2019年11月28日木曜日

知らなかった過去

今回の帰国で、ここまでことがスムーズに運ぶとは想像もしていなかった。ただ、母を施設に入れなければならないだろうという漠然とした覚悟を持って帰国しただけだったのに、帰国当日に相談員と面会し、次の日に3件見学し、その日のうちに最初のホームに決定してしまった。それから、何もかもが滞ることなく実行され、あっという間に母の施設入居は現実のものとなった。

夜、眠りに就こうとするたびに、様々な考えが思い浮かび、その多くは罪悪感、同情、憐憫、不安、悲しみといった感情に直結しているため、自然と涙が流れてしまう。身内の命という問題を扱うのが、ここまで重い仕事になるとは思ってもいなかった。頭で理解しているのと、実際に感情の揺れ動きをなだめながら体験してゆくのとはまったく違うのだと、今更ながら実感している。

何はともあれ、素晴らしく明るく温かい雰囲気で、活気のある介護士たちが誠実に働いていることが伝わってくるような施設を見つけたことは幸運だった。建物にも内装にも細部にわたるまで気遣いがなされており、ホテルのようなその様子には、まったく寂しさを感じることがない。対応も文句なく、すぐに信頼感を与えてくれたこのような施設に直ぐに巡り合えたのも、また何かの運命だったのだろうか。

一年前から真剣に介護のことで悩み、様々なサービスを利用しようと試みたが、うまく行かなかった、母自身の強い拒否感もあったが、何より父をはじめとする私達家族がそこまで決心できなかったというのが最も大きな理由だった、それでも段階を経て、今回はこれ以上父が母を介護することは不可能だという意見にまとまった。全員の気持ちが限界に達していたのだ。
しかし、母自身の人生の今後を決める決定権を我々は奪ってしまったことになる。彼女の背後で準備を進めることは、彼女の尊厳を無視していることになる。それが最も辛い。家族全員が、その重い罪悪感と共にこの日々を過ごしている。
そして、無理に入居させられた母が毎夜何を思い、どれだけ不安になり、どれほど家族を、とりわけ父を恋しく思うかを考えると胸が張り裂けそうになる。

そんな中、私は突如、祖母の位牌がある仏壇の下の引き出しを開けた。何の意味もなく、ただ好奇心から開けただけだった。そして私はそこに、いくつかの非常に大切なものを見つけてしまった。それらは母の人格をしっかりと象徴しているものばかりであった。

まず、祖母のお葬式の写真があった。それと共に祖母の施設での最後の数か月がくまなく記録された報告書もあった。私はそれらすべてを一語一句逃さず読んだ。祖母が7年以上にわたって暮らした施設での姿を私は殆ど見たことがない。すでに日本を離れて10年以上経っており、祖母が入居した次の年には末子が生まれ、引き続き別居となったため、日本に5年間帰国しなかったため、入居したその年に祖母を見舞ったのが最後となった。そのため、報告書から祖母の日常を知ることは、私にとって非常に新鮮なものだった。祖母の独語が増えたことや、最後は嚥下がうまく行かず痩せていったこと、それでも時折笑顔を見せて会話をしていたことを読み、施設で撮った2枚の写真と見比べながら、私は記憶の底から優しかった祖母を思い出していた。そしてその2枚の写真には痛々しいほど年老いた祖母の姿があった。
祖母のお葬式の写真は、母が送ってくれた。ちょうど私の所を訪ねてきたその時期に祖母の容体が変化して亡くなり、父が電話口で号泣していたのを覚えている。義理の母の死に声を出して泣く父の声を初めて聴き、私は父の優しさを知った。母は次の日、航空券を買いなおして帰国した。祖母の死に顔は穏やかで、母がそっと顔に手を当てていた。祖母を本当に慈しんでいる表情だった。ご苦労様という声が聞こえてくるようだった。

その母は、その時期を前後して、終活や介護に関する新聞記事を数多くスクラップしていた。その記事も引き出しに入っていた。傍線が引いてあったり、同意と記されていたりし、母が熱心に老いや死について考えを巡らせ、多くの情報や意見を集めていたことがうかがえる。なんと皮肉なことか、母は今はもうそうしたことを一切覚えていないに違いない。もう一度記事を見せ、読ませたところで、それを自分自身に反映させることはできなくなってしまった。病識が一切ないのだから、仕方ないのだ。しかし私は、老いに対する母の葛藤を、不安を確かに感じ取った。母も自分自身の老いを体験しながら、未来に不安を抱き、万全な準備をしようと心していたのだ。それが、今は何の役にも立たない。母自身、今一瞬でも明晰な考えを取り戻して、自分の今の状況を見ることができたなら、自ら進んで施設に入ることに同意したかもしれない。しかし、今となってはその答えを知ることはできない。

