2009年1月9日金曜日

家族



この頃の寒さは厳しい。
今日もマイナス日であろう。雪がとけずに残っているなんて珍しい。
自宅のトイレからツララが見えた。本当にしんしんと寒い。

そういうわけで、オフィスに行くのがいやになった。自宅勤務ということにさせてもらうではないか。

そして、自宅勤務だと、仕事前にこうしてブログなんかを更新したくなるものなのだ。

イタリアで、義父母に会ってきた。
その話は、是非書かねばならないと思う。しかし、重いテーマなので、書き出しでさえ筆が重い。
感情的な問題でもあるので、会ってきたその日に書くのも心苦しい作業であった。
で、今、冷め切る前の暖かみという距離で、あの日のことについて書いてしまいたいと思っている。
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なぜかぼやけてしまったが、まるでこの逸話を象徴しているかのように幽霊じみている…。


ここ何年かだろうか。義父に会わねば、というより会いたい、更に言えば、孫を見せなくては、また違った側面からは、子供達におじいちゃんを会わせねば、などなど、様々な意味で、義父のことを考え続けて来た。

私と義父は、私の前夫と一緒にいた時期ずっとの付き合いなので、十年以上である。さらに、知り合ったのは、私達がひよっ子だったころに遡る。
真面目一本の警察官で、その中でも地味を極める記録係、書記のような仕事受け持っており、まるで、ゴーゴリの外套の主人公、アカーキー・アカーキエヴィッチを思わせるような人物である。
風采の上がらないという意味ではなく、その自ら上昇を拒否し、自分の風采の上がらない下級官吏として日々数字を正しく記入し続ける簿記という仕事に愛情を見出しているような人物と言う意味で。

話がそれました。

その義父は、もう80を超え、今や一時的に老人施設に入っている。
義妹が、義父を連れてきてくれて、彼女の家で昼食をとった。

義父は、この真面目一本な性格であったけれど、男性意識の強い人エミリア出身の男で、ローマで警察学校を出た後、Veronaを経てBolzanoに赴任になったわけである。
で、金髪の美しい女性に惹かれて、義母と結婚した。
ところが、この義母と言うのが、稀に見るような特殊な性質を持っていて、狂と美とキッチュが集合し、一つの人格を織り成しているような感じである。
イタリアには時々、嘘かと思うような不思議な人物がいることがあって、意外と村なんかでもBarに行くと名前で呼ばれて、みなから寛容されていると言うこともある。
言葉で言い表しがたいのだが、彼女もそんな一人で、知能が遅れているとか、身体に障害があるとか、そう言うことはまるでないのだが、普通とは言いがたいのである。

どちらかと言えば、天才的な知能の持ち主であり、時々、悪魔的な言動をして周囲を驚かせるが、他人には真似のできない深い洞察力で、ものごとを切り裂き、自分を主張し生き延びていく、そういう知恵に優れているのである。

金髪に毛皮、目立つ化粧に、大きな声。
しつこさを超えて病的と思えるほど強調された挨拶。繰り返される文章と身振り手振り。

普通なら圧倒されて卒倒してしまいそうな存在であるが、彼女にはどうしようもない哀愁が漂っているのである。
彼女はまるで、哀愁をそのまま人間にしたような人物なのである。

哀愁と言えば、この家族そのものが、耐え難いほどの哀愁に包まれている。
私は最初に家族を訪問した時、世間知らずの小娘だったが、その大きな深い哀愁だけは身体全体で感じ取って、その晩に精神が突き落とされしくしく泣いてばかりいた。

前夫に、馬鹿言ってんじゃないよ。僕は、この家庭で育ったんだから。もっと強くなってもらわないと。これしきのことでないてもらったら困る。
こういわれたほどである。

ドストエフスキーの貧しい人だとか、もっといえばプーシキンの世界を象徴したように、存在そのものが世界の哀愁のような背景なのである。

この夫婦がうまくいくはずもない。
不幸な結婚が終わったのは、末子である義妹が十歳ぐらいのときであった。
彼女は、父親と住み、義兄は母親と住み、前夫はさっさとドイツの大学に来てしまった。

昼食のお膳立てをしてくれたのは、可愛らしかった義妹である。
今は、彼女も大人になった。
駅前で見かけたときは、見違えるほど洗練され、どこのイタリアのかっちょう良い女かと思うほど、ステキななりをしていた。
彼女は、様々な苦労を経て、勉学を捨てたり、男達と苦労があったが、見事に看護婦になり、真面目に人々に尽くしている。

