2004年12月18日土曜日

Wilhelm Furtwängler

今晩、偶然フルトヴェングラー(1886-1954)と言う大指揮者とナチの関係についての、短いドキュメンタリーを見た。唸ってしまった・・・。

フルトヴェングラーと言えば、私が大学に入って間もなくの頃、ブラームスの交響曲を吹かなくてはならなくて、初めて自分の小遣いで買った四枚入りのCD(当時の学生にはとても高価だった。)が、この偉大なる指揮者のものだった。それ以前、家には家中にレコードがあって、全く買う必要が無かったのだが、いよいよ大学に入り、私も自分の好み、スタイルと言うものを伸ばしてゆきたくなったので、自分で選んだのだ。録音が古くて、CDばかり聴き慣れた耳には、どうも馴染まなかったが、それがどうだろう、聴くほどに引き込まれていって、とうとう全交響曲を通して聴いてしまった。もちろんヘッドフォンで。一つ一つの音の変化も聞き逃すまいと。そしてポロポロ泣いた。あれで、意識が全然変わってしまった。ブラームスの交響曲を誰に教わったかってそれはフルトヴェングラーだった。子供の頃から聴き慣れていたが、複雑で、どでかくて取り付きにくかった交響曲と言うものの醍醐味は、このCDで目覚めたと言っても過言じゃない。それからベートーベンやワーグナーなど色々聞いた。ブラームスに関しては、彼に勝る指揮者は今でもないと思っている。あの人の持っている、苦悩と孤独、不安が、この作曲家の作品と、深い平面で重なり合っていたような気がするのだが。

自分では、アメリカで指揮をしていたこともあったのに、ドイツにやはり戻ってきて、三十年代には、この先のドイツ文化が心配だと、やはりドイツに残り続けた。その後、この偉大なる指揮者にヒトラーが目をつけて、ベルリンフィルの指揮者となり、あの第三帝国(ヒットラーの国家)の、音楽総督となるわけだ。しかし、有名な話であるように、彼は意図してそうなったわけではなく、最初は自分が、「ドイツの音楽、ドイツ人の魂の音楽」という言葉を特にベートーベン、ワーグナーに対して使うのが、政治家にはどのように捉えられるかと言うことを全然意識できなかったと見られる。

これらの作曲家には、ものすごい荘厳さがある。大きな流れ、大きなメロディー、大きな構成、そう言ったたくさんの要素が組み重なって、まさにしびれるような、取り付かれてしまうような荘厳さが、聴く者を虜にする。ヒットラーにとっては、ある意味、芸術的美学と言うものは二の次で、帝国に相応しい荘厳、高貴、崇高な何かを自分と、更に自分の国家に結びつけることが第一の目的だったわけだ。ゲッペルスと、ヒットラーは、意識的に計画して、これらの音楽を選び、この指揮者を選んだ。何故フルトヴェングラーなのかと言えば、この指揮者の目的は、これらの壮大なる音楽をその極限を超えるほどに表現しようと言うものだったからだ。この芸術家は、ドイツで演奏するだけでなく、機会さえあれば、アメリカでも指揮をしたわけで、本当に彼の頭の中には音楽を実現すること以外には無かった。しかしヒトラーに取っては、まさにうってつけなのであった。

第三帝国は、独裁主義国家であるから、人々が教会に行くのを基本的に好まない。宗教と言うのは、独裁政治をむしろ阻止するものだった。そこで、宗教となったのが、音楽だったと言うことらしい。第九を聴けば、ヒトラーの演説を思い出し、第三帝国の壮大さにしびれ、このような音楽を生み出した国、ドイツ帝国国民として、その魂が自分にも、宿っていることに大変な誇りを感じるのだった。ベートーヴェンの音楽が宗教とは、すごい。ベートーヴェンのエロイカも、フルトヴェングラーが指揮をすると、まるで国歌のように聞こえてしまうから恐ろしい。