母方の祖父や祖母の写真の中に、母自身の幼少の写真も混ざっていた。目がクリっとした、目鼻立ちのはっきりした幼い母が、大切に育てられた様子がわかる。母の生まれは複雑であるが、母は暖かい家族に囲まれてすくすくと育ったに違いない。母自身も子供時代を何の苦労もなく幸福だったと言っていた。私は母の顔の中に自分の一部を認め、私自身が確実に母の血を受け継いでいることを改めて実感した。
子供の頃の写真と共に、母の中学時代の同級生の写真もあった。母が後日大学を卒業してから結核を患った際、ノートにこの同級生らが各自様々な格言を記して、母を励ましたらしい。その達筆さと種々の格言のすばらしさに私は胸を打たれた。それに加えて、母自身の小さなノートブックも出てきて、そこには母の記したいくつかの詩、そして草木のスケッチがあった。私は思わず泣いてしまった。そこには母の輝くような感受性があふれていた。このノートは若い母の魂がかつて存在し、たくさんの美しい言葉や描画を生み出す豊かな感受性が存在していたことを証明するものだった。今の思考力を失ってしまった母からは想像できない、生き生きとした若き母の姿がそこにあった。それは私が生まれすずっと前の若い女性としての母の姿だった。

さらに引き出しを探ると、二冊のノートが出てきた。
一冊は父が1960年新婚早々結核にかかった時のノートだった。父が万年筆で病室での日々を書き記し、たまには母もそのノートに自分の想いを綴っていた。
そしてもう一冊は、母が1962年に結核にかかった時のノートで、こちらは母が見舞客や父の様子と共に自分の病室での日々を克明に綴っていた。
両方のノートを読むのは、私にとって非常に気恥ずかしいことであったが、思いがけず私は二人の若々しく情熱的な愛情を知ることとなった。母は病床の父が寂しくはあるまいか、退屈してやいまいかと、絶えず気を使って、いかに喜ばせてやろうかと苦心しているようだった。母自身、夜は眠れない日々を過ごし、父を訪ねて笑顔を見ることを毎日心待ちにしていた。父も母の訪問を心待ちにし、同じく寂しい夜を過ごす空虚さを嘆いていた。
母が病気になった時のノートでは、母が入院するまでの父の気遣いと心配が書かれ、入院後も毎日のように母を訪れては、あらゆることを話し、明日も来るという約束を交わして家に帰り、母も二人の家を恋しく思って、何度も外出や外泊を願い出ていた様子がうかがえた。二人で外出や外泊した際の楽しさは格別で、二人がどれほど幸せな関係を築いていたかを知り、私は少し気恥ずかしくなったが、同時に誇らしくもあった。私自身の子供上二人のような年齢の両親の新婚夫婦としての姿は、本当に微笑ましく、彼らが幸せな結婚生活を送ってきたことに安堵した。そして父が此奴には本当に世話になったので、今度は俺の番なのだと言って、母を今まで7年も支え、介護してきたことにすんなりうなづけた。それだけ深い愛情の歴史と土台があったのだ。

ノート以外にも、父が学生時代に母に書き送った手紙が数通入っていたが、何かプライベートを侵すような気になって、これはまだ読んでいない。しかし、単純に母も父も達筆で文章がうまかったことに驚く。昔は手紙やはがきで通信しあったのだ。今のような崩れた日本語ではなく、しっかりと美しい日本語で、好意を書き記し、愛情を表現していた。私は両親の全く新しい姿を知り、年老いた彼らの姿を楽にタイムスリップさせて過去に戻り、若かりし頃の姿を生き生きと心に思い描くことができた。

彼らも確かに存在していたのだった。
無垢な幼い子供として。
多感で傷つきやすい青年として。
そして、情熱的で思いやりにあふれた若い大人として。
私たちがこの世に生まれてくるずっと前から、彼らはこの地球上に存在し、血の通った人間として、彼らの人生を生き抜き、彼らのストーリーを紡いできた。その道のりの途中で私たち子供が加わり、今まで50年余、家族として共に歩んできたけれど、彼らが親になる前、彼らが自らを形成してきたずっと前の年月を垣間見て、私は初めて彼らを独立した個人として認識することができた。それは命に対する感動と言っても良かった。

私はなぜ、この引き出しを開けてしまったのだろうか。よりによって母が施設に行く四日前に。まるでそれは、母とのお別れのようだった。母の命はある。けれど、母と私は別れなければならない。物理的にではなく、心理的に私は母にさようならを告げなければならないのだ。なぜなら、確実に一つの時代が幕を閉じるから。彼女の意志に反してであるけれど、今彼女の終活への扉が開こうとしているから。

不思議なことに、今、ここで母のことを「母」と呼ぶのは相応しくないようにさえ感じる。私の中で、母と言うよりも「彼女」と呼ぶ方がしっくりくる。彼女は私たちの母であるというだけでないのだ。母は、何より一人の生き生きとした人格を持った女性であったのだ。

私たち家族が暮らし、私達兄妹が育ったこの家に母が帰ってくることはもうない。私が実家に帰宅しても、もう母の姿はここにはない。それに対して、私は今晩偶然にも母に精神的な別れを告げることになったのではないかと、そんな気がしている。

その後、リビングの棚に無造作に積み重ねられていた何百枚もの写真をじっくりと時間をかけて見て、大切なものはすべて写真に収めて、デジタル化した。それは、母の根源を初めて知った後、ゆっくりと現在までの道のりを時間軸に沿ってたどってきているような感覚だった。様々な年齢の、様々な場面の、様々な表情の母を見た。私の子供たちを抱き、弾けそうな笑顔を見せている写真。父が世界各地、日本中で撮影したいくつもの母の写真。もう十分に見納めたと感じることができた。

母は素晴らしい母だった。
そして母は父にとっても素晴らしい女性だったのだと初めて確信することができた。
母は祖母にとっても素晴らしい娘であったの違いない。
母は、母を取り巻く家族全員にとって、かけがえのない、素晴らしく、愛すべき存在であった。

その母は、認知症になって以来、すっかり変わってしまったように見える。しかし、母の魂に変わりがあるはずはなかった。私が帰国するたびに、母がこの上なく幸せになることは明らかだった。私が完全に帰国して、限界が来るまで母を介護すればよいのだろうか。私は仕事もやめて、家族も置いて、母の病状の悪化と老いを支えるべきではなかろうか。そんな考えが頭をもたげてくる。
しかし、その時、あの満面の笑みを見せた60代ぐらいの母の姿が浮かび上がってくるのだ。そしてこう言う。
「バカなこと言うんじゃありません。自分の家族や仕事をおろそかにしてまで親の面倒を見るなんてばかばかしい話はない。そんなこと私はこれっぽっちもしてほしくない。そんなこと言うなら、専門の人に見てもらった方がよっぼど合理的で理にかなっている。私はそんなこと許しませんよ。」
私は、脳裏に浮かぶ若かりし頃の母に、心の底から礼を述べ、そして同時に謝罪する。本当にごめんなさい。近くに住んでいないことを許してください。

父も年で、もう母の介護をすることはできない。
父の苦しみと葛藤は、私の比ではないだろう。父はそのことに関して深く話すつもりもなく、むしろ自分の感情には触れてくれるなと思っているに違いない。その父の思いを私は決して知ることはできないが、私が生まれるずっと前の両親を知った今、私は父がどのような思いでこの最後の日々を過ごしているのか、少しだけ想像がつくような気がしている。

今晩は、たくさん泣いた。施設に入居させるはずの母が、過去に生き生きとした人格を持ち、自分の意志で人生を生き抜いてきた、豊かな感情を持った女性なのだとわかったからである。申し訳ない気持ちでいっぱいになったからである。でも、母は私の母であり、愛する父の妻である。母に健全な理解力があれば、必ずや私達と同じ決心に至ったであろうということを信じて、私は今後過ごすしかない。

母は渋谷で生まれ、3歳で大田区に引っ越し、そこでずっと育った。
父は恵比寿で生まれ育ち、母と結婚して大田区に住み、一時一家で横浜に移ったが、10年も経たずにまた大田区に戻ってきた。
母の施設は、大田区でも母が育った家にほど近い。母の中学時代の友人も住んでいたのではないかと思われるほど近い位置にある。今の母にそんなことを言っても何も感じないかもしれないが、私はこれも何か、ルーツに立ち返るような気がし、ある種の運命としてとらえている。

この病気を憎むけれど、母への愛情はこれっぽっちも変わっていない。今晩、私は母の若かりし頃を知ることができただけでなく、このことを深く再認することもできたのだった。

どうか、許してください。
どうか、これも愛情から生まれた決心であることを信じてください。
そして、本当にどうもありがとう。あなたが存在しているだけで、今でも私は無条件に「愛情」というものの存在を信用できるのです。それは私があなたから、十分過ぎる愛情をいつどんな時でも受けたからに違いありません。
本当にありがとう。