2016年9月19日月曜日

息苦しさと山と海(支離滅裂な走り書き)

本来は山に行くはずだった。山に行けばその雄大な姿に心を鎮めることができると信じていた。心の中に大きな問題を抱えている自覚はなかったが、飽きることなく私の心を乱す何かは未だに存在していた。そうしたものからすっかり離れて、自分は自由であり、十分に幸福なのだということを、都会の喧騒から離れた自然の中で確認してみたかった。

海を恋しいと思ったことはない。むしろ水平線の彼方にその広がりを思い描くだけで、眩暈がしそうになった。水の中では呼吸できないということも、酸素があふれかえる山とは違い、私の中に大きな不安を呼び覚ました。

そう言えば、呼吸ができなくなる恐怖は、私が物心ついたときから存在している一つの症状でもあった。私は何か機会があるごとに過呼吸になった。それは決して実際に予測できる恐怖を前に表れることはなく、常に表面的には一体私の中の何がそんな症状を生み出すのか想像できないほど平穏な日々の平穏な時間に突如として現れた。その度に私は死の恐怖を味わった。それは友人と大笑いして遊んでいる最中にも訪れたし、車の中で眠気と戦っている最中にも表れた。「息ができない」と恐怖に包まれた顔で訴え、苦しいからこのまま死ぬという恐怖が、おそらく呼吸をさらに激しくさせたのだろう。誰にもその理由はわからなかった。

心配した母は、私を大病院に連れて行き、相談すると精密検査を受けることになった。4歳か5歳の私に、その時の記憶はほとんどない。検査結果を聞きに行った時の、グレーの机が隅に置かれた殺風景な診察室がうっすらと記憶に残っている。子供心にも、重大な病気かもしれないと不安でいっぱいだったに違いない。母が医者の話を一部始終聞いた後、私たちは外に出た。何だったのと、母にしつこく質問を浴びせたことも覚えている。何でもないのよ、大丈夫なの、という答えに一向に満足しない私に、母は仕方なしに医者の言った所見を教えてくれた。どうやら医者は「心臓アレルギー」という言葉を使ったらしい。私はアレルギー体質で、鼻炎や湿疹などにことあるごとに苦しまされていたから、医者はこれも心臓が何等かの物質に過剰反応するアレルギーとでも判断したのだろうか。こんな病名はどこを探しても見当たらないので、つまりは器質的には異常はありませんでしたということなのだ。しかし当時、誰も私の過呼吸を心の問題にすり替えてみなかったことに、その時代性を感じる。70年代初頭であった。心療内科という言葉もなかった。子供が過呼吸で苦しんでいるのに、誰も児童心理の側面から症状を判断所しようとは思わなかったのだ。もし母が医者から、小児精神科にでも相談した方が良いと助言されていたら、心配だからこそ、それに従ったに違いない。

当時の両親が一体どのような状況にいたのかは、私には知る由もない。父は演奏家を辞めて会社員になった頃だったのだろうか。それとも起業した頃だったのだろうか。私は少なくとも表面的には幸せな両親の下、何の不自由もなく育っていたのだ。おそらく心理学的にも取り立てて問題にする点は見つからなかったろうと思う。そうではなくて、すべては私の鋭利すぎる感受性だけが問題だったのだと思う。あの頃から、自分では意識のできない何かに突如襲われ続け、それは今でも止むことなく続いている。

山には、こうした「何か」を鎮める作用がある。そう知ったのは欧州に来てからだった。私は子供の時から「息ができない」ということを口癖のように言っていた。夜中にベッドで寝ていても、突然呼吸が止まると思い、眠りに落ちることができなかった。あるいは夜中に目を覚ますと、なぜ眠っている間も勝手に心臓が動き、自分が息をしているのか理解できず、また眠れば必ず心臓が止まると恐怖に震え、うとうとしてはまた恐怖に飛び上がるという日が何日もあった。
大人になってからは、さすがにこのような具体的な呼吸の恐怖を覚えることはなくなったが、「何か」にはしょっちゅう襲われ続けた。山はこのような不安感を抑えてくれるのではない。山の激しい自然の姿に、むしろ不安感が煽られることの方が多かった。しかし山は、それを超える力を見せてくれた。自然に負けじと立ち、一度雪崩やがけ崩れでその姿が破壊されても、山自体が消えることはなかった。次の年に訪れれば、前年に丸裸になった山肌でさえ、緑に覆われ、何事もなかったかのように多くの生き物と共に再生していた。山の夜は果てしなく孤独感を感じる。真っ暗闇の中で星を見ていると、木々のそよぐ音が話し声となって聞こえてくる。まさに彼ら生きている証を聞いたような気分になった。特別な次元で時が動いているという確信を持つことができた。私はその度に、星空の下の自分の存在の小ささを見せつけられ、世俗的な悩みに潰されそうになる自分を恥じた。この雄大な宇宙の下に自分が生まれ、生きているという事実に驚きを覚え、とにかくこの偶然と不思議に敬意を払って「全う」しなければならないという、ある種の使命感を感じた。おそらく生ききるとか、耐えきるとか、そうしたことを全うと感じたのだと思う。

