。言っていることはすべて正しい。特に、多くの学生初心者が共通して最初に乗り越えなければならない壁とは、まさにこの長男の言うことである。

しかし、私は長男が力をつけ、決心を固めたのを察して、私の解釈を告げた。あなたが乗り越えなければならないものは、もちろんあなた自身であるけれど、本当は父親に対抗しなければならない。父を認め越えなければ、あなたは残念ながら大人になれない。けれど絶対に打ち勝つことができる戦いしか、人生にはやってこないはずだから、どんなことがあっても自分を見失ってはならないと伝えた。
すると息子は目から鱗が落ちたように、自分の今までの出来事が腑に落ちたようである。
「パパのように夢中になり、発見されていない楽曲を掘り出し、編曲し、寝る間も惜しんでそのことしか考えないようでなければ、自分は音楽を愛しているとは言えないと名指しされているような気がした。どれだけ頑張って努力してもしなくても、どれだけの成果を出しても出さなくても、常に才能を褒めてくれ、実際どれほどの関心があるのかはわからず、自分の存在は透明のような気がした。他の学生は全員一致で言われた通りにやっている。自分だけが父親の解釈ややり方に疑問を持っていた。しかし誰も口にできない。僕も口にできない。しかし、父親とは違う奏で方や音楽の愛し方があってもいいはずだ。それが父親には全く通じない。」

私は息子の言葉を繰り返して、それがあなたの行くべき正しい道なのだと諭す。「何度も何度も、今言ったその自分の道を父親に揺らがされ、その道はおかしい、こっちの道が正しいと言われ続け、とうとう自分の意志にさえ疑問がわいてくるでしょう。折れそうになるでしょう。しかし、絶対に自分を見失うな。言われたことはすべて言うとおりにやりなさい。それでも今言ったことがあなた自身であることを忘れたらいけない。折れたら彼を崇めている他の皆と同じになり、あなたは父親の傘下に入る。あなたが息子でなければ、それだけで充分に音楽家として学ぶところがあるだろうが、あなたは息子だから傘下に入るわけにはいかない。あなたの道を父親とは違う地盤に築かなければならない。凄まじい威力で立ち向かわれるから至難の道になるだろうが、これがあなたの課題なのだと私にもわかった。いままで一年近くもやもやとしていたことが、いまやっと頭でも理解できたから、必ず次の段階に上って行かれる。また違う景色が見えてくる。そうして一歩一歩歩みなさい。最後に父親が無言で送り出してくれるような卒業演奏をしなさい。それにはあなた自身が人をつまり父親を感動させなければならない。それにはあなた自身があなたの心臓と直結した音楽を奏でなければならない。そうでなければ誰の心も動かない。父親に言われたことを100%実践して完璧に演奏すれば、それも素晴らしい演奏になるでしょう。でもあなたは『違う在り方があるはずだ』と言った。だからそれを探り、確立し、あなたのやり方で人の心を動かさなければならない。あなたの父親はそれを一人きりで築いてきた。そして多くの人の涙を誘う演奏をしてきた。あなたも一人きりでそのあなた自身の演奏を築かなければならない。それには孤独を愛し、孤独に負けることなく立ち向かいなさい。それが父親という壁を超える最大の基盤になるはず。」

私は思いにかませて、これだけのことを精一杯に息子に伝えた。息子はやはり今までの気持ちの動きに納得するだけでなく、背景を理解できたと考えることで、少し元気が出たという。もやもやというのは人の心を不安にする。その一つ一つが文字になり、理解することにより、ずっと晴れやかな風景になるのだ。電話を終えて、やっとここまで来たかと胸をなでおろした。これで息子は必ず前進できる。どこまで前進できるかわからないが、また大きく成長を遂げる。あとはまた遠くから見守ていれば十分なのだった。

やはり母親だけでは育たない。だから息子はあえて父親を求めて彼の下に学びに行ったのである。そして彼は理解するもっとずっと前に、無意識に父親との対決に腹を決め、覚悟の上で出て行ったのである。父親は子供の成長にはほぼ関わらなかった。関われなかったというのもあるが、音楽が何よりも重要な彼にとって、子供に割く時間はどうしても取れなかったのだろう。それぐらいでなければ一流などにはなれないのである。しかし、父親がただの壁だたとしても、存在しているだけで息子の成長にとっては重要なことだったのだ。それを乗り越えるだけでも、重大な課題となるのである。

殴り書きで、まったくうまく書けないが、人生の節目となる出来事だったので、どうしても書き記しておきたかった。今後期待と不安をもって、見守ってゆこうと思う。