2012年3月14日水曜日

様々な断片

「症状の裏に隠れた人間性」という言葉が何回か頭の中で繰り返される。
症状というのは厄介なもので、通常の状態よりも激しいために、どうしてもその裏にあるものが見えない。しかしその裏にあるものに少しでも触れることができなければ、何の人間関係も築けないのだと言う問題もある。

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カミーユ・クローデルが精神を病んで療養所に送られる時、それを手配した弟のポール・クローデルは、彼女の乗せられた車を見送った。カミーユがポールを呼び続けていたというのは、映画での記憶だが、Anne Delbeeの本ではどうだったのか覚えていない。どちらにせよ、悲劇的な光景である。
彼女は長生きをした。と同時に長いこと苦しみ続けた。
弟は、とぎれとぎれではあっても、姉を最後まで忘れることなく気にかけ世話をした。

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体調を壊して娘は弱気になった。そんな彼女を見ていたら、やはり我が子である、辛そうなのが可哀想になった。それを察知してか、このところの彼女は攻撃性を潜めていた。昨日それを車中でふと考えたら、別の不安に襲われた。彼女の攻撃性が無い時は、依存性が強く顔を出し、全てを舐め尽くすように吸い取ろうと、必死に愛の証明を求めてくるのである。その予想が的中し、昨夜は甘えるような態度と、まったく自我を失った会話に、次に息をすべきか、それとも息を止めるべきかといったような、存在すら自力ではできないと思わせる会話で、私に「答え」求めて来た。息をしなさいと言っても、何故、または、単にそう言って私を追い返したいだけというダブルバインドで、何の解決にもならない。けれど会話をしないことは、彼女の依存と私への固執を高めるばかりである。一生懸命夜中まで続く会話の相手をする。なだめても疑われ、指摘しても反発され、本音を言えば人でなしと罵られる。根気との勝負だ。
しかし、いずれは彼女の側からのカタルシスが起きなければ解決しない。カタルシスを引き起こすという方法もあるが、それは体調の優れない私には激しすぎた。
彼女は、私の語り尽くした全ての言葉をすべて逆手に取って、酷い酷いと泣き崩れた。哀れであるが、抱きしめてやるような気持ちは沸き起こらない。それまでに私は吸い取られ尽くしているのである。二時間も禅問頭にもならないような不毛な会話をなだめるためだけに、細心の注意を払って、言葉を選んで相手をしているのである。もう眠気で声が出ないと言えば、声を出すまで、質問に答えるまで、揺さぶられ、揺り起こされ、泣きつかれるのである。

彼女は、泣いた後捨て言葉を吐いて自室に行く。ホッとしたと、今晩も生き延びたと、やっと就寝できると、安堵する瞬間である。

その後、間もなく携帯がちりんと音を出す。彼女からのSMSだと直感する。攻撃期ではないため、彼女は情に訴える、いや、こういうと語弊がある、彼女なりに、本心から私への思いを伝えようと、携帯のキーを打ったのである。

ママ、何があっても、ママのこと大好き。こんな風にずっとやっていくのは余りにも辛い。ママのためを思って言っているのだから、ママも変わって。

今朝起床して読み、胸が痛んだ。しかし痛むけれど、ママのためを思って忠告しているのだから変われ、そうでないと私はもう死にそう、という文の背景に、深い疲労感を覚える。

20年前、夫と付き合い、教育され、交渉を繰り返し、譲歩をし、不可能と分かり、全ての責任を背負い込んで私は疲弊し、精神科に駆けつけ、それを突っ返し、自分を痛めつけ、壊れ、別れ、再生したころのシナリオとぴたりと一致することに、深い悲しみと不安と哀れみと出口の無い息苦しさを感じる。

私が依存を生み出したのではないか。

そう言えば、彼女が5歳の頃から、その関係の問題で、彼女ではなく私が専門家の世話になっていたことを思い出した。
心配で仕方なかった。育て方を間違えたと思った。しかし違ったのだ、それは彼女自身の中にあるものなのだと気がついて以来、専門家など不要と決めつけて来た。
しかし、やはり苦しい。とてつもなく苦しい。

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それで彼女を人手に渡したら、と思った時にカミーユの叫び声が聞こえたような気がしたのだ。何の共通点も無い話である。しかし、彼女の悲痛な叫びと不安が、娘の悲痛な叫びと不安になって、聞こえて来たのである。彼女の裏にある人格は、心優しく、酷く繊細な一人の少女である。芯が強くどんなことにも負けない精神力がある代わりに、世の中の全ての小さな悲しい出来事に触れただけで、浮浪者を見ただけで涙を流し、心が不安になり、私に縋り付くような非現実的な善だけでできた目を持っている子である。

彼女の人格に到達したとしても、それをどう守ってやれるのか分からないのだ。彼女の感性は「すがるもの」無しには、一日もこの荒波の世の中を渡り歩けないほど、超現実なのである。

彼女が、縋り付く行為とは、こうした背景を抱えた上での自己陶酔という自己防御を実践できる、表現とか芸事が良いのである。それを行っている間は、自己陶酔ができ、自己肯定となり、自己防御できるのである。それを可能にする道を与えてやらねばと、今は学校などという過小な問題は忘れさり、それだけを考えていると言った具合なのである。