こうした体験が重なるにつれ、私は山を時折求めるようになった。

今年、久しぶりに休暇に行かれるということになり、どこに焦点を当てようかと考え、迷うことなくアルプスへ行きたい、そう思った。
旅というのは私にとっては常に再訪である。新しい土地への関心がないわけではないが、大人になってからというもの、常に何かを上書きしたいかのように、どこかを再訪することを考えている。そしてアルプスは私がそうした力を得ることができた魔力のある土地として、心の中にしっかりと位置づけられていた。今年はアルプスを訪れ、自分の微小さを感じると同時に、その核に触れ、自分という存在の手ごたえを手にすれば、「全う」するのだという十分な意思が沸き起こり、それが小さな幸せの実感につながり、心の中を恐怖なく泳ぎ周ることができる自由を手にできると思っていた。

ところが、私は何の前触れもなく海に変更した。それも生まれてから訪れたことがある土地の中で最も南に位置する島だった。その島を訪れた背景は、説明することさえ躊躇したくなるような悲しいものだった。
一家の、そして私自身の精神をなんとか正常に保つには、初めて築いた家族を壊すことが唯一の解決策であると、数年苦しんだあげくに決心を下したその春が去った夏、私の築いた小さく脆い一家は、もう一度一つになってこの島を訪れたのだった。
なぜ、突如あの島に行きたいと思ったのかは説明できない。

その海の話は、また体力と気力がある時に書こうと思う。


2016年3月13日日曜日

ラディッシュと母

料理をしていると嫌でも母を思い出す。母の元気だった頃を。

昨日友人を招いたのでお酒を飲むにふさわしい軽食を色々と用意していた。
ラディッシュをスライスしていたら、新鮮な葉を捨てるのはもったいないなと思い至る。
いつものことなのだ。母がドイツに来たときは、日本ではあまり見かけないラディッシュ一束を好んで買い、その葉もきれいに刻んで美味しいサラダを作ってくれた。
ラディッシュの葉も食べられるのよと教えてくれたのは、もう10年以上も前の話である。
それ以来、ラディッシュを買うたびに、つまり少なくとも月に一回は、この野菜を切りながら母のことを思わずにはいられないのである。
葉を捨てるたびに、毎回胸が痛む。葉を捨てずにサラダにしても、やはり胸が痛むのである。

自分で築いてきた生活の中に、母の姿はあまりなかった。
外国に暮らしているため、母が生活の一部のように訪ねてくることもなかった。
そんな日常で、母の姿が野菜と共に、突如鮮明な記憶として蘇ってくる。いや押し寄せてくるのだった。それは、必ず苦く痛みを伴う記憶だった。

もしも、今も母が元気であったとしても、母が何千マイル以上も離れている限り、痛みや苦みが癒えることはないのだ。
離れている悲しみなのではない。そうではなくて、私を苦しめるのはそばにいないことの罪悪感である。それは母が老い、元気を失っていくのと共に年々深まって行く。そして
卑怯な私は、痛みが大きくなるにつれ、ますます電話をかけなくなった。母のためを思えば、一層頻繁に電話をして、私の話しではなく「声」を聞かせることのみを目的とすべきであるというのに、私は痛みを感じるのを無意識に避け、自分の日常に没頭しているふりをしている。

