2012年4月20日金曜日

思い出のパリ

パリのことを思い出す。
パリは随分良く訪れた。初めてパリを見たのは留学してきた年に、フランス人の友人にもらった見知らぬ人のアドレスを尋ねて一人で訪れた時だった。
東駅に着いてフランに両替した後、ベルヴィルにあるそのアパートにたどり着くまでが苦労の連続であったが、今思えば甘酸っぱい記憶となって、心の奥に刻まれている。

その後、当時のボーイフレンドだった人の親友のガールフレンドがパリに住んでおり、幾度となくパリで落ち合ったものだった。
彼女のアパートは4区にあった。確かEtienne Marcelというメトロの駅の近くであった。当時随分年上であったが、まだ学生だった彼女のアパートは当然のごとく屋根裏部屋にあった。長くくねる階段を上りきった所に見える小さなドアを開けると、彼女の二部屋のせまっ苦しい部屋があったのだ。

どこにどう4人で寝泊りをしたのか覚えていないが、何度もそこを訪れては、話し合い、笑い合い、喧嘩も悲しい思いも互いに分け合ったことは覚えている。

彼女の部屋の窓を開けても、隣や裏の家の屋根が見えるばかりで、パリの全景を望むことができたわけでもない。
それでも私達は、近所のワインショップに行っては、高級なブルゴーニュ産とフランスパンを買い求めて、屋根裏部屋に戻った。窓から見える星の美しさに惹かれて、窓を開け、厳しく禁止されているのに、ワインボトルとフランスパンを抱えて屋根の上に出ては、ひそひそ声で小さな宴会をしたのを覚えている。
いつも、ものの20分もしないうちに近所の人に通報されて、大家から怒鳴り声の電話を受けて退散することになった。
そのパリを懐かしいと思う。
あんな体験は、若さゆえの馬鹿でなければなかなかできなかったろう。

そこで私はビールばかり飲むドイツ人学生とは違い、フランス人やイタリア人学生は、通常はワイン党なのだと知り、いろいろなワインを覚えるきっかけにもなった。
私の連れの親友だった彼は、トリノの銀行につとめる父を持つ中流家庭の出身であった。その彼女にいたっては、パドヴァの有名な心臓外科の娘で、様々な政治家も親戚に持つような、言わば上流階級の出身だった。
それでも、常に誰もお金は持っていなかったのを覚えている。
朝食は、決まって小麦粉と水でクレープを焼いて、Nutellaの大瓶から大量にクリームをかき出しては、べっとりと塗って食べた。
昼は、メトロ駅の目の前にあるCafe Etienneでバゲットのサンドイッチを調達してきた。
夜は、Sebastopolという大通りを渡ってユダヤ人街の方に歩き、安い料理を探して食べた。

しかし、彼らはその背景もあって、非常に文化的には洗練されていた。そのおかげで、私は欧州に渡って何年もしていなかったのに、彼らの生活ぶりや会話から、様々なことを早くに吸収して行くことができた。
彼らの飲んでいる本、彼らの両親の考え、彼らのもらっている送金額、彼らの将来像、彼らの食生活、彼らの消費態度、金銭感覚、そういったものを悉く身近に見ることができた。不思議なことに、ドイツの学生生活で知り合う友人知人達からよりも、もっとより深い次元で学ぶことができたのは、個人的な親密度によるものなのか、それともフランスやイタリアと言うドイツよりも階級の色濃く残る文化によるものなのか、はっきりとは判らない。


その後、彼らとはパリの学生パーティーにも出向いたし、ピエモンテの別荘で釣りなどを楽しみながら過ごしたこともあり、パルマの年上の友人夫婦宅で毎月のように集まり、買い物や料理をして夜通し語り合ったことも数限りなかった。
体外は、若者の根拠のない自信で世の中を嘆き馬鹿にし、哲学書や古い文学を紐解いて、物をわかったような顔をしていただけである。当然、そこに音楽という中心があったことは当然であるが、思い出に残るのは、むしろ彼らとのインテンシブな生活であった。