天才という定義の範囲では、どこかに政治的指導者がいて、最も高いところには神がいると言えよう。その間に存在しているのが、芸術的な天才だと、番組中のある著者が言ったのが非常に印象的であった。神の存在をメディアとして、人々に伝えるのが、芸術的天才なのだということか。確かに政治家には、芸術ができるほどの、効果を与えることはできないかもしれない。ヒットラーの演説の背後には、常に、ワーグナーがあり、第九があったから、人々は、よりしびれたのではないか。すべてはお膳立てで、それを天才的にやってのけたのがヒットラーだったとも言える。

1942年、ヒットラーの誕生日の前夜である四月十九日、誕生日コンサートとしてベートーベンの第九が、フルトヴェングラーの指揮で演奏された。ヨアヒム・カイザーと言う、すこぶる有名な音楽評論家がいるんだが、彼が、身体を乗り出し熱い声で、当時のフルトヴェングラーの演奏に関して語り出した。

「一楽章は、色々と苦しい場面を経て、最後にRepriseが来る。これはDurで、フォルティッシモであり、合唱が入り、つまり本来は勝利な訳です。ところが、これをあの指揮者は、めちゃくちゃに振る訳だ。めちゃくちゃだから勝利だか、一国の崩壊だかなんだかわからない。カオスとはこれにあった表現だね。」

別のBrinkmannと言う音楽学者は、「あのRepriseは、まさに勝利の象徴なんだが、勝利を表現しようとして振ったものから、全く別のものが生まれ出すと言うことが起こった。この大合唱の裏には不安があり、恐れがあり、崩壊の影が聞こえる。聴衆の心か、彼の、または演奏家の心か、そう言ったものが一つになって会場から生まれ出たものは、勝利ではなかった。」

私は鳥肌が立ちました。1942年、8月からだったと思うんですけど、ドイツ軍はスターリングラードに行くんです。彼らは年内に決着が付けられず、ロシア軍に抱懐されて包囲され、皆雪の極寒の中で、凍死してしまった。これが、ヒットラーの第三帝国の大きなターニングポイントだった訳です。ここから、本当に崩壊が始まった。それをまるで予想していたかの様な、解釈と言うこともできた、このフルトヴェングラーの第九だった訳です。

私が思うに、彼の指揮だったから、そこまでの表現となったのではないか。他の人間ではそういうことは起こらなかったのではないか。彼の指揮は、観客を引き込み、オケのメンバーを引きずりこんで、そこに共存しているすべての人間を、音楽と言う大波と共に、何かを越えた異次元へ導いて行くようなすごさがある。なんか、言っていることがうそ臭いけど、本当なんです。音楽って、何かすべての周波数がぴったり合ったときに、こういうことが起こりうる。フルトヴェングラーには、何か彼自身を超えてしまうような、演奏があった。これが、神のいる高みの本当に近くにいる、天才芸術家なのではないでしょうか。当時のオケのメンバーも、何人か証言していたが、彼のプローべや、仕事振りの話になると、その真似をしながら、涙ぐむんです。それは、彼が良い人だとか、偉大だとかそういうことじゃない。人が偉大なぐらいじゃあ泣かない。じゃあ何故泣くのか。

それは彼が「MUSICUS」以外の何者でもないからなんです。何と言えばいいか・・・。彼が、彼自身が、「音楽」以外の何者でもない。私欲も虚栄もなく、ひたすら音楽をやりたい、自分が一番愛した音楽をやらせてくれるのなら、何でもやろうではないか、そういうことだろう。それが私達の心を打つ。素晴らしく有名な音楽家の、ヴィルテュオーゾ丸出しの演奏を聴いて泣くこともあるかもしれない。素晴らしい演奏家の、完璧な演奏に、涙を流すこともあるだろう。でも、そうじゃないのだ、本当は。それと、これとは別の次元なんです。感嘆で泣くのではなくて、凡人には絶対に真似のできない、本物の天才たちの純潔さが、私たちを泣かせる。彼らは、変な言い方をすれば救いようがないほど純粋なのだ。フルトヴェングラーも、政治的にはナイーヴもいいところだった。ヒットラーにすれば、こういう人間を取り込むのはいとも簡単だったのだ。本当の天才は自分を必ず傷つけてしまう。望んでいなくても、必ず、自分の命を削るような生き方をする。何故かと言えば、彼らが、その芸術を前にして、全く盲目であるほど純潔だからなのだ。そういうものを目の前にしたとき、それに対する感受性のある人は皆感動を覚えて涙を流す。自分に恥じ入るからであろう。凡人には、そんな純粋な魂は持つことは不可能。天才が、神に近いと言われる所以は、ここにあるのではないか。

