2011年10月29日土曜日

川べり


夕方になると、ライン川の水面に、橙色の光が降り注いだ。緩やかな水の流れに、その光はきらきらとした光線を形作り、本当に宝石が至る所で揺らめいているように見えた。
旧市街のある向こう側の岸辺はにぎやかである。けれど中心部の古い橋を渡ってこちら側に来て、川沿いの道を少しあるくと、こんもりと木の茂る大きな建物が並び、静かな空気に包まれれる。




陽の長くなった初夏、その辺りを子供達をつれてよく歩いたものだった。
末っ子をバギーに乗せて、その後ろに息子を立たせ、娘はバギーの取っ手に必死につかまりながら、小走りで着いてきた。娘がまだ幼稚園だった頃である。

途中で小さなバイクの積荷にアイスの絵が描かれたボックスを乗せて、ジェラートを売り歩くイタリア人によく遭遇した。そのたびに私は必ず子供達のために買ってやった。息子はチョコレートとくるみが好きで、娘はマンゴーだった。末っ子と私はピスターチを分けたものだ。
口の周りをべとべとにして、太陽に赤くなった頬にアイスをほお張る子供達を見ること以上の、平和な気休めはその当時考えられなかった。

意味もなく、川辺をそうして歩き続け、色々な人に遭遇する。アイス売りの叔父さんにはイタリア語で話しかけられ、小さな子供のいる家族連れは、子犬などを引っ張りながら幸せそうにスキップをしている。誰もが長くなった日を楽しみ、日没の後も、テラスに座って夏の夜を楽しみだす頃だった。

私は放心していたのだろう。3月の31日にシェルターに逃げ込み、夫に泣きつかれて家に戻り、彼が目を真っ赤にして、別居を受け入れると言い出してから何日も経っていなかった。
テーブルをひっくり返したり、私を子供の前で引きずりまわしたりした後の、彼なりの降参だった。その憔悴した瞳を見ていたら、別居を強行する自分自身が鬼に見えた。

一方で私自身の限界は極度に達し、悪夢にうなされ、買い物に行くたびに財布をなくしたり、鍵を落としたり、夢遊状態で生きているのとなんら変わりはなかった。
郊外に引っ越したばかりの庭付きの新築の家が、妙にがらんとした風に移り、全てが空虚で望みがなかった。
せっかく手に入れた家も、引越しで二ヶ月も経たないうちに、やはり夜中に練習できないので、この家はダメだ、という言葉を夫から聞いた時、三人の子供達との、小さく小市民的な、気恥ずかしくなるような幸せを求めて、全ての現実的処理を私が担って努力してきた道のりが、一瞬にして否定された。それが別離の理由ではない。しかし、家を手に入れるなど、必要なかった、無駄だったといわれ、当然その罪を再び一気に私一人背負ってしまったことは事実である。

それから真空の世界に一人で存在するような虚無が襲い掛かり、子供達がどれだけ可愛いか、生まれたばかりの末っ子が泣いているのか、泣いているならどれくらいの時間泣き続けているのか、そういったことが、一切分からなくなっていった。
はっきり言うと、私のその頃の記憶が本当に殆どないのである。

自分を責めることは、別居の決心を境に、意識的にしないようにした。それよりも私がまともに息を吸い、まともに子供達と向き合い、おびえることなく生活できる環境を、もう本能的に求めており、そのことに夢中になっていた。その頃出会った見ず知らずの人々のことは、それでもずっと記憶に残っているのである。シェルターに電話をかけ、嗚咽しか出てこなかった私に、大丈夫、私たちが守ってあげますといい続けてくれた電話口の女性、市電の駅で待ち合わせをし、私たちを導いてくれた女性、恥ずかしがらないで、人間には色々なドラマがあるのよと、私の調書を取ってくれた女性。

その時、娘はぼうっとしていた。アパシーのように、お気に入りのモリー・ポニーという馬のぬいぐるみを抱きしめたまま、常にバギーの取っ手を必死に握り締め、私についてきてくれた。私の二の腕にあった幾つもの紫色のあざを、彼女が見たのか見ていないのか私は知らない。でも、彼女はそんなこととは関係なく、まるで全てのストーリーを知っているかのようだった。そして彼女が口を開くことは一切なかった。

