2010年11月8日月曜日

不潔よ

最近、左の肩に霊魂が宿ってしまったように痛みが激しい。激痛と言える瞬間もあり、内臓かとも思うのだが、明らかに筋肉痛である。
左の肩が象徴するものは何であろうか、などとユング風に考えてみつつ、左は無意識だなんて、昔覚えた馬鹿なことを言ってみる。しかし、身体はあらゆることの象徴であることは真実だ。
精神的に何かを吐き出す必要があるとき、人は原因不明のむかつきや嘔吐を患ったりする。
また、精神的にもうこれ以上、その事実を消化できない飲み込めない、と言ったときにも、首の息苦しさや、食事がのどを通らないという症状が出てくることもある。

それを考えると、左側のこの痛みはなんだろうか。背中が肩に移動し、それが今度は上腕にまで降りてきており、携帯を支えるのすら痛い。本を左手に持って右手でめくることさえ辛い。
まあ、そういうユング的アプローチは、あまりここでは意味を持たない。

大プロジェクトを終えた途端の清浄なので、体は正直だと思う。やはり無理があったのだ。
しかし、プロジェクトを終えたとき、過去清算のいよいよ最終段階に突入したことを象徴する請求書が弁護士から来た。ああ、この稼ぎは、全部泡のごとく消えていくんだと思い、一瞬不快になったが、無駄働きを一回せねばと言う覚悟はできていたので、もう仕方ない。クリックしてしまえば清算された事になるのだ。

夏前の日記を読むと、どうも過去を引きずっていた。過去が湯気を立てているなどと言う表現もあった。現在は、直近の過去は終了している。影響力も失い、過去としての位置も定着してしまった。
云わば、これからスタート地点という場所に立つ直前に私はいるらしいというのは分かる。

今後は、仕事上の更なる発展と見直しを予定しているので、その方向で前進して行ければと思っている。すっかりきれいごとの文章になってしまった。
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同僚が、小津安次郎の映画作品集を誕生日にくれた。20本弱を焼いてくれたのだ。そしてもう5本以上見た。そして毎回、静かに涙をこぼしている。小津が好きだと言ったら、彼が最近の特集を録画したものをどこかからダウンロードしてくれた。

小津に関してどうこう言うのは専門家に任せるが、本当にいつも思うのは、なんと美しい日本語であったかということ。当時の中流社会ではなされていた言葉、そして所作、そしてコミュニケーションの形式の美しさは、本当に背筋を伸ばしたくなるようなものがある。
古い道徳観念が、当時の女性を苦しめたことなど、今からは信じられないことであるが、私の母の男女関係における伝統的な道徳心、そして、まさにこの映画の中のような中流家庭に育った彼女の、あまりものを言わない辛抱強さと、凛としたその姿を今になって肯定的なものとして理解できる。

彼女は、本当にものを言わない。さすがに、今の時代「もう、いいんですの」などと言う上品な言葉遣いはしないが、彼女は取り乱すこともなく、嫌なことがあれば部屋に篭り、じきに出てきたときには、もう笑顔ですべてを忘れ去っているのだ。そんな母に、「何も考えなどないのか」という思いを抱いたこともあったが、それは大きな間違えであった。言わない辛抱は美徳であり、それ以前に礼節とたしなみであったらしい。

少女っぽい、世間知らずと母を優しい目で、しかし古いものとして見てきた私は、母の方に、よほど強い何かが宿っていたのだと改めて思った。

それにしても、言葉も劣化し、仕来りも所作も形式もすべて劣化したものだと思う。
小津の映画だからと言う理由を抜きにしても、当時は「美」というものが、文化の中に存在していたのかもしれないと思う。

そういえば、以前ドイツの新聞が、大市民層の崩壊を嘆く記事を書いていた。教養層の幅が、拡大し、中流層そのものの教養が高くなったが、それと同時に、当時絶対必須と考えられていた、神学、哲学、法学などのレベルが落ちたと言うのだ。大流行の経済学専攻の学生が最も多く、彼らはドイツでもディプロム証書なので、ちょっと前のマギスターの学生のように、三科目専攻する必要がない。今更哲学神学という地盤は、無用だと思う人間も少なくない。

話はそれたが、日本でも多かれ少なかれ、小市民層の豊かさが安定し、保証されたのと同時に、伝統的ななにか重厚な「美」に通じるような「形式」「精神」と言うものが失われたような気がする。

「おじさま、再婚なんて、なんだかきたならしいわ、不潔よ」

こんな台詞を今の時代口にする女性はいないだろう。
しかし、不潔を極めきっているような、云わば「あいつはあばずれさ」と言われて当然のこの私は、なぜかこの台詞に感銘を受けた。
生物的に考えれば、生き物は生殖活動を続けるために、常に番を捜し求めるのだが、人間はそれをモノガミーによって一人で落ち着けようと言う努力をする。最近は、その努力は無意味だとか、モノガミーは機能しないと言う意見もある。
キリスト教によって、男女関係が、不自由極まりなく縛られていただけでなく、ネガティブなものとして常に抑圧されてきた時代の不自然さは、異常なものがあるとしても、最近の、駄目なら、経済的に自立しているのなら、すぐに別れるという風潮も、やはり劣化と言ってもいい、何かネガティブな表れである気がしてならない。

社会に所属するためには、常にそれに対して犠牲を払わねばならないのは、どうやら事実である。
それが現代は仕事ということで、個としてのありかたを犠牲にして、経済的自立をするため、つまり金銭を稼ぐための会社に所属している。それは、就業している女性にも同じことが言える。つまり、家庭に入る、所属することによる犠牲は、女性からはすでに払われなくなっているということにもなる。

それは社会的には喜ばしいことであるが、では、どうやって二人三脚を組めばいいのだろうか。会社へ犠牲を払う男と家庭に犠牲を払う女が、性の営みで共同所属を象徴し合う形がないと、どうなるのであろうか。
女も男も犠牲は金銭を得るための活動に費やしているのである。家庭へは割り勘で犠牲を払う。精神が、経済的勘定をする機能になってしまい、まるで口座チェックをしあうような仲の男女関係ばかりのような気がする。

そこで、再婚は不潔、という一度きりの結婚への強い所属感情は、犠牲を払った本人の心の投入度を象徴しているように聞こえる。人生を文字通り、ささげ切った。個を捨てて、結婚に入った。その相手が死んでも私の場所は変わらない。
そんな覚悟が聞こえてくるのである。そして私は、それを美しいと感じる。

兼業主婦や社会で成功している女性の方が強く、実力があり、賢いというのは嘘だと思う。
母を見ていてもそうだが、人は社会的だからこそ、一人では生きていかれない。幸せとは、必ず一人ではなく、二人でつむぎ出してこそ、本当に深く根を張ってくるものなのだと思う。それには、自分を捨て嫁に行くというような時代の覚悟は、大いに結婚を助けたであろうし、二人の絆を強く結んだ例が多かったかもしれない。

駄目なら独り立ちできる、失敗したら経済的にも問題なくやり直せる、という状況が、結婚を危うくしているとは絶対に言わないが、そこに犠牲の精神は見えない。

やはり、熱愛ではなく、愛の基本は、犠牲に違いない。
失って、得るのが、愛なのだと思う。
そうして母を見ると、潔い。愚痴は短く、多くは言わない。
父も、家庭だけは懸命に守り、家族を深く愛してくれている。
私のように、論理立ててものを言う癖がつき、男女間の問題を徹底的に理性で解決し、「納得」した「妥協」を探す、などという現代的な人間は、なんだかむしろ劣化に思えて仕方ないのだが…。

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