親友はその後、私達の間ではつまらないと言われる指揮者を抱えるオーケストラに仕事を見つけた。彼女とは、最初から問題だらけであったが、その優れた知性と教養、また8歳も年上だったことから、彼を精神的に支えてくれたことで、別れるまでには至らなかった。
が、その知性ゆえ、彼女は彼の関心をずっと得るために、心理作戦を使いすぎ、彼は疲労困憊して結局別れてしまった。
間もなく、年下の建築学科の学生と出会って新しい彼女だと紹介されたが、もうあの頃のような団結はどこにもなかったのである。
その彼女は、モデルを小型にしたような見かけで、いかにもつまらなそうに私達の狂乱の過去の話には加わらず、そのまま団体行動も消えてしまった。

彼は、間もなくその建築学科の女学生とも別れてしまった。

パリの学生パーティーに参加すると、またドイツとの差にも驚いた。
どこを見ても、視線と視線の間にはゲームがあり、どこの隅っこにまで行っても、男は男で、女は女であった。
ドイツのパーティーなどでもそういうことは起こり得たのだが、視線と視線が合えば、そこには一種のあの雰囲気が直ぐに介在したなどということはなかったのである。視線と視線には、単なる目の合う瞬間があったと言うのが殆どであった。
そういう意味で、パリの学生パーティーは、もっと自由奔放であったし、もっとエロティックであり、もっと面倒で、疲労するものでもあった。自分がその気がなくても、女として扱われてしまう女の殻を脱ぎ捨てることは難しい。美醜に関わらず、彼らは女性を女性として扱ったものだ。それは感心することであるが、ある友人など、フランス人は目から精子を飛ばしているなどと、酷い冗談も出たほどである。

そのパリを頻繁に訪れたのは、おそらく92年から95年ごろまでであった。その後10年以上してからパリを再び訪れた。子供達をおいて一人旅である。
懐かしい街角をいくつも見つけて過去を抱くように写真に収めた。

レ・アールで一人で買い物をしていたら、フランス語でチェックを書けと言われ、英語ではだめだと断固拒否されたところに助けの手を出してくれた、ベルナデットという女の子と、その後バゲットをほお張りながら散歩し、ベンチに腰を掛けた午後。夕方彼女の叔父さんの勤めるカフェに行ってご馳走になったこと。いつしか文通も途切れてしまった。

オルセーの帰り、対岸に行こうと渡った芸術橋で「愛らしいお姉さんただで描いてあげるよ」と声を掛けてきた、あのカーリーヘアのアーティスト。朝の散歩をしていれば、配達の自転車に乗って後ろから近距離で追い越す際に「サリュ、ボンジュルネー」と爽やかに振り返って走り去っていったあの若者の笑顔。
自分の外見の如何に関わらず、パリでは常にと言ってよいほど、挨拶をされ声を掛けられた。旅人には嬉しい思い出である。
当然、しつこく言い寄ってくる危ない人もいるのだが、それは常識的な感覚を持っていれば、直ぐにわかるものである。断固とした態度でいれば、意外にしつこく追い詰めてくるものでもない。

そうしてあの角のカフェ、この橋の向こう、この公園のベンチ、あそこのスーパー、ここのパン屋と、色々な街角を訪ね歩いては、一人ため息をついていた。

すべては、私がまだ20代という非常に若い年齢であったから、集めることのできた思い出である。

セーヌは、生きている。

当時のメモに、そんなことを書いていた覚えがある。
セーヌは、どの橋から見ても、どの建物を向こう側に目にしても、常に違う顔を持っているのに、完璧なほど、その雑多な風景に溶け込んでいるのである。
セーヌは、ただの川ではなく、息づいていた。それはパリの人々の活気、決して親切で気持ちのよい人ばかりではないが、大都会だからと言って、東京のように表情のない顔をした人は少なかったのである。
厳しい表情も、生きることの只中にあるそのことを象徴しているようにさえ見えた。
その人々の生きるという息遣いは、川の中にも溶け込み、川自身がキャラクターをもった生きる存在のように、そこここで、その豊かな表情を見せていたともいえる。

パリには、独特の魅力がある。
それは揺るがぬ事実であった。
現に、私は今でも遠いあの頃を思い出しては、あの街に深い憧憬を持っている。

冒頭に書いたように、留学直後初めて訪れたパリでは、フランス人女学生シルヴィーの知り合いの男性宅に間借りした。その思考自体が、日本から来た私には驚いたが、コンセルバトワールを卒業したばかりだった、ジャン・フランソワというその知人と彼の友人達の私に対する扱いにも、日本から来たばかりの私には、驚くべきものがあった。
その話は、またいつかどこかで書きたいと思う。

ちょうどあの頃リリースされ、毎日のように聞いていたアンテナ。