シェルターの部屋での夜中、窓から星空が見えた。本当に美しく瞬いていた。遠くに見える家屋の窓には、子供達が切り抜いた切り絵が張ってあったり、モービルが吊り下がったりしているのが見えた。疲労困憊した身体からも、自然に涙があふれかえってきた。あそこにも、ここにも、どこにも家があって家庭がある。当時の私には、帰る家もなければ、家庭もなかった。その時、娘の目がぱっと開いていた。ごめんね、こんなところまで連れてきて。もうすぐおうちに帰ろうね、と声をかけてやったら、娘は私に擦り寄ってきて、ママの行くところならどこでも良いよ、どこまでも行くよ、と小さな声でささやいた。

また、ある時、絶望に嗚咽し、寝室に座り込んだまま何時間も立てなくなってしまった私の元に、幼稚園から帰宅したまま放り出されていた可愛そうな娘が静かにやって来た。そして、一枚の絵を私に差し出したのである。そこには私と三人の子供達が描いてある。彼女は昔から絵が上手く、取り付かれたように一日中描いていた気がする。
私は、急いで涙をぬぐい、目がつぶっているように描かれていた私の顔を見て、彼女に寝ているの?とたずねた。娘は、うんん、ママは泣いているの、と答えた。三人の子供達の顔はどれもニコニコと笑っている。彼女の大好きな父親はそこには描かれていなかった。
私はしばらくその絵を宝物のように額縁に入れて飾っておいた。
眠っているように見えた私は、もう一度見直すと、まるで菩薩のような静を放っていた。
彼女は心に何を抱えて、この絵を描いたのか、私は知る由もない。それは、きっと単にママの元気を願っていただけなのだろう。

彼女は、そういう子供だった。私と精神的に一心同体のようなところがあった。何かが投影されてはいまいか、何か禁じられた悲しみを伝えてしまってはいまいか、そんなことばかり考えていたが、渦中を生きている私には、そうであったとしても、どうすることもできなかったであろう。

引っ越しが済んでからも、私はおびえて暮らした。電話が鳴れば飛び上がり、暗くなれば、いつベルがなり、夫が私に切願して、その感情を決壊させまいかと、びくびくと緊張していた。変なめまいに襲われたり、原因不明の嘔吐に夜通し苦しむということがあった。

それでも日が出ると、私は子供達を連れて、外に出るようになっていた。それがこの初夏だったのだ。緑の葉一枚一枚をあの頃ほど愛おしいと思ったことはない。歩道の脇に生きている小さな蟻一匹をじっと見つけているだけで、そのせかせかと本能に従って生きる姿に、生の命を実感し、立ち止まったまま動けなくなり、終いには座り込んで、蟻の方がよほど自分より優れていると、涙がこぼれてきたこともある。そんな時、私より一歩遅れて、私の横に来てしゃがみ、顔色を覗き込むこともなく、状況を受け入れるかのように、蟻を一緒にじっと見つめてくれたのは娘だった。

あまりにも不意に涙が流れるので、急いで木陰に隠れ、涙をぬぐってまた笑顔を作るのだが、他の二人の息子は何も知らずに、元気に笑い声を立てていても、娘だけはすぐに察知して、私の背後に立っていた。

娘が二歳の頃から始まった帽子を放せない症状、幼稚園時代を通した無言、その無音の視覚的のみの情景を思い浮かべると、いつもこの川べりの光景を思い出す。小さな町で、何年か住めば、隅から隅まで行ったことのある場所となり、知人に会ってしまうような所だった。そして、様々な楽しく、時に耐えがたいほど悲しい思い出が、至るとこにちりばめられていた。そんな中、この川べりは、未だに無音の静かな川の流れとして、私の脳裏に焼きついている。

ライン川の静かな流れに迎合するように、私自身の内面の流れもようやくゆっくりとした速度になりつつあったとも考えられるし、脆くとも新しいスタートを切った私の、私と子供達だけの思い出の散歩道だったのだとも考えられる。

娘の状態が色々と顕著になり、私自身が最近自分を責めることをきっぱりとやめ、彼女自身に振り回される自分や家庭を必死で守ろうという態度になって以来、心の中には悲しみがあふれてくることが多くなった。
闘いを続けている間は、人は必死なのだ。今でも私は生きるという闘いを続けている。しかし、彼女に振り回されることが彼女のためにはならないと、痛いほど理解した時、私は彼女に制止線を引き、自分を守ることを優先しだした。それは別れた夫に対して最後にとった手段と同じである。そして私の得るものは、いつも静けさや平和どころではなく、深まる悲しみばかりなのだ。