私はあれほど深く傷ついた少女が、めちゃくちゃをやった挙句の果てに、看護婦という職業を選び、しっかり生きている姿に、彼女の中に深く存在する「善」と「良心」の存在を感じないわけにはいかない。償いのようであり、自分に対する治癒のようでもある。

彼女の彼氏は、料理の天才で、素晴らしい昼食を用意して待っていてくれた。

彼女のアパートは新築で、彼女の人生が今や軌道に乗り、彼女自身が自分の道を築きつつあることが伺える。
ドアを開けた瞬間、義父が見えた。
何年も何年も心に描き、この時を待ってきた義父を見たら、私の涙腺はコントロール不可能になり、涙が流れひくひくなってしまった。
義父に何の思いがあったのだろうか。
孫を本当に愛し、心から会うのを楽しみにし、ことあるごとに私に電話をしてきて、子供の声をッ聞かせてくれといってきた人である。
私も自分の人生に忙しく、そういう義父をずっとおろそかにしてきた。
その後悔と、良心の呵責が、私がずっと義父への思いを募らせてきた原因だと思う。

皆でとった昼食は、本当に幸せで、心から寛ぐことができた。

私は離婚した妻であり、義妹の彼も、ここ4,5年の付き合いで、私達は知らなかった。
いってみれば、家族というのには、いささかおかしな組み合わせなのである。
ところが、卓を囲んで、美味しいものを口にしていると、家族がまた一緒になれたね、という暖かい気持ちがずんずんと湧き上がってくるのである。
なんとも嘘偽りのない気持ちなのだ。

事実、彼らはわたしのことを家族として扱ってくれたし、また再会する約束もした。
義妹とは、何回もSMSを交わし、本当に心を通わせることが出来たと思う。それが、離婚後こんなに経った後なのだから、人生とは不思議なものだ。
前夫の存在がなくても、私達は家族、いや家族ごっこをし、成り立っているのである。

血だといってしまえば、そんな簡単な答えはない。
血がかよった孫がいるから寄り集まる、といえばそうに違いないのだ。
しかし、そうだろうか。血がなければ、じゃあ家族ではないのか、時が関係を薄れさせるのだろうか。
それはそうかもしれないが、それでは私の今やっている人生こそ、家族ごっこの典型になってしまう。

時が家族を作るのだろうし、血が家族をつなげておくのであろう。
しかし、私はそういうことよりも、人間が家族という存在に苦しまされ続けるにもかかわらず、なによりもそれを求めて止まないという点に、気が付いたのだ。
というか、思い知らされた。
そして、それこそ、哀愁の影がおちる最たる原因だろうし、その悲壮な希望や理想からは逃れられない運命なのだということに気がついた。

そして、その望みを共有する以上、家族なのである。
血や社会的ステータスとは別に、家族であり続けられるのではないか。

家族というのもまた、結局一つの決心、決意なのだということもいえる。
愛するべき存在が集約され、同時に負われるべき大きな責任がそれぞれにある。

そういう意味で、愛という言葉にたどり着いたが、昼食を囲んだ食卓は、愛に満ち溢れていた。
子供達のために美味しいものを用意し、義父のことを思って、義妹はすべてを完璧にお膳立てしてくれた。私は義父と子供、さらに別れた夫のことを思って、この旅行を決行してのである。子供達は、始終良い子で、義父や親戚のなされるままになっていてくれた。
それぞれが、大きな愛という目的のために行動したのではないだろうか。

その関わった人間それぞれの心の奥そこに、また「善」と「良心」を実感するのである。

澄み切るほど純粋だったり、穢れのないほど善なものには、必ず哀愁が漂う。
寂しい心を刺激され、心は躍るよりしぼむのである。
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二時過ぎに、義母は遅れてやって来た。仲間はずれにされたとか、電話が来なかったとか、色々と文句を並べ立てて、周りを辟易させたが、子供達を見て、本当に嬉しそうだった。
義妹にも、あらママ、と言われただけだし、義父に至っては、入ってきた途端に、首を振られるほど、皆に困惑を与え続ける人間である。
私も、それはそれは付き合いにくかった。

しかし、いつものごとく、彼女は一番大きな車をどこかのメルカートで買い、一番大きな人形を担いで、クリスマスにちなんだセラミックの置物を、4個も5個も持ってきた。
私は汽車で旅行しているのに何でこんなものを持たせるのかしらと思いかかったけれど、そう言えば、この人はいつもそうなのだ。
愛情が、大きなおもちゃにすりかわり、見せ付けるかのような大荷物にすりかわる。