フルトヴェングラーは、その後、ナチに属していたとして裁判にもかけられます。釈放されるのですが、そこらあたりから、彼はもう死んだも同然だったのではないか、そう、元ベルリンフィルにいた音楽家は語っていました。
死の直前に、彼のところにフルトヴェングラーから電話が入った。「もう、あの音が、何にも聞こえなくなってしまったんだよ。もうあの音が聞こえない。どうしたら良いものか・・。」音楽家は、「アメリカに行けば、良い治療があるから」と慰めたけど、アメリカになんか行きたくないと答えたそうです。その後、ミュンヘンかどこかから、バーデンバーデンに行く汽車の中で、窓を全開にして、ワイシャツを脱ぎ、胸を汽車の喚起口に当てたと言うんですね。それで、肺炎になってハイデルベルグの(バーデンバーデンと言う説もありますが)病院で亡くなった。かれは、「あれは意識的に仕組まれた死と言ってもいいものなんです。」と信じていた。

MUSICUSであったために、歴史の犠牲になり、しかし同時に音楽的最高の経験もすることができた。音楽が政治とは切り離して考えることができると信じきっていた、世にも非政治的な音楽家だったんです。その間違いに気が付いた戦後、彼はまるで抜け殻の様になってしまった。非常に悲しい話です。天才の話はいつも悲しい。

私は、ここで趣向教育をするつもりも権利もないからあんまり言えないんですけど、この頃の音楽産業は、こういう本物と言うものが出にくい世界になっています。スターソリストや指揮者はたくさんいますけど、うそ臭いのもうようよいるから、耳が育たないと言うこともあるんじゃないか。私は、お前見たいのがクラシックの聴衆だから、クラシックは閉鎖的でだめだと言われるのがおちなんですけど、言いたいから言わせてください。世の中には、本当にたくさんのすっごい音楽家がいる。皆それぞれに魅力的ですね。でも、その魂の純潔さに平伏して、自らを恥入って泣くというのは何人ぐらいいるか。そういう言う人はあんまり有名じゃなかったりするから、目に付きにくいんです。私は、古楽の世界に何人かそういう人を知っています。スタンダードなクラシックの世界にも何人かいますが、そういう人たちは、スタイルとか、好みとか言うことを全部超えてしまうんです。すごいテクニックじゃなくても、異様に感激してしまうことがある。まさに心を打たれる。

ああ、音楽っていい。そして、寂しい。この痛いほどの寂しさが、止められない。

そういいながら、夫は隣でもう三時間ほど、なんだかわけの分からん経済学の本のゴーストライターになっただかで、執筆している。

私は、この頃の平行線生活を思い出しながら、非常に寂しさを感じる。かまってもらいたいんじゃない。そうではなくて、私がここまで心を動かされているのに、そういう感覚が、全く彼には解せないのである。私は、そういう物質的なマテリアルと、何時間も、若しくは人生ずっと関わっていられる、その情熱が不可解である。やっぱり音楽家じゃなきゃだめなのか。それじゃあ、障害者だろうと、他の面で色々と共通しているので一緒になったが、私の一番一番大事なものが、絶対に分かってもらえない寂しさ。この頃は、そこだけは分かりたくないという感じもしてくる。人が自分では感動できないものを見て感動しているのを見ると、一般的にはしらけるでしょう。寂しいですね。

仕方ないから、寝ます。