ゆらゆら揺れる水面にきらめく光を見つめている私の隣には、緊張したまま、無言で、ママ、ママ、と心の中で呪文を唱えている娘が思い浮かぶ。
今でも、彼女とはこの川の中を一緒に流れているのだと、私はどこかで知っている。
私が悪いと、彼女の盾になり続ける事が、彼女の心の平和をもたらすのなら、どこまでも打たれようと思う。しかし、そうではない。喪失の恐れがあまりに強すぎて、それがエゴや人を支配する行為となってしまう、言ってみれば憐れな彼女に対し、私自身が一人の人間であり、私とあなたは一体ではない、何をしても赦されるわけではないと、突き放しを突きつけることで、彼女に自立をしてもらうしか方法はないのだ。つまり気づきを与えるのだ。
しかし、皮肉なことに、彼女は一番恐れていた喪失、母への信頼の喪失、所属しているから赦されるという逃げの喪失を一気に味わう。
最も失いたくないものを、すがりついたゆえに、失うのである。

母親の責任は問われて当然だが、私は私のプライスを払おうと、日々赦されようなどとは思わないことにしている。
そして、私は彼女をどんなことがあってもあきらめはしない。希望だけは、私が死ぬまで持ち続けても許されるものなのだ。

夫は、義母との交流を絶つことで、逃げた。私は夫への関係を解消することで、状況を無にした。しかし、娘に対しては私からは関係を解消できるはずがない。そして彼女が、私への関係を深く、耐え難い失望の末、絶つだろうと予想はしても望んではいない。

きらめく水面を思い出しながら、彼女はそこに必死で母親の心をつかもうと、無言で立っていた。私はそのことを常に心していなければならない。


2011年10月7日金曜日

Gesichter



昨日、末っ子を連れて久しぶりにどうしても行きたかった美術館の特別展示を鑑賞してきた。

Bode Museumにルネッサンスのイタリアにおける様々なポートレートが展示してあるのだ。
私にとっては、またとない機会である。
待ち時間があるとは噂に聞いていた。オンラインでもチケットの予約ができない。VIPチケットも売り切れているという。そうとうの混み具合だと予想はついたが、いくらなんでも3時間以上ということはあるまいと、昼過ぎに出かけた。
出かけたと言っても、車なら5分で美術館についてしまうのだが、都心の駐車状況は良くないため、多少離れたところに駐車しなければならない。
それでも最後には罰金を取られた。


13時前に並び始めて、13時半にチケットを買ったが、番号は1400番台で、とても16時前には入れないという。そこで通常の展示館内をゆっくり鑑賞することにした。主にゴシックあたりからの教会の礼拝堂の絵画や三連祭壇画などが充実しているが、かなり美しいものもあるので、12世紀から16世紀あたりに興味のある人には一見の価値がある。



ところで私たちは地下の子供用の展示「ドラゴンと英雄達」の一角を訪れ時間をつぶすことにした。ドラゴンが実在していたのか、生物学的に考古学的に証明できるか、などのテーマは一切扱われておらず、10歳までのコーナーにしては子供臭かったが、末っ子は大喜びで遊んでいた。
中国のドラゴンを描いて、花火も添え、城砦を日本の城に見立てて、侍を下に書こうとしていたから、子供のファンタジーは幅広い。



ここまで終えて4時近くになったので、いったん美術館を出て、近所のまずい寿司を食べに行くことにした。
何しろ昨日は木曜日で、22時まで開館しているということを忘れていたのだ。つまりチケット番号と比べてもとても18時前には入れないと分かったのだ。
寿司をもりもり食べた少年は満足して美術館に戻り、18時頃エスプレッソをすすり、隣接している本屋で何冊か買い物をした。そろそろしびれを切らせた息子とともに特別展示に入れたのは19時半。9時直前まで鑑賞して売店でカタログなどを買い、雨の中車に走り帰宅した。

びしょぬれになって、駐車禁止罰金をくらい、疲れきって棒になった足で帰宅したが、末っ子は一日中上機嫌で、鼻歌を歌って寝る準備をしていた。もちろんそれを眺めていて、休みぐらい、こうして何かを一緒にすることで、小さな思い出作りをコツコツしてやらなくてはいけないなと、ちょっと反省した。

上の息子は州立オケの合宿で留守で、娘は相変わらず我が道を突き進んでいる。
来週は上の子が帰宅するので、今度は3人でMartin Gropius Bauで開催されている北斎展に出向こうと思うのだが、これほどの待ち時間がないことを祈る。

内容は、色々とあったのだが後日記したいと思う。