そんな馬鹿馬鹿しいおちゃらけ自己主張劇場に付き合っている暇はないと、そういってしまうのは簡単であるが、この人に背中は、哀愁が一杯である。

そのおもちゃを開けるときの悲しさ。そのセラミック人形のオルゴールの奏でる悲壮なメロディーに、涙が零れ落ちてしまうのである。
まったくフェリーニの映画が、冗談ではないと実感できる、そういう背景なのだ。

昼食後、私は他の古い知人にあうため、Renon/Rittenという山に行かなくてはならなかった。
義妹とそのパートナーが、義父を連れて送っていってくれるという。
二台の車まで出してくれて、その手厚い心遣いに、本当に感謝した。

そして、義母は…。

では、アタシは帰るわ。

バスで帰るのである。

じゃあね、ママ。

娘はこの一言で、彼女の眼も見ない。嫌気がさす気も十分にわかる。
しかし、私はまたいつ義母に会えかわからない。
孫たちを見て、彼女が幸福そうであったことは間違えない、嘘のない気持ちである。

彼女の手を握る私の手に、自然に力がこもる。
また来るわね。必ず夏戻ってくるわ。

彼女の目には、見る見る涙が溢れ出し、はらはらと頬を伝うのだ。
彼女は、プライドがたかいから、それをぬぐうことなく、私の目をただただ見つめて手を離さないのだ。
この人は、なんと悲しい人なのだろう。私はどうしてもこの人をほうっておけない。
そう強く実感してしまうのである。
これは、ある種の魔法なのである。
それは、私が前夫と十年以上生活を続けて来たから知っていることである。

彼女は、なぜまだ持っているのかわからない、スーパーマーケットの袋を提げて、文字通りとぼとぼと背中を向けて歩き去っていった。
もうそのときは、哀愁こそ漂わせていたが、しっかりした面の彼女自身に戻っており、気丈な雰囲気が漂っている。

家族の中で、彼女だけが一人とぼとぼと歩いて帰宅していった。

そして、そう言えばここにも、大きく崩壊した家族があったという姿を見せ付けられ、昼食でのひと時こそ、幻だったろうし、希望的観測の生み出した状況なのだおちうことを痛いほど思い知らされるのである。

そして、私の家族は見事に崩壊し、今の家族が、家族と言える定義は法律文にしか、見出せていない。

私は、夏にでもまたイタリアに帰って、「家族」を訪問したい、と口をすべらせそうになるほど、またすぐに舞い戻りたいと思っているのは事実である。

これが、何なのか、理解するのは、なかなか難しいことであるが、それはともかく、前夫の家族と言うのは、まるで社会の傷口をこじ開けたような穴がぽっかり開いていると言えばよいのか、なにか、社会の忘れられた垢やかさぶたが集まっている世界への扉が、ぽっかり開いてしまっているような様相を見せている。

私は、私が始めて訪問した時に泣いてしまったのは、弱かったからでも、世間知らずだったからでもなく、そういう垢や傷として見捨てられた悲壮感や哀愁が、この一家の背景に渦巻き、この一家を取り囲み、この一家の傷口をこじ開けてしまったことを本能的に理解してしてしまった恐怖と、やるせなさからではないかと思う。

そして、繰り返すが、この一家の一人一人が、恐るべきほどの善と良心からなるのである。

アカーキー・アカーキエヴィッチは、良心の人であるが、死後幽霊となって出没する。
人生、善人として生きることで報われるわけではない。
祈っていれば、救われるという簡単な真理を証明しきれないキリスト教と同じに、その根本的に無慈悲な人生こそ、哀愁が生まれるのだろうし、善人こそ、一番報われないのではないかと、この一家を見ていると時々希望を失いそうになる。

しかし、当人達は、他の人と比べれば、こんなしわあわせな人生はないのだと、信じて疑わないのである。

私は、嗚咽しそうになるが、この哀愁のインテンシティーを持った背景から、前夫のような天才性が生まれたのは、やはり偶然ではないのだと実感している。

愚であるほどの善から、時々思わぬ宝が出てくる。
それが神からの褒美なのかもしれない。

しかし、その褒美を授かった人間の人生は、茨に満ちている。

まったく人生は無慈悲だと思う。