2011年1月7日金曜日

駈落 ― リルケ

「…僕だってもう子供ではありません。けふでもあしたでも、少し収入があるやうになりさへすれば、あなたと一緒にどこか遠いところへ行きませうね。意地ですから。」

中略

「あなたは本当に私を愛していらっしゃって。」

中略

「なんともかとも、言ひやうのない程愛しています。」かう云って少年は、何か言ひさうにしている娘の唇にキスをした。

中略

「そのあなたがわたくしを連れて逃げてくださると仰るのは、いつ頃でせうか。」
少年は黙っている。

中略

娘は少年の肩に身を寄せ掛けて、あっさりとした調子で云った。「あなたそう心配なさらなくても好くってよ。」
こんな風にもたれ合って、ふたりは暫くぢっとしていた。
突然少年が頭を挙げて云った。「僕と一緒に逃げてください。」
娘は涙のいっぱい溜まっている、美しい目で、無理に笑はうとした。そして頭を振ったが、その様子が奈何にも心細げに見えた。

中略

机の上のラテン筆記帳の上には手紙が一本ある。

中略

「…あなたの仰った通りだと思ひます。御一しょに逃げませうね。アメリカでも好いし、そのほかどこでも、あなたのお好きな所へ参りますわ。…わたくしきっと待っていてよ。六時ですよ。どうしてもあなたとは死ぬまで別れません。アンナより。」

中略

少 年は手紙を読んでしまってから大股に室内を歩き出した。なんだか今までの苦痛がなくなったやうな心持がする。動悸が激しい。兎に角一人前の男になったとい ふ感じがある。アンナが己に保護を頼むのだ。己は女を保護する立場に立つのだ。保護して遣れば、あの女は己のものになるのだと思ふと、ひどく嬉しい。血が 頭に昇ってくる。

中略
机の上にあった筆記帳は部屋の隅へ投げた。
「己はもう出て行くからこんな所に用はない」と、壁に向って威張っていると云う風である。

中略

横になってから、又どこへ行かうかと考へた。そして声を出して云った。
「なに。真の恋愛をしている以上はどうにでもなる。」

中略

時計がこちこちと鳴っている。窓の下の往来を馬車が通って、窓硝子に響く。時計は十二時まで打って草臥れていると見えて、不性らしく一時を打った。それ以上は打つことができないのである。
少年は、その音を遠くに聞くような心持で、またさっきの「真の恋愛をしている以上は」と云う詞うを口の内で繰り返した。
その内、夜が明け掛かった。

中略

フ リッツは床の上で寒気がして、「己はもうアンナは厭になった」と思っている。なんだか頭がひどく重い。「兎に角アンナは厭だ。あれが真面目だらうか。二つ 三つ背中を打たれたからと云って、逃げ出すなんて。それにどこへ行くといふのだらう。」中略「どうもわからない。それに己はどうだ。何もかも棄ててしまは なくてはならなくなる。両親も棄てる。何もかも棄てる。そして未来はどうなるのだ。馬鹿げ切っている。アンナ奴。ひどい女だ。そんな事を言ふなら、打って 遣っても好い。本当にそんな事を言ふなら。」

中略

やはり停留所に行った方が好いやうに思はれる。行ってあいつの来ないのを見てやらうと思ふのである。時間が来ても娘が来なかったらどんなに嬉からうと思って見てやるのである。

中略

茶色のジャケツはどこにも見当たらない。
フリッツはほっと息をした。

中略

「来ないには極まっている。己には前から分かっていた。」

中略

フリッツがふいとその方向を見ると、茶色のジャケツを着た、小さい姿が、プラットフォオムの戸の向うへ隠れるのが見えた。帽子の上に揺らめいている薔薇の花も見えたのである。
フ リッツはぢっとそれを見送っていた。その時少年の心に、この人生をおもちゃにしようとしている、色の蒼い弱弱しい小娘に対する恐怖が、圧迫するやうに生じ てきた。そして娘が跡へ引き返してきて、自分を見附けて、知らぬ世界へ引き摩って行くのだらうとでも思ったらしく、フリッツは慌てて停車場を駆け出して、 跡も見ずに町の方へ帰っていった。


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女は子供でもすぐに決心できる。決心したら無茶でも盲目にやり通す。
男は、合理的疑問が心をよぎり、決心が揺らぐ。
ラテン語に精を出し、プラトンのシンポジウムを読んでいる彼は、自分の未来を不安に陥れ、邪魔するものは、やはり一夜で厭になるようだとも言えるし、合理の世界に浸りきって、そこに信頼の基盤をおいているからこそ、恋愛に陥ってしまったとも言える。

少年のロマンチックな恋心の告白に対して、娘はすでに具体的な答えを要求し、「あっさりと」心配しなくて好いのよと、肝を据えて少年を勇気付けている。
女は目に涙をためて、物語のクライマックスとなるのだが、この涙は正直でもあり、無意識にとまどいもあるのではないか。

あっ さりと心配するなと言えるまで、娘は変わらぬ愛の気持ちに従って、①愛を告白させ、②一緒に逃げようと願わせることを達成するために、本能的に相手を導い てきたのに違いない。しかし、この二つが達成されてしまったその時、物語のクライマックスと同時に、娘の中に本当にそれが欲していることなのかどうかとい う不安が無意識下にもたげてくるのではないか。

それでも、物語を実行に移す力を支えているのは、女の陶酔力であろう。
陶酔こそ、現実を作っていくもので、リアルな合理的世界は、偽りの世界にしか見えないのではないだろうか。

そして決心した女を前に、男は恐れをなすのである。

少年にこそ、逃げる意地があったのに、それを信頼し切って洒落をきどった女の帽子の上に揺らめく薔薇が、一層哀れを物語っている。

やはり健康な男性なら、老若に関係なく、捧げきる捨て身のような献身の愛の形は受け止めれないのではないか。
更に、少年は恋愛云々より、男を実感すること、自分を男たる存在にしてくれる娘に恋をしていたのであり、逃げることで男の意地を見せ、格好をつけて筆記帳を投げつけてみたものの、真の愛などやはり信じきれないのである。


私自身、本気の気持ちをぶつけることで、拓けていくものがあると信じていた時期が長かった。
献身は報われると信じて疑わなかった。
あまりにも過ちに気づくのが遅かった。

この物語は、娘が一人で汽車に乗ったまま裏切られる形で終わるのだが、成熟した大人が読めば、この少年の決心は卑怯であるが、十分に正しく、これで互いの人生を見失うことを避けたのではないかと思うのではないだろうか。

ところで、この作品の原題は「Die Flucht(逃走または逃亡)」と言うが、駆落以外の比喩的な意味も含まれているように思う。
厳しい父親の下に育っている娘の企画化された生活の退屈さと父親への恐怖からの逃走とも言えるし、少年が現実での成長過程を飛躍して、大人の男として新たに出発したいという逃走であるとも考えられる。
愛という基盤は、実は偽装でもあり、それぞれに逃亡願望・理由とも十分に備わっていたのではないかとも取れる。

もっと良い表題があったかと考えても分からない。駆落ちという題名からでも、十分に「逃げ」の要素を読み取れる。


午後のひと時、休憩時間に小品を読んで感じたことの備忘録。

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