母親の老いとは、子供にとってこのように向き合いがたいことなのかと改めて驚いている。日本に残っていれば、私とて母子一体のまま、行ったり来たりを重ねて、本当の意味での自立を達成できなかったかもしれないと思う。
埋めようのない距離が二人の間をバッサリと割いていたからこそ、私は人生で決定的な分岐点に立った時に、母の顔を見ず、帰国せず、相談をしないという道を選択した。一人きりになって、何の雑音も意見も助言もない状況で、まるで真空の世界のように無音な状況で、自分のこの先を見定めたかった。それだけ大きな責任を負っているという意識があった。
あの時、日本に住んでいたら、無音の世界を作ることは決してできなかった。つまり本当の意味での自立を強行することはできなかった。それが日本の良さでもあるし、日本独特の母子の構造であるとも言える。

この自立を成し遂げたあと、私にとっての母は、守るべき存在に代わり、もう誰も守ってくれる人はいない、子供も母親も、私が守る番なのだということを痛く実感した。それが大人になったということだと思った。30を過ぎた頃だった。

この時点を超えてもう20年近く経つ今に至るまで、私は何一つ母に返せたという実感がない。幸せのニュースを告げることはできたが、母の与えてくれたことを思うと、それではとても足りない。

しかしそれが親というものなのだ。親からもらったものと同等のものを返すことはできない。そして自立した親ならば、そんなことは望んでいないのである。

しかし、それを納得したところで、痛みと苦みを消し去ることはできない。私は老いから逃げているのである。日常の平穏の裏に隠されている私自身の老いを「生きる」ことで、実は精いっぱいなのかもしれなかった。認めたくない自分の老いが時と共に迫り来るのを感じながら、親の老いを考える時、それは無意識の中で自分の将来の姿に重なり、触れずにいることでのみ、私自身の「老いへの日々」を何の痛みもなく突き進むことができるのかもしれない。

そして自分の勝手さを噛みしめながら、自分を少しは責め、そして親が「元気に老いる」ことを密かに望んでいる。

その自分の姿に触れるのが嫌だから、電話をかけなくなったのである。
以前のように母の意見が大切なものだとは思えなくなった「自分の大人の時代」が開始していらい、電話は報告になり、その後義務になり、そして触れたくないものになってしまった。

声を聴かせ合うことが思いやりの基本であるにもかかわらず、声しか交換できない者同士のコミュニケーションには、声から様々なことを聴きとる習慣が成り立っている。
平穏の裏に実はずっと流れ続けている現実を凝視できない。
どんなことにも真っ向から直面して、まるで挑むように乗り越えてきたと、そういう実感がある私でさえ、この現実は凝視しないと決めているようなのだった。

ラディッシュを切る時、私はいつもむな苦しくなる。時には涙さえ流れてくる。しかし解決はないのだった。生きるからには死が来る。そのどうあがきようもない自然の掟こそ、やっと日常が平穏になった私の身に、最も堪えることなのだと、今思い知った。半分というターニングポイントを過ぎた人間の背後には、死への葬送曲が聞こえるか聞こえないかのような、かすかな気配を見せるのである。それを感じ取ってしまったら、平穏というカモフラージュを駆使して、静かに最期を待つしかないと思い知るのだった。しかし親の老いを見ることで、その現実がふと前面に押し出される。それをまたすぐに押しやるために、私は日常を生きているのだった。そのために日常はあるのだと、それも今にして分かった。

子供達の瑞々しい人生を見ていると、心の奥から深い満足感が湧いてくる。それぞれの人生を生き抜く力を与えてやることができた。それ以上は何も望まない。
しかし、私自身はとうとう日常生活を「つき進むべき道」としてではなく、「現実への蓋」として使うようになっていたのだった。

そんな逃げ腰の生き方をとうの昔に通り越した自分の親のことを思えば、彼らは実に静寂に満ちており、私は何の罪悪感も恐怖感も抱く必要はないはずなのだった。

私は私自身の「自然の摂理」を恐れているだけであり、実にエゴに満ちた小心から来る理由で、自分の蓋をしっかりと閉めているだけの話なのだった。

ラディッシュを見るとどうしても買いたくなる。母のようにサラダを作りたくなる。しかし葉を捨てるか使うか迷う段階で、必ずどうしようもないジレンマにかられ、大抵は葉を捨て、そして一晩胸の痛みをさすって癒す。

そして母を思う。
子供も孫も育ち、身体が追い、精神がかすみ、きっと随分と寂しい思いをしているだろうなと。