2021年1月30日土曜日

生き様を見直して、厳しく変えていきたい

 寂しさに追いかけられているような、寂しさに包まれているような、人生を振り返ると、なにかそういう感覚が浮かび上がってくる。
そして、子供たちの人生を見ても、両親の人生を見ても、それぞれに素晴らしい時があるにも関わらず、背後に常に消し去ることのできない寂しさが宿っているような気がしてならない。

しかし、寂しさのない人生を思い描いてきたときの、なんとも言えない空虚な感じは何なのだろうか。寂しいと感じることのない人生、大人になるときに自分が一人で存在していることを実感するときにも、孤独感は現れず、自身に満ち溢れた未来を描く人生。そういう生き方もあるのかもしれないが、私はおそらくその空虚感に耐えきれなくなるのではないか、そんな思いがある。

人が人であるからこそ、文化が生まれる。言語があるから文学が生まれ、感性があるから言語を超えた芸術が生まれる。そうした創造性が一体どこからやってくるのか、それを考えてみるとき、やはりそこには寂しさというものが大きく関係しているような気がしてならない。

そして人を強くするもの、寂しさに耐える力を学ぶことなのではないかという気がしてならない。

言いたいことがある人で、才能に恵まれている人で、十分に強い性格を持った人は、成長の中で必ず表現する術を見つけるものである。しかし、言いたいことを表現できるようになると、彼らは必ず根源的な問いに突き当たるらしい。なぜ表現するのか、なぜ生きているのか。生きている中で、あたかも寂しさや苦しさを敢えて選ばなければ到達できない何かがあるとでもいうように、彼らは表現するという使命の下に、どのような困難にも恐れずに立ち向かい、乗り越え、表現を通して人々をつないでいく。それは恐るべき財産である。これこそ人類が築いた文化であり、歴史に残る文化人が生きた時代の政治家を覚えている人は数少なくとも、その文化人の遺作は世代を超えて引き継がれていくのである。

彼らは、まるでイエスであるかのように自分を切り裂きながら、表現を通して常に与え続ける。そこに疑いの余地はない。

そして彼らは一様に常に孤独である。家族があっても、愛する誰かが傍にいても、彼らは表現に対峙するとき、常に激しい孤独と闘っている。だからこそ、文化を通したつながりに命を懸けて作品を残していくのである。

私はそのような人間に巡り合うと鳥肌が立つような感動と尊敬を覚える。
そして、文化がなおざりにされている世界に危機感を覚える。文化があるから、芸術や文学があるから生き残れた人と言うのも存在するのだ。
戦争で家族が引き裂かれ、家族全員を失った人間でさえ、通常は到底耐えることのできない身に降りかかった現実を背に負い、彼らは生き延びていく。その時故郷を思ったり、家族の伝統を思い描きながら、彼らは自分の心を形成した過去を胸に大切に描きながら、一歩一歩再出発してゆく。多くの場合、その時に心の情景を糧にするが、それは自分の身体にしみ込んだ、育った土壌の文化なのである。

コロナで私の子供たちの精神、特に一人暮らしをしている上二人の精神にも影響が出始めている。特に娘は個人的にも人生できっとマイルストーンとなるような苦しい出来事が起きた時が、コロナと重なった。アルバイトをすることもできなくなり、経済的に危機的で、私が腹をくくって援助しなければならず、一年後にやはり私の下にもコロナの影響がやってきたのかと実感した。が、逆に一年ももってくれたのかという思いもある。

そういう今現在も、多くの子供たちが例えば難民キャンプで「凍え」死んでいる。飢えで亡くなる子供も、戦争で亡くなる子供もいる。自分の生きる国の情勢が安定していないということは、想像を絶する根源的な不安を駆り立てる。その中で、彼らに文化である芸術や文学を受け入れる余裕がないかと言えばそうではなく、むしろそういうものに癒されることに飢えているのだ。人間というのは、絶望的な状況においても、決して美しいものや尊いものを感じ、受け入れる能力は失わないのである。つまり、芸術というのは、特に音楽と言うのは、どのような状況にあっても、希望の灯を照らすことができるという証として存在しているのではないかという考えを拭い去ることができない。

表現する人間は、常に根源的な「問い」から逃れることができない。そして問いの答えを見つけようと創造力を自分の限界まで駆使して探し続ける。そしてそういう人が集まって素晴らしい作品となり、人々が感動してつながっていくのである。そういう機能が文化にはある。だから私は寂しい人に多大なるシンパシーを感じ、寂しい人生を恨めしいとも思わない。そして、文化をないがしろにする世界に怒りを感じ、これこそ悲惨的な状況であると悲しみを覚えている。

人々が生きる中で関心を持つべきは、互いに地球上で共に生きる人間であるべきで、自分の足場を固めることは当然の権利であっても、やはり自分以外の人間の苦しみや絶望や危機的状況を無視できることは、人格的な欠陥としてみなされなければならないのではないかと、最近はそこまで強く思うようになってしまった。

どんなに小さなことでも、お金と引き換えずに、できることをして必要とする人に与えていく努力を怠ってはいけないと強く感じ、自戒を込めて自分の生き方も見直さなければならないと実感している。
食事を作って与えることも文化であり、読み聞かせも文化であり、話を聞くことも文化である。何も芸術家である必要はないのだ。人を癒すのはモノではなく、心に触れる何